0
金と安全はタダ。
1
『最後の審判』という詰め将棋がある。
これはいわゆる双玉詰め将棋なのだが、ルールの盲点を見事についた作品であり、将棋という二人零和有限確定完全情報ゲームの完全さ、そして美しさを信奉する人々にとってはタブーにも近い悩みの種となっている。
千日手と打ち歩詰めのルールを戦略に組み込んだ詰め将棋という表現ではいまいち表現しきれていないけれど、要するにこの『最後の審判』は禁じ手のルールがパラドックスを起こしていることを世に示したのだ。
発表されて随分経つこの作品が投じた一石は、見て見ぬ振りをされ続けていると言うか、今もって棚上げされたままだが──もちろんそんな詰め将棋のことを、本編の主人公、空々空が知っているわけではない。彼は金の動かしかたと銀の動かしかたの違いも知らないだろう。
空々は一般的な中学生と同じように、将棋をする人のことを『なんとなく頭がよさそう』と思っている程度の認識だ──『将棋をする人とルービックキューブを回している人は頭がよさそうに見える』とか、そんなものだ。
まあルービックキューブくらい、パターンとルーチンで解明できるパズルもないので絶対に一緒にはできないけれど、しかし、そんな空々の存在こそが、地球撲滅軍にとっては、あるいは怪人──『地球陣』にとっては、『最後の審判』のように、これまで続いていた、地球と人類とのルールの盲点をつく存在なのだった。
戦局のバランスを崩す、徹底的に崩壊させる存在なのだった。
その重要さは今のところ『地球側』(?)には露見しておらず、そして誰よりも、本人が気付いていない。
空々空。
いまだ彼には戦う理由も目的もない──ただし、無私のヒーローであるスーツアクター『グロテスク』には、そもそもそんなものは必要ないのかもしれなかった。
2
「『地球陣』っていうのは……、世界中に……、社会中にいる」
マンションに戻ってきて、苦心してボディスーツを脱いだ。隙間なくフィットする作りなので、着るよりも脱ぐほうが大変だった。当然、それに剣藤の手を煩わすことになる。煩わすという言葉が、本当にしっくりくるくらいに。もっとも、かかる時間は、着るよりも脱ぐほうが早く済むようだった。とは言えどちらも、三十分以上かかる大仕事であることに違いはなく、どうやらテレビに出てくる変身ヒーローのように、掛け声ひとつでがらりとドレスチェンジというわけにはいかないらしい。
着替えて、出掛けて、帰ってきて、また着替えてという工程を済ませた頃には、もう夕方を過ぎていた。剣藤は作りかけのまま放っていたうどんをそのまま晩御飯にすることを提案し、空々に不満があるわけもなく、同意した。一も二もなく同意した。彼は食べ盛りの子供なのだ。
そしてうどんを食べながら、剣藤は空々に、先ほどの怪人について説明するのだった。それを聞いて空々がまず第一に思うことは、剣藤はものを論理立てて、順序立てて説明するのがとても苦手らしいということだったが、しかし『じゃあお前が同じことを説明してみろ』と言われたら、やっぱり同じくらいしどろもどろにはなっていたかもしれない。
それくらい『怪人の定義』は、一筋縄ではいかないものだった。
もとより、知らない者からすれば、それを知らなかった者からすれば、信じられず、受け入れがたい話ではあるのだから。
「人間社会のあっちこっちに紛れ込んでいる……、絶え間なく混在しているって感じかな。巧みに人間に『擬態』してね」
「擬態……ですか」
「どうやって擬態しているのかはわからないんだ。一貫して、調査中、研究中、実験中。きみがもらったあのスーツと同じ仕組みじゃないのかって、昔は言われてたんだけど。つまり光を捻じ曲げて、そしてその光を色づけしているんじゃないかって」
「ああ。それなら、『あるもの』と『見えるもの』は変わってきますよね。光を色づけする技術って言うのが、具体的にどういうものなのか想像しにくいですけれど……、まあ、映写機みたいなものでしょうか?」
いずれにしてもそんな理屈の延長線上だと言われれば、納得できそうだ。『グロテスク』のボディスーツを、更に一段進化させれば、そういう形になるのかもしれない──いわゆる二段変身という奴だ。
「でも、『昔は言われてた』っていうことは、その仮説は間違っていたってことですよね」
「うん。そういうこと……、今は、これもまだ仮説の段階だけれど、でも強い仮説として、人間の脳が『それ』を、直視することを拒否しているんだって言われているよ」
「直視できない……直視できない、美しさということですか」
数時間前に見た怪人の姿を思い出そうとする。
しかしその像は、うまく頭の中では結ばれなかった──思い出すことができない。ぼんやりとも思い浮かべられない──記憶からごそっと削除されたかのようだ。これが『脳が拒否している』状態なのかもしれない。いや、それならば見ることさえできないはずだから、剣藤が言っているのはそういうことではないのか。
「『それ』を『美しさ』と表現することには、私は強い抵抗があるけどね……、あいつらは私達の敵なわけだし」
うどんをすすりながら、剣藤は言う。言葉ほど険しい表情はしていない。自分で作った料理のうまさを存分に味わっているのかもしれない。空々の味覚も、『このうどんは味がちゃんとしている』と思ってはいる。『おいしいのだろう』とも。
「まあ、私は実際に見たことがないから、そう思うだけかもしれない。見たら意見が変わるかも……理屈じゃなく、『美しい』とも思わされてしまうかも。……だからこそ、見たら目が潰れちゃうんだけれどね」
「目が潰れるというのは、この場合、どういう意味を含んでいますか?」
「ん? どういう意味って?」
「視力が失われるということですか? 脳の機能の一部が停止するということですか? それとも──リアルに眼球がぐちゃっと破壊されるということなのでしょうか」
細かい違いで、結果としてはすべて同じのようにも思えるが、しかしその細かさは、実際にこれから、恐らくそれを『見る』、そして『見続ける』ことを要求される空々にしてみれば大きな違いだ。
「そして、潰れたという目は、快復するのでしょうか」
「色々気にするね……、もっとおおらかな性格を期待していたけれど、そらからくん、思ったよりも気にしぃなんだね」
「……はあ」
曖昧に頷く。気にしぃと言われれば、その通りなのだと思う。だからこそ、空々は飢皿木診療所に行くことになったのだから──ちなみにこの時点ではまだ彼は、飢皿木診療所を訪れたことが、今の状況を招いた引き金であるということに気付いていない。
現状ではっきりしている断片的な情報を繋ぎ合わせていけば、簡単に導き出せそうな結論ではあるのだが、そこまで考えが及ばないのが彼なのである──飢皿木博士との感動の再会は、このままいけば彼にとって遠からず訪れるイベントであるはずなのだが、果たして。
「でも、何かの間違いで、目が潰れたら嫌ですし」
「一度見て大丈夫だったなら、ずっと大丈夫だよ」
太鼓判を押すようなことを言うが、よく考えればまったく根拠のない発言である。今まで見た人間が全員目を潰しているというのであれば、何の類例もないではないか。
「大体、『ものは試し』みたいな感じで、物見遊山のようにあのビジネス街まで怪人を見に行きましたけれど」
「物見遊山はないでしょ……敵情視察、だよ」
「いや、まあ、使用する四字熟語は何でもいいんですが……、あれでもしも、僕の目が潰れていたらどうするつもりだったんです?」
彼にしてみればただの素朴な疑問だったが、しかしそれは、あまり、訊いたことを褒められない疑問でもある。相手が『寸刻み』だったからよかったようなものの、『茶飲み話』にこの質問をしていたならば、今後の関係性が変わってしまいかねないような問いかけだ。
もしも空々の目が潰れていたらどうするつもりだったのか。
そんなことは決まっている。
特にどうするつもりもなかった、だろう。いや、どうするつもりもなかった、と見るのは、やや希望的観測が過ぎるかもしれない。怪人を視認できる稀有なる存在としての空々空のために、無辜の人々を躊躇せず虐殺した地球撲滅軍が、その稀有なる存在が『偽り』、『勘違い』だったときに、一体どんな隠蔽工作を図っていたかなど、精神の健康のためにはあまり考えないほうがいい。
とにかく彼はもっと自覚すべきだろう。
こんな高級マンションに住まわされ、世話係の人間と同棲し、おいしいうどんを食べられている現状は、決して地球撲滅軍の優しさから、まして博愛精神から生じているものではないということを。
この生活は彼の特異な才能あってのことだということをもっと自覚すべきだろう──間違っても、その才能を軽んじるようなことを言ってはならないのだ。
とにかくこのシーンでは、立場の上でも知識の上でも、
「さあ……」
としか答えられない剣藤が質問の相手だったので、特に禍根は残らなかったから、本当によかったものの。
「いや、でも、そのリスクはきみも、最初から想定していたんじゃなかったの……? いざというときの介護のために、私を同行させたんじゃない。いい度胸してるなあって、私は思ってたよ」
「ええ、まあ……で、どうなのでしょう」
「『目が潰れる』という表現に込められた意味は、そうだね、きみの言ったパターンのすべてを含むね」
「すべてを? って、それはつまり……」
「物理的に眼球が壊れて、視神経も役立たずになり、脳が破壊される──とまではいかないけれど、精神にも変調を来すことになる。そこまでは、『茶飲み話』から聞いていなかった?」
「はい……まさかそこまで酷いことになるとは」
眩しくて目が潰れる、としか聞いていなかった。
普通ならその情報だけでも躊躇しそうなものだが、空々は『ゴーグルを通して見たら目が潰れるなんて、日食の逆だ』と思ったくらいだった──危機感がなかったわけではないが。
しかし足りなかったのは確かだ。
「だから私達は、怪人と敵対しながら、対峙しながら、いまだ怪人の姿を捉えてはいない……捉えた人間が『そう』なっちゃうんじゃあ、ね」
「僕は、絵を描けばいいんですか?」
ややズレたことを空々は言った。ズレてはいるが、彼なりに一生懸命考えて出した結論ではある。
「今、あの怪人がどんな姿をしていたかっていうのを、残念ながら頭に描くことはできないんです……不思議と記憶に残らないとでも言うんでしょうか。でも、見ながらなら、スケッチできると思いますから」
「……もちろん、そういうスケッチもしてもらうにこしたことはないけれど、だけど私達は、っていうか『茶飲み話』は、モンタージュ作成のためだけに、きみにあのボディスーツをプレゼントしたわけじゃあないと思うよ」
剣藤はうどんを食べ終わった。空々はもう食べ終わっている。食事をしながらの会話は、ここまでのようだった。
「ヒーローの仕事はあくまで戦うことだよ、そらからくん。きみは怪人を倒すんだ」
「倒すっていうのは、殺すってことですか?」
「うん」
3
「私は今まで九匹の『地球陣』を殺している」
剣藤が洗い物を終えて、再びふたりはリビングのテーブルで向かい合う。今までのところ、空々はこのマンション内において、何の家事手伝いもおこなっていない。手伝おうとも思っていない。母がすべての家事を担っていた空々には、そういう習慣がないのである。彼が『共同生活を送る以上、家事は協力しておこなうべきだ』という価値観をまだ学んでいないのは、どちらかというと手伝われたくはないだろう剣藤にとっては、しかしありがたい話なのかもしれない。
「この数字を多いととるか、少ないととるかはきみ次第だけど、私は多いほうだと自負している」
「はあ……」
剣藤がどれくらいの期間、地球撲滅軍として活動しているのか知らないので、きみ次第と言われたところで空々には多寡のほどは判断しかねたが、しかし、剣藤の年齢を見る限り(その年齢も今のところ、空々視点でははっきりとしたところはわからないが、十六~十八だと、なんとなく思い始めている)、そう長くはないだろうことは予想できたので、
「まあ、多いんじゃないでしょうか」
と言った。追従の気持ちがなかったわけではないけれど、基本的には素直な答である。
「そう言ってくれると嬉しい」
もっと素直な答が返ってきたのは意外だったが、
「ただし、これ、本当に九匹なのかどうかはわからないんだな」
と、続けて彼女は言ったのだった。
遅ればせながら空々は、剣藤が怪人、『地球陣』のことを『匹』で数えていることに気付く。見た目(少なくとも、剣藤からすれば)が人間そのものの生き物(か、どうかはわからないが、『殺す』という表現を使っている以上、そういう認識なのだろう。地球を生命体と見做しているのと同じかもしれない)を、『匹』で数えるのには、なんだろう、強い敵意、あるいは蔑視を感じる。
それを感じ取れないほどに子供ではなかったが。
それに感情が動かないのが空々である。
「なぜなら九匹の中に、人間が混ざっていたかもしれないから」
「……確認できないんですか? 『擬態』って言うなら、死んだら解けそうなものですけれど」
剣藤はここで、自分は怪人と間違えて人間を殺したことがあるかもしれないという、聞きようによっては地球撲滅軍の根幹にかかわるような告白をしたのだが、それを空々は、特に気付かずに受け入れ、普通に話を進める。
『倫理に関する過剰な演技』は、本人が気付いてこそなのだ。
「死んでも解けない。連中の『擬態』はそのまんま『生態』なんだ──いや、『死体』になっても変わらない。その場合は『死態』だね。というか見た目……外装だけの問題みたいにこれまで語ってきたけれど、腑分けしようが解剖しようが、『地球陣』は人間と区別はつかないんだ」
「…………」
腑分けしようが解剖しようが人間とは区別のつかない生き物──それはもう人間なのではないだろうか、という疑念が、空々の頭を過ぎる。混ざっていたかもしれないというような言い方を剣藤はしたが、混ざっていたどころか、極論、九匹すべてがただの人間だったという可能性もある……しかし、その疑念は口にしないほうがいいだろうと、空々は口をつぐむ。
「つまりまあ、光を捻じ曲げて云々の仮説が崩壊したのは、だから、怪人の死体の解剖を実行できたときなんだけれどね……、ああ、ちなみにこれ、結構最近だから」
「最近?」
「地球が人間社会に怪人を送り込んできたのがいつからなのかは判然としないけれど……、ひょっとすると、人類の始まりの頃からずっとあったのかもしれないけれど、とにかく、そのことに人間側……、人間側の一部が気付いたのが、およそ五十年前」
『人間側』を『人間側の一部』と言い直したのは適切だろう。そこをひと括りにするのは無理がある──地球撲滅軍の規模が、それに類する組織の規模がどれほどだったとしても、それは『一部』の範囲を逸脱するものではないだろう。
「それからの五十年は、『地球陣』を『見つけ出す』ために粉骨砕身することになった。最初の一匹を『殺した』のが十年前……もっともこれは、事故みたいなものだった。確実に特定し、殺したのは、たったの四年前だよ」
「四年前……」
「……私が地球撲滅軍に参加する以前のことだ。『蒟蒻』の手柄なんだけど……」
また『蒟蒻』か。『茶飲み話』の評価も高いようだしその手柄、どうやら『蒟蒻』は、地球撲滅軍内において、相当の重要人物であるらしい……名前の割には。
そして剣藤が地球撲滅軍に加入したのは、ここ四年以内ということがわかった。わかったからどうということもないが、それで九匹は(本当に九匹だったら)多いほうなのだろう。
「あ、そうだ。じゃあ……」
と言いかけて、空々はやめた。剣藤は不思議そうな顔をしたが、その顔につられて、『やっぱり言おう』とは思わなかった。思いついたのは、『その殺した「地球陣」の死体は、(死体の形で残っていれば)きっと研究対象として保存してあるだろうから、その死体を僕が確認すれば、剣藤さんが今まで殺してきたのが怪人だったか人間だったか確認できる』ということだったのだが、しかし、言うべきではないと思った。
怪人のスケッチなど二次的だ──みたいなことを言われたが、その『死体確認』については、むしろしないほうがいいくらいのことに思えた。だって、それは、『組織内における失敗の証明』をするということになるのだから──そんな危険で嫌われそうな仕事を、自ら率先してしたくはない。
『危険』はともかく、『嫌われそう』はつらい。空々の性格からして、地獄のようにつらい。
言葉の接続の不自然さを強引に押し通すように、空々は言う。
「でも、どうして地球は、……地球はそんなことをするんですか? 怪人を人間社会に送り込むっていう行為の意味が、なんだろう、よくわからないんですけれど」
言いながら、『地球という生命体がどこか(宇宙?)で、神々しい怪人に指令を出し、人間社会に送り込んでくる図』をイメージしようとしたが、うまくいかなかった。『神々しい怪人』自体がイメージできないのもそうだが、指令を出す地球というのが、空々にとってはシュール過ぎる。
まさか喋って、口頭で指令を出しているわけでもないだろうが。
「目的は人間社会の蚕食、かな……私はそう聞いている。それだって、色々仮説はあるけれど……、強い仮説は、それだ。地球は、人間を滅亡させるために、色々な手を打ってきているわけだよ。たとえば地球温暖化とか地球寒冷化とか……、それと同じ、『打ってきている手のうちのひとつ』が、『地球陣』って感じなのかな。それぞれを担当するセクションがあるけれど、私達第九機動室は、基本的には、その『地球陣』を担当する部署ということになる」
「担当……する」
要は殺害するということだ。
「大手の会社だったり、教育機関だったり、……あるいは政府だったり、そういう人間社会の中枢に『食い』込んで、組織の方向、組織のありようを変えてしまう。それは組織そのものを崩壊させる方向へと働くこともあれば、組織が社会を破壊する方向へと働くこともある──極端な例だけれど、一国の軍事大臣が怪人だったと想像してみて? 戦争が起こる──かもしれないよね。その結果、人間社会は膨大なダメージを受ける……かもしれない」
それは本当に極端な例だろう。かもしれないと語尾につけてもカバーできない極端さだ。そもそも戦争だってやりようによっては、人間社会の発展に繋がることもあるのだから。だがたとえ話としては、単純に『戦争は悪いもの』という教育を受けている年齢の空々には、とてもわかりやすかった。
「……『地球陣』は、人間社会の主要ポストを奪い、人間社会の主導権を握ることが目的ということですか」
主導権を、というのは、あえて柔らかい言葉を選んだ。本当は生殺与奪の権利を、と言いたかった──だけどその権利はまさに、今の自分が地球撲滅軍に握られているものだったので、言えなかった。万が一、話がそちらに流れていったら、好ましくないことになる。
「主要ポストとは限らないけどね……、『大手の会社だったり』ってたとえは、あくまでも伝わりやすさを追求してのものであって。大手でなくとも、大手の下請けの孫請けでも、そこの一社員が書類仕事で不正をおこなったというただそれだけの事実でも──連鎖して連鎖して、積み重なって波及すれば、社会に大きくて深刻な影響を、甚大なダメージを与えかねない。ほら、よく言うじゃない。風が吹けば砂埃が舞うって」
「言いましたっけ」
「……冗談だよ」
真面目に反応してしまった空々に、剣藤は、やや気まずそうに俯いた。冗談を言い合えるほどに打ち解けた関係ではないはず、というのが空々の認識だったのだが、ひょっとすると剣藤の認識は違ったのだろうか?
この人は僕のことをどう思っているのだ。
そんなことが初めて気になった。
「風が吹けば桶屋が儲かる……だね。正しくは。怪人が躍れば、社会が崩壊する、んだ」
「でも、剣藤さん……その理屈だと」
また余計なことを言いかけて、空々は再度、口をつぐむ。組織の主要ポストに入り込むとか、人間社会に紛れ込むとか、そういうことを想定しての怪人の『擬態』だと言うのならば──地球が人類を滅ぼすために打った手だと言うのならば、これこれこういう可能性だって考えられるはずだ、と空々は言おうとしてしまったのだ──言わなくて本当によかったと思う。
これこれこういう可能性──つまり、『じゃあ地球撲滅軍の内部にも、怪人はいるかもしれませんよね』、と。
もちろん、言われるまでもなく、内部でそれを考え、対策している者はいるだろうが──対抗策は講じられているはずだが、そんなことを今ここで、剣藤相手に言う必要は絶対になかろう。話の流れが『じゃあ組織内の人間のチェックをそらからくんにやってもらおう』ということになっては、それこそ敵わない。
『失敗の証明』どころか、『内部に潜む裏切り者の発見』なんて役目を負わされては悲惨の一語だ。どこの公安なのだ。それもまた、あのゴーグルを使えるのが現状組織内に空々だけであると言うのなら、要請されれば断るわけにはいかない仕事だが、しかし自分から言い出すことではない。
「……さっきからそらからくん、『言いかけてはやめ』って言うのが多いけれど……、何かあったら言ってよね? 一緒に暮らしているんだし、隠し事はやめて、腹を割って話そうよ」
「はあ……はい」
曖昧な頷きになりそうだったのを、改めてきっちりと頷く。頷いたからと言って、腹を割ることはできないけれど。自分の立場云々のこともあるが、下手なことを言って剣藤を怒らせたらという恐怖は、どうしても抜けない。
昨日車内で浴びた殺気は、どうしても忘れられない。『大いなる悲鳴』は、地球撲滅軍の仕業じゃないのかという、(彼らが言うには)あらぬ疑いをかけられたときに、『茶飲み話』と『寸刻み』が合わせて発したあの殺気は、空々の骨の髄まで染み込んでいる。
今は甲斐甲斐しい風に、空々に風呂を勧めてくれたり、料理を作ってくれたり、着替えを手伝ってくれたりする剣藤だが、彼女がその気になれば、空々など、全身輪切りにされてしまうのである。
…………。
いや、そうだ。『大いなる悲鳴』だ。
あれがもしも地球撲滅軍の主張の通り、地球の悲鳴だというのなら。
「剣藤さん。地球が人類を滅ぼしたいと思っているのなら、あの『大いなる悲鳴』を、あと二回か三回、連続で発せばいいだけじゃないんですか? そんな、怪人を送り込むとか、温度や湿度、気圧やオゾンホールみたいな、環境を調整するとか、細かいチューニングをするんじゃなくって……」
「……まあ、そうだね。それはきみの言う通りだよ。だけど、あれは地球にとっても最後の手段というか……、あんまり使いたい手段じゃないんだと、私達は考えている。少なくとも、あの規模では。だって、きみの言う通り、『そうすればいいのにそうしない』というのは、それができないからじゃないのかと考えるべきだもの。仮に『あの攻撃をするためのエネルギー充填には相応の時間がかかる』だけだとしても、その待ち時間の間に、私達は諦めずに行動を続けるべきだろうし」
「諦めずに、ですか」
空々が外部の人間だから(いや、状況的にはもう十分に内部の人間だが、彼の意識として)そう思うだけかもしれないが、剣藤の言いかたはあまりに希望的観測に満ちている気がする。『今この瞬間に二回目の「大いなる悲鳴」が響いたら』という可能性を反証する方法がない以上、机上の空論でさえなく、その希望は幻にも似た、砂上の楼閣なのだ。
「地球の考えていることなんてわからないよ。地球のやることなんてもっとわからない。だから私達は、考えられる限りのことをして、やるべきことをやるだけ。そうでしょう?」
「そうですね」
同意を求められても困ったが、空々は首肯した。自分にはそうするしかないのだと知っていた。剣藤と同じように言うならば、地球撲滅軍の考えていることなどわからないのだから、空々はどれほど言いたくなっても、言うべきでないことは言わずにいるべきなのだ。
ただ、しかし問題は『言いたいこと』ではあっても、『言うべきでないこと』なのかどうか、空々にもよくわからないことをどうするべきなのかだった──聞くべきことは聞くべきなのだろうが、しかし聞きたいだけのことは、どうすればいい?
聞こう。と、思った。
これは策略とか、感情が動じない彼の人間性に由来するものではなく、さっきから一方的に言いたいことを言われているから多少はやり返したいという、単なる子供っぽい、意地のようなものの発露だったかもしれない──なに、腹を割って話そうといったのは向こうだ。
「あのう、剣藤さん」
「なにかな、そらからくん」
「初めてのとき、剣藤さんはあの『大いなる悲鳴』を聞いてないって言っていましたよね──あれってどういう意味なんですか?」
気になっていたことだ、とは言えない。今思い出したことである。その後高熱で魘されたり、家族や友人が皆殺しにされたりしたので、記憶から飛んでいたが──しかし、今は判明した彼女の所属や立ち位置を考えると、それは冗談では済まされない発言であるようにも思える。
大体、聞いていないというのなら。
あのとき発した殺気はなんだったというのだろう。
知りもしないもののために──彼女はどうしてあそこまでムキになったのだろう。
「…………」
途端、剣藤は赤面した。頬を紅色に染めた──恥ずかしくなったのか、怒ったのか、とにかく、指摘されたくないことを指摘されたというような態度だった。どうして? あのときは、随分とさらっと言っていたような気がするが……その割に、そこまで聞かれたくないことだったのだろうか?
「剣藤さん?」
「は、初めてのときとか……、そういう言いかたはやめてくれないかな。セクハラだよ、そういうの」
「は?」
と、虚を突かれた形の空々だったが、理解した。『初めてのとき』という空々の言葉を、どうやら剣藤は『初めて会ったとき』ではなく、『初めてキスしたとき』という意味に受け取ったらしい……驚異の連想だった。
「初めてとか……二回目があるみたいな言いかたしないでよ。そ、そういうの……、暗に要求されても困るんだよね。いやね、そらからくん。私はあなたの面倒を見るようには言われているけれど、そういう方面の面倒を見るっていうのは違うと思うんだよ。ううん、もしもそらからくんから強硬に命令されたら、私は従わざるを得ないけれど……お姉さんはあんまり感心しないな、そういうの」
「……えっと」
言葉が足りなかったのは確かに空々のほうかもしれないけれど、しかし軽く説教までされてしまうと、さすがに理不尽なものを感じる……、『誤解されて責められる』というのは、空々にはつらい。だけど、『あの行為』のことを、話題に上げ続けるのが恥ずかしいのは、思春期真っ只中の空々にしても同じだった。なんとなく、触れるのはタブーである気さえしていた。
だから、
「ごめんなさい。デリカシーに欠けました」
と謝って、話を終わらせることにした。
お礼を言うことはできなくとも、謝ることはできるらしい。
「ただ、下心があっての発言ではありません」
「本当……?」
ジト目で見られる。責めるような目は本当にしんどい。後ろめたいことは何もないはずなのに、追い詰められている気分になる。やってもいない罪を自白してしまいそうだ。
「ほ、本当です」
「……わかった。信じてあげる」
「じゃあ」
と、話を戻す空々──と言うより、一刻も早く今の話から離脱する。やっぱり余計なことを言うべきではなかったと思いながら。
「初めて会ったとき、剣藤さんはあの『大いなる悲鳴』を聞いてないって言っていましたよね──あれってどういう意味なんですか?」
律儀に言い直した空々に、剣藤は、
「どういう意味もこういう意味も、そのまんまの意味だけれど……」
と、素っ気ない言葉を返す。赤面からまだ完全には回復していないので、案外その素っ気なさは、照れ隠しの結果なのかもしれない。空々は年上のはずの、『大人』のはずのこの少女から、時折、可愛らしさを感じるようになってきた。
「ああ、そうだね。そういうことは、話しておいたほうがいいのかな……、そらからくんが、『怪人を見られる』という才能を買われたからスカウトされたように、私は『地球の悲鳴が聞こえない』という才能を買われてスカウトされたんだ……そんな才能は、唯一かどうかは調べようがないにしても、少なくとも数少ないらしくって。地球撲滅軍には、私の知る限り私しかいない。そらからくんほど直接的に役に立つかどうかはわからないけれど、まあ、その特殊性は何かの役には立つんじゃないかってことでさ」
「……え? あれ? だとすると……ちょっと待ってください。じゃあ剣藤さんが地球撲滅軍に入ったのって、早くても半年前ってことですか?」
だとすると、その期間で怪人を九匹狩ったというのは、いくらなんでも多過ぎる──人間が何人混じっていたかは置いておくとしても、働き過ぎなくらいだ。だが、とても信じられない。剣藤犬个が、ほんの半年前まで──ただの一般人だっただなんて。
ただの一般人が、どれほどの経験をすれば、何食わぬ顔をして一家惨殺を成し遂げるような『軍人』になれるのだろう?
「違う。私が所属したのは、二年前くらい」
が、それは空々の早とちりだったようで、剣藤はそう訂正した。
「二年前、そらからくんとおんなじようにスカウトされた。私の家族を殺したのは『火達磨』だったから、危うく私も焼かれるところだったけどね……」
「…………」
空々くんとおんなじように、という言葉の意味が重過ぎた。その重さを感じない空々だからいいようなものの──いや、決してよくはない。ただ、空々にしてみれば、どうでもいいだけだ。
「『大いなる悲鳴』ではない、地球の悲鳴自体は、昔からあったんだよ、そらからくん。軍ではそれを『小さき悲鳴』と呼んでいたけれど……、もっとも範囲は限定的で、半径数十メートルの中で、精々一度に十人、二十人くらいを殺せるだけの『悲鳴』が、数年に一回、あるかないかって感じで……、だから迂闊にも地球撲滅軍は、それをそんなには重要視していなかったんだけど……」
「……数年に一回」
そう言えばさっき剣藤は意味ありげに『少なくともあの規模では』と言っていたか。
だとすれば『大いなる悲鳴』は、想定できた災害ではないのかと思ったが──たぶん、まったく想定していなかったわけではないのだろう。だからこそ、その『悲鳴』が聞こえないという剣藤は、スカウトされたのだ。
ヒーローになれなかった。
失敗した英雄。
牡蠣垣や剣藤の言葉の端々にあったそんな言葉の意味を、空々は理解した──つまり、剣藤は『大いなる悲鳴』を防ぐことができなかったのだ。
だからこそ、あの車中での殺気。
そしてあの温厚そうな振る舞いを見せる(あの現場で優雅に紅茶を飲んでいたところを見ると、もちろん本質はそう温厚でもないのだろうが)『茶飲み話』が、唯一激昂した場面があそこだったことを思うと、当然、牡蠣垣もその企画に一枚噛んでいたのだろう。
「まあ、なにぶん規模が違い過ぎるから、それまでの『悲鳴』と、半年前の『大いなる悲鳴』は、異なるものなんじゃないかとも言われているけれどね……、でも、どちらにしても、どちらも私には聞こえなかった」
「…………」
「二年前、私は高校一年生だったんだけど、校外学習の場でその『悲鳴』に遭ってね。班の子がみんな死んだんだけど、私だけは生き残って……、『小さき悲鳴』は、範囲が限定的な代わりに、致死率は三分の一どころじゃなくて、百パーセントだったから、私みたいな生き残りは当時、本当に珍しかったらしいの。だから、貴重だって言われて……その後はさっき話した通り。まあ私の場合は家族が焼かれただけで、そらからくんみたいに学校ごと焼かれたりなんてしなかったけどね……、それは重要度の違いなのかも。それとも──」
今度は『言いかけたところで黙る』ということを、剣藤がした。
『それとも』のあとに、彼女が何を続けようとしたのかは空々にわかるはずもなかったが、もちろん彼は、そんなことを気にしなかった。剣藤がここで、何を言おうとしたのか。空々がそれを思い出すのは、随分と先のことになる。
「……いずれにしても、『小さき悲鳴』と違って、『大いなる悲鳴』では殺せない人間がいる以上、地球も色んな手を打たざるを得ないんだと思う。さっきも言ったけど、『大いなる悲鳴』は、本当に切り札なんだろうね──そして『色んな』のひとつが『地球陣』。そのひとつっていうか、結局、それが一番厄介なんだよね──地球温暖化を防ぐ手立てを打つとか、あるいは森林面積の減少を解消するとか、そういうことは人間の総合力で、一致団結すればいい方向に持っていけなくはないんだけれど──一致団結すべき人間の中に怪人がいるんじゃあ、全体が崩れる」
「戦術のひとつが究極的には、すべての戦局に影響があるということですか……」
「だから怪人は殺さなければならないの。そらからくんは」
剣藤は言う。何度目かになる台詞だ。
「そらからくんは怪人を殺さなくてはならないの」
「……僕が見つけて剣藤さんが殺す、じゃあ駄目なんですか?」
「駄目」
頑なだった。別に、そこまで本気でその主張をしたつもりもなかったが、それにしたってにべもない言いかただった。取りつく島もない。
「絶対に駄目。そらからくんが見つけて、そらからくんが殺すの」
「はあ、まあ、ヒーローが怪人を倒すのは……」
「倒すじゃない。殺す。間違えないで」
「…………」
「そらからくん。そらからくんは『怪人を見られる』からスカウトされたんだけど──でも、それは第一の理由であって、第二の理由も、ちゃんとあるんだよ。もちろんそれは第一の理由とも繋がっているんだけれど……、きみが地球撲滅軍に三顧の礼をもってスカウトされたのは」
三顧の礼とやらを受けた記憶はなかったが、これは単に、最大級に敬意を払った対応をもって迎えられているのは、というような意味合いなのだろうと空々は理解した。
しかし続く言葉はどのようにも理解しがたかった。
「きみが怪人を殺せるからなんだよ」
4
野球に熱中するようになってからは、あまり熱中してテレビを見ることはなくなってしまったが、空々も子供の頃は──今も子供だが、幼稚園とか、小学校一年生のときとかまでは、テレビでヒーローものを見たりすることもあった。
変身したヒーローが敵をばったばったと倒す様子を見て、まあその頃から彼は、血沸き肉躍る戦いなどには特に何も感じたりはしなかったのだが、親が自分に期待するような反応を、それなりに無自覚にしたりしつつ、考えていたことがあった。
どうして敵を生け捕りにしないのだろう──だ。
生け捕りにして、捕虜にして、敵の情報を聞き出し、本拠地を突き止めたり、組織の規模を聞き出したりすれば、その後の戦いをかなり有利に進められるはずではないか。
こちらの戦力が圧倒的に少ない以上(空々が見ていたヒーローものでは、少数精鋭と言えば聞こえがいいが、仲間を合わせても精々数人という小規模な団体だった)、それは絶対にするべきことだった──間違っても必殺技を使用し、怪人を爆発させてしまうなんて、やってはならないことのはずだ。
幼稚園児にもわかるようなことをどうしてヒーローはしないのだ──まあもちろん、空々園児のそんな疑問に対する答は『大人の事情』なのだが、しかし地球撲滅軍が、怪人──『地球陣』の生け捕りを目論まないのは、彼らが組織として過激派だから、というわけではない。
過激派ならばむしろ、捕らえての非人道的な拷問も厭わないだろう。
人斬り集団として歴史に名を残す新選組は、しかし意外と人を斬らず、基本的には生け捕りを旨としていたという──有名な池田屋事件でも、大半の敵は、生かして捕らえている。
生かして捕らえ。
そして目を覆いたくなるような、辛酸を極める拷問をするのが彼らのやり口だった。
もちろんそんな形容は現代の感覚であり、時代背景を鑑みれば、彼らの行いはむしろ正しい。
しかし、地球撲滅軍は怪人を殺す。その場で殺す。虐殺する。
解剖しても意味がないので、最近は死体を持ち帰ることすらしないらしい──大抵の場合、その場で処分してしまうらしい。『処分』というのは、きっと焼き尽くすとか、そんな感じなのだろうと空々は考えた。文字通り、一番後腐れがない。
それはどうしてなのかを、空々は訊いた──それに対する剣藤の答は、
「解剖しても意味がないように、尋問しても意味がないから」
だった。
「言うまでもなく捕らえたことはあるんだ──何度もある。今でもたまに、殺し損ねて、うっかり捕らえてしまうこともある。作戦上、どうしても捕らえざるを得ない状況とかも、場合によってはある。だけど彼らは何も答えない」
「黙秘権の行使ってことですか? でも……」
警察組織が逮捕状をとって取調べ室で犯人を尋問しているわけではないのだから、そんな権利が認められるとは思えない。当然ながら、弁護士の立会いも許されないだろう。
「黙らない。むしろ声を張り上げて、主張する。自分は関係ない、そんなことは知らない、お前達が何を言っているのかわからない、お前達は頭がおかしい──って」
「…………」
「拷問しても無駄。人質をとっても無駄。肉体的な苦痛も精神的な苦痛も無駄。助けてくれって言うだけ。許してくれって言うだけ。『その通りだ』って言う奴もいるけれど、絶対にこう続ける──『その通りでいいから、もうやめてくれ、許してくれ』って。そういう奴に薬を使ったら、むしろ『知らない』と言う──『これ以上拷問されるくらいなら、わけのわからないことでも自白したほうがマシ』だって言う。そうやって擬態を続ける──死ぬまで続ける。いや、だから、死んでも続けるんだ」
それは。
それは冤罪の構図なのでは──と思った。
黙秘権も、弁護士を呼ぶ権利も認められていないのだろうと推測したものの、しかしどうやら、裁判を受ける権利だけは認められているというわけだ──ただし、魔女裁判だが。
盟神探湯に手を突っ込むような。
「捕らえた……えっと、別に捕らえてなくともですけれど、怪人を怪人と判別できる証拠は、証拠となりうる何かは、ないんですか?」
「ない。区別はつかない。見た目もそうだけど、中身も、質問に対する受け答えも、まったく人間と区別がつかない。あるのは状況証拠だけ──だから、たとえ自白が引き出せても、情報が得られたとしても、その情報の確度は著しく低い。だから、生け捕りにする意味がない──だったら事後処理が簡単な、発見即抹殺のほうが得なの」
「……なるほど」
なるほど、と言った。そう言うしかない。他に何を言えばいい?
社会に出て、一番やってはいけないことは何かと言えば、それは『年上の人間に反論すること(反抗はいい)』だが、社会に出るどころか若くして社会の裏側に入ってしまった空々少年は、齢十三歳にして、それを自然に学んでいた。
「じゃあ、地球、もしくは『地球陣』とのコミュニケーションは、今のところどんな形でも成立していないってことなんですね」
「そうだね。それができる奴もまた、私やそらからくんみたいに、待ち遠しく思われているかもね──私は失敗したけれど」
地球の悲鳴が聞こえない剣藤犬个。怪人を見られる空々空。そこに地球と話せる人間が現れたら──確かに心強い。
心強いが、しかしその三人目の『ヒーロー』が、人間側についてくれるかどうかは微妙だろうと空々は思った。『地球と話せる』なんて特権は、特権としてあまりに強過ぎるし──それができるなら、地球側についてしまいかねない。『大いなる悲鳴』のことがあるゆえに、もしもコミュニケーションが取れるなら、降参したくもなるだろう……まあ、そんなのは自分にはおよそ関係ない話だろうけれど。
「そんなわけで、そらからくん。地球撲滅軍のメンバーとして、第九機動室の仲間として、最初の任務だよ」
と、剣藤はテスト範囲の要点をまとめる先生のように言った。
「今日見た怪人を、殺してきて」
そんな指令を受けて数十分後、空々は風呂に入っていた。
昨日はシャワーで済ませたけれど、今日はバスタブを使うことにした──頑なに一番風呂を空々に譲る剣藤に対する気遣いとしては、入浴後、お湯を入れ替えればいいだけということに気付いたのである。
水道代、光熱費がその分余計にかかってしまうけれど、そんなものは必要経費の内だろう──こんなマンションを『寮(みたいなものなのだろうと判断した)』として用意する組織が、そんなところできなきなすることは、まさかあるまい。
入浴剤を入れて青色に染まった湯船の中で、空々はぼんやりと考える。
まあ、殺すしかないのだろうなあと考える。
さりげなくことの実行を剣藤に担当してもらう方向に持っていけないものかと伺いを立ててみたのだが、それは頑なに断られたし……、あるいはその『怪人を殺す』という『作業』が、地球撲滅軍に所属するための儀式みたいなものなのかもしれない。
通過儀礼。
今は部室すら焼き払われたであろう野球部でも、そう言えば入部時に、そんなイニシエーションが存在した。それは新入生と二、三年生の練習試合で、新入生は全員、女子から制服を借りてきて、女装してプレイをするというものだった。
意味はわからなかったが、みんなが自然にやっているので、空々も当然、従った。そうするものなのだろうと思った。同じ小学校出身だったクラスの女子にお願いして、ブラウスを着てスカートを穿いて一試合を通した。ただでさえ上級生が相手なのに、借り物の制服ではスライディングができないので大敗もいいところだったし、試合を終えてみてもやっぱり意味はわからなかった。
だが、同じ新入部員に話を聞いてみれば、『これで野球部の一員になった気がする』そうだった。そう言われるとそんな気がして(そんな気がしなければいけない気がして)、空々も納得した。
その新入部員も、空々に制服を貸してくれた女子も、今やみんな焼けてしまったのだが、それはさておき、規模は違えど、そんなことを強いた上級生も、一年前ないし二年前にはまったく同じことを経験していたわけであり──あれは組織の一体感を高めるために必要な儀式だったと言われると、納得はできる。
だから、この『怪人殺し』も、そういうことなのかもしれない。
軍としては、一匹目だけを空々に殺させて、二匹目以降は、洗練された技術を持つであろう剣藤にやらせるつもりなのかも──だとすれば、本当にこの任務がそんなイニシエーションなのだとすれば、空々はこれまでのメンバーよりは恵まれているのかもしれない。
相手を『怪人』だと確信した上で殺せるのだから。
相手が人間であるかもしれない、という可能性を残した上で行為に及ぶことに較べれば、ストレスは段違いだ──本当にそうか? いや、それは、地球撲滅軍の人間は人類を守ることを目標に掲げながらも、人間、たとえば空々の関係者を殺すことにまったく躊躇がなかったのだから、そんなところで彼らはストレスを感じないだろうというような意味ではない。
そうではなく。
たとえ相手が怪人であることがはっきりしていようとも、通常、人間と絶対に区別のつかない生き物を殺すことに、ストレスを感じないなんてことが、果たしてあるのだろうか──と思ったのだ。
哲学的ゾンビという言葉がある。
これは哲学的に思考するゾンビという意味合いではなく、哲学的にしか存在しえないゾンビという意味合いでのネーミングなのだが──ざっくり言うと、『人間と区別がつかないゾンビ』である。つまり、外から観測する限りにおいて、そのゾンビは人間となんら区別できないのだけれど(見た目もそうだが、受け答えや感情の表れ、生理現象などもすべて人間と同じ)、しかしゾンビである以上人間ではなく、いわゆる『心』や『意識』を一切持たないと定義する(『心』や『意識』があるようには振る舞う)。
さて、そんなゾンビを想定したところで思考しよう。
哲学的ゾンビはゾンビか、それとも人間か?
たとえば友達が哲学的ゾンビだったとして、それを見抜けるかどうか──もちろん、見抜けるわけがない。どんな人間だって哲学的ゾンビかもしれないのだ──唯一『そうでない』と言えるのは、思考する自分だけということになる。
人間不信(ゾンビ不信?)になってしまいそうな考えかただが、しかし空々は地球が人類に紛れ込ませているという怪人の話を聞いたとき、すぐにその哲学的ゾンビという言葉を想起した。地球撲滅軍的には『地球陣』と呼んでいるようだったが、空々は密かに、あの美しい怪人を、哲学的怪人と呼ぶことにした。
確かに空々の場合はゴーグルで正体を確認した上で、哲学的怪人に挑める──だが、それは空々にしかわからないことであって、たとえば哲学的怪人の友人や同僚、(家庭を持っていたとすればだが)家族だったりにはわからないことだ。
彼らにしてみれば、ただの人間がただ死んだだけのこと。
ならばその胸中はいかばかりかという話である。
そもそも、例のゴーグルにそこまで信頼をおいてよいのかという疑問もあるだろう──あれが(そんな仕組みが果たして可能なのかどうかはわからないけれど)、特定の人物が、特定の正真正銘の人間が、モンスターに見えるというプログラムが組み込まれたゴーグルだったとすれば?
中学一年生に高熱剤とかいう怪しい薬を平気で飲ませる組織である。その程度の騙しは仕掛けてきても不思議ではない──その場合の目的はまるっきり不明だが、地球撲滅軍が有する『何をやってもわからない』感はどうしたって否めないし、疑いを完全に払拭するのは不可能だ。
だから──本来、空々の立場からすれば、剣藤からのそんな指令には、とても頷けたものではないはずなのだが、それらの疑念や条件をすべて飲み込んだ上で、やっぱり空々は、
「まあ、殺すしかないだろうなあ」
と、今度は声に出して呟くのだった。特に葛藤はなかった。
のぼせてきたので風呂をあがった。うっかり、お湯を入れ替えるのを忘れたのに気付くのは、翌朝、目を覚ましてからのことである。
5
「で、どうやって殺すの?」
「いや、別に考えてませんけど……、あのボディスーツを着ていけば、どんな風にだって殺せるでしょう?」
「そらからくんって馬鹿なんだね」
「え? いやそりゃ、別に成績はよくなかったですけれど、そんなにはっきり言われるとびっくりしますね。なんでですか?」
「色々理由はあるけれど、まあ、一番大きなのをふたつ。お姉さんが教えてあげよう」
「はあ。じゃあ教えてください、剣藤さん。僕が馬鹿な理由を」
「そらからくんが馬鹿な理由その一。世の中にはエネルギーってものがある。どんなものでも、エネルギーによって動いている。怪人だって、ご飯を食べなかったら死ぬ」
「はあ。そうでしょうけれど。え?」
「いやだからさ、透明になれるボディスーツ、きみが名付けたところの『グロテスク』だって、バッテリーで動いているってことだよ。つまりバッテリーが切れれば、透明化は終了する。ただの変な色の全身タイツになる」
「……え? 充電器なんて、でも、ありませんでしたけれど」
「箱の中に入っていたんだと思うよ……、小型化されてるから気付かなかっただけで。私の刀だって、バッテリーが切れたらただの刀だよ」
「え? あの刀……バッテリーなんて使っているんですか? あれ、電気で動いているんですか?」
「言ってなかった? あれも開発室からの技術提供なんだから……、今時の最新テクノロジーで、電池で動いてないものなんてそうはないと思うけど……破壊丸の切れ味は、数時間程度しか維持しない。もっとも、私の体力が、一時間も続けては持たないけどね……」
「そうなんですか……。電動の刀って、なんだかすごくがっかりですね……。『グロテスク』の持続時間は、どれくらいでしょうね? あの会社まで、行って帰って大丈夫だったんですから、最低でも二時間以上は持つんだと思いますけれど……」
「さあ……『再開発』は言ってなかったの? じゃあ、私が電話して聞いておいてあげるよ……、とにかく、それが何時間であれ、活動時間に限りがある以上そんな気楽な構えで向かったら、危険だよ。チャンスを窺っているうちに、可視化してしまうかもしれない。そうなったら、任務は達成できないでしょ?」
「……まあ、一つ目は納得しました。僕が馬鹿でした。そして剣藤さん、二つ目の理由は?」
「そらからくんが馬鹿な理由、その二。理由その一だけだったら、手早く済ませればそれで大丈夫なんじゃないかって話なのかもしれないけれど、だけどさにあらず。言ってしまえば、『グロテスク』って透明人間スーツなわけでしょう?」
「そうですね。有体に言えば」
「そらからくん。仮に、透明人間がきみを殺しに来たとしたら、そのとききみは抵抗のすべなく、絶対に殺されてしまうと思う?」
「そりゃあ、見えないんですから……あ、いや、ああ、違いますね。そうですか……そういうことですか、わかりました」
「うん。よくわかったね、偉いぞ。そう、見えないってだけじゃあ必勝じゃない……、必殺じゃない。たとえば、きみが怪人に近付いて、後ろからいきなりそいつの首を絞めたとしても、怪人は間違いなく抵抗するだろう──密着してしまっている以上、見えてる見えてないにかかわらず、相手の抵抗を食らわずには済まない。殴ったって、一撃で死ぬとは限らない。じゃあナイフで刺すでもしてみる? 銃で撃つとか? 無理。だって、そらからくんは透明化されていても、それらの凶器はされていないんだから」
「……透明加工が施されている凶器とか、ないもんなんですかね。『見えない姿』なんですから、『見えない武器』ってセットにしてもらえそうなものですけれど」
「そんな取り扱いの難しいもの、今のそらからくんが使えるわけないじゃない……ナイフなら刃を握っちゃうかもしれないし、拳銃なら暴発するかもしれないのに」
「抵抗……されたら、そして殺害に失敗したら、そのときはどうすればいいんでしょう」
「逃げるしかないと思う。だって、そのスーツは透明化の機能、それに軽量化に特化しているせいで、鎧としての機能はまったくないんだから。私の剣道着とは違う」
「ああ……、やっぱりあの剣道着も支給品なんですね。そうですか、あれはいわゆる防御機能があるんですね……」
「そういうこと。とにかく、その存在がバレてしまえば、透明なだけの人間に反撃する手段なんて、いくらでもあるでしょ?」
「そうですね……触って気付かれないわけじゃないんですからね」
「そして触らなくても気付かれるかも。忍者みたいに足音を消して歩けるわけじゃないし、場所によっては足跡も残っちゃうし。ドアを開けたり物を動かしたりすることにもいちいちリスクが伴う……気配や体温までは隠せないから、勘がいい人には『なんとなく』の違和感があるかもしれない。まあその辺は気をつければいいだけだとしても、そんなピクニックにでもいくみたいに、お気楽な気分で出かけられてもお姉さんは心配だよ」
「そうですか。すみません。心配をかけるつもりはありませんでした」
「謝られてもねえ。とにかく、色々考えて。『茶飲み話』からも、先輩面しないように言われたから、これは別に先輩からの忠告ってわけじゃないけれど、ここでいいとこ見せといたほうが、印象がいいよ」
「ヒーローとしての印象ですか?」
「そういうこと。だから」
「はい。色々考えます。怪人を殺す方法を」
人を殺す方法を。
6
朝食を食べ終えて、空々は、先輩からの忠告ってわけじゃない何かに基づいて、色々考える──考えている間に、先輩ではない人から受けた指摘通りに箱の隅に丸まっていた充電器で『グロテスク』を充電しておくことにした。
説明書は箱をどんなに引っ繰り返しても、逆さに振っても出てこなかったので、果たして『グロテスク』のフルチャージまで、どれくらいかかるかは不明である。充電が終了すればゴーグルにもその表示が出るそうだが……、しかしその機能から考えて、恐ろしく電気代がかかりそうな気もする。
それは空々が気にするようなことではないが……いやそもそも、この状況下、空々が気にするようなことはひとつだってないのだが。仮にあるとすれば、それは失敗した場合の対処、くらいのことである──剣藤に指摘されるまで、その可能性を考えていなかった彼もいい加減暢気だが(空々の頭の中では本当に、透明になれることはイコールで失敗しないこと、という楽観的な式が、成立していたのだ)、言われてみればこの任務、失敗の可能性のほうが高い。
剣藤が言うには、
「まあ失敗したとしても、その場で捕まらなければ、後のことは軍がフォローしてくれるから大丈夫だよ……、逆に言うと、その場で、現行犯で捕まることだけは絶対に避けて頂戴。もちろん警察庁にコネクションがないわけじゃないけれど、消費税を下げるみたいには簡単にはいかない」
とのことだった。
「消費税を下げるより、捕まった僕を解放するほうが大変なんですか?」
「違法行為だからね……」
他人事のように言う。
なんというか、文化が違う国の異様な風習を、それでも『それはそれで尊重しなくちゃいけないよねえ』と、理解がある風を示すような言いかただった。たとえば、外国人が、『私は食べないけれど、日本人がクジラを食べるのは伝統だから、認めてあげなくちゃ』と言ってるような。
いや、逆だ。このたとえは逆だ。
『私はクジラを食べるけれど、食べない人もまあいるよね』だ。
「それに、『地球陣』が警察組織の中にいないとは限らない。っていうか、たぶんいる」
「…………」
「だから、手を尽くしてみても、そう簡単には助けられないかもしれない。実際、そういうことはあった。一番やっちゃいけないことは、怪人を殺して、だけどその場から撤退し損ねて、現行犯で捕まって、そのスーツやゴーグルというシークレットアイテムの存在が世間に露呈してしまうことかな……、あ、そうだ。『茶飲み話』も言ってたけど、私達地球撲滅軍って、秘密組織だから」
今更のような言葉だった。
それに『失敗したとしても』『大丈夫』なんて安全を保障するようなことを言われても、とても気楽には構えられない。フォローしてくれるはず、たとえ捕まっても自分はヒーローだから助けてもらえるはず、なんて考え方は危険だ。
失敗したら切り捨てられる──と思っておいたほうがいい。はずだ。
『そういうことがあった』なんて、曖昧な言いかたでぼかしているが、それは『そのときは助けられなかったから見捨てた』という意味なのではないか。あるいは、もっと酷い意味なのではないか。
だからここは、ヒーローとしての初戦は、絶対に成功しなければならないと考えて動くべきなのだろうと、空々は考えた。
体力はあるほうだ。十三歳にしては、だが──これでもスポーツ推薦で名門野球部に入れるような十三歳なのだから──色々考えていたら、コンセントに繋がれたスーツから、ギィィイイイ、という、嫌な音がした。まるで壊れたみたいな音だったが、異常を知らせるアラートみたいだったが、それがどうやら充電終了の合図だったらしく、ゴーグルに『コンプリート』の文字が示されていた。
何の冗談か、カタカナである。中学一年生の空々の学力に合わせてくれたのだとすれば、開発室は気を遣い過ぎだ。ゲーム世代の空々は、コンプリートくらい、書けなくとも読める。
「剣藤さん。スーツ着るの、手伝ってください」
自分の部屋を出て、廊下を三歩歩き、隣の部屋──剣藤の部屋の扉をノックする。考えているうちに時間は結構経っていたようで、もう正午前である。充電完了までには、最短でも四時間以上かかるようだ。
予想よりは早いが、フットワークが軽いとは言えない。
急がないと、今日中にことをなすのは難しくなってくる──ことをなす? 遠回しな言いかたを選んだ自分に気付く空々。剣藤や牡蠣垣はこういうときに言いかたを避けずに、はっきり言うのだろうが。
殺す、と。
……これを空々少年が行為に抵抗を持っているからだと考えるか、それともその振りをしているだけなのか、つまり過剰な演技だと考えるかは、見る人聞く人次第だろうが──少なくとも空々本人は、そんな意識自体をしていない。できていない。こういうとき、彼には自分を客観的に見ることがまったくできない。仮に考えても、答は出ないだろう。
ノックを繰り返しても、返事がなかった。
音が聞こえなかったのかなと思って、ノックを繰り返してみても無反応である──となると、部屋にはいないのだろうか。洗い物を終えて、キッチンから部屋に戻っているとばかり思っていたのだが……?
そして、それは空々の少年らしい、というか子供らしい、デリカシーに欠けるところだったのだろうが、返事がないのを受けて、彼はその扉を開けてしまった。それでは一体何のためにノックをしたのか不明になってしまうが、まあ、『いないのかな?』と思った以上、不在の確認のためにドアを開けてしまうのは、彼にとっては至極当たり前の行動のように思えたのだ。
「…………」
高級マンションゆえの防音構造が災いしたのだろう。
部屋の中では剣藤が裸だった。
いや、厳密に言うと裸ではなく、服を着ようとしている最中だった──まだ全然間に合っておらず、丁度、上の下着をつけようとしているところだった。
「あ、いや──その」
「…………」
しどろもどろになる。
こういうときにどうすればいいのかのマニュアルが、空々の中になかったのである。ノックに返事もなかったのに、勝手に人の部屋のドアを開けたという時点で、考えてみれば倫理的には逸脱してしまっているのだ。
とにかく謝罪するべきなのか。何に?
部屋に入ってしまったことに? それとも、見てしまったことに?
いや、その両方なのだろう。ここはなあなあで謝らずに済ませるわけにはいかないだろうと、空々は口を開く。
「あ、あの、ごめんな──」
「とりあえず、閉めてくれないかな。ドア」
言いかけたところで、剣藤はそれを制するように言う。
彼女は肢体を隠そうとしない。平然とした風に言う。恥じている風も、怒っている風もない。慌ててさえおらず、ごく普通に、己のプライベートな空間への侵入者を見ている。年下の中学生に見られたくらい、彼女はなんとも思わないのかもしれないと思い、空々は少し安心した。
むしろしどろもどろになった自分を恥じた。何を意識しているのだ、と思った。それでも謝らなければいけないのだろうとは思いつつも、まずは言われた通りにドアを閉める。
「……なんで中にいたままドアを閉めるんだよ」
「え?」
「『ドアを閉めてくれないかな』と言うのは、端的に言うと『出て行け』という意味だよ、そらからくん」
抑揚のない口調はまるっきり抑揚がなくて、本当に怒っていないのかどうかがかなり怪しくなってきた──慌てて空々は、
「は、はいっ」
と、廊下に飛び出すのだった。
廊下に飛び出し、ドアを閉めて、しかしそれ以上逃げ出すこともできず、ドアを背にしてずるずると、その場に座り込む。そのまま床に沈んでいきそうだった。沈んでいきたかった。
『やってしまった感』がある。
『人生を失敗してしまった感』がある。
取り返しがつかないミスをしてしまった。そう思った。
そして同時に、こんな失敗をしてしまうような自分が、『怪人』を──哲学的怪人を退治できるわけがないという気になっていた。なんとなく、そんなつもりになっていたけれど、やっぱり自分にはそんなことはできないんじゃないかというような気になっていた。
失敗して、捕まって、助けてもらえず。その先自分がどうなってしまうのかはうまく想像できないけれど──ならばいっそ、たとえばあのスーツを着て、一目散に逃げるというのはどうだろう。空々はそんなことを考え始めた。真面目な検討である。どうだろう、逃げ切れるだろうか? 地球撲滅軍の、まったく把握できない組織力を思えば、それはとても難しそうだけれど……、だが、このまま唯々諾々と従い続けていても、自分のような人間はいずれ期待外れの大失敗をして、見捨てられるのではないだろうか。
そう思った。
同居人の裸を己の軽率な行動で見てしまったことで、空々少年はそこまで思いつめたのだった──そのまま放っておけば、大袈裟でなく自殺さえしてしまいかねないような雰囲気だった。
そんな彼を救ったのは、体重を預けていたドアの消失だった──いや、ドアがいきなり消えるはずもないので、それはただ、もたれていたドアが後ろに引かれただけのことである。だから普通、それだけのことで人間は引っ繰り返ったりはしないけれど、自分は生きる価値のない最低の人間だとまで思いつめていた空々は、反射的に身体を支えることもできず、そのまま後ろ向きにごろんと転がった。
それはさながら後転に失敗した、みたいな図で、そのまま本当に後ろにぐるんと回ってしまいそうな勢いだったが、さすがに彼自身にその意志がなかったので、ただ倒れてしまっただけである──そして天井を向いた視線の先には、ドアノブを片手にした、剣藤が立っていた。
彼女は剣道着姿に着替えている。
そして空々を見下ろしていた。
視点的には、上から下へ見下ろしているのだが、しかし見下げているとか、見下しているとか、そのまなざしの中にはそんな責めるような意味合いがまったくなかったので、空々は少し安心した。
死にたい、というところからはなんとか回復できた。
「………剣藤さん、あの、ごめんなさ」
「あんまり気にしなくていいよ」
謝らせてくれない。
そこに怒りを感じないほどに空々も鈍くはない──むしろそういう『怒り』については、敏感なほうである。自分の『非常識』を責める気配に関しては。
「一緒に暮らしていたら、これくらいのアクシデントはあるでしょ……私だってそらからくんの裸は見せてもら……見ているわけだし」
「は、はあ……」
「でも、ノックの返事がないのに勝手に開けちゃ駄目だよ。今回は着替えくらいだったからよかったようなものの、大人のお姉さんは、もっとすごいことをしていることがあるから」
「も、もっとすごいことですか?」
なんだろう。想像もつかない。
「で、でも剣藤さん、中にいるのならどうして返事をしてくれなかったんですか? 着替えているところだからちょっと待ってくれって言ってくれていたら、僕だって……」
なるべく相手を責めるような、まして責任転嫁をするような口調にならないように気をつけたつもりだったが、残念ながらそうはならなかった。もろにそう伝わってしまったらしく、剣藤はぴくりと眉を動かして、
「何? 私が悪いの?」
と言ってきた──慌てて空々は首を振る。起き上がらないままに、真上の剣藤を見上げながら。
「と、とんでもないです」
「ひょっとして得したくらいに思ってる?」
「そんな馬鹿な。そんなことはまったくないです」
「それはそれで傷つく」
「…………」
どうすればいいのかわからないことを言われる。野球ばかりやってきて、年頃の女子の心理など、想像を絶する空々である──まして、秘密組織に属する、自分の家族を惨殺した女子の心理など。
「ひょっとして今も、袴の裾から私の下着を見ようとしている?」
「い、いえ、とんでもないです」
あらぬ疑いをかけられ、空々は飛び起きる。そう思われても仕方のない角度ではあったが、そういう『あらぬ疑い』が一番苦手な空々なのだ。
「何も見てないです。見えてないです。陰になって、膝くらいまでしか見えてませんでした。命をかけます」
「あんまりムキになって否定しないで……、怪しくなってくる」
「そ、そんな──」
「まあ、だからいいって。それともこう言えば楽になるのかな? もしもそらからくんが『そういうこと』を私に望めば私は言いなりになるしかないんだから、これくらいは気にしなくていいって」
「う──」
そういう言いかたをされると、楽になるどころか辛くなる。
謙虚というよりむしろ卑屈な、自身を貶めるような言いかたには、戸惑いのほうを強く覚える。特に、上下関係の厳しい体育会系のコミュニティで生きてきた空々には、年上の人間がそういう振る舞いを見せることに慣れていない。
『茶飲み話』の丁寧な態度は、一人前扱いされているような嬉しさもあったけれど、しかし、なんだか剣藤の態度には、その態度から受ける印象には、どうにも抗いがたい背徳感がある。
もう少し空々が年長だったなら、あるいは少年としてひねくれていれば、その背徳感をある種の快楽として受け取れたのかもしれなかったが、彼はそんな人間ではなかった。感動しないという点を除けば、そしてそれを酷く恥じているということを除けば、彼はただの十三歳の子供なのだ。
「……ところで剣藤さん。どうして着替えたんですか? これから、どこかに出かけるんですか?」
「前に言った、ペットを迎えに行って来るの。私物とかはさっき届いたんだけど、まさかペットを宅配便で送ってもらうわけにはいかないし」
「ああ……そう言えば言っていましたね」
そのために部屋をひとつ空けていたのだ。剣藤の個人的な荷物がいつの間に届いていたのかには、気付かなかったけれど。空々が怪人退治の方法を考えているときだろうか。
「だから私、これから夕方まで出るんだけれど、そらからくん、何の用だったの?」
「いや、グロテスクを着るのを手伝って欲しくて」
「ああ……それは私が気付くべきだったね。あれ、一人じゃ着られないんだった。……『再開発』に文句を言っておくべきかもね。危ない危ない。危うく、きみを置いて出かけてしまうところだったよ」
「はあ……」
どうせいつかは避けられないことではあるのだろうが、空々としては、別に一日も早く怪人退治をしたいわけではなかったので、剣藤がそのまま出かけてしまわれてもそんなには困らなかったと思う。
「そうだ。『再開発』にってわけじゃないけれど、さっき電話して聞いておいてあげたよ。グロテスクの稼働時間」
「あ、はい」
「百八十分だって」
「……三時間ですか。充電のほうが時間がかかるって、なんだか……、あんまり、遠出はできないって感じですね」
ぎりぎりとは言わないまでも、では昨日は、あまり現場に長居をしていたらマズかったわけだ──そういうことはさすがに説明しておいて欲しい。まあ昨日は何をするつもりもなかったので、機能が切れたところで、最悪、恥をかくだけで済んだのだろうが。
「だから遠出をするときは、私なり誰なりが同行して、トイレの個室ででも着替えるって感じかもね……スーパーマンみたいに」
「スーパーマン……」
トイレで着替えると言われると、どちらかというと、テレビなんかで見る学校帰りの女子高生みたいだが。もっとも、スーパーマンが着替える電話ボックスなど、いまや滅多に見かけない。
「まあ早く慣れるためにも、今回は家から着て、一人で出かけてみるほうがいいと思うよ。私もいつも付き添えるわけじゃないんだから、単独行動にも慣れておかないと」
「はい、そうですね」
剣藤のその説明は理路整然としていたので、頷いた。
単純に、ペットを早く迎えに行きたいから今日は付き添えないのだという、剣藤のある種エゴイスティックな気持ちを見抜くにも、彼はまだ若過ぎたのである。
7
スーツアクター『グロテスク』に『変身』した空々空を見送ってから、更に細かい身支度を整え、竹刀袋に入った『破壊丸』を片手に、ガス点検、電気点検、施錠を終え、剣藤犬个もマンションを出る。
あからさまに剣道少女の格好をしているとは言え──少なくとも傍目にはどこかの剣道部の女子部員にしか見えない。もちろん、昼間から出歩いていれば職務質問を受けることもあるが、そういうときのための架空の学生証や、遠征試合の参加証なども彼女は持ち歩いている──肩に担いでいるのはまごうことなき真剣なので、なるべくなら公共交通機関は使いたくない。
というわけでタクシーに乗るつもりなのだが、その前に彼女は、電話を一本かけておくことにした。
先日の夜は、空々に携帯電話を借りる口実として、それを持っていない振りをしたものだが、もちろん軍人である彼女は、連絡用のツールを基本手放したりはしない。
当然、盗聴対策が完璧に施されている、市販されていない種類の携帯電話だし、また、迂闊にもタクシーの車内でそれを使ったりはしないのだ──用心深いつもりの彼女は、タクシーの運転手が『地球陣』である可能性を考えないわけにはいかない。
「もしもし。『茶飲み話』? 私。私だよ」
繋がったところで、剣藤は言う。
「うん、今見送ったよ」
『そうですか……どうでした? というか、どうですか? 空々さんの、ここのところの様子は』
「別に……、普通だよ。昨日も報告した通り、びっくりするくらい普通……、逆に目新しい。正直言って」
『はい?』
「……ううん。なんでもない」
別に気が咎めたからではなく、話しにくかったからでもなく、ただ『あんまり長い話になると、ペットを迎えに行くのが更に遅くなる』という考えに基づいて剣藤は言わなかったが、ここで彼女はこう言おうとしたのだった。
『正直言ってあの子の家族を殺したことについて、私はもっと責められるかと思ったんだけれど』──まあ言わなくて正解だろう。
たとえ『相手の気持ちを想像する』という形であっても、いまだそういう常識的な感覚を持っているということを──彼女の立場では、『茶飲み話』には知られないほうがいい。
たとえ既に知られているとしても、自分からそれを言い出さないほうがいい。彼女は彼女で、自覚的にも、また無自覚的にも、組織内で『綱渡り』をしているという点においては、間違いなく空々の『先輩』なのだから。
『「寸刻み」。あなたは今のところ、空々さんをどういう風に見ます?』
「だから、普通の子供に見えるって──そうじゃないことは、もちろんわかっているけど。この状況で、普通の子供に見えることが、もう普通じゃないんだから」
『そうですね。その精神の強靭さこそが、ヒーローの資質です』
「…………」
強靭な精神、という言葉に剣藤は違和感をおぼえる。
強靭。
あの繊細そうな子供に、それはあまりにも似合わない二字熟語だった。
だけどそんな反論はしない。時間の無駄だ。『茶飲み話』相手に反論する無意味さを──つまりは彼の口のうまさと、自分の口下手さを、彼女はこれまでの経験上、痛感していた。
彼に反論して、何かが通ったことなんて、ない。
「普通の子供……、普通の返事、普通の受け答え。ただ、返答にタイムラグがあるとは思う」
『タイムラグですか。それは、ええ、飢皿木博士も言っていましたね……注意しないと気付かないほどのタイムラグだそうですが、あなたは気付きましたか』
「どう答えるのが正しいのか考えてから喋っている……まあ、誰でもやっていることなんだろうけれど、あの子がやると、それも意味深だね」
『つまりそれは、彼はいまだに人間らしい反応を、演じているということですか? もうそんな必要もないのに』
必要をなくしてあげたのに、と言いたげだった。
「さあ。ただの癖じゃないかな」
『……「寸刻み」。「中国語の部屋」という言葉を知っていますか?』
「知らない。なにそれ?」
『一種の思考実験ですよ。窓のない、とある密室に一人の人間がいるとして、壁に小さな穴だけが空いています。そこから丸めた用紙が挿入されてくる。手紙です。そこには中国語でメッセージが書かれています。あなたが部屋の中にいる人間だったなら、それに、どんな返事を返しますか?』
「中国語は読めない。英語だって」
『ええ。まあ、あなたは日本語も怪しいでしょうが……、ただ、部屋の中には一冊の本が備え付けられていて、その本には「こういう文字列」に対しては「こういう文字列」を返せばいいというマニュアルが掲載されています。文字列というより、理解できない以上はただの記号というべきですがね……、その本を使えば、中国語が理解できなくとも、返事は書ける』
「書けるね。それが?」
早く電話を切りたい『寸刻み』は、急かしているように聞こえない程度に、『茶飲み話』を急かす。
『さて、ここで部屋の外から、あなたを観察してみましょう。中国語の手紙を入れたら、中国語で返事が返ってくる。ならば当然、部屋の中には中国語を理解できる人間がいると思いますよね──実際のあなたは、日本語すら怪しいというのに』
「日本語が怪しいって繰り返さないで……日本語くらいは喋れるよ。それなりには……」
『あなたの言うそれなりというのがどれなりなのかはわかりませんが、まあそういうことなのだと思いますよ、空々さんのタイムラグというのは……彼はマニュアルを参照しているんですよ、部屋の中で』
「……部屋の中で一人って、寂しくないのかなあ」
わざとズレたことを言って、話を早く終わらせようという姑息な作戦を練ってみた『寸刻み』だが、これが意に反してまぐれ当たりしてしまったようで、『茶飲み話』は、
『それは実にわかりやすく本質を突いた疑問ですね』
と言った。
『だから私は、あなたを彼に同居させたのですよ』
「…………」
『ことにつけマニュアルを参照する彼の人格そのものを、変えようという気はありません──ただ、古いマニュアルは捨てていただかないと。あなたが彼の、最新のマニュアルになるのです』
「……マニュアルねえ。あんまり、マニュアル人間っていう感じには見えないんだけれど」
『そりゃそうでしょう。そう見えないように振る舞っているのですから』
「ふうん……、あ、でも言われてみれば……あの子、意外と完璧主義なのかも」
『は?』
「自分自身に関して融通がきかないのかもって、そんな風にさっき思った。えっとね……、ちょっと、あの子、失敗をしたんだけど」
具体的には言わない。
それで彼の名誉が傷つくとは思わなかったけれど、まして大人である『茶飲み話』が変に誤解して空々を軽蔑するとも思わなかったけれど、少なくとも彼自身がそれを強く恥じているようだったので、一応、伏せておこうと思ったのだ。
もちろん立場上、その『失敗』が何かを問われたら答えるつもりだったが、『茶飲み話』は『茶飲み話』で、彼女の口下手さ、説明下手さを知っていたので、とりあえずここでは追及しなかった。
「その失敗を気に病んで、なんだか自殺でもしそうな顔をしていた。本当、なんてことのないミスだったんだけれど……、マニュアルから外れてしまった自分、マニュアル通りであることに失敗してしまった自分。それが許せないって感じ」
『それは……危険な兆候ですね』
「うん。世間のことは『どうでもいい』って思っている割に、自分のことはそうじゃないってことなのかもね……まあ、フォローしておいたけれど」
『子供の頃は、失敗はむしろしてもらったほうがいいんですけれどね……』
困ったように、『茶飲み話』は言う。
『完璧主義の人間というのは、大抵の場合、大成しませんから』
「? そうなの? 完璧なのに?」
『完璧であることと、完璧主義であることは違いますよ──天才と天才肌くらい違います』
「鮫と鮫肌くらい違う」
『……そう連鎖させられると、たとえの意味が全然違ってきますけれどね。完璧主義の人間は、最初から完璧を目指すので、未熟な自分が許せない──だから、トライ&エラーができないんですよ。失敗をただ恥じ、ただ回避しようとする──それゆえに失敗を繰り返す。失敗と向き合えないからです。彼らは一生、同じ失敗を繰り返す』
「…………」
じゃああの子はこれからも何度も私の着替え中に乱入してくるのだろうかと剣藤は思った。少なくとも現時点の剣藤は、あのハプニングについて空々を責めるつもりはこれっぽっちもないけれど、しかしこれからずっとと言われると、それはさすがに抵抗がある。
『なんとかしてあげてくださいね、剣藤さん』
「うん。わかった」
『? やけにいい返事ですね。積極的な……』
不思議そうな『茶飲み話』だったが、そこに幾許かの私情を感じつつも、上司の命令を部下が了解した理由を、わざわざ問いただして聞き出す必要までは感じなかったのだろう、更なる報告を求めた。
求められた通りに、剣藤は空々の現状を話す。
「というわけで、そらからくんは出かけていった。行きました。『地球陣』を殺して、夕方くらいに帰ってくると思う」
『……一人で行かせたのですか?』
「別にいいでしょう」
責めるような気配を過敏に感じて、先に言い訳するようなことをいう剣藤。
「どうせ逃げられっこないんだから」
『言葉を選びなさい、「寸刻み」。別に私達は、空々さんを監禁しているわけではないのですから。無理矢理言うことを聞かせているわけでもない。私達は、彼に強制できることなどないのです』
「知ってるよ。だから一人で行かせたんじゃない……もしも殺せなかったら、そのときはそのときでしょ」
『投げやりにならないでくださいよ……あなたは本当に扱いづらい子ですね。別に叱るつもりはないのです。彼の資質を、今更疑う段階にもありませんし。ただ、偶発的なアクシデントによる失敗ということは、どうしたってありうるでしょう。その辺りのフォローも、私はあなたに任せたつもりだったのですが』
「失敗は経験したほうがいいんじゃなかったの?」
『フォローあってこその失敗でしょう』
「そうだったの。マニュアルになれっていうのもそうだけれど、『茶飲み話』。私、言われないとわからないんだから。そういうことはなるべく早く言ってね……」
『言われなくてもそれくらいは考えて欲しいものです──まあ、一番重要な任務を忘れていなければ、いいんですがね』
「一番大切な任務って、あの子の身の回りの世話?」
『違いますよ。だからそれは二番目です』
と、『茶飲み話』は言った。
『あなたに与えた任務の中で一番大切な任務は、いざというとき、空々さんを殺すことに決まっているでしょう』
剣藤は無言で頷いた。電話なので無意味なアクションではあったが、確かにそれは事前に聞いていたことで、しかもはっきりと憶えていた。
8
透明人間は不便だということが、一人で外出してみて初めてわかった──昨日は剣藤と並んで、それも剣藤が空々を見失わないよう、近過ぎるくらいに寄り添って歩いてくれていたからそうでもなかったが、『道で誰もが自分を避けてくれない』というのは、恐ろしく歩きにくかった。
人と人がいかに互いを思いあって生きているかを、道を歩いて知った。
うっかり何度か、向かいから来る人とぶつかってしまったりもした──幸い、そんな激しくぶつかったわけでもないので、相手は気のせいか錯覚かと思ったようだが、はらはらしたものだ。そしてそれにしたって、相手が人間だったからよかったものの、これが自転車だったり、あるいは自動車だったりすれば、空々は迂闊に横断歩道も渡れないのだった。
結果空々は、道の隅っこを、おどおどしながら、周囲の顔色を窺うようにして歩く羽目になる。これがヒーローの姿だとすれば、随分とみっともないヒーローもいたものだと、空々はとても恥ずかしく思った。恥ずかしさのあまり家に帰って布団をかぶって寝たかったくらいだし、実際、いつもの彼ならそうしてもおかしくはなかった。
ただ、事故(あるいは過失)で半裸を見てしまった剣藤がまだ出かけていないかもしれないと思うと、とても帰りづらかった──剣藤のほうは、もう完全に気にしていないのかもしれなかったが、空々としてはそれでも顔を合わせづらい。
剣藤が、ひょっとしたら空々が『わざと』覗いたんじゃないかと疑っているかもしれないと思うと、姑息にもハプニングを装って乱入してきたんじゃないかと疑っているかもしれないと思うと、顔から火が出そうになる──なんとかその誤解を解かねばと思う。そもそも生じてもいないそんな誤解に気を揉んでしまう彼。
色々考え過ぎてしまうのは自分の悪い癖なのだろうし、また、本来裸を見られた剣藤の内心をこそ空々は慮るべきなのに、なのにまず自分が誤解されたかもしれないことを怖じていることもまた、辛く悩ましい。
なんなんだろうなあ、と思う。
飢皿木博士に心中を看破されて以来、そういう『ズレ』に自覚的になってしまい──それはいいことなのだろうが、結果、過敏になってしまっている。看破されたことでは確かにとても気が楽になったのだけれど、しかしそこで、人生そのものがズレてしまった気が、彼はするのだった。
気がするも何も、その通りなのだが。
とにかく彼は、タワーマンションに戻ることもできず、おっかなびっくり昨日の道順を辿って、目的のビジネス街、目的のビルディングの前に到着した──途中、道に迷ったりもしたので、少し時間がかかった。
道に迷っても透明人間では誰も助けてくれない。
やはり不便だ、と思う。
思えば、誰も助けてくれないという意味では、タクシーには乗れないし(止まってくれない)、電車にも乗れないし(改札を通れない)、バスにも乗れない(ボタンを押せない)。当然自転車も使えない。都市伝説になってしまう。
結局、このボディスーツを有効に使おうと思えば、鞄に入れて持ち歩いて、目的地のそばで着替えるという手段を取るしかないのだろう──それも、剣藤なり誰なりに付き添ってもらってだ。
ただ、剣藤は『トイレの個室で』みたいなことを言っていたけれど(それもスーパーマンにたとえて、冗談みたいに言っていたけれど)、よく考えてみれば、それはそのために剣藤が男子トイレに入らなくてはならないということを意味するのではないだろうか……?
いや、個室の数の多寡を思えば、空々が女子トイレに入るほうが効率的ではあるが……、順番は逆になるが、透明人間が女子トイレに侵入など、あまりに下世話で、空々のような特殊な倫理観の持ち主でなかろうとも、強い抵抗を持つだろう。
さてどうしたものか──と、先のことを考えても仕方あるまい。今は今だ。未だ今だ。やるべきことをやるだけだ。他に選択肢はないのだから。せめて、『やらされている』などという被害者意識だけは持たないようにしよう──と、空々は思ったが、これこそが彼の抜けない癖、抜けない悪癖であり、ここで地球撲滅軍に『やらされている』と思わないところが、彼のヒーローたる所以である。どう考えてもやらされているのに。
この会社の中に怪人がいる──会社名など見てもその業務内容は、(元)中学生の空々にはいまいちぴんとこなかったが、『ハードラック工業』という看板を一応確認しておいた。
昨日見たあの怪人について、空々は何も聞いていない。
怪人の個人情報を、何も把握していない──聞けばたぶん、『茶飲み話』は教えてくれただろうが、昨日は『今日の、これからの時間なら、ここか、ここか、ここか、ここに行けばいい』と、候補地をいくつか教えてもらっただけだった。教えてもらったのは場所であり、怪人候補の個人ではない。
思えば雑な情報だった。
あれでよく目撃できたものだ──目撃できないうちにバッテリーが切れていたら、いったいどうなっていたのか。そういう意味では空々は幸運だった。いや、不幸だったのかもしれないが。たぶん、『茶飲み話』としては、まだ完全に仲間になったわけではない、そして完全にヒーローになったわけではない空々に、立場上あまり詳細な情報を渡せなかったのだとは思うが──完全に役目を果たすつもりでいる今は、空々は遠慮せず、個人情報を聞いておくべきだったかと思った。
大体、ずっとゴーグルをかけているので、空々はあの哲学的怪人の素顔──ではなく、『擬態』した、『人間としての姿』を、見ていないのである。男なのか女なのかさえもわかっていない。このままでは、何もわからないまま、空々は怪人(彼? 彼女?)に手を下すことになる。
それはよくないことなのではないか、と思った。
殺すのは一瞬で済む。
ならばその前に怪人のことを調べておくことにしようと空々は思った。
変身の残り時間は、百二十分。
空々のプランでは、殺しそのものには一秒かかるか、かからないかである。帰り道に一時間かかるとして、ならば三十分くらいは調査にあてられそうだと思いつつ、空々は会社の中に足を踏み入れた。
9
プロの暗殺者でもあるまいし、殺す相手の情報を詳しく知りたいと思う空々の心理は、あまり一般的ではないだろう。むしろ逆で、知らないほうが殺しやすいと思うはずだ。
だが空々は知りたいと思ったのだ。
幸いハードラック工業は入館に際して社員証認証が必要になるほど、セキュリティが厳しい会社ではなかったので、透明人間の空々にとって、侵入は容易だった。ようやく透明人間スーツが役に立ったと思える記念すべき瞬間だった。
そして怪人の姿を探す。
ゴーグルもバッテリーで動いてはいるのだろうが、基本的に、こうしている限りはただのアイシールドという感じだった。ただし、ここまでの道中、空々は一人も怪人を目撃していない。
そう言えば、昨日だって、目撃したのはこの会社の中にいる対象だけだ──道行く人達の中には、『神々しい』モンスターはひとりだっていなかった。『地球陣』は『社会中にいる』という剣藤の言葉をそのまま鵜呑みにしていた空々だが、しかしその言葉に反している現実に気付いて、やや拍子抜けしたような気持ちになった。しかし人間社会の主要ポストをピンポイントで押さえるだけならば、そんなに人数は必要ないのかもしれない。
急所急所を的確に押さえれば、全体が崩れる。
あるいは──そういうことか。
ならばこのハードラック工業がその急所ということになるが、いったいここは、何をする会社なのだろう? この会社の中でどういう活動をすれば、その行為が人類滅亡に繁がるのだろう?
そこまでのことを詳細に調べるのは、さすがに三十分では済まないような気がした──調べられるのは最低限のことだけだ。エレベーターという、狭い空間で他人と一緒になるのはリスクが高いような気がしたので、階段を使用する。体育会系の空々にとって階段は苦ではない。
そして探している内に、空々はあっさりと対象を見つけた。
まあそりゃそうだろう、見つからないほうがおかしい。異形のモンスターがデスクについて書類仕事をしているというシュールな図を、違和感なく見過ごせるほど空々の目も節穴ではない。
異形といってもそれはすさまじく神々しい異形なので、見過ごしはしないが、それで目が潰れないほどには、違和感なく見ているのかもしれなかったが。そういう意味では空々の目は節穴なのだろう。
ふむ、と空々は思う。二度目なので、それに『別の覚悟』を持ってきているので、昨日ほどには驚かない──むしろその怪人を、哲学的怪人を、冷静に観察できた。そして冷静に考察できた。
目が潰れるから空々以外の人間はこのゴーグルを使えない。
そんな言いかたを、剣藤はしていたが──ひょっとしたらそれだけではないのかもしれないと、空々は思った。焦点をズラして見れば、あるいはすごく薄目で見れば、ゴーグルを通してぼんやりと、対象が人間ではないと看破することはできるかもしれないではないか──あるいはゴーグルの精度を落とすだけでもいい。解像度の低いデジカメで撮れば芸術作品だって荒っぽい絵にしか見えなくなるのと同じ──対象にモザイクをかけるようなもの。
ならばなぜそうしないか?
『地球陣』の神々しさはその程度では翳らないから──というのがひとつだとして、もうひとつあるとすれば、それはたとえ目は潰れないにしても、その神々しさを一度でも目撃してしまえば、『戦う気をなくしてしまうから』なのかもしれない。
戦意が潰えるから。
それだけの神々しさであり──美しさであり──妖艶さだった。
空々はそう思った。思っただけだ。
彼の戦意は、特に潰えない。
ただし『みんなはきっとそう思うはず』ということを考えるだけの想像力が、彼にはないわけではないという話だ。『だから自分もそう思わなくちゃ』と、周りに合わせるのが彼の人生だったが、しかしその周囲が一変してしまった今、そんな思考はもう通用しない。
彼の処世術は塗りつぶされている。
世渡りのやりかたを変えなければならない。
綱渡りのやりかたを変えなければならない。
周囲が彼にヒーローたれと期待するなら、彼はヒーローにならなければならないのだ。誰ともぶつからないよう、それに躓いたりしないよう足元にも気をつけながら、空々は怪人へと近付いていく。怪人がどんな仕事をしているのか確認しようと思ったのだ。
だが、大量の書類を右から左へ扱って、パソコンで処理している哲学的怪人の仕事内容は専門的過ぎて、残念ながら空々には意味不明だった。ただ、部屋の中の、机の並べかたからすると、それなりに立場のある人物なのかもしれないと思った。
個室をもらえるほどに偉いわけではなさそうだが、この怪人は、かなり重要な仕事を任されているのかもしれない。とにかく業務内容が何もわからないので、ぼんやりとした認識しかできないのが悲しいが……ただ、リスクを冒して間近にまで近付いた甲斐はあった。
書類の内容はわからなかったが、しかしデスクの端に、名刺ケースがあったのだ。百枚くらいがきっちり詰まったケースなので、他人の名刺ということはないだろう。本人の名刺のストックに違いない。空々は怪人の後ろに回り込むようにして、その名刺の内容が見える位置にまで移動した。
その際、気をつけていたつもりだったが、怪人がこちらを振り向いた。振り向くも何も、『地球陣』はどっちが前でどっちが後ろなのかも判然としないデザインではあるのだが、とにかく、椅子を半分回転させて、自分の身体の方向を反転させた。
「!」
どきっとする。が、ここで悲鳴をあげれば、更に事態は泥沼化する。空々は怪人の視線にはそういう力があり、自分は今金縛りにあったんだという自己暗示をかけることによって、動きを止めた。
「……? 今、何か、物音しなかった?」
と。
怪人は喋った。そのことに空々は衝撃を受けたが──考えてみれば当然のことだ。『擬態』なのである。人間の言葉を喋って当たり前である。ゴーグルで見抜けるのは、視覚情報だけなのだ。
声は人間そのものだった。
女性の声だった──どうやらこの哲学的怪人、キャリアウーマンに『擬態』しているらしい。
人望も得ているらしく、彼女のこの発言に対して返ってくる室内の社員たちの返事は(『いえ? 気付きませんでしたけれど?』『物音ですか?』というような、空々にしてみれば好都合な内容だったが)、おおよそ、彼女に対する好意や敬意を、そこはかとなく感じるものばかりだった。
「ふうん……? ごめん、気のせいだったみたい。私、霊感でもあるのかな? それじゃみんな、続けて」
変な空気にならないようになのか、冗談を交えつつ怪人は周囲に軽く謝って、そして『みんな』を仕事に戻した。そして自分も仕事に戻った。だから空々も仕事に戻ることにした。
対象が女性であり、周囲とも良好な関係を保っているらしいことが情報として入手できたことはよかったと思った。対象がどんな人物なのか、少しだけわかったつもりになった。
一歩、慎重に慎重を期しつつ、移動する。
そして名刺を見た。
『ハードラック工業 総合経理室室長
淀理川 美土里 』
室長。『茶飲み話』と同じ肩書き。だが、なんとなく立場がありそうとは思うものの、どういう立ち位置なのかは空々にはよくわからなかった──級長みたいなものだろうか。家に帰ったら辞書を引こう、と思った。
名前にはルビが振られていた。
『よどりかわ みどり』と、平仮名だった。
よどりかわみどり、と口の中で、舌だけ動かして、発音した振りをする──それで何かをわかったつもりになる。名前を知ると、やはり、実体が見えたような気になれる。
実際にはもう実体は見えているのだけれど──それよりも、名前を知った今このときのほうが、空々にしてみれば、彼女の名前を知った今のほうが、よっぽどその正体を看破したような気持ちになった。
淀理川美土里。
僕はこれからこの名前を殺す。
「そう言えば」
と、社員の一人が、淀理川に言った。
「室長、今日、お子さんの誕生日じゃありませんでしたっけ? 早上がりしなくて大丈夫なんですか?」
「ああ、平気平気。準備は昨日のうちに済ませてあるから、帰りにケーキを買ってかえればいいだけ」
ありがとね桁峰くん、と淀理川。
部下の、あの眼鏡の男の名前が桁峰であるということと、子供がいて、その子が今日誕生日であるという情報をゲットした。
ふうん、と思った。そして、見知らぬ子供の誕生日に対して『おめでとう』と祝う気持ちにならない自分は、きっと冷たい人間なのだと思った。
10
タイムアップ。気付けば二十分以上が経過していた。
空々は部屋の中に監視カメラがないことを確認する。たとえあったところで空々の姿は映らないのだけれど、それでもないに越したことはないだろう。
空々はタイミングを待つ。
怪人──淀理川の視線が卓上から外れるそのときを。殺すこと自体は一瞬で済むが、こうして見ると、その『待ち時間』にそれなりに時間をかけなければならないようだ。
危ういところだった。余裕を見ておいてよかった。これからは気をつけなければ、と思う反面、これからなんてものが僕にあるのだろうか、とも思った。
時は来た。奇しくも彼女が、壁時計を見るために視線を、大きく振ったときだった。
空々は、卓上の名刺ケースに指を引っ掛け、自分のほうへと引っ張った──机の上から引き摺り落とした。当然、ケースはそのまま床へと落ちて、中身の名刺が思い切り散らばる。
「え? なに、やだ」
と、淀理川は驚いたように反応する。時計を見るために身体を動かした際、自分の肘でも当たったのかと思ったのかもしれない。
近くの社員が立ち上がろうとしたが、
「あ、いいよいいよ、自分で拾うから」
などとすぐに手を振って、彼女はそれを制す。散らばった名刺を拾うために、椅子から腰を浮かせて、床に膝をついて、その場に這い蹲るような姿勢を取った。
そこを踏んだ。
美しき異形の、たぶんこの辺りが頭だろうというところに目星をつけて、空々はボディスーツ付属のブーツの底で、全体重をかけて怪人を、『地球陣』を、淀理川美土里を思い切り踏んだ。想定するイメージとしては、彼女の後頭部を踏んで、その勢いで彼女の額が床に直撃するという感じなのだが、実際のところがどうなのかは、ゴーグル越しではわからない。
ずが、という。
そんな鈍い音が、しかし成功を確信させた。
ふ、と軽く息をして、空々は念のためにもう一度、踏んでおくことにした。
殺人者は、これは素人の殺人者はという意味だが、基本的には『一人を殺し過ぎる』傾向にあるという。ひとつの、はかなくも大切な命を、無駄に刺し、無駄に殴り、無駄に撃つ。原形がなくなるまで殺し続ける。際限なく殺し続ける。それは、相手が『どれくらいで死ぬのか』の、程度がわからないからだ──程度がわからないから加減ができず、『殺し過ぎる』。過度に殺す。その意味で、ここでとった空々の行為は、異様だった。
一度踏んで、二度目で踏みにじって、それだけだった。
一度目で殺して、二度目で蘇生を不可能にした。
確実に、ぴったり『一人分』だけ殺した。
先日までの野球少年に、もちろんそんな歴戦の暗殺者のごとき技能が備わっているはずもない──彼はホラー小説やスプラッタ映画にかぶれてもいない。漫画業界の人間にとっては幸運なことに、暴力的な少年漫画の熱烈な愛読者でもなかった。
だが、彼は適格だった。
飢皿木博士が果たして、その『素質』までを見抜いて彼を軍に推薦したのかどうかは、現時点では定かではないけれど──地球撲滅軍史上、彼はもっとも鮮やかに、怪人を殺した。
淀理川美土里を殺した。殺害した。
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もしもここで空々少年が、不安の中、怪人を何度も何度も蹴るような行為に出ていたなら、それは恐らく現場からの逃げ遅れにつながり、ひいては任務の失敗につながっていただろうから、そうしなかったことは彼にとって幸運というか、『うまい手際』ということになるのだろうが、しかしもしも、ここで不安のあまり、錯乱のあまり、オーバーキルな振る舞いに出ていれば、ひょっとすると理解できていたかもしれない。
どうして自分の家族が。
父が母が、弟と弟が、どうしてあそこまで凄惨に殺されていたのかを──理解できていたかもしれない。理解はできなくとも、剣藤犬个が、あそこまで『一人を殺し過ぎ』ていた理由を、想像するくらいのことはできていたかもしれない──だが、ここでは当然、そういうことはなかった。あるはずがなかった。
空々は、周囲の社員が心配して(まだことの重大さには気付いていないようで、それほど慌ててはいない。室長がすべって転んだとでも思ったのかもしれない)駆け寄ってくるのとすれ違うように、部屋から外に出た。駆け寄ってくるであろう社員の誰ともぶつからないであろう廊下へのルートは、既に想定していた。
背後から、悲鳴が聞こえた。
当然それは淀理川の悲鳴ではなく、室内の誰かが上げた悲鳴だったのだろう──まして、地球の悲鳴であるはずもない。地球の悲鳴は、もっと強烈で、なんというか、どうしようもなかった。謝りたくなる悲鳴だった。
今、後方から聞こえる悲鳴では、別に謝りたくはならない。
と、部屋を出たところに設置されていたロッカーに、セロハンテープやマグネットで留められた各種書類に混じって、写真が何葉かあるのに気付いた。忘年会とか、打ち上げとか、そういう祝いの席での記念写真、集合写真のようだ。
さっき部屋の中で見た社員の顔がその中にあるところを見ると、これは総合経理室の集合写真なのかもしれない。とすると、消去法を行使すれば、この中から誰が淀理川なのか、特定できそうだ。
ちょっとした手間で彼女の顔を知れる。
だけど空々はそうしなかった。ちょっとした手間をかけなかった。手間取らなかった。哲学的怪人。殺す前にこの写真の存在に気付いていれば、対象への調査の一環として、その特定をしていたかもしれないが、任務が終わっている今更、その必要はないと考えたのだ。
普通とは逆の思考だ。殺す相手を知ってしまえば殺しにくくなるだろう──だが、自分が殺したのがどんな相手だったのかを、普通ならば知りたがるものだろうに。
しかしそれよりも彼は逃げることを選んだ。もうすぐ、室外からも人が集まってくるだろう──淀理川が人望ある社員だったなら、尚更である。来たときと同じように、階段を使って一階に降りて、そのまま出口へと向かう。来たときは気付かなかったが、出入り口の扉のすぐそばに、大きな姿見があった。自分が今、どんな顔をしているのか気になって覗き込んでみたけれど『グロテスク』は透明だったので何も見えなかった。
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マンションの部屋に到着すると同時に『グロテスク』の機能が解けた。本当にぴったり、後ろ手で玄関のドアを閉めたところだった。充電にかかる時間より短いとは言え、百八十分と言えばそれでもそれなりの長さに、聞いたときは思ったものだが、体験してみて痛感した。このスーツの変身時間はやっぱり短過ぎる。
機能が切れたところで、このスーツは一人では脱げないので、剣藤が帰ってくるまで着っぱなしでいるしかないのだが。
リビングに行って、テレビをつける。自分のやったことがニュースで報道されているのではないかと思ったのだ。だが、チャンネルをいくら回しても、そんな速報は流れていなかった。まだ事件から一時間も経っていないので、早過ぎるだけなのだろうか。それとも完全犯罪に成功したと見ていいのだろうか。あるいは軍の隠蔽工作? いや──初日は報道規制をかけないと言っていたような……しかしすべてがそうというわけでもないだろうし……。
「……まあ、その辺りは剣藤さんが帰ってきたら訊こう」
と、空々はテレビを消す。他に見たい番組もなかったし。いつもならば学校に行っている時間なので、どうにも時間を持て余すというか、見たい番組が見当たらない。昼のドラマはどうしてこんなに再放送ばかりなんだと、素朴な疑問を持った。
空々は哲学的怪人──『地球陣』を殺すにあたって、その方法を色々と考えた。剣藤から言われてからではあるが、色々と考えた──まず彼女に指摘された通り、凶器を使うのは不可能だとわかった以上、この手で、素手でやるしかなかった。
自分の手で、直接、殺す。それしかない。
だが──素手での戦いと言われても、空々は喧嘩慣れしているわけではない。野球部のスポーツ推薦を取れるくらいには、体力に自信のある空々だが、それは子供にしてはという意味合いが強いので、やはり取っ組み合いは避けたい。透明だというだけのアドバンテージでは、抵抗を受けて負けてしまう公算が高いと思った。
もっともその抵抗については、
「人間に擬態している『地球陣』だもん。当然、人間以上の抵抗力はないから、その辺は安心していいよ、そらからくん」
との情報を、事前に得ていた。
「え、怪人なのに、目から光線を出したり、空を飛んだり、鉄骨を捻り曲げるような怪力を持っていたりしないんですか?」
「だから、そんなことができたら、そんな能力があったら、人間じゃないってバレちゃうじゃない……動作も、機能も、駆動も、完全に人間と一致しているんだよ」
「はあ……」
どこまでも『哲学的』であるようだった。
「もちろん、耐久力も人間と同じ。肉体の強度も、骨の固さも、人間から逸脱はしない。でもそらからくん、逆に言うと、人並みの力では抵抗してくるんだから、やっぱり一撃で決めたほうがいいと思うよ」
その助言は言われるまでもなかった。
そこで最初に思いついたのは──これは、『もしも自分が透明人間で、誰にもバレないように誰かを殺すとするなら』という問題を考えたときに、大抵の人間は最初に思いつくことだろうが──自動車という『凶器』を利用することだった。
自動車、あるいは電車か。
横断歩道で赤信号を待っているときの哲学的怪人を、あるいは電車の到着をホームで待っているときの哲学的怪人を、後ろから不意に、全力で突き飛ばせばいい。
あとは『凶器』が、怪人を殺してくれる。
確実に死ぬとまでは言えないが、かなり有効な方法に思えた。が、考えた結果、空々はこの方法を『絶対に使わない』と決めた。絶対に、だ。横断歩道や電車をずっと使わない人間は恐らくいないだろうから、透明人間のメリットを最大限に使って怪人を付け回せばいつかは達成できる『殺人』となるだろうが、しかし、自動車や電車には『運転している人間』がいるのだ。
つまりその場合、怪人を殺すのは空々ではなく、その運転手、運転士ということになる。そうなってしまうのは空々の意に反するのだった。もちろんこのアイディアについて地球撲滅軍が『直接殺すべきだ』なんて、細かい駄目出しをしてきたとは思わないけれど、しかしなんとなくそれは、自分の手を汚さずに済ませようとしている上に、しかも他人の手を汚させるようで、嫌気が差したのだ。
というわけで、彼はあくまで自分の手で怪人と戦うことにした──いやこれでは語弊がある。実際に彼が使ったのは、手ではなく足だったのだから。
そして厳密に言えば凶器は使った。床という凶器を使った。
物を落とすなり何なりして対象を床に這い蹲らせて、そこを踏みつける──シンプルではあるが、脳と、頸椎を狙うという意味では、非常に期待値の高い手段だった。
もちろん誰だって、間近に他人がいるようなシチュエーションで、なかなか這い蹲ったりはしない──だからこんな殺され方をする人間はなかなかいないけれど、しかしグロテスクは不可視である。
見えないのだ──だから平気で、何の警戒もなく、怪人は──淀理川美土里は空々の足元に屈みこんだ。とても踏みやすい位置に。
あとは狙いを定めて踏むだけだった。
蹴るだけだった。
さしずめスーツアクター『グロテスク』による、必殺グロテスキックと言ったところだろうか──効果は劇的だったようだ。
もっとも後日、このグロテスキックについては、『再開発』から苦言を浴びることになる空々である──ボディスーツの備品であるブーツの底は分厚く、それなりの強度がありそうだったので、彼は特に迷うことなくそのかかとを攻撃手段に選んだものの、その分厚いブーツの底には実は精密機械がこれでもかと詰まっていたそうで、そんな使いかたをまったく想定していなかったそうだ。
考えてみれば、『光を捻じ曲げる』というグロテスクの透明化機能は、靴の裏には対応できないはず──地面と直接接する部分である以上、捻じ曲げるべき光がそこにはないからだ。
つまり、歩けば真っ黒な足跡だけが、不気味に残ることになる。だからブーツだけは光の歪曲とは違うシステムで透明化してあるとのことで、そんな乱暴な使い方をすれば、壊れていたかもしれなかったそうだ──そういう意味では、空々の『初めての戦い』は際どい成功だったと言えよう。
完全犯罪とは程遠い。
もっともそれはあくまでも後日の話であり、怒られてしょんぼりするのは後日の話であり、空々は今はただ、任務をやり遂げたという達成感、安心感だけに満たされていた。
「ただいまー。そらからくん、戻ってる?」
と、玄関のほうから声が聞こえた。
「お帰りなさい、剣藤さん」
空々はそう言いつつ、玄関のほうへと移動する。別に、迎えに出るほど心細かったわけではないのだが、実を言えば、剣藤が連れて帰ってくると言っていたペットが一体何なのか、気になってはいたのだ。
一部屋を用意するほどのペット。
直接迎えにいかなければいけないほどのペット。
大きい犬とかだろうか? それとも、虎とか、パンダとか? いやいやまさか……とは言え地球撲滅軍のスケールを思えば、空想上の動物以外なら、何が出てきてもおかしくはない。
「そらからくん、帰ってるってことは、仕事はちゃんと終わったんだね。おめでとう。初任務達成だね。お祝いしなくっちゃ」
と、顔を合わせたところで剣藤は言った。
お祝い。
そう言われて、空々は思い出す。
そう言えば、怪人──淀理川美土里の子供は、今日が誕生日なのだった。準備は済ませていると言っていたが、お母さんがいなくても誕生祝いはできるのだろうかとふと心配になった。
「それで、剣藤さん。ペットって言うのは……」
「うん。紹介するよ」
と、剣藤は、手に持っていたリードを引っ張った。そのリードは廊下の陰に伸びていて、その先がどうなっているのか見えていなかったけれど、そんな風に引っ張られることで、リードの繋がった首輪が視界に入ってきた。
リードの繋がった首輪。
その首輪を巻いているのは、犬でも、虎でも、パンダでもなかったし──空想上の生き物でもなかった。
「今日からそらからくんも、この子の家族だから。紹介するね、『狼ちゃん』だよ」
そう紹介されたが、狼でもなかった。
それは空々空よりも更に年下に見える、後ろ手に手錠で拘束された、小柄な女の子だった。