0
悪法の下の平等。
1
地球撲滅軍第九機動室は、基本的に『戦う部隊』。
主な仕事は怪人退治。少なくともそう掲げられている。
空々にとっては、彼の家族、及び関係者を虐殺したというのが第一印象だったため、『人間を殺す部隊』というイメージがどうしても強いのだが、しかしあれこそ、彼らにとっては本来は例外的な仕事だったのだ。
地球からの数々の『攻撃』に、『防御』し、『対応』し、『反撃』しているというのが地球撲滅軍の現在の姿勢だが、そこにおいて彼らは数少ない『攻撃的』な、攻めの部隊なのである──もっとも、それにしても明白な汚れ仕事であり、前線で危険に晒される、軍の中でもあまり『羨ましがられない』部隊ではある。
怪人を区別できる空々は、確かにながらく待ち望まれたヒーローではあるのだが──ヒーローがスカウトされた部隊そのものは、決して英雄視されてはいないのである。
英雄になり損ねた戦士・剣藤犬个にしてみても、ずっと誇らしい気持ちで仕事をしているわけではない──むしろ『私にはこれくらいしかできない』という意識が強い。もっとも彼女がそんな、劣等感に似た気持ちを持っているのは、己の境遇のみならず、『火達磨』という『先輩』を知っているからというのもある。
剣藤の家族を焼き殺した、あの男。
自分は、あの男と同じ部署にいるのだと思うと。
人類を守るという大義を持っているにもかかわらず──自分の仕事を誇れなくなるのだった。同居している少年、空々空にしてみれば、自分も『火達磨』も何も変わらないのだろうということを考えると、悲鳴を上げたくもなる。
それについて相談したとき、『茶飲み話』──牡蠣垣は、こんな風に答えたのだった。
「組織というのは何かと厄介です。どんな風に集めたところで──同じ目的を持った人間だけを集めたところで、画一的には揃わない。会社も、学校も、軍隊も──同じ試験で選抜しようと、違う人間が集まる。色んな人間が揃う。まあ、働き蟻のパラドックスみたいなものですかね? 百人の人間を集めれば──確率的に、私のような人間もあなたのような人間も、『火達磨』のような人間も現れる。それだけのことであり、なんら恥じることはないのですよ。ほら、色んな人間がいないと、いざというとき、全滅しちゃうでしょう?」
よくわからない返事だったが、しかし、よくわからないなりに、気が楽になったような気がした。そういう『気のせい』を与えることに『茶飲み話』は長けていた。
「いつかそらからくんが、そんな風に思ったとき──『火達磨』を見てそんな風に思ったとき、私は『茶飲み話』のように、あの子の気持ちを楽にしてあげることができるだろうか。きっとできないだろう。彼にしてみれば『私』と一緒にされることさえ、きっと嫌だろうから。でも、それでも言ってあげよう。同じ組織の同じグループに属していても、きみは『火達磨』とは──なんなら『私』とも、違うんだと」
そんなことを考えていたが、きっとヒーローは、本物のヒーローはそんな風には考えないのだろうとも思った。だがまさか──こんな早い段階で、『火達磨』と空々が遭遇するとは、剣藤は思ってもいなかった。
まして戦うことになるなんて。
2
「怪人の子供って怪人なの?」
雨の中、クルマを運転しながら、助手席の左在存に、空々は訊く。それは会話の流れとしては相当唐突な訊き方だったので、在存は面食らったように、
「ああ?」
と不機嫌そうに応じた。別に怒ったわけではないだろうが……。
「どういう意味だ、そりゃあ?」
「いや、僕が殺した怪人にはお子さんがいたらしいんだよね……、子供だ。怪人の血を引く子供なんだから、その子供も、怪人ってことになるんだろうかって、そういう意味。外見とか、あるいは身分とかと違って、家族って『擬態』が利くものじゃないと思うんだけど……、でも、それを言い出したら、怪人の親も怪人じゃなくちゃいけなくなるだろう? 一族すべてが怪人なのかな?」
「ああ、そういう意味かよ……お前、質問下手だな。剣藤さんと会話してんのを聞いてても、まあそう思ってたけどよ。もうちょっと相手の気持ちを考えてから喋り始めたほうがいいぜ」
「ああ、うん。考えてるつもりなんだけど」
考えてるだけなんだけど。
「ほら、またワイパー止まってるぜ。……動かしっぱなしにしとけっていってんだろ。なんでいちいち止めるんだよ」
「目の前を何かがずっと動いてるって、嫌なんだよね、落ち着かなくて……、ちゃんと動くかどうか見張っているような気持ちになって、不安になって、つい止めてしまう」
「危ないからやめろ、ペーパードライバー。……で、その質問だが……、剣藤さんに訊かなかったのか?」
「うん。いや、今思いついたものだから。在存ちゃんの『擬態』を見ていて思ったこと……、別にそれ、きみのお母さんが同じ力を持ってるってわけじゃないんだろう?」
「その辺りからの連想か……ふうん」
ふうん、というその頷きには、『自分が殺した相手に子供がいるってことに、この男はストレスを感じないものなのかねえ』というニュアンスがこもっていたのだが、空々はそれには気付かない。
もちろん在存は、空々と剣藤との食事時の会話を三週間聞いていたので、そして見ていたので、空々の『そういう性格』については知っているつもりでいたのだろうが、しかし、自分がいざ話して、その『感じ』を感じとってみると、また違うのだろう。
だが、彼女は質問には答えた。答を拒否するような質問ではなかった──剣藤だって、もしも訊いていればすぐに教えてくれただろうことだ。
「もちろん、百パーセントとは言わないが、怪人の子供だから怪人ってことはねえ。怪人の親だからって怪人ってこともねえ」
「百パーセントとは言わないがって言うのは?」
「血のつながりとは無関係に、二人とも怪人って可能性はどうしても残るからな。子供が四月生まれで、母親が四月生まれってことはあるだろう? だけどそれは、血縁とは関係ねえ。血液型が一緒なのとはわけが違う。そういうことだ」
「人間が怪人である確率は、十二分の一くらいだっていうこと?」
「なんでそんな理解になるんだよ……、聞けよ、ちゃんと。まるで俺の比喩がわかりにくかったみてーじゃねーか。怪人の数はもっと少ねーよ、たぶんな……十二分の一なんて、そんなにいてたまるかよ」
「でも、いても不思議じゃないじゃないか。区別できないんだろう?」
「そりゃそうだが……、ああでも、お前が『ミラーグラス』を使って見てみても、怪人は全然、見つかんなかったんだろ? じゃあ、頻度としては、そのくらいってことだぜ」
「僕もそう思ってたけど……、剣藤さんは大袈裟に言っていたんだと、ついさっきまで、そう思っていたんだけれど。でも、ゴーグルを通さずにきみの姿が、『擬態』を無視して人間に見えるということは、その逆だってありえるよね? ゴーグルを通しても『擬態』を見抜けない怪人だっているかもしれない。それも──かなり大量にいるかも」
「……どうして『ということは、その逆だってありえる』ってことになるのかはわかんねーが。論理的には滅茶苦茶だが、しかし、まあ……、言われてみると、否定の難しい仮定だな」
なんだか、子供に揚げ足を取られたみたいな顔をして、在存は不承不承、頷いたようだった。子供に、というのは間違ってはいないが、あくまで在存のほうが年下なのだが。
「ちっ。言われて嫌な妄想をしちまったぜ。世の中の人間の、もうほとんどは怪人になっていて、地球撲滅軍は人類を守っているつもりで、怪人を守っているのかもって……、いや、その軍さえももう、怪人によって運営されていたり、な……」
「ありえない話じゃないんだろう?」
「ああ、ありえない話じゃない。俺としたことが、どうして今まで思いつかなかったのかというくらいに、ありえる話だ──十分に目のある話だ。しかし、ぞっとする話だぜ。目を逸らしたい現実って奴だろうが、そりゃあ……お前、よく考えられるな、そんな怖いこと」
「いや、その妄想は今きみがしたものじゃないか。僕はそこまで深い妄想はしていないよ、精々、『軍の中に怪人が紛れ込んでいるかもしれない』くらいだよ。僕に責任を押し付けられても困るなあ……」
「俺はもう抜けるからともかくとしても、空々ちゃん、お前はそんなこと考えても、平気なのかよ? 命懸けで、すげー無意味な活動をしているかもしれねーんだぜ?」
「命懸け?」
きょとんと、空々はその言葉に首を傾げた。そんな違和感のある言葉を聞いたのは初めてだというくらいだった。
「何が命懸けだよ、在存ちゃん……、非合法っていうだけで、怪人退治は簡単じゃないか。彼らにはまるっきり戦闘能力がないんだから、人を殺すのとなんら変わりがない。強力な武器を──剣藤さんなら『破壊丸』を、僕なら『グロテスク』を、きみはその首輪だっけ? ──与えられて、一方的に殺しているんだ。命の危険なんてないよ。もしも地球が人間を殺そうとしているのが本当なんだったら、その事実を知らずに二酸化炭素の排出を抑え、ゴミを分別し、エコロジーに従事している無辜の一般人のほうが、よっぽど命懸けで過ごしているだろう」
「……ああ、お前、まだそんな段階だったな。そう言えば──いや、そりゃそうなんだが、しかし命懸けなのは確かだろう。非合法であること自体からは軍が守ってくれるにしても、んなもんあっさり切り捨てられるし、実験台にされるかもしれねーし、あらぬ疑いをかけられて粛清されるかもしれねえ。命のリスクは、やっぱり上昇してるぜ」
「それでも生きていられる」
「飼い殺しだぜ」
「飼われていても、生きているなら、飼い殺しでいい」
「……俺は野垂れ死んでもいいから、飼い犬よりは野良犬でありたいねえ」
かみ合っているようで、二人の会話はすれ違っていた。
無理からぬ。
二人は同じように前を向いていても、見ているものが違うのだ。
左在存は未来を。
空々空は現実を見ていた。
しかしどちらも黒くくすんでいた。ワイパーではぬぐえないくらい。
3
「話を戻すが……、空々ちゃん。折角だからお前に、怪人がどういうシステムで『生まれる』のか、教えておいてやるよ」
「『生まれる?』」
「ああ。まあこんなこと、訊けば剣藤さんが教えてくれるとは思うけどよ……、あの人も説明下手だからな。それにお前、訊くのを普通に忘れそうだし」
「まあ……そんなに気になることでもないしね。哲学的怪人の出自なんて」
「怪人がどんな風に『生まれる』のかくらい知っておけよ。……『哲学的怪人』? なんだそりゃ」
「あ、ごめん。僕が勝手につけた名前」
空々は説明をした。その性格から考えて、怪人は哲学的ゾンビに近いように思えたからという説明を。その説明を聞き終えて、在存は、
「まあ、なるほどとは言えるな。意外と的を射ている」
と言った。
「ただ、それを言うなら沼男と言ったほうが、より事実に即しているかもしれねー──怪人がどうして『生まれる』のかって話に繋げるなら、なんだが」
「沼男……ああ」
知っている言葉だったが、それはやや『たとえ話』として荒唐無稽なものだったので、空々にとっては印象が薄く、だから今の今まで連想しなかったけれど、しかし言われてみればその通りという気もした。
沼男。スワンプマン、である。
ある日、沼に出かけた男が雷に撃たれ死亡する。直撃で、影も形もなく、この世から消えた──しかしそのとき、そばの沼にもまた雷が落ちて、そのとき奇跡的な現象が起こる。雷と泥との化学反応で、生物が生まれたのだ──それは、雷に撃たれて死んだ男と、まったく同じ『形』の生き物だった。
身体も、脳も、記憶も、まったく同じ。
寸分違わず同じ『もの』が『生まれた』。
同じである以上、『彼』はそのまま家に帰る──そして『彼』としての生活を、そのまま続けるというわけだ。まさか自分が、雷と泥から生まれたなんて思いもせず、まして雷に撃たれて死んだなど思いもせず。
「……家族と談笑することもあれば、職場で同僚と喧嘩することもあるだろう──って話さ。まあ、怪人の生まれかたは、概ねそんな感じじゃねーのかって言われてる。これも証拠のない話で、推測みてーなもんだが」
「雷が怪人を生んでる?」
「いやいや、そうじゃねーけど。お前、だから比喩をそのまま飲み込むなよ、どんだけ素直なんだよ。フランケンシュタイン博士の怪物じゃねーんだから。つまり、怪人は、人間として生きてた奴がどこかで『入れ替わ』って『生まれる』って感じだ。それも、本人も気付かないうちにだ──『入れ替わる』って言うより、『生まれ変わる』かな?」
「生まれ変わる……じゃあ、怪人には、自分が怪人だという自覚がないということ?」
「ないんだろうね。ないんだと思う。そう思えば、地球撲滅軍の拷問部隊がどんなに頑張っても、自白を引き出せない理由がわかりやすくなるだろう」
「……拷問部隊って……」
そんな部署があるのか。そんな露骨な名前の部署が。いや、たぶん正式名称ではないのだろう。在存の露悪的な表現に違いない。そんなネーミングセンス……、いや、だが、地球撲滅軍なんて名前が正式名称であるならば、内側にそんな部署があっても不思議ではないのかもしれない。
まあ今の問題はそこではない。
「じゃあ怪人は自覚なく、人類を滅ぼそうとしているということになるのかな?」
そもそも、怪人が人類を滅ぼそうとしている証拠があるのかというのが疑わしいという話だったような気もする──すべては状況証拠に過ぎないのだと。
極端な話──いや、そんなに極端な話でもなく、ひとつのごく当たり前な可能性として、たまたま、人類にとってマイナスとなるような行動ばかりを取っていた人間がいたとして、その人間と怪人との区別はつかないわけだ──思考レベルまで詳しく解析して調べたところで、その人間を人間だと証明する方法はない。
とすると道理で空々の『認識』が重宝されるわけだが……、それに、『擬態』の分析が急がれるわけだが……、ただ、どうしても空々自身には、それは不毛なんじゃないのかと思われてならない。
そんな冷めた見方をしてしまうことこそが、彼の彼たる所以ではあるが、その認識が正しいとは限らないのだから。それはさっき、空々が在存に言った通りだ。
空々にだって正体の見抜けない怪人がいるかもしれない。
しれないのだ。
「ひょっとすると、僕やきみだって、怪人かもしれないってことだよね? それを否定する手段は、はっきり言って、ない」
「ないなあ……だとすると、結局それは、行動から判断するしかねーんじゃねーか? たぶん地球撲滅軍のお偉方……、俺も会ったことがねーようなお偉方は、そんな風に考えてるんだと思うぜ」
「状況証拠だけで十分だってこと?」
「いや、もっと過激かもな。俺達の……ってもう俺は関係ねーが……お前達のボスは、もっと偏向してるだろうよ。つまり、人類に仇なすような行動を取ってるような奴は、怪人であろうと怪人でなかろうと、『退治』しちまってもいいんだって──」
「…………」
酷い発想だ。いや、正確には、それがこの国の常識から考えて『酷い発想』だと思われるであろう発想だ──と空々は思う。だがきっと、倫理や道徳を省いて考えてみれば、それはきっと合理的な割り切りでもあるのだろうとも、同時に思った。
冤罪を恐れなければ、犯罪検挙率は爆発的に跳ね上がるという。
当たり前の話だし、そうであってはならないというのが法の原則だ──無罪の人間を一人有罪にするくらいならば、百人の罪人を無罪にするほうがいいとされている。
そうでなければならない。そうでなければ法の秩序は保たれない──が、恐らくそちらは全員には支持されないというだけで、違う考えかたの持ち主はどうしようもなくいて、そしてそんな考えかたの──過激で偏向した考え方の持ち主が、地球撲滅軍の上層部にはいるのだ。
飢皿木博士の言う、『心の動かない人達』だ。
「危険思想……だよね。そんな考え方をしていたら、いずれ人類は一人も残らなくなるよ。裏返せば、全員が疑わしいってことなんだから」
「その通りだな。人類に益する行動ばかりを取っている奴が、たとえいたとしても……、それだって、ものの見方って奴だからな。善行に見せかけた悪行、悪行にしか見えない善行。そんなんばっかだぜ、世の中は」
「……悪行にしか見えない善行ってのは、地球撲滅軍のことを言っているのかな?」
「いやいや……、俺に言わせればあれだな、地球撲滅軍の行動は、悪行にしか見えない悪行って感じだな。救いってもんが、およそねーよ。結果が善でも、悪行じゃねえってことにはならねえ。怪人を退治しちゃあいるんだろうが、ただ『それだけ』だ」
シニカルというか、身も蓋もないような言い方だった。自分の身体を、わけのわからない風に改造されてしまった彼女からの意見なのだから、それが当然とも言えたが。
と言うか、自分の姿が周囲から『犬』にしか見えなくなるような肉体改造を施されて、それでも組織の善性を信じ続ける者は、なかなかいないだろう。一人もいないと言ってもまるで言い過ぎではない。
「ただ、空々ちゃん。後学のためっつーか、お前のこの先の人生のために言っておいてやると、善とか悪とかは、この際関係ねーんだよ。地球撲滅軍が、悪しき地球から人類を守るための善であろうと、そう標榜しながら道を逸脱しちまっている悪であろうと、お前はもうその中で生きていくことを選んだってことだ──じゃあ、そんなところで悩んでいても意味はねえだろ」
「別に悩んでないけど」
「そうだっけな」
在存は言う。
「だから後学のため、ここから先の人生のためだっつーの。お前がいつか悩んだときのために、俺は言ってるんだよ。悩んだときはそう思え。意味なんてねえって」
4
熱血という言葉がある。
『血が熱くなるような激しさ』みたいな意味なのだが、まあ基本的にはこれは比喩的な表現だ。『熱血漢』だからと言って、本当に血液が熱いわけではあるまい。あくまでも精神的なものなのだ。
だがここに、その表現を地でいく者がいる。地でいくというよりは、血でいく者がいる。
字義通りの『熱い血』──灼熱の血液を持つ男がいる。
左在存が肉体改造を施され、『犬』に『擬態』する体質に矯正されたように──彼は身体中の血液を一滴残らず『入れ替えられて』、その身体には触れられないほど高温の血液が流れている。
在存との違いがあるとすれば、与えられた体質が酷く攻撃的で、周囲にとって迷惑極まりないということと、彼の場合はその体質を喜んで受け入れているという点だろう。
彼の名は氷上法被。
ただしまだ、地球撲滅軍に属する前、彼は法被ではなく発破と呼ばれていた──そして今は『火達磨』と呼ばれている。
灼熱の血液を持つ軍人。
『炎血の火達磨』である。
5
「その手錠をどこかで外さなきゃね……それとも、それも、地球撲滅軍支給の、不思議アイテムだったりするの?」
「不思議アイテムとか、変なオモチャみてーな名前をつけんなよ……いや、これはただの手錠だ。拘束具だ。鍵は剣藤さんが持ってる。着替えのときだけは外してくれるからな」
「ふうん。探せば部屋のどこかにあったのかな、その鍵も……探している時間があればよかったんだけれど。でも、なんで? っていうか、そもそもどうして、どういう理由で、在存ちゃんはそんな手錠をかけられてるの? 『犬』への『擬態』と、何か関係があるのかな?」
「まあ一応、『擬態』をバレにくくするって名目だな……、犬が手を使っちゃおかしいだろって話で。だけど俺は、俺に対する嫌がらせなんじゃねーかって思ってるけど」
「嫌がらせって」
「つまり手錠を日常的につけっぱなしにすることで、自分は組織の『備品』なんだって思い知らそうとしている、とかな」
「……嫌われてるの? 在存ちゃん」
犬の生活を強制されている時点で、既に相当な嫌がらせだと思うが、その上に何かを重ねられるとなると、もうそこには理屈ではない、鬱屈した何かを感じてしまう。
「そりゃ好かれてはねーよ。俺、この通り、すれてるし。不明室の連中については悪口しか言わねーし。まーそーだな、手錠は外せるところで、外しておきたいな」
「在存ちゃん。ついでに訊いてもいいかな。これはたぶん、剣藤さんには答えられない質問だと思うんだけど」
「なんだよ。俺に答えられることなら答えてやるぜ」
「その……、僕にはきみが『犬』には見えないからわからないだけなのかもしれないけれど、それにきみに訊いても答えられないことなのかもしれないけれど、きみの『擬態』って、具体的にはどうやってるの?」
「うん? 具体的? いや、そういわれても、俺は別にやりたくてやってるわけじゃねーからな……、その質問は、『きみは爪をどうやって伸ばしているの?』って訊いてるのと大差ねーぜ」
「訊き方が悪かったかな。擬態によって矛盾が生じたとき、どういう風に『処理』されているのかが気になるって意味だよ。『そう見える』ってだけじゃあ、どこかで矛盾は起こりうるじゃない。ほら、たとえば……手錠の鍵は剣藤さんが持ってるって言ってたよね? じゃあ剣藤さんは、着替えのとき、その手錠をどういうモチベーションで『外す』のかな? ペットの犬から手錠を外すなんて機会は、普通に考えてないだろう?」
「ああ、そういう意味か……理屈じゃなくて、その辺がどういう風に処理されてんのかってことだな? まあ、具体的なシステムがどうなってるのかは、直接不明室の連中に訊くしかねーだろうが……訊いても教えてはくれねーだろうが、相手の脳に直接干渉して、その辺の矛盾を認識できねーよーにしてるって感じかな」
脳に干渉。そういうことは、怪人の擬態について、剣藤も言っていた気がする。視覚情報だけを調整しているわけではない、と。脳に幻覚を見せているのだと。
「要は見えているものと現実との矛盾に対しては、勝手に見た者のほうが対応してくれるってことだ。剣藤さんは、俺の手錠を、嵌めたり外したりしていることに、きっと気付いてねーんだよ。そんな話をお前が振っても、『何のこと?』って首を傾げるだろう。まあこの辺になると、怪人の『擬態』が同じシステムなのかどうかは確証がね──けど」
「ふうん……そうだね、実際には疑いをもたれている怪人達もいるわけだからね」
冤罪覚悟の疑いだからこそ、なんとか看破できるのかもしれないけれど……、確かに実際、淀理川美土里が怪人であることは、ゴーグルで空々が確認する以前に、ほぼ確定させていたようだし。
「じゃあ、たとえ手錠をされていなくっても、両手を使って生活していたとしても、剣藤さんにはきみが『犬』に見えるってことだよね。そもそも、二足で立ってるし」
「まあそうだな。その辺はあの人の頭の中で解決されてる。だから嫌がらせだって言ってんだよ」
「しかし、そんな嫌がらせをものともしないくらい、使いようによってはすごく便利な能力に思えるけれど、どうなの? その『擬態』って、もう汎用化されているの? つまり、軍の中で他に使える奴はいるの?」
「他にはいねえ。っつーか、俺も使えてねえよ。何かのミスで俺に『それらしきもの』が発現したってだけだ……『擬態らしきもの』なんて、変な喜劇みてーで面白くもねーがな。『犬』に擬態できたって、基本何の役にもたたねえよ。ゆえに不明室にとっちゃ俺なんざ、空々ちゃんに看破される前から失敗作だろ。失敗作から、なんとか何かを学ぼうとしているって感じなんだろうよ」
「失敗……」
そのつながりで半年前に剣藤のペットとして、在存は払い下げられたのだろうか? いや、そんなつながりはないだろうけれど、そのことが、この傍若無人な態度の少女に、剣藤を『さん付け』で呼ばしめている何かなのかもしれないと思った。
そう言えば剣藤は『境遇が似ているところがある』と言っていた。剣藤が在存を『犬』だと思っている以上、その言葉をその言葉通りに受け取るわけにはいかないが……。
「今更になるかもしれないけれど……、もし駄目だったとしても、なんとか誤魔化すしかないことだけれど、手錠で両手を拘束されている人間に僕が連行されているという点については疑われないかな?」
「あん? ああ、それについては問題ねーよ。だって基本、俺は怪人と戦うときだって、手錠を外してはもらえねーんだから。いくら嫌がらせっつっても、いざというとき戦えなくなるようなことはしねーよ」
「そうかい。それはつまり──そっちは支給されたアイテムだって言ってたよね! 、首輪の力で、戦えるってことかな?」
「ああ……、これ、『共鳴環』っつーんだけどな。戦うためのアイテムとは一概にはいえねーかもな……『破壊丸』とはまた違う。だけど、お前の『グロテスク』ともまた違う。まあ、これがなかったら、俺も逃亡しようなんて気にはならなかっただろうぜ。あいつらのミスは、天才ギャンブラーであるこの俺にこんな便利なアイテムを預けちまったことだ」
「ふうん……」
ここで、その首輪がどういう機能を持ったアイテムなのかを訊けば、それもまた、在存は教えてくれていたはずだろう。別にここに来て隠し立てする理由はない。いや、在存が空々を誘拐し、人質としてつれてきたという『設定』を遵守したいのであれば、それはむしろそうしておくべきだったのだ。首輪──『共鳴環』の機能や仕様をまるっきり知らないままに誘拐されたというのは、後ろ手の年下の少女や、あるいは『犬』に誘拐されたというのと同じくらいに説得力がなくなる。
が、それについては空々はもちろん、在存も気付かず、見落としていた。彼女にとってはその首輪は既に肉体の一部のようなものであり、それがもたらす力もまた、肉体の一部──生活の一部であり、生命の一部のようなものだったためというのがその理由であり、それを聞いてしまうと仕方がないとも言えるのだが、だが、『共鳴環』が持ち主に与える恩恵を知らなかったことが、空々を更なる窮地に陥れることになるのは確かだった。
要するに空々少年から見れば、『年下の癖にふてぶてしい、熟練の戦士』あるいは『天才ギャンブラー』に見える在存にしたって、決してミスをしないわけではないし、また、空々が今思っているほどに、頼りになる相棒でもないということだった。
組織の内部に、暗部に、そして深部に食い込んでいる分、在存は下手をすれば剣藤や牡蠣垣よりも頼れるような風格をかもし出しているが、しかしそれは同時に、現場を知らず、経験が足りないということも意味しているのだった。
だけどそのことにも空々は気付いていない。
今自分が、どれほど危険なギャンブルにつき合っているのか──つき合わされているのか、わかっていない。それも、自分にはほとんど取り分のないギャンブルに、である。
「それじゃあ最後の質問だ、在存ちゃん。これも、先に訊いておけばよかったことなんだけれど」
「なんだよ。お前、信号待ちのたびに何か訊いてくるのやめろよ。一番目ェつけられやすいときなんだから、ちゃんと大人みたいな顔して前向いてろよ」
「大人みたいな顔してって言われてもね……、いや、だから最後の質問だって。在存ちゃん、この先、どうするつもり? どこかで工具でも使ってその手錠を切って、あとは更に離れたところで……、携帯電話の電波も届かないような場所で、僕を縛った上で別れるとして……、そのあと、どうするの?」
「だから逃げるんだって」
「どこに? って意味で訊いたんだけど」
「さあね……どこにも何も、俺はお前以外の人間から見たら、ただの犬コロだからなあ。文字通りの野良犬だから、フットワークは軽いぜ」
「きみが喋ったら、その言葉はみんなに通じるの?」
「さあ。喋ったことはねーからわかんねーけど、それもそれで脳のほうで調整されちゃうんじゃねーの? こんにちはって言っても、こんにちわんって聞こえちゃうんじゃねーの?」
「……こんにちわんはないにしても……、コミュニケーションがとれるかどうかは怪しいよね。それで、逃げきれるものなの? 誰の助けも借りられないし、誰もきみのことを人間扱いしないという意味では、現状とそんなに変わらないと思うんだけど」
「くくく。なんだよなんだよ空々ちゃん。僕だけはきみのことを、人間として見てあげられるんだから、一生僕のそばにいなよ、とか、そういうプロポーズをしているのかい?」
愉快そうに言う在存。そこまで言うつもりが空々に、この空々空にあるはずもなかったのだが、しかし在存のほうからそう提案されてみると、それも悪くないんじゃないかという気もしてきた。
まだ、在存とこうして『交流』を持つようになってわずか数時間だが、この数時間は──三週間振りに外に出たこともあって──空々にとって、ある種の刺激だった。
彼のような無感動な人間には、それはあまりないことなのだが、その雰囲気に酔っているのかもしれない──このまま在存と一緒に逃亡するのも、やっぱりありなんじゃないか、と、思ってしまったりもするのだから。
単に流されやすいだけとも言えるが。
だが、とち狂ってそんな申し出をする前に、在存のほうから、
「俺のことは心配しなくていいよ。コミュニケーション云々については心配いらねえし──だから、野垂れ死に本望なんだ、俺は。一人のほうが自由だしな」
と、やんわり断るようなことを言ってくる。
そこまでのつもりがあったのかどうかはわからないが、なんとなくその言葉からは、『足手まといはいらない』と言われたような気がした。そう思うと地味に傷ついた。告白もしてないのに振られた気分だ。
「あのまま軍にい続けたら、更にお袋の無茶な実験に付き合わされて、その結果死んじまうかもしれなかったんだからな──怪人が自分のことを『人間』だと思い込んでいるように、俺も自分のことを『犬』だと思い込むようになっちまうのかもしれねえ。そんなのは御免だよ」
「…………」
「人として生きようと、犬として生きようと、本当のところ俺は、どっちでもいいんだ。ただ、俺は死ぬなら、俺として死にてえ。そういうことなんだよ」
その言葉を聞いて、空々は少し、羨ましい、と思った。
かつて野球部の先輩にそうしたように、嫉妬でそう思ったとか、彼女の態度に怒りが湧いたとかそういうことではなく──純粋に羨ましいと思った。
どっちでもいい。
そんな風に選択肢を持つ在存は、『どうでもいい』と思っている空々とは似て非なる存在なのだろうし──きっと人生観も死生観も全然違うのだろうが、それでも羨ましいと思った。
いつか将来、こんな風な『人間』になれたらいいなあと思った──憧れた。年下の少女に対して本来思うようなことではないのだが、彼は素直にそう思った。
むろん、言うまでもなく、空々のそんな願いは、たぶん叶わない──彼は彼女のような人間にはなれっこない。彼女のような犬にさえなれないだろう。
在存は憧れたくらいでなれるような境遇で育ってきたわけではないし、本人が望んで形成されてきた性格ではないし──何より空々空は、『他の誰か』みたいになるには、あまりに異質過ぎた。
その異質さに対する無自覚さもまた、異質なのだ。
彼が少なくとも、そのことに気付くまでには、彼にそれでも自覚のきっかけをくれた、そして彼を陥れた飢皿木博士との再会を待たねばならないのだが──その再会が訪れるのかどうかは、まだわからない。
彼が、雨の今夜を生き残れるかどうかにかかっている。
とはいえ、空々の願いは叶わないだろうが、しかし在存の願いは恐らく叶うことになる。それもこの直後、叶うことになる。
彼女は今から五分後。
俺として死ぬことになるのだから。
6
「ん……?」
と、先にそれに気付いたのは、意外にも空々のほうだった。いや、意外ではないのかもしれない。彼は生まれて初めて自動車を運転していて、在存にはちゃんと前を見ろと注意をされたりはしたものの、持ち前の無意味な集中力で、間違っても事故なんて起こさないよう、ちゃんとフロントガラスの向こう側やサイドミラー、バックミラーに気を配っていたのだから。
つまり、普通にクルマを運転していたら気付く程度のことだったというわけである──先に見える交差点のど真ん中に、人間が一人、立っていることくらい。
他に空々が気付くべき奇妙なことがあったとすれば、二点。
いつの間にかこの周辺を走っているクルマが、空々のものだけになっていたということ──これには、しかしまったく気付いていなかったわけではない。ただ、それを奇妙とは思わず、『道路がすいていて、運転しやすくなった』と自分に都合よく考えていた。つまり、まさかこの辺り一帯の周辺道路が封鎖されたのだという真実には思い至らなかった。その可能性にさえ思い至らなかった。
そして気付くべきもう一点は、その交差点の信号が、すべて赤信号になっていたということだ──いや、厳密に言うとそれもまた、この交差点に限らず、辺り一帯の信号機は、すべて先ほど、赤色で固定されてしまっていたのだが。
真っ赤だったのだが。
これには気付いてもよかったはずだけれどしかし空々は、普通に赤信号を見て、アクセルを緩めた。そうしているうちに、雨の向こう側の交差点中央に立っている人間が目に止まったので、更に念のため、ブレーキを踏んだのだった。
近付くにつれ、なんだか棒のような人間だと思った。
棒、それもマッチ棒のように細い。気付いたからよかったようなものの、もしも気付かず、信号も青で、撥ね飛ばしてしまっていたら、間違いなく重傷を負わせてしまっていただろう。逃亡劇の最中で人身事故など、とんでもない話だ。気付いてよかったと思った。
そんな暢気なことを思っていたら、男のほうも動いた──空々としては、至極常識的に、彼はきっと交差点を斜めに横断しようとしていて、その最中に信号が変わってしまったのだろうとか思っていたのだが、だから動いたというのなら、駆け足になって向こう側に渡るという動きを見せると思っていたのだが、そうではなかった。
彼は。
片手をピストルの形にして、こちらに向けたのだ──空々が、『嫌な予感がした』ときがあるとしたら、このときである。そう言えばあの男、どうしてこんな雨の中、傘をさしていないのだろう? あの手は、こちらに向けるべきそれではなく、傘をさすべきそれなのでは? 空々はそんなことを思った。あまりにも遅過ぎたし、しかし仮にもう少し早かったとしても、別に対応はできなかっただろう。どころか、無理にできもしない対応をしようとして、急にハンドルを切って、それで本当に事故を起こしていたかもしれない。
そうなっていたら、車内にいた二人ともそれで死んでいたかもしれないのだから──犠牲者が一人で済んだという意味では、彼の気付きが遅かったのは、彼にとってはよかった。
在存にとってはどうだったかは知らないが。
「ファイヤー・ボール・アース」
男が──『火達磨』がそう呟いたのは、雨音とエンジン音にかき消され、運転席まで届くわけもない──まだ男の顔も確認できないような位置関係だったのだ。
しかし攻撃は開始された。
放火魔とヒーローとの場外乱闘はこうしてスタートした。
7
「なっ……」
ここで慌てて、そして今更、空々はハンドルを切ろうとした──が、ハンドルの角度を、わずか数度も変えられないままに、『それ』は彼の乗る自動車を直撃した。直撃し、貫き、遥か後方へと消えていった。
それは『火の玉』だった。
『火達磨』の指から放たれたのは、ピストルの形にした指から放たれたのは、ドッジボールくらいの大きさの火の玉だった──それが弾丸のように飛来し、フロントガラスを割り、シートを貫き、リアウィンドウを溶かして、消えていった。
いや、違う、それだけではない。
その軌道の途中にあった人間を一人──焼いている。それは人間でなく犬だったかもしれないが、とにかくその頭部を焼き、ほんの一瞬で焼き、消滅させている。
消滅ではなく、正確には蒸発だが。
人間の肉体を骨ごと蒸発、焼き尽くすほどの炎が、一瞬とは言え間近を通過したのだ、すぐ横にいた空々が無事で済むはずもない。その熱波に吹き飛ばされそうになるのを、反射的にハンドルにしがみつくことで、彼は防いだ。だが、さきほど切りきれなかったハンドルを、その衝撃で図らずも切ることになってしまって、自動車は激しく蛇行することになった。
減速していたのが幸いだった、それにアスファルトが雨に濡れていたのは幸いどころではなかった。片側を焼かれて、重心の狂った車は、本来道を逸れていくはずだったのだろうが、その場で大きくスピンし、回転するようにして、交差点に立つ男のほうへと向かっていったのだ。
「おっ……あれ? 運転席を撃ったはずなんだが……?」
驚いて、『火達磨』の対応は遅れた。『ファイヤー・ボール・アース』を連射するつもりはもとよりなかったが、しかしこの、『即座に反撃に出た』ような自動車の動きは、彼にとって予想外だったのだ。
「あ──ああ。なんだよ、外車かよ。左ハンドルじゃねえかよ。助手席を撃っちまった──」
己の計算外を認識しながら、『火達磨』は転がるようにして、その自動車の体当たりを避ける。水溜りも雨も気にしない。彼はどんな風に行動しても、『水浸し』になることがないのだから。
「日本の道路走るんだったら日本車に乗って欲しいもんだよなあ──今、この不景気の中、国内企業がどれだけ苦労してると思ってんだよ。あーあ、ヒーローくんのほうを燃やすつもりだったのに、ワンコロのほうを燃やしちまった。『寸刻み』がペットロス症候群になっちまったら僕のせいかなあ、こりゃあ──」
彼はこのとき、ことの重大さには気付いていない。
不明室から詳細を聞かされていない『火達磨』は、自分が火の玉で撃ち抜いたのが、地球撲滅軍にとって不完全ながらも唯一の『擬態』成功例、貴重なる『ワンコロ』であることを知らなかった彼は、一撃で決められず残念だ、くらいのことしか思っていない。
同僚である剣藤のペットを、一応は無事に連れ帰ろうという考えがあったから狙いを運転席(実際には助手席だったが)に絞ったピンポイント・ショットを行ったのは確かだが、別に彼にとっては、クルマごと焼き尽くしたって構わなかったのだ。
それに──ここが、ことの展開にとっては『重大』なところだったが、仮に知らされていたとしても──左在存の軍内における貴重さのようなものを軍からあらかじめ知らされていたとしても、『同僚のペットだから、なるべくなら連れ帰ろう』以上の気遣いを、おそらく『火達磨』はしなかっただろう。
彼はそういう性格だった。
彼はそういう性格を買われて、懲役刑と引き換えに地球撲滅軍に引き入れられた放火魔なのである。どうしたってヒーローになんかなれない凶悪な性格ではあったが、それゆえに、アンチヒーローやダークヒーローにはなりうる。そんな男こそが『火達磨』だった。
「ったく、それもこれも、あのガキが『寸刻み』のワンコロを連れ出すからじゃねーか。寂しがり屋め。どれ、ひと言文句言ってやるかな。あんな捨て身のボディアタックをして、生きてりゃあだけどよ──」
そう言って無造作に、『火達磨』は、スピンの末に引っ繰り返って逆さになっている、半壊したクルマに大股で近付いていく。高温の炎に貫かれたのだから爆発してもおかしくなさそうなものだったが、それはなかった。ひょっとするとガソリン車ではなく電気自動車なのかもしれない。まあどちらであろうと、『火達磨』は平気で近付いていくだけなのだが──たとえ至近距離で自動車が爆発しようと、その瞬間にダイナマイト消火できる自信があっての行為だ。
ただの危険知らずではない。危険が好きなだけだ。
「……ん?」
運転席のヒーローを、あるいはヒーローの死体を引きずり出そうと彼は車内を覗き込んでみたが、そこは空席だった。運転席には誰も座っておらず、その奥に、首から上が消し飛んだ、犬の死体があった──少なくとも『火達磨』には、それは『犬の死体』に見えた。
何度か、任務中に剣藤が連れているのを見て知っていたので、模様などから、それが別の犬の死体などではないということは理解できた。入れ替わりの死体などではない。
「…………」
ゆっくり立ち上がり、そして周囲を見渡す──傘をささなくとも、水溜りに転んでも濡れることのない体質の彼ではあったが、しかしこの雨では、視界は封じられているも同然だった。
「あの一瞬で逃げたってことか……、引っ繰り返った車から、助手席の犬が焼かれたことを気にも留めず、脱出して逃亡……雨が降ってるっつーのはただのラッキーなんだろうが……ふうん。やるじゃん、空々くん」
空々空くん、と『火達磨』は呟いた。
ここで初めて、彼はヒーローの名を意識した。
そして電話を手に取る。火の玉を放ったばかりの『火達磨』の手は、まだ高温に包まれていたが、彼の携帯電話は耐熱仕様になっているので問題ない。
「やあ、僕だ──うまく逃げられちまった。悪いんだけど、封鎖時間はもうちょっと延長してくれ──中に誰も入れんなよ。動いてるもんは全部焼いちまうつもりだからさ……生かして捕らえろ? そりゃあ無理な相談って奴だな、こうなっちまうと──まあ結果的に生きてるってことはあるかもしれねーから、精々、蘇生班でも手配しておいてやれや。移植用の皮膚とかよ。あん? 懲罰もの? はは、罰なんかいくらでも受けてやるよ。火刑上等なんだ、この僕は」
そして電話相手の、喚くような声をまるで意に介さないように、電源を切る。いや、切るだけではなかった。強く握り締めることでその電話を──耐熱仕様で問題ないはずのその電話を、焼いてしまった。
「さあ、燃えてきたぜ」
8
剣藤犬个と牡蠣垣閂が欧州の小国に到着したのは、日本時間では真夜中のことだった──空港で剣藤は、時計の針を合わせる。本来なら機内で済ませておくべきことだったが、飛行機が苦手な彼女は、機内では必死で寝た振りをしていた。
もちろん、日本においてきたペット『狼ちゃん』と、それに同居人のことが心配でなかったわけではないのだが、飛行機に乗っているときは、自国のことは頭から飛んでいた。飛行機だけに。
到着はしたものの、この小国が目的地というわけではなかった……ここから更に飛行機を乗り継ぐのだ。それを思うと憂鬱だった。どうせチャーター便なのだから、一気に飛んでくれればいいのにと思うのだが、それはセキュリティ上の問題らしい。
この国に今日は一泊して、明日未明に現地へ。
帰りは直航で日本に飛べるそうだ──それが彼女にとっての救いといえば救いだったが、しかしこの旅程、飛行機の苦手な剣藤にとっては理不尽な災難だったが、空々にとっては埒外の幸運だった。
時計を合わせ終えて、入国審査をパスし(これは文字通りの『パス』だ)、それから最後に、剣藤が携帯電話の電源を入れた瞬間、いきなり着信があったのだ。
このタイミングのよさはいくらなんでもありえないから、恐らくは何度も何度も、ずっと電話をかけ続けていたのだろう。ずっと繋がらなかったのに、ずっとかけ続けていたのだろう──それでも、もしも直通コースで現地に向かっていたのなら、もうしばらくの間、電源は切りっぱなしだっただろうから、やはり幸運だったのだ。
着信相手、空々空にとっては。
「そらからくん? どうしたの……?」
緊急連絡用の電話番号。困ったことがあったら(それは主に、『狼ちゃんの世話で困ったことがあったら』という意味合いだったのだが)電話して、とは言っていたが、こんなに早く電話があるとは。思えば、電話番号自体は随分前に伝えてはいたものの、彼はずっとマンションから出ていなかったので、剣藤に電話をかける機会がなかったのだ。
「な、何かあったの……?」
近くにいる牡蠣垣の目を気にしつつ、剣藤は声を潜めて会話をする。しかし、空々の言うことはまったく要領を得ない感じだった。酷く動転していて、何を言っているのかまったくわからない。ひょっとすると、泣きじゃくっているのではないかというくらいに、普段と様子が違う。
「お、落ち着いてそらからくん……、深呼吸して。大丈夫だから。何があったのかを……今、外なの? 『狼ちゃん』は?」
質問をしてもまともな答が返ってこない。
動揺や動転なんて、絶対にしない子だと思っていたので──だからこそ、軍に引き入れられたはずなので──意外だった。あの空々少年が、何があればここまで、我を失うというのだろう?
とにかく剣藤は、冷静になるよう空々に言い続け、果たしてその効果があったのか、徐々に話が通じるようにはなってきた。変わらず支離滅裂ではあったが。
「…………!?」
そして聞いていくうちに、聞いた情報を頭の中で整理して組み直しているうちに、どうやら空々が、とんでもない状況にいることがわかってきた。剣藤が予想した『最悪』を、遥かに上回るような最悪だ。よりにもよって今彼はあの『火達磨』に標的にされているという──それも相手はどうやら、本気になってしまっているという。いや、剣藤は『火達磨』が、本気でないところを見たことがないが……。
いつだって、本気の殺気なのだ、あの男は。
二年前、剣藤の家族を焼いたときも──
「……とにかく落ち着いて」
結局、話を聞き終えても剣藤は空々に同じ台詞を言うことになってしまった。これではどうして、なんのために話を聞いたのか、わからない。
「いざというときのために精神ブロック剤、何錠か渡しといたでしょ? あれ、全部飲んでいいから、落ち着いて……。今すぐ『茶飲み話』に相談するからね。えっと、戦おうとしないで、逃げて」
グロテスクはまだ、改造から戻ってきていないはず。
ならば空々は生身で、丸腰であの『火達磨』に追われていることになる──間違っても戦おうとなんてしてはならない。一目散に逃げる以外にないのだ。
「謝ったり話し合ったりしようとしたら、絶対に駄目。そんな機会があっても、絶対に駄目だからね。もしも『火達磨』が『謝ったら許してやる』みたいなことを言ってきたとしても、絶対に謝らないで。むしろそういうときは、『さっさと殺せ』とか『ここで自分を殺しておかないと後悔するぜ』みたいなことを言って。そうすれば生き残れる確率が……、五パーセントくらいは上がるから」
そして剣藤は『火達磨』の能力を──彼の体内を流れている『炎血』のことを、簡略化して空々に説明した。混乱しているときに聞いてわかる説明ではないとも思ったが、それでも話しておかないわけにはいかなかったろう。
そして最後に剣藤は言う。
「逃げて、逃げて、逃げて、逃げる。それだけだよ。物陰に身を隠すとか、そういうことさえ無駄──相手は学校ひとつを、軽く焼いちゃうくらいの火力を持っているってことを忘れないで。物陰に隠れても、その『物』ごと、影も形も残さず焼かれちゃうから。私が帰るまで、なんとか逃げ切って。生き残りさえすれば、あとは私がなんとかしてあげるから。絶対に、私がなんとかしてあげるから。……がんばって」
おそらくは気休めにもならないであろう励ましの言葉を口にした自分を強く恥じつつも、電話を切って、剣藤は牡蠣垣に、電話の内容を報告する。報告というニュアンスをやや逸脱して、強く訴えるような、あるいは責めるような物言いになってしまったが。
「どうして『火達磨』なんかを監視役につけたの……、私の留守を誰かに任せなければいけなかったっていうのはわかるけれど、よりにもよってあいつになんて……」
「むしろ安全パイのつもりだったんですけれどね……、熱くなるとどう動くかわからないあの放火魔を、絶対にトラブルが起こらないであろうポイントに配置しておいたつもりだったのですが。空々さんも、意外な行動を取ってくれます……これはむしろ、あなたの指導力不足なのでは?」
「……彼の、逃亡と疑われるような行為については、まだ事情はわからないよ。とにかく混乱しているようだから……」
「混乱?……ほう。混乱するほどのことなのですかね、ヒーローにとって、『火達磨』を相手取ることが」
「何言ってんの、『茶飲み話』。混乱くらいするに決まってるじゃない。私も確かに意外だったけれど、でもあの子、まだ十三歳の子供なんだから」
「ふむ……ところで剣藤さん。あなたのペットはどうなったんですか?」
「え? 聞いてないけど……普通に考えて、家においていかれたんじゃないの?」
そう言えば晩ご飯はもらったのかな、そらからくんはマンションを出るとき、『狼ちゃん』にちゃんとドッグフードをあげたのかな、と、剣藤はそんなことを思った。
9
支給されていた携帯電話による剣藤との通話を終えて、
「さて」
と、空々は顔を起こす。その表情にはまったく混乱は見られない──むしろ冷え切っている。表情のことだけではなく、この状況下において空々少年のバイタルは、一時間前と、五時間前と、十時間前と、あるいは三週間前、怪人淀理川美土里の頭部を踏みつけたときと、そしてその前々日に殺されている家族の死体を見たときと、もっと言えば飢皿木博士の診断を受ける前とさえも、何ら変化はなかった。
左在存──『狼ちゃん』がどうなったのか、今どうしているのかを、もしも剣藤から訊かれては答えられない。嘘をついてもたぶんバレるだろうという前提から、空々は彼女に対し、『放火魔に追われ、殺されそうになって、動揺している演技』という奴をしたのだった。
そんな演技は──過剰な演技は、手馴れたものだった。
まあいつまでも隠しきれるものではない、というか、剣藤が帰国した瞬間にバレてしまうことではあるが、しかし『狼ちゃん』が左在存という人間であったこと、そして頭部を火の玉に吹き飛ばされて死んだことを、今伝えることは、空々にはできなかった。この緊急時に、いや、緊急時でなくとも。
フライトの旅程を聞いていなかったので、さっきの通話は駄目元でもあったのだが、しかし必要な情報は手に入った。『火達磨』という地球撲滅軍の軍人、その灼熱の血液、『炎血』──
「……と。一ヵ所に留まってちゃ駄目なんだったな。物陰に隠れていても駄目だって──」
空々は剣藤の言っていたアドバイスを思い出し、その場から移動しようとする──そのとき、見た。遠くに見た。
それこそ大空襲でも受けたかのように。
あるいは大規模なアトラクションのように、一本の巨大な火柱が天に向かって舞い上がるのを──そしてその火柱が。
空を覆う雨雲を吹き飛ばしていくのを。
見た。
「………………!」
相当な距離があるはずなのに、熱波がここまで届くようだった──当然のことながら雨がやんでいく。天には星空が広がり、少年の逃亡に際してブラインドになってくれていた、救いだった大雨がやんでいく──『火達磨』と違って、強い雨足にずぶ濡れになっていた空々の身体が、服が、あっという間に乾いてしまった。
「逃げるしかない、か……その通りだけど」
あんなの相手にどうすれば逃げ切れるんだ、という思いと──そして。
彼にはもうひとつ思いがあった。
「ヒーローならこういうとき、敵討ちをしたいとか、思うはずだよなあ……在存ちゃんの敵討ちを。果たして僕はそんな気持ちに、今からなれるんだろうか」
火の玉で撃ち抜かれ、引っ繰り返った自動車から抜け出すとき、彼はあるものを車内から持ち出していた。車内からと言うより、左在存の身体から──である。ラッキーなことに、彼女は頭部を吹き飛ばされていたので、それを抜き取るのは容易だった。
空々空が今手にしているのは、かのギャンブラーに支給されたアイテム、『共鳴環』だった。
10
失敗例か成功例かで言えば成功例だが、大失敗か大成功かで言えば大失敗──それが『火達磨』、氷上法被に対して、地球撲滅軍が与えている一定の評価である。
要するに強力過ぎるのだ。
天候を変えるほどの夥しい火力を持っているというのは、このときまで彼は、軍に対して隠していたのだが──さすがにそこまでの力を持っているのだとわかっていたら彼は半分以上、その『血』を抜かれていただろうし、穏健派の第九機動室から異動させられていただろう──そんな、自分の身の安全のためにも極秘だったはずのことを、こんなところで、子供を狩るような他愛のない戦場であっさり使ってしまうのも、いわば彼らしさだった。
そして空々は、雨のやんだ中を、水溜りさえほとんど乾いてしまった中を、全力で走りながら、まだちゃんとその顔を見てもいない『火達磨』の、そんな刹那的な性格を理解していた。
天にも届くあの火柱に息を呑みながらも、同時に、『いくらなんでも、僕一人見つけるためにそこまでする必要はない』という風に感じていて、だからこそ、ここからは『火達磨』のその性格──嗜好性が鍵になってくると理解していた。
「大丈夫……クルマで逃げているときと違って、子供が一人で逃げてるだけなら、相当見つけにくいはず。もちろんあんな火柱で、辺り一面を焼かれたら生き残れるはずもないけれど、たぶん、そういうことはしてこない……あそこまでして『空を晴らした』のは、雨をやませたのは、その人が僕を見つけたいからだ。直接、目に見えるところで手を下したいのかもしれない。その動機は、僕にはよくわからないけれど──わかる必要もない」
砂漠のように周辺は乾燥してしまったので、これは実際に呟いているわけではない──迂闊に口を開けると、喉が渇いてしょうがないのだ。逃げつつも、空々はどこかに自動販売機を求めていた。しかし駄目だ。お金を持っていない……、この状況だし、自動販売機の一台くらい、壊して中身を取り出してもいいだろうか? 万が一、それで警備会社の人が来てくれたら……、いや、その人が焼かれて終わりか。それより、警報ブザーが鳴るほうが怖い。音で居場所を特定されてしまう。
と言うか、ここはどこなのだろう?
どういう場所なのだろう?
在存に言われるがまま前を向いて、特に周囲の風景に気を配ることなく車を走らせてきたのだし、雨は上がったとは言え、時刻が真夜中であることは間違いがない。だから暗くてよくわからない。どこかに看板や地図はないだろうか? こうして走っている分には、住宅街ではないようだが……しかし建ち並んでいる建物は、会社という風でもないし、ならば工業地帯か?
携帯電話で地図を確認しようかとも思ったが、そういうマップ機能を、空々は今まで使ったことがなかった。トライすればたぶん使えなくもないだろうけれど、今、この余裕のない状態で、走ることと考えること以外に、リソースを割きたくなかった。
まずは今の状況を変えなければ……。
「って言うか……」
まずは剣藤のアドバイス通りに、闇雲に走りつつも、空々が握り締めているのは在存の首輪である。『共鳴環』──今となっては形見になってしまったこれを、何か具体的な考えがあって、空々は持ってきたわけではない。ただ、なんとなく手が伸びただけだ──強いて言うなら、やっぱり形見としてなのだろう。自動車から抜け出すとき、在存の身体全てを引き出すのは無理そうだったから、せめて首輪だけを抜き取ったという形だ。
この首輪を。
剣藤に渡そうと思った──それくらいだ。
ただ、こうして『火達磨』に追われている、追いつかれたら焼かれるという状況下に改めて直面してみると、この首輪──『共鳴環』を、なんとか現状の打破に使えないものかと、そんな欲も出てくる。立っているものは親でも使えというならば、持っているものは首輪でも使っても、誰も文句は言うまい。まして空々には、立つ親も寝る親も、もういないのだから。
ただ、そうなるとネックになるのは、首輪だけにネックになるのは、この首輪の使いかたを、空々は在存からまったく聞いていないということだった。今のところ、はっきり言って、持っていて邪魔なくらいのアイテムだった。外側に棘々がついている首輪なので、安易にポケットにも入れられないし。
いっそ在存がそうしていたように首に巻いてしまおうかとも思ったが、解いて装着するその手間も惜しかったし、苦労してまで首輪を巻きたいとも思えない。
「……手錠のほうを先に聞いちゃったからなあ。その手錠のほうは、ただの手錠だったし」
と、そんな頭の中での呟きが意外なヒントになった。手に持っているから邪魔なのであって、手首に通してしまえば、それほど走る障害にはならない。巻いたことはないが、ブレスレットみたいなものだ。手首だって首には変わりあるまい。利き腕の邪魔にならないよう、右手首に通した。クロスドミナンスな空々だが、まさかここから先、字を書いたり箸を使ったりする機会があるとも思えない。
「在存ちゃんの口調から察するに、直接的に戦闘能力を撥ね上げてくれるような何かではなさそうだったけど……それでも、軍から支給されていたアイテムである以上、何らかの機能はあるはず……」
私が戻るまで逃げ切って、みたいなことを剣藤は言っていたが、それは現実的にどうなのだろう? 可能な指示なのだろうか? まさか会議の予定をキャンセルまでして戻ってこられるはずがないので、彼女が日本に来るのは明後日──日付的にはもう明日かもしれないが──のことになる。
それまでずっと逃げ回るというのは、かなり無理がある。単純に体力が持たない。環境は恐ろしく苛酷にされてしまったし。それよりはなんとか、軍に保護を求めるというのが正しそうだ。
さすがにこれだけ走り回って誰にも出会えない、車一台猫一匹通らない、何の騒ぎにもなっていない以上、空々も気付いていた──周辺が封鎖されているのだと。
ならば一直線に走り続ければ、いずれはその封鎖ラインに突き当たり、地球撲滅軍に──あるいはその息のかかった人間に突き当たるはずである。そうなればしめたもので、事情を話して……。
「いや、駄目だ……話しても保護してもらえるとは限らないんだった。『火達磨』のやり過ぎな攻撃は、明らかに独断専行の臭いがするけれど、でも基本的には彼は地球撲滅軍側なんだから……逃亡者の僕は、保護というより拘束されてしまう公算が高い」
それはそれで命だけは助かるか?
それとも逃亡罪で『処分』されてしまうか? 『処分』されないにしても、今みたいな厚遇は望めなくなり──在存のように実験台扱いされてしまうという展開は、ありそうだ。
下手をすれば、重要な実験台であったと思われる在存が死んだことの、責任を被せられないとも限らない──剣藤は庇ってくれるみたいに言っていたが、『狼ちゃん』が死んだのが空々のせいだという図式が出来上がってしまったら、その口約束が守られるかどうかは相当怪しい。
逃亡を試みた在存に連行されたという例の言説は、彼女が焼き殺された今でも有効なのだろうか……、いや、違う。
違う、違う、違う。
あくまでも生き延びることだけを考えるのならば、その可能性にかけてみるのもなしじゃあない、むしろ正しいのだろうけれど、そうじゃない方法だってあるはずだ。
選択肢は──あるはずだ。
封鎖ラインまで走る、という、一応の指針が生まれた今、そろそろ決めなければならないだろう。さっきはただの思いつき、それに気まぐれのようなものだったが、なんとなく両立させていた選択肢から、ひとつを選べる状況に、空々は今、あるはずなのだ。
即ち、戦うか、逃げるか。
今走っているのは──戦うために走っているのか、逃げるために走っているのかを、決めるときが来た。
「封鎖ラインがどこなのかわからないのが困りどころだけれど……、普通に考えれば、逃げるほうがいいんだとは思う。少なくとも僕は、逃げたいと思っている。だけど……」
今、誰もが空々に『逃げる』ことを望んでいるはずである。剣藤はじかにそう言ったし、『茶飲み話』や地球撲滅軍にしたって、少なくともここで、空々が『火達磨』に焼き殺されることを希望しているはずがない──空々が『火達磨』から逃げることを望んでいるはずで、そしてその『火達磨』も。
さぞかし嗜虐的だろうと思われるその性格から推察するに、空々には『逃げ惑う』ことを望んでいると思われる。
ではむしろ、ここで逃げずに立ち向かうことは、かなり『意表を突ける』のではないだろうか?
『火達磨』だけでなく──地球撲滅軍の意表も、だ。
「…………」
そう思考が至ったとき、空々は足を止めた。走るのに疲れたわけではない。元々体育会系だし、この三週間、伊達に一日中部屋で運動していたわけではない。いや運動自体は伊達よりもまずい暇潰しで行っていたのかもしれないけれど、ともかく、もうしばらくは、全力で走れるだけの体力はあった。
だが、足を止めないわけにはいかなかった──気付いてしまった以上、そんな『現実』に気付いてしまった以上、足を止めないわけには。
「……そうだったな。こういうことに気付いちゃうのが、僕なわけだ……これが僕なわけだ。ああ、もう……、動揺したり恐怖に震えたりして、気付かずにいたかったなあ……」
意表を突く、どころの話では、ことはないのだ。もしもここで『狩られる側』でしかない自分が──剣藤の説明から察する限り、軍内では明らかな厄介者である『火達磨』を、逆に返り討ちにすれば──そのとき空々は、ヒーローに返り咲けるのではないだろうか。
少なくとも、逃亡の罪は帳消しになるのではないか──そう。
空々の現在に、目的のようなものが仮にあるとするならば、それは『生き延びること』ではなくて『生き残ること』なのだ。ここだけを凌げればいいわけではない。
むしろここを転機に──逃亡罪を帳消しにしておくべきだ。もしもここで『火達磨』を撃退できれば、『擬態』の実験台、在存の死亡の責任を彼一人に背負わせることもできる……かもしれない。そうなれば、剣藤との関係にしても、悪化は避けられないにしても──決定的に決裂することも、ないのかも。
「……ま、敵討ちとか、そういうのよりは現実的だな」
たった数時間とはいえ親しく話した相手が殺されたと言うのに、結局のところ『火達磨』を憎む気持ちにはまったくなれず、怒りやそれに準ずる感情も全然湧いてこなかった。そういうのを期待していたけれど、そんなことは結局、今の今に至るまで、まったくなかった。
僕はいったい、僕にどれほど、期待外れを経験させられるのだろう──と、彼はそこで、失望するだけ自分に失望してしまったので、怠った。
己の思考に対する精査を怠った──だから『どうやら僕は、剣藤さんとの関係を決裂させたくないらしい、たとえそんな、彼女に嘘をつくのと大差ないような策略を巡らせてでも決裂させたくないらしい』という、そんなあからさまな事実には気付くことはできなかった。
ただ自分は、いい生活をしたいだけの利己的な人間なんだと、そんな風に思った。自分のことをまた少し嫌いになって、それだけだった。
「じゃあせめて、在存ちゃんのように賭けてみるか……やってみようか、熱いギャンブルを。燃えるように熱いギャンブルを」
そう言って空々は足元を見る。
それに目をつけて、彼は足を止めたのである──とは言え別段、今彼の足元に変わったものが見えるというわけではない。国内の道路では非常にありふれたもの。
マンホールだった。
11
実際問題、もしも空々が、とことん逃げる、封鎖ラインまで逃げて保護を求めるという、ある種真っ当で賢明な作戦を選んでいた場合、きっと物語はここで終わっていただろう。
作戦自体は真っ当でも、それに賢明でも、しかし、その決断をした地点から直線距離で、封鎖ラインまでの距離を考えると、あのペースで走っていたなら到着まで一時間近くかかっていた。
まあなんということのない時間ではあるが、しかし『火達磨』に追われている状況を思えば、それはなんということもある時間となる──彼は刹那的で、飽きっぽく、また短気な性格でもあったのだから。
もしもその一時間、追いつかれることなく逃げおおせたとしたなら、周辺全体を焼き尽くしたりはすまいという空々の予想はその場合外れて、『火達磨』はまさしくその行動に出ていただろう──
「ああ、もういいや、めんどくせえ」
そんな台詞と共に、すべてを──最悪の場合、封鎖ラインまで含めたすべてを──焼いてしまう彼の姿を、地球撲滅軍第九機動室の人間ならば、誰もが容易に想像できる。
だから空々空の『利己的な行動』は、このとき、大袈裟に言えば町をひとつ救っていたのだが──彼自身にはそんな自覚はまったくなく、彼は今あくまでも『生き残るために』動き始めた。
まず彼がやったことは、マンホールの蓋を持ち上げるということだった。これはそんなに簡単なことではない。子供の悪戯を防止するためなのか、マンホールの蓋はそう簡単には開けられないようになっている──重さ自体も相当あるし、そもそも取っ手がない。開けるためには特殊な器具(『バールのようなもの』)が必要になるのだが、そんなものが都合よく落ちているはずもないので、近場の工場(だと思う)から、よくわからない鉄の棒を借りてきて、それで代用した(返しには行かなかったけれど)。てこの原理を使ったのだが、鉄の棒も少し曲がってしまった。
マンホールを開けて、地下道(道ではないが)を行こうというのは、まあ映画や漫画でよくみる逃走経路ではあるけれど、しかし空々にとって、これは逃走ではなく、いまや闘争だった。逃げるために、灼熱の地上から地下に避難したのではない。
これは『誘い』なのだ。
空々はあえてマンホールを元通りに直さず、開けっ放しにした上で、地下に入ったのである。逃走経路をわかりやすく示す証拠を、わざと残したのだ──これで『火達磨』は、自分を『追ってきやすく』なるはずだ。
もちろん逆の目もある。不自然なマンホールの蓋を見て、むしろ『こっちではない』と思い、『火達磨』は別方向に行ってしまうかも──まあそれならそれでいいだろう、それに、このマンホールの罠自体に気付かないほど彼が明後日の方向に行ってしまっていたとしても、それはそれでいいだろうという、言うならば雑な罠だった。
先述の通り、もしもこの仕掛けそのものに『火達磨』が気付かなかった場合は、彼は空々に『逃げ切られ』──その後やけっぱちのような放火活動に出ていただろうから、実のところこの運任せはかなり綱渡りだった。
燃えるように熱いギャンブル、というのなら、空々が冒した最も危険な賭けは、『火達磨』がきちんと、自分を追ってきているのかどうかということだったのだが──
12
「んん? なんだこりゃ。マンホールの蓋が開いてるぞ。はっはーん、さてはあのガキ、地下に逃げ込んだんだな? けっけっけ、馬鹿め、蓋を元に戻すのを忘れているぜ」
そう言って、『火達磨』は走らせていたバイクにブレーキをかけた。この機動力がまあ、大人と子供の違いと言えるだろう。空々が運転していたクルマは大破したし、その辺りのクルマを借りるにしても、在存と違い空々には、蹴りの一発や二発でエンジンをかけるような、謎の技術はない。
が、『火達磨』は、かなり当てずっぽうに、何の追跡術も使わずにでたらめに空々を追っていたので、バイクという機動力がなければ、空々どころか、このマンホールさえ見つけることはできなかっただろう。
バイクの排気音を隠そうともせず彼は高速で走っていたので、仮に空々が地上を逃げ続けていれば、その音を基準に逃げることもできたかもしれない──そしてその末路は、焼け野原だったのである。
「けっけっけ──しかし、さすがに地下の雨水路を、バイクで走るわけにはいかねーか……あー。めんどくせーなー。全部焼いちまうかなー……んー。まあいいか。追ってみよう」
一体何度目になるかわからない炎上の危機を、周辺地域はまぬがれ──『火達磨』は、マンホールの竪穴を降りる。もしもこれが、雨水路でなく下水路であったなら、彼は『もういいや』を実行していた可能性が非常に高かっただろう。一応それは、雨水路を選んだ空々の手柄ということになるのかもしれない。
「ふん、ふん、ふん──まあ、まだそう遠くには逃げてねーだろー。いや、なんとなくそう思うだけだけどっと……」
そんな根拠も何もないことを言いつつ、梯子を降りきったところで、彼は自分の勘が正しかったことを知る。確かに空々空は、そう遠くには逃げていなかった。
というかそこにいた。
マンホールの竪穴を降り切った『そこ』で、蓋を開けるのに使った鉄の棒をバットのように構えて待っていた。
「ぐあっ……」
もちろん『火達磨』とて歴戦の戦士である──『炎血』に頼ったかなり一方的な戦いばかりをしてきたとは言え、それでも戦士であることに変わりはなく、本当であれば、十三歳の子供相手に不覚を取ることなどありえない。だが、このときは、油断をしていた。いや、油断以上のものをしていた。
逃げている、というのが前提だったのだ──『火達磨』からというだけではなく、空々空は、地球撲滅軍という組織からも逃亡の最中だというのが、彼の中での前提だった。
それは彼に限らず、ほとんど誰もがそう思っていた。そうでないことを知っていたのは、今は亡き左在存だけである──誰も思うまい、空々はただ逃亡幇助をしようとしていただけで、自分はその後、マンションに戻るつもりだったなど。
だから『火達磨』にとってはあまりに想定外だった。軍に戻ったときの立場を考えて、迎撃してくる少年の心理など──その少年の振るった鉄の棒は、そのひん曲がり具合も加味されて、実にいい角度で、『火達磨』の頭部を直撃した。
戦闘態勢に入っているときの『火達磨』だったならそんな鉄棒、頭皮に触れる前に溶かして終わりだったが、生憎このときは通常の温度──それでもかなりの高温なのだが──を維持しているだけだった。
肉体強化の改造手術を施されているわけではない『火達磨』がこのとき受けた衝撃は、だから、通常の人間が鉄の棒で殴られたときと同じくらいのものである──つまり、目から火花が飛んで、ぶっ飛んだ。
この場合の火花は、ただの比喩だ。
「あ……ぐ……?」
後頭部を強打されるという──それも全力で、バッターボックスに立ったホームラン狙いのスラッガーがそうするように強打されるという、目の醒めるような憂き目に遭いながらも、まだ『火達磨』の認識は現実に追いつかない。
地上以上に真っ暗な地下で、そんなものが認識できるはずがないと、彼は言うかもしれないが──その暗闇の中で、彼の頭を強打したスラッガーは、ちゃんと見据えていた。
現実を──怪人ではない人間を強打し、打ち所が悪ければ死んでしまうという現実からさえ目をそらさないままに、スラッガーは全力でのヒッティングを貫いたのだった。
そしてそれでは終わらない。
ここで踵を返して逃げるくらいなら、最初から逃げている。
では空々少年は、つまり、ぶっ倒れた『火達磨』に、更に鉄の棒での打撃を加えるのだろうか? いや、そうではなかった。もちろんその攻撃だって、していればもちろん有効だったかもしれないが、しかし二撃目以降は最早不意討ちではない。防御もされるだろうし、破れかぶれになった『火達磨』が、あるいは反射的に、周囲を火の海にしてしまうかもしれない。地下でそんなことをされては、空々は火で溺れることになるだろう──それくらいの想像力はあった。
だからここで、空々が取った攻撃は、鉄棒による追撃ではなかった。
それを果たして、攻撃と呼べるのかどうかは見る者次第だろうが、空々にしてみれば、蜂の一刺しとも言える攻撃だった。なに、それによって自分もダメージを受けないわけではないけれども。
『初めて』だった剣藤犬个に較べればまだマシなはずだ。
そう覚悟を決めて、倒れた姿勢から身を起こそうとした『火達磨』の乾燥した唇に、空々少年は十三歳の唇を重ねたのだった。
13
「…………!?」
当然のことながら意味がわからない。もとより考えることがあまり得意ではない『火達磨』だから、こんな突発的な事態にはあまりに弱い。しかし彼にとって、混乱は逆上の前段階でしかない。
わからないことがあったり、まして不愉快なことがあったりしたら、直後に『爆発』するのが彼の性格である。このときもそうなるはずだった──少なくとも、自分に体重を寄せてくる少年の身体を、蹴飛ばすくらいのことはした。
即座に立ち上がり、蹴飛ばされ、倒れた少年の姿を見る──暗いのでよく見えないが、しかし間違いないだろう。たまたまこの地区に残っていた子供である可能性、マンホールの下で生活している謎の少年である可能性、そんな可能性などそもそも考えない。
「てめえ、なんのつも──」
「精神ブロック剤」
『火達磨』を最後まで喋らせず、空々は言った。自分が何をしたのかを──口移しで何を飲ませたのかを、セカンド・キスの相手に教えた。
「剣藤さんから、念のためにもらっていた奴なんですけどね──あなた、絶対そんなの飲んでないと思うんですけど、どうですか? 味のほうは」
「…………!? なっ……」
精神ブロック剤──第九機動室に属する者には全員支給されている。だが、空々の言う通り、『火達磨』は、そんなものを飲んだことはない。だって、かの薬品はストレスをブロックしてくれる代わりに、高ぶりもブロックしてしまうのだ。なんだかんだ言っても、要するには精神安定剤なのだから──精神安定剤?
精神安定剤。それは確かに、『火達磨』のような人間こそが飲んでしかるべきものだろう。しかしそれは、単に性格的なことだけを言うのならばだ──彼の場合、高ぶりを抑えられることは、同時に『血液の鎮火』にも繋がってしまうのだから。
「て、てめえ──僕の『炎血』のことを、剣藤から聞いていたのか……!?」
と、きつくそう問い詰めるはずの声も、普段ほどの勢いがない。
荒ぶれないのだ。
眠いわけでもないのに、寝ているときのように、心が穏やかさに包まれる──なんだこれは? 怒りたいのに、激したいのに、まるっきり、そんな気持ちが湧いてこない──!
「いや、さっき聞いたんですけれど……、ブロック剤を持っていることも、さっき思い出させてもらったところでして。まあそれを繋ぎ合わせてみただけです……」
意識のあるほとんどの時間、『滾って』いる『火達磨』は、あまり冷静になるということがない──ローテンションになることなど、ない。そんな彼だからこそ、無理矢理冷静にさせられた今、理解できる。あんな戦況において、そんなヒントとも言えないような情報を繋ぎ合わせ、即興でこんな罠と作戦を敷くなんてことが、一体どれほどの冷静さを必要とすることなのか。
息を呑む。
こちらの一瞬の隙をついて、自動車から脱出していたときもそうだったが──この少年は『取り乱す』ということがないのか? こちらは、都市のひとつくらいは余裕で焼きつくす火力を持っているというのに──
「んじゃ、改めて逃げます!」
勢いよくそう言ったかと思うと、空々少年は素早く梯子に手をかけ、地上目掛けて昇っていく。その唐突な動きを、『火達磨』はなんとなく見逃してしまう──精神の動きが、のろくなっているのだ。はっと気付いたときには、もう空々は地上に達しつつあった。
「くっ……待て……よ!」
慌ててそれを追いかける『火達磨』。
炎を放てないのならば、真上に向けて火の玉を撃ち、撃ち落とすということはできない──直接、自分が追いかけるしかない。そう思って、同じように梯子を昇る。
盛り上がっているところに興ざめするようなことを言ってしまえば、もしもこのとき、『火達磨』が火の玉──『ファイヤー・ボール・アース』を撃っていたならば、きっと狙い通りに火の玉が上がり、空々を焼いていただろう。仮に外れたとしても、間一髪逃れたとしても、『撃てる』自分を確信した『火達磨』は、我に返り、どの道直後に、何らかの形で空々を焼いていただろう。
そう、内服薬だし、血管に直接注入したわけでもないのだし、精神ブロック剤はそこまで即効性のある薬ではない。飲んだ、飲ませた直後にいきなり効果が出るような薬ではないのだ。
もちろんそれは空々もわかっていた。彼が剣藤から飲まされた高熱剤だって、効果が出たのは翌日だったではないか──だからこそ空々は、自分が飲ませたのが『何』なのか、わざわざ『火達磨』に教えたのだ。
間一髪というならあれこそ間一髪で、その前の『火達磨』の台詞を最後まで暢気に聞いていたら、それと同時に放たれていた火の玉だか火柱だかに、空々は焼かれていただろう。
その前に教えたから生じたのだ──狙い通りのプラシーボ効果が。
まさかあそこまで嵌るというのは、仕掛けた空々の予想を超えていたのだが……、精神ブロック剤も多少は効果を表しているのか、それとも『火達磨』がよっぽどシンプルな精神構造をしているのか、どちらかだろう。どちらにしても──空々のギャンブルは、これでほとんど、完成したのだった。
「くっ……くそ、この僕が、こんな──こんなことが──」
焦りながら『火達磨』は梯子を昇る。降りてきた梯子をすぐに昇るという馬鹿馬鹿しさもさることながら、彼の心に今あるのは、焦りだった。その焦りも、プラシーボ効果で抑えられてはいるのだが──だが、まったく焦らずにいることは不可能だった。
あんな子供に、十三歳の子供に出し抜かれたなんて──そんなことが軍に知れたら、自分の名声は(少なくとも彼が名声だと信じて疑わないものは)地に落ちる。どれだけ強大な『炎』を持っていようと(いや、持っていればいるほど)、新入りの子供に出し抜かれたという事実は、重く受け止められるだろう。
これまでのような好き勝手が許されなくなるのはもちろん、最悪の場合は『処分』ということも──
「こんなことが──ぐあっ!」
将来の心配に気を取られていて、気付かなかった。地上で待ち構えていた、逃げずに、宣言に反してまったく逃げずに、マンホールを出てすぐのところでかかとを構えて待っていた空々空に──そして振り下ろされた彼のグロテスキックに、気付かなかった。
変身前だが、効果はそんなに変わらない。
かかとで蹴る、上から下に。
顔面を蹴られた『火達磨』は、梯子につかまることもできず、そのまま再び地下へと消えていった──そして今度こそ空々は、マンホールの蓋を閉めたのだった。
「んん? ああ、これってひょっとして、在存ちゃんだけじゃなくって、学校のみんなの仕返しをしたってことになるのかな……ふうん。色んな本に書いてあったけど、やっぱり、それは奇麗ごとじゃなくって、真理だったんだ」
空々は、そばに停めてあったバイクを自分が運転できるかどうかを考え、まあ無理だろうから、当初の予定通り、あとは封鎖ラインを目掛けて走ろうと思いつつ、言った。
「復讐なんかしても、嬉しくもなんともないな」
それは奇麗ごとではないかもしれないが、それと同様に真理ではなく、ただの異常なのだと空々に教えてくれる人間は、生憎この場には誰もいなかった。
『犬歯』は焼け、『火達磨』は沈み。
封鎖されたこの土地で彼は一人きりだった。
14
『それから先のことはよく憶えていない』という便利な言葉で、空々少年としてはこの一連の事件からさっさと意識を切り離してしまいたかったが、しかしそれができないのも彼という人間だった。現実逃避も現実回避も、現実乖離さえもできず、どこにあるかわからない封鎖ラインまでの道程の一歩一歩を彼は不安と共に歩んだし、その後のうんざりするほどのうんざりも、うんざりするほど憶えていた。
まあそんな『うんざり』は彼の内側における出来事なので、いちいちそのすべてを──すべての浮き沈み、すべてのアップダウンを記述する必要はないとして、物語の展開上どうしても必要な最低限のことだけを順不同に述べておくことにすると、概ね彼の目的と目論見は達成されたと言っていい。
うまく行き過ぎたと言っていいくらいだ。ギャンブラーとしての生き様をまっとうし、最後は望み通りに野垂れ死んだ左在存が、もしも存命だったならばこう言っただろう──「ったく、初心者のビギナーズラックにゃあ、かなわねえよな」。
第九機動室のみならず、地球撲滅軍全体から見ても奇異な存在、かつある意味アンタッチャブルだった存在であるところの『火達磨』、氷上法被の追撃から逃れ、かつ迎撃し、そして倒してしまったというヒーローの八面六臂の『大活躍』は、他のあらゆる些事を帳消しにしてしまったのだ。
それはそもそもどうして彼が『火達磨』に追われていたのか、そんな理由がどうでもよくなるくらいの出来事だった。たとえ彼に支給されていたボディスーツ『グロテスク』があったところでおよそ勝てる相手ではないのに、空々は素手で、子供の身体能力だけで『火達磨』を撃退したのだから、尚更である。
厳密に言えば、剣藤から譲り受けていた『精神ブロック剤』を使っているのだが、そんな細かいことを言って、この『英雄譚』にケチをつけようというやからは、少なくとも表立ってはいなかった。
また、後日マンホールの地下から救出された『火達磨』が負っていたダメージが深刻で、命だけはかろうじて助かったものの、意識不明の重体状態にあり、事件について何も語れないということも、このヒーロー対アンチヒーローの決着の構図を伝説化した。
そこに関しても狙い通り、いや狙い以上だった。
仲間──つまり左在存を殺されたことに怒って、空々は敵討ちのために『火達磨』に立ち向かったということになったのだ。そんな物語が成立したのだ。それは空々がやろうとしてできなかったことなのだが、しかし、右手に巻いた彼女の首輪が、その説を後押ししてしまった。
まさか邪魔だから右手に引っかけておいただけとも言えず、空々は「ええ、まあ」くらいの、曖昧な頷きを返すことしかできなかった。もちろんそこまで、空々にとって上首尾に話が進んだのは、『火達磨』の組織内における人望のなさ、もっと言ってしまえば組織内における嫌われ者っぷりと無関係ではない。さすがにそんな説は定着しなかったが、新入りが気に入らなかった『火達磨』が、わざと空々が逃亡するように追い立てたのだというような、あまりに贔屓目に過ぎる説さえ出ていたくらいなのだから、よっぽどである。
「怪人を百匹倒すよりも、『火達磨』一人を倒すほうが人類にとっては有益だ──そう考える人が多かったということでしょうね。今回の件に関する、空々さんの不問は──」
それが室長、牡蠣垣閂が帰国後に述べた言葉であり、今回の事件の本質をよく捉えているといえた。もっとも、彼にとってはそんな『火達磨』も、手のかかる可愛い部下であったことは間違いないようで、
「しかし地球と戦う上で、有益な戦力をひとつ、失ってしまったことは確かです。天候さえ左右するものだった彼の才能を、もう我々は使うことができないでしょう。その分を埋め合わせるだけの──それ以上の働きを、私達はこれから空々さんに期待することになるのでしょうね」
と、つけ加えるのも忘れなかった。
まあ、その要求に対して頷くくらいで済むのなら、空々少年もあれだけのリスクを冒した甲斐もあったというものだった。
そして左在存──『狼ちゃん』のことだが、空々はそれについて、どうするか迷わないでもなかったが……、つまり、彼女が『犬』ではなく『人間』であることを、この際隠し通すこともできるんじゃないかということも考えなくもなかったが、ならばそうするほうが剣藤にとっての精神的不安、精神的負担は減るんじゃないかという計算ができない空々でもなかったが、しかしそこはあえて、不合理を選んだ。
確かに彼女は『俺のまま死んだ』。
ほんの数時間だけだが、檻から出て、実験から解放されて、死んだ。
下手に生け捕りにされるよりも、そのほうが彼女にとってはよかったのだろうと、それくらいのことは空々にも理解できる──『犬』として生きようと『人間』として生きようとどうでもよかったと言うのなら。
彼女が『人間』だったことを公表したって、きっとどちらでもいいと、あのギャンブラーは言うのだろうから。少なくとも『ヒーロー』なら、女の子を犬のまま死なせはしないと、空々はそんな風に考えた。
言ってしまえばそんな短絡的な考えから彼は、深く考えることなく、その事実を軍に報告したのだが、当然のことながら、それは大きな波紋を呼んだ──不明室のあまりに酷い独断専行という話になった。
実験の検証に身内を使うようなやりかたは、さすがに地球撲滅軍の中でも是認されるものではなかったようで、ここで起こった波紋、入った罅は、後々の禍根となることになる。否、禍根は既にあちこちにあって、それがこれを機会に一気に表面化したということだ。
もみ消そうとする動きも、隠蔽しようという動きも当然あったのだが、しかし第九機動室内部だけでなく、一躍軍全体のヒーローにまで祭り上げられた空々空の言葉を疑うものはいなかったし、一見無欲にも見える彼の振る舞いには、言葉以上の説得力があった。
結局真相は薮の中、うやむやな形になってはいるけれど、最終的には空々は、あまりに逸脱した実験台になっていた可哀想な少女を逃がしてやろうとしたのだ──という、如何にも『それらしい』、しかも真実に比較的近い、だけど真実とは決定的に違う英雄像を与えられることで、この事件は解決となったのだった。
まあ本当に左在存が施されていた実験、それに経過観察を『非人道的』と思っている人間が、地球撲滅軍の中にどれくらいいたのかを、空々は怪しんでいるけれど。みんな、『こういうときはそう言わなければいけない』と思って、コメントしているだけじゃないのかと考えているけれど──そんなことを言っても始まらない。
善とか悪とかじゃない。そういうことだと思う。
もっとも、すべてが完全に落ち着いたのは、後日のことだ。なんだかんだ言っても組織内の有名な戦士であったことには変わりのない『火達磨』が倒れ、再起不能になったという事件は、ほとぼりが冷めるまでにそれなりの時間を要した。
中学校が焼けたことや、総理が消費税を気まぐれに引き下げたことなんかは簡単に報道規制でき、簡単になかったことにできるのに、内部のこととなると『火消し』に時間を要するというのは、なかなか皮肉が利いている。
さしずめ、氷上法被の最後の放火、と言ったところか。
だから、事件当日の、長い長い聴取を終え、その後今更のように言われた『今日はゆっくり休んでください』という言葉に従う形で、マンションに送り届けられたときの空々の心境は、
「これからどうなるのだろう」
という不安でいっぱいだった。
いや、不安だったのは、これからというより、翌日のことだった。
自分は在存のことを聴取で喋ってしまった──それはつまり、剣藤も遠からず、『狼ちゃん』の正体を知るということだ。『狼ちゃん』が人間で、自分がその少女に、どんなことをしていたかを知るということだ。
それはやっぱり気が重かった。
仕方がないこととは言え……、右手首に引っ掛けたままのこの首輪を、自分がどんな顔をして剣藤に渡すのかを考えると、それが空々にとって、一番うんざりすることのように思えた。
まあとりあえず今日は休もう。
いずれそれは、明日のことだ──と、十七階までエレベーターで昇り、管理会社からあらかじめ借りてきた、予備のルームキーで玄関を開けた途端、
「そらからくん!」
と、彼は抱きしめられた。
わけがわからずにいると、更に強く抱きしめられる。『火達磨』の人望のなさをまだ完全には認識していない空々は、彼の敵討ちに誰かが現れ、自分を待ち伏せしていたのかとさえ思った。ああ、これが敵討ちか、僕にはできなかったんだよなあ、と、そんな風に思った。
殺されてもいいかとか。
そんな馬鹿なことを考えたところを見ると、よっぽどこのとき、彼は憔悴していたのだと思う──『火達磨』との戦いではなく、長かった事情聴取に。
だが事実は違った。空々を抱きしめているのは、まだ欧州にいるはずの、よくて精々機上の人だったはずの、剣藤犬个だった。
「け、剣藤さん……? 帰りは明日のはずじゃあ……?」
「あ、あんな電話して……すぐ帰ってくるに決まってるじゃん。し、心配したんだよ……」
ぎゅ、と抱きしめられ『ああそうか』と空々は思い出す。
そう言えば忘れていたが、剣藤には演技で、泣きじゃくる自分を聞かせたのだった──『火達磨』の情報が欲しくて。そして『狼ちゃん』のことを訊かれたくなくて。
その後のどたばたですっかり失念していたけれど、剣藤は剣藤で、その後『どたばた』してくれたらしかった──牡蠣垣に申し出て、彼を一人残し──つまり会議を『ブッチして』、単身、日本に戻ってきたそうだ。
そんなことをしても間に合うわけがなく、到着したときにはすべてはもう終わっていたそうだが──その行動は空々にとって、あまりに予想外なものだった。仮に、剣藤がそんな行動に出るかもしれないと少しでも思い当たっていたならば、きっと自分は、あのような電話を彼女にかけたりはしなかっただろう──酷い罪悪感に見舞われた反面。
あのとき、泣きじゃくって剣藤に助けを求めたのは、案外自分の本心だったのかもしれないと思った。
もちろんそんなわけがないのだが、しかし、そうだったらいいのにな──と思った。自分がもしもそんな人間だったなら、この抱擁を、自分の生還を喜んでくれる剣藤の気持ちを、正面から受け止めることができるのに。
抱きしめてくれる彼女を。
抱き返すことができるのに。
だけど空々は、自分にはそんな資格がないと思っていたので、そしてわかっていたので、両腕をだらりと下げたまま、彼女に抱きしめられるままだった。
そして嫉妬していた。これは羨ましさではなく嫉妬だった。
空々の家族を殺したという点においては、彼にとっては『火達磨』と大差ない存在であるはずの剣藤は、しかしこんな風に、自分のことではなく他人のことで、喜んだり悲しんだり心配になったり安心したりできるんだなあと思うと──嫉妬した。
空々はあのとき、精神ブロック剤を口に含んだ。『火達磨』に飲ませるために、一度は自分で含んだ──そのとき、少なからず錠剤は、空々の口腔内で溶けてしまったはずなのだ。
つまり多少は内服してしまったはずなのだが、当然、高熱剤を口移しで飲ませたときの剣藤と違って、彼は先に解毒剤など飲んでいない以上、あれから随分時間が立ち、つまり薬の効果は現れ、そして切れたはずなのだが、しかしその間一貫して、自分の精神状態にまったく変化は認められなかった。
あの薬は空々にとって意味のない薬だったのだ。
だから、嫉妬する──あれが効果のある剣藤や、あるいは『火達磨』にさえ、空々は嫉妬する。
なにがヒーローだ、と思う。
こんな風に抱きしめられても、自分は絶対、いつか剣藤から、国を跨いで助けを求められたとしても──普通に見捨てるのだろうから。
「剣藤さん……、すみません。僕は、『狼ちゃん』を──」
どう考えても、ここでするような話ではなかったが、そのまま抱擁され続けることに耐えられず、空々は一番、今は相応しくないだろうという話題に触れた。謝らずにいられないから言ったのならよかったのにと思わずにはいられなかった。だけど実際には、この話題を持ち出せば剣藤は自分を離すに違いないと思ったからだった。
「『狼ちゃん』を守ることができなくて……、いや、そもそも、あの子は──」
「いいの。全部、もう聞いてるから」
ようやく剣藤は、空々を離した。けれどそれは空々の目論見通りに、ではなかった。見れば、彼女は切なそうな顔をしていた──目が赤い。空々が事情聴取を受けている間に泣き腫らしたのだろうか? 彼女は泣けるのだろうか?
「私、『狼ちゃん』に酷いことをしていた」
「……剣藤さん」
「もう謝れないし……、どうしようもないんだけれど……、でも、そらからくん。最後にあの子を人間に戻してあげてくれて、ありがとう」
「…………」
彼女は今、精神ブロック剤を服用しているのだろうかと思った。だからそんな風に、自分にお礼を言うことができるのだろうか。いや、泣き腫らしている目を思えば、そうではないのだろう。
本心から彼女は、空々に感謝しているのだ。
「剣藤さん……この首輪。『狼ちゃん』の身体は軍が回収したらしいので、これしか残ってないんですけど……」
差し出そうとした空々を、剣藤は、
「ううん」
と押し留めた。
「いいの。それはそらからくんが持ってて。私が持っててもそれ、回収されるだけだと思うから。だけどそらからくんが持つ分には、誰もそれを返せとは言えないはず」
「…………」
「おなか減ってるでしょ? ごはん食べよう。用意してるから」
そう言って手を引かれた。三週間、彼女とは同じ部屋で生活したけれど、そう言えばこんな風に、手と手が触れるのは初めてだった気がする。なんだかそれは、抱き締められるよりも恥ずかしく、キスするよりも照れてしまう行為だった。
ああ、僕はこの人を騙して利用したんだなあと思うと、あれほど頑張って生き残ったにもかかわらず、にわかに死にたくなってしまった。
15
「あ、そうだ。そらからくん。きみにお客さんが来てるよ。私と一緒に、ずっと待っててくれたんだけど」
「お客さん?」
「うん。……疲れてるだろうから休ませてあげてって言ったんだけど、どうしても挨拶だけでもって言って……このタイミングでないと会えないから、この混乱に乗じないと話せないことがあるからって。それに久し振りだからって」
「…………?」
その言葉に不自然なものを感じる。タイミングとか、混乱に乗じるとか言うのは、まあなんとなく、聞こえのいい言葉なので聞き逃してしまうとしても……久し振り?
変な言葉だ。自分の関係者はすべて殺されているというのに、『久し振り』に会う相手なんて、いるものだろうか?
「会えばわかるって言ってたけど……何か意味ありげでさ」
剣藤もまた不審なものを感じているのか、そんないぶかしむようなことを言いながら、空々と繋いでいるのと逆の手で、リビングへのドアを開けた。
そしてリビングで、お菓子をつまんでいる人物の姿を、空々は剣藤の肩越しに捉えて、
「あ」
と、素の感情で驚いた。取調べによる疲れが吹っ飛ぶくらいの、それは驚きだった。
「……花屋」
そこに座っていたのは誰あろう、少年野球時代の先輩にして、ポジション争いをしたライバル──空々の友人、花屋瀟だった。
「よっ。おひさ」
と、軽い調子で、彼女はこちらに手をあげる。
「元気そうでなにより!」
だがそれに答えられない。どうして花屋がここに? 彼女は──空々の関係者として三週間前に殺されたはずじゃあなかったのか? まさか自力で地球撲滅軍の魔手から逃れていたのだろうか──いや、逃れたのなら、どうして正に、地球撲滅軍の拠点であるこのマンションを訪ねてきて、そこで空々を待っているのだ?
絶句している空々を、剣藤は「ふうん……本当に知り合いだったんだ。驚いたな」と言った。
「でも一応、紹介させてね。私の立場ではそうしないわけにはいかないから。こちら、地球撲滅軍第九機動室副室長花屋瀟さん……通称、『蒟蒻』だよ」