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 犬は人類最良の友である。

 ただし犬のほうは人類を友達とは思ってないかもしれない。


     1


『狼ちゃん』。

 それが『寸刻み』や『茶飲み話』、『火達磨』や『恋愛相談』、『蒟蒻』や『再開発』のような、その子のコードネームか何かなのだろうかと思ったが、しかしそうではなく、そういう名で言うなら、少女は『犬歯けんし』と言うのだとか。

 犬の歯である。

 それはつまり、剣藤『犬』个の『歯』という意味だそうだが──しかし『飼い主』である剣藤は、『犬歯』という呼び名をむしろ好まず、『狼ちゃん』と呼んでいるそうだ。なんだかややこしい。図に描いて考えないとこんがらがりそうだ。

「名前って大事だと思うんだよね……大事っていうか、肝心だと思うんだよね。『犬』って呼ぶより、『狼』って呼ぶほうが、強そうじゃない。『茶飲み話』はこういうところを切り取って、私のことを日本語が不自由って言うのかもしれないけれど……」

 剣藤はそう言った。

「……でも、『犬』を『犬』って呼ぶんじゃ、そのまんまだよね? 何の芸も、捻りもないよ」

 そう言った。

 空々は返事ができなかった。

 名前が大事で、肝心であるというのは大いにその通りだと思ったし、そしてその伝で言うなら、『人』を『狼』と呼ぶのは、確かになかなか芸があり、捻りもきいているのかもしれなかったが──しかしそれはともかく、そう語る剣藤の表情を、語り口を見る限り、彼女は正気だった。

 正気で、その少女のことを、『犬』の『狼ちゃん』だと思っているようだった──そんなものを正気と呼べるなら、だが。

『犬』の『狼ちゃん』は、首輪をし、後ろ手に手錠で拘束されたまま、まるっきりの無表情で空々を窺っていた。警戒心は強そうだが、しかし彼女が犬だというなら、かなり大人しい、しつけのできた犬ということになるのだろう。

 そう思った。

 いや、さすがに思えなかったかもしれない。


     2


「人間を斬るとき……、『この人達は「地球陣」かもしれない』って思うと、少しだけ救われた気持ちになったりする。私は任務で、そらからくんの家族みたいな、普通の人間を殺すことも割と多いんだけど……」

 さらりとそんなことを言いながら、夕ご飯の鍋をつつきながら、剣藤は言った。

「まあそれくらい怪人の『擬態』は、完全なんだよ。だから、それを区別できるそらからくんの才能は、とても貴重なの」

「……そうですか」

 剣藤によそってもらった鍋の具材を、もぐもぐと咀嚼そしゃくしつつ、しかし空々の視線は、部屋の隅でしゃがみ込む『狼ちゃん』のほうにどうしても向く──『狼ちゃん』のおすわり姿は異様な存在感をかもし出していた。

『狼ちゃん』のほうは、じっと、観察するようにこちらを見ている。

 感情が読めない、と言うよりも、向こうのほうから感情を読まれているような気持ちになってくる。ある意味、という注釈付きではあるものの、誰よりも周囲の顔色を窺うことにけてきた空々がそう思うのだから──空々でさえ『狼ちゃん』からは何の感情も読み取れないのだから、よっぽどである。あるいは彼女は、本当に何も感じていないのかもしれない。

 ただ、わかっている事実──というか、現時点でも、推理できる事実はある。

 推測できることはある、確認は取れないが。

「ねえ、剣藤さん」

「なに?」

「……あの子に、夕飯はあげないんですか?」

「え?」

 そんな風に剣藤は面食らったような反応をしてから、「ああ」と頷く。

「ああ。『狼ちゃん』の食事は、私達が食べ終わったあとで用意するよ。今は『待て』の状態だから」

「そうですか。……まるで、犬の躾ですね」

「? まあ、そりゃあ……、『狼ちゃん』と呼んではいても、本物の狼とはやっぱり違うから……確かに狼みたいに頼りがいがある子だけれど、別に、そんな風に勘違いしているわけじゃないよ。まあ狼の血を引いてればいいなって、空想することもあるけどね」

 よくわからない会話になっているが、こんな会話が、空々の推測に確信を持たせる。

 ああ、剣藤さんは本気なんだ、と。ひょっとすると正気ではないのかもしれないけれど、確実に本気なんだ──本気で、年端もいかないあの少女のことを、『犬』だと思っているんだ、と。

 なんだったか。

 アマラだったかカマラだったか、そんな名前だったか──狼少女という伝承が、海外にあったはずだ。赤ん坊の頃に森ではぐれた少女が、その後、狼を母親として育ち、育てられ、そして立派な狼として成長したところを保護されたという、一種の『物語』。

 狼少年ならぬ狼少女は、自分のことを完全に『狼』だと信じていて、保護されたのちも人間に牙を剥き続けたらしい──まあ、本当かどうかはかなり疑わしい『物語』なのだが、それにのっとった言いかたをするのならば、剣藤はこの少女を──『狼ちゃん』を、完全に『犬』だと信じているようだった。

 犬で、狼みたいな犬で、そして自分のペットなのだと。

「…………」

 勘違いや間違いでは、確かにないのだと思う。

 だが、だとすると、どこで──あるいはどこまで、彼女の中で辻褄つじつまが合っているのだろうか、と思う。

 少女は四つん這いで犬のように移動してきたわけではなかったし、それに犬のように裸でいるわけでもなかった──普通に歳相応の、少女らしい格好をしている。ペットという以上、その衣服は剣藤が用意したのだろうけれど。

「……剣藤さんは、ペットに服を着せたりするタイプの飼い主なんですか?」

 それとなく探りを入れてみたら、

「そうだよ」

 と、肯定された。空々の疑問に、何の疑問も感じていない風だ。

「脱がせたり、着させたり。犬には毛があるんだからそんなのいらないって言う人もいるけど、でも可愛いもん。『狼ちゃん』は嫌がらないし。まあ、そらからくんに『グロテスク』を着せたり脱がせたりするのとは、かなり意味合いが違うよ」

「…………」

 そんな辻褄の合わせかたか? ならば後ろ手に拘束されているのはどうだろう──犬にだってそんなことはしないと思うが。少なくともとしては、相当に犯罪的なそれだ──拘束されているという意味では、空々だって見張りつきでこのマンションに拘束されているようなものだと感じていたはずなのだが、しかし『狼ちゃん』に較べれば、自分はだいぶんマシな立場であるように思われた。『狼ちゃん』に較べれば、確かに自分は軟禁などされていない。

 改めて。

 空々は剣藤犬个という少女の異様さを思い知った気分になった。なんとなく、料理を作ってもらったり、着替えを手伝ってもらったりしているうちに──アドバイスをもらったりなんかしているうちに、その辺りが麻痺まひしてきていたが。

「そらからくんは今まで、ペット、飼ったことなかったの?」

「ええ……まあ、小さい弟がいましたから……」

 答えつつ、その弟を切り裂いたのが目の前の人物だということを忘れたわけではなかったので、語尾が曖昧になった。これでは遺族である空々のほうが、加害者の剣藤に気を遣ったような感じだが、別段、そういうつもりはない。するべきだと思ったことをしただけだ。

「ふうん」

「飼っていたら、剣藤さんが殺していたんですか?」

「うん、と思うよ。だからよかったね、いなくって」

「……剣藤さんは『狼ちゃん』をいつから飼っているんです?」

「半年前……『大いなる悲鳴』のあとからだよ。『狼ちゃん』はそのとき、軍に保護された『犬』らしいんだけど……引き取り手が誰もいないって言うから、私がね。なんとなく、この子と私、境遇に似たところがあってさ──まあ同情しちゃったっていうか、意地になっちゃったってところがあるのかな。意地っていうか、意固地っていうか。『茶飲み話』からは、『あなたなんかに動物の世話ができるのですか』って、そんなことを言われちゃったよ」

「……? ええ、はい、言いそう……ですね」

 言いそう、か?

 いや、犬なら言いそうではある、犬なら。

 つまり牡蠣垣もまた、『狼ちゃん』を『犬』だと思っているのだろうか? 地球撲滅軍の誰もが、そう思い込んでいるのだろうか? いや、どちらかと言えばそれは、今空々がしているように、剣藤に話を合わせているだけのようにも思えるけれど……。

「形としては『破壊丸』と同じく、軍からの支給品ってことになってるけど、でも私はそんな風には思ってない。アイテムなんかじゃなくって、『狼ちゃん』は私の大切な家族だよ」

「……落雁さんなんかは、どう言ってます?」

「ん? いや別に……、あの人、部署が違うから」

「そうですか……」

 他の意見も知れたらよかったのだが、思っていたより、地球撲滅軍は縦割り行政のようだった。あまりしつこく訊ねるのも怪しいかと、空々は追及の手を緩める。

 すると、剣藤のほうから、

「でも、そらからくん、よく食べられるね」

 と言ってきた。

「? そりゃあ食べますよ。剣藤さんが用意してくれた、お祝いの鍋じゃあないですか」

「そうなんだけど……、前に言わなかったっけ。私は、人を殺した日に、ものなんか食べられないって」

「でも、今日僕が殺したのは、人じゃなくて怪人でしょう?」

「怪人を斬ったときだって、私の喉を、食事は通らないよ」

「はあ。しかし、剣藤さんには人間と怪人との区別がつかないかもしれないですけれど、僕には区別がつくんですから……その違いじゃあないですか?」

「そうなのかな」

 どうなのかな、と剣藤は言った。

 どうやら剣藤は剣藤で──異様なものを見る目で、空々のことを見ているようだった。とてもお祝いの席で、祝う相手を見るような目ではなかったが、しかし案外、強力なヒーローを見る大衆の目というのは、こんなものなのかもしれなかった。

 英雄視は──異端視と同様なのだ。

 ただし、このとき、この夕食のときを、お互いがお互いを異端視し合っている時間だったとするのならば、剣藤から空々への異端視よりも、空々から剣藤への異端視のほうが、最終的には上回っただろう。

 本当に最終的には、だが。

 鍋を食べ終え、煮汁でおじやを作り、それに卵を落として食べ、『ごちそうさま』を言った後、剣藤は言っていた通り、ペットである『狼ちゃん』の食事の準備を始めたのだが、その準備は一瞬で終わったのだった。

 そりゃあ一瞬で終わる。

 皿にドッグフードを移し替え、そこに牛乳をかけるくらいのことは。


     3


 それからしばらくは、落ち着いた日々が続いた──家族を殺した剣道少女と暮らす日々に、首輪をつけた少女が新しい同居人として加わった日々を『落ち着いた』と言うならば、だが。

 空々は、自分には次々と怪人退治の任務が申し渡される展開も想定していたのだが、そういうわけでもなかったようだ──と言うか、怪人・淀理川美土里を殺した翌日、『再開発』が一人で、『グロテスク』を回収に来た。

 そして扱いの荒さに散々苦情を申し立てつつも、空々から『使い心地』をリサーチして、クレームはクレームとして受けつけて、付属品までまとめて、彼女は『グロテスク』を持って帰っていった──空々の意見を取り入れた上で、開発室が更に改造するそうだ。

 そう言えば剣藤は、実用化されていたことに驚いていたようだが、しかしまだ試作品だったのか、と思うと、背筋がぞっとする話だ。まあ空々とすれば、まずバッテリーの持ちを長くすることを、最優先で改造して欲しいものだった。

「空々くんが殺した怪人だけど、無事に死んだってさ」

 回収に際して、『再開発』がそう教えてくれた。無事に死んだというのも、かなりおかしな言いかただが、それを聞いて、空々はほっとした。

 なにせ頭部を目掛けて踏みつけたのだ、大ダメージを与えたことは確かだろうが、しかしすぐに逃げてしまったので、結果までをはっきりと確認したわけではない──中途半端な脳挫傷のうざしょうとかで不要に苦しめる結果になっておらず、本当によかった。

 と、そう思った。

 無茶苦茶なことを思っているようだが、そして実際に無茶苦茶ではあるが、彼は本当に、純粋な優しさとして、そんな風に思っているのである──今のところその優しさは、あまり健全な方向には転がりそうにないけれど。

「怪人を殺した。これできみも、私達の仲間ね」

 熱烈に歓迎する、という口調ではなかったけれど、しかし、『再開発』は一応、それが義務であり、儀式であるかのように、改まって言った

「地球撲滅軍にようこそ。一緒に地球を倒そう」

 その言葉を額面通りに受ける限り、やはりあれはイニシエーションだったのかもしれないと空々は思った。『怪人殺し』の『共犯者』になって、初めて仲間と認められるというシステムで、地球撲滅軍は成り立っている──いや、だとすると、彼が予想していたよりも相当、殺伐とした組織と言えそうだが、そんな今更感が漂う認識さえも、このときの空々にはなかった。

 逆に言えば、失われた、奪われた自分の居場所が、ついにできたのだ──なんて、そんな帰属意識のような気持ちもなかった。要するに何も感じなかった。彼には何もなかった。ただし、『グロテスク』は改造から、いつ戻ってくるのだろうくらいのことは思った──それまで、またも、自分にやることはなくなってしまうのだから。

「そうだね。それまでは身体でもきたえてたら?」

 という『再開発』の言葉は、おそらく冗談の類だったと思われるが、それを空々は真に受けて、

「じゃあすみません、筋トレグッズやなんかを、この部屋に送ってもらってもいいですか?」

 と頼んだのだった。

 その頼みはどうやら聞いてもらえたようで、後日まとめて届いたルームランナーやダンベルやらは業者によって、空々の部屋に運び込まれ、設置された。『狼ちゃん』と比べればともかくとしても、やはり『監禁されている』という意識の強い空々は、あまり外出する気にはならなかったので、それで運動をする毎日が続いた。

 なんだかアストロノーツが、筋力を落とさないように宇宙船の中で筋トレを続けるのに似ていると思った──実際は、そんなにいいものではないのだろうが。

 剣藤もまた、ほとんど外出しなかった。

 必要なときに買い物に出て、すぐに戻ってくるだけだ──彼女はあまり、運動をしている風ではない。あんな長い剣を振るうのだから、普段からの鍛錬が大切なのではないのかと、筋トレに誘ってみたこともあったのだが、やんわりと拒否された。

 やんわりと、と言うのはやんわりした言い方であり、

「絶対嫌だ。そんなことは一人でやって」

 実際は、これくらい強烈な拒絶だった。筋トレに嫌な思い出でもあるのかと思わせる態度だった。ダンベルで怪我をしたことでもあるのだろうか。むろん、無理強いするようなことではまったくなかったので、空々が剣藤を誘ったのはその一度きりである。

「剣藤さんは、仕事に出たりしないんですか?」

「私クラスに、そうそう仕事なんてないよ……しいて言うなら私の今の任務は、空々くんのお世話だから。気にしないで。ニートとかじゃないから」

「…………」

 話してみると決して言葉少なというわけではないのだが、どうにも言葉足らずで、空々には剣藤の言うことがよくわからなかった──空々の質問の仕方が悪いというのもあるのだろうが。

「まあ、『悲鳴の聞こえない私』と『怪人を見られるきみ』。私達は死なないことが、地球撲滅軍に対する一番の組織貢献なのかもしれない……だから仕事がなくても、家でごろごろしていても、そんなに気にしなくていいと思う」

 そう言われるとそんな気もしてくるが、しかし、それが組織にとってどう役に立つというのかは、よくわからない気もする。実際、『悲鳴の聞こえない私』こと剣藤犬个は、『大いなる悲鳴』を防げなかったわけだし……。

 不安はあった。

 今は地球撲滅軍は空々を『ヒーロー扱い』してくれているが……、よくわからないなりに、空々もそれを理解はしたが、しかしそれがいつまで続くのかは定かではない、という不安。剣藤のようにヒーロー失格扱いされるくらいならばまだしも──最悪の場合、『不要』あるいは『有害』扱いされ、処分されてしまうかもしれない、という不安。

 数え立ててみれば止まらなくなるほど、不安はあった。

 不安だった。

 だが、それについては手の打ちようがなかったし、空々にしてみれば、それは『明日心臓発作で死ぬかもしれない』というのと大差がない不安でもあったので、それで生活に不具合を来すというほどでもなかった。

 ただ、それこそが彼の資質であり、才能であるとはいえ、もう少し真面目に考えておくべきだったということは、この時点で明らかな事実として指摘しておかなくてはなるまい。だが、今のところ、彼のもっぱらの不安は、およそ『狼ちゃん』のほうに集約されていた──まあそれはそれで、仕方がないというか、当たり前もはなはだしいことではあった。

 なにせ他人事ではないのだ。

 同じように剣藤の保護下で生きている身としては、自分もいつかはあんな扱いを受けることになるのかもしれない、剣藤が自分のことを『犬』としか認識できなくなる日が来るのかもしれないという不安からは、どうしても自由にはなれない。

 現実を受け入れられる。どうでもいい、と思う。

 というその性格は、あくまでも結果に対してのものであり、どうやら空々少年は、継続中の現実に対しては、『どうでもいい』とは思わないらしかった。『どうにかするべきではないか』くらいのことは思えるようだった。

 剣藤はきちんと『ペット』の面倒を見ているようだし──『狼ちゃん』は、服も毎日替えてもらっているし、風呂にも毎日入れてもらっているようなので、当初危惧していたよりはまだ、『人間扱い』されているようなのだったが。

 だがドッグフードはいただけない。

 いただけないし、いただけない。

 二重の意味でいただけない。

 食事の味にはこだわらない空々ではあるが、自分が食事を終えたらあの少女はドッグフードを食べさせられるのだと思うと、どんな料理だろうと箸の進みが遅くなろうというものだった。かといって空々が食べ終わらなければ少女は何も食べられないわけであって、それは解決策のない二律背反と言えた。

『どうするべきか』を問うても、『どうしてやることもできない』という答しか出なかった──それとも言うべきなのだろうか?

「剣藤さん、剣藤さん。よく見てください。ほら、僕の指さす先にいる『狼ちゃん』をよく見るんです。二本足で立っているでしょう? 身体に毛皮はないでしょう? 人間みたいだと思いませんか? 人間みたいな形をした犬だと……、あれれ? じゃあひょっとすると、『狼ちゃん』は犬じゃなくて人間なのかもしれませんよ?」

 とか。

 さり気なく気付かせてみるべきなのだろうか──などという逡巡は、空々はしてさえいない。言いにくい、どころの話じゃない。空気が読めないゆえに空気を読むことに長けた空々には、完全に『そうだ』と信じ込んでいるらしい剣藤相手に、そんなことを言えばどんな事態が巻き起こるのか、想像するにかたくなかったからだ。

 ゆえにその件に関して、口出しできなかった。

 まあとは言え、もしも『狼ちゃん』のほうが、現状に対し露骨に苦しんでいたり、悲しんでいたり、涙ながらに訴えたりしていれば、さすがの空々も動きはしたに違いない。

 だから、彼は決して冷たい人間ではないのだ。しかし当の『狼ちゃん』と来たら、特に不満を言うこともなく──まるで首輪にも後ろ手にも何の不自由も感じていないかのように、ドッグフードを犬食いで食べているのだった。

 本当に大人しい犬のようだ。いや、ここまで大人しい犬がいるとも思えないので、『病気の犬』のようだとさえ思った──まあだとすると、『狼』と名付けた剣藤の気持ちもわかる。

 そう名付けることで、もっと活気のある犬になって欲しいという願いが込められているのだろうから──うん、本当に『狼ちゃん』が犬だったなら、気持ちもわかる。

 わんわんと、露骨に犬のように鳴くことはないけれど、しかし彼女は人の言葉も喋らない──剣藤はどうやら『犬』に対して話しかけるタイプの『飼い主』ではないようで、撫でたり膝の上に抱いたりというような可愛がりかたをするものの、言葉でのコミュニケーションを試みはしない。しかし、仮に剣藤が話しかけたとしても、たぶん、彼女は何の返事もしないだろう。

 人の言葉は発しないだろう。

 犬でなく人であるのは見た目から確かなはずなのだが、しかし外見以外の点において、彼女から、『人間らしさ』を感じるのは難しかった。

 精巧な人形と言われれば納得できる気もしなくはない。地球撲滅軍の持つ技術力なら、あのくらいの人形は作れるのではないか──まあ、どんな目的があって作ったのかがわからな過ぎるが。

 とにかく、無表情で無感情な少女である。

 無機質とも言える。

 顔を合わせていると、なんだか鏡を凝視しているような気分になり、どうにも居心地が悪くなる。自分の心を凝視されている気分になる。空々も無感情な人間だからだろうか? いや、空々は無感情なわけではない。動じないだけで、感情はある。悲しいと思っても、思うだけだというだけだ。

 しかし『狼ちゃん』は、悲しいとか、苦しいとか、そんなことを、そもそも思ってさえいないように見えた──だからこそ、彼女を見ていると、自分の感情がそのまま跳ね返ってくるような気持ちにさせられるのかもしれなかった。

 最初に会ったとき、警戒しているように見えたのも──空々のほうが、彼女を警戒していたからなのかもしれなかった。

 もっとも、食事のとき以外は『狼ちゃん』は自室──廊下の一番奥の部屋にこもっているので、顔を合わせる機会は一日に何度もないのだが。

 そう言えばこんなことも考えた。それは彼女について何のアクションも起こさない自分の後ろめたさが生み出した妄想かもしれなかったが──本当は彼女は、本当に犬であり、『狼ちゃん』が人間に見えているのはむしろ自分だけかもしれない、という妄想。

 ありえる話だ。

 人間に『擬態』する怪人が存在するのである──地球撲滅軍のことをどこまで信じていいのかはわからないけれど、少なくともゴーグルを通さないと見えない怪人がこの世に存在していることは、確かなのだ。

 ならばゴーグルを通して見れば、『狼ちゃん』は、案外犬に見えてしまうのかも──そう思い至ってしまうと、落雁が持って帰る前に、ゴーグルで彼女を見なかったことが悔やまれた。落雁が来たときには、『狼ちゃん』は部屋にこもっていたし……まあ部署が違う落雁は、かかわりを持ちたがらないかもしれないが。

 どういうニュアンスで『茶飲み話』や『再開発』は。

 彼女を『犬歯』と──犬の歯と呼んでいるのだろうか。ただ、剣藤のバディとしての、支給品としての『犬歯』なのだろうか──それを訊くのも、やはり怖い。

 まあ、およそそんな感じで。

 空々空。剣藤犬个。『狼ちゃん』。

 そのような三人──二人と一匹? ──の、益々ますます奇妙化したとしか形容のしようがない同居生活が崩れるまで、その後、三週間くらいかかったのだが、強いて言えば、空々にとって、この物語が終結するまでの間の、唯一穏やかに暮らせた時間が、この三週間なのかもしれなかった。

 そして三週間後。

 である。


     4


「そらからくん。私今日、ちょっとお仕事だから、留守番していてくれるかな」

 朝食のとき、唐突にそう言われた。とにかく色々、唐突な剣藤だ。説明が下手とか口下手とかいうより、この同居人は距離感が下手なのかもしれないと、この頃には空々は思い始めていた。

 空々は目玉焼きを食べつつ、

「仕事ですか」

 と、繰り返す。この時点で彼は、今日何が起こるのかをまったく知らない。ことの重大さをまるっきり捉えていない。彼にもう少し想像力があれば、いつかはこんな日が来ることはわかっていたはずなのに、実際は、剣藤の言葉を聞いてもまだ、ぴんと来ない。剣藤が仕事に出かけるということが、果たしてどういう状況を招くことになるのか、察せない。

『剣藤さん、仕事があってよかったなあ』くらいにしか思っていない──剣藤の仕事が、その内容がどういうものなのかわかっていても、『働くことは素晴らしいことだ』というマニュアル的感覚は抜けていないのだ。そんな感覚、一般社会の人間でさえ、現実には持っていないのに。

「いつ戻るんです?」

「ちょっと遠出……『茶飲み話』と一緒に遠出。海外まで」

「海外ですか。へえ、いいですね。僕、飛行機、乗ったことないです」

 一ヵ月近い同棲を経て、多少はこんな打ち解けた会話もできるようになってきた──家族を殺した相手とだが。

「剣藤さん、パスポート持ってるんですか?」

「持ってるわけないじゃん」

「じゃあ密航? へえ、地球撲滅軍って、そんなこともできるんですか」

「密航っていうと、悪いことみたいだから違うと答える……、チャーターの特別便だと思っておいて。心の中にフリーパスを持ってるんだよ。えっとね、ちゃんと説明しておけって言われてるんだけど……、会議だって」

「会議? わざわざ会議を外国で行うんですか?」

「うん……海外における地球撲滅軍みたいな組織と、今後の方針の打ち合わせって感じ。互いの領分の確認というか、今後の活動予定報告というか……。まあ言っても私は、『茶飲み話』のボディガードなんだけれど……」

「はあ」

 ボディガード。なるほど。確かにあんな大太刀、『破壊丸』(『破壊丸』という名前は、もう聞いていた)を持って、通常の手続きで飛行機になんて乗れるわけがないか、と思った。

「そんなわけで三日ほど戻らない。その間、一人になるけど、食べ物とか、大丈夫だよね?」

「はい、大丈夫です。ご心配なく」

 十三歳の空々は、誰がどう見ても子供なのだが、本人の中には、どこか『もう子供でない』という意識がある。子供なら当たり前に持っている感覚で、空々も持っている。わずか数日の留守番くらいで、心配されるほうが心外なくらいだ。

「料理も、カレーとか作っとくから。保存の利くもの冷蔵庫に入れておくし、順番に食べて。ラップに日付書いとく。その順番で食べてね」

「……はい」

 行き届き過ぎた、とも言える剣藤の気の回しっぷりに、危うく空々は『ありがとうございます』とお礼を言ってしまいそうになった──が、すんでのところで飲み込んだ。

 多少打ち解けようと、どうしようと。

 お礼の言葉だけは言わない。

 なんと言うか、その辺りがぎりぎりの、『家族を殺した少女』との、空々なりの距離感だった──それとも自分のような性格の人間は、いつかその距離感さえ忘れ、平気で剣藤にお礼を言うようになってしまうのだろうか?

 どうやら、空々だって。

 距離感が得意というわけではなさそうだ。

「わかりました、剣藤さん」

「うん。それで、ひとつお願いがあるんだけれど」

「はあ。なんでしょうか?」

「私が留守にしている間、『狼ちゃん』の世話をよろしく」

「…………」

 はっ、と、ここに至って、ようやく空々は気付いたのだった──そうだ、剣藤が長期間出かけるということは、つまり空々はこの部屋で、『狼ちゃん』と二人きりになるということなのだ、と。

「あ、えっと──その」

「あ、そんなに構えないで。お願い、構えないで。世話ってほど、手のかかる子じゃないから。見てて知ってると思うけど……、朝と夕方、ご飯を上げて頂戴。お風呂は……うん、そこまでは頼まない。ちょっと大変だからね。『狼ちゃん』には三日くらい、我慢してもらおう」

「……えっと、餌は……」

「餌とか言わないで。ご飯だよ」

 まるで愛犬家よろしく、気分を害したのか、剣藤は空々をたしなめるように言った。いや、本人の気分としてはよろしくというより愛犬家そのものなのだろうが、人間を犬呼ばわりしている彼女から、ご飯を餌呼ばわりしたことで怒られるというのは、どうにも釈然としないものがあった。

 ただ、反論はせず、空々は素直に謝る。謝る分には、いくらでも謝れる空々少年である。

「で、ご飯は、その……ドッグフードでいいんですよね?」

「うん。変なものは食べさせないで。おなか壊しちゃうかもしれないから」

「……たとえばですけど、僕のご飯を半分分けてあげるというのはどうですかね? その、たまには……豪勢に……」

「……あ、そっか、そらからくんはペットを飼ったことがないから、知らないんだね。あのね、人間と動物とじゃ、消化系の構造が違うから同じものを食べるってわけにはいかないの。おなか壊しちゃうで済まないこともあるの。たとえば猫とかだったら、たまねぎを食べたら死んじゃうんだよ。犬も、チョコレートや鶏肉を食べたら即死なんだ」

 曖昧というか、やや大袈裟に偏った知識を披露する剣藤。半可通もいいところだが、本人にはその自覚はなさそうだ。

 まあ大袈裟なだけで大筋、間違ってはいない。

「だから人間側のエゴで、動物にあまり色んなものを食べさせたら駄目なの。死なないにしても、糖分の多いものを食べたら虫歯になっちゃうかもしれないし」

「……はい、ごめんなさい」

 また謝らされた。それ自体は別に気にならないのだが……、しかし、犬に対する態度としては至極まともな、普段空々が見ているよりもむしろ真っ当といえる剣藤のその振る舞いには、どうしても圧倒されてしまうものがあった。

「散歩とかはしなくていいんですか?」

「うん。しないで。『狼ちゃん』は運動が嫌いだから……それに、外に連れ出して、はぐれちゃったら嫌だからね」

 この台詞はやや、愛犬家というか、病的な愛犬家っぽいきらいもあった。実際、『狼ちゃん』はこの三週間、部屋につれて来られてから、一度も外出していない──外出させてもらっていない。とは言えそれは、空々本人も同じであり、家の中で筋トレをする日々なので、そんなに気になっていないけれど。

「たとえ『狼ちゃん』が行方不明になっても、地球撲滅軍の組織力を挙げて、探したりしてもらえるとは思えないからね。『狼ちゃん』は私が守らないと」

「はあ……」

 この溺愛できあいぶり。

 もしも『狼ちゃん』がいなくなったら、剣藤はペットロス症候群にでもなるのだろうか、と空々は漠然と思った。

「本当は海外だろうと、一緒に連れて行きたいんだけどね。でも、『茶飲み話』が駄目だってさ。大事な会議だから、任務に専念してくれって」

「……そうですか」

 果たしてどうだろうか。大事な会議というのは本当だろうが、たとえその重要度が低かったところで、剣藤が『狼ちゃん』を連れて行くのを、牡蠣垣はよしとはしないのではないだろうか……もしも牡蠣垣に、『狼ちゃん』の正体が見えているのだとすれば。

 ……『正体が見えている』。

 正体。

 だが、『狼ちゃん』の正体が何なのかは、空々にはまったくわからないのである。だからどうにもできず、それについてはもやもやとした日々を送っている。

「休暇を申請したけど駄目だった。人類すべてと犬一匹、どちらのほうが大切なのですかって。そう言われちゃうとねえ」

「……その割には、剣藤さん、そんなに乗り気じゃないって風には見えませんけれど」

 気になっていたことを言う。この辺りは空気の読めない空々少年の本領発揮である。人の心の機知、あるいはアンビバレントな気持ちの両立を、察しきれない。

「何か楽しいことでもあるんですか? それとも、牡蠣垣さんと一緒にお出かけできるのが楽しみだとか……」

「……何言ってんの、きみ。馬鹿じゃないの」

 素の表情でそう返されたので、空々は普通に『ああ、自分は的外れなことを言ったんだなあ』と反省した。剣藤の言葉が照れ隠しかもしれない、なんて思わなかった。

『なんとなく嘘をつく』感覚が、彼にはまったくわからない。

「ええ。ああ。はあ。馬鹿かもしれません、すみません」

「まあでも、渡航先ではトラブルはないに越したことはないけれど、それでもこの仕事の最中のどこかで、私もいいところをみせたいね。そうでないと、立身出世コースから、私、外れっぱなしだし」

「? 剣藤さん、出世したいんですか?」

「……冗談だよ。思いついたことを言ってるだけなんだから、いちいち反応しないで。私は、地球を倒せて、人類を守れればそれでいい。人類と、そうだね、一匹の犬を守れれば」

 そう言ったところで、剣藤は朝ご飯を食べ終えた。てっきり空々は、そのまま三日分の食事を作りにかかるのかと思ったが、しかし剣藤にはその前にすることがあったようだ。

 彼女はポケットからピルケースを取り出したのだ。慣れた手際でそのケースから、白い錠剤を三錠、手のひらに落として、

「ごくん」

 と、それが食後のデザートであるかのように飲み込む。

 まるで日常的に服用している薬のような自然な飲みかただったが、しかし空々は、朝、昼、晩と、この三週間初日を除いてずっと一緒にご飯を食べていたけれど、そんな風に薬を飲む剣藤を見るのは初めてだった。

「剣藤さん。何の薬ですか?」

 それをあっさり聞いてしまうのは、ややデリカシーがないと言えそうだが、剣藤のほうは剣藤のほうで、空々のそういうものの言い方にはこの三週間で慣れたようで、特になんと言うことなく、

「精神ブロック剤だよ」

 と答えた。

 答えられても、それでは何もわからなかった。精神ブロック剤?

「なんですか、それ?」

「まあ、たぶん今回の任務で人を斬ることはないと思うけれど……、斬るとしたら確実に人だしね。念のためだよ」

「?」

「要するにストレスに鈍くなるお薬。PTSDの予防とかで、戦時中によく使われるらしいけれど、まあそれのマイナーチェンジ版。感情が乱れなくなる薬っていうか……。あんまり飲み過ぎると、ストレスどころか腕が鈍るんだけどね……そらからくんの家族を殺したときも、私、これを飲んでたんだよ」

「…………」

 ふうん、と思った。

 怪人を斬るときも、剣藤はその薬を飲むのだろうか──だとすると、淀理川美土里を蹴り殺した後も、特にストレスを感じることなく生活している自分のことを剣藤はどう見ているのだろうかと、そんなことが気になった。

「僕にもわけてもらっていいですか?」

 だからそんなことを言った。別に欲しいとは思わなかったけれど、そういう薬を必要としている振りをした。看破されたかもしれないけれど、それでも言わずにはいられなかった。

 ただ、そんなに『どう見られているのか』が気になるのだったら──部屋の逆方向から自分をじっと見ている、『狼ちゃん』の視線にも、彼は気付くべきだったかもしれない。

 そう。

『狼ちゃん』──『犬歯』はこのとき、剣藤犬个と空々空の会話を黙って、耳をそばだてて、一言一句逃さずに、脇で聞いていたのである。

 剣藤が留守にする。

 彼女はそんな機会を待っていたのだ。犬のように。


     5


 巨大な鍋に大量のカレーを作って、その他、色々保存の利く食事を作って、それを小分けにして、剣藤が海外へと出かける準備を終えるまでには、結局昼過ぎまでかかった。

 途中で剣藤は牡蠣垣に電話をかけて、遅れそうだから先に『空港』へ向かってて、という旨の連絡をしていた。どうやら彼女は留守中の空々の食事を作るために遅刻することになったらしかった。それが彼女の仕事とは言え、空々はなんだか申し訳ないような気持ちになった。どれほど申し訳ない気持ちになっても、家事のできない空々には黙って見ているしかなかったのだが。せめて頑張れ、急げ剣藤さんと思いながら見ていた。何の役にも立たない。

「掃除とか洗濯とかも、しなくていいから。帰ってきたら私がまとめてやるからね。ああ、食器を洗うくらいは、できたら……、ううん、無理だったら、せめて水に浸けといて。電話があったら、一応出てね、でも、わかんないことはわかんないって言っておいて。かけてくるような人は、私が留守だって知ってるはずだから、たぶん、ないとは思うけれど。じゃ、そらからくん、行ってきます」

 竹刀袋に入った『破壊丸』を持って、剣道着姿で慌ただしく出て行く彼女を、

「行ってらっしゃい、剣藤さん」

 と見送って、そして空々は、

「さて」

 と思う。

 これから三日間、どう暮らしたものか──いや、そもそも『どう暮らしたものか』というのは、空々が毎日考えていることでもある。とにかく、『学校に行かなくていい』『部活に行かなくていい』というのは、すさまじく暇なのだ。時間を持て余す。

 他にすることもないので、筋トレに夢中になるだけ。あとはまあ、本を読んだりだが、最初に備え付けで用意されていた本はあらかた読んでしまったし、どうも空々は本屋に行って自分の目で選ばないと、積極的に本を読む気にはなれない人間のようだった。

 そう言う意味では、この『剣藤の出張』は、空々にとって、久し振りの目新しい刺激となったわけだが──退屈な毎日に与えられた刺激というには、やや強烈な出来事がこれから彼の身を襲うのである。

 そんな現実にも、彼は対応できるだろうか?

 できなければ死ぬだけだし、ひょっとするとそのほうが彼にとっては幸福なのかもしれなかったが。

 ことが起こるのは、更に時間が経過して、夕方。

 空々が、まずは留守番中の一食目として、剣藤が遅刻してまで作ってくれたカレーライスを食べ終えたあとのことである。と言っても、今日はいつも以上に食事に時間がかかってしまった空々だった──そりゃそうだ、食べ終わったら、続けて、『狼ちゃん』に餌──もとい、ご飯をあげなければならないのだから。

 空々の手で、だ。

 いつもならば、食事の時間になれば『狼ちゃん』は、剣藤によって部屋から連れられてきて、空々と剣藤、二人の食事の様子をそばでおすわりをして見ているのだが、今日は連れてくる剣藤がいなかったので、まだ部屋にいる。

 連れてくるのを忘れていたわけではない。

 ただ、思い出したくなかったのだ。

 剣藤が『狼ちゃん』に、牛乳をかけたドッグフードをあげているのを見て、それはそれは言いようのない気持ちにさせられたものだが、しかしそれを更に自分がやるとなると、まるっきり違う味わいが生じる。

 というか、有体に言って、やりたくない。

 怪人を殺すことに関してはほとんど抵抗がなかった空々だが──これはなんだか、それとは違う気がした。たぶんそれは、この場合は容易に、空々は他の選択肢を見つけられるからだろう。

 右が嫌なら左を選べばいいように。

 ドッグフードをあげるのが嫌なら『狼ちゃん』にもカレーを食べさせてやればいいのだ──簡単なことだ。今まではキッチンは剣藤が完全に管理していたから、彼女の目を盗んで『狼ちゃん』にドッグフード以外のものを食べさせるなんてことはできなかったが、留守番中の空々はそれができるのである。

 条件は揃っているのだ。剣藤がいなくて、そして作り置きの食事がある。

 犬に人間の食事を食べさせたら駄目だというような話を、空々もまったく知らなかったわけではないのだが、少なくとも空々から見る限りにおいて、『狼ちゃん』は確実に人間である──むしろドッグフードを食べているほうがよっぽど腹を壊しそうだ。

 栄養も足りなくなるに決まっている。

 牛乳はそこまで万能じゃないと思う。

 となるとあとは覚悟の問題だった──この三日間、『狼ちゃん』に空々の食事を分け与えたとして、そうすると途中で冷蔵庫内の食事が足りなくなることははっきりしている。

 剣藤はたっぷりと料理を作っていってくれたが、逆に言えばそれは、余分な食材はこの家から消えてなくなったということだ。まあ仮にあったとしても、空々には料理の腕はない。そこで無理に頑張っても、ドッグフードみたいなものしかできないかもしれない。

 となると最後の一日は、空々は何も食べられないかもしれない……水を飲んで過ごすことになるかもしれない。

「…………」

 まあ、それは別にいいか。

 と、空々は思った。

『狼ちゃん』の最後の一日については、ドッグフードのストックがあるから、絶食を強いることにはなるまい──食事のレベルが一日早く通常に戻るだけだ。なんならそのときは、自分もドッグフードを食べればいいだろう。

 この辺りの思考。

 途中まではまともな思考だったはずなのに、最後の最後で、『普通の料理がなくなれば、「狼ちゃん」、それに自分さえも、ドッグフードを食べることもやむなし』とできてしまうこの辺りの思考が、空々空の空々空たる所以だった。

 自ら外に買い物に行こうという発想は、既に彼から失われている。

 失われているというか、奪われている。

 外界と切り離された彼にとって、もう外の世界は、ファンタジーにも似たものになってしまっていた──だがあらかじめ予告しておくと、このあと、空々はそのファンタジーの世界に、彼は三週間振りに、出かけることになるのだった。


     6


 卒業式で泣いている振りをした。頑張って泣いて、成功したと思った。

 テストで百点満点を取って喜んでいる振りをした。嬉しいはずだと思い込んだ。

 友達がいじめられていることにいきどおった振りをした。確かに怒っていたはずなのだ。

 サヨナラホームランを打ってガッツポーズの振りをした。腕のあげかたが不自然じゃないか、ずっと気になっていた。

 担任の先生に反抗的な振りをした。先生に悪いという気持ちを努力の末になんとか塗りつぶした。

 今、小学生の頃を思い出してみると、思いつくのはそんな『振り』ばかりだった──空々空という実体が、まるで見えてこない。いったい自分はどんな小学生だったのだろうと思う。

 まるで空っぽだ。

 そういう意味では名前通りのわかりやすい小学生と言うこともできるが、だとすれば、さすがにうんざりもする。空っぽだった小学生が今は透明人間になって怪人と戦っているのだから──いや透明人間は、そりゃあ実体はあるのかもしれないけれど、見えないのでは器がない分、空っぽよりも酷いかもしれない。

 まして器もなくて空っぽでは、いないのも同じだ。

 と、そのようなことを考えたのは、自分は『狼ちゃん』くらいの年頃のとき、どんな子供だっただろうと思ったからなのだけれど、これは思いのほか不快な結論が出てしまった。

 まあ、あんなに無機質な彼女の気持ちなどどうせ考えてもわかりっこないだろうと、空々はカレーを器によそい、そしてスプーンを用意する。ずっと犬食いの姿勢しか見ていないので、彼女がスプーンを使えるのかどうかなんてわからないけれど……いや、そもそも後ろ手に手錠で拘束されているのだから、たとえ使えたとしても、か。

 あの手錠の鍵を外してやることは……。

 さすがにできないか。

 食器洗いの作法など空々は知らないが(剣藤もしなくていいと言っていたが)、しかしこの皿は洗って、食器棚にしまっておかざるを得ないだろうなあと思う。でないと、皿の数や積み重なりかたの矛盾から、自分が『狼ちゃん』に、ドッグフード以外の食べ物を与えたことが、剣藤にバレてしまうかもしれない。

 あれだけ厳しく禁じられたのだ。その禁を破れば、激しく叱責されること請け合いだろう──この場合、問題なのは叱責されることそのものではなく、その相手が真剣の持ち主であるということである。

 決して命をかけてまで、空々は『狼ちゃん』にカレーを食べさせてあげたいわけではないのだ──同情心というよりは、いたたまれなくて見てられないという気持ちのほうが理由としては強い。

 少なくとも、空々少年自身の認識としては、『こんなことをしたくらいで、自分をいい奴だと思わないように気をつけなくちゃ』という感覚なのだった──善行を施すことで、逆に自己をいましめてしまうのが、彼という人間なのだった。

 まったく。

 彼のような人間は、一体どうすれば救われるのだろう?

 ともあれ、空々は、普段剣藤がそうしているように、トレイの上にカレー皿とスプーンを載せて、それを片手で持ちつつ(真似事にしてはうまくできている)、『狼ちゃん』の個室をノックした。

 当然のように返事はない。当たり前だ、ここで返事があったほうがびっくりするだろう。以前、剣藤の部屋でノックに返事がなかったとき、勝手に入ってとんだハプニングに遭遇したものだが──実のところ空々は、そのときのことをまだ引き摺っていて、以来剣藤の部屋には近付いてさえいなかった──ましてその奥にある『狼ちゃん』の部屋を訪ねるのは、これが初めてのことである──この場合、中で『狼ちゃん』が着替えの最中ということはないだろう。ないと思う。

 それでも念のため、どういうパターンが想定できるものなのか想定不可能だが念のために、

「ご飯を持ってきたから、今から一分後に入るよ、『狼ちゃん』。何か見られたくないことをしているんだったら、今のうちに片付けておいてね」

 と言った。

 そして頭の中で、律儀にカウントダウンを開始する。六十秒を、できるだけゆっくり数えたのは、相手のためというよりはむしろ自分のためだったかもしれない。

 トラウマの根は深いのだった。あんな思いは二度としたくない。

「……五十六、五十七、五十八、五十九、六十。六十秒」

 最後の十秒だけは、声に出してカウントした。なんだか、犯罪者が立てこもる部屋に突入する特殊部隊みたいだと思うと、少し愉快な気分になった。まあ、カレーを持って突入する特殊部隊も、なかなか見当たらないだろうが。

 念には念ということで、改めてノックをして、

「じゃあ、入るよ」

 と、空々はドアノブを握り、内側へと押し開けた。すると。


     7


 おりだった。鉄の檻だ。

 犬猫用の言いかたをするのならば、それは、ケージというのだろう──備え付けの家具以外は何もないがらんとした部屋の中央に、2メートル×2メートル×2メートルくらいの大きさの、鉄製の檻が設置されていて、『狼ちゃん』はその中にいた。

 マットの敷かれた檻の中で、胡坐あぐらをかいていた。

 話は逸れるが、この胡坐というのが、空々にはよくわからない。空々にはどう見ても楽な座りかたには思えないのだ──むしろ足がこんがらがって、筋を痛めそうに見える。同じく理解に苦しむのは、椅子に座るときに足を組む行為だ。あれは一体どういう意味があるのだろう? 偉そうに見えるだけで、なんら座りやすいようには見えない。偉そうに振る舞いたい人間があの座りかたをするのだろうか? そう思うと納得できなくはない。自分を大きく見せたいだけなのかも。胡坐もまた同じなのかもしれない、と思った。獲物を襲うときに、直立して自分の姿を大きく見せようとする熊みたいなものだ。

 で、ご安心召されよ、実のところ話は逸れていない。

 部屋の中に更に檻があり、その中で監禁されていて、当然のように、そんな檻にいながら、首輪も外されておららず、後ろ手に縛られたままという彼女は──『狼ちゃん』は、しかし唯一自由になる足で、普段みせている『お座り』ではなく胡坐をかき、つまりは堂々と『偉そうに』座り、そしてドアから入ってきた空々を見据えていたのである。

 真っ直ぐに見据えていたのである。

 そこには、なかった。

 なんというか、犬扱いされて可哀想な空気とか、不遇な環境に身をやつしている哀れさとか──空々が勝手に感じ取っていたそういう気配が一切合切なかった。

 それはたぶん、ポーズもさることながら、表情に由来するところも大きいだろう。胡坐をかいた、そのポーズ。今朝までの、まるで人形のような、そしてまるで死んでいるような無表情だった『狼ちゃん』は今、それこそ犬のような──野生の犬のような、あるいは呼び名の通り『狼のような』表情で、空々を見つめていたのである。

 べろり、と。

 空々に向けて舌なめずりさえした。

 いやそれは、空々にではなく、空々が片手に持っている、カレーライスに向けてしたのかもしれなかったが。

「…………」

 何も言えず、部屋に一歩、足を踏み入れることもできず、その表情にたじろぐ空々。どんな人間でも、表情が違えば別人に見えることはある──が、しかし、この場合は極端だった。

 なんだか、死んだ人間が生き返ったみたいな、そんな生き生きとした表情で、『狼ちゃん』は空々を見ていた。自分が開けたのが、果たして部屋のドアなのか、魔界の扉なのか、一瞬、空々にはわからなくなった。

「これは、賭けだった」

 と。

 空々の受けた衝撃を、更に後押しするように──『狼ちゃん』は喋った。

 初めて喋った。

 年齢相応の可愛らしい、鈴を転がすような声だった──しかしその鈴の響きは、驚くほど鋭かった。剣藤の、なんというか一種螺子の抜けたような緩い喋り方とは対極だ。

 犬は飼い主に似るというが、それは嘘らしいと思った。

「ま、負けたら次の機会を待つだけのゆっるい賭けだがな──こちとら犬コロだ、『待て』をするのは慣れている。この場合の『賭け』とは、『お前さんが俺にどんな食べ物を持ってくるか』、だった。剣藤さんに言われるがままに、ドッグフードを持ってくるようだったら、俺は諦めただろう。お前は完全に地球撲滅軍に取り込まれていると判断して、従順な犬の振りを続けただろう。だが、お前はカレーライスを持ってきた。このザマな俺を、馬鹿馬鹿しくも人間扱いしようってわけだ──いいぜ、ここから先は、本当の賭けだ。俺はお前に賭けよう。お前を俺のヒーローにしてやる。命と人生をベットする、ギャンブルだ」

 急に饒舌になって、『狼ちゃん』は言う。いきなりまくし立てられたので、空々には、彼女が何を言ったのか、どんなことを言ったのか、全然わからなかった。かろうじて聞き取れたのは、そして理解できたのは、たった、ひと言だ。

 お前を俺のヒーローにしてやる。

 いや、やはり理解できていない、それだけ、聞き取れただけだ。どういう意味なのかはまるでわからない。『グロテスク』のことを言っているのだろうか? あれならまだ、『再開発』に持って帰られたまま、戻ってきていないけれど。

「とりあずよお、空々くん」

 と、『狼ちゃん』は笑った。この子は笑うこともできるのかと思った。

「気が利かねーんじゃねえのかな……、カレーだけ持ってきてどうすんだ。喉が焼けちまうぜ。飲み物、飲み物、飲み物だよ」

「え、あ……ああ、うん。えっと……」

 慌てて対応する。初めての会話。ここのところ機会がなかった、年下の子供との会話の方法を思い出す。自分は弟達とはどんな会話をしていただろう? あるいはそう、少年野球をやっていたとき、監督に頼まれて、下級生に指導をしたことがあったはずだ。あのときのことを思い出そう。さっき、小学生のときの頃を思い出して嫌な気分になったところだが、もう一度だ。ただ、そのときのことなど思い出しても、この場では何の役にも立たないだろうことも、わかっていた。

「み、水でいいかな? お茶を今から沸かすと時間がかかるんだけど……ああ、でもそっちのほうがいいなら……すぐに」

 家事ができないと言っても、お茶を沸かすくらいのことはかろうじてできる。本当にかろうじて。しかし、『狼ちゃん』は、水にもお茶にも、首を振った。悠然と、まるで大物のように首を振った。

「……? じゃあ、何を所望なんだい?」

「牛乳がいい」

 と、『狼ちゃん』は言った。

「ドッグフードはゲロマズだが、あの牛乳はおいしいんだ」


     8


 うっかり、空々は牛乳をコップで用意してしまった。いや、うっかりではなく、慎重に、ちゃんと選んでコップにしたつもりだったのだが、またも彼は、『狼ちゃん』が後ろ手に拘束されているということを失念していた。手が使えないとなると、コップやグラスは、途端、ものを飲むのには適さないただのつつと化す。

 もう一度キッチンに戻る気にもなれなかったので、食事中、『狼ちゃん』が牛乳を飲みたいというときには、空々がコップを持って、傾けて、飲ませてやる形になった。

 カレーは例によっての犬食いである。

 なんだかそういう風な姿勢で食べていると、ドッグフードもカレーライスも大して変わらないような気がしたけれど、しかし、『狼ちゃん』は、がっつくように食べていた。

「うまい、うまい、うまい、うまい! あー! いいねえ! 人間らしい食い物はどれだけ振りだっつーの! 米食わなきゃ生きてけねーよな、やっぱ!」

 おかわりを要求しかねない勢いだと思ったが、しかし皿をめ回した後で、これまでの食生活を思えばある意味当然とも言えるそんな要求を、『狼ちゃん』は言い出すことなく、

「ごちそうさまー」

 と食事を終えた。

 そう言えば、空腹だろうに『いただきます』もちゃんと言っていたし、喋り始めてみれば言葉こそ乱雑だが、根底の部分で彼女は、意外とちゃんとしているのかもしれない、と思った。それを『躾けられている』というと、またこれは犬のようだが。

 ちなみに彼女はケージから既に出てきていた。

 その檻はとても頑丈そうで、とても頑強そうに見えはしたものの──重罪人を移送するときにでも使いそうな代物だったものの、しかし扉の部分の鍵はいわゆる落とし錠で、手が使えれば内側からでも開けられるようなものだった。むろん、後ろ手に拘束されている『狼ちゃん』にはそれは不可能なので、今開け、外に出してあげたのは、空々なのだが。首輪に繋がっているリードは、ケージに縛られたままだ。

 これもほどいてやるべきなのかと思ったが、今のところは思っただけで、ほどいていない。どうするのが正しいのかわからないときは、動かないのが空々である。

 ドッグフードではなくカレーライスを用意したのは。

 それが正しいと信じたからだ。

 ……もっとも、結果正しかったかどうかはわからない──確かなのは、その行為は『狼ちゃん』にとっては賭けの対象で、そして彼女が賭けに勝ったということ、現時点ではそれだけである。

 食器を片付けるよりも先に、空々は『狼ちゃん』の話を聞くことにした。こうして後回しにすることでシンクに食器がたまっていくことを、若き彼は知らない。

「えっと、『狼ちゃん』でいいのかな」

「…………」

 その問いかけに、唇の周りをべろりとなめながら、彼女は思案顔をした──そして言った。

「まあ、ここでは本名を名乗っておくか」

「本名……?」

「『犬歯』って名前も、それなりに気に入っているんだが、それにしたって剣藤さんありきの名前だからな──今となっては誰も呼ばない名前だが、お前にはそれを名乗ってみるのも面白いだろう」

 そして彼女は名乗った。

 発音がよかったのか、上の名前も下の名前もあまり聞きつけないものだったが、漢字は一発でわかった。

ひだり在存ざいぞんだ」

「……えっと、僕は」

「知ってるよ、空々空だろ? なんとなく似てるよな、俺の名前と、お前の名前。字面だけだがよ。しかしそれが、俺がお前に賭けてみようと思った理由でもあるんだ。ギャンブラーってのはげんをかつぐんだよ──なあ、空々くん」

『狼ちゃん』。

 左在存はにやりと笑って申し出るのだった。空々にギャンブルを申し込むのだった。

「俺と一緒に、逃げねえか?」


     9


 ごくり、と息を呑んだ。リアクションに戸惑ったのだ──一瞬で、空々は様々なことを考えた。その申し出の意味を。逃げる? 一緒に逃げる? どういう意味だ? いや、『逃げる』の意味は『逃げる』しかないだろう。そこに比喩の入り込む余地はない。

 咄嗟に『罠かもしれない』と思った。

 こんな甘い誘いをかけることで、彼女は空々の、組織に対する忠誠心を測っているのかもしれないと思った──だが、それを試すにはあまりに早過ぎるのではないだろうか?

 空々は、まだ地球撲滅軍のすべてを信じられるような段階にはない──現時点では、向こうが一方的に、空々から『資質』を見出しているだけなのだ。こんなときに誘惑という罠を仕掛けたら、大抵の人間は乗ってしまうに決まっている。それをもって裏切行為とするのは、組織としてあまりにも狭量過ぎるのではないか。

 とすると、逆説的にこの『誘い』は本物だ。本物なのだろうと推測できる。もちろん、確証まではないが──それに、イエスにしてもノーにしても、ノータイムで返答を返せるような『誘い』ではないが。

「逃げるって……どこにだい?」

 だから空々は、返事を棚上げにしたまま、話を先に進める──十三歳の子供にしては、そこそこの話術だった。対する在存もまた、

「くくく」

 と、余裕のある笑みを見せるのだから、年齢離れしている。

 もっとも、在存が一体何歳なのか、本当にこの少女は自分よりも年下なのかどうか、空々には怪しく思えてきた。酷く、豊富な人生経験を積んできているような、そんな貫禄を感じるのだ。人生経験なのか、犬としての経験なのか、知らないが。

「用心深いね、空々くん──まあ、それでこそ、お前を相棒に選ぶ意味があるんだ。だが、慎重に慎重を期すのは構わないんだが、ひとつ、最初に理解しておいて欲しいことがある」

「……なにかな」

「この時点で俺は既に相当のリスクを冒しているということだよ──お前がこのあと、剣藤さんなり誰なりに連絡して、俺がお前を誘ったことをチクれば、俺はその時点で処分が決定する。たぶん殺されるだろう」

「ころっ……」

 反射的に復唱しそうになって、空々は踏みとどまった。別に復唱したからどうなったというわけでもないのだろうが、しかし、そんな認識がまったくなかったのは確かだった。

「まあ、別にそうなったらそうなったで、いさぎよく受け入れるだけなんだけどな……、俺はギャンブルに負けた、それだけだ。お前に賭けた俺が間抜けだったってだけの話だ。チャンスを待ちきれず、焦っちまったってことだぜ」

「……きみも、僕をヒーロー扱いするんだね? 在存ちゃん」

『狼ちゃん』とは言わず、空々は相手の名前を呼ぶ。名乗られた以上、そう呼ぶのが礼儀だと思った。誰も呼ばない名前だというのなら、空々が呼んでやればいい。

「僕にヒーローであることを、期待するんだね。でも……、駄目だと思うよ。タイミングが悪いと思う。『グロテスク』はまだ、戻ってきてないんだし──」

「『グロテスク』? ああ、初日に着ていたあの気持ち悪い衣装か……、いいよ、あんなもんなくっても。言われるまで忘れてたぜ。重要なのはアイテムじゃねえ。ヒーローがヒーローたりうる条件は、ひとつしかねーだろ」

「ひとつ? なに、それ……」

「魂だよ」

 あっさりと言った。それが千年前から決まっている答のように。

「どうも俺には、その魂って奴が欠けていたらしいがな──剣藤さんにも、それがなかった。お前にあってくれたらありがたいと思って声をかけたが、この際だ、別になくても構わん」

「…………」

 どっちなんだ、と思う。

「そして勘違いして欲しくないのは、俺は別にお前に一方的に助けを求めているわけじゃないってことだ──あくまで、一緒に逃げようと誘っているだけだ。地球撲滅軍がお前の家族を皆殺しにしつつも、土下座してまでお前に助けを求めたのとは違う──俺はお前と同盟を結びたいんだ」

 助け合いたいんだよ、と、在存は言うのだった。なぜ牡蠣垣が、それに剣藤が空々に、『土下座してまで助けを求めた』ことを、この少女は知っているのだろうか?

 剣藤が話したのか──違う、剣藤は『ペット』に話しかけるタイプの『飼い主』ではなかった。ではどうやって、そんな情報を──と、考えかけて、考えるまでもない回答に思い至る。

 直接在存には話していなくとも、剣藤と空々との、食事中の会話を、在存はずっとその脇で聞いていたのだ──その時々にわかる情報は断片的でも、それを根気よく繋ぎ合わせれば、今現在の空々の状況は、ほとんど丸裸になるだろう。

 そしてそれを踏まえた上で──在存は賭けに出ている。

 この子は思った以上に賢い、と空々の警戒心は、そのことによってむしろ増した。自分はあまり頭がよくないという自覚が空々にはあるので、頭のよさそうな人間は苦手なのだ。

 空々がドッグフードを食べさせられている彼女の姿を、心苦しく見ている間、彼女のほうは、着々と情報を整理して、そしてチャンスを待っていたというのだ。

 剣藤が長期間家を空ける、このチャンスを。

 それが怖くないわけがない。

「……在存ちゃん」

「なんだよ、空々くん。……俺のほうも『ちゃんづけ』で呼んだほうがいいかな? 別に俺はなんと呼ばれようと構わないんだが、同盟を結ぶんだったら、同じように呼び合ったほうが対等感があるよな」

「いや、呼びかたは……好きにしてもらっていいけど」

「じゃあ改めて。なんだよ、空々ちゃん」

 うききき、と楽しそうに在存。それは見る者が見れば、『ギャンブル中毒』の人間がよく浮かべる表情であることがわかるだろうが、しかし身近にそんな人間がいなかった空々にはわからなかった。

 もしもこのとき空々空が、左在存から『ギャンブル中毒』の傾向みたいなものを見出していたなら、この後の展開も大いに変わっていたかもしれない──だが空々はまだ、在存のことを『チャンスをいくらでも待てる、冷静で賢い少女』としか思っていない。

 ギャンブルギャンブル、賭け賭けと、何度も彼女が言っているのを聞きながらも、それを『戦略』と同じような意味だととらえている──要するに、年齢ゆえに、ギャンブルの恐ろしさを知らないのだ。

 それこそ地球が何かを仕掛けるまでもなく。

 ギャンブルで身を滅ぼす人間は、世界に溢れていると言うのに。

「えっと……きみの状況はわかった。冒しているリスクの高さも。だけどわからないことが、まだいっぱいあるんだ。すべてを今説明して欲しいとは言わないけれど、それでも今、いくつか、確認させて欲しいことがあるんだけれど、いいかな、在存ちゃん」

「いいぜえ、空々ちゃん」

 実のところ、思春期の真っ只中である空々にとって、『ちゃん付け』呼ばわりは辟易へきえきするというか、正直受け入れがたいものがあるのだが、自分が先に、在存をそう呼んでしまった以上、拒否できなかったというのが真相だった。

「慎重に答えてね。答如何によっては、僕は本当に、剣藤さんにこのことを報告しなくちゃいけなくなる」

「あん? なんだ、その言いかたじゃあ──同盟は拒否するけれど、組織には何も言わないでくれるっていう、そんな選択肢もあるみたいに聞こえるけれど」

「あるでしょ。当然……」

 言いかけて、そんな選択肢はないのか、と思い至る。さすがに無理があるだろう。空々には在存をかばう義理などないのだった。むしろそんな禍根を、絶対に残してはならない。……のだと思う。

「どうも認識が甘いな。お前、なーんか、すべてが『どうでもいい』って感じだぜ」

「そ、そんなことはないよ……失礼な」

 図星というか、痛いところをつかれ、慌てる空々。嘘をついたり、騙したりしないように、在存に釘を刺すつもりで、つまりはある意味脅しの意味を込めての発言だったのだが、釘を刺されたのはむしろ自分のほうだった。これではまずい。

 やはり、頭のいい奴と駆け引きをしながら喋るなんてことは自分には無理らしいと、そこはすっぱりと諦めて、空々は単刀直入に、直截的に言うのだった。

「在存ちゃん。きみは犬なの? それとも人間なの?」

「人間だよ。見ての通りな」

 頭のいい人間が時にそうしてくるように、はぐらかしたり、謎をかけてくるようなことをされるのではないかと危倶していたが、しかし在存はそんなことはしなかった。まあ、質問に素直に答えたからと言って、それは信頼できる理由にも、嘘をついていない理由にもならないのだけれど。素直な嘘つき。いないわけじゃない。

「お前にはそう見えているはずだろう?」

「うん。見えている。人間に──見えている。だけど」

「ところがお前以外の人間には、そう見えていないんだ。お前以外の人間には、俺は犬に見えている。……って、剣藤さんの俺に接する態度を見ていれば、そりゃあわかると思うけどよ……。ありゃあ剣藤さんに限った話じゃなくってな」

「……そう」

「予想済みか? 予想通りの答か?」

「まあ……人間に『擬態』した怪人を見てるからね。犬に『擬態』した人間がいてもおかしくはないとは思っていた──あるいは、人間に『擬態』した犬が、だけど」

「なるほどね」

「僕と剣藤さん、どっちが『正しい』のかはわからなかった。だから今、きみがそう言ってくれて、僕はほっとしたよ。僕はおかしくなかったし──そして剣藤さんも特別、おかしいわけじゃなかったと聞いて、ほっとした。剣藤さんは人間を犬扱いしているわけじゃなく、人間を犬だと思い込んでいるんだね」

「まあ、そうなるな──大した違いはねーと思うけどよ」

「結構な違いだよ……。だけど、ゴーグルを通していないのに、どうして僕には、きみの姿が人間に見えるんだい?」

 ゴーグルがあれば在存の真の姿が見えるのではないかと思っていたけれど、真実の姿は、もう見えていたというわけだ──だが、その理由ははっきりしない。

「ゴーグルね……、俺の知ってる連中は、それを『ミラーグラス』と呼んでいたがな。少し焦り過ぎだぜ、空々くん。疑問は順番に解決していこう……、時間はたっぷりあるんだ。俺はそのためのタイミングをずっと待っていたんだからな。お前も少しは『待て』だぜ」

「あ、うん……ごめん」

「もっとも、その問いにだけは先に答えておくと、俺にもわからん。三週間前、お前が俺を見る目が異様だったのに気付いたときは、実のところ俺のほうが焦ったもんだ。俺の『擬態』が解けているのか、とな。だけど剣藤さんはいつも通りだったしな」

「…………」

「ひょっとするとお前、怪人の正体を見抜くのに、ゴーグルなんかいらねーんじゃねえの? これ、ギャンブル云々はともかくとして、お前と喋る機会があったら訊こうと思ってたことなんだが、お前、これまでの人生で、怪人を見たことはなかったわけ?」

「な、ないよそんなこと……」

 ないはずだ。あんな異形な、そして神々しい存在を見て、見たこと自体を忘れるということはないはずだ。たとえ赤ん坊のときに目撃したとしても、憶えている自信がある。

「そうか。……ふん」

 ちょっと考えた風を見せた在存だったが、必要以上の分析を行う場ではないと思い直したのか、「それで」と話を本筋へと戻す。

「どうして俺が『擬態』の能力を持っているのかって話を、ここでさせてもらいたいんだが、構わねーか?」

「あ、うん……どうぞどうぞ」

 空々としてはあくまで対等、もしくは年齢的に、自分のほうが在存よりも『やや上』という気持ちで話しているのだが、結果的にはどうも下手に出てしまっている感が否めない。それは知力の差でもあるのだろうが、同時に地球撲滅軍に対する情報格差でもあるのだろう──空々は今の今まで、自分が使うゴーグルの名前さえ知らなかったのだ。

 あとはまあ、在存の乱暴な口調と、態度か。態度に圧倒されるのか。彼女はカレーライスを食べ終えて、胡坐の姿勢に戻っている。

 本当に偉そうだ。

生憎あいにくこれは、俺の生来の能力ってわけじゃねえ。コントロールもできねえしな」

 そして偉そうなまま、在存は言った。

「これは地球撲滅軍の連中が、俺の身体を好き勝手にいじくり回した実験結果だよ。つまり連中は『地球陣』の『擬態』を、あろうことか俺で再現してみせたのさ」


     10


「もっとも実験としては失敗だったのかもな。お前にあっさり見抜かれちまってんだから──くくくだとすると、一番ショックなのは、失敗作の俺ってことになるが」

「……どういうこと? つまり、きみの身体を改造して……? え? それは──開発室の人が?」

『再開発』──落雁が、ということだろうか。いや、落雁はあくまで広報担当だから、実験そのものには携わらないのかもしれないけれど。それにしても、じゃあ最低でも落雁は知っているのか? 『狼ちゃん』の正体を──

「いや、開発室クラスじゃあ、俺のことは知らねーよ。俺はもうちょっと、軍の奥っかわで作られた生き物だからな。奥っかわっつーか、底っかわっつーか。公式には存在しないことになってる……、確か、不明室っつってたか」

「不明室……」

「ま、んなこと言い出したら地球撲滅軍自体が、公式には存在してねーんだがね……、『再開発』も『茶飲み話』も俺のことは知らないよ。連中はあくまで俺を、『犬』だと思っている。剣藤さんの相棒の、『犬歯』だとな」

 そう言って在存は、ふ、と、やや穏やかに笑った。

 そう言えば乱雑な口調の中にあって、彼女は剣藤のことは『さん付け』で呼んでいる。空々のことは、最初は『くん付け』、今は『ちゃん付け』だと言うのに。

「剣藤さんとは……どういう関係なの?」

「あん? どうもこうも、さっき言っただろうが。相棒だって──場合によっちゃ、俺はあの人と一緒に戦うんだ。一緒に怪人を退治したこともあったぜ」

「……戦闘能力があるんだ、きみには」

「いや、そういうわけじゃねえよ。俺の役割は犬らしく、索敵だしな。つーか、剣藤さんにだって、戦闘能力があるわけじゃねーだろ。あくまでも『破壊丸』がすげーってだけで」

「? そうなの? 『破壊丸』はバッテリーで動いているっていうのは聞いてたけど、それを扱える剣藤さんも、やっぱりすごいんじゃないの?」

「お前、全然知らないんだな……、いや、知らされてねーだけか。だったらもう少し、根本的なところから説明しなくちゃなんねーみたいだが、果たしてどうしたもんかねえ」

 と、やや呆れたような仕種をする在存。見下されたわけではないのだろうが、むしろ気遣われたのだろうが、しかしそう言われてみると、自分は本当に何も知らないんだなあ、と思う。

 家族を殺されて学校を焼かれてから、三週間以上が経つが、しかしあのとき、あの日から自分は一歩も進んでいないのかもしれないと思った。たとえ一歩を踏み出していたとしても、その一歩は怪人を踏んだだけの、殺戮のための『たった一歩』なのかも。

 ただ、そういう意味では在存は根気よかった。何も知らない空々に、一から説明してくれた。この機会をずっと待っていたことといい、『待て』が得意だというのは、ただのレトリックではないのだろう。

 それは確かな事実であるようだった。

「基本的に最新技術に依ってるんだよ、俺達の組織は……。たとえば『破壊丸』は、全自動人斬りマシーンだ。あれを持てば、誰でも立派な剣豪になれるって感じのな。必要なのは、剣を取り落とさない筋力くらいのもんだぜ。ちなみに俺の場合、そのアイテムはこの首輪ってことになるんだが……」

 在存は顎をくいっと上げて、首輪を示す。もしも両手が自由だったなら、指でさしていただろうが。

「まあ開発室の連中としては、犬で実験してるくらいの気持ちなんだろう……『これ』は『そういうもの』だからな。まあ便利に使わせてもらっている。で、お前の場合は『グロテスク』だっけ? ボディスーツ。あれだって、誰でも使えるだろ。お前が習熟した訓練を受けているから、透明人間になれるわけじゃない」

「……そうだね」

「まあ開発室の中で何が行われているかは、俺は詳しくは知らないんだがね……透明人間化のスーツなんてもんができあがっていたことには、驚かざるを得ないぜ」

「……縦割り行政」

 ぽつりと、空々は言った。別に悪意を込めていったわけでも、不満があっていったわけでもないが、しかし地球撲滅軍は連携が取れていないというよりも、部署同士の関係があまりよくないのかもしれないと思った。

 よくないというより険悪なのかも、と。

 それは規模の大きな組織ではよくあることだが、世間や社会をまだ知らない空々少年にしてみれば、なんだか気持ち悪くなるような話だった。自分がそこに属していると思うと尚更だ。

「いやいや、そこまで縦割りってわけでもねーさ。俺が『犬化』された後に開発された技術のことは、俺は知らねーってだけだ。『ミラーグラス』……、お前がいうところのゴーグルのことは、俺は実験体として知っていただけ」

「実験体として? それはどういう意味?」

「これは考えたらわかることだろ。そんな風になんでもかんでも訊かれても困るぜ、少しは考えてくれよ。俺は『擬態』の再現に携わってるんだぜ? だったら、『ミラーグラス』のことを知らねーわけねーだろ」

「…………。ああ、そうだね」

 一瞬考えて、理解する。というより、確かにもっと早く、考えるまでもなく想像がついていても不思議じゃなかった。

「きみは『凝態』した上で、そのゴーグル……『ミラーグラス』によって正体を見抜かれなきゃいけないんだもんね」

「そういうこった。まあ卵が先が鶏が先かみたいな話に、そうなるとなってくるけどな──開発室と不明室が共に歩んできたってわけじゃねーのは確かだし。むしろ開発室の技術を不明室が盗んでるって言いかたもできる……、しかしまあ、そんな言いかたをすると、空々ちゃんは益々、地球撲滅軍に不信感を持っちゃうかな? そうなってくれたほうが、一緒に逃げようとモーションをかけた俺としちゃあありがたいんだが、だけど取り立てて印象操作をしようってつもりはねえ」

 俺はあくまで逃げたいだけで、地球撲滅軍の活動自体に文句をつけようってわけじゃねえんだわ──と、在存は続けた。それはなんというか、蓮っ葉というよりは投げやりな感じの態度だった。

 それこそ『どうでもいい』と言わんばかりの──しかしそれは空々と同じなのではなく、単に、自分の命をあっさり賭けられてしまうギャンブラーの態度なのである。

「空々ちゃん。組織ってのはどうにも困りものだよな──ある一定以上に大きくなっちまうと、大きくなり過ぎると、もう正義とか悪とかじゃなくなっちまうよな。正しかろうと間違ってようと、突き進むしかなくなる集合体になるっつーか、もう絶対に属する個人の意志では軌道修正が利かなくなるし、誰にも全体が把握できなくなってくるよな。地球撲滅軍にしたって、細部細部はきちんとしてても、全体じゃあバランスががっつり崩れていて、だからこそ部署間の連携がうまく取れてねーんだと俺は思うぜ。思惑が複雑に絡み合っちまって、意外と一枚岩になれてねえ……『大いなる悲鳴』以降はあからさまにそうだって、『犬』の俺にもわかる。だからここんとこ、地球に対して不利な戦いを強いられてんだろう」

「…………」

「なんてまあ、何気なく組織批判を繰り返せば、空々ちゃんは俺の味方になってくれるかな? と思ったけれど、そういうこともなさそうだな。まったくなさそうだな。すげーなお前。びくともしねーじゃん。ま、空々ちゃんの立場じゃ、そんなことは俺以上にどうでもいいのか。とにかく、ここで俺が言いたいのは、俺は連中に自分の身体をいいように改造されちまって、そのことを実は結構根に持って恨んでいるということだ」

 はっきりと在存は言った。その気配はあらかじめあって、空々も敏感に察してはいたが、左在存は、ことここに至って、地球撲滅軍に対するいわゆる『敵意』を──恨みを、はっきりと口にしたのだった。

「空々ちゃんや剣藤さんみたいに家族を殺されたりはしてねえ……、つーか俺の家族こそ不明室にいる。そいつは自分の娘を実験台にした人でなしってことだ。本人的には地球のための自己犠牲って感じで陶酔してんだろうが、犠牲になったのは自己じゃなくって俺だっつーの。これが本当、いかれたお母さんでよ──まあ俺がこんな風に、知能指数を高く作られてんのは、お母さんの英才教育の賜物ってことだ。スマートドラッグ投与しまくり」

「実のお母さんが、そんなことを……」

 そういう話を聞いたら同情するべきなんだろうか、と思った。けれどうまくできなかった。剣藤が自分と同じように、家族が殺されていると聞いたときもそうだったが──どうも本当に、空々空という自分は、他人の不幸に対する感性が鈍い。

 他人の感情と、同調できない。

 同情できない。

 それはしかし、理屈の上では当たり前なのかもしれない……、同情とは、同じ感情と書いて同情だ。ならば感情に動じない空々が、他人と同じように感じられるはずがない、彼の心はこれほどまでに、他人のためには動かないのだから。

「だから言ったろ。巨大な組織ってのは、善とか悪とか、倫理観とかも吹き飛ばしちまうんだって。俺のお母さんが、特にやべえってわけじゃねえ。普通にやべえだけだ。そこら辺、あんま特別視しても無意味なんだよ」

「…………」

「あー、しまった。別にお母さんの話とかするつもりじゃなかったんだけどなー。恨みとか、余計なこと言っちまった。そうじゃなくて、そう……空々ちゃんにわかって欲しかったのは、俺は地球撲滅軍に嫌気が差していて、あるときから、ずっと逃げるチャンスを窺っていたということなんだよ」

 思ったよりもかかったのは事実だが、いつかはお前みたいなヒーローが現れてくれると信じてたのさ──と言った。その台詞を、空々は普通に聞き流したが、たとえ敏感ならずとも、何の根拠もないものをそうあっさり、信じて待っていたというギャンブラー特有の『楽観』を、ここで察することも、彼にはできたはずだった。

 これは知能云々の問題ではない。

 生物としての危機感の問題だ──空々はもっと、危機感をもって、左在存と接するべきだった。

「そのあるときってのは半年前、剣藤さんに引き取られてからってことなんだけどな。剣藤さんのアニマルセラピーに俺を利用することに、不明室の連中がしてからってこった。まあ俺の擬態能力の、最終的な試用って意味合いもあったんだろうね、室長の牡蠣垣にさえ秘密で実験を行うっつーのは──だが、それこそが俺の狙い目だった」

「……つまり、軍の内部にありながら、自分の正体を知られていない……あくまでも人間ではなく、ただの犬だと取り違えている人達のそばに身を置くことになったのが、きみにとってのチャンスだったってこと?」

「んー……まあそんな感じ。擬態能力の実験なんだから、それで当然なんだけどな。……自分の『擬態』についてこんな風に人と喋ることがなかったから、今まであまり気にしたことがなかったが、しかし自分でコントロールできねーもんを能力と呼ぶのは、やっぱ結構無理があるな。怪人のように『生態』とは言えないけれど、しかし精々『体質』というのが正しいか……」

「在存ちゃんは逃げたいだけなの?」

「あ?」

 唐突にも思える空々の問いには、やはり在存も面食らったようで、露骨に顔をしかめる。いきなりだったから驚いたというだけでなく、そこに幾許かの、非難するような空気を感じたのだろう。

「なんだよ、そりゃ。空々ちゃんは俺に地球撲滅軍を、恨み積もってぶっ壊せって言ってんのか? 無茶言うなよ……俺を何歳の子供だと思ってんだよ」

「わからない。何歳なの?」

 いい機会なので、空々は訊いた。それは知りたいと思っていたのだ。実は空々より年上だったりしないだろうかと、そんな危倶(期待?)もあったことだし。

「九歳だよ。空々ちゃんのよっつ下だ」

「そう……九歳、なんだ。ふうん、へえ、見た通りだね……」

 当たり前の答が返ってくると、リアクションに困る。ここは嘘をついてでも驚かせて欲しかったところだ──まあ、九歳でこの舌の回りようは、十分に驚きに値するのだが。

 英才教育。か。

「実験が成功したのは……、成功の兆しを見せたのは二年前だから、まあ七歳のときかな。で、剣藤さんの『ペット』になったのは半年前、つまるところ『大いなる悲鳴』の直後ってことになる」

「……半年間、ずっとドッグフードだけで生きてたの?」

「ああ。言ったろ? 久し振りの人間らしい食事だったって……、剣藤さんと二人暮らしだった頃には、冷蔵庫の中身を盗み食いできる機会はないでもなかったんだがな。けどまあ、そんなことをして正体がバレてもつまんねーし」

「…………」

 人間が、それも育ち盛りの子供が、半年もの間、一日二食のドッグフードと牛乳だけで生きてきたというのは、壮絶な話だ。まるで児童虐待だ──と思ったものの、それは『まるで』でさえないのだろう。彼女にそんな生活を強いているのは、実際のところは剣藤ではなく、不明室にいるという、在存の母親なのだから。

 そんな話を聞いても、そんな事実を知っても。

 やはり同情することはなく、『同情した振りをして、鋭そうなこの子にその演技が見抜かれたら嫌だから、無反応を通そう』なんて考えている自分が、かなり嫌になる。

「で、空々ちゃん。さっきの質問に答えておくが──逃げたいだけだよ、俺は。それに何の文句があるんだ」

「いや、文句とかじゃないよ……、文句なんてないよ。気分を害したのなら悪かった、謝らせてくれ。ただ、僕が言いたかったのはむしろ逆で、もしも在存ちゃんが、自分を実験台にした地球撲滅軍への復讐を目論んでいるのなら、とてもじゃないけど協力できないと思っただけなんだ。同盟なんて結べないと思ったんだ」

 素直に言った。そうするのが、この少女に対する真の礼儀なのだと思った。もしもこの少女が、本当に自分のような人間を、ヒーローとして待ち望んでいたと言うのなら。

「正直言って在存ちゃん、きみの提案にそれほどの魅力を感じていないんだよ、僕は。それはどうしてだかわかるかい?」

「……? 非現実的だからか? 地球撲滅軍から逃げるなんて」

 彼女からすれば相当がっかりするというか、興ざめなことを空々は言ったつもりだったのだが、しかし在存は揺るがず、ただ訊き返してきた。彼女はあくまできちんと、空々の意見を聞いてくれるようだった。

「それとも俺が信用できねーか。いや、そうだな、できるわけねーか。わかった、俺が迂闊だった。ならばすぐに、差し当たりお前が俺を信用できる方法を、考えてやろう──なあに、腹案がねえわけじゃねえ」

「あ、いや……そうじゃなくってさ。実験台になっている、今も苦渋の生活を強いられているきみに較べれば、僕は逃げても、あんまり意味がないからだっていうか……」

 考えての結論ではあったが、実際に口に出してみると、思いのほかこれは腑抜けた意見だった。腑抜けで、腰抜けである。語尾が頼りなくなっていかざるを得ない。こんなことを抜け抜けと言う自分が、在存から見てどう見えるのか、気になった。しかし言いかけた以上は最後まで言う。

「えっと、さっき言ってたから、きみは知ってるんだよね? 僕は家族を皆殺しにされていて、通っていた中学校を焼き払われている。その時点でもう僕の関係者はほとんど死んでると思うんだけど、運よく生き残ったであろう人間も、『蒟蒻』って人に殺されてる。もう僕には、知ってる人も頼る人も、いないんだよ」

「…………」

 饒舌な本性をあらわにしたはずの在存は、しかし、ここでは何も言わなかった。それは、空々の誠意(?)のある言葉を真っ直ぐに受け止めているのか、それとも『自分の関係者が皆殺しにされた』ことを、淡々と、出身小学校でも喋るかのように言う空々の異様さに引いたのかは、彼女の表情からだけでは、さすがにわからなかった。

「つまり地球撲滅軍から逃げ出したとしても、僕にその先はないってわけだ。逃げる場所がないっていうか……帰る場所がないんだ」

「だからって」

 と、ようやく在存は言う。

「だからってその帰る場所を根こそぎぶっ壊した地球撲滅軍にい続ける理由はないだろう」

「そんなことはない。ご飯が食べられる。生きていられる。これは結構、大事なことだと思う」

「……そりゃそうだ」

 ふ、と寂しそうに笑って在存は俯いた。彼女ならば反論しようと思えば反論できただろうが、そんなことをしても無駄だと諦めたのだろう──そう、今の空々の言葉を聞いて、『いや、そんなことはない』と反論できる人間は、そうはいまい。

 そもそも、家族を殺した相手と平気で同棲している少年相手に、本来何も言えたものではないのだ──実のところこの同棲生活においては、むしろ剣藤のほうが、地獄を見ているくらいである。

「だが、地球撲滅軍にいたって、長生きできるとは限らねーぜ。はっきり言って、相当イッちゃってる組織なのはわかるだろ。このグループの中にいて幸せになることは、まず不可能だ」

「それでも生きていける。僕は外に逃げて、一人で生きていく自信はまったくない。幸せになりたくないわけじゃないけれど、野垂れ死にしてまで幸せにはなりたくない」

「……じゃあ、つまり空々くんは、俺と同盟は結べないってことか」

「いや、そうは言っていない」

 在存の問いに対して、これを素早く言ったのは、ただ決まっている言葉だったから素早く言えただけのことだが、しかし空々にとって幸運だったことには違いない。空々が同盟を拒否した場合──自分の手の内を晒したギャンブラーがどのような行動に出るのかを、空々はまったく想定していなかったが、普通に考えれば、黙って部屋から出ていかせはしないことくらいわかるだろう。

 リードで繋がれていようと。

 後ろ手に拘束されていようと。

 左在存が剣藤犬个の『相棒』であることを忘れていなければ──わかるだろう。

「一緒に逃げるっていうのはないけれど、きみを逃がすだけなら、協力したいと思う」

 協力したい、と空々は言った。協力しよう、でも、協力してもいい、でもなく──協力したい、と。

「ほら、たとえば、僕が『犬』であるきみを散歩に連れ出して、その先でリードを離して逃げられちゃったとか言えば──」

「……そんな浅い作戦自体にはまったく賛成できないが……提案自体に文句はない。いや、っていうかそれ、俺にとっては願ったり叶ったりみたいな提案だが……、うん? ちょっと待てよ、空々ちゃん。それ、一体お前にとって、どんな得があるんだ?」

「得?」

 なんだそれは。考えていなかった。得。メリット。そうだ。確かにそういう何かを自分が受け取らないと、行動原理が成り立たない。自分でもおかしいと思う。他人から見れば尚更だろう。ならば考えなければ。得とはなんだ。特にないぞ。いや、徳ならどうだ?

「可哀想な年下の女の子を実験の憂き目から助けてあげれば、自分はいい奴なんじゃないかと思える。そこまでのことをしてようやく、僕は僕をいい奴だと思える。そういうことだよ」

「……んー」

 納得しかねるように在存は天井を見上げた。もしも両腕が自由だったなら、腕を組んで見せただろう。悩むときに腕を組むというのも、どういう意味がある動作なのかは空々にはわからないが。それはそれで偉そうに見えるので、あまり好きな動作ではない。

「いや……それでいいのかな。案外、そういう自己肯定こそが、人間にとっては何よりのメリットなのかもしれねえ。犬にはわからねえ、人間の矜持きょうじって奴だ」

「矜持……っていうほど、大袈裟なものではないんだけどね。ただ僕は──」

「いや、いい。もう説明しなくていい。聞いても俺にはどうせわかんねーよ。それに、そうと決まれば、さっさと話を進めようぜ。俺のほうも正直に言うと、お前を救ってやりたいという気持ちはあるんだがな……、一方的に助けられるというのは気分がよくないとも思うし、同じような境遇のお前を残して自分だけ逃げるというのも、今いち気分のよくないものがある。だが、それだけの理由で、こんな千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかねえよ。俺は俺を、いい奴だと思えなくてもいい」

「うん。それでいいと思う。僕は大丈夫だから」

「……なんなのかね、お前の、その自信は」

 どこから来るのかね、何に根ざしているのかね、と在存は、探りをかけるようなことを、しかし独り言で言った。

 自信? そんなものが空々にあるはずがない。自信とは、自分を信じると書く──しかし十三年間、その卑劣な人間性ですべてを偽ってきた、自分すらも騙す演技をしてきた自分なんて、信じられるはずもない。

 あるいはいつか、遠くない将来か遠い将来、信じられる自分になれるように──今、自分は善行を積もうとしているのかもしれないと思った。そうだったらいいのにと思った。


     11


「それで、僕はどうすればいいんだい? さっきの僕の提案をきみは浅いと、ばっさりと切り捨てたけれど、他に何か案はあるのかな?」

「いや……、まあ俺も色々考えてはいたんだけどよ。ただ、この三週間、俺が頭をひねっていたのは、お前と一緒に逃げる方法だったからな……、それらは全部放棄することになった。まあ、廃棄っつーか、とりあえず頭の中に保存しておくから、気が変わったらいつでも言ってくれ。間に合うようなら対処してやるから」

「うん、わかった」

 と言ったものの、それは余計な心配だと思った。

 たぶん、気が変わることはない。ないだろう。

「ひょっとすると、二人で逃げるよりも厄介なミッションかもしれねえ。後は野となれ山となれと、地球撲滅軍に後ろ足で砂をかけて逃げるっつーならある意味気楽だが、しかしお前がそのあと、後腐れなく、わだかまりなく軍にい続けられるようにしなくちゃいけねーんだからな」

「別に、多少怒られてもいいよ。それだけのことをするんだから」

「それだけのことをするにしても、『多少怒られる』じゃ済まねーかもしれねーだろうが。すぱっと、首の辺りをやられるかもしれねーんだぞ、あの『破壊丸』で。言っとくけど、『破壊丸』は制御なんて利かないからな」

「……全自動人斬り包丁だっけ」

「ま、そうは言っても、剣藤さんがどう出るかはわかんねー……、剣藤さんにとって俺はあくまで『ただの犬』だからな。機動室の連中にとってもそう……、だから表立っての問題にはならないかもしれん。お前が剣藤さんに嫌われて、それで終わりかもしれん」

「…………」

「が、不明室の連中は……そうはいかないな」

「でも、在存ちゃん、どうだい。その不明室の人たちには、僕が在存ちゃんの正体を看破したことは知らないんだろう? 知れるはずもないよね。だったらやっぱり、僕がきみを逃がしても、ただ『犬を逃がした』だけのことになるんじゃない?」

「そう思ってくれるかもしれねえ……けど、そうならない公算も結構高い。不明室の連中が、お前が怪人を『見られる』人間であることを知ってしまえば、そのとき連中が『ミラーグラス』なしでもお前は俺の正体を看破したんじゃないかって疑いを持たないとは思えない」

「けれどそれは証明のしようがないことだろう? 僕が『見てない』と言えば、それを嘘だとは言えないはずだ」

「自白剤を使われても嘘をつきとおせる自信はあるか?」

 あるわけがない。

 まったくない。

「ま、期待のヒーロー相手にそこまでのことはしねえにしても、あいつら爪くらいは余裕でがしてくるぜ。二十枚もあるんだからって。ポリグラフ程度なら、お前は騙せるかもしれないけれど……純粋な痛みに対抗できるか? そこまでして俺を守ろうとは思えないだろう?」

「そうだね」

 正直に答えた。ここで絶対にきみのことは喋らないと誓えれば人間関係、結構楽なのだが。

「じゃあどうすればいい? 在存ちゃん。どうすれば僕は、きみを助けてあげられるんだい?」

「そんな奇怪な質問を受ける機会が人生にあるとは思わなかったぜ……ちょっと待ってくれ、考える。行動を起こすなら、今日中に起こしたいところだが……」

「今日中? なんで? 剣藤さんの出張は、三日だよ」

「ああ、それはわかってる。別に勘違いはしてねえ。だけどできれば剣藤さんと、それから牡蠣垣が、連絡とアクションの取りづらい機上の人であるうちに作戦を開始したいんだよ。逃亡時には、やっぱり機動室が動くのが一番怖いからな……ベストなのは機動室が気付く前に、既に俺は逃げ切っているってパターンなのだが。それこそ『蒟蒻』なんかが動いちまったら、俺なんかいちころだ」

 犬コロならぬいちころだ、と、思いついたのか、後からわざわざ付け加える在存だった。

「んー、そうだなあ……、最後にもう一度だけ確認しておくぞ、空々ちゃん。お前は本当に、逃げなくていいんだな? これはたぶん、お前にとっても千載一遇のチャンスなんだぞ? この後、いつか逃げたいと思うことがあったとしても、そのときに都合よく、一緒に逃げてくれる俺のような相棒が現れてくれるとは限らないぞ? あるいは──長居をし続けることで、お前はあいつらに染まっちまうかも。剣藤さんみたいに、頭の螺子、ぽろぽろ抜け落ちちまうかもしれねーんだぜ」

「大丈夫。そのときはそのときだし、未来よりまずは今だ。染まってしまえばそのほうが楽だとも思うし……、どうせ僕は一人じゃ生きられないんだ。二十歳くらいになって、生活力がついたら、また考えるよ」

「……よし。じゃあ、概ね作戦が決まった。このギャンブルにおける戦略がな。ただし、基本的に俺を軍から逃がすためだけの作戦だから、はっきり言って、お前や剣藤さんに対する気遣いは、最低限しかねーぞ。それでもいいんだな?」

「僕に対する気遣いが薄いのはともかく……、剣藤さんに対する気遣いは、多少は持っておいてあげて欲しいな。きみを犬扱いしてはいたけれど、それはきみがそう『擬態』していたからなんだし、それを思えば、あの人はきみの面倒を、甲斐甲斐しく見ていたと思うよ」

 傍目に嫉妬するくらい、と言った。

 嫉妬? その言葉をこんな文脈で使うなんて。

 これは本当に僕の言葉だろうか?

「だから、なるべくなら、彼女の悲しみが少しでも少なくなる作戦を練ってほしいと思う。そのように、作戦を軌道修正して欲しいと思う。……こんな風なことを言うと、僕がいい奴には見えてこないかな?」

「お前はいい奴だよ」

 在存は後ろ手に拘束されたまま、器用に肩を竦めた。

 そうだったらいいのにと、ここでも思った。

 強く思った。


     12


 左在存が提案した作戦はシンプルなもので、それほど独創性に富んでいるとは言いがたかったけれど、しかしこの場合独創性は必要ない。むしろ王道であればこそ、作戦の成功率は上がろうというものだった。

 外枠をなぞるとこんな感じだ。彼らは地球撲滅軍をこう偽る。

 剣藤犬个、『寸刻み』の留守中、空々空は言われた通りに剣藤のペットの『狼ちゃん』に夕食後、ドッグフードをあげようとする。そこでトラブルが発生する。檻から出した『狼ちゃん』が正体を現したのだ──今までに見えていた彼女が突如人間の少女に変貌したのだ。そして牙をむき出しに彼女は空々を脅し、外に連れ出させる。彼女は空々を人質に取ったまま、タワーマンションから逃亡したのだ。そしてどこか遠くまで逃げ切ったところで、空々をようやく解放する──そこで空々は軍に、というか、緊急連絡用に聞いていた剣藤の電話番号に連絡を入れて、在存の逃亡を地球撲滅軍に知らせるという段取りである。

「……それ、別にきみの逃亡に、僕が同行する必要はないんじゃないの? 僕をマンションに残してひとりで逃げたほうが、きみにとっては気楽なんじゃない?」

「俺のことだけ考えりゃあそうかもな。しかし、俺が逃げ切るまでの数時間、お前が本部に連絡しない理由は、その場合なんだ? しばらく身動きできないほどのダメージを与えていいというなら腕くらい折らせてもらうが、しかしそれは嫌だろう?」

「嫌だね」

 頷く。そこで格好つけたりはしない。痛いのは嫌だ。

「だから俺はお前を連行するんだよ──まあ、『安全な場所に逃げるまでの人質』っつー理由で、俺がお前を連行するのは不自然じゃあねえだろう」

「まあ……そうだね。足手まといになるとは思うけれど」

「ああ。実際に俺がこういう作戦を取るならお前をぶっ殺していくんだろうが……、それくらいは誤魔化しきれるはずだ。『「犬歯」は空々空をどうして殺さなかったんだろう? そっちのほうが楽なのに』という疑問に対する答は、世話になった剣藤さんへの気遣いってことにしとけ。訊かれたらそう答えろ」

「うん。わかった」

 そう答えつつも、しかし在存が実際にはそうしない理由はなんなのだろうと思った。そうすることもできたはずなのに──いや、そうするほうが、今からでも、得なのでは?

 得……特、徳。いや、きっとそういうことではないのだろう。

 そんなもので動いていないのは、空々だけではないのかもしれない。

「ところでその作戦だと、きみの正体は剣藤さんにバレちゃうよね。それはいいの?」

「いい。どの道俺が逃げりゃ、いつかはバレるだろうし──それにここは、ここんところは俺は、お前の依頼に応えたつもりだぜ、空々ちゃん。こういう段取りにしておけば、剣藤さんには組織内での責任、みたいなものは生じないだろう?」

「……えっと。どうして生じないの?」

「いや、だからさ……、ごめんな、なんか馬鹿に説明するみてーな口調になって。俺、決してお前を馬鹿だと思ってるわけじゃねーんだぜ? だからさ、もしも俺が『犬』のままで逃亡していたら、剣藤さんは飼い主としての資質を問われることになるが、俺が『人間』になって逃亡したなら、それは、俺が人間であることを隠して剣藤さんに預けた、不明室の連中の責任ということになる。それを明かしていたなら、剣藤さんや牡蠣垣は、俺と新人とを二人きりになんてしなかっただろうから」

「なるほど……、そして僕がきみの正体に気づいたのは、三週間前から……つまり最初からじゃなくて、今日、二人きりになってからだということにすればいいんだね?」

「ああ。『犬が逃げた』って嘘よりは、なまじ踏み込んでるだけ、真実味は増したはずだ。俺の正体を見抜いたことで、組織内におけるお前の『価値』は確実に上がるだろうし──薬使ったり拷問したり、そうそう手荒なことはできなくなる。ただし」

 と、在存は念を押すように言った。それは彼女が最初から、しつこいくらいに繰り返している台詞だった。

「言っておくが、もしもそれでも自白を迫られたら構うことはねえ、ゲロっちまえ。命のほうが大事だ、生きていることが大事だというお前に対して示せる、それが俺の誠意だ。俺が無事に逃げ切ったかどうかなんて気にすることはねえ──わかったな?」

「うん……でも、『逃げられた』より『逃がした』のほうが、罪は重くなるんじゃないのかな? たとえ自白しても情状酌量の余地はないように思えるけれど」

「ああ、その場で処刑にされてもおかしくないだろうね。即断即決で、真っ二つにされても──それでも、地球撲滅軍に拷問されるよりましだ」

「…………」

「連中に生け捕りにされた怪人が、どんな目にあったか──知る機会があっても知らないほうがいいぜ。ましてその怪人の中に、普通の人間が混じっていたかもしれないなんて、絶対に考えないほうがいい。普通はノイローゼになる。そんな現実があるのに暢気に生きてる自分が、恥ずかしくなってくるから」

 掛け値なく犬のような生活を送っていた在存をしてそういわしめるほどの拷問……空々は、誠意を示してもらわなくても、黙っていられるとは思えなかった。

 恥ずかしくなるのは──痛いのよりも嫌だ。それはそれは嫌だ。

「じゃあ最悪のパターンは、僕の嘘がすぐにバレて、僕は殺されて、在存ちゃんは逃げ切れず、組織に連れ戻されるっていうパターンなんだね」

「いや、それは最悪から二番目だ。本当の最悪は、剣藤さんも共犯者と見做されて、三人一緒にぶっ殺されるってパターンだな。まあそこまでのことにはならないと思うが……」

「…………」

 剣藤が殺される。そのパターンはまったく想定していなかった。精々怒られる程度だと思っていた。初日に何度か見たように、『茶飲み話』から叱責を受ける程度だと。

「認識が甘いよ。剣藤さんは、何度もミスってんだぜ……『大いなる悲鳴』を防げなかったのは、特に大きい」

「でもそれ、剣藤さんのせいじゃないだろ?」

「せいじゃなくても、責任はある。それが大人社会だろ」

「大人社会……」

 そりゃあ剣藤は、空々や在存よりは年上だが、しかし世間的には『大人』ではないはずなのだが──そういう問題ではないのだろうか。

 どうする、と空々は自問する。剣藤のことを本当に思うのであれば、やはりこの逃亡は取りやめるべきなのか? いや、そうではない。そんなことはない、と空々はすぐに結論を出した。

 剣藤は、幼い少女を『犬』と間違えて、そう見せられて、ドッグフードを与え続けているのだ──本人は何も気付かないままに、そんな茶番じみた実験につき合わされているのである。

 それは酷いことだと思う。少なくとも正しくはない。

 剣藤が、本当に『狼ちゃん』のことを可愛がっている分、その痛々しさは尚更増すばかりだ──彼女はきっと、そんな喜劇の舞台からは降りるべきなのだ。

 飢血木博士の言う通り、きっと今でもそう考えているだけで、自分は何も思っていないのだろうが、しかしそんな自分を否定するためにも、空々は強くそう思った。剣藤犬个を助けなければ、と。

「……うん。すべてのリスクを完全に排除することはできないみたいだけれど、それは仕方がないね。あとのことは、僕がなんとかしておくから、在存ちゃんは、何も気にせずに逃げて」

「無茶言うなよ……気にするなって言われても、気にならないわけねーだろ。何とかするって、何をどうするつもりなんだよ」

 在存は呆れたように空々を見る。それはどうだろう、『当たるか当たらないかだから確率は二分の一だ』とか、『籤は先に引いたほうが有利だ』とか、そんな主張をする人間を見るときの数学者のような目だったとたとえていいのかもしれない。

「まあいいさ。俺は親の愛情を受けて育ってねえからな、本当はそういうのがすっげえ苦手なんだが……、しかしそれもまたお前に対する誠意の示しかたって奴だ。ここはお前の好意に、甘えといてやるよ」

 きゃうん、と、それはどういうサービスなのか。

 人懐っこい犬のように、在存は鳴いてみせた。


     13


 決まってしまえば行動に出るのは早かった。というか、早くなければならなかった。脱出、逃亡には夜、暗くなってからのほうが適していると、誰もがそう思うだろうが、在存の立てた計画上、空々は『夕食のときに』、『狼ちゃん』が『左在存』であることに『気付かなければ』ならないので、あまり夜中になってしまうと不自然だ。

 体感時間としては随分長く話していたようだったが、実際に過ぎた時間は在存がカレーを食べていた時間も合わせて一時間くらいであり、現在時刻は七時四十五分──六月の今、まだ薄明るいと言ってもいい空模様ではあるが、真っ暗になるのを待ってはいられない。

 幸いだったのは、いつの間にか雨が降っていたことだ。

 梅雨のことを、空々は今まで、別に好きでも嫌いでもなかったが──野球の練習ができなくなるので、チームメイトは概ね嫌っていた。だから嫌いだと、彼らの言葉に合わせていたが──これからは少し、好きになってみようかとも思った。

 ちなみにこの雨。

 今夜この雨は、空々にとって『幸い』どころではない救いをもたらすことになるのだが──もちろん、在存に『人質に取られて連行される』時点の空々少年には、そんなことは知る由もなかった。

「傘は、持ってったほうがいいかな?」

 どころか、そんな日常的な心配をしている始末である。

「たぶん、玄関のどこかに仕舞ってあると思うんだけど……剣藤さんは使ってるだろうし」

「アホか。持ってくわけねーだろ。『この緊急時に傘を持っていくなんて不自然だ』とか、芝居を疑われる恐れがある」

「気の回し過ぎじゃない? そこまで神経質になってると、逆に失敗しそうに思うけれど」

「神経質過ぎて失敗するケースなんてあるのかよ」

「あると思うよ……でも、きみの言う通りなのかもしれない。じゃあ、カードキーとかも置いていったほうがいいね。玄関もマンションのエントランスもオートロックだから、帰ってきたとき、入れなくなるけれど……」

「そうだな。とにかく、無理矢理、何の準備もさせられずに俺に連れ出されたという体を装うんだ。靴は……まあ、靴くらいは履いて行ってもいいだろ」

「わかった。そうだね」

「前を歩け」

「ん?」

「廊下に出たら、もう監視カメラだらけだぜ、このマンション──連行されてるはずのお前が、俺の後ろを歩いていたら不自然だろ──ま、これも念のためな」

「……わかった」

 そこまで念を押さなくとも、剣藤と牡蠣垣にここまで『連行』されたとき、まったく示威的な行動を取られてもいないのに唯々諾々とついて行った空々が、在存の後ろをついて歩いていたところで、そんなに不自然には見えないとは思うが……。

 まあここは在存に従う。いちいち逆らうようなことではない。今はただ、彼女を逃がすために細心の注意を払うだけである。

「じゃ、行くか」

「うん。行ってきます」

 誰に言っているのかわからない、誰に言っているにしてもなんだか間違っているようなことを言いつつ、空々は廊下に出て、それに在存も続いた。そしてそのまま立ち止まることなくエレベーターに向かう。

 あっさりとしたものだった。

 三週間ぶりに部屋を出たというのに何の感慨もなかった。これは自分だからなのか、それとも誰でもこんなものなのかは、わからなかった──エレベーターに乗り込み、地下一階のボタンを押すのも、別に『いつも通り』のような感覚でできた。

 会話はしない。部屋を出たら、建物を出るまでは口を利かない。必要最低限のこと以外は喋らない。ふたりはそう決めていた──マンションに設置されているような監視カメラの解像度で、口の動きまで読めるとは思わないが、何せ地球撲滅軍の科学力は(科学力だけは)卓越している。読唇術に特化した解析ソフトがあるかもしれない。

 エレベーターは他のどの階にも止まることはなく、ノンストップで十七と一階分の高さを落下し、地下の駐車場へと到着した。後ろから小突くようにされ、空々は歩く方向を誘導され、一台のクルマのところへと辿り着いた。

「よっと」

 と、在存はそのクルマの運転席の扉を蹴飛ばした。扉自体は破壊されなかったが、それで鍵は外れたようで、そんな音がした。どういう具合に蹴ればそんなことができるのかは謎である。まあ開いたのだからなんとかしたのだろうと、空々は思うだけだ。

「乗れ。お前が運転するんだ」

 在存は命令口調で言った。まあ地の口調とそんなに変わらない、というかまったく同じようにも聞こえたが、一応は誘拐ゆうかいする上での演技ということである。

 空々は言われるがままに、脅しに従うように、運転席に乗り込む。乗ったところで、在存は更にクルマを蹴飛ばした。今度は扉ではなく、ボンネットのあたりだ──その衝撃でエンジンがかかった。セキュリティが働く気配はまったくなかった。

 そこに大きなスイッチがあって、ものぐさゆえに足でそれを押したみたいな手軽さ(足軽さ)に、そして慣れた手つき(足つき)に、やっぱりこの子は一人で脱出できたんじゃないだろうか、と思った。

 考えてみれば、この子は剣藤の相棒として、実戦を多く経験しているのである。移動手段の確保くらいはお茶の子さいさいなのだろう。あのケージにしたって、空々が解いてやったリードだって、その気になれば口で外せたような気もしてきたし……。

 より確実なチャンスを待っていたということだろうか。まあ、手錠だけは空々が協力したところでどうしようもなかったし──自由になる手が必要なのは確かだろう。

 少なくとも、どれほど実戦経験が深かろうと、両手が塞がっていれば、自動車の運転はできない。まだしも、無免許十三歳の空々のほうが、ドライバーとしては上だ。

 大丈夫。オートマの運転なんて、小学生でもできる。

 と、本で読んだことがある。

 空々は、先ほど在存から指導された通りの手順を踏んで、自動車を発進させた。

 自分を逃がすためではなく、少女を逃がすために。

 つまり挨拶は行ってきますで正しかったのだろう──自分はここに帰ってくるのだから。

 そう。彼はそう思い込んでいた──だが、本当に帰ってこれるかどうかは、ここから先の彼の努力次第である。


     14


 空々空と左在存が乗ったクルマが篠突く雨の中、マンションの地下駐車場から出て行くのを見ている視線がどこからのものだったかというと、それはマンションの屋上からだった。

 双眼鏡も通さずに彼はそのクルマを──明らかに初心者が運転しているとわかるそのクルマが去っていくのを眺めている。十分に、たっぷりと見送ったあと、そのクルマが完全に見えなくなったあとで、彼はようやく動きを見せた。

 電話を取り出したのだ。

 もちろんそれは市販されていない、傍受される心配のない携帯電話。

「どうもどうも、僕でーす。ヒーローくんとワンコロが逃げたみてーだからよー、これから追っかけまーす。はあ? 止められなかったのかって? 逃げようとしたら逃げる前に止めるのがお前の仕事だって? おいおいやめてくれよ、くださいよ。そんな言いかたをされたらまるで、僕がなんか今話題のくっだらねえヒーローくんを焼き尽くしたいがために、わざわざ取り返しのつかないところまで逃がしたみたいじゃないですか。人類を守りたいこの僕が、そんなバトルマニアみてーなことをするわけねーじゃん……けっけっけ」

 そう笑って電話を切り、ポケットに仕舞う。

 この雨の中、彼は傘をさしていなかった。正確に言うと、さす必要がなかった──すべての雨粒は、彼の身体に触れる前に、蒸発して消えていたのだから。

 炎に焼かれたように蒸発して。

「けっけっけ……しかしながら、そこまで逃げることを期待していたわけじゃあなかったんだがねえ。学友全員燃やされた程度じゃ足りなかったか。まったく──世話の焼けるガキだ」

 彼は『火達磨』。

 地球撲滅軍第九機動室の隊員にして──元放火魔である。


(第四話)
(終)