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 生きることは戦いだ。

 戦いである以上、当然、負けることもある。


     1


 その日、剣藤犬个はいつも通り、食材の買い物に出かけていた──哲人幼稚園ならぬ怪人幼稚園を襲撃する任務を見事達成した後は、再びスタンバイモードに戻った彼女であり、スタンバイモードということは、つまり、空々少年の世話をするのが──彼に快適に暮らしていただくようお世話をするのが彼女のスタンダードな仕事ということになる。

 だから買い物だった。

 朝食を作って、一緒に食べて、洗い物をして、一通り部屋を掃除して、昼食を食べて、洗い物をして、それから午後、食材の買い物に出るというのが剣藤のルーチンだった。ルーチンと言ったものの、それは特に何を警戒しているというわけではないのだが、使う店は毎回変えるようにしている。もちろん限界はあり、やむなく同じ店を頻繁に使ってしまうこともあるけれど、少なくとも連続はしないように。

「~~~

 野菜を検分しつつ、なんとなく鼻歌を歌う剣藤。その様子を見ると、午後の買い物を楽しんでいる若奥様という風にも見えるが、彼女がまだ未成年の少女であることを忘れてはならない。だが、一ヵ月に亘り、一人の人間の生活の世話をし続けるというのは、それなりに少女を成長させるのかもしれなかった。家事の腕だけではなく、精神的にも。

 少なくとも剣藤は、空々と一緒に暮らすようになる前はもっと子供っぽかったし、もっと幼かった気がするのだった──自分でそう思うのだった。はっきり言えば、未熟だったと。実際には自分で思う以上、気がする以上なのだし、むろん今だって、空々少年は剣藤のことを、子供っぽいお姉さんだと思っているところがあるので、その辺の認識はまたしてもすれ違っていたりするのだが──少なくとも。

 魘されることなく眠れるようになったのは、空々と暮らすようになったお陰だった。

 正直言って、最初は嫌で嫌でしょうがなかった……人と一緒に生活するなんて嫌だった。もちろん、とは言え知らなかっただけで、それまでも剣藤は左在存という少女と一緒に暮らしてはいたのだけれど──だけど、『狼ちゃん』を抱きしめて寝ていても、どうしようもなく魘されることはあった。そういうとき、『狼ちゃん』は心配そうに、剣藤の顔を覗きこんでいたものだ。

 空々を抱いて寝ているとまったく魘されることがないのはなぜだろうと思う──答はなんとなくわかる気がするけれど、しかしその答えを出したくない思っている自分もいた。

 ヒーロー失格になった自分と、新たなるヒーローとしての空々。

 牡蠣垣からの嫌がらせのような配置は、苦痛にしかならないと思っていたけれど、今は安らぎでさえあるというのだから、なんだか笑える。

「……そう言えば、空々くんと暮らすようになって、今日でちょうど、一ヵ月だな」

 ということに剣藤は気付いた。五月の二十八日からあのマンションに入居(?)したのだから、今日、六月二十八日で、ぴったりひと月である──だからなんだというわけでもないけれど、しかし、お祝いの真似事をしてみるのも面白いかもしれないと思った。面白いかもしれないだけ、それ以上の意味はない。でも面白い。面白いと思う。

 空々が初めて怪人を殺したときも祝ったものだが、ああいう殺伐としたことでなく、今度はなんというか、ちゃんとケーキなんか買ってみたりして。

 だから彼女は、野菜やお肉を購入してから、そのままショッピングモール内のケーキショップに向かうことにした。

 むろん彼女は忘れたわけではない──空々少年の面倒を見るという任務は同時に空々少年を監視するという任務であるということを、そして同時以上に、空々少年をいざというときに始末するという任務であるということを、彼女は忘れたわけではない。

 いざというとき。

 いざというときには、いつでも彼を殺す。

 そういう気持ちを失うほどに、軍人としての自分を見失うほどに、彼女は彼を好ましく思っているわけではなかった。たとえば今日、ケーキを買って帰って、そのケーキを食べ、なんならクラッカーでも鳴らしたあとでも、もし空々が──『狼ちゃん』が空々にそう提案したように──『剣藤さん。一緒に地球撲滅軍から逃げませんか』というようなモーションをかけて来たとしたら、その瞬間、彼を切り刻むくらいの覚悟は持っている。

 まあ……、うん、その言葉を冗談で済ませられるチャンスくらいは、与えるかもしれないが──あくまでも自分の快適な睡眠のために、『そんなことを本気で言ったら殺しちゃうよ? 気をつけてね、そらからくん』くらいのワンクッションを挟んであげるかもしれないが、剣藤犬个の軍に対する忠誠心はそれくらいには強い。地球に敵対し、人類を守るという決意は、それくらいに強い。

 彼女はそういう風に作られている

 入隊以降、作られている。

 一人の人間よりも人類全体を愛するという、よく考えてみれば大きな矛盾をはらんだ教育を受けている──当然のことながら、本人の資質や経歴によるところも大きいが。

 ヒーロー、地球と敵対する上でのキーマンと目されておきながら、『大いなる悲鳴』を防ぐことができなかったという罪悪感は──その『罪』を償いたいという気持ちは、より強い人類愛という気持ちになって、彼女の中では消化されている。

 だから苦しむのだ。

 彼女は苦しみ続けるのだ。

 だが彼女は、その苦しみが何に起因するものなのかもわかっていない──憎む対象を地球だけに限ってしまっていることが、どれほど自分の精神をさいなんでいるのか、彼女にはわかっていない。

 そしてこのままだとおそらくは、わからないまま彼女は生涯を終えることになるだろう──何もわからないまま死んでいくことになるだろう。わけがわからないまま、死んでいくことになるだろう。もしもそこに希望があるとすれば、やはりそれは新たなるヒーロー候補、空々少年なのだろうが……残念ながら。

 今のところの彼はまだ、頼りない十三歳の男の子に過ぎなかった。

 剣藤にとっては、未だ可愛い子供の域を出ない。

「プレートにお名前を入れられますけれど、いかがなさいますか?」

 と、ケーキショップの店員に訊かれ、剣藤は思案する。誕生日祝いでもあるまいし、名前を入れる必要はないようにも思ったが、まあしかし、サービスは受けておきたいという気持ちもあった。貧乏性と言わば言え。まあでも、だからと言って『そらから』という名前を入れるのはまずかろう。

 彼は戸籍上はもう死んだ人間である。家族と一緒に殺されたことになっている──刃物を振るう悪辣あくらつな犯人が、一家諸共殺したことになっている。なっているというか、まあ、概ねそれは事実の通りなのだが。

「じゃあ……『くうくん』で」

 咄嗟に偽名も思いつかなかったので、そう言った。下の名前ならわかりにくいだろうという浅はかな判断だったが、なんだかよくある犬の名前みたいになってしまった。

 狙ったわけではなかったけれど、しかし、彼が今、剣藤の『ペット』を務めてくれることを思うと、変にマッチしているようで、訂正する気にはなれなかった。

 店員は特に疑問を感じた風もなく、「はい、畏まりました」と、承ってくれた──手馴れた様子で名入りのプレートを設置し、箱に入れ、リボンでラッピングする。蝋燭のサービスはさすがに断った。完全に誕生日になってしまうのは意に反する。

「四千二百円になります」

「はい……」

 と、鞄から財布を取り出そうとしたときだった──その右腕を狙って飛来するものがあった。

 剣藤は『寸刻み』と呼ばれる剣士ではあるが、そしてまた戦士であり、何より軍人ではあるが──それもすべて『破壊丸』あってのことである。空々から見れば、ずっと『破壊丸』を手元に置いているように見える剣藤だが、実際は完全に四六時中、携帯電話よろしく持ち歩いているわけではない。

 買い物のときの彼女は剣道着でもないし、竹刀袋も道着袋も持ち歩いていないのだ──さすがに目立ち過ぎるし、『任務』として、買い物は一般人を装ってするのが、彼女の役割なのだから。午後は若奥様になるのが彼女の任務なのだから。

 そこを狙われた。

 それも同居人のためにケーキを買おうと、料金を払おうとしている、気が緩んでいるところを狙われた──果たして、遥か後方から、買い物客達の間を縫うように回転しながら飛んできたのは。

 手斧ておのだった。


     2


 ばすん! という、平和なこの国ではあまり聞き慣れない音が、やはり平和なショッピングモールの中に響いた──しかし剣藤にとっては、それは聞き慣れた音でもあった。

 それは人体が切断される音だ。強引に、乱暴に、言うなれば力ずくで引き千切るように、切断される音だった──ただ、それが自分の身体の内側を通した骨伝導で聞こえてくるのは、彼女にしても初めての経験だった。

 反射的に向けた視線の中を『くるりっ』と回って飛んでいくのが自分の右腕、その肘から下だと認識すると同時に彼女は、反対側の左手で自分のパンツからベルトを引き抜きにかかっていた。

 剣藤の右腕を切断した手斧は、そのままショーケースを貫き、中に並んでいたケーキをこれでもかとばかりにかきまぜながらケース内で反射し、向こう側に飛び出した末に、その正面にいた店員に直撃した。いや、剣藤の腕を『通過』し、ケース内で反射をしているので、直撃というのは実は正しくない。だが直撃したのとそう変わらないほどの深刻なダメージを店員に与えた。

 深刻なダメージ。

 有体に言えば致命傷である。

 彼女の心臓に深々と食い込んだところで、やっとその手斧は回転を止めたのだった──店員はそのまま倒れ込む。この不可思議奇天烈な世界に起こりうるあらゆる可能性を考えれば、断言をするのはまだ時期尚早かもしれないが、恐らくはそのまま二度と起き上がることはないだろう。

 斧は止まっても、剣藤の右腕はまだ空中でくるんくるんと、目まぐるしく回転している。いつまで回っているのか。それともアドレナリンが分泌されて、時の流れを遅く感じているのかもしれない。

 剣藤は血をあらん限りに撒き散らす『それ』が床に落ちる前に、ほどいたベルトを二の腕(今となっては一の腕だが)に巻きつけ、片方の端を口で咥えて思い切り引っ張り、かなり応急処置的とは言え、止血を施した。

 剣道着を着ていないがゆえに避けきれず、全身に血を浴びながらも。

 任務中あれだけ忌避きひしていた血液を、それも自分の血液を全身に浴びながらも──それでも止血し、ぎりぎりのところで、彼女は意識を保っていた。

「血が怖いのでしたわよね、『寸刻み』──」

「…………!」

 覚えのある声に、振り向こうとしたところで、片腕を失ったバランスの悪さからか、それともその分だけの血を失ったからか、彼女はがくんと崩れ落ち、片膝をつく。勢いよく崩れたので、膝の皿が割れたかもしれない。

 身体ごと振り向くことさえ、今の彼女にはできなかった。かろうじてなんとか、首だけは後ろに向けた──そこにいたのは思った通りの顔だった。

「──血。赤い血。赤く輝く、奇麗な血。そんな美しいものを嫌うだなんて、神経を疑いますわ。ええわたくし、あなたとは昔から、気が合わないと思っていたのですわ──あなたはわたくしのことをお嫌いのようでしたけれど、わたくしはあなたのことが大嫌いでしたわ、『寸刻み』」

「……『恋愛相談』」

 血圧の急激な低下ゆえに朦朧とする意識の中で、なんとか彼女の言葉に応じる剣藤。そう、そこにいたのは地球撲滅軍第九機動室所属の戦士──『恋愛相談』こと、瀬伐井せきれい鉈美なたみだった。

 剣藤と同世代の少女──そして今も両手に手斧を持っている。一本手斧を投げておきながら、どうして今もなお両手に斧を持っているのかという質問ほど、彼女に対して無意味なものはないだろう。

 当然、今剣藤が考えているのもそんなことではなく、そして彼女が言うよう、剣藤もそう思っていたよう、たとえ互いにどれほど嫌い合っていようとも、一応は身内であるはずの瀬伐井が自分を狙って攻撃してきたことでもなく──こんな公然の場で、一応屋根があるとは言っても天下の往来で、堂々と腕を切断されたことだった。

 つまり瀬伐井は、単なる因縁や私怨で、剣藤を狙ってきたのではない──間違いなく軍のバックアップを受けている。それも、今、このショッピングモール内にいる人間をまとめて巻き添えにしてもいいくらいの規模のバックアップを──

 このなりふりの構わなさ。そして『恋愛相談』という戦士の派遣。

 間違いなく、これは超A級の軍務だ。

「……政治家先生のご機嫌取りはいいの? それとも彼らへの差し入れでも買いに来たのかな……」

 一応は皮肉を交えた探りを入れてみた剣藤だったが、瀬伐井はまったく挑発に乗ることなく、

「生憎わたくしは、あなたみたいに自分で買い物をする立場ではありませんのよ──むしろ政治家先生から贈り物をいただく立場でして。うふふ、まあ本当はわたくしがこんな風に、下界の現場に出てくること自体が例外的なのですけれど──」

 と妖艶に笑んだ。年齢不相応な笑み、だなんて、しかし、手斧を回転させながら言う彼女に、今更な表現ではあるだろう。彼女が嫌いな剣藤としては、何が下界だ、気取るな、とは思うけれど。

「こんな機会も最後だと思うと、本当はもっとあなたのことをなぶってさし上げたいのですが、なにぶん、時間がありませんのでね──」

 と、周囲を見渡す瀬伐井。

 周囲の買い物客達は近寄ってくるでもなく、かと言って逃げるでもなく、遠巻きに二人を見ていた。剣藤にとっては助けが、瀬伐井にとっては邪魔が入る心配はなさそうだ。

 携帯電話でばしゃばしゃと、この戦闘(?)を撮影している人間もいるが、それを瀬伐井が気にする様子はない。どうせ写真も動画も、あとで持ち主ごと処分するから関係ないのだろう──当然、この辺り一帯の通信電波は、すべてが遮断済みのはずである。

 彼らは異常事態の只中にあることはわかっているはずなのに、その被害が自分に及ぶとは思っていないのだろうか。剣藤が殺されたら、その後瀬伐井の手斧がどちらを向くのかくらい、想像できそうなものだけれど……。

『大いなる悲鳴』のことを忘れたかのように暮らしている一般人の危機感など、危機意識など、その程度か──いや、それでいいのだ。剣藤は彼らが平和に日常を送れるようにするため、日夜戦っているのだから──日夜魘されていたのだから。

 利き腕の喪失。痛過ぎて痛くない。いや、痛いのだけれど、痛過ぎて最早どうでもいいとさえ思えた──『どうでもいい』。これが普段空々が感じている感覚なのだろうか。こんな感覚が日常だとしたら、いったいそれはどれほどの地獄なのだ。

 そうだ、空々空。

 あの子は無事なのだろうか──と、考えた。

 地球撲滅軍が超A級の配置で動くとなると、空々が絡んだ任務に違いない。剣藤犬个はそう予想した。この包囲、そしてこの襲撃はその一環であり、空々のほうにも、誰かしら刺客が向かっているに違いないと。

 しかし一体何があったのだ?

 彼が何か、大きな失敗をしたのだろうか? 組織にとって許しがたいような失敗を──しかし思い当たる節はまったくなかった。

 あるとすれば先日の、怪人幼稚園を制圧したときか……?

 あのとき、そう言えば空々の様子が少しおかしかったような──そこまではなんとか考えることができたけれど、だが、元々、家族を地球撲滅軍に殺されて以来、考えることが苦手になっている剣藤には、それ以上の推測をすることはできなかった。

 そうしているうちに、瀬伐井が言葉を繋ぐ。

「急ぎの任務なのですよ、火急の用なのですよ。あなたのようなのんびり屋さんにはわからないと思いますけれどねえ」

 彼女にとっては、剣藤がそれを聞いているかどうかなど、どうでもいいようだった。自分の観客は自分だけでいいというような口調だった。そうだ。この女のこういうところが嫌いだった。

「だから安心してくださいな、『寸刻み』。わたくしはあなたのように、刻んだりなんか致しません。かつてしのぎを削った同僚として、手足の『残り』を全部斬り落としたら、すぐに楽にしてさしあげますから!」

 瀬伐井は、かがんだままの剣藤に向けて、手斧を二丁、両方、天高く振り上げた──まずは一気に、フルパワーで加減なく、両脚を落とすつもりのようだった。怪人の嬲り殺しを趣味とするいつもの彼女なら、『一本』ずつ切り落とすだろうから、確かに時間がないようだと、剣藤は思った。

 そしてその焦りこそが付け込む隙だと思った。

 剣藤は残っている左手を、ショーケースの向こうで倒れている店員へと伸ばす──正確には店員ではなく、その胸に突き刺さっている手斧へと伸ばす。手斧。しかしただの手斧ではない、アナログな武器ではない。これもまた、軍が兵士に支給しているアイテムなのだ。『恋愛相談』に支給されたハイテクアイテム『切断王せつだんおう』──一定以内の距離ならば狙いを外さない、リモートコントロールの利く投擲とうてき武器だと思えばわかりやすい。

 誰でも斧投げの名手になれる便利な切断アイテムだが、ひとつ大きな弱点があって、それは投げる武器である以上は、常に敵の手に渡ってしまう可能性があるということだ。だから本来、一撃必中にして一撃必殺を義務付けられている武器なのだ。

 だが外した──その嗜虐趣味ゆえに『恋愛相談』は、わざと外した。剣藤の心臓や首といった部位ではなく、狙い通りに急所を外して、右腕を落とした。片腕を落とせば剣藤の戦闘能力を削ぐには十分と思ったのだろうが、この斧は片手でも投げられるし、ましてこの『切断王』は狙いをつけなくてもよい! 利き腕でない左手でも、まだ勝負にはなる! そう思って剣藤は起死回生、ケーキショップの店員に刺さった斧に手を伸ばしたのだったが──その行為は柄をつかむところまでだった。

 胸に食い込んだ斧は、収縮した胸筋で固められて、女子の細腕、それも片手では抜けなかった──剣藤のしたことは、ただ、ショーケースのガラスで、自分の腕を不要に傷つけただけだった。

「ははっ!」

 と、それを見た瀬伐井は愉快そうに笑い、そのまま手斧を振り下ろす──しかし、剣藤の力と勇気を振り絞っての行為が無駄な足掻あがきだったかと言えば、そんなことはまったくなく、むしろその足掻きが瀬伐井を、ほんの一瞬、笑わせ──その動きを、ほんの一瞬、止めることに成功したという点では、正に起死回生だった。

「今週の血液型占いィィ──『寸刻み』! あなたの血が──がっ!」

 何か、そんな決め台詞的な言葉と共に、手斧が彼女の手を離れようとしたその刹那、瀬伐井鉈美の身体がずどんと割れた。先ほど剣藤の右腕が放った音を、今度は瀬伐井の胴体が、しかも縦向きに発したのだった──だから発された音は正確には、ずどどどどどどん、という感じだった。その切断線の位置は、およそ右半身と左半身で、七対三と言ったところで、ぎりぎり心臓をかすめないくらいの位置だった。

 だからと言って致命傷にならないはずもなく。

 骨盤のあたりまで開かれた彼女は、何が起こったのか何ひとつわからないままにその場に崩れた。まあ、自分の身体から突き出ていた刃を見ていれば、後ろから斬りつけられたのだというくらいのことは理解できたかもしれないが。

 そしてもちろん剣藤のほうは、『それ』を見ていた。だから、まあそれは瀬伐井にとっては何の救いにもならないどころか、逆に屈辱的なくらいだろが、彼女がどのように、誰に斬られたのかは、剣藤には明解だった。

 よく知る、とはまだ言えないが、それでももう、今日で同居し始めて一ヵ月になる少年、空々空。

 空々空が背後から飛びかかるように、瀬伐井の肩口に大太刀を振り下ろしたのだった──当然のことながら、野球の心得はあっても刀の心得などあるはずもない空々がそんな風に、達人のように振るえる大太刀と言えば、その銘は決まっている。

『破壊丸』。

 だけど空々に、剣藤はその操作方法まで教えた覚えはないのだが……? が、そんな疑問が湧いてくる余地もないほどに、彼が、文字通り身の丈に合わない長さの刀を持つ姿は、しかし様になっていた。

 剣藤が命を救われたからこそ、そう思うのかもしれないが。

 まさしくヒーローのようだった。

「大丈夫ですか、剣藤さん」

「…………」

 片腕を斬り落とされている人間を相手に訊く質問ではなかったが、それこそが空々らしさだとも思った。と言うより、もしもここで違う、もっと普通の心配するような台詞をかけられていたら、空々の偽物じゃないかとさえ思っただろう。つまり剣藤は安心したのだ。

 してみると、店員の胸から手斧はすぽっと抜けた。どうも焦って力んでいたから、うまく抜けなかったというのもあったらしい。店員の胸から噴き出した血を避けつつ──自分の血と、それからやっぱり避けれなかった瀬伐井の血で真っ赤なので今更だが、これはもう癖みたいなものだ──、抜き取った手斧を、そのまま左腕を肩を中心にぐるっと回転させるようにして、足を置いている場所のそばにあった、瀬伐井の頭に叩きつけた。この距離なら『切断王』であろうと、わざわざ投げる必要はなかった。普通の斧として、まきを割るように、瀬伐井の後頭部に叩きつければよかった。

 とは言え薪を割ったことはなかったけれど、上首尾に、瀬伐井の頭蓋骨は真っ二つになる。これもまた瀬伐井にしてみれば避けようがなかった。ふう、という安心感と共に、精神ブロック剤を服用していないときに実行したその行為によって、嫌悪感がどっと湧いてくる。人を殺した。人を殺した。こんなトドメを刺すような行為は、身体が両断されている人間に必要ではないのだが、しかし彼女なりの、それは『かつてしのぎを削った』瀬伐井に対する、同情のようなものだった。まあ同情と言うと違うような気もするけれど、少なくとも腕を斬られた仕返しとして、彼女の頭を割ったつもりはない。

「大丈夫だよ」

 と、遅ればせながら、剣藤は答える。

「その辺に、ケーキの箱が落ちてると思うんだけど……拾ってくれる?」

「はあ。ケーキを買ったんですか?」

 言いながら、言われた通りに拾う空々。どうやらすぐに見つかったらしい。血に濡れてなければいいのだけれど。しかしこの状況でよく、言われた通りに拾ってくれるものだ。頼んでおいてなんだが、どちらかと言えば落ちている腕を拾って欲しいところだった……、いやまあ、こんな乱暴な切断面では、どうせもう引っ付かないか。

 ならば腕を置いていき、ケーキを持っていくほうが合理的だ。

「……ねえ、私の胸ポケットに精神ブロック剤が入ってるから、飲ませてくれるかな」

「え……、く、口移しでですか?」

 なぜそうなる。答えられず、剣藤はただ首を振った。そろそろ腕の痛みが現実的なものとなって彼女の精神を襲ってきたのだ。精神ブロック剤の主な効用はストレスの緩和だが、痛み止めにもなる。

「じゃ、じゃあ」

 と、なぜか緊張した面持ちで、空々は剣藤のポケットからピルケースを取り出した──そしてそこから二錠ほど精神ブロック剤を取り出し、剣藤の口の中に入れた。口の中に指が入った。その指を軽く嘗め回すような結果になったのは、わざとではない。

「そらからくん」

 その辺りで、ようやく頭が働いてきて(これから精神ブロック剤の薬効で、また鈍くもなるのだろうが)、剣藤は言った。立ち上がろうとして、バランスを崩し、何度もこけつまろびつ、だが。

「気を付けて……ここ、たぶん、封鎖されてる」

「知ってます。それを突破してきましたから」

「突破って、どうやって……ああ、『破壊丸』ね。……ん? あれ? なんで私が、そらからくんに助けられてるんだろう? てっきり、そらからくんが狙われていて、『恋愛相談』の役目は私の足止めなのかと思ってたけど……」

「違います、剣藤さん」

 空々は、剣藤に『破壊丸』の柄を向け、渡そうとしながら、言った。渡そうとされても、そんな大太刀、もう隻腕せきわんの剣藤には扱えないのだが。

「狙われているのはあなたです。……花屋の奴が、『あなたはもういらない』と、そう判断したらしくて──」

 そういう事実を気遣いなく言えてしまうのがまた空々少年だったが、その言葉にはさすがに、剣藤は衝撃を受けずにはいられなかった。


     3


 空々空が颯爽さっそうと、まるで出のタイミングを計っていたかのように剣藤のピンチに現れた経緯を説明するためには、少しだけ時計の針を巻き戻す必要がある。剣藤がまだ買い物のために、ショッピングモールにも辿り着いていない頃、空々空は、マンションの自室で腹筋を鍛えていた。

 回数を数えることもなく、まるで惰性のように腹筋運動を繰り返しながら、空々は考えていた──何をと言えば、当然、先日遭遇した、謎の幼児のことをである。

 謎の幼児──臆面もなく地球を名乗った、謎の幼児。いや、謎と言えば、まるでそれが解答のある問いのようだが、そんなわかりやすいものが、あの存在にあるとは思えなかった。わからないから謎なのではなく、理解不能だから謎という感じだった。

 むろん色々感想はあるのだけれど、正直言って、勘弁して欲しいというのが空々の本音だった。嘘か誠かはともかくとして、地球を名乗って現れるのなら、どこかの誰か、別の人間のところに現れてくれたらいいだろう。それこそ、剣藤にしろ花屋にしろ、彼女達の『虐殺行為』が終わってから接点を持ってもいいじゃないか。

 どうしてその間隙を突くように、よりにもよって空々に会いに来たのだろう──どうして地球とコミュニケーションを取れる人間が、自分でなければならないのだ。それが気まぐれの結果なのだとすれば、あまりにひどい気まぐれだ。地球はただの気まぐれで、人類を滅ぼそうとしているんじゃないかと疑えるほどに。あの『大いなる悲鳴』も、反撃でも切り札でもなんでもなく、ただの気まぐれの産物に過ぎないのじゃないのかと思えるくらいに。

 ……そうだ、『大いなる悲鳴』だ。そのことが空々の気を重くするのだった──あの幼児は、ただ接点を持つだけではなく、空々に予告したのだった。丁度一年後に、二度目の『大いなる悲鳴』を起こすと。

 なんて予告をしてくれるのだ。

 自分で大いなる、とか言ってるんじゃない、と思う。

 これなら、次の『大いなる悲鳴』が、いつ起きるかわからないという状況のほうがよっぽどよかった──よっぽど安心感溢れる生活だった。起きるか起きないかわからない日々と、一年後に必ず『大いなる悲鳴』が起きるとわかっている日々では、何があろうと空々だったら前者を選ぶだろう。誰だって選ぶだろう。

 あれからずっと悩んではいるが、そしてなんとかうまく、『茶飲み話』あたりにあの事実を報告する理屈を思いつかないものかと頭をひねっているのだが、何も思いつかない。たとえばあんな予告を発表すれば、世界はパニックになるに決まっている。空々から見れば、もうおとぎ話のような過去の話であるノストラダムスの大予言にしたって、当時は結構なパニックを呼んだとも言うのだから。もちろん報告したところで、地球撲滅軍がそんな情報を世間に出すとは思わないけれど……、そもそも『人に言えない』という気持ちのほかに、限定的に『地球撲滅軍には言えない』という気持ちも、空々の中には強くある。毎晩抱かれながら寝ている癖にこんなことを言っても説得力は皆無だろうが、剣藤のことだって、彼は決して信用しているわけではないのである──その数少ない証拠として彼は彼女に、一ヵ月の共同生活の中、とうとう今日まで、あれだけ世話になりながらも──一度もお礼を言っていない。

『おはようございます』も『おやすみなさい』も、『いただきます』も『ごちそうさま』も言ったし、『ごめんなさい』に至っては何度言ったかわからないけれど──『ありがとうございます』だけは、未だ一度も言っていないのだ。

 地球撲滅軍の一員として動き、また働くことは、もう選択の余地がないこととして呑み込んでいる空々ではあったが──そしてそれが今の生活水準を維持する条件であることも理解している空々ではあったが、軍の上のほう、それに奥のほうの底のほう、中でも左在存という『犬』を生み出した不明室については、危機感を覚えずにはいられないのだ。

 迂闊に迂闊な報告をして、彼女のように実験台にされてしまっては敵わない──今でこそ、『火達磨』に勝ったことも相俟って、ヒーロー扱いしてもらっている空々だが、そんな扱い、いつ引っ繰り返るかわからないのである。ヒーローから実験台への転換など、呆気なく起こりそうだ。

 仲間に殺されないように、気をつけて。

『地球』から受けたそんな忠告を、どこまで真に受けたものかはわからなかったけれど、しかし、自分の真横で頭部を焼かれて死んだ在存のことを思えば、無視するわけにもいかない忠告である。

 逃亡幇助罪が不問になったからと言って、これからの身の安全が保障されているわけではない。実際剣藤だって、空々を見張っているのだと言っていたし──とか、その辺りで空々の思考はぐるぐると回っていて、結果、腹筋も鍛えられ続けるというわけだった。

 もちろん、あの正体不明の幼児について何も考えないということは、これはありえないことであって、彼がそんな風にぐるぐるしているのは当然なのだが──状況からすれば、彼はこのとき、とても的外れなことをしていたとも言える。たとえるなら、今日食べるものがないのに、一年後の夕食を何にしようか考えているようなものだ。

 先を見通す目は、案外間近なものが見えない。今このときにも、剣藤が買い物をしようとするショッピングモールの、封鎖の準備は始まっているというのに。

 ただし幸いなことに、ここで彼の思考の、無意味な回転を止める来訪者が現れる。いや、それをただの『幸い』とするのは、あまり正しくないかもしれない。これまで空々空の物語には、いくつもの『幸いなことに』と『残念ながら』が散見したが、この辺りの出来事は、もう偶然では片付けられない領域で起こっている。

 物事には何事にも原因と結果があるという、そんな単純な仮説をここで採用するのならば──ここで起きた『幸い』は、彼のこれまでの行いに起因するものだった。

 いわば空々空は──今の彼に、これほど相応しくない言葉も珍しいだろうが──『普段の行いがよかった』のである。

 チャンスを逃し続けた彼ではあったが、しかしこのときチャンスのほうから彼を訪ねてきたのは──彼の行いゆえだった。

 インターホンの音がして、空々はようやく腹筋運動を止め、自分の部屋からリビングに移動した。カメラ式のインターホンなので、来訪者の姿はモニターに映されている。

 そこに映っている人物を空々は憶えていた。

 よく憶えていた──よくよく、憶えていた。

 忘れるはずがない、忘れられるはずがない。

 飢皿木博士だった。


     4


「やあ、空々くん。その後どうしているかと思っての往診だよ──というのはもちろん嘘だ。そもそも私は、きみの最近の動向をちゃんと聞いているからね。まあきみをそちらの世界に送り込んでしまった者としての、責任と言ったところかな。ご活躍のようじゃないか」

 慣れない手つきで空々が淹れたコーヒーを、表情からしてたぶん我慢しながら飲みながら、飢皿木博士は言った。『そちらの世界』という言葉を彼が使ったことに、空々は気付く。つまりあくまで、飢皿木博士は『あちらの世界』の人間ということなのだろう。

 あちらとこちら。

 それを自由に行き来しているのは、花屋くらいだという話だった。

「はあ」

 と、馬鹿みたいに頷きつつ、空々は飢皿木博士の正面に座った。

 剣藤からは、留守中、来客があっても応じなくていい(電話があっても出なくていい)と言われているが、しかしその来客が飢皿木博士だったのなら、無視することは空々にはできなかった。

「それでもどうだい? 空々くん。きみの感想を聞いてみたいものだね。地球撲滅軍に入隊して一ヵ月。きみはその組織を、その組織に身を置いていることを、どう思い、どう感じているのかな?」

「え? ああ、いえ別に──」

 いきなり訊かれて空々は戸惑う。どういう答が望まれているのかわからなかった。変な答を返せば、空々を軍に送り込んだ飢血木博士を責めるような物言いになってしまいかねない。

 普通は責めるところだから、それで駄目だということはないのだが、しかし考えた末に空々は、

「──なんかSFっぽいアイテムがいっぱいあって、びっくりしています。科学って、僕達の知らないところで進歩しているんですね」

 と、わざと楽観的な答を返した。彼にしては機転の利いた答ではあっただろう──ただしこの場合、『僕達』という言葉に、どういう範囲の人間が含まれるのかはわからなかった。飢皿木は知っていただろうし、花屋も知っていただろうし、知らなかったであろう空々の知り合いは、みんな死んでしまっている。

「『高度に発達した科学は魔法と区別がつかない』という奴だね。まあこれも、とあるSF作家の発言なんだが」

「あ、そうなんですか」

 その言葉自体は知っていたが、出典を知らなかった空々は、知識が増えて嬉しい気分になった。ただし、そこまで聞いたなら『とあるSF作家』ではなく、ちゃんと名前を聞いておきたい。

「どなたです? 僕、読んだことありますかね」

「アーサー・C・クラーク。ちなみに先の一文は、クラークの三法則の三番目だ。『高名かつ老齢の科学者が可能であると言うとき、その主張は恐らく正しい。不可能であると言うとき、その主張はまず間違っている』というのが一番目、『可能性の限界を測るただひとつの方法は、不可能だとわかるまで、とことんやってみることだ』というのが二番目だ。こうして見ると、一番目と二番目のほうが、生きる上では役に立つ知識だよね。科学と魔法の区別がつかないと言われても、対処のしようがないものな」

「はあ……そうですね」

 なんとなく頷く。ただ、その三法則は、面白いと思った──特に一番目を。アーサー・C・クラーク。生憎まだ未読の作家だったので、今度読んでみようと思った。読んでみたいと思った。剣藤に頼めば買ってきてくれるだろう。

「確かにそうして並べてみると、三番目の法則だけが、浮いているように見えますね。だからこそ有名になったんでしょうか」

「そうだね。聞こえのいいところだけを抜き取って、何かをわかったような気分になるのは人間の悲しい習性だ。『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』という冒頭の一文だけを読んで、『学問のすすめ』のすべてを知ったような気になるくらい、愚かしいんだがね」

「ああ……あれは福沢ふくざわ諭吉ゆきちの言葉じゃないって奴ですよね」

「ただしそういう悲しい習性を、愚かのひと言で切って捨てるのもまた、危険だ。人間は誰だってそんな罠に嵌る……嵌るから罠なんだ。それを愚かと言えば、自分に愚かと言っているようなものだ。たとえば空々くん。きみは今、地球撲滅軍が持つ様々なアイテムを、何の疑問もなく『科学の発達』として捉えているようだが……実際のところ、それはどうかな? 案外、それは本物の魔法なのかもしれないよ」

 飢皿木博士は言う。律儀にコーヒーを飲みながら。

高度に発達していない魔法なら科学に見えるかもしれない──じゃないか」

「…………」

「地球撲滅軍は確かにきみにとって未知の世界だったのかもしれないが──だからと言って、未知の技術に満ちているわけではないよ。人間が動かしている、人間の組織だ。果たしてそうそう、卓越した科学など存在しているものだろうか──なんて、そういうことを考えてみるのも面白いかもしれないよ」

「……はあ。まあ、そうですね……ええ」

 何を言っているのか、何を言いたいのかわからず、空々は曖昧に頷いた。空々こそ、飢皿木博士に会ったら、色々訊きたいことがあったはずなのだが、彼の思わせぶりな言葉に、全部忘れてしまった感じだ。

「あの──えっと、先生。いえ、飢皿木博士」

 空々は飢皿木のことを博士と呼んだ。痩せぎすの、いかにも研究者然とした彼の風貌や物腰からして、先生と呼ぶより博士と呼んだほうが、なんだかしっくりくる気がしたからだ。

「僕の様子を見に来たんじゃないのなら、何の御用なのですか?」

 この質問にはいささかの後ろめたさが含まれている。と言うのは、彼は今、地球撲滅軍──のみならず、地球に住む人類、全員に対して、壮大な隠し事をしているという自覚があるからだ。

『地球』と遭遇し、接点を持ったという隠し事。

 ……そんな風に、心の中で言葉にしてみると、言ったところでどうせ誰も信じてくれなそうだとも思うが、しかし、こんな風に不意の訪問を受けて、しかも思わせぶりな態度を取られたりすると、なんだかすべてを見抜かれているような気持ちになってしまう。

 ただ、空々の『症状』を看破してくれた飢皿木博士も、別に神様というわけではないので、そんな嘘は見抜けない──同居している剣藤や、付き合いの長い花屋でさえ見抜けない嘘を、そう簡単に見抜けるわけがないのだ。

 だから的外れな心配だった。

 するべき心配は──剣藤には見抜かれなかったが、しかし花屋には見抜かれてしまったほうの嘘なのである。

 飢皿木博士はいきなり言った。

「きみの同居人である剣藤犬个さんは、今、軍から処分されようとしている」

「え?」

「処分。処罰ではない、処分だ。彼女は買い物の際は『破壊丸』を置いていくのだろう? そこを狙うというわけだ──刺客として派遣されるのは『恋愛相談』。手斧使いのマッドハンターで、剣藤ちゃんのことを嫌っている。まあ殺意が非常に強いという点においては、『火達磨』の氷上くんよりも対処には困るかもしれないな」

「……え?」

 剣藤が今置かれている現状を教えるという意味においては、既に飢皿木博士の説明はこれ以上なく完全に終了していたが、しかし空々は、それを聞いても何も理解できていなかった。

 え? 何? 剣藤が──なんだって?

「もしもこれが、正式なデュープロセスによって下される『処分』であるならば、私は何も言わなかっただろう。私の情報源から聞いたところで、空々くんにこの話を教えることなく、診療所でいつも通りの仕事に勤しんでいたはずだ。しかしながら、こうして休診の看板をかけ、予約の患者さんに頭を下げてまでこのマンションに足を運んだのは、この処分はほとんど因縁みたいなものだからだ」

「因縁……? いや、ちょっと待ってください、飢皿木博士」

「いや、待てないね。うん。まあたとえデュープロセスに則った処分だったとしても、きみには教えに来たのかもしれないな──とは言え私は、今の今まで、本当に言うかどうかを迷っていた、臆病な男なのだがね。きみが淹れてくれたこのコーヒーを飲んで、あとはまあ適当なことを言って帰ろうかと、結構本気で考えていた。まあそんなもんだ、私なんて」

 空々を置いてきぼりにするように、飢皿木博士は言葉を紡ぐ。しかしそれはあくまでも独り言ではなく、空々に語りかける言葉なのだった。

「まだ十三歳のきみから見れば、さぞかし私は大人に見えるだろうが、中身は正直なところ、きみと大して変わらない。歳を重ねているというだけだ。先に生まれたというだけで、先輩風を吹かせているのさ」

「……飢皿木博士。あの……、剣藤さんが処分されるって、どういうことなんですか? 一体、どういう理由で──」

「だから因縁だよ。花屋ちゃんからの因縁だ」

 空々の、ここではそう訊くしかないような質問に、飢皿木は端的に答えた。『犯人』の名を告げた。

「花屋ちゃんが牡蠣垣室長に注進したんだよ。剣藤犬个を処分すべきだと。彼女は殺すべきだろう──とね」

「…………?」

 飢皿木博士の、他に理解のしようもなさそうなその端的な言葉が、しかし空々には理解できない。花屋が、剣藤を? どうして? つい先日、二人でタッグを組んで任務に当たったというのに──ふたりは個別に、バラバラに刀を振るっていたので、別に抜群のチームワークを発揮していたというわけではないけれど、しかし少なくともあの日、花屋が牡蠣垣に、そのような注進をするに至る出来事はなかったはずだ。

 雰囲気も終始なごやかで──いや、なごやかだったのは、精神ブロック剤の効果もあるのかもしれないが、でも、特にあの二人の間に確執があったようには、空々には思えなかった。

 剣藤に花屋が、因縁をつけるような理由があるとは。

「どうして殺すべきだなんて、花屋がそんなことを言うんですか」

「どうしてというのが、どういう建前でということを訊いているのなら、原因はきみのついた嘘だよ、空々くん」

 嘘、と言われて空々は震える。当然のように、それは『地球』との接点を隠したことを言われたのかと思ったのだ──だが違い、空々はここでようやく、自分の迂闊さを知る。知り、呪う。

「あの幼稚園の人間が……職員が、子供達が、その全員が怪人であるときみは言ったそうだね。だが、花屋ちゃんはその嘘を見抜いた。怪人を視認できるという才能を持つきみが、その才能を偽ったこと──これを花屋は重くとらえ、剣藤さんを始末するべきだと提案したのさ」

「ちょ……ちょっと待ってください。それ、なんだかおかしくないですか?」

 バレていたのか、という気持ちよりも、花屋の行動に対する疑問のほうが先に立った。

「論理的に破綻しているって言いますか……」

「論理的に、ね。じゃあ訊こう、どこがおかしい?」

「どこって……だから、僕が嘘をついたことが問題なのだったら、当然、処罰……処分ですか? 処分されるべきはこの僕であって、剣藤さんには何の咎もないと言いますか……」

 なんでわざわざこんなわかりきったことを言語化しなくてはいけないのかと思いつつも、空々は律儀に説明した。飢皿木博士は、

「だからこその因縁なんじゃないか──」

 と答える。

「──一応、『論理的』な論理立てとしては、きみがそんな嘘をついたのは剣藤さんの心理的負担を減らすためであって、つまりきみに嘘をつかせたのは剣藤さんだということで、それゆえに彼女は責任を取らされることになったということになる」

「いや……え? なんですか、それ……」

 無茶苦茶だ。現実に対する適応度が高いと言われる空々でも、そんな無理筋には付き合えない。納得する振りさえできなかった。

「そもそも僕が……、そんな嘘をついたかどうかだって定かじゃないでしょう──それは僕にしかわからないことじゃないですか。そして仮にそうだったとしても、僕の勘違いだったのかもしれない。僕の視力にだって、見落としはあるでしょう。それに、僕が仮に、仮にですよ、そんな嘘をつくとしたら、剣藤さんのためだけじゃなくって、花屋のためでもあるはずです……」

「そうだね。その辺の事情がわからない花屋ちゃんでもない」

「だったら」

それがわかっていつつも、無理を通せる立場にあるのさ、あの子は──きみにとっては互いに言いたいことを言い合える気立てのいい友達かもしれないが、花屋ちゃんはあれで、第九機動室の副室長であることを忘れちゃいけない。剣藤さんの上司なんだよ。本人は名誉職とか言ってるけれど、彼女はその立場を──大いに活用している」

「……え。でも──」

 でも、のあとが続かない。いや、継ぐべき言葉は思いついているが、そのあんまりな内容に、それを口にする気になれない。『そんなパワハラみたいなことを、花屋が剣藤さんにするなんて──』と、言えない。

 権力を笠に着た強引な論理立てで、剣藤を『処分』するだなんて、と。

 言えない。言いたくない。

「別に今に始まったことじゃないんだよ、空々くん。既に気付いていると思うけれど、地球撲滅軍にスカウトされるとき、きみのように関係者をすべて殺されるという例は、実は珍しい。家族を皆殺しにするという時点で既に相当のやり過ぎなんだが、通っている学校を焼いたり、携帯電話のアドレス帳に載っている人間を全員殺したり、そこまでされたのは、地球撲滅軍史上きみくらいのものだ。それをきみは、きみのヒーロー性ゆえだと思っているかもしれないが──それもまた、口実というか、因縁みたいなものであって、ただの花屋ちゃんの無理筋なんだぜ。剣藤さんも氷上くんも、軍人として、上司の命令に従ったに過ぎない」

 飢皿木博士は言う。それは陳腐な手品の種明かしをするような口調で、彼はとてもつまらなそうだった。

 いつぞや剣藤が、言いかけてやめたことでもあったが──しかし空々にとってそれは、意外な言葉でしかなかった。

「ひと月前、きみの関係者を殺したのと同じように、今度は花屋ちゃんは、剣藤さんを殺そうとしているのさ。要するに理由なんてなんでもいいし、きみが本当に嘘をついていたかどうかもどうでもいいんだ。きみと同居して仲良く生活している剣藤さんをただ殺したいんだよ、あの子は」

「……な、仲良くだなんて」

 空々は慌てて否定しようとしたが、しかしここでどんな風に言葉を並べても、あまり説得力はないだろうということもわかっていたし、そもそも飢皿木博士に申し開きをしても仕方がない。

 一般的に考えて、夜一緒に、同じベッドで眠っている男女が、仲良く見えないはずもない。マンションを訪ねてきた花屋に、空々と剣藤との関係がどのように映ったかは定かではないが……、少なくとも険悪な関係には見えなかっただろう。

 少年の夢。ひゅーひゅー。

 そう言っていた。

「無茶苦茶というならそもそも無茶苦茶なんだぜ? だって、剣藤さんにきみの世話役をやらせることを提案したのも彼女なんだから。マッチポンプもいいところだよ」

「え……? じゃあつまり、なんですか、花屋はその……、剣藤さんに対する、嫉妬みたいな気持ちで、そんな馬鹿げた因縁をつけてるってことですか? 友達である僕を、取られたような気持ちになって……?」

「嫉妬というよりは、きみを独占したいという気持ちかな、どちらかというと。まああの子にはそういうところがあるんだよ、昔から。たとえ名誉職であろうとお飾りであろうと、子供に権力を与えるべきではないということなのかもね」

 飢皿木はそんな風に、教訓じみたことを言ってから、

「彼女の症状は深刻だった」

 と付け加えた。

「私はスクールカウンセラーとして花屋ちゃんと出会ったわけだが、まあ、深刻だったね」

「深刻って……」

「当時十三歳。そんな低年齢で、あそこまではっきりと、症状が出るのも珍しいけどね。簡単に説明すると、彼女はその頃、自己評価がすさまじく低い人間だったんだ。自己評価が低く、恥をかいたり傷ついたりすることを極端に恐れていた。だから人や社会との交流を避けていた。孤立を好んでいた。非難されることを恐れ、自分は嫌われていると思い込み、少しでも否定されると、相手は自分のことが憎いんだと決めつけていた。そして一方で──他人との強い絆を求めていた」

「…………」

「彼女が野球をやめた理由は、ただ単に『人付き合いが苦手だから』だし、地球撲滅軍に入ったのは『明確に必要とされたから』だよ。そんな症状を抱えていると、なかなか社会的な組織には属せないからね。彼女なりに、生きる道を見つけていたつもりなのだろう。人類を守るという大きな目標を持つことで、己に価値を見出したのだろう」

「…………」

「きみと一緒にいるときは明るく楽しい、活発な女の子だったかもしれないが、空々くん、あの子は学校じゃあ、とても暗い子だよ。昔からそうだし、それは今でもそうだ。周囲と交流を持とうとしないし、行事にも参加しない。そんな彼女にとって、空々くん、きみという人間は、数少ない、というよりほとんど唯一の、執着する対象なのだろう。一緒にやりたくもないチームプレイをするくらいにはね。だから──きみに近付く者は許せないのさ。まあ……、マッチポンプとは言え、家族を殺した剣藤さんとなら、きみは仲良くなることはないだろうという、それくらいの気持ちはあったんだろうけれど」

 別に空々くんにとっては花屋ちゃんは、数多い友人の一人に過ぎなかったんだろうに、そんなに執着されてもねえ──と、飢皿木博士はやや辛辣しんらつなことを言った。花屋に対して辛辣なのか、空々に対して辛辣なのかはわからなかったが。

「……それで、僕はどうすればいいんですか。あなたは僕に、どうして欲しいんですか」

 空々は言う。いきなり与えられた膨大な分量の情報をとても処理しきれず、飢皿木博士に助けを求めるような形になった。

「そんな話を……いきなり持ってきて」

「私としてはもちろん、きみに剣藤さんを助けに行って欲しいものだね。きみはその程度には、彼女の世話になっているはずだし、きみのついた底の浅い嘘が、遠因とはいえ、花屋ちゃんにきっかけを与えてしまったこともまた事実なのだから」

「…………」

 思いのほか明確な答が返ってきてしまって、空々はたじろいだ。てっきり、それはきみが決めることだとか、あとはきみの好きにすればいいとか、そんな決断を委ねるようなことを言ってくるものだとばかり思っていたから。

 まさかこうもはっきりと道を示されるとは思ってもみなかった。

「丁度そこに『破壊丸』もある。使いかたは私が教えてあげよう。初心者でも、あれを使えば包囲網を突破することくらいはできるだろう。それを使って『恋愛相談』を倒せるかどうかは運任せだがね……、彼女の『切断王』も似たり寄ったりのアイテムだが、刃の届く範囲まで近付いてしまえば勝負にはなるはずだ。だから事前に、剣藤さんに電話をしたりしないほうがいいだろう。どうせ彼女は戦闘中で、出られないだろうし……」

「……どうして」

 空々は言った。言わずにはいられなかった。情けないことを言っているとはわかっていたが──言わずにはいられなかった。

「どうして僕が、剣藤さんを助けに行かなくちゃいけないんですか?」

「うん? 今言っただろう。繰り返させる気かい? きみは剣藤さんに世話になっているし、処分される遠因を作った。だから助けに行く動機はある。そしてその方法もある。今私が説明した。だからきみは、助けに行かなくてはいけないんだ」

「いや……でも」

 でも剣藤さんは僕の家族を殺した人だ、と言おうとして、それは自分にとっては、何の理由にもならないことを思い出した。そんな白々しいことを、よりによって飢皿木博士の前で言う意味はない。時間の無駄だ、と思う。

 時間の無駄。

 そんなことを意識している段階で、空々はもう、剣藤を助けに行くつもりの自分には気付いているのだろう。既に心の奥深いところで決めてしまっているのだろう。だが、それでも必要だった。彼のような利己的な人間には、その利己を捻じ伏せるための理由付けが。

 強いて言うなら、剣藤を助けに行くための因縁が、花屋の横車にも負けない強い因縁が──必要不可欠だった。だからそれを、飢皿木博士に言って欲しかった。

 自分のくだらない利己心を吹き飛ばす動機を与えて欲しかった。

「それがどんな権柄けんぺいずくであろうとも、少なくとも花屋の剣藤さんに対する『処分命令』は、正式なものなんでしょう? 牡蠣垣さんの許可を得て行われる、地球撲滅軍の正式な作戦なんでしょう? それに逆らうとなると……副室長としての花屋に逆らうだけじゃなく、地球撲滅軍そのものに反逆するってことですよね? そんなことをしたら──」

「そんなことをしたら、きみは軍から追われる身になるだろうね。ここで一時的に剣藤さんを助けたとしても、きみ達は二人とも、逃亡者となる。花屋ちゃんはきみに裏切られたと思うだろう。身勝手にもそう思うだろう。けれど花屋ちゃんから見れば、身勝手なのはきみということになる。少なくとも」

 と、飢皿木博士は部屋の中を見渡すようにした。

 この広く、快適なリビングを。いまや空々にとっては住み慣れたと言ってもいい、この住居を。

「きみはこの生活を失う」

「…………」

「公平に逆の選択肢も示しておくとすれば、もしもここできみが剣藤さんを助けに行かなかったとすれば……、手ぶらの剣藤さんは、おそらく『恋愛相談』に殺されるだろう。間違いなく殺されるだろう。まあ、封鎖された範囲内にいる人間も全員殺されるだろうが、これはきみには関係ない。たとえ助けに行っても、どうせ殺される人達だからね。で、きみの世話係はいなくなる。きみはもう、剣藤さんの料理を食べることもなくなる。ただし十三歳のきみに一人暮らしができるとは思えないから、別の人間が、世話係として派遣されてくるだろう。つまり剣藤さんの代わりだね」

「代わり……」

「その人は剣藤さんより優秀な世話係になるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。それはわからない。きみとの相性もあるだろう。最初は気が合わないと思っていても、共同生活を続けているうちに仲良くなれるかもしれない──剣藤さんとの関係がそうだったように。もちろんその逆だってありえるだろう。だがそんな途中経過はともかくとして、いずれは、その代わりの人物は、剣藤さんと同じ運命を辿ることになる。花屋ちゃんからきみとの仲を疑われ、処分される」

 飢皿木博士は淡々と言う──風に見せて、実際は相当、空々に対してきつい言葉を使っている。遠回しに、と言うか、明らかにあからさまに、空々に早く、剣藤を助けに行くよう促しているように思えた。そう思うのは、空々がそういう気持ちで聞いているからなのかもしれないけれど──

「わかるかな、空々くん。きみがここで剣藤さんを助けに動くというのは、同時に、未来を救うことになるのだ。剣藤さんだけじゃなく、将来生じたかもしれない数々の犠牲者を、将来いたかもしれないきみの関係者を、花屋ちゃんから救うことになる」

「……どうして飢皿木博士は、そんなに僕に……、剣藤さんを助けさせようとするんですか?」

 思い切って、訊いた。これを訊かないことには、どうにも状況は打開されそうにない。

「あなたはどちらかと言えば、剣藤さんより花屋との関係が深いと思っていましたけれど……」

「ああ、そうだね。実を言えば関係が深い浅いどころじゃなく、私は剣藤さんとは会ったこともないよ。顔も知らない。ああ、きみは今、なのにどうして私が、そこまで剣藤さんのことを心配し、助けに行かせようとしているのかが不思議でならないのだろうけれど、私は実のところ、彼女を救おうと思っているわけではないんだ」

「だったら、どうして──」

「私はきみを救おうとしているんだよ、空々くん。今更どの面下げてそんなことを言うのかと思うかもしれないけれど、私は」

 飢皿木博士はきっぱりと言った。

「きみを助けてあげたいんだ──きみに助かって欲しいんだ」


     5


 花屋瀟が例外的に、中学二年生と地球撲滅軍第九機動室副室長との二重生活を送れていることには、むろんそれなりの理由があるのだが、しかし特段、必然性があるということはない。そんなことをする必要は、はっきり言ってないのだ。もしも『人類を守るために地球と戦いたい』と思っているだけならば学校に通う必要などないし、また、空々や剣藤のようにスカウトを受けたわけでもなく、小学生の頃に自ら軍に志願した彼女には、逆に言えば軍に束縛される理由もない。

 だからその二重生活は彼女の希望によるものなのだ。

 いや、よるものだった──と、過去形で言ったほうが、いまやよいのかもしれないけれど、ともかく、この日、その時間、花屋は中学校、二年A組の教室で、六時間目の授業を受けていた。

 授業内容は古典だった。千年前の文章を現代語に訳して、その意味を理解しようとしている──作者もまさか、自分の文章が千年後の子供に読まれることになるとは思わなかっただろうと考えながら。

 果たしてそれは嬉しいことなのかな。

 試みに花屋は、今から千年後の世界を予想してみようとしたが、うまくできなかった。百年後さえうまくできなかった。それはそうだ、人類があと何年存続できるかなんて、今の地球上では、わかりっこないことなのだから。

 と、制服のスカートに入れてあった携帯電話が音もなく震える。微小な動きでバイブ音さえしないが、その着信を逃す花屋ではない。授業中で、丁度教師が文章の朗読を始めていたけれど、花屋は迷いなく、タイミングを待つこともなく席を立った。

 教室中の誰も、教師も生徒も、そんな彼女の動きに注視しない。彼女が立ち、そのまま教室を出て行こうとしていることに、当然気付いていないわけではないのだけれど、誰も、目配せさえしない。

 まるで透明人間だ、と思う。

 わざと、後ろのドアではなく前のドアから出た。わざと黒板の前を横切って、わざと教壇の前を横切って、やっぱりわざと大きな音を立ててドアを開け、思い切り閉めたけれど、それでも誰も何の反応もしなかった。

 花屋が廊下に出た後、教室の中が騒がしくなるということもない。そのまま、何事もなかったかのように授業が進行する。千年前につづられた文章のほうが、現在のクラスメイトが堂々と教室から出て行った事実よりも、リアリティに満ちているというように。

 これは望んでいる孤立だ、と思う。

 少なくともみんなと仲良くするより今のほうが楽なのだ。

 一人でいるほうが好きだというのは強がりではない。

 一匹狼上等だ。

 だけれど、階段に座り込んで、昨日見たテレビの話で盛り上がっている連中が羨ましくないと言えばそれは嘘なのだった──言うなれば、彼女が未だ『中学生』であり続ける大きな動機は、彼らがくだらなくも楽しそうにしている姿を『見る』ことなのだから。

 あえておどけた表現を使うならば、『趣味は人間観察だから』などと言ってしまう中学生が、花屋瀟なのである──だが一方で、そんな彼女には心の支えがあって、それが空々空なのだ。

 空々自身は知るよしもない。

 というより、予想さえもしてないことだが──今の彼女のありようは、ほとんどの面において、空々空という年下の男の子に依っているのである。そう、たとえばその関係者を皆殺しにし、新しい同居人にさえも、言いがかりのような処分を下すくらいに。

 この電話は、その処分が済んだ知らせだろうと思って、彼女は教室を出たのである。まあそんな報告は休み時間に受けてもよかったのだが、しかし、いい報告は少しでも早く聞いて、安らぎたいものだ。そして同居人が処分された空々をどう慰めるかで悩みたいものだった。

 だが彼女のそんな期待は裏切られる。許しがたいことに裏切られる。

「はあ? どういうこと? 仕損じたって……」

 苛立ちを隠さない口調で花屋は言いつつ、廊下を歩く。授業時間中なので、特に誰ともすれ違わないが、しかし仮にこれが休み時間で、廊下にたくさんの生徒がいたところで、彼女は同じように話しただろう。どうせどんな大声で、どんなことを喋ろうとも、いつものことだと思われるだけなのだから。

 花屋の奇行にはみんな慣れている。完全に無視できるほどに。

「私が納得できるよう、ちゃんと説明しなさいよ、あんた」

『そ、それが……』

 電話の相手は明らかに花屋よりも年上の、中年男性のものだったが、完全に怯えていた。彼は花屋の怖さを──あるいは花屋の逸脱を、よく知っているのだ。彼は花屋の、『下』の者に対する苛烈さをよく知っている──だから相手が子供だからと言って(あるいは子供だからこそ)、誤魔化すような言いかたをせず、起こった事実をそのまま伝えた。それで花屋が、まさか納得できると思ったわけではなかっただろうが。

『ショッピングモールの封鎖は予定通りに完了しました。その後、「恋愛相談」は、軍支給の「切断王」にて「寸刻み」の右腕を切り落としました。そこまでは手筈通りだったのですが──』

 何が手筈通りだ、と花屋は舌打ちをする。一撃で殺せといったはずなのに。まさか『破壊丸』を持っていなければ相手はただの女の子だとでも思ったのだろうか? それは事実として、確かにそうかもしれないが──普段から『破壊丸』を使い、使いこなし、数々の人間を、あるいは人間の姿をした怪人を『寸刻み』にしてきたあの女が、これまで果たして何本の手足を切り落としてきたかもわからないあの女が、自分の腕を切断されたくらいで怯むと思ったのだろうか。

 それくらい予想しろ、と思った。

 だが、てっきり『反撃にあって、「恋愛相談」が逆に殺された』くらいの展開を予想していた花屋は、続く言葉に絶句した。それが予想外だったのは、花屋も同じだった。

「はあ……? 空々が……?」

『はい……、「破壊丸」を振るい、包囲網を突破して現れた空々空が、背後から「恋愛相談」を斬りつけて……、それから二人は手を取り合い、今度は内側から包囲網を突破して、逃走しました』

 このとき彼が使用した『手を取り合い』という表現は、事実をそのまま伝えた言葉である。隻腕となった剣藤は、そんな風に空々の手を借りなければ、満足に動くこともできなかったのだから。しかしその表現が、花屋の苛立ちを加速させたことは言うまでもない。

「包囲網を突破されたって……、何やってんのよ。なに、蜘蛛くもの糸ででも包囲網を編んでたの? どれだけザルなのよ。超A級の任務だって言ったでしょう? そもそも空々を内側に入れたことだって──」

『し、しかし、「蒟蒻」──』

 確かに、至極もっともとも思える責めの言葉に、しかし困惑したように男は釈明する。

『今回の包囲網は、あくまでもショッピングモール内の買い物客を外に出さないように張られたものであり、つまり一般人向けの封鎖ラインです……。「破壊丸」を使用しての侵入や、奪われた「切断王」を使っての突破を想定したものではありません』

「…………」

 花屋は言い返せなくなる。怒鳴りつけてやりたいのをなんとか堪えたのは、彼女にしては相当の自制心だったと言える。そしてどうやらまた、自分の悪い癖が出てしまったようだと考え、自虐的なほどに反省した。

「……それで、その後、どうなったの」

『わかりません、見失ってしまいました──明らかに目立つ二人組だとは思いますので、遠からず見つかるとは思いますが……』

「……マンションは当たったの?」

『あ、いえ……しかし、逃げているのですから、自宅には戻らないでしょう』

「そんなこと、どうしてわかるのよ……、いいわ、そっちは私が当たるから、あんた達はそのまま捜索を続けなさい。それから、すべてが終わったら、包囲網を突破された連中のリストを作りなさい。なんらかの処罰を受けてもらうわ」

『は、はあ……』

 気まずそうに頷く男。反論しても無駄だと思っているのだろう。それは正しい判断だった。彼の立場としては、すべてが終わった頃に、彼女が勢いでした自分の発言を憶えていないことを望むだけだった。幸いにして、その可能性はそれほど低くはなかった。悪い意味で、彼女は罪を憎んで人を憎まない女なのだ。

「とにかく、失点を回復したければ、さっさと二人を見つけなさい。一刻も早く。そして『寸刻み』のほうは、その場で殺していいわ。いえ、殺しなさい。禍根を残さないためにもね。ただし、空々空のほうは生け捕りよ。怪我もさせちゃあ駄目……、彼はヒーローなんだから」

 私達の。

 ヒーローなんだから──と、花屋は念を押した。

 そのニュアンスに、奇妙なものを感じないほど電話相手の男も鈍くはなかっただろうが、だからと言ってそれについて突っ込んで訊くほどに、命知らずでもなかった。

『火達磨』が引退に追い込まれた今、地球撲滅軍第九機動室内でもっとも恐ろしいのは──恐怖のタイトルホルダーは、間違いなくこの『蒟蒻』なのだから。

「ところで、『恋愛相談』はどうなったの? まだ使える?」

『いえ。死にました』

「あっそ」

 残念だと思った。そして忘れた。


     6


 果たして空々空と剣藤犬个は、花屋瀟の予想通りに、自宅マンションへと帰っていた──付き合いの長い友人ゆえに言い当てたというよりは、当てずっぽうの推測がたまたま当たっただけのことなのだが、意外と盲点であっただろうこの行動が、まるっきり時間稼ぎにもならなかったことは彼らの今後にとっては不利な事実だった。

 ショッピングモールを飛び出し、封鎖ラインを突破し(結局空々が『破壊丸』を振るい、剣藤は残った片手で『切断王』を振るった──マシュマロの壁を突破するくらい、それは容易たやすい突破だった)、その辺りに違法駐車してあった自動車を『借りて』(エンジンは剣藤が片手でかけた)、マンションまで戻ってきたのだった。

「どうして戻ってくるかねえ」

 と、飢皿木博士には呆れられたが、しかし立ち去らずに部屋に残っていたところを見ると、彼は案外、自分達の帰りを待っていたのかもしれないと、空々は思った。

「ここら周辺からは、一メートルでも遠くに逃げたほうがいいに決まっているのに」

「……ひょっとしたら、飢皿木博士が剣藤さんの右腕を治してくれるかもしれないと思って」

「無茶苦茶言うなあ。私は外科医じゃないんだから、こんな大きな怪我、止血以上のことはできないさ。それももう本人がやっているみたいだし……、落とされた腕のほうはどうしたんだい?」

「重いから置いてきた」

 質問には腕を落とされた本人、剣藤が答えた。気絶してもおかしくないくらいの大怪我なのだが、空々が飲ませた精神ブロック剤が効いているのか、今は意識は安定しているようだった。

「重いからって……、滅茶苦茶だなあ。地球撲滅軍の開発室にでも言えば、義手を作ってくれるかもしれないけれど……」

 と、飢皿木は困り果てたように言う。見ようによっては、腕を失った本人よりも困っているように見えた。

「……今のきみは、その軍から追われる身だからねえ」

「…………」

 それを聞いて、剣藤は黙り込む。わかっていたこととは言え、改めてそう言われるとショックだったのだろう。まさか自分が、地球撲滅軍から追われる身になるとは思ってもいなかったに違いない。

 彼女は軍の戦士として、これまでずっと戦ってきたのだ。

 ヒーロー失格と言われても、何と言われても、ひたすら戦い続けてきて──空々の家族を殺したり、幼稚園を襲ったり、あるいは空々の面倒を見たり、自我を殺したそんな無私の働きを、ずっとしてきたのである。それなのに。

「ごめんなさい、剣藤さん」

 空々は言った。剣藤が落ち込んでいる様子を見ると、謝らずにはいられなかった。それにまだ、彼女は知らないはずだ。自分がどうして軍から追われる身になったのか。だとしたら説明しないわけにはいかなかった。

「狙われているのは剣藤さんなんですが、そうなってしまったのは僕のせいなんです」

「……? どういうこと……?」

「それは──」

「それは花屋ちゃんが空々くんのことが好きだからだよ」

 と、哲人幼稚園の件で二人に嘘をついたことを告白しようとした空々を遮るように、飢皿木博士が割り込んできた。最初からタイミングを計っていたかのような、鮮やかな割り込みだった。

「だから同居して、同棲して、空々くんと仲良くやっているきみに嫉妬して、こんな蛮行に及んだというわけさ」

「そう……なるほど。そういうこと……」

 飢皿木の説明は、確かに現状をわかりやすく伝えてはいたけれど、色々と大事な情報も欠けていた。なんだかわかりやすく整理され過ぎて、ことの本質から外れてしまった感さえある。好きとか嫉妬とか、それではまるで、恋愛感情のもつれみたいだ。だが、剣藤はそれで十分に納得したようである──花屋の性格を、いや、上司としての『蒟蒻』の性格を、彼女はよく知っていたのだろう。

 友人であるはずの空々よりも、もっと。

「…………」

 そうか、ならば変に言葉を重ね、正直にすべてをつまびらかにするよりも、このくらいの『わかりやすさ』のほうがいいのだろう──少なくとも今の剣藤にはいいのだろう、と思った。ただでさえ現状に押し潰されそうな彼女、そこに重ねて、空々が剣藤の心理的負担を考えてついた嘘のことを開示すれば、その『心理的負担』を、更に背負わせることになってしまう。

 いつかは言わなければいけないのだろうが、それは今ではない──だから飢皿木博士は、空々を遮ったのだろうと、彼は口をつぐむことにした。飢皿木博士が空々を遮った理由は、概ねその通りだったが、かといって、それはここで空々が正直に全てを開示しない理由にはならなかったし、先延ばしする口実にもならないはずだったが、彼は口をつぐんだ。

 このことにより彼は、剣藤に対するその欺瞞を謝罪する機会を失ってしまったのだった。結局剣藤犬个は、自分がどうして地球撲滅軍から追われることになってしまったのか、居場所を失ってしまったのかを、知ることはなかった。

 それを悲劇ととるか救いととるかは、聞いた人次第だろう。

「そっか……、じゃあ、もう無理だね。まだ、なんとか対話の余地はあるかもと思ってたけれど……」

 剣藤は力なくそう言う。空々としては、彼女がまだ、対話の余地があると思っていたことに驚いたが。『恋愛相談』を殺し、包囲網を突破するときにも、殺してこそいないが、何人かにかなり大きなダメージを与えている。たとえ因縁のような疑義をかけられての処分だったとしても、ここまであからさまに反抗してしまえば、和解への道は見当たらない。

 空々のときがそうだったように、相手が『火達磨』のごとく逸脱していたならば、まだ手の打ちようはあったかもしれないが──今回は違う。花屋は副室長という立場から、権力を使って剣藤を潰しにかかっている。およそ理不尽な理由を、もっともらしく振りかざして。

 それは避けようがない。花屋の暴走は暴走であって暴走ではないのだ。正しくはないが正しいプロセスなのである。

「そうだね、無理だろう。だから剣藤さん、もう地球撲滅軍のことは忘れなさい──そこに執着したくなる気持ちはわからなくもないが、このままここにいても、きみは殺されるだけだ。右腕のことは残念だが、しかし今は一般にもいい義手があるよ」

「腕のことは、そんなに気にしてない……今まで、いっぱい人を斬ってきたんだもん。これくらいは受け入れる……ただ」

 剣藤は、その台詞を本当に切なそうに言った。

「そらからくんを、これからは半分しか抱けないのが、残念」

「…………?」

 飢皿木はその言葉の意味がわからなかったようだった。確かに大人だからと言って、なんでもわかるわけではないらしいと空々は思った。いや、あまり人に知られたいことでもないので、それを補足してまで説明しようとは思わないけれど。と言うより、できれば早く流したい。

 だが剣藤のほうは、空々のそんな思惑とは逆に、その話題を続けるのだった──あくまでも切なげに続けるのだった。

「ああ、違うか。もう半分だって抱けないんだよね。そらからくんとは、これでお別れなんだから」

「え?」

 驚いた声を上げたのは空々で、また、彼はこのとき、二重の意味で驚いていた。剣藤が自分とここで別れ、一人で逃亡しようとしていることに驚いたのがひとつめで、そして自分が、既に剣藤と共に逃亡するのを当たり前のこととして捉えているのに驚いたのがふたつめだった。

 まあ驚いただけだ。

 今更それで、考えを変えようという気にはならない。

「いや、僕も一緒に逃げますよ、剣藤さん。片腕じゃ逃げにくいでしょうし」

「……え?」

 心から意外そうに剣藤は、目を見開いた。信じられないことを言われたような顔だった──それもまた、二重の驚きだったのだろう。台詞も信じられなければ、それを言ったのが空々だというのも、彼女には信じられなかったのだろう。

 なにせ、空々は、左在存──『狼ちゃん』が逃亡するときにも、逃亡幇助には手を貸したが、自分は軍に残ろうとしたくらいなのだ。そんな彼の性格を、剣藤は知っている。だから今この状況で、自分と一緒に逃げようとする動機があるわけないと、剣藤が考えるのも当然である。

 それを察し空々は、

「あのときはだって、剣藤さんが軍にいたじゃないですか」

 と言った。

「剣藤さんがいない地球撲滅軍に残っても意味がありませんし……」

「…………」

 そんなことを正面から言われ、剣藤は言葉を呑んだ。

 剣藤がもう少し冷静であれば、あるいは空々に細かく物事を説明する気があれば、あくまでここで空々が求めていたのは、在存のときそうであったのと同様、『快適な生活』だったことはすぐにわかっただろう。

 要するに、剣藤をここで逃がし、まあ逃がすところまでは協力したとして、その後、自分が軍に残ったところで、同じような生活は望めないということがはっきりしている以上、軍に留まる理由はないと、空々は飢皿木の言葉を、ほとんどそのまんま受け取ったのである。

 今後、剣藤の後釜に『世話係』が派遣されてくるとしても、きっと同じように花屋が『処分』してしまう──だとすると、そんな生活が快適であるわけもなく、またそれどころか、自分の身の危険さえも感じる環境だ。

 いや、更に言うならば、これは飢皿木も知らないことだが、『地球』との接点を彼が持ってしまったことも、剣藤を助けに行った理由、そして逃亡を決意する理由になっていた。重責から逃げ出したいという気持ちが、彼にないわけもない。

 そんな気持ちが、飢皿木博士が空々に求めているようないわゆる『動機』ではないことはなんとなくわかったけれど──『きみに助かって欲しい』という彼の台詞に、まったく自分が応えられていないことは間違いないけれど、しかし自分がそういう動機でしか動けない人間であることは、他ならぬ飢皿木博士が一番よくわかっているはずだとも思っていた。だから許して欲しかった──このくらいの折り合いで。

「……でもそらからくんは、地球と戦わなくちゃいけないんだよ。私はこんな風だから、もう『破壊丸』も振るえないし、戦えないけど……、そらからくんは、これからも人類を守るために、地球をやっつけなきゃいけないんだよ」

「それは……」

 答に迷う。こんなことになっても、未だ彼女は、地球撲滅軍の正義を疑っていないのだろうか。軍と花屋の暴走を、別のものだと捉えているのだろうか──確かにそこがブレてしまうと、今までの彼女の人生まで、彼女の戦いまで無意味になるのだから、無理からぬと言えば無理からぬことなのかもしれないが。

「……『グロテスク』は、もう諦めるしかありませんけれど、『実検鏡』は今も僕が持ってますし、それに『破壊丸』は僕が使いますし、剣藤さんはこれからは『切断王』を使えばいい」

「…………?」

「つまり、別に地球撲滅軍に属していなくても、地球と戦うことはできると言っているんです……そうです、これからは二人で戦えばいいじゃないですか。僕と剣藤さん、二人で地球と戦うんです。そのためにもまず、二人で逃げ切るんです」

 我ながら咄嗟の思いつきとしてはいい理屈だと思った。詭弁もいいところだったが、それなりにもっともらしく聞こえる。少なくともこう言えば、置いていかれたりしないだろう。

「でも……」

 と、それでも剣藤は逡巡するような態度を見せかけたが、そこを強引に捻じ伏せるように、飢皿木博士が、

「そうだね、そうするのがいいよ」

 と言いながら、分厚い封筒を空々に差し向けてきた。その大きさからして、中身が束ねられたお札であることは想像がついた。

「逃亡資金だ。渡せてよかった。軍から支給されているカードはもう使わないほうがいいだろう。これは、私が正規の医者としてまっとうに稼いだお金だから、使っても足はつかないよ」

「……は、はあ……」

 しっかりと受け取りつつも、戸惑いも見せる空々。いや、それについてはもっと早い段階で疑問を覚えるべきだったかもしれない。どうして、この痩せぎすの医者は、こうも空々に協力的なのだ?

 協力的というのとは少し違うかもしれない。そもそも空々には剣藤を助けに行こうという気はなかったわけだし、どころか彼が教えてくれなければ、剣藤が危機にあることさえ知らなかったのだ。

 言い方は悪いが、しかしもっとも現実に即した適切な言い方を選ぶならば、飢皿木博士は単に空々を思い通りに動かしているだけという気もする。ひょっとして剣藤をどうしても助けたい理由が、本当は彼にはあるのかもしれない、などと、空々は想像した。

 その想像は外れている──それについては既に飢皿木博士は答を正直に、彼に告げていると言うのに。飢皿木博士は、剣藤犬个には今初めて会っているのだし、何より彼は、剣藤よりも空々に助かって欲しいと思っているのだった。

 花屋の画策があったとはいえ、地球撲滅軍に紹介したのは自分であるにもかかわらず──飢皿木博士は空々少年を助けようとしているのだ。彼は空々を、どうしても助けたいのだった。

 飢皿木博士には。

 そうせずにはいられないわけがある

「あとはまあ、きみ達の精神ブロック剤ほどの効き目があるわけじゃあないけれど、うちの診療所で出している精神安定剤も渡しておこうか……大して効き目があるとは思えないけどね。剣藤さん」

 と、最後に飢皿木博士は、だからそれは彼にとってはどちらかと言えばついでになる言葉だったが、しかしそれでも言われる剣藤犬个にとっては、残りの人生を大きく変えかねないようなアドバイスをした。

「きみはね、空々くんと違って、真っ当な感性を持っているようだ。だがその感性をだいぶん歪められている。地球撲滅軍から完全に洗脳されているきみにこんなことを言ってもまるっきり無駄かもしれないが……、きみは軍にスカウトされる際、家族を殺されたショックを地球への敵意へと転化することでなんとか自我を保っている。『大いなる悲鳴』を防げなかった罪悪感を地球への憎悪へと置き換えることで自己を保っている。それは生きかたとしては正しいが、本来、その敵意と憎悪を向けるべきなのは地球ではないことを、そろそろ自覚してもいいだろう。空々くんには人間的にそれはどうしても無理なことだから、きみが代わりにやってあげなさい」

「そらからくんの……代わりに?」

「そうだ。空々くんの代わりに、きみが地球撲滅軍を憎むんだ。空々くんの家族を殺したきみにしか、それはできないことなんだ」


     7


 空々空と剣藤犬个の乗った自動車が地下駐車場から出て行ったのは三十分後のことだった。当然、『借りてきた』自動車はここで乗り捨て、新しい自動車を借り直している。

 準備などほとんどなかったのに三十分という時間がかかったのは、着替えに時間を要したからだった。変装などしても大した意味はないだろうが、しかし服くらいは替えておいたほうがいいとの(飢皿木博士の)判断だった。

 空々の着替えは、上を替えるだけで済んだので実質一分も要していないが、剣藤の着替えに時間を要した。片腕ゆえに手間取ったのだ──剣藤は最初は遠慮したけれど、最終的には空々の手を借りることをよしとした。

 このマンションに越してきた当初、ボディスーツ『グロテスク』の着用に剣藤の手を借りていたことを思うと、空々はなんだか、あれから一ヵ月経ったんだなあ、と実感した。

 もちろん、剣道着に着替えたわけではない。あれは剣藤にとって、身を守るアイテムであると同時に地球撲滅軍の制服のようなものだった──だからもう二度と、袖を通すことはないのだろう。

 そんなもので隻腕であることを隠しきれるとも思えなかったけれど、一応、ケープを着せることによって、剣藤のドレスチェンジは終了し──そして彼らの逃避行は始まったのだ。

 それを玄関先まで見送った飢皿木博士は、主のいなくなったマンションの部屋で、一人、自分で淹れ直したコーヒーを飲んでいた。口直しと言えば、慣れない手つきでたどたどしくも淹れてくれた空々に悪いけれど、まあはっきり言って、口直しだった。彼は本来、まずいコーヒーを何より嫌う男なのである。あの黒い水を飲むのに、果たしてどれだけの忍耐を要したか。

 もちろん、逃亡者二人のお色直しを待った末に口直しなど、そんな下手な洒落みたいなことをしている場合ではない。彼にも当然、この場所にい続けるリスクの高さはわかっていた。二人の門出を見送ったのであれば、彼こそ一メートルでも遠く、このマンションから離れるべきなのだ。

 だがそうしない。

 そうするつもりは一切ない。

 その『博士』そのものの風貌や物腰、学歴や医者という立場、有する知識などから誤解されることも多いけれど──彼はそれほど、頭のいい人間ではないのだ。

 不合理と心中することを選べる男である。

 だからこそ彼はここに来たし──だからこそ彼はここにいるのだった。

「なんで飢皿木先生がここにいるんですか……? まさか、あの二人を逃がしてあげたとかじゃないですよね? どころか、空々を剣藤さんと逃げるよう、そそのかしたとか……」

 オートロックで錠の下りていた玄関の扉を、『見えない剣』で斬り開き、土足のままで部屋の中に入ってきた女子中学生──花屋瀟は、飢皿木博士にそう質問してきた。その目はうつろなようでもあり、しかし満たされているようでもあった。満たされているとすれば、それは狂気に満たされているのだろうけれど。

 うつろなのだとすれば、何が足りないのだろう。

 そんなことを飢皿木博士は考えた。

 残り少ない寿命で考えた。

「違いますよね、先生? 先生は私の味方ですよね?」

「そのつもりだったんだけどね。いや、本当にそのつもりだったんだ。きみの味方で、私はいてあげたかった。だから空々くんがうちの診療所に来たときは、なんとなく背後にきみの気配を感じつつも、その思惑に乗って、私は彼を地球撲滅軍に送り込んだ……まあ彼ならヒーローになれると思ったのも事実だ。それが私の、医者としての立場だった」

「……はあ?」

 花屋は話の焦点をはぐらかすような飢皿木の言葉が不愉快だったように、苛立たしげに腕を振った。それにあわせて背後にあったテレビが、音もなく真っ二つになる──『見えない剣』。

 本当に見えない。刀身だけではない、柄まで見えない。影もできず、ゆえに刀の長さがまったくわからない。

 間合いが読めないという──対人戦においてはもっとも厄介な特性を備えたアイテムである。ただし剣藤の使う『破壊丸』や、瀬伐井の使った『切断王』とは違って、この『見えない剣』はオートマティックな戦闘力は備えていない。

 つまり自動的に敵を斬ってくれたりはしない。

 斬るのは──殺すのは。

 あくまで花屋瀟なのである。

「何言ってるんですか? 先生。全然わからないんですけれど。先生に、医者としての立場以外の立場があるんですか? 医学の進歩のために、患者のために、すべてを捨てたのが先生じゃなかったんですか?」

「うん、まあその通りだ。その通りでね──いや、花屋ちゃん。それこそが問題だったんだよ。その『捨てた』って奴がね、今になって、私の人生に響いてきたというわけだ。本当、なんていうか……陳腐な表現になってしまうけれど、ままならないものだね、人生は。そう簡単には捨てられないんだね、人生とか、過去とか──感情とか、人間性とか。それを一切持たない空々くんが、私は本当に羨ましいよ。きみもそうだったのかな、花屋ちゃん」

「……? 先生。教えてくれますよね、あの二人がどこに逃げたのか。先生はきっと、協力する振りをしてあの二人を騙したんですよね? 逃がしてあげる振りをして、行き止まりに誘導したんですよね? 先生は私のために、そうしてくれたんですよね?」

「……医者としての私は、きみのそういう性格をもまた、とても好ましく思っているんだがね。いや、単に、野球をやめた者同士で話が合ったっていうのもあるんだけれど、少なくとも出会った頃のように、引っ込み思案なだけのきみよりはずっと魅力的だ。だがねえ、いささか子供っぽくはないかい? きみはなんでもかんでも、独占しようとし過ぎだよ」

「子供っぽいのは当たり前です。私は子供なんですから……、先生がそう教えてくれたんですよ?」

「そうだったかな? ああそうそう。そうだった」

「先生のお陰で今の私があるんです──だから私は先生を殺したくない」

「だったら殺さないでいてくれるとありがたいんだが……いやね、確かにきみの姿を見ていると、私も医者としては一廉いちかどのものだったのではないかという自信も湧いてくる。幼くして地球撲滅軍に属し、それゆえに責任感で押し潰されそうになっていたきみを治療し、ただの子供に戻してあげられたという意味では、だ。ただ──私は、大人としては本当に、ろくなもんじゃあなかったな。いや」

 飢皿木はかすかに、苦痛に堪えるように眉根を寄せて、言った。

「親としてはろくなもんじゃあなかった、か。なにせ私は、自分の娘が犬として育てられていたことも知らなかったんだからな」

「…………?」

「いや、関係のない話をしてしまったな、ごめんごめん。ただの中年のおっさんの愚痴だ。おっさんのみっともない愚痴だよ。ただしそんなおっさんでも、感謝くらいはするんだ。娘をほんの数時間とは言え、犬から人間に戻してもらえたなら──その恩に報いようとも思う」

 そこまで喋ったところで、飢皿木博士は丁度コーヒーを飲み終えた。自分を慕う花屋の期待に背くような裏切り行為をしたことについての説明責任は果たしたつもりなので、もう彼には語るべきことはなかったのだが、しかし医者としての癖で、ついつい忠告してしまう。剣藤に対してそうしたように、花屋にもアドバイスをしてしまう。本当に悪癖、いや、職業病だと思う。医者としても自分は、ろくなものではなかったのかもしれないとさえ思う。

「きみはこれからも地球撲滅軍の中で出世していくつもりなのだろうが、だとしたらいつか知ることになるであろう不明室という部署にいる、左右左危うさぎという女に気をつけたまえ。自分の元女房のことを悪く言いたくはないのだが、あいつはどうも──」

 飢皿木博士のその悪癖は、しかし途中で打ち切られたので、彼が花屋瀟にどんなアドバイスをしようとしていたのかは、永遠にわからなくなってしまった。悪癖を打ち切られたというより、単純に首を斬られた、打ち首にされたというだけのことなのだが。

 娘が首から上を失ったように。

 父もまた首から上を失った。

 その特性から考えて普通に予測するよりも長く設定されているのではないかと、飢皿木博士は考えていたが、その通り、花屋の『見えない剣』は、この距離でも届くくらいの間合いがあったようだ。そして首を斬られたあとも、一瞬くらいは考えごとができるような驚異の切れ味も。

 カーペットの上に落下した飢皿木博士の首と、噴水のように血を噴き出し、天井と床を汚す彼のボディを見ながら、花屋は肩を震わせた。ぶるぶると震わせた──まるで全身が痙攣しているようだった。

 そう、今、花屋瀟は。

 怒りと悲しみに打ち震えているのだった。

「許せないわ、あの女……空々を私から奪うだけじゃあ飽き足らず、飢皿木博士を殺すなんて……!」

『見えない剣』でとは言え、確実な手ごたえをもって、自分の手でその恩師の首を斬り落としておきながら、そんな風に真剣に怒ることのできるくらいに情緒豊かな彼女は、展開次第によってはなれたのかもしれない。

 感情で心が動かない空々空の、真のパートナーになれたのかもしれない──実際、表の世界では、彼女はそれに相当近い位置にいた。

 だけどもうそんな展開はない。ありえない。

 今、地球撲滅軍から、ひいては彼女から逃げている空々は、既にそれに気付いているのだが──しかし花屋だけが、まだそれに気付いていなかった。

 彼女はまだ、真摯に信じているのだった。

 空々空と二人で、人類を救う未来を──地球を倒す未来を。

 恋する少女のように信じているのだった。

「待っていて空々……、私がすぐに助けに行くからね」


     8


 この世に正義があるとして、たとえヒーローがいるとしても、きっとこの物語はそれとは無関係のところで決着する。それはたぶん、愛とか、友情とか、そういうものだ。


(第7話)
(終)