その上で富野はこう解説する。
誰かが何かを見ているという場合、左向きであれば、目線は右から左へ向いていますから、カットの方向性は、右から左と考えます。右の
図です。
その目線が変われば(右の
図)、なぜ変わったのかという暗示的、もしくは、観客に好奇心を喚起させる意味が発生します。
劇であれば、その意味は人物の感情が発生させたものだと理解できますから、その意味を分からせる展開にしなければなりません。
その意味は、右図の
というカットで明示されなければなりません。
右の
と
が同一カットで、同一人物であれば、目線が変わっただけで、映像的にいえば、方向性は大きく変わったことになります。
それは、映像的には、かなり大きな〝変化〟を表現したことになります(5)。
この解説のポイントは「何かを見ているような姿」と「見られているもの」を繫ぐと、「何かを見つけた人」という意味の映像になるという話ではない。ここで重要視されるのは、視線が変わるという非常に小さなアクションであっても、画面の持つ方向性をガラリと変えてしまい、それがすでに劇を内包してしまうのだ、ということだ。
被写体は左右を見る芝居をしているわけですから、その目線の向かっている方向(フレームの外)にその視線が見ているもの(対象)、もしくは、その動きがめざしているもの(目標)があるはずです。
それを
のカットで明らかにするときには、その目線の方向(動きの方向)の逆のもの(対立する方向性をもったもの)を描かなければ、
のカットをうけたカットにはなりません。
この対立と「受け」がうまくできたカットのつながりであれば、劇的な関係を演出することができます。
しかし、劇的効果よりも、スムースな展開を心がけるのなら、方向性を統一して描けば、抵抗感なく見易いものにすることができます。ですが、この場合は、ただ流れているだけの映像になってしまいますので、劇的葛藤は描けません。
葛藤=もつれ、争い(つまり、対立であり衝突)
劇(ドラマ=物語)=葛藤を描くこと
このように考えますと、映像としては、たえず対立構造を描いた方がいいのですが、それを描くためには、まずは、物理的にも感情的にもスムースな流れを構成できる基礎学力がなければ、いざというときに対立も葛藤も描けませんので、葛藤を描くという命題はいつも意識する必要があります(6)。
つまり方向性を統一すれば、映像は違和感なく流れていき、ドラマを描く大事なシーンでは、その方向性に対立を孕ませて劇的にしてやる──ということが、富野が考える「方向性を使った演出術」なのだ。
ここで留意したいのは、この方向性を使った演出を行う際に、富野は上手下手に意味づけを与えているという点だ。
例えば『映像の原則 改訂二版』にも「右から来るものは強い(左に向かうもの)=ふつう。当たり前。自然的に強い印象。/左から右に向くもの=逆行する印象があるために、そのものが強いという印象。しかし、左にあるだけのものは、安定と下位の印象(7)」と動きの方向性について説明しているくだりがある。
この意味づけの根拠について富野は舞台(演劇)にそのルーツを求めている。
ここでは、視覚印象の機能を開拓した舞台の仕事から、視覚印象の原則を芝居に当てはめて考えてみます。
視覚印象としては、上手である右手が上位でその逆が下位になり、それによって、人物配置も自動的に決まってきます。
上位=力の強い者は、上手に配置するだけでその表現ができます。
強い敵も上手にいますし、上手から出てきます。
悪魔や敵になる宇宙人もそうです。
極めて自然なものも上手にあります(8)。
だからこそ方向性の変化はより劇的な意味合いを帯びることになる。
上手から下手に登場して勝っていく人物の劇が進行して、挫折することによって、物語が佳境にはいれば、その劇中で、その人物を下手におくように動かして敗北感を強調して、そこに悲劇のクライマックスの演技をおきます。
そのうえで、なんらかの転換があって成功に転ずるのなら、上手に向きを変えさせるというように動かしていくのです。(略)
この〝向きを変化させたところ〟がキッカケ(劇的転換)になり、芝居の見せ場であるクライマックスは、上手にむいていく動きで表現されます(9)。
実際、演劇ではこうした上手下手について伝統的に意味づけを行っているようである。例えば劇作家の別役実は、舞台上の空間には「目に見えない空間の癖」のようなものがあるとして、著書で次のように説明している。
第一に、「舞台には、上手から下手に風がゆるやかに吹いている」という点である。どうしてそうなのかは、わからない。人類は右ききが多いから、右から左への動きの方が、左から右への動きより、自然と考えるのであろうと言われているが、確かなことは誰にもわからないのである。
ともかく、事態がそうである以上、上手から下手への動きは、風にそのまま従うものであるから、いわば「順路」であり、下手から上手への動きは、風にさからうものであるから、その意味では「逆路」ということになる。このことは、舞台奥に起点を置いた場合、「時計まわり」が「順路」であり、その逆が「逆路」である、ということにもなる。(略)
たとえば、「あてのない旅に出る」という場合は、上手から下手への移動がそれらしい。そして「その旅からの帰宅」は、下手から上手への移動がふさわしい。「借金を返してもらいに行く」のは下手から上手へであり、「返してもらえなくて引揚げてくる」のは、上手より下手へである、という具合である(10)。
この風の吹く方向と、それに対する「逆路」の効果は、富野の語る方向性を使った演出とほぼ同じことを語っている。
ただし、この上手下手についての意味づけは世界的なものではないようだ。アメリカの大学の映画学科では方向性の統一については教えても、上手下手の意味づけは教えないという話も聞いた。
つまりまず、映像演出の原則として世界的に共有されている「方向性の統一」があり、「上手下手」はその中に含まれる、日本独自の〝ローカルルール〟と解釈するのがよさそうだ。なので、本書では、上手下手の意味にはあまり深入りせず、むしろ「方向性の切り替えによるドラマの醸成」という点に絞って一九七二年以降の作品を見ていこう。
富野はどのようにして、被写体のベクトルをコントロールする技を身につけていったのだろうか。
『海のトリトン』における上下動
例えば初の本格的監督作となった『海のトリトン』第1話「海が呼ぶ少年」(脚本:松岡清治、絵コンテ:斧谷稔)は、左右のベクトルの印象は決して強くない。第1話は、一平じいさんに拾われて育ったトリトンが自らの出自を知り、海へと旅立っていくという内容で、多くのカットで海を画面右側に配して、トリトンに右向きのベクトルを与えているが、画面からはそれほど横方向の動きは強く感じられない。それは、横方向へのPAN(11)が、あくまで物語を語る範囲で説明的に使われているにとどまり、むしろ第1話で印象的なのは縦方向のPANの使い方だからである。
第1話はトリトンが猪首岬の先端から、渦潮の中へと飛び込もうとするシーンから始まり、トリトンはその危険な行為を成功させてしまう。クライマックスでは敵であるポセイドン族が放った怪獣サラマンドラとの戦いが描かれるが、ここも、トリトンを迎えに来た白いイルカ・ルカの機転で、深く海に潜ったあと急転換をして、海面へと飛び上がるという戦法が描かれる。ルカを追いかけたサラマンドラはルカほど身軽に身を翻すことができず、海底に打ちつけられた後、今度は海面へと飛び上がって岬の突端にぶつかり、崩れた岩の直撃を浴びて死亡する。
第1話のカメラの運動量が多いのは明らかに上下動の方向であり、地平線=水平線=海面が本来は基準点になるはずが、「海面のさらに下」「海面のさらに上」があることが、このカメラワークによって強調されている。だが、この上下動はドラマを形作るというよりは、作品固有のアクションの表現という意味合いのほうが強い。
ただし富野本人が脚本・絵コンテを手掛けた最終話である第27話「大西洋陽はまた昇る」を見ると、この上下動がまた特別な意味を持ってくる。最終回では、敵であるポセイドンの神像の下に、一万人ほどが暮らすポセイドン族の世界があることが明らかになる。トリトンはそのポセイドン族の世界に足を踏み入れ、そこで驚愕の真実を知ることになる。
第27話のほとんどのシーンは、ポセイドンの本拠へと攻め上るトリトンと海の仲間たちの戦いが占めており、そこでは左方向へと進んでいくベクトルが強調されている。そうした左向きの方向性がありながら、まるで第1話の上下動の延長線上のように「海の底にもう一つ底(ポセイドン族の世界)がある」という形で、上下の方向性が強調されるのである。これは第1話からそう決めて構築されたというより、結果として平仄が合ったということであろう。
左右のベクトルよりも上下のベクトルで映像を形作るのが難しいのは、視聴者が生きている世界が基本的に陸上の平面の上で、結果としてそこに発生するベクトルも左右方向である、という理由が大きい。そういう意味で『トリトン』の第1話と第27話で上下動が強調されたのは、海という舞台からの要請であるとも考えられる。
吸収期──『勇者ライディーン』から『ザンボット3』へ
続く『勇者ライディーン』(一九七五)の第1話「大魔竜ガンテ」(脚本:五武冬史、絵コンテ:富野喜幸)はどうだろうか。
こちらは、主人公・ひびき洸が不思議な声に導かれるままに海に出て、海底ピラミッドの中から現れる巨大ロボット・ライディーンに乗り込むというストーリー。このストーリーには、洸が最初にいる学校から海へと向かうベクトルを感じさせるものがあるが、実際の映像は決してそうはなっていない。バイクやボートを駆使して海へ出ていく洸ではあるが、何度かベクトルの向きが変わったり、合間にベクトル感の薄い正面の構図が入ったりと、映像の流れからは、海底ピラミッドへと向かうベクトルは決して強くは感じられない。
この「バイクやボートを使って陸から海へと向かい、ロボットに乗る」という展開は、『無敵超人ザンボット3』(一九七七)の第1話「ザンボ・エース登場」(脚本:五武冬史、絵コンテ:斧谷稔)とほぼ同じものである。だが比べてみると『ザンボット3』のほうがはるかに巧みに左右のベクトルを駆使して、一つの映像作品としてのフォルムを形作っている。
『ザンボット3』第1話は主人公・神勝平が、ライバルの香月たちとケンカをしてバイクで追われているところから始まる。ここからしばらくの間、勝平はひたすら画面左から右へと移動を続けていく。この右ベクトルの運動を維持したまま、香月との関係性、パトカーとのチェイス、そして敵のロボットであるメカ・ブースト〝ドミラ〟の登場までを一気に見せていく。
ドミラの登場で周囲に異変が広がっていく中、勝平は香月と勝負をするため、沖合の島へとボートで移動する。この場面転換に合わせて一旦、勝平は左方向へと向きを変えるが、この島にもドミラが現れて、勝平は再び右側へと移動していく。そして勝平は、親戚の神北兵左衛門たちが海中の〝宝探し〟を行っている洋上基地を経て、海中から出現した〝宝物〟ビアルI世に取り付く。そして勝平はこうした右移動の果てに、メカ・ブーストと戦うための戦闘機ザンバードについに乗ることになる。
本作はこの、勝平のザンバードへの搭乗をピークに設定し、そこに向かうように左右のベクトルが組み合わせられているのだ。
こうして見てみると『ライディーン』と『ザンボット3』の間の二年間に大きな変化があったと想像できる。
この時期は確かに富野のフィルモグラフィーにとってもポイントとなる時期だ。
「作品全解説1」で述べたとおり、『ライディーン』で総監督となった富野だったが、基本設定に織り込んだオカルト要素が放送局NET(現・テレビ朝日)から否定されてしまう。その結果、路線変更とその混乱の責任をとる形で富野は総監督を降板。富野の後任は、『巨人の星』などでヒット作を送り出してきた長浜忠夫になり、富野はその下で各話演出としてTVシリーズを支えた。そして長浜はこの後、『コン・バトラーV』(一九七六)、『超電磁マシーン ボルテスV』(一九七七)を続けて監督し、富野もそこに各話演出で参加している(ただし『ボルテスV』は『ザンボット3』のために途中で抜けている)。
富野は、自分の演出に影響を与えた演出家として、先述の長浜とともに高畑勲の名前を挙げている。
『だから僕は…』では『アルプスの少女ハイジ』での高畑との出会いについても「いわゆる演出の考え方や画面として表現する方法を、具体的なセオリーと感性にのっていかに実現するかということを教えてもらった(12)」と記している。
富野は高畑が監督を務めた『アルプスの少女ハイジ』(一九七四)、『母をたずねて三千里』(一九七六)、『赤毛のアン』(一九七九)で絵コンテを担当しているが、この前二作は富野が長浜のロボットアニメに参加していた時期とも重なる。つまり『トリトン』から『ザンボット3』に至る五年間は、富野が長浜、高畑から演出についてさまざまなことを吸収していく時期でもあったのだ。
スタイルの確立
こうしたことを念頭に置いて一九七六年から一九七七年にかけての富野の仕事を確認してみたい。ここで確認するのは、長浜のもとで手がけた『ライディーン』『コン・バトラーV』『ボルテスV』の各エピソードになる。
どうしてこの三作品なのか。それは長浜は自ら絵コンテを描くことは非常に少ない演出家だからだ。つまり絵コンテがリテイクされたとしても、長浜からの指示を踏まえつつ本人が修正をした可能性が高いと考えられる。これに対し『ハイジ』『三千里』『アン』の絵コンテについては、最終的に高畑が(宮﨑駿らの力を借りて)修正をしている部分も多いことが想像でき、完成画面を見ただけではどれだけ絵コンテマンのイメージが残っているかを判定するのは難しい。また富野がその後、ロボットアニメを中心に監督していることを考えると、同ジャンル内で演出の変遷を比較したほうがわかりやすいということもある。
『ライディーン』で富野が絵コンテを担当しているのは、自らの総監督時代に三本、長浜総監督になってから四本ある。だが左右のベクトルを使って映像全体を構築しているものはほとんどない。その中で、第16話「海竜ドローズデンの地獄攻め」(脚本:高久進)は、暴走する豪華客船が題材となっており、珍しく左右のベクトルが重要な話となっている。
続く『コン・バトラーV』で富野は一三本の絵コンテ・演出を担当しているが、その中でも一番左右のベクトルが巧みに使われているのが、第19話「戦慄! 真っ赤な妖花」(脚本:桜井正明)だ。第19話は、バトルチームの一人西川大作の故郷が、敵のキャンベル星人に襲われて、家族が捕虜になってしまうという内容だ。西川大作は、左移動を続けてついに捕虜となった家族を解放し、そこで移動のベクトルが右方向へと切り替わるように演出されている。
また第12話「決闘! 豹馬対ガルーダ」(脚本:辻真先)では、敵幹部ガルーダが左向きの移動を続け、バトルチームのリーダー・葵豹馬が左向きから右向きへと変化する移動ベクトルで描かれている。そしてこの二人が、それぞれ振り返る形で決闘が始まるのである。このほか第24話「死力だ! ちずるよ 起て」(脚本:山本優)は、チームの紅一点・南原ちずるが医務室へ連れて行かれ、そこから逃げ出す一連のシチュエーションを、一カットの中でキャラクターの立ち位置(上手と下手)が入れ替わる効果を生かした演出をしている。この回では、ほかにも空間の奥行きを生かした構図でドラマを描こうとしたカットがあり、演出的に挑戦をしていることがうかがえる。
このように劇的に空間を構成しようという意思はむしろ次の番組の『ボルテスV』でより積極的にみられるようになる。これは監督の長浜自身が各話演出に「演出方針」として渡した文書の中に、「先ずアングルを凝ろう」「シーンの転換にひらめきを!」といった呼びかけをしている(13)こととも無関係ではないだろう。
富野は本シリーズ前半に七本のコンテを担当。そのうち六本の演出処理を行っている。
第1話「宇宙からの侵略者」(脚本:田口章一、五武冬史)。メインキャラクターたちが基地ビッグファルコンへと到着する直前から、ボルテスチームは画面左向きのベクトルを与えられ、その前に彼らが乗り込むボルテスVが登場する。さらにそこで、ボルテスVの開発者の一人である剛光代は、画面右側を指差す。そこにあるのはボルテスVの搭乗口。この登場人物のベクトルの大きな変化を通じて、第1話のピークが描き出されているのだ。
また劇的な空間の構築という点では第3話「墓標が教えた作戦」(脚本:辻真先)がチーム内の軋轢を、奥行きを感じさせる縦の構図を駆使してドラマチックに描いていた。
以上のような演出への取り組みがあればこそ、この後の『ザンボット3』以降の監督作への演出が準備されることになったのだ。