富野由悠季は、どのようにして演出家としてのスタイルを確立したのか。
 例えば自伝『だから僕は…』に収録された高校時代の短編小説「猫」や、大学時代に執筆した脚本「小石」を読んでもそこに「富野らしさ」を見つけることは可能だろう。あるいはもっと遡って、中学校時代に描かれた架空のイラストの中に、架空の小田原飛行場を描いた俯瞰図があることを取り上げ、飛行機単体だけでなく運用のための仕組みにまで想像力が及んでいることと、『機動戦士ガンダム』におけるリアルなメカ描写を結びつけてもいいかもしれない。
 しかし、子供の夢想や学生時代の習作と、職業人として創作に取り組むことの間には大きな溝がある。ここからはまず、演出家デビュー作となった『鉄腕アトム』にフォーカスする。中でも脚本・演出をともに担当した作品に注目することで、富野が演出家、そして戯作者としての第一歩をどのように踏み出したかを具体的に確認したい。
『鉄腕アトム』で富野が担当したエピソードは全二五本。内訳を見ると、脚本のみが一本、他人の脚本を演出したものが九本、自分で脚本・演出を担当したものが一五本(ただしうち三本は再編集もの)となっている。なお一五本のうち一本(第139話「盗まれたアトムの巻」)はフィルムが紛失しており、現在は見ることができない。ここではこの脚本・演出を担当した一五本に注目する。

脚本・演出デビュー作「ロボット ヒューチャーの巻」

 富野は一九六四年に虫プロダクションに入社した。当初は制作進行として『アトム』に関わっていたが、どうせ働くならよりクリエイティブなポジションで働きたいという意思を持っていた。また絵コンテを描けば、給料とは別に手当がつくことも魅力だったという。このように演出することと生活することがダイレクトに繫がっている点は、いかにも富野らしい。こうして富野は入社一年目にして演出になることを考え始める。
 一九六四年の虫プロダクションは、新たにスタートする『ジャングル大帝』(一九六五)や『W3』(一九六五)に主力スタッフを集中させていた。前年放送を開始し話題となった『アトム』は依然スタジオの看板作品ではあったが、制作体制は外注の作画スタジオ中心となっていた。加えて、放送二年目に入ったことで、アニメ化可能な原作のエピソードはもう残り少なく、オリジナル脚本が増えていた。そこに富野のような新人が活躍しようとする余地があった。
 演出デビューに先立って、富野は、社内で行われた脚本公募に応募している。しかし公募された脚本は富野以外に二本しかなく「若手の熱意がない、と断じられた(1)」という。しかし提出した富野の脚本が特に誰かの目にとまったり、作品作りの参考に生かされることもなかった。
 富野はそのまま諦めることはせず、スケジュールを確認して、数カ月後には脚本が足りなくなるであろうと判断。改めて「やってやろう」と考え、公募に提出したきりだった脚本のストーリーを思い出しつつ、仕事の合間を見て、絵コンテを描いた。この絵コンテは前半が完成したところで手塚のチェックを受け、ゴーサインをもらうことができた。このエピソードが第96話「ロボット ヒューチャーの巻」であり、富野の演出デビューとなった。富野は、このチェックを受けたすぐ後に、手塚から「演出部に入らないか」といわれたと回想している(2)

「ロボット ヒューチャーの巻」は、正確な未来予測ができるロボット・ヒューチャーと、彼を犯罪のために作り出したアクタ博士の物語である。ロボットであるヒューチャーは、アクタ博士が犯罪を行うと知りながらも、裏切ることはできない。しかも彼は自らの能力で、自分がアクタ博士の手にかかって死ぬことを知っている。
 最後にヒューチャーはアクタ博士と戦うことを決意する。

アクタ博士、私は初めからこうなること(引用者注:アクタ博士が火星銀行の金塊を強奪すること)はわかっていた。しかしこれまで、止めることもできなかった。未来は変えられないと思ったからだ。でも、もう我慢がならない。私はあなたと戦うぞ!

 こういってヒューチャーはアクタ博士に挑む。アクタ博士の宇宙船から発射される光線を避けながら、共闘するアトムは、ヒューチャーに「あなたは死ぬつもりなんですね」と問いかける。ヒューチャーは「君にはわからないだろうが、アクタ博士に悪事をやめさせるにはこれしかないんだ」と応える。
 ここでヒューチャーは、「予測された自分の死」という決定論を生きるのではなく、自由意志でもって、身を挺してでもアクタ博士を止めるという人生を選択しているのである。
 しかしヒューチャーは光線で破壊される。それを見たアクタ博士が驚いた隙をつき、アトムは金塊の入ったコンテナを破壊する。ラストシーンは、ヒューチャーの「私は本当に人間の役に立つのでしょうか」という台詞が宇宙をバックに流れて締めくくられる。
 本作を構成する要素は大きく三つある。まず一つめはコンピューター(ロボット)による未来予測という「SFギミック」。そして二つめは『アトム』の中で繰り返し描かれる「人間とロボットの(非対称な)関係性」。そして三つめが「エンターテインメントとしてのアクション(バトル)」である。この三つの要素は、その時点で富野が〝『アトム』らしい〟と考えていた要素でもあろう。この後、富野が手掛けたオリジナル脚本を見ると、以下の三つのエピソードでこの三つの要素が取り入れられている。

ロボットが現実を映し出す

 第133話「十年目の復讐の巻」は、記憶を失い老女に育てられていた捨て子ロボット・リボリューがゲストキャラクター。
 リボリューは嵐の夜に、過去の記憶を取り戻す。彼は実は刑務所に囚われたマルス博士が作ったロボットだったのだ。記憶を取り戻したリボリューはマルス博士を刑務所から脱獄させる。実は記憶が蘇ったのは、マルス博士がリボリューの記憶装置にタイムスイッチを組み込んでいたためだった。マルス博士の狙いは、リボリューを人工衛星にある母親=コンピューターに組み込み、地球征服の方法などを聞き出すことだった。一旦はコンピューターと合体したリボリューだったが、「ママは悪いことをしようとしている」とコンピューターから飛び出す。リボリューを求め暴走するコンピューター。しかし、最終的に「ワタシのような機械はないほうがいいんです。さあ逃げて」とマルスを逃がし自爆してしまう。マルス博士はこれを「ヒステリー」と説明する。
 本作は「自分を生んだ〝父親〟の命令」「同一化を迫る〝母親〟の暴走」といった家族に宿る普遍的なテーマを、ロボットに置き換えて表現しているところが興味深い。
 第156話「ロボット市長の巻」は、ある事件をきっかけに、「人間から尊敬される存在」として作り出されたロボット市長レイモンが登場する。そのためレイモンが治める町は、ロボットが人間よりも尊敬されていた。ロボットが見下されがちな『アトム』の世界観において、これはかなり特殊な状況だ。しかし、そのレイモンは異常をきたし始めていた。レイモンを作ったアイザック博士は、市民にその危険を説くが、レイモンによって無期懲役となってしまう。レイモンの暴走は止まらない。事態は市長派と反市長派との対立にまで発展し、最終的にレイモンはアトムに倒される。
 本作のラストは、主題歌のインストゥルメンタルが軽快に流れるのとは裏腹に、口をへの字に結んだアトムの深刻な表情のアップで締めくくられる。それは異常を認めなかったレイモンに対する、怒りと悲しみが入り混じった顔だ。
 第173話「ロボッティの巻」は、外国からやってきた超小型ロボット・ロボッティが科学省に保護されるところから始まる。科学省で暮らし始めたロボッティは、そこで自らの仲間を製造し、ついには科学省を占拠してしまう。さらに人間と対立したロボッティは核兵器までも完成させてしまう。ポイントは、この過程でロボッティに悪意があるようには描かれていないというところだ。ロボッティたちはあくまでも一つの権利主張として、科学省を占拠し、人間と対立するのである。領土と権利の問題を、超小型ロボットという仕掛けを使うことで、寓話的に描いたエピソードだ。
「ロボット ヒューチャーの巻」は決定論と自由意志。「十年目の復讐の巻」は家族論。「ロボット市長の巻」は狂気の自覚。「ロボッティの巻」は領土問題。この四作はロボットというモチーフを、現実にあるさまざまな問題を映し出すものとして扱い、それによりロボットという存在もまた際立つ内容に仕上げている。

原作エピソード「青騎士の巻」

 富野によるオリジナル脚本の四作を並べてみると、原作のエピソードをアニメ化した第179話「青騎士の巻 前編」、第180話「青騎士の巻 後編」を富野が手掛けたことが非常に自然な流れとして見えてくる。というのも、オリジナルの四作と「青騎士」は深いところでの共通点が感じられるからだ。富野は「青騎士の巻 前編」で脚本・演出、「青騎士の巻 後編」で演出を担当している(3)(後編の脚本はとうせいぞう)。
「青騎士」は原作の中でも特別なエピソードだ。

「青騎士の巻」は『少年』の一九六五年一〇月号から、一九六六年三月号にわたって連載されました。
 その頃盛んだった、学園闘争などの影響もあって、正義の味方・アトムのキャラクターをもっと反抗的なものにしてはどうか、と言ってきた編集者の意見を取り入れたという「青騎士の巻」のアトムは、人間達のあまりの横暴に堪えきれず、とうとう人間に反目するロボットとして描かれています。
 しかしこの路線変更は、読者にはあまり快く受け入れられなかったようです。アトムの性格を変えてから、アトムの人気は目に見えて落ちていった、と手塚治虫ものちに回想しています(4)

 このように「青騎士」は、当時の『アトム』人気の分水嶺と手塚本人に回想される一方で、同時に「原作は、当時の米国での黒人公民権運動を意識したもの(5)」という読解の根拠の一つともなっているエピソードだ。
「青騎士」は、謎のロボット青騎士がロボット解体施設などを次々と襲撃するシーンから始まる。やがてアトムの前に現れた青騎士は、ロボットの国を作るための協力を要請する。ロボットでありながら人間を殺すことも厭わない青騎士を止めようとするアトム。その戦いの中で、アトムは青騎士の仮面の下は、転校してきたクラスメイトのトントと同じ顔であることを知る。
 戦いの過程で青騎士の剣を手に入れたアトム。この剣を持ったとき、「痺れないロボット」と「痺れるロボット」の二種類がいることが発見される。その結果、持っても痺れないロボットは「青騎士型ロボット」であり、人間を殺す可能性がある危険なロボットであると認定されることになる。剣を使った判定で、青騎士型ロボットとされたアトムの両親は収容所へと送られてしまう。この措置に反対したアトムは、両親を収容所から連れ出し、青騎士が進めるロボットのための国・ロボタニア作りに参加する。ロボタニアに参加したアトムは、青騎士がなぜ生まれたのかを知ることになる。そしてロボタニアを認めない人間とロボットの間でいよいよ戦争が始まる。

アニメ版で何が変わったか

 アニメ版も、大枠は原作の通りである。ただし展開についてはいくつか大きなアレンジが施されている。一番のアレンジはゲストキャラクターたる青騎士にフォーカスがあたるように展開を再構成している点である。
 まず「前編」で強い印象を残すのが、「青騎士型ロボットとは/ひどい悲しみで/電子頭脳がくるい/人間をにくしみ/きずつけることが/できるようになった/ロボットのことである」というテロップが冒頭に入ることだ。原作にはこうした演出はない。ここで青騎士の存在が、本作の焦点であることが明確に示される。
 また原作はトントの転校から始まるのに対し、アニメは疾走する青騎士の姿から始まる。この変更は原作に仕掛けられた「級友のトントが青騎士だった」というサプライズから、「青騎士がトントだった」というサプライズへと、軸足が大きく変わったことを意味する。冒頭のテロップとともに、アニメはあくまでも青騎士の悲劇にフォーカスすることが狙いなのである。
「後編」の原作から大きく異なる部分も、「前編」のアレンジを踏襲している。
 例えば、なぜトントと青騎士は同一人物なのかを種明かしし、青騎士を狂わせるに至った悲しみの理由を説明するシーン。原作では青騎士の生みの親であるロッス博士が、お茶の水博士に語る形で説明される。これに対しアニメ版は、人間との戦いが一旦中断した夜、青騎士自身がアトムに語る形になっている。本人がその身の上を語ることで、青騎士の怒りと悲しみがストレートに視聴者に伝わってくる。そして「後編」の悲劇的なラストには、前編冒頭に入った「青騎士型ロボットとは」から始まるテロップが再度示される。
「後編」脚本の加藤と富野がどれぐらい打ち合わせをしたのか、あるいは富野が絵コンテで調整したのかは不明だが、最後にテロップが再掲されることで、この前後編が何を描こうとしたかが明確に打ち出されることになった。原作以上に青騎士の悲劇を際立たせた「青騎士の巻」は、ロボットというギミックに現代のさまざまな要素を反映させてきた富野脚本・演出の総決算といった趣がある。

「アニメにもこれだけのものができるんだ」

 では富野は、『アトム』にどのような意識で取り組んでいたのか。『だから僕は…』には当時のメモの引用がある。これは「ロボット ヒューチャーの巻」の後に書かれたものだが、どういうつもりで『アトム』、そしてアニメに臨むのかという所信表明のような文章になっている。
 メモは「ロボット ヒューチャーの巻」を振り返り、「アニメとしては邪道で、アトムとしては極端にシリアスだった」と始まる。しかし、次元の低いものと思われているアニメだが「『ヒューチャー』では、アニメにもこれだけのものができるんだぞと信じてやった」と続けていく。それは「ヒューチャー」に対する自負というだけではない。「後は、他のドラマ媒体と同じく、同等のドラマ的価値を持つ、他の媒体と同等の市民権を有するものに育っていくはずなのだ」と、アニメというジャンルそのものへの可能性を信じていることと繫がっているのである(6)。この可能性を前提に、手塚治虫の漫画が持っている文学性と比べたときに、アニメがそこに追いついていない、追求する意思が希薄であることを問題視する言葉が続く。
 そして富野は「ヒューチャー」で目指したこととそれに対する自己判定をこう綴る。

僕は第一回作品に当って意識したことは、シリーズからの脱皮ということなのだ。それはシリーズのなかの一本であっても、一本の完結した作品として通用するものを作ること。この点から厳密に考えると『ヒューチャー』は明らかに脱皮はしていない。ことにあのテーマ〝科学の悪用の拒否──もしくは希望の不在〟は、二十四分のなかで未消化だった。テーマをアトムにこじつけることによって消化不良を起こし、結局、アトムの作品群のなかの一部でしかないと思える。これが僕の結論だ(7)

 メモの締めくくりはこうなっている。

 今後は、アニメは他の芸術的ジャンルに匹敵するジャンルを形成するときがくると確信している。
 僕以前のスタッフは、アニメをあくまで市民権を持たない子供として扱うことに興味の焦点を置いていた。これがアニメが市民権を得ない原因なのだ。自ら首をしめている。こう考える僕はアニメの世界で異端者なのだろうが、異端は発端と考えたい(8)

 このメモは、後に富野の作品が目指すところを先取りしたような文章であり、本人も同書の中で「今と考えが変わっていない」と驚きを記している。この意気込みを踏まえると、「ロボット ヒューチャーの巻」から「青騎士の巻」へと続くロボットをテーマとした五つのエピソードは、初心の実践だったと考えられる。

ストーリー主義をめぐるジレンマ

 ロボット・テーマ以外のオリジナル脚本についてはどうだろうか。ロボット・テーマ以外の富野のオリジナル脚本は、第128話「インカ帝国の宝の巻」、第131話「ムーン・チャンピオンの巻」、第149話「カンヅメ狂騒曲の巻」、第188話「鞍馬の天狗の巻」、第192話「メドッサの館の巻」がそれに相当する。
「インカ帝国の宝の巻」は古代の秘宝を巡る冒険もの。「ムーン・チャンピオンの巻」は月面ロボット競技会を題材に、旧式ロボット・トンビーとポンコッツ博士の関係を描いた人情ドラマ。「鞍馬の天狗の巻」は、京都を舞台に烏天狗姿の美術窃盗団が登場するという和のテイストが印象的な一作。写真を使った背景が独特の雰囲気を醸し出している。対して「メドッサの館の巻」は、雪の中の洋館を舞台に兄妹の情愛を描いたリリカルなテイストの作品だ。
 異色ともいえるのは「カンヅメ狂騒曲の巻」。これは空から降ってきた謎のカンヅメを巡る争奪戦を描いたドタバタギャグ。ゲストキャラクターとして、人気がイマイチなバンド〝七代目ビートルズ〟という四人組が登場する。彼らは、代々〝ビートルズ〟を襲名してきた存在という設定だ。なお、本エピソードは一九六六年一月一日の放送。ビートルズ来日の年の元旦だが、ビートルズ来日の第一報は四月なので、来日にひっかけたアイデアというよりはあくまで当時のビートルズ人気をギャグのネタにしたというところだろう。
 これらのエピソードは、当時のTVアニメらしく毎回違った趣向で視聴者を楽しませることを目的に書かれており、同時に富野自身が自分の創作の引き出しをいろいろ試していたことがうかがえる。
 ただ、こうした自作について富野の自己評価は低めだ。富野は「僕が入社したころのアトムは完全にストーリー主義におちいっていた。とにかくストーリーさえ基本的にドラマであればいいという自信だけで、僕はアトムを演出していた(9)」と記している。しかし、ストーリー主義に寄りかかることで、『アトム』に本来あった手塚作品らしいリリシズムの欠如を招き、さらにアトムを支えた脚本家の一人でSF作家のとよありつねのいう「(SF的な)アイデア」もなくなってしまっていたのではないか、というのが富野の反省の弁だ。
 この反省は次のような手塚の悩みと表裏一体でもあった。

テレビ漫画の「アトム」は、四年つづいた。つまり二百本の「アトム」のフィルムができたことになる。ぼくの原作通りのアトムは一年半ほどでおしまいになったが、そのあとも間に合わせるために、スタッフが片っぱしからストーリイをつくりあげていった。いちばんかんたんなのは、アトムをなにかとたたかわせることだ。だんだんアトムの対決の相手が怪物になっていき、それにつれてアトムもかわいらしさがとれて、忍者みたいなスーパーマンになってしまい、現実ばなれがしてきた。なによりも漫画映画のたのしさがなくなってきた。漫画独特のギャグやユーモラスな画面が消え、やたらに正義や、カッコよさをふりかざした作品が生まれた。そのほうが台本を作るのに楽だったからである10

 富野の「ストーリー主義」をめぐるジレンマ。そして手塚のフラストレーション。これは結局、シリーズを統括し、『アトム』という作品で何を描くべきかを選別する監督の不在といえる。『アトム』では後半、文芸部の課長を担ったいしあらしが中心になった時期もあるようだが、この時点で、現在考えられているような、主体的にシリーズを牽引する監督の職能が確立していたとは考えづらい。もちろん手塚なりのなんらかのチェックはあっただろうが、多くは各話の脚本・演出担当に任されていたと考えるほうが自然だろう。
 これが『アトム』と並行して始まった、『ジャングル大帝』(はやししげゆきチーフディレクター)や、『アトム』の後番組である『悟空の大冒険』(一九六七、杉井ギサブロー監督)になると、監督のカラーがぐっと作品に反映されるようになっている(ただしこれは同時に、虫プロの制作現場からの〝手塚はずし〟の現れでもあった)。富野によるストーリー主義の冒険は、監督の職能が確立する以前の『アトム』だったからこそ自由に行うことができたのだ。

アイデアが先か、ストーリーが先か

 また富野のいう「ストーリー主義」は、もう一つ対照先がある。それは『アトム』脚本家の中心的な存在であった、豊田有恒である。
 一九七八年に出版された『ロマンアルバム 鉄腕アトム』(徳間書店)に、『アトム』スタッフの座談会が掲載されている。メンバーは、当時アニメーターでその後、画家となったこんしゆう、当時脚本家でSF作家の豊田有恒、それに富野というメンバーで、司会も当時演出だった杉山卓が担当している。
 ここで富野が、当時の『アトム』がストーリー主義に陥っていて、という趣旨のことを話すと、豊田が「いや、アイデア、ストーリーですよ」と返すのである。この短い発言は「まずアイデアがあり、その後にストーリーだろう」という意味だと思われる。
 富野はこれをこう回想する。

その僕の発言にたいして、豊田氏は明快に、
「いや、アイデアです」
 と答えられた。氏はそれをもってアトムに参加していたというのだ。そのときの反応の素早さに、氏と僕の足場のちがいをあらためて実感した。
 僕は、ストーリーの組み立てと、ストーリーの訴求するものは何かという視点からアトムの演出をしたのだが、氏の場合はアイデア先行なのだ。SFの素材として面白いかどうか、そのアイデアがストーリーを組むにあたいするか否かがまずあって、脚本なり小説にむかわれるというのである11

 富野は現在でも「SFはわからない」という発言をしているが、一方で富野の監督するアニメはSF的な設定が導入されているものが多い。これも富野が、豊田のようにアイデアからストーリーに進むタイプの発想をしていないと、自己認識していると考えるとわかりやすい。富野は、描きたいストーリーあるいはシチュエーションがあり、それを直接的にではなく、フィクションとしてエンターテインメントに昇華するためにSF的設定を使っているのだ。そのスタンスが、豊田の発言へのリアクションから垣間見える。
 富野は、ストーリー主義を決して好意的な意味合いで使っていない。「ストーリー主義」という言葉はおそらく「目先の展開のおもしろさ・刺激で観客を誘導していく」ということを指している。富野は後年、いわゆる物語や物語づくりを指すときに「劇」「戯作」という言葉を使うようになる。この「ストーリー主義」と「劇」「戯作」の差分にこそ、富野の考える物語作りの重要なポイントがあると考えられる。そこについては、第5章で改めて触れたい。

再編集の経験がもたらしたもの

 もう一つ『アトム』における富野の仕事として無視できないものがある。それは「再編集エピソードの制作」である。過去のエピソードのラッシュフィルムを編集し、多少の新作を加えたりしながらも、まったく新しいエピソードを作るというアクロバットのような作業のことである。富野はこのやり方で、第120話「タイム・ハンターの巻」、第138話「長い1日の巻」、第163話「別世界への道の巻」の三本を制作している。
「再編集エピソード」の制作はラフなストーリーを提案し、手塚のOKをもらうところからスタート。次に、ストーリーに使えそうな話数からラッシュフィルムを選び出し、台詞やアクションなどに分類する。そして選んだフィルムを見ながら、背景の繫がりが気にならないように編集し、ストーリーを構成していく。当時は背景の密度もかなり低く、アップの時の背景には何も描かれていないこともあったからこそ可能になった再編集ともいえる。この作業の難しいところは、すでに出来上がっている口パク(口の動き)にあわせて台詞を作らなくてはならないところだという。
 この再編集作業には「最低五日はかかる12」という。ゼロから制作するよりは圧倒的に早いから、制作がうまくまわらず放送に穴が空きそうになったときに、こうした対応が必要となったのだった。
 最初の第120話「タイム・ハンターの巻」は、非常にシンプルな作りだ。ここでは、第11話「タイムマシンの巻」の骨格はそのままに、第69話「恐竜人の反乱の巻」の恐竜(ロボット)が大暴れするシーンを組み合わせたもので、ドラマ面も「タイムマシンの巻」で描かれた未来人の親子の物語をほぼ手を加えずに使っている。
 続く第138話「長い1日の巻」は、天変地異が次々と起こり、その原因が特殊電波を出す小惑星にあると判明するという内容。天変地異のシーンなどは第94話「アルプスの天使の巻」、第65話「勇敢な脱走者の巻」のシーンを使っている。後半、アトムが原因の小惑星に向かって以降は第38話「狂った小惑星の巻」、第110話「水星探検の巻」、第121話「ガニメート号の巻」を構成してクライマックスを作り上げている。
 そして三本目の第163話「別世界への道の巻」は、一番凝った編集内容になっている。本作は、三〇〇〇年前に滅びたミュー文明の銀貨をマクガフィンとして、女郎蜘蛛兄弟一味と渦潮が争奪戦を行うというストーリー。使われたエピソードは第42話「黄色い馬の巻」、第49話「透明巨人の巻」、第58話「13の怪神像の巻」、第75話「空とぶ町の巻」が中心となっているが、前の二話以上に各話は細かくバラバラにされ、一部に新作カットを加えながら複雑に再構成されている。
 例えば「別世界への道の巻」に、渦潮がTV局に到着し、彼の到着後すぐに別の車でギャングたちがやってくるというシーンがある。この一連のシーンはもともと、「透明巨人の巻」におけるウズ博士(渦潮と同じデザインのキャラクター)がギャングの事務所を訪れるシーンと、ウズ博士の依頼でギャング団がTV局に押し入るシーンという本来は別の場所で起きた出来事を描いたバラバラのシーンなのである。これを編集し直して、どちらもTV局に到着するシーンとして物語に組み込んでいるのだ。
 また「透明巨人の巻」でウズ博士がギャングに立体テレビの破壊を依頼するというシーンが、「別世界への道の巻」では台詞を変え、渦潮が銀貨を女郎蜘蛛兄弟の兄に売りつけようと交渉するシーンに作り直されている。
 印象的なのは、ミュー文明の名残が残る島に到着し地下の洞窟へと繫がる扉を開けるシーン。元となった「13の怪神像の巻」では悪人たちが扉を開けようとしても開かず、アトムがその力で扉を開けるシーンとして描かれている。これが「別世界への道の巻」になると、まずアトムが扉を見つけて洞窟へ入り、その後に悪人たちは別の扉を見つけて洞窟へ入る、という展開に変わっている。扉を開ける順番を逆にしたうえに、さらに間にほかのカットを挟み込むことで、もともとは同じ扉として描かれていたものを、別の扉として見せているのである。

映像のダイナミズムへ

 過去の本編映像をもとに編集で物語を構築していく手法は、アニメでありながら、極めて実写映画的な編集作業といえる。というのも、アニメの編集は、あらかじめ絵コンテで設計されたカットの並びをベースにしつつ、時に変更を加えながら、カットの長さを微調整して流れを整えることが中心だからだ。
 それに対し、実写映画の場合は撮影されたフィルムの中からカット(カットはアニメ業界特有の呼び方。実写映画の場合はショットと呼ぶ)を選び出し、それを組み合わせることで映画を形作っていく。映画の全体像を見通すためのガイドとして脚本が存在するが、編集の結果、脚本とは異なる内容の映画が出来上がることもある。
 この作業は、キャリア初期の富野にとって大きな意味を持っていた。それは初期の演出回と後半の演出回を見比べると、明らかに後半のほうが映像の流れがよくなっていることから推察できる。担当話数を重ねて経験が積み上がったこともあるだろうが、それだけとは考えにくい。先述のストーリー主義に対する述懐を踏まえると、富野はこの再編集作業を通じて、ストーリー展開のおもしろさとは別に、映像の流れそのものにおもしろさを感じさせる力があることについて、正面から考えることになったのではないか。
 例えば最初の「タイム・ハンターの巻」は、ストーリー主義で構成されたエピソードといえる。第11話「タイムマシンの巻」のストーリーという骨格に、それ以外のエピソードの動画を使って〝お化粧〟して、新しいエピソードに見えるようにした、という出来栄えで、これは映像が完全に従となっている。まずストーリーありきで発想したというふうに考えられる。
 これに対し、続く「長い1日の巻」は、序盤に世界各地が天変地異に襲われるというインパクトあるシーンを連続して見せるところからスタートする。つかみとなる見せ場を畳み掛けるこの構成は、ストーリーが求めるものというより、インパクトの強い映像を配置することで映像的にメリハリを作り出すところに狙いがある。大まかなストーリーのプランを立てた段階から、映像ありきで発想していることがうかがえる序盤だった。
 富野は著書『映像の原則』の中で映像の特性を次のように記す。

映像=視覚的なダイナミズム(時間的経過をともなう強弱、緩急)があるもの。/映像の変化が、語り口を構成する。/観客は、作品を同時的に鑑賞して、感情を喚起する。

 そして映像のダイナミズムについては

映像的なダイナミズム=映像のテンポの緩急+視覚印象の強弱13

と説明する。
 少し抽象的だが、ここで富野は、映像のテンポや視覚印象(画面に映っているものが観客に与える印象)をコントロールすることによって、ダイナミズムを生み出し、それが観客の感情をゆさぶるのが映像メディアの本質であると語っているのだ。
 ダイナミズムへの志向は、使える映像が決まっているという厳しい条件の中で、「どの映像を選ぶか」という問題が前景化した結果、意識されることになったのだろう。使える映像が決まっている以上、ストーリーはその幅の中でしか展開できない。となれば、映像のダイナミズムを獲得しない限り、そのエピソードはおもしろいものになりえない。それがなければ、先行するストーリーの縮小再生産でしかなくなってしまう。そのことに自覚的になることで、富野は映像のダイナミズムに意識的になっていくのである。
 なお富野は、この後、『無敵超人ザンボット3』で一本、『無敵鋼人ダイターン3』で二本、既存のフィルムと最小限の新作で新規エピソードを作るという方法を実践している。そして『機動戦士ガンダム』の劇場版では、こうして積み上げた再編集の技を駆使してTV版から映画を作り上げることになる。そういう意味では、「ロボット ヒューチャーの巻」以上に、「別世界への道の巻」へと至る三つの再編集エピソードも、富野の演出の原点ということができる。

「ロボット市長の巻」の演出を読む

 最後に映像のダイナミズムに注目して、富野が『アトム』で獲得したものを確認したい。
 映像のダイナミズムが意識的に取り入れられていることがわかるエピソードは、先に触れた第158話「ロボット市長の巻」だ。「ロボット市長の巻」で特徴的なのは、要所でしっかり間をとることで、映像の流れにメリハリがつき、ドラマ性が増しているところだ。
 例えば冒頭では、アトムたちがエアカーで町に到着する様子が描かれる。疾走感あるエアカーの動きのある画面の後に、動きではなく背景中心で見せる町の風景という印象の異なるシーンが続くことで、映像の肌触りを変化させることに自覚的に演出が行われていることが伝わってくる。
 中盤以降でも、アイザック博士を拘束しようとする市民とアトムが対峙するシーンや、宿泊したホテルに閉じ込められたことにアトムが気づくシーンなど、アトムの電子頭脳がその性能を発揮するところは、台詞なしの長い間でそれを表現している。また暴走するレイモン市長が部下をヘリコプターから突き落としたにもかかわらず、ヘリコプターのバランスが崩れたためとウソをつくシーンも、その答えを聞いた部下ロボットが無言で目を見合わせるカットが挿入され、ここでも間を生かすことで、登場人物の内面を想像させる演出が使われている。こうした間を生かした演出の延長線上に、死んでしまったレイモンを見つめるアトムの無言のアップも位置づけられる。
 この後、最終回までに富野は、八本のエピソードを演出する。この中で、映像のダイナミズムが特にうまく表現されているものは「青騎士」前後編、「幽霊製造機の巻」(第181話。第8話のリメイク)、「メドッサの館の巻」である。

富野演出の原点

 先述の通り「青騎士」はドラマ的にも一つのピークであり、演出的にも非常に見応えがあるエピソードだ。冒頭の草原を疾走する青騎士のカットの積み重ねは、無言の中に青騎士の意志の固さが感じられる。序盤は、中盤のアトムとの戦いまで、合計三回の青騎士のバトルが描かれ画面を活気づける。前編のラストでは青騎士がロボットのための国家ロボタニアの建国を宣言するが、ここではアトムと青騎士の無言のままのカットバックが登場し、台詞がないことが逆にアトムの複雑な内面を感じさせている。
 後編は人間とロボタニアの戦いから始まる。前半はウランとコバルトが絡むコミカルなシーンとエスカレートしていく戦闘が、織り交ぜられながら進行する。中盤、アトムの質問に青騎士が答える形で、なぜ青騎士が人間を憎み、ブルグ伯爵と因縁があるかが回想で語られる。ブルグ伯爵は、青騎士の妹ロボット・マリアを見初めて結婚したものの、もとからロボットに差別感情を持っていたため、マリアに暴力を振るうようになった。そしてマリアと、それをかばった弟トントをともに破壊したのだった。そして後半はより激しさを増す戦闘と、青騎士とブルグ伯爵の決闘を中心に描かれる。
「青騎士」というエピソードは、「青騎士の正体」が物語を牽引する謎として設定されている。青騎士は、破壊されてしまった弟トント、妹マリアの電子頭脳を内蔵し、それぞれの姿に変身できるロボットである。だから本作は「顔」が重要な意味を持つ。ブルグ伯爵との決闘で、青騎士はマリア、そしてトントの顔を見せ、その憎しみを突きつける。この二人の顔を見て驚愕するブルグ伯爵の顔の切り返しは、顔の上下がフレームから切れるほどのクローズアップで、強い印象を残す。そしてその後、決闘の勝利者となってもなお人間への復讐心を燃やす青騎士の目元のアップが登場する。
 こうした「青騎士」の映像の流れを見ると、ドラマチックなストーリーを伝えるため、動きのある画面と動きの少ない画面のメリハリ、台詞のないシーンの効果的な挿入など、映像のダイナミズムを駆使して語っていることがわかる。
 富野が最後に演出を担当したエピソードは、最終回の一本前となった「メドッサの館の巻」。湖畔に立つ洋館を舞台にして、そこに一人で住む謎の美女ドリームと、兄のジーク・フリードの関係を描く神秘的なエピソードだ。こちらはSF的な理屈付けはされているものの、演出的な語り口はメルヘンそのもの。ゆったりとしたカメラ移動、イメージシーンの挿入など、「青騎士」のような戦闘中心のエピソードとはまた異なる映像のダイナミズムに挑戦している。

 このように『鉄腕アトム』の各話を追っていくと、富野が「ストーリー」とそれを「どう語るか」を、『アトム』を通じて手探りしながら摑みつつある過程が浮かび上がってくる。そして『アトム』に関わった二年あまりの試行錯誤が、演出家そして戯作者である富野の原点であるのは間違いない。
 富野は後に絵コンテを描く時の重要な点として、脚本家のこうの『シナリオ構造論』(宝文館)に触れ、著作でこう記している。

 このシナリオ構造論にしたがえば、コンテを切りながらシナリオを考える場合、台詞のディテールにこだわるのではなく、作品の全体構造にとって、そのシーン、そのカット、その台詞、その芝居が、適確に積み上がっているかと考えればいいのです14

 また、この指摘の前の部分では、絵コンテを推敲していく過程で「バランスをとる」ことの大切さを説き、「この整理ができるバランス感覚を手にいれるためには〝訓練〟しかありません。場数を踏む必要があるのです」とも記している。
 富野にとって『アトム』とは、映像の「的確さ」を判断できるようになるために「場数」を踏んだ作品であり、挑戦の場であった。