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 一部コンテンツは優良です。


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 嬉しいことにも悲しいことにも、喜劇にも悲劇にも。

 何事にも感動しないという才能を持つ少年、空々空。

 これは彼を主役とした英雄譚である。


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「申し遅れました。私はこういう者です」

 場所は変わった。

 空々家、と言うよりは見るも無残な殺人現場から離れ、近場の駐車場に停めてあったらしい黒い車の中で、空々には知る由もないどこかに移動しつつ、会話は続いていた──まだまるで話が終わっていないのだから当然だが。

 必要なものがあれば後で取りに来させますからと言われて、空々はほとんど手ぶらで乗車することになった──もろに寝巻きのままで家の外を出歩くのには強い抵抗があったので、着替える時間くらいはもらったが。

 しかし空腹を訴えることは、さすがにできなかった。

 食卓の上に用意されていた母の料理は血にまみれていたし、それでも頼めば何か準備してくれたかもしれないが、こういう会話をしているときに空腹を訴えるのはまともな人間のやることではないという常識が彼の中で働いたのだ。

 彼ら二人は、どうやら空々のそんなリアクションこそを欲しているようだったが──だからと言って、気安く本性などさらせるものではない。色々差し引いても、差し引いてはいけないものまで差し引いても、少なくとも彼らがほぼ面識のない人間であることに違いはないのだから。

 ちなみに『黒い車』というのは、空々が主観的に抱いた感想であって、それにもう少しだけ客観性を付与するならば、彼らが今乗っている乗用車はリムジンと表現するのが正しい。

 それも最高級のリムジンと表現するのが正しい。

 後部座席で、UKを走るタクシーでそうするように向き合って、彼らは座っている。もしも空々が空腹を訴えれば、きっとどこかから軽食が出てくることは請け合いだった。

 スモークガラスで分断されているので空々からは見えないが、車がこうして動いているということは、誰か運転手がいるのだろう。運転手はどんな顔をして、今この車を走らせているのだろうか。それとなく確認してみれば、助手席には誰もいないようだ。

 そんな冷静な分析ができてしまう自分が、少し嫌になる。

 今の自分の姿を俯瞰ふかんするならば、見知らぬ連中、それも得体の知れない連中に同行を強いられている最中なのだ──誘拐事件が進行していると言ってもいい。それなのに動揺もせず、車中の人数の確認をしているというのだから、笑える。

 これではまるで少年探偵モノに登場する、聡明な子供のようだ。

 だが空々は父親の影響で語彙が豊富なだけであって、どちらかと言えば運動馬鹿という感じの通知表である──決して賢いわけでも、知恵が回るわけでもない。単に、『動じない』というだけなのだ。

 たとえばそれは、家族が切り刻まれているダイニングのドアを開けたとき、『家族が殺された』ことと、『今部屋の中に入ったら靴下が汚れる』ことを、同時に、同価値の情報として認識できるというだけの話である。『どうやって殺されたか』『どんな風に殺されたか』という、一目瞭然でないことまでは、わからない。

 それだけのこと──ただ、今空々は、その『それだけのこと』を求められて、リムジンの後部座席に座っているのだった。革張りの背もたれに体重を預けると、そのままどこまでも沈んでいってしまいそうだったので、背中を離して座っているのだった。

 ところで、家族を殺した張本人である剣藤は、空々の斜むかいの位置に座っている──先ほど上司に怒られたことが尾を引いているらしく、なんだかむくれたように、そっぽを向いていた。

 例の大太刀は、もう竹刀袋にしまわれて、道着袋と共にトランクへと収納されていた──その意味では、先ほどよりは危険な状況ではないのかもしれなかった。人生という意味ではともかく、命という意味では。

 ともあれ、空々は『茶飲み話』から受け取った名刺に目を落とす。

 そこにはこう書かれていた。

『地球撲滅軍 第九機動室室長 牡蠣垣閂』──名前の下にローマ字で『KAKIGAKI Kannuki』と書かれていた。更には片仮名で、『カキガキカンヌキ』というルビまで振られていた──行き過ぎとも言えるそこまでの気遣いがされている割には、連絡先や住所は、名刺を裏返してみても書かれていない。

 これでは名刺というよりはネームカードだが。

 たぶん重要なのはそこではないのだろう──名刺を自己紹介のためのツールだととらえるならば、きっと最初のひと言だけで十分なのだ。重要なのはそこだけで、牡蠣垣の名前にすら、きっとそれほどの意味はない。

「……地球撲滅軍、ですか」

 そのまま読んだ。

 馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、字義通りに解釈するなら、地球を撲滅するための軍隊ということになるのだろう……ならば『茶飲み話』や『寸刻み』は──牡蠣垣や剣藤は、軍人ということなのだろうか? スーツの軍人や剣道着の軍人がいたって、確かにそれは構わない。

 いやいや、だからそういうことではなく。

「おや。よく読めましたね。いや、気分を害されたなら申し訳ありません──ただ、大人でも多いんですよ。『撲滅』という字が読めない人間は……苦しまぎれにゴウメツ、なんて読んだりするんですよ」

 ははは、と牡蠣垣は笑った。やはり優雅な振る舞いではあったが、これはなんだかわざとらしい笑いかただと思った。営業スマイルという奴だろうか。もっとも名刺をもらったからイメージとしてそう思うだけかもしれない。

「漢字に詳しいだけです……、お父さんの専門が、国文学の研究だったものですから」

 変に頭がいいと期待されても困るという意味を込めた釈明でもあったが、同時に鎌掛けでもあった。つまり、相手がどのくらい自分のことを──空々空という個人のことを知っているのかを確認しようとしたのだ。

 父親の職業が大学教授だと知っているのかどうか。

 いきなり『国文学の研究』などと言われれば、普通は驚く──少なくとも経験上そうであり、あまり人を驚かすことが本意ではない空々は、だからそれもあってなるべく、父親の職業を隠すようにしていたのだが──

「ふふ」

 と、今度は営業スマイルではない感じに、牡蠣垣は、薄く笑っただけだった。その反応だけでは、知っていたのか知らなかったのかわからない──むしろこちらの思惑を見透かされてしまっただけという気もした。子供の可愛かわいい抵抗らしきものを、微笑ほほえましく見られてしまったような。

 だとすれば恥ずかしい。とても恥ずかしい。

「そうです、地球撲滅軍──それが私達の所属となります。私達の家となります。そして願わくば、あなたにとってもそうであれば、と思います」

「…………」

「と、いきなり言われてもわけがわかりませんよね。ねえ『寸刻み』」

 唐突に牡蠣垣は、隣の剣藤に呼びかけた──既に自身をこの会話から『蚊帳かやの外』においていたらしい剣藤は、呼びかけられたことに酷くびっくりしたようで、

!?

 と、オーバー過ぎるくらいのリアクションで首を動かし、牡蠣垣のほうを向いた。

「え、は、はい! な、なに、『茶飲み話』!?

「何じゃありませんよ。本来、我々の素性を説明するのも、あなたの仕事でしょう。あなたの不手際に、私は思わず出張ってしまいましたが、肝心のあなたが何を『もう自分には関係ない』みたいな顔をしているのです」

「あ……、じゃあ、まだ私が続けていいの?」

 ぱあっと、剣藤の表情が明るくなりかけたが(ぼんやりとした風のこの少女はそんな表情もできるんだと、空々はそのことに驚いた)、しかし牡蠣垣は首を振り、

「あのザマでは、とても任せることはできませんね」

 と言った。

 剣藤は如何いかにも不満そうに、ぬか喜びをさせられたというようにうなだれた。

「ですがまたそういう機会もあるでしょう──後学のために、ちゃんとあなたも聞いていなさい」

「はぁい」

 不承不承ながら、頷く剣藤。どうやらこの二人の間には、上司部下というだけではない、ただならぬ上下関係がありそうだと空々は思った──同時に、またあるかもしれないという『そういう機会』とは、どういう機会なのだろうとも考えた。

 どこかの誰かの、家族を虐殺する機会だろうか。

 実際に『それ』を行う現場を目撃したわけではないけれど、食卓の上に立つ彼女の姿を──今の彼女のうなだれた姿とは食い違うが、あのりんとした姿を思い出せば、彼女が『寸刻み』と呼ばれている理由は明確だ。

 だからこれまでも、そしてこれからも。

 この少女は人を刻み続けてきて、刻み続けて行くのだろうか──そんなことを思った。

「もちろん、ただ聞いていればいいというわけではありませんよ。さあ『寸刻み』。地球撲滅軍について、まずはあなたなりに説明してあげなさい」

「はい。……だけど『茶飲み話』、私、すべては知らないよ? 私、現場の人間なんだから」

「誰がそこまで深い話をしろといいましたか……危険な子ですね。危険な子から危険分子にならないように気をつけなさい──今ここで空々さんに話すことは、あなたがわかっている範囲のことでいいんですよ」

「わかりました。……えっと、そらからくん」

 剣藤はようやく、空々に向いた。車に乗り込んでから初めてだ。

 上司の命令を受けて気張っているのか、それともそちらが彼女の素なのか、先ほどまでの拗ねた態度が嘘のような真面目な顔である。

「地球撲滅軍とは、地球を倒すための組織です。人類を守るために、私達は日夜戦っています──戦っているんだ」

 かしこまった口調は一瞬で崩れたが、真剣な面持ちまでは崩れない。

 ただ、語るその内容は、冗談よりも荒唐無稽だった。

 地球を倒す?

 その意味合いがわからない──さっき牡蠣垣が『悪しき地球』という表現を使っていたことを思い出す。『地球』に『悪しき』という形容がつくことが、そもそも空々としては感覚的にそぐわない──誰の感覚にもそぐわないような気がする。

 という点から考えると、それは何らかの比喩ひゆなのだろうか?

 わからない。

 それに較べれば『人類を守る』(これもさっき牡蠣垣が言っていた。だから剣藤は、結局牡蠣垣の言葉を繰り返しているだけに過ぎない気もする)という文言のほうは、ある程度わかりやすい。

 わかりやすい。

 どうしてそれを空々に言うのかをさておくならば──それに。

 空々の関係者を、つまりはまさしく人類を、数百人単位で虐殺した組織が、どうしてそんな言葉を使うのかについては、さておくならば、だが。

 少し考える。試しに慎重になってみる。これもまた今更だが。

 整理してみれば、今確かに言えることはひとつだけだ──空々の前には既に選択肢も何もなく、生殺与奪せいさつよだつの権はすべて、相手に握られているということである。

 さっき、二人揃ってこれ見よがしに土下座までして、文字通り空々に伏してお願いするようなことを言っていたが──あの状況で同行を断る権利など、空々にあるはずがなかった。『軍』と、そう名乗っているが、実際彼らの有する暴力は、軍事力と表現しなければならない規模なのだ──たとえ家族四人を切り刻まれたことを『まだしも』とするとしても、学校ひとつを焼き尽くすなど、明らかにおどしの域を超えていて、それはつまり『脅しではない』ということだ。

 もしも空々が彼らの意に沿わない行動を取ったとき──あるいはこの先、意に沿う行動を取ったとしても、なのかもしれないが──その軍事力の向かう先は知れていた。空々自身だ。危害を加えるつもりはないという、何度も繰り返された剣藤の言葉など、信用できるはずがない。

 裏を返せば、そんな強制力を持つ立場にありながら、牡蠣垣ははるか年下の空々に対し礼を尽くしたということになるが──ともかく、牡蠣垣を前に、鎌をかけたり、腹を探ったり、そんなことをしてもあまり意味がないことは確かだった。

 彼我ひがの立場があまりに違い過ぎる。

 仮に剣藤がここで、彼女からすれば理不尽に上司から叱責しっせきされたことを逆恨みして、空々に敵意を実際的な行動を伴って向けた場合、それに逆らうすべはないのだ──だったらいっそ、開き直ってみるのもいいだろうと空々は考えた。

 今の自分は、半分以上死んでいるものだと判断して、思った通りのことを思った通りに訊こう。訊いてしまおう。こうして彼は、色々考えた割には結局、まるで自滅するかのようにおのれの素性を牡蠣垣達に晒していくことにしてしまったのだが、これを幼稚ゆえ、あるいは子供の浅知恵と責めるのは酷と言うものだろう──ここで万全に振る舞えるようなら、そもそも彼はことの発端となる、飢皿木診療所に足を運んでなどいない。

「地球を倒すっていうのは、どういう意味ですか? それは地球を壊すみたいな意味ですか? 人類を守る? たった今、僕の関係者を皆殺しにしたあなたがたの台詞とは思えませんが」

 すらすらと、年齢離れした風な、そして場慣れした風な丁寧な口調で言う自分が、どれほど奇異に見えるか──換言すれば、どれほど望ましく見えるか、空々は気付かない。

 もちろん牡蠣垣、それに剣藤も、それに気付かせない。

 ここでそれについて、不自然な──言うならば常識的なリアクションを取ったりはしない。ただ質問に答える。

「後の質問から答えましょう。人類を守ることと、空々さんの関係者を守ることの二律背反については、私達も心を痛めています」

 さすがに車中で土下座はしなかったが、牡蠣垣はぺこりと頭を下げた。それにならって、剣藤も頭を下げた。さっきもそんな感じだったけれど、牡蠣垣はともかく、剣藤のほうは、頭を下げているというよりは。なんだか首が痛い人みたいな動作だった。

「ですが矛盾はしません。私達の言う『人類を守る』とは、ミクロではなくマクロの話ですからね……言葉を飾らずに言ってしまえば、多くを救うため、少ない犠牲を払うことに、私達は躊躇ちゅうちょは致しません。空々さん、あなたは随分語彙が豊富なようですけれど、でしたらサバイバル・ロッタリーという思考実験をご存知ですか?」

「いえ……知りません」

 実は横文字には、そんなに強くない。

 父親の専門は国文学だ。

「日本語では臓器くじと訳される概念です……、思考実験です。籤である一人の人間を選び、その人間のすべての臓器を取り分けて、その臓器を必要とする多数の人間に移植を施すという行為は、果たして善なのか、悪なのかを問う問題です。ロッタリーとは、籤という意味ですね」

「…………」

「一人の犠牲で多数が救えるとき、その行為は善か、悪か。もちろんこれは、簡単に答の出せる設問ではありませんし、また立場によって答の違う問題でもあるでしょう。たとえば臓器移植を必要としない人間と、臓器移植を必要とする人間とでは、この問いに対する答は違うでしょうし、身内に臓器移植を必要とする人間がいる場合なら、自身が健康体であっても、また違う答を出すでしょう。問われているのは倫理観ではなく、『今、自分がどこにいる誰なのか』なのかもしれませんね」

 牡蠣垣は一旦言葉を切って、

「しかし私達はこの行為を『善』、正義であると定義するということです」

 と言った。

「無論本来的に、このサバイバル・ロッタリーは成立しません……臓器移植の手術は、そんな『取りかえっこ』のようなものじゃあありませんし、手術を受けたからと言って必ずしも健康体になれるわけじゃありませんからね。もしも本当にこんなアンケートが実施されたなら、私は迷うことなく反対に票を入れますよ。あくまでも私達の答は、思考実験のルールにのっとったものです。逆に言えば──絶対に、後遺症も残らずに、施術された患者達が健康体になれるという保証があるのならば、私達はこの手術を、自ら執り行うことにさえ躊躇しないでしょう。籤を引くことさえ」

「…………」

「私達は地球撲滅軍なのですよ」

 と、改めて名乗るようなことをした。

 それはきっと、サバイバル・ロッタリーが彼に投げかけた問い──『今、自分がどこにいる誰なのか』に対する答だったのだろう。

 僕はどうだ。

 ただの思考実験だとわかっていながら、なんとなく、その目新しい──新しく知った『名付けられていたもの』に、空々の心はとらわれた。考えてしまう。そう、一歩考えを進めて……、自身の臓器を他者に分配することで、自分は死ぬけれど、より多くの他人が生きながらえるとすれば──それは気分の悪くなるような問いではあるが、ここで気分が悪くならないのが空々である。

 社会的に見ればそれは大得であり、個人的にはそれは大損だ。

 そんな当たり前の結論を、特に何も思わずに出せる少年。

 ただ、『自分が嫌なことを他人に強制はできないよなあ。だからそれは「悪」なんだろう』と、理性との折り合いをつけておくことも忘れない。もしも自分が嫌でなかったとしても、やはり他人に強制はできないだろうとも思った。

 それとも救える人数にもよるだろうか?

 臓器では、どんなに頑張っても一人あたり十人も救えないだろうが、しかし一人を殺すことで百万人が救えるとすれば、どうだろう?

「カルネアデスの船板という話なら、知っていますけれど……それと似たようなものですか?」

 カルネアデスの船板とは、難破した船から投げ出された乗客が、浮かんでいた船板にしがみついたとして、その船板が一人分しか体重を支えられなかったとき、他の乗客を救わない、むしろ蹴飛ばすことが許されるかというような問いである。

 この場合は、助かる人間と助からない人間は、一対一だ。

 そこを含めての問いだったが、

「似てはいますが、しかし私達は、それについては積極的な肯定も積極的な否定もしませんね」

 と牡蠣垣は答えた。予想通りの答ではあった。

「つまり投資だと思っていただければ、わかりやすいかと。リスクに対するリターンは、大きくなければいけません。リスクとリターンがイコールでは無意味ですし、ましてリターンがリスク以下となると、もう何がなんだかわかりませんからね」

 投資。そのたとえはわかりやすいと思った。

 わかりやすいと思うかどうか、今度は自分が鎌をかけられているのかもしれないとは、思わなかった。

「……でも、僕の関係者を全員殺すことが、どうして人類を守ることに繋がるんですか? そこが意味不明なんですけれど……」

 突き詰めると、彼らは空々一人のために、空々の関係者全員を殺したことになる──これではリスクとリターンがつりあっていない。破綻を前提としているような、ありえない投資である。

「それはもちろん、あなたに悪と戦う正義のヒーローになっていただくためですよ、空々さん」

 本当にそれを『もちろん』と信じて疑わないような口調で、牡蠣垣は言った──気付けば、その片手にティーカップを持っている。いつの間に? というか、どこから? ふと横を見れば、剣藤が両手でティーポットを持っている。湯たんぽでも抱えるように持っているが、今は五月だ。熱くないのだろうか。剣道着は分厚いから大丈夫なのだろうか。

あなたが全人類を救うのであればこんな合理的選択はないでしょう、空々さん。極論、この国の人間全てを殺したっていいくらいの、割のいい投資です。具体的な理由は複数ありますので、順不同にひとつずつ列挙していきましょうか……疑問点があればその都度説明しますので、遠慮なくおっしゃってください。私達は公開できる情報はすべて公開致します」

 それは当たり前な気がした。

 言い換えれば公開できないことは公開できないと言っているようでもある。

「あなたの関係者を全員、一人残らず殺した理由。それはまず、空々さんに今までのいわゆる『日常』を、未練なく脱していただくためです。不退転の覚悟を持っていただくため──そして情報漏洩防止の徹底のためでもあります。地球撲滅軍の機密性は、言わなくともわかっていただけると思います。つまり空々さん、今後のあなたの『存在』を知っている人間は、少なければ少ないほどいい──いなければ一番いい。そして最後になりますが、これは個人的には私がもっとも重視している理由なのですけれど、我々としてはあなたが大事に思っている人間に、今の段階で死んでおいて欲しかった。あなたに好きな者や守る人があって欲しくはなかった。あなたは人類を愛するべきであって、個人を愛するべき立場ではなくなるのですから」

「…………」

「人質が取られたときや、愛する人から反対を受けたときのためというのもありますけれど、正義の他に大切なものがある人は、ヒーローにはなれませんからね」

 牡蠣垣が、丁寧な口調とは裏腹に、かなり非人道的なことを言っていることは、もちろん子供の空々にもわかったが、しかし同時にその一方で『なるほど合理的だ』と納得もしていた。

 納得に足る理由だと思った──どうしてそこまで徹底的なことをするのかという点を除けば。

 その『合理』は、だからあくまで、サバイバル・ロッタリーのような思考実験における合理性であって、それ以上ではないように思える。それに合理的であることと、効率的であることは違う──情報漏洩云々と言うのなら、学校の火事、一家斬殺という事実を隠蔽することだって、そう簡単ではないだろうに。

「当然のことながら、ここにいる『寸刻み』や、あるいはあなたの学校を焼いた『火達磨』も、似たり寄ったりの目に遭っています。『蒟蒻』や私は、また少しパターンが違いますが……、ともあれ、四十五億人を守るために、五百人足らずを殺すことは、決して喜ばしいことではありませんけれど、決して割に合わない計算ではないでしょう──そうは思いませんか? 空々くん」

「割には合うと思います」

 そう答えた。それが異常かどうかは考えず、思い切って。

「完全に納得できたわけではありませんが、あなたがたの行動の理由はわかりました。ただ僕としては順不同ではなく、もう一つの質問に、できれば先に答えて欲しかったんですけれど……、地球を倒すというのは、どういう意味なんですか?」

 繰り返された質問に、牡蠣垣はしかし、

「そのまんまの意味ですよ。空々くんの理解でおおむね合っています」

 と答えたのだった。

 質問に質問されたのと大して変わらない。空々は答を答えて欲しいのだけれど。

 仕方なく(実は誘いに乗るような形になっているが)、空々は言葉を付け足した。

「僕に、地球を倒す手伝いをしろと」

「ええ。そうです。手伝いというか、あなたがメインなんですがね」

「核開発でも手伝うんですか? それともアラレちゃんみたいに、殴って地球を壊して欲しいとでも?」

 これは冗談で言った。冗談と言うか、わざわざ大袈裟おおげさに、勘違いしたようなことを言うことで、相手からちゃんとした説明を引き出そうとした。稚拙ちせつではあるが、十三歳の少年にしてみれば、会話のテクニックのつもりだった。

「まさか」

 と、牡蠣垣。テクニックが通じた様子はない、むしろ真に受けたようでさえあった。

やろうと思えばそういう破壊も私達には可能ですが──そんなことをしたら、地上の人類もただでは済まないではありませんか。割に合いませんよ。害虫がいるからって、自分の住んでいる家を潰すようなものです。そうでしょう?」

「……? いや。でも、他にどう解釈しろと言うんですか、そんな言葉を。他にどんな意味が……」

 と、そこまで言って、思いつく。そして思いついたことをそのまま言う。単純に『人類もただでは済まない』という言葉から連想しただけのことであって、論理的にはあまり直結してはいないのだが、思いついたことは全部言うと、もう決めていた。

「あ。ひょっとして、半年前の『大いなる悲鳴』──あれは、あなた達の仕業なんですか?」

 どんな現実も受け入れ、何事にも動じないという、空々の、ある意味『空気を読まない』才能を買って、牡蠣垣や剣藤がここにいるのは──こんなことをしているのは確かだろう。だから本来、空々のそんな発言もまた、彼らは喜ばしく受け止めるべきだったのかもしれない。

 生殺与奪の権を握られているという状況で、抵抗なくそんな発言ができてしまうことを──先ほど殺害現場でそうしたように、彼らは誉めそやすべきだったかもしれない。

 だが、二人はそうはせず。

 一瞬で車内は殺気に包まれた。


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 その殺意はスモークガラスを通じて運転席にまで届いたのか、リムジンは急ブレーキをかけたようだった──それが恐らく空々を救った、とりあえず、この時点では。

 急ブレーキの慣性が終わる頃には、その殺気は雲散霧消うんさんむしょうしていた。

 空々の前の席に向き合っているのは、先ほどまで通りの、優雅な物腰の牡蠣垣閂と、叱責された失点を取り戻そうとしている剣藤犬个だった。ただし牡蠣垣の手元のティーカップからは紅茶がこぼれて足元に敷かれた毛足の長いカーペットを濡らしていたし、剣藤の抱えていたティーポットからもお湯がこぼれ、これは彼女の袴をしっとり濡らしていた。

「ははは、違いますよ、空々さん」

 と、快活な風に牡蠣垣は笑った。それに合わせて空々も笑おうとしたが、うまくはいかなかった。と言うか、あんな殺気を密室で浴びて、自分が今気絶しないでいることが不思議だった。

 どうせもう半分死んでいるようなものなのだから何を言っても、何を訊いても同じだという自分の判断が、あまりに雑なものであったことを思い知らされた。

『ようなもの』と『そうだ』は、『半分死んでいる』と『死んでいる』は、全然違うと知った。

「何を言っているんですか──ねえ、『寸刻み』?」

「うん。まったくだよ。何を言っているんだろうね、そらからくんは。馬鹿じゃないの」

 既に自分を完全に取り戻しているらしい牡蠣垣に比べ、剣藤のほうは、棒読みにすらなっていなかった。抜くのが得意だと言っていた彼女の刀が、今は手元ではなくトランクにあることは、自分にとってかなりクリティカルな幸運だったらしいと空々は思った。

「で、ですよね。違いないに違いないと思っていました」

 と、思い切り迎合するようなことを言って、空々はこの話を打ち切ろうとした──何でもいいから次の質問を投げかけようと思った。話を変えよう、逃げようとした。だが、逆に牡蠣垣のほうがこの話から離れようとせず、

「むしろ」

 と、自ら話を先へと展開させた。

あれこそが私達の敵──地球からの攻撃なんですよ」

「……? 地球からの、攻撃……?」

 今は何を言われても、どんな滅茶苦茶なことを言われても、空々はとにかく頷くつもりでいたのだが、しかし牡蠣垣は、随分と首肯しづらいことを言ってきた。

「私達の住む地球は、人類を滅ぼそうとしています──あの『大いなる悲鳴』は、宇宙からの殺戮音波などではもちろんなく、しかし地球が人類を殺すために発した声だったと言えば、あなたは信じますか?」


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 リムジンは再び動き出した。案外殺気云々は関係なく、ただの信号待ちとか、急に飛び出してきた歩行者のためとかでブレーキを踏んだだけだったのかもしれない。

 空々にしてみれば、どこに向かっているかわからない(まず最初に問うべきはそれだったのかもしれない)黒い車は、車内での会話にかかわらず、目的地へと向かう。

「地球の声……?」

 空々は、自分で発音することで、牡蠣垣の言うことを理解しようとする。

「つまりあれは、地球の悲鳴だったというんですか?」

 そう言えば、昨日。

 剣藤がそんなことを言っていたような、言っていなかったような──その後高熱にうなされることになったので、定かな記憶ではないが。

 探るように、空々は剣藤に視線をやったが、しかし剣藤のほうは、まだ自分を取り戻していないらしかった。空々をにらんでいて、油断すれば飛び掛ってきそうな気配さえ感じる。取り戻すも何も、元からそうだった気もするけれど。

 怖くなって空々はそそくさと、視線を牡蠣垣に戻した。それを待っていたわけでもないのだろうが、牡蠣垣は続ける。停めていた言葉を再開する。

「少なくとも私達はそう考えています。と言っても私達だけではありませんが……、私達のような組織は、国内外に、多数存在しています。ですから何も私達は、取り立てて特別なことをしているわけではないのです──もっともその数は、『大いなる悲鳴』以降はむしろ、相当減ってしまいましたがね」

「…………」

 ん、と空々は、自分の認識が間違っていたことを、その牡蠣垣の台詞から、知る。半年前の『大いなる悲鳴』を受けて──てっきり『地球からの攻撃』を受けて、地球撲滅軍や、それに類するグループが組織されたのかと思ったが、しかしそうではなく、『大いなる悲鳴』以前から、そのようなグループは存在していたらしい、しかも、むしろ今より活発に。

 となると、攻撃を受けたというよりは。

「『大いなる悲鳴』は地球からの『反撃』だったということなんですか……?」

 反省した割に、これもまた、『空気を読まない』発言だったかもしれない──これは結局、『お前達がちょっかいをかけたせいで地球がキレたんじゃないのか』と言っているのと同じだ。

 だが今度は車内が瞬間的に、不穏な空気で満ちるというようなことはなかった。ただ牡蠣垣が、「そうですね」と静かに、控えめに肯定しただけだった。

 どうやら先ほどの『殺気』は、的外れな冤罪えんざいをかけられたことに対する怒りから発現したものだったらしい──裏を返せば、今度の空々の発言は、あながち的外れな冤罪ではなく、少なくとも事実に近いものであるらしかった。

 ただし、空々も別に死にたいわけでもないので、ここで調子に乗って余計なことを言ったりはしなかった。

 ただ待つ。相手が何かを言うのを待つ。

「反撃と言えば反撃だったのでしょう──ただ、言い訳じみたことを言わせてもらえるならば、空々さん。先にどちらが手を出したなんてことは、もうわからないんですよ。人類と地球との因縁は、気が遠くなるほど昔から始まっていて、既にある種の構造と化しています。人類が文明を得て以来、人類と地球は、ずっと戦っていたと言ってもいいかもしれない。

「…………」

「まあ、歴史を振り返れば、概ね人類が優勢に戦いを進めてきていたんですけれどね。しかし例の『大いなる悲鳴』で、一気にこちら側の優勢を引っ繰り返されました。まさか地球が、あそこまでの切り札を隠し持っていただなんて……」

 そう言って、牡蠣垣は意味ありげに、剣藤のほうを見た。

 剣藤はその視線を避けるようにした。

 それがどういう『意味』があるやり取りだったのかは、空々にはわからなかった──わからないうちに、牡蠣垣は剣藤を見るのをやめ、また空々のほうを向く。

「あれからここまで、復興するのに精一杯でしたよ」

 まあ半年でよくここまで挽回できたものだとは思いますけれどね、と牡蠣垣は言った。空々は黙って聞いている。思うところも言いたいこともあったが、黙って聞いている。

「というわけで我々は今、決定的な戦力不足の状態にありまして、空々さん、あなたのような英雄の誕生を待ちわびていたということです。あなたは私達にとって、待ちわびた救世主ということなのですよ」

「なるほど、わかりました」

 ここで返事をする。

 なるほどという気持ちも、わかりましたという気持ちもまったくなかったが、そう答えるしかなかった。

「私達を信じていただけるのですか?」

「はい、信じます。この半年抱えていた、様々な疑問が腑に落ちる話でした」

 これは嘘というほどではないにせよ、本当は『信じるしかないでしょう』と思っているのを『信じます』と言い換えたところに、空々なりの欺瞞ぎまんがある。

 疑問もまた、解消したというわけではない。ただ、地球撲滅軍とか、ヒーローとか、そういう曖昧だった単語にどういうものであれ、きちんと意味付けがされたという点においては、確かに『腑に落ちた』話ではあった。

 再度と言わず、再三再四繰り返すが、空々は死にたくない。

 ならば牡蠣垣の話の真偽など、究極的にはどうでもいいのだ──彼らにおもねるしか生きる道がないというのなら、そうするまでだった。帰る場所をあらかじめ奪われ、帰りを待つ人もいないというのが、今の空々空の現状なのだから。

 ごちゃごちゃ考えてはみたが、結局ここで空々がしていることは、『彼らに話を合わせる』ということだった──この状況下では大抵の者が、考慮もせずに感情に任せて取るだろう行動に、随分遠回りをして辿り着いたということである。

 ただ、これは向こう側には看破されたようで、そしてあまりこころよく受け取ってももらえなかったようで、牡蠣垣は、

「あなたは嘘が下手ですね、空々くん」

 と言うのだった。

「まあヒーローの資質としては、それも必要な美徳だとは思いますが、こちらとしてはできるだけ正直に、誠心誠意あなたに接しているつもりなのですから、そういうことはやめていただきたいものです。遠慮せず、言いたいことは言っていただかなければ今後の信頼関係に関わりますよ」

「……はい。ごめんなさい」

 さっきの殺気のことを思えば言いたいことを言うなんておよそ不可能だったが、しかし、それも空々は『言わない』。下手であろうと見え透いていようと、だ。

「謝って欲しいわけではありませんが──うーん。困りました。どうすれば信じてもらえますかね。確かに、こんなことをいきなり言われても『おかしなことを言う人達だ』と思うのが当然ですしね」

 おかしなことを言う、どころではない。異常だと思っている。おかしなのは言っていることではなく頭だ。そう思っている。そもそも物言わずとも、あれだけの大虐殺を繰り広げた時点で、議論の余地なく十分に異常だ。

「『寸刻み』。どうしたらいいと思います? あなたの場合は、あのとき、どういう工程を踏んで、軍を信じられるようになれましたか?」

「信じる、って言うか……それ以前に色々あったとは言え、実際に『知る』までは、鵜呑うのみにはしていなかったけれど」

 剣藤は首を傾げつつ、言う。

「信じるきっかけ……、はっきりとしたきっかけがあったとするなら、軍の組織力を見せてもらったことかな。だったと思う。つまり、地球撲滅軍が、私的な犯罪者集団ではなく、個人的なテロリストでもない──日本政府のバックアップを受けたきちんとした正規の組織だという事実が、はっきりしたことだった」

 ぎょっとする。日本政府のバックアップ? それは空々にしてみれば、『人類を救う』や『地球を倒す』よりも、よっぽどスケールがでかく感じるような言葉だった。何を言い出したんだこの人は、と素直に思った。

「ああ、そうでした──そういうこともありました。そうか、ことの真偽はいずれ知るとしても、私達の所属ならば、簡単に証明することができるんでしたね。どうです、空々くん」

 牡蠣垣はいかにもナイスアイディアを得たというように、空々のほうを向く。剣藤は、上司にそのナイスアイディアを提供できたことに満足したようで、先ほど害した気分を、幾許いくばくか回復したようだった。

「今ここで、この私になにか『大きなこと』を、要求してみてはくれませんか? なんでも叶えるとまではさすがに言えませんが、しかしある程度までの『大きさ』なら、私はそれを即座に実現してみせましょう」

「……それは、暴力的なことじゃなくても、ですか?」

「もちろんです。なんなら慈善事業でも構いませんよ。たとえば、今回の件で、中学生の子供を痛ましくも失った両親への補償とか──」

「…………」

 正直、既に空々にとって、現状は相当に『信じるも信じないもない状況』ではあったのだが、それは言いにくい。そして『彼らの言うことが真実であってくれればいい』という気持ちが、ないわけではなかった──どちらでも同じことであろうと、偽りに付き合っているよりは真実に付き合っているほうがいい。『真実の残酷さ』のようなものを、あるいは『偽りの気楽さ』のようなものをまだ知らない少年は、そんな風に思うのだった。

 だが、『中学生の子供を痛ましくも失った両親への補償』では、いまいち真実は測れないようにも思えた──そんなことは、別に空々が要求しなくとも、今の日本の補償制度を考えると、何らかの形で行われるような気がしたからだ。

 それに、なんだかマッチポンプのようでしっくりこない。つぐないというより、それは地球撲滅軍の立場からしてみれば、ただの隠蔽工作の一環であるようにさえ思える。その隠蔽工作ができるかどうかで、確かに組織力を測ることはできそうだが──ただ、それは政府のバックアップを受けていなくとも、国に支援されていない反政府組織でもできてしまいそうにも思うのは、漫画の読み過ぎだろうか。

 だからと言って、他に何を要求すればいいのか。いきなり政府と言われても、やはりスケールが違ってピンとこないのだ。

「……その要求というのは、僕があなた達に従う報酬ほうしゅうだと考えればいいんですか?」

「とんでもない。この程度のことが報酬だなんて……欲がないですねえ、空々さんは。実に好ましいですが、しかし報酬はまた、別に用意させていただきます。それに、『従う』なんていう、自分をひとつ下に置くような発言は慎んでください。ヒーローにそんな卑屈な意識を持たれては、現場の士気に関わります」

 報酬は別にあるのか、と、空々は戸惑った。それは意外だったし、また、空々の態度を諫めるような牡蠣垣の言葉も意外だった。てっきり、というかなんとなく、これから自分は彼らから(具体的に何をさせられるのかはともかく)奴隷のようにこき使われるのだと思っていたが……、いや別に、まだ牡蠣垣がそう言っているというだけで、それで正解だという可能性は十分に残っている。

 彼らを信じるしかないと思いつつも、やはり疑いは消えない。

 ならばどうすればいいのだろう。子供であり、知識も情報もない自分にもわかりやすく、彼らの『力』を──『軍事力』以外を証明するには、どうすれば。

 義務教育の子供にもわかりやすい、国の政策のようなものと言えば……。

「……あ」

 そうだ、と空々は思い付く。それは実に馬鹿馬鹿しい思い付きではあったが、しかし意外とこういう場合、適切なようにも思えた。冗談めいていて、変に場の空気が硬直するということもなさそうだという点において、空々にとってそれはベストの『要求』だった。

 とは言え、牡蠣垣にそれを言うのはもう一度頭の中で復唱してから、本当に言っても大丈夫かどうかをチェックしてからだった。

 大丈夫。最悪、ジョークで済む。最低限あの殺気で車内が満たされることがなければ、空々の立場からすれば万々歳なのだ。謎の解明ではなく、生き残ることが自分の目的であることを忘れては駄目だ。

 そう思って、彼はその『要求』を口にした──果たしてその結果返ってきた反応はと言うと、牡蠣垣は目を見開いて驚いていた。剣藤はこちらの正気を疑うような視線を送ってきた。そして剣藤の視線にはあからさまな非難も含まれていた──この子は一体、何をふざけているんだと言いたげだった。

 彼女が口に出してそう言わなかったのは、やはり隣に牡蠣垣がいたからだろう──牡蠣垣はすぐに我に返ったようで、

「承りました。ではそのように」

 と言った。

 予想外の反応、そして予想外の快諾に、一笑に付してくれたほうがよっぽどよかったと空々は思ったが、最早後の祭りだった。


     5


「到着したようですね」

 と牡蠣垣が言った。二時間ほどのドライブの結果、どうやら目的地に到着したらしい。地球撲滅軍の本部(?)に連れて来られたのだろうか、なんて、空々はぼんやりとそんな推測をしていたのだが、しかし車から降りてみると、そこは地下駐車場だった。

 本部の駐車場だろうか?

 と思ったが、そうではなかったらしい。

「今夜から空々さんには、このマンションの一室で暮らしていただきます」

 牡蠣垣はそう言って、空々にカードキーを渡した。

 二枚のカードキー。一枚はオートロックの解除用で、もう一枚がルームキーだという。一枚にまとめればいいのに、と空々は思ったが、堅固なセキュリティの証明ということなのかもしれない。

「十七階の1717号室です──一通りの家具や家電や衣類は揃っていますので、差し当たり不自由はしないと思います。水・電気・ガスも既に開通していますから、遠慮なくお使いください。好みに合うかどうかはわかりませんが、本も何冊か用意しておりますので、よければ暇潰しに」

「…………」

 文句のつけようもないほどの至れり尽くせりだ。

 家族を殺したり、中学校を焼いたりする一方で、そんな気遣いもする。

 ひょっとするとそれほどの価値が自分にはあるのだろうか、と、ここで初めて、空々はそんなことを思った。今更、やっと、遅かりし──と言わざるを得ないタイミングだが、しかしこれはやむを得ないと言えばやむを得ない。

 空々を欲しているがために、彼らが空々の家族を皆殺しにし、学校を焼き尽くしたということは理解していても、それと空々を歓待し、もてなすことは、また別だ。問題なのは、空々にとってはそれは別であろうとも、地球撲滅軍にしてみれば、それとそれはまるっきり同じだということである。

 空々のために専用の部屋を用意するのと同じ気持ちで、彼らは空々の関係者の大虐殺に及んだ──行動原理があまりにもドラスティックだ。合理的過ぎて、合理の意味を見失う。

 それだけ切羽詰せっぱつまっているということなのだろうか?

 悪しき地球との戦いとやらが。

「……では、あとの説明は、部屋でということですか?」

「いえ空々さん、今日はもうお休みになってください。話の続きは明日にしましょう……空々さんも色々あって、疲れているでしょうし」

 確かに今日は色々あった。しかしその色々の原因は、すべて彼らの所属する組織である。だからそんなことを抜け抜けと言われても困る。とは言え疲れているのも確かに確かではある。

「明日……ですか」

「ええ。ここから先の話は、空々さんからの『要求』に、こちらが応えた後にしたいと思います。そのほうが話の通りはいいでしょう。私達のことがわかってもらえると思います」

「はあ……」

 そうかもしれない。だが、本当に『あんなこと』が実現可能なのか? それも牡蠣垣は、まるで今日明日中に実現させてしまおうというような口振りだ……思いついたときには見事な着想だったと感じたアイディアではあったが、今になって思えば、彼らがたとえ本当に政府と何らかのコネクションを持っていたとしても、およそ不可能だと思えるような『要求』を空々はしてしまったのだが……、なんだかそれを後悔する気持ちが湧いてきていた。

 だがもう取り消せない。牡蠣垣はあの直後、車内から電話をどこかにかけて、その旨を告げてしまっているのだから。

 仕事の速い男である。

「じゃあ……明日」

「はい。こちらから電話をさせていただきます」

「あの」

 学校にはどうやって行けばいいですか、このマンションの最寄り駅はどこでしょう、と訊きそうになって、その質問の群を抜いた愚かさに、自分で呆れた。その学校が消滅しているのだ。なのに一体、自分はどこに通おうと言うのか。

『それどころではない』ということを、もっと銘記しなければならない。

 現状をもっと深刻に捉えなければ。

 現状をもっと真剣に捉えなければ。

 ……それができないのが空々なのだが。

「? なんですか?」

「なんでもありません」

「そうですか。では、空々くん。世話係として『寸刻み』を置いていきますので、何かありましたら、なんなりと彼女に申しつけください」

「え?」

 そんな驚いた反応をしたのは、今度こそは自分の役割は済んだ、あとはもう帰るだけだと思っていたらしい、牡蠣垣の後ろに控えていた剣藤だった。

 素で驚いている。

「ちょ、ちょっと待って。『茶飲み話』……な、なに言ってるの?」

 慌てたように彼女は言う。

「せ、世話係って何? 私は、そんなこと──」

「聞いてなかったんですか、『寸刻み』。言ったはずですよ。あなたに与えたいくつかの任務のうち二番目に大切な仕事は、空々さんの面倒を見ることだって」

 牡蠣垣は何食わぬ顔で言う。むしろ剣藤のそんな反応のほうが意外だと言わんばかりだ。

「まだ十三歳の空々さんに、いきなり一人暮らしなんてできるはずがないでしょう。あなたが一緒に住んで、身の回りの世話をしてさしあげるのが当然というものです」

「そ、そんな……め、面倒を見るって……、そういう意味? 先輩として指導するとか、そういうことじゃなく?」

「先輩として? 思い上がるんじゃありません、『寸刻み』」

 ぴしゃりと言い切る牡蠣垣。

 その言葉に剣藤は、しゅんと大人しくなる。

 しかしそれでも容赦せず、今まで見せなかった厳しい顔つきで、牡蠣垣は続けた。

「あなたは『失敗した英雄』でしょう──空々さんに示せる規範など、あるものですか」

「…………」

「まあいいでしょう。説教は後にしましょう、それこそ空々さんの前でするような話ではありません。空々さんに悪影響があってはいけませんから。とにかく、わかりましたね? 『寸刻み』。聞いていなかったというのなら、今改めて命令します。あなたは今日からこのマンションで空々さんと一緒に暮らし、彼が快適に暮らせるよう、面倒を見るのです。いいですか?」

「……はい」

「復唱しなさい」

「私は今日からここに住み、そらからくんが快適に暮らせるように面倒を見ます」

「いいでしょう」

 牡蠣垣は厳しくしていた顔をようやく緩めた。そしてあめむちというような意図があるのだろうか、優雅な仕種しぐさで、励ますように剣藤の肩に、柔らかに手を置く。

「あなたの荷物はあとで運ばせます──それに、当座の生活資金は振り込んでおきますので、くれぐれも空々さんに不便な思いをさせないように。よろしく頼みましたよ」

「わかりました……」

 しかし牡蠣垣のそんな励ましにも、剣藤は項垂うなだれたままだった。受けたショックから立ち直る気配がまるでなかった。あんな項垂れた人と、そして明らかに不本意そうな人と一緒に暮らすというのは、空々にしてみてもはっきり言って冗談ではなかったが、しかし状況は彼の意志とは無関係のところで決まっていく。

 空々空。

 剣藤犬个。

 二人の奇妙な同棲どうせい生活は、こうして幕を開ける。


     6


 ルームキーが非接触型のカードであることから、それにかなりの広さの地下駐車場を有していることから(あるいは駐車場に止まっているいかにも高価そうな数々の車からでも)、空々はここはかなりの高級マンションなのだろうとはイメージしていたのだが、最上階の1717号室は、その期待をまったく裏切るものではなかった。むしろ誇らしげに、その期待に応えてくれたと言える。

 ちなみにあらかじめ牡蠣垣から『3LDK』と言われていたのだが、しかし一軒屋に住んでいる空々には、その言葉の意味がいまいちわかっていなかった──何かの専門用語かと思ったくらいだ。

 マンションの一室の癖に、床面積だけで言えば空々家よりも広いかもしれないくらいだった──牡蠣垣が用意させたという調度も、単純に高価であることをうかがわせるだけでなく、ハイソサエティなセンスに溢れるものだった。映画の中から引っ張り出してきたような光景だった。

 とは言え空々がまず安心したことと言えば、『部屋がたくさんありそうでよかった』である。まあまさかワンルームマンションということはなかっただろうけれど……、これなら同棲と言っても、剣藤とは、そんなに顔を合わさずに済むだろう──と、そんなとろけるほど甘い算段を持って、空々の後ろを死人のような顔でついてくる、項垂れた少女を見遣るのだった。

 死人のような顔、というのが、今日家族の死体を見たばかりの空々にとっては単純な比喩にはならないのだが。というか、顔もわからないほど無惨に四人の人間を虐殺した剣藤が、自分のほうが死人のような顔をしているというのは違和感を覚えてしかるべき点なのだけれど、空々はそこについては『そういうものなのだろう』と受け入れていた。

「…………」

 と、何も言わないままに、剣藤は竹刀袋と道着袋を床に置いた。

 さすがに靴は玄関で脱いでいる。

 この気まずい状況はたやすく予想できたものだったので、空々にしてみれば叶うものなら牡蠣垣に部屋まで一緒について来て欲しかったくらいだったが、しかし言い出せないままに、黒い車に乗って去っていく彼を見送ることになった。

 以来剣藤はひと言も喋っていない。

 これなら一人暮らしのほうがよっぽど気楽だ──というか、自分の家族を虐殺した相手と同棲するなど、本来おかしな話である。

 空々はリビングからキッチンに移動して、備え付けられていた五百リットルくらい容積がありそうな、大型冷蔵庫を開ける──そこに、調理の必要なく食べられそうな食材(ヨーグルトや生野菜)があることを確認し、胸をで下ろした。

 いい加減空腹も限界である。

 今日は一日何も食べていないに等しいし、思えば高熱で、体力を相当消耗しょうもうしているのだ。

「よく食欲なんてあるね、そらからくん」

 と、後ろから声をかけられた。もう剣藤は喋らないものだと思っていたので、またもや部屋の奥に誰かがいたのか、優雅に紅茶でも飲んで、空々達の到着を待ち構えていたのかと思ったが、まさかそんなことはなく、普通に剣藤の声だった。

 睨むように空々を見ている。

 友好な関係が望めそうにない感じだ。今すぐ家に帰りたいと思った。しかし空々にはもう帰るべき家がなかった。決して心情的なだけの話でなく、ひょっとすると今頃、『火達磨』とやらが、証拠隠滅のために空々家を焼き払っているかもしれない。

 だから、家に帰るも何も、もう空々の家はここなのだ。

 あるいは──地球撲滅軍が、彼の家なのである。

「私は人間を斬った日、ものなんて食べる気にならないけどな」

「……そうなんですか?」

 意外な言葉だった。平気そうに、あるいは当たり前みたいに、虐殺現場で振る舞っていたから、てっきり『ああいう行為』は、彼女にとって日常そのものなのだろうと思っていたが。剣藤ならば皿に載った母の頭部をより分けて、その下のハンバーグを食べそうな印象があったが──いや、血にまみれていたから無理か。ああも潔癖に血を避ける剣藤が、考えてみればデリケートでないわけもない。キスも平気そうだと思っていたが、どうやらそうではなかったようだし。

 しかしそれでも納得しかねるものがあった。

 空々が納得できないのだから、よっぽどである。

「人を斬るのは平気なのに、物は食べられなくなるんですか?」

「人を斬るのが平気だったことなんてない……私はきみとは違うんだよ、そらからくん。『茶飲み話』の言う通りだ」

「……?」

「どれ。私が何か作ってあげるよ……少し時間はかかるけど、それでも野菜を生でかじるよりはいいと思うから……」

 言って剣藤は、キッチンのそばにかかっていたエプロンを着用し、冷蔵庫のところに寄ってきた。拗ねたような、というか露骨に不機嫌そうな態度は崩さないが、だんまりを決め込むのはもうやめたらしい。それは単に、彼女に根気が足りないだけなのかもしれなかった。

「いいんですか? あなたは食べないのに」

「きみの面倒を見るよう言われたからね……役目はまっとうする。それが私が今もなお、生き恥を晒していられる理由だから」

「…………」

 何か事情を感じさせる台詞だったが、突っ込んで訊いていいものかどうかわからず、空々はただ、

「そうですか」

 とだけ言った。

 お礼を望んでいるようなことを、そう言えば彼女は空々家で言っていたけれど、しかしそれをここで言うのも、やはりおかしいと思ったのだ。

 空腹であることは、もう少し隠しておいたほうがよかったかなあと反省しつつ、空々はキッチンからダイニングへと退く。

「ねえ、そらからくん。ひとつだけお願いがあるんだけれど」

「はい?」

「私はこれからあなたの面倒を見る……あなたが不便なく快適に暮らせるように、手を尽くす。生活のことだけじゃなく、なんでもする。私のことはアシスタントとして使ってくれればいい。だけどできれば、私に部屋をふたつ、与えて欲しいんだ」

「与えてって……」

 なんだか卑屈な言い草だ。そこまでショックなのだろうか──ショックだろう、それは。色々諸事情を差し引いて考えても、年下の、十三歳の男子の世話焼き女房みたいなことをしなければならないなど、年頃の少女には耐え難い屈辱であるはずだ。それがわかるから、空々のほうも気まずさからは脱せないのである。

「いいでしょ? 3LDKって言ってたから、個室は三つある。リビングの広さを見る限り、それぞれ、それなりの広さだと思うし──そらからくんの部屋をひとつとして、私の部屋をふたつ。そういう部屋分けにして欲しい」

 てきぱきと、料理の下準備をしつつ、決して空々とは目を合わせないままに、剣藤はそんなことを言う──あまり人にものを頼む態度とは思えない。

 が、それで機嫌を損ねて、要求をねるような空々ではなかった。別にそれでいいと思う。二つ返事でOKしてもいいくらいだった。広過ぎる部屋なんて、実際、ひとつでも持て余すだけだ。ふたつもいらない……けれど、なのにどうして、剣藤は個室をふたつも欲しがるのだろう?

 剣の稽古けいこでもするのだろうか。

 そんな危なっかしいことを、すぐそばでされていると思うと、さすがに少し寝付きが悪くなりそうだが。

「構いませんが、理由を教えてもらってもいいですか?」

「私はペットを飼っているから……その子に部屋を用意してあげたいんだよ」

 思ったよりもまともな理由があった。

 となると、こちらには断る理由がなさそうである。

「わかりました。ただ、それなら一番奥の部屋を、ペットの部屋にしてください。真ん中の部屋が剣藤さんで、手前の部屋が僕という配置でいいでしょうか?」

「うん。それでいい。ありがとう」

 空々が言いよどんだお礼の言葉を、あっさりと剣藤は言うのだった──当然ながら、お礼のキスはしてこなかったが。


     7


 剣藤犬个の手作り料理に対して、正しい評価を下せというのは空々少年にとっては難しい要求だろう。彼の味覚はいまだ発達途中であり、文字通りの子供舌であり、その上味よりも量、量よりも栄養バランスを重んじる体育会系である。それに、彼の母親は家事のエキスパートだったので、それと剣藤の料理の腕を較べるのは、いささか酷というものだ。

 おいしく、残さず食べたという事実があれば、だから作り手の剣藤としては満足すべきなのかもしれない──やはり空々は、空腹が満たされたところで、料理を作ってくれたことについて『ありがとう』と言うことはできなかったが、しかしそれでも『いただきます』と『ごちそうさま』は言ったのだから。

 その後は寝た。とにかく寝た。

 いや、寝る前に、シャワーを浴びたが。

 汗をかいているだろうし、風呂に入ったらどうだと剣藤に勧められたのだ──空々としては、それよりもまずは眠りたかったのだが。だから『起きたときに風呂を借りるから、剣藤さんが先に入ってください』というようなことを言ったら、『ここはきみの家だから「借りる」じゃないし、私はそらからくんより先に入ることはできない』と答えられた。

 よくわからなかったけれど、どうやら上下関係のことを言っているらしい──その意識を少々、空々は鬱陶うっとうしく思ったが、しかし知識として、女子が風呂に入れないというのがかなりの苦痛であることくらいは知ってはいたので、仕方なく、からすの行水をおこなったのだった。

 まあ高熱に魘されていた空々ほどでなくとも、あんな大立ち回り(大太刀回り?)を演じて、彼女も汗をかいているだろうし──なんて、そんな風に考える空々の思考は、やはりおかしい。

 バスルームも冗談みたいに広かった。テントを張ってここに住めそうだった。

 シャワーにとどめ、バスを使わなかったのは、彼なりの剣藤に対する気遣いである。子供にしては出来過ぎの気遣いだろう──特に、相手が本日、自分の家族を虐殺した少女であることを思えば。

 すぐそこに、まだ会ったばかりの女子がいるのに裸になっていることが恥ずかしかったし、このあと剣藤が同じ場所で裸になるのだと思うと、あまり長居することも憚られる気がして、シャワーも短めに、本当に烏の行水で切り上げた。

 用意されていたバスタオルで身体を拭き、備え付けのパジャマを着て(サイズもぴったりだった。これは少し気持ち悪かった。地球撲滅軍内の誰かは、どこまで下調べをして、この部屋を準備したのだろうか)、部屋に戻って寝た。

 キッチンで洗い物、それにどうやら明日の朝食の下準備をしているらしい剣藤に「おやすみなさい」と声をかけて、それから自分で割り振った通りの部屋に行って、ろくに部屋の中を検分しないまま、ダブルサイズのベッドに飛び込むように、寝た。

 やっと一人になれたという感じだった。

 ひょっとすると部屋のどこかにカメラが備え付けられていて、今の自分の様子を監視されているかもしれない──なんて考えがまったく頭をぎらなかったわけではないけれど、もしもそんな監視をされていたとしても、自分にはそれに抗うすべがないという結論をあっさり出して、空々は電気を消した。

 実際にはそんなカメラはないので、彼の行動は正しいと言えば正しいのだが、しかしカメラならぬ生きた監視者である剣藤犬个は、彼のその『あっさりした割り切り』を、当然ながら上司に報告することになる。

「…………」

 寝付けないかと思ったが、すぐに眠ってしまった。

 自分は本当に神経質とは無縁だ、と思う。そう言えば今は亡き野球部(部員やグラウンドごと『今は亡き』だ)の合宿でも、天井が変わろうが枕が変わろうが、眠れたものだった。

 受け入れ態勢が広過ぎる心。

 何にも感動しない、心動かない少年。

「…………」

 一人になれば、自分は泣くのかもしれないと思っていたのだが、特にそんなことはなかった。空々空は、家族が殺されても、学校が焼き払われても、泣けなかった。

 悲しまなくちゃいけない、泣かなくちゃいけないという気持ちはあるにはあったが、それもあっただけだ──牡蠣垣が言っていた通りだ。

 もう、そんな演技を見せる観客はいないのである。

 今の空々は舞台に取り残された役者のようだった。

 ふかふかのベッドで、空々は普通に気持ちよく眠った。


     8


 その夜、熟睡してしまった空々には聞こえなかった。

 いや、たとえ、すべては誤解で、飢皿木博士の見込み違いで、牡蠣垣室長の勘違いで、彼がただの珍しくもない十三歳の少年で──この夜彼が、悲しみのあまりに一睡もできていなかったとしても、それでもやっぱり聞こえなかっただろう。

 彼にあてがわれたこのタワーマンションは防音設備がきっちりしていて、たとえ隣の部屋であろうと、ほぼ完璧に、音を遮断していたからだ。窓を閉め、ドアを閉めれば、もう中の音は外には響かないのだ。

 だから聞こえなかった。

 空々空には聞こえなかった。彼の眠る隣の部屋──つまり、剣藤犬个の部屋の中に響く、にわとりの首を絞め上げたような悲鳴は。

「う……わ、あああああああああああああ! あ、あ、あ、あ、ああああああああああああ、あ! うぐ、ぎゅ、が、ああああ、うわあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 夢見が悪くて魘されているというには、あまりにも壮絶な悲鳴。

 剣藤犬个の喉から発されるその悲鳴。

 それは剣藤が人間を斬った日にはいつものことだったが──だから、彼女は人を斬った後のみならず、人を斬るとわかっている日は、その前にも食事は摂らない。夜に吐くことがわかっているからだ──、『大いなる悲鳴』とは違い、その悲鳴は彼女一人のものである。

 誰の元へも届かない。

 実際、こんな風に同棲を始めながら、空々少年がそのことを知るのは、もう少し先のことだった。

「ああああああアアアアアアああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああっ!」


     9


 翌日、空々はいつも通りに目を覚ました。野球部の朝練に合わせた、四時半起きである。当然、行くべき野球部などないし、行くべき学校もないのだから、こんな早くに起きてもただ時間を持て余すだけなのだが。

 と言うより、今日から何をすればいいのだろう。

『いつも通り』すら、彼にはもうない。

 僕はこれから何をすればいいのだ、と、愕然とする。

 空々の『世間』は、昨日根こそぎ奪われた──することは何もなくなってしまった。勉強も部活も、まったく意味をなくした。牡蠣垣が用意してくれた本でも読めばいいのだろうか? 家事全般を剣藤に任せて、ごろごろと日がな、携帯ゲームでもしていればいいのだろうか。なんだろう、そのニートのような生活は。

 ニートというより、それは噂に聞くヒモという奴のような気もする。

 そんな馬鹿な、と空々は思う。戦慄する。

 昨日まで自分は、健康優良な野球少年だったはずなのに──精神的に健康優良だったかどうかはともかく、肉体的には元気な子供だったはずなのに。

 とにかく、生活習慣が抜けていない今、空々としては二度寝をするほうが気持ち悪かった──部屋を出、洗面所で顔を洗う。景気づけにランニングに出かけたい気もしたが、それは控えることにした。

 あなたの家だとかきみの家だとか言われても、一晩でそこまで馴染なじめるはずもないし、空々の意識としてはやっぱり、今は『軟禁』されている最中である。

 だからこそ逆に、ルームキーを渡されているからと言って、そんな自由な外出をする気にはなれなかった。

 こういうのをストックホルム症候群というのだったか、と思う。自分の精神状態に名前がつくと安心する──はずなのだが、しかし、この手の地名由来の言葉は、残念ながらどうも、しっくりこないものがある。カルネアデスの船板とか、マクスウェルの悪魔とか、人名由来の言葉ならば、そうでもないのが不思議だが。

 昨日の夜、剣藤が朝食の下準備をしてくれていたようだし、勝手に冷蔵庫をあさるのもどうかと思い、とりあえず空々は、彼女が起きてくるまで、リビングでテレビでも見ていることにした。

 自分の部屋にもテレビはあったが、しかしリビングのテレビのほうがサイズが大きかったのだ──空々家のテレビは42インチだったが、その倍くらい大きい。実際はさすがに倍もないのだろうが、印象としてはそれくらいに感じていた。大きな画面のテレビにときめくあたりは、空々もまだ少年である。まあいくら大きな画面だろうと、こんな早朝ではまだ、ニュース番組くらいしかやっていないだろうが……、しかしそれはそれで望むところだったと言える。

 昨日報道されていた私立山石中学校の全焼事件の続報、あるいは空々家一家惨殺事件の報道が、流れているかどうかを確認したかったのだ。むろん、個々で較べればスケールは違うが(被害者四人の空々家一家惨殺事件と、四百人以上の被害者を出した中学校全焼事件とでは全焼のほうがニュースバリューは高いだろう。惨殺、という点で、昼のニュースでは前者のほうが衆目を集めるかもしれないけれど)、しかしどちらにしても、報道されないわけがない大事件である。

 だが剣藤は昨日、今日にはもう『報道規制』が敷かれるというような意味のことを言っていた──事件についての報道がなされるのは昨日だけだと。

 その言葉の真偽を、今テレビをつければとりあえず確認できる。

 しかしリモコンのスイッチを押して確認できたのは、そんな真偽どころではなかった。昨夜、リムジンの車中で牡蠣垣に促されてした『要求』が、既に叶えられていることが発覚したのである。

『……昨夜遅く、総理が開いた緊急会見の内容が波紋を広げております。総理によりますと、近日中に消費税を5パーセントから3パーセントに引き下げることを決定したと──』


     10


「あ……そらからくん、もう起きてたんだ。勘弁して欲しいな……きみ、こんな時間に起きるの? 私、立場上きみよりも遅く起きるわけにはいかないんだけど……」

 六時半くらいにようやく(これでも世間的には十分に早朝だが)起きてきた剣藤が、やや理不尽とも取れることを言ってから、テレビのチャンネルをあちこちに回し続けるという作業をずっと続けていた空々に、

「おはようございます、そらからくん」

 と朝の挨拶をした。

 その声に振り向く空々。これまで、剣道着しか見せていなかった剣藤が、髪を下ろして、ピンク色のシルクのパジャマを着ているのが新鮮だった。女の子みたい、という言い方は当たり前過ぎて何の本質も表していないが、彼女のパジャマ姿は、本当に女の子っぽかった。と言うか、空々のほうもパジャマだった。しまった。年頃の男子として、剣藤が起きてくる前に着替えるべきだった。

 まあ彼女の前では空々はほとんどパジャマ姿なので、今更それに照れたりはしないが……しかし、剣藤のほうはそれが気にならないのだろうか?

 気の抜けたパジャマ姿を見られても、彼女は平然としている。

「お……おはようございます。って言うか、その……これ」

 空々はテレビの画面を指差した。と、指さしたタイミングでは、そのチャンネルは芸能ニュースのコーナーに入ってしまっていたので、急いでチャンネルを次へと回す。

 そこでは目当てのニュースが取り上げられていた。

 総理の緊急会見に基づく、消費税引き下げのニュースが。

「ああ……昨日のうちに決まってたんだね。さすが『茶飲み話』は仕事が速いなあ……、いや、これは『茶飲み話』じゃなくて『恋愛相談れんあいそうだん』の領域か。ふん。あいつ嫌い」

 特に驚いた風もないそのリアクションに、やっぱりこれはそういうことなのか、と空々は理解する。

 消費税率の引き下げ。

 それが空々が牡蠣垣に要求したことだった──『わかりやすい無茶』という意味では、そのときはナイスアイディアに思えたものだったが、しかしこうしていざ実現してみると、自分はなんということを言ってしまったのだろうという、とめどない後悔に満たされる。

 もちろんまだ、嘘である可能性は残っている。

 流れているテレビ放送が、彼ら地球撲滅軍によって仕組まれたヤラセ番組という可能性は──しかし、地上波の番組、すべてのチャンネルで偽番組を作るというのも、同じくらいとは言わなくても相当の無茶ではある。

 いずれにしても信じざるを得ない。もう、本当に、どうしようもなく真実の意味で、信じざるを得ない──地球撲滅軍が、政府からバックアップを受けているという『事実』を。

 いや、バックアップを受けているどころか、これはもう政府に対する強制力を持っていると言うべきだ。どころか、地球撲滅軍は国そのものと言ってしまっても──

「……剣藤さん」

「呼び捨てでいいよ、もう。なに?」

「あの……、これ、取り消してもらうことってできますか?」

「うん? 取り消すって……、ああ、元に戻すっていうこと? まあ、今からすぐに『茶飲み話』に連絡すれば、できると思うけれど……、でも、さすがに完全になかったことにはできないと思うよ?」

「それでいいです。それでいいですから」

「わかった」

 詳しくは聞かず、即座に剣藤は動いた。携帯電話ではなく、備え付けの固定電話から、どこかに電話をかけ、その旨を告げる。

「うん、うん、はい。そう、なし。取り消し。撤回してってさ。私はだから、やり過ぎだとは思っていたんだよ……嘘じゃないよ。思っていたもん。とにかく『茶飲み話』、そらからくんは私達のこと信じてくれたみたいだから。用意ができたらすぐに来て。──はい、それじゃ。ばいばい」

 ん、と受話器を置いて空々を振り返り、

「だいじょうぶい」

 と言った。

 小声だったので、『茶飲み話』とどんな話をしていたのかは空々には聞こえなかったし、正直あまり大丈夫ではなさそうだったが、大丈夫だと思おう。そう思うしかない。空々はテレビの電源を切った。

 そして剣藤に訊く。

「朝食は何ですか?」

「まだ決めてないけど。とりあえずそらからくん、パン派? ごはん派?」

「ごはん派です」

「わかった。ではしばらくお待ちください」

 剣藤はパジャマの上にエプロンをつけた。

 変に似合うと思った。あくまで変に。


     11


『茶飲み話』が、スーツ姿の女性を連れてマンションにやってきたのは午後になってからで、その頃にはもう、総理は昨夜の会見における自分の発言を撤回していた。当然のごとく非難囂々ごうごうで、辞任を求める声が、国民からのみならず、党内からも寄せられているとのことだった。

 政治家の失言についての話を飢皿木博士としたことを、空々は思い出す──正に彼が言っていた通りのメディア・リンチではあったが、今日の空々にはその見え方はまるで違う。どこまでが織り込み済みだったのかにもよるだろうが、自分の軽はずみな行動のせいで、一国の総理大臣が交代してしまうかもしれないという事態に、さしもの空々も困惑した。

 何事にも動じないというのは世界や現実のことについてのことであって、自分を取り繕おうという気持ちは、むしろ人一倍強いのだ。少年らしい自意識に欠けているわけではない。

 極論、消費税が何パーセントになろうと、総理大臣がどれほど頻繁ひんぱんに入れ替わろうと、それでどうこう積極的に思うことはないのだが、しかしその原因が自分ということになるのはできれば避けたいというのが、空々の素直な気持ちだった

──だから意図せずそうなってしまったという状況は、彼にとって途轍もないストレスだった。

 別にこれは空々に限った話ではなく、彼のように、他者とは大いに違う人間性、他者とは大いにズレた価値観を持つ人間が一番怯えるのは、『世間からつまはじきにされること』なのだ。

 責められること、怒られること、叱られること。

 修正のしようのない自分の性格で、そういう事態が起きてしまうことをもっとも恐れる──下手な動きをして正体がバレてしまうことに震えるのだ。だからこそ、空々は『過剰な演技』にどっぷりかっていたのだし、必要以上に倫理的にもなっていた。

 行き過ぎて倫理的な人物には気をつけなければならない理由は、そこにこそあるのだ──それは彼もしくは彼女の抱える人間的な問題の証左になりかねない。

 もっとも、人間性の違うところ、人間性のズレている箇所が、

『他人にどう思われようと気にならない』

 という者──いわば自己を放棄している者はこの限りではないという注釈を、今の内にしておかないことは、文脈上不可能である。つまりたとえこの状況で、自分の軽はずみが原因で国政に揺らぎが生じようとも、特に何とも思わない人間というのは思考上想定できて、そして今後の展開次第では、空々は遠からず、地球撲滅軍の内部にいる、そんな恐るべき『人間』と出会うかもしれないのだが、それはこの時点ではまだ、訪れるかどうかわからない不確定な未来の話である。

 ゆえにそれはさておき──リビングにて。

「なに、気になさらないでください、空々さん。私達があなたにかけている期待に較べれば、あの程度の政局の混乱、ものの数ではありません。それでも、どうしても気になるようであれば、これからの働きで返していただければよいのですよ」

 優雅な口調で牡蠣垣からそんな風に言われれば、本当に『あの程度』のようなことに思えもしたが、しかし反面、自分にかけられている期待とやらの大きさが怖くもある。

「ともあれ、これで私達のことを信頼していただけたと思って、構わないのでしょうか」

「はい」

 即答した。今の自分の気持ちが信頼という言葉の語義・語感にぴったりはまるものだとはあまり思えなかったが、しかしそう答えるほかなかった。

 関係者をすべて弑逆しいぎゃくするような軍事力を示す一方で、国家の基幹たる税率を数時間で変えるような政治力を示した……ついでに言うなら、子供にオモチャでも買ってやるように、ぽんとこんな部屋を与えてしまう経済力もあるようだし。

 少なくとも地球撲滅軍は、空々少年がそうそう出し抜けるような組織ではないということが、名実共にはっきりしたのだ。

 ならば即答以外の何をしろというのか。

 信頼しろと言われれば、わかりましたと信頼するしかない。

「よかったよかった。安心しました。私は胸を撫で下ろしましたよ。では、安心したところで、空々さんに紹介したい人間がいるのです」

 と、ようやく牡蠣垣は、一緒に来たスーツの女性のほうへと目をやった。

「『再開発さいかいはつ』、自己紹介をなさい」

「はい」

 それを受けて、女性は頷く。

「初めまして、空々くん。私は『再開発』という──本名は落雁らくがんギリーというが、最近はあまり呼ばれていない名前なので、こちらで呼ばれても反応が遅れるかもしれない。そのときはごめんなさい」

 そう言って彼女──『再開発』、もしくは落雁ギリー(? 本名だという名前のほうがよっぽど胡散うさん臭い)とやらは、空々に握手を求めてきた。当然、右手である。

 こんな風に、向こうから手を差し伸べてもらえれば、さすがに空々も、左利きがどうとかクロスドミナンスがどうとか、そういう理屈から離れられる。右手は右手で握るしかないからだ。

 彼らは握手をした。

 それで何かが通じたということもないだろうが。

「彼女は地球撲滅軍の開発室、その広報担当です」

 牡蠣垣は補足するように言った。

「今日は空々さんにプレゼントがありましてね。それで彼女に同行してもらったということです。私は何分お飾りなものですから、詳しい説明というのが苦手でして」

 そういう意味では『寸刻み』のことを強くは叱れません──と、牡蠣垣は肩を竦めたが、これはまあ、謙遜の類なのだろうと空々は思った。そしてその剣藤が三人分のお茶をれ、湯飲みをお盆に載せてテーブルへとやってきた。空々、牡蠣垣、そして落雁の前に、順番に置く。そして一礼して、テーブルから離れていく。

 大人しいというより、しおらしい態度ではある。

 もちろん、さすがに彼女はこの時間、パジャマからは着替えていて、剣道着でもなく、町中で見かけるような、普通の女の子のファッションに身をくるんでいた。

 似合う似合わないはともかくとして、なんとなく第一印象が強いので、彼女はずっと剣道着を着ているようなイメージがあったのだが、まあ架空のキャラククーではないのだから、そんな同じ格好でい続けるわけがないのか。

 剣藤はそのままリビングから出て行った。

 我関せずという感じの態度で、今回はそれを、牡蠣垣も止めなかった。

「…………」

 恐らくは自分の部屋に戻ったのであろう、同居人のその後ろ姿を見送りながら、空々は考える。

 彼女は『寸刻み』と呼ばれている。これを空々は最初に聞いた。

 そして学校を焼いた『火達磨』。

『寸刻み』、『火達磨』の手から漏れた関係者の殺戮に動いた『蒟蒻』。

 牡蠣垣閂こと『茶飲み話』。

 剣藤が今朝言っていた、直接的に国政を動かしたらしい人物の名前は『恋愛相談』で──そして新しく登場した『再開発』。

 どうにも一貫性は感じられないけれど、落雁の言葉尻から想像するに、彼らの組織ではそんな風に、本名以外のコードネームで呼び合う風習があるらしい。

 もし、自分が組織に取り込まれるとするのならば(『仲間になる』というような言い方には抵抗があった。『取り込まれる』もしくは、『引き入れられる』という表現が今のところしっくり来る気がする──実際、強引にも程があるヘッドハンティングである)、自分にもそんな呼び名がつくのだろうか?

 だとすれば格好いいのがいいな。

 と、思った。

「プレゼントという言い方は正確ではありません、『茶飲み話』──必要不可欠な装備の配給なのですから。まあ、プレゼンが必要なのは間違いないでしょうが……」

 駄洒落だじゃれのようなことを言って、落雁がテーブルの上に置いたのは、大きな真四角の箱である。まあ背中に隠せる大きさでもないので、その存在には空々も最初から気付いてはいたのだが、しかしあまりに露骨なので今まで訊くに訊けなかった。リボンが結ばれていて、落雁の言葉とは裏腹に、なんだかそれは本当にプレゼントのようでもあった。

「空々くんにはこれを受け取ってもらいたいんだ」

 と、彼女は言った。

「これが今後のきみにとって、一番大切な宝物になる──と、いいよね」

 不安になるような語尾を付け足さないで欲しい。

 大体、何の説明もなく話が、一足か二足か、飛んでしまっている気がする。

「あの……牡蠣垣さん」

 空々は言う。初めて、牡蠣垣の名前を呼んだ。

「地球撲滅軍は、地球と戦っているということでいいんですよね?」

「はい。ひと言で言えば」

「ひと言で言わずに具体的に言えば、それはどういうことをしているんですか? あ、いや、じゃなくて……、僕はそれを、どういう風に手伝えばいいんですか?」

 彼らが何をしているのか、ということに興味がないわけではないが、同時に深入りしたくはないという気持ちもある。だが、最低限確認しておかなければならないのは、『彼らが自分に何を望んでいるのか』だ。

 朝考えたことだ──僕は何をすればいい?

 彼らが自分に何かを望んでいるのは確かだ。

 大いに期待している、のも本当だろう。

 どういう根拠や、どういう信念で動いているのかは不明だし、それは空々には理解できないことかもしれないけれど、しかしそれがどうあれ、ここまでの手間と費用をかけておいて、実際には空々のことを必要としていないということはない。

 伊達だてや酔狂の範囲はとっくに逸脱している。

 消費税の上げ下げのニュースばかりが流れていたのでそちらに目がいっていた空々だが、元々チェックしようとしていたのは、空々の関係者が根こそぎ殺された事件の報道であり、そしてその報道はある意味予想通り、まったくなされていなかった。

 あの大規模な火事は、ただ混乱だけが報道されて、続報はなし──空々家の殺人事件に関しては発覚さえしていない可能性があった。そして『蒟蒻』の行為に至っては、空々すら把握していない。

 そういう意味では、しくも空々が出した要求は、彼らの『隠蔽工作』に一役買ったということになりそうだが……ともかく、剣藤の言うとおり、『隠蔽工作』はなされた。

 逆に言えばあれらは、『隠蔽』しなければならないほど、後ろめたい行為だったということでもあるのだ──空々一人のために、それほどの『後ろめたさ』を行ったということは、リスクを冒したということは。

 当然、それだけのリターンを求められているということになる。

 ただ、彼にはわからなかった。

 一介の野球少年である空々に、彼らは一体何を求めているというのだろうか。今空々は、その要求が何であれ、全力をもって応じなければならない立場にあるが、しかしそれにしたってできることとできないことがある。

 というか、できないことがほとんどなのだが……。

 まさか『地球撲滅軍の野球部の将来をになってくれ』などという要求をされるわけでもあるまい……あのリボン箱の中には、野球道具一式が入っているなんて、そんなわけが。

「そうですね。どういう風に手伝えばいいのか、ですよね。確かにそのあたりがまだ具体的にはなっていませんでした。約束通り、昨日の話を続けましょうか……色々気を持たせてしまって申し訳ありません。焦らすつもりももったいぶるつもりもないのです。えっと、どこまで話しましたっけ?」

「…………」

 どこまで話したかを、牡蠣垣が忘れているとは思えない。これは、自分の理解度を試されているのだと思った。だとすると軽々に受け答えすることはできない。

 最早空々に退路はないのだ──というか、退路を断たれている。

 ならばここから、地球撲滅軍が、虐殺行為を厭わないほどには自分を必要としていることは確かだという根拠に則って、『できる奴だ』という点を見せておくのが得策だろう。

 どの道小細工だが……。

 やらずに後悔するよりもやって後悔するほうがいいという名言もある。

 名言とは耳触りのいい音楽と同じで、言葉の並びが気持ちよいだけで実用的ではないということをまだ知らない少年は、そんな心がけで、二人に向かう。

 牡蠣垣と落雁、二人の大人に向かう。

 別に味方というわけではなく、むしろあちら側の人間なのだが、それでもこの場に、同じ子供──とは言えなくとも未成年ではある剣藤がいてくれれば心強いのにと、思わなくもなかった。

「どこまで、といいますか……じゃあ、とりあえず、今僕にわかっていること、わかっているつもりのことを話しますので、聞いてください。間違いがあればその都度訂正していただけると助かります」

 空々はそう言って、言葉をつむぐ。

 リボンに包まれた謎の箱、謎のプレゼントについては、ひとまず棚上げになった。


     12


「地球と人類が敵対しているという構図。それがたぶん、あなたがたの話の根底にあるのだと思いますけれど、ただこれは、地球に人格や意志があるということではないのですよね? 単に、話をわかりやすくするために、地球を擬人化しているだけであって……」

 朝のニュースを見、彼らの『力』が証明されたのを受けて、その後の数時間を使って空々なりに整理していたことを話す。正しいか間違っているかなどは、この際どうでもよかった。

 牡蠣垣と落雁は、今のところ普通に聞いている。裏を返せば、どう聞いているのかはまったく読めない。

「あなたがたは、地球に対してテラフォーミングをしてるのだ、と、僕は予想したんですけれど……、つまり地球という惑星を、人間が暮らしやすい環境に仕立て上げるのが、本来のあなたがたの事業なんじゃないのかって」

 テラフォーミングという、言い慣れない言葉をうまく言えたことで、少し調子が出てきた。出だしさえ間違えなければ、歌詞を見なくても最後まで歌える校歌みたいなものだろうか。

「でもそれがうまくいくとは限りませんよね。うまくいったと思っても、長期的にはうまくいってなかったり……それが結果、環境破壊や環境汚染に繋がっていくこともある。そんなしっぺ返しを指して、『地球からの反撃』と言うのではないか、と……、つまりあなたがたは、人類が地球を支配し、地球上に君臨するための『戦い』を日夜繰り広げている……、『地球開発』に従事している。決して地球の破壊や打倒を望んでいるわけではなく、あくまで開発。その事業を僕に手伝って欲しいということなのでしょうか?」

「素晴らしい」

 と、牡蠣垣は言った。さすがに芝居がかった風に拍手をするというようなことはなかったが、その音が聞こえてきそうでもあった。隣の落雁は、興味深そうに──さながら研究対象でも見るように、空々の様子を眺めているだけだったが。

「ただし、満点と言うわけにはいきませんね──大きな点で、空々さんは誤解しています。大事な点を忘れていますよ。私達の活動の第一目標は、まず『人類の保護』にあるのです。人類を守ること。それが私達の至上命題なのです」

 気がつけばまた、いつの間にか牡蠣垣はティーカップを持っていた。剣藤が折角お茶を淹れてくれているのに、そちらには口どころか手もつけずに。

「つまり話にならないほどの『強敵』なんですよ、地球って奴は……情けない話ですが、『支配するため』とか、『君臨するため』とか、そんな威勢のいい動機で、私達は戦っていません。こすく小ずるく、いわば地球の隙を突く形で生き残るのが精一杯なんですよ。言うなれば、防衛戦や消耗戦をやっているようなものでね……このままでは火星への撤退なんてことも、考えていないではありません」

 言ってから牡蠣垣は落雁のほうを向いて、「冗談ですよ」と注釈した。

 どの部分が冗談だったのだろうと思ったが、たぶん、『火星への撤退』というひと言だろう。確かに余計なひと言だ。

「え。でも……、昨日、優勢に戦いを進めていたって」

 言っていたはずだ。

 たとえあれが記憶違いだったとしても、人間は地球を支配し、地球上に君臨してきたはずだ──それこそが、地球撲滅軍や、他にも世界中に多数存在するという、それに類する組織の功績だったのだと、そんな風に理解していたが。

「はい。そう思っていましたよ──半年前までは」

 はっ、と気付く。

 そうだ。『大いなる悲鳴』だ──あれが地球の『反撃』だったとするのなら、それはしっぺ返しと言うには強烈過ぎ、確かに、戦いなどになっていない。こちらの戦力を三分の一も、わずか二十三秒の間に間引いてしまう相手などと、勝負になるはずがない。

「言うまでもなく我々は武装しています。ありとあらゆる手段を取り、地球環境を屈服させるために戦っています──しかしそれは支配欲や君臨欲に突き動かされてのことではありません。専守防衛とは言いませんが、黙って突っ立っていたら地球という過酷な環境の上では死んでしまうので、自分達の身を守らないとこのままでは人類は絶滅してしまうので、仕方なく、身を守ろうとしているというのが真相です」

 期待を裏切るようで申し訳ありません、と頭を下げられた。

 期待なんてしていたつもりはなかったが。

「たとえばこの瞬間にもう一度あの『大いなる悲鳴』があったら、人類は更に間引かれることになるでしょう? それを防ぐ手立ては、今のところありません」

「…………」

 もう一度あの『大いなる悲鳴』があったときのことを考えている人がいるというのは、空々からみれば驚きの事実でもあった。あれから時間がたった今では、誰もそんな危惧きぐをしていないように思えたからだ。

 しかし、ひょっとすると──世間がこうもあっさり、あの『大いなる悲鳴』を過去のものとしてしまったのは、地球撲滅軍やそれに類する組織の、情報操作の結果なのかもしれなかった。

 報道規制を敷ける立場にあるのならば、情報をじ曲げ、民意を変えることもまた可能だろう──一刻も早い復興のために、彼らがそうすることは想定できる。ネット上の議論だって、遮断はできなくとも、誘導はできそうな気もする。

 あの先輩も。

 空々が飢皿木診療所を訪れる直接のきっかけとなったあの先輩も、そんな情報操作を受けた結果、合宿所であんな冗談を言ったのかもしれない──そう思うと、彼に対して抱いた勝手な嫌悪に対する罪悪感も、増そうというものだった。

 罪悪感も何も、あの先輩も空々の関係者として、焼かれて死んだのだろうが。

 仮に空々と同じように病欠していたとしても、きっと『蒟蒻』とやらに始末をつけられているはずだ──そういう話だった。……それにしても、『蒟蒻』などという珍妙なコードネームをつけられているその人物には、お目見えしてみたいような気もする。

 危険だとは思うが、好奇心を抑えることができない、興味深い名前だった。

「まあ、そんな頼りない私達ではありますが、空々さんのお陰で一気に戦局は引っ繰り返るかもしれませんがね……さておき、もうひとつ」

 重過ぎる期待をかけるようなことを牡蠣垣はさらりと言ってから、こう続けた。

「空々さんの理解で修正しなければならない点があります。空々さんは、私達が地球を擬人化し、つまりたとえ話として『戦う対象』として見ているようなことを仰いましたが、その点はまるで違うのです」

「え? 違うって……」

「地球が人類を滅ぼそうとしているというのは、決して比喩で言っているわけではなく、事実地球にはその意志があるんですよ。地球は昔から、人間が嫌いなんです」

 その確執は埋められません、と言った。

 大真面目な顔で言った。

「もちろん、『地球がそう言っているのを聞いた』なんて、ファンタジックな話ではありませんけれどね……、確かに地球に人格があるなんて思っていませんよ、地球は『人』ではないのですから。成立した会話と言えば、あの『大いなる悲鳴』くらいのものです」

「…………」

「まあ、これについては今この場で信じていただかなくとも結構です。おいおい、わかっていただければそれでよいのです。ただ、少なくとも私達はその前提で動いているということだけは、ご理解ください。私達はそういう前提で動き、戦っています」

 地球をひとつの生命と見做みなして戦っています。

 宣言するようにそう言うのだった──そんな途方もない宣言に対して、空々が取るリアクションは、彼がいつもしていることだった。つまり、『どういうリアクションを取るべきか考える』である。

 普通の人はここで○○すべきなのだろう──とか、○○しないものなのだろう──とか、そんなことを考え、もっとも適当だと思う答を出すのである。これを一昨日までは、空々は無意識のうちにやっていた──飢皿木博士に指摘されてからは、それをある程度意図的に、自覚的におこなっている。自覚すること、それが大事だと言われたから。

 空気が読めないからこそ。

 空気を読もうと最大限に努力する。

 結果それがズレてしまうことも、過剰になってしまうこともあるが──それが現実に動じない少年、反射ではない対応の少年、空々空の行動原理。

 ただ、ここで大事なのは、今求められているのは『普通』のリアクションではなく、『普通の人』のリアクションでもないということだ──周囲に求められている通りに振る舞わなければならない。

 そして空々の周囲は、昨日ごっそりと入れ替わった。

 となると、ここでは牡蠣垣や落雁の期待に応えるリアクションを取るべきなのだろうが、しかしそれは、『僕もそう思います。言っていることはすべてわかりました』という風に、迎合するということでは、どうやらないのだ。

 牡蠣垣が言う通り、今の時点でそんな常識外れなことを鵜呑みにするほうが異様である。『信じられない』ことは『信じられない』でもいいのだ。

 剣藤も、実際に信じられるようになったのは『知った』あとのことだと言っていた──あの姿勢をモデルにするべきだろう。だからと言って、ここで、この場で、面と向かって、あからさまに否定するようなことを言うのも(昨日のことを思えば)やっぱり考え物だ。大人を否定してはならない。

 結論として、今取るべきリアクションは、『不審、不確かな点はスルーして、回答やこちらの立ち位置を明示せず、話をこのままなんとなく進める』だろうと、空々は決めた。

 このタイムラグ、まさに一瞬である。

「それでは、牡蠣垣さん。そろそろ教えて欲しいんですけれど。僕が具体的には、何をすればいいのか……僕は何を求められているのか。ヒーローになってくれというのは、どういうことなんでしょう」

 テラフォーミング、あるいは環境開発という、導き出された解答にいまいち自信が持てなかったのは、仮にそうだった場合、空々にできることが本当になくなってしまうからだ。

 そんな、理科や数学の知識が必須となりそうな事業に、中学一年生の野球少年が一体どんな風に絡めるというのだろう──ここから先は、本当に聞いてみなければわからない。

 聞いてみても、やはりわからないかもしれないが……とにかく、聞いてみなければ始まらない。しかし、この問いに対して牡蠣垣が返してきた答は、空々が今まで思い悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、つまりは肩透かしだと思うくらいに端的で、あっけないものだった。

 言われてみれば確かに。

 ヒーローがやることと言えば、それくらいしかないだろう。

「怪人退治です」


     13


 結局牡蠣垣は、剣藤が用意したお茶に手を触れることなく帰っていった。落雁は飲み干していたが、中身がなみなみと残った牡蠣垣の湯飲みを見たら剣藤がショックを受けるかもしれないと思って、自分の残りと合わせて空々が飲み干して、両方空っぽにしてから、シンクに運んでおいた。

 なぜここまで気を遣わなければならないのかはよくわからなかったが、それは食事を作ってもらったことに対するお返しなのかもしれないし、ひょっとすると彼女のファーストキスを奪ってしまったことに対する罪悪感なのかもしれない。

 だから奪われたのはこっちなのだが。

「あれ。二人とも、帰ったの?」

 と、剣藤がリビングにやってくる頃には、空々はまたテレビをつけていた──どの道ニュースをやっている時間帯ではなかったので、剣藤が来たのを受けて、空々はザッピングをやめて、電源を消した。

「ええ、帰りました」

「そらからくんさ。調子狂うから、敬語やめてくれないかな?」

 今更のようにそんなことを言う剣藤。

「さん付けもそうなんだけれど、そらからくんに敬語使われると、私のほうも敬語使わなくちゃになるんだけれど。でも私、敬語苦手なんだ」

「はあ……」

 確かに苦手そうだ。

 上司である牡蠣垣にも基本タメ口で話していたし。しかし苦手というなら体育会系の上下関係が身に染み付いている空々のほうこそ、年上の人間にタメ口で話すことが苦手なのだが。苦手というより、苦痛と言ったほうがいいかもしれない。花屋と普通に話せるようになるまで、本当に大変だったのだ。

「まあ……鋭意努力してみます、剣藤さん」

「早速駄目になってるじゃん……」

「こういうのはどうでしょう。僕は剣藤さんに敬語を使うのはやめる、その代わり、剣藤さんは僕に敬語を使うというのは」

「問題が複雑化していると思うけれど……」

 いい案だと思ったが、確かに誰も得をしていなかった。

 ことがことだけに、強く主張する気もなかったようで、剣藤は、

「そろそろおなか減らない? 昼ごはん作るけど」

 と、話題を変えた。とりあえずその問題は後の課題となったようで、空々としても安心した。嫌なことは後回しにしたい年頃である。

「あ、はい。お願いします」

「昼食はパスタ派? 麺派?」

「……初めて聞く区分ですけれど、まあその二つなら麺派かと」

「じゃあおうどん作るね。机の上のその箱、何?」

 いきなり話が変わった。いや、だからと言って驚くようなことではない──誰だって、リビングに入ってきて、机の上にいきなり大きな箱が置かれていたら、それを話題に上げずにはいられないだろう。

「プレゼントだそうです。いや、プレゼンでしたっけ……ええ、気になりますか?」

「ううん、今のでわかった。『再開発』が来てたしね……あいつ嫌い」

 言いつつ、エプロンをまとう剣藤。確か『恋愛相談』のことも嫌いだと言っていた気がする。どうやら剣藤は嫌いな人間が多いらしい。見かけほど、それに剣道少女という言葉のイメージから想起できるほどに、さわやかでもないようだ。

「でも、それにしては箱が大きいような……緩衝材が多いのかな? それともマニュアルが分厚いとか……うん。やっぱり気になるかな、そらからくん。開けてよ」

「はい……」

 渋々、空々はそのように動く。もっとも、内心では、なかなか開ける決断ができずにいたところを、背中を押してもらえて助かったとも思っているのだった。

 リボンを解き、テープで隙間なく閉じられているところを、カッターナイフでこまめに開けていく。箱を開けるという作業は、それがたとえどんな箱であれときめくものがある。とは言え、この状況でそんなことにときめくのは、空々少年くらいのものだろうが。

 剣藤の言う通りに確かに緩衝材も、それなりの量が入っていた──しかも、暇潰しにプチプチ潰せそうな奴でもなく、発泡スチロールでもない、謎の緩衝材だった。空々が飲まされた高熱剤もそうだが、こういう、一般には出回ってない技術を多く、地球撲滅軍は有しているのだろうと空々は分析した。

 その分析は正しいのだが、しかし、どちらかと言えば梱包されている中身のほうに対してこそ、思うべきだっただろう──緩衝材に感心したなんて感想、開発チーム広報担当の『再開発』が聞いたらがっかりする。まあ、空々は中身の説明は落雁から口頭で既に受けているので、そちらについての驚きが薄くなってしまうのは仕方がない。そして更にあったいくつかの包みを解いて、中から出てきたものは。

 上下一体型のボディスーツと手袋、ブーツ。

 ベルトにゴーグル付きのヘルメット。

 つまりは──空々がヒーローになるための変身キットだった。


     4


「うわっ……」

 という、剣藤の、思わず素で発してしまったと思われる声が、すべてを物語っているように思われた──実際それは、酷く趣味の悪い色をしていた。いや、色の問題ではないのかもしれないが。

 当然のことながら、そのサイズはパジャマ同様、空々の体型に合わされたオートクチュールであるようだった。だからこそ剣藤は、『まさかそれを自分が着ることになるのでは』という不安とは無関係に、ただ引くことができるようだった。

 ただ引かれても。

「……とりあえず、うどんを作り終わったら、これを着るのを手伝ってもらえませんか? 剣藤さん」

「え……何それ。私に着衣の面倒まで見ろって言ってるの……? きみ、澄ました顔をしてすごいことを要求するね。そりゃ、やれと言われればやるけれど、どこの貴族だよ……」

 何を言っているのかよくわからなかったが、しかしこれは空々が悪かった。言葉が明らかに足りない。剣藤がそんな風に振る舞うことを心苦しく思っているはずなのに、彼女を召使いのように扱っていると取られても仕方のない言いかたになってしまっていた。

「じゃなくて、違います。違います、剣藤さん。あの、このボディスーツ、一人じゃ着ることも脱ぐこともできないみたいなんです……、ほら、最新型の競泳用水着みたいな感じで……」

「ああ……そうか。そういうこと」

 誤解は解けたようで、納得したように、というよりは、安心したように頷く剣藤。

「だから『茶飲み話』は、私をここに残したというのもあるのか……」

 何かそこに合理的な理由があったことが、彼女にとって救いになったのかもしれない、少し表情が緩んだようにも見えた。見えただけだが……、それに、合理的な理由があろうとなかろうと、誤解が解けようと解けまいと、『空々の着替えを手伝う』という、やることにはなんら変化はないのだが。

「いいよ。うどん作るの、結構時間かかるし。先に試着してみよう。私もそれ、どういうものなのか興味がある」

「うどんを作るのに時間がかかる……? かかって、五分くらいじゃないんですか?」

「そんなに早く、麺は打てない」

「……失礼しました」

 剣藤だけに麺を打っていた。

 ではない。質問の順番を間違えた。

「あの、剣藤さん。箱の中身はわかっているんじゃなかったんですか? なのに、どうしてあんな引い……、驚いていたんですか?」

「いや、わかっていたのは、そのヘルメットと一体化している、ゴーグルだけ。それについては聞いてたの。そんなボディスーツのことは知らなかった……そんなスーツ、初見過ぎるよ。どういうつもりなんだろう、『再開発』の奴」

「……剣藤さんだって、剣道着だったじゃないですか」

「あれはまあ、色々あるからいいんだよ」

 ざっくりした言葉で反論されてしまった。色々あるとは何だろう。何か由来があるということだろうか──それとも、空々が既に聞いているような、このボディスーツ一式と似たような仕掛けが、あの剣道着にもあるのだろうか。

 考えてもわからない。訊くほど興味があるわけでもない。

 そんなわけで、とにかく、フィッティングを開始しよう。

「ジーンズの上から……じゃあ、着られませんよね。どこまで脱げばいいんでしょう?」

「全裸になるしかないんじゃない?」

「……そんな」

 馬鹿な、と言おうとしたが、しかし確かに、このぴったりした生地では下に服を着ていると、ごわごわになってしまいそうだ。スーツ内にサポーターもついているようだし、どうやらこれは本当に、水着のように着るのが正しいのかもしれない。

「……恥ずかしいんだったら、目隠しして手伝おうか?」

「いや、いいです……それで手間取ってもなんですし。でも、リビングで裸になりたくはないので、洗面所に移動してもいいですか?」

「いいよ」

 変に恥ずかしがったり嫌がったりするほうが意識しているようだと思って、なるべく自然を装う空々だった。ここで、年下の少年を全裸にするような着替えを手伝うことになった剣藤のほうの心理に思いが至らないのは、彼の特異な人間性ゆえなのか、それとも彼が幼いからなのかは、いまいちはっきりしない。


     15


 スーツアクター『グロテスク』。

 とりあえず仮にそう名付けてみた……仮に、というか、鏡に映る自分の姿を見る限り、それが決定案になりそうだが。自作の衣装でヒーローごっこをしている風というには、さすがにスーツの出来がよ過ぎる。どこで縫製しているのか、まるでわからない。手袋をめ、ブーツを履き、ヘルメットを着用しているというのに、まるで何も着ていないかのような快適さだ。

 ただ見た目だけが不快だった。

「で」

 と、一仕事終えた満足そうな口調で、剣藤が言う。

「どうしてきみはこんな格好をしなければいけないの? 罰ゲーム?」

「何のどういう罰ですか……いえ、このスーツ、落雁さんいわく、すごい仕掛けがあるらしいんですよ。僕もまだ話に聞いているだけで、これについては半信半疑なんですけれど……」

 言いながら空々は、手袋の指で、スーツの右肩部にあるスイッチを押す。クロスドミナンスである空々にとってはありがたいボタンの配置だが、これも当然、たまたまではなく調査に基づく設定なのだろう。このボタンはどうやらアタッチメントで、左右どちらにも配置できる仕掛けになっているようだし。

 ぐおん、と何か音がした気がした。が、そんな気がしただけで、近くにいる剣藤にもそんな音は届いていない──ただ、周囲に伝わらない程度に、スーツ全体が振動しただけだ。

 そしてスーツの『起動』は、それで終了していた。

「……うわっ」

 と、剣藤が先ほどと同じようなリアクションを取った──しかし、リアクションは同じでも、その意味合いはまったく違った。今回は彼女は、純粋に驚いていた。

 そしてそれ以上に感心しているようだった──それを感動と言いかえることもできるかもしれない。

 そう、剣藤犬个は感動することができるのだ。

 それが彼女がヒーローたりえなかった理由のひとつでもある──そしてヒーローたる資格を持つ空々は、まあ感動はしていなかったのだが、鏡を見て、剣藤と同じくらいには驚いてはいた。

 だって、鏡の中には空々がいなかったのだから。

「透明人間スーツ……だって、落雁さんは仰ってましたけれど。ふうん、本当ですね。どういう仕組みなんだろう……なんだか、気分的には裸の王様って感じですけれど……」

「リアクション薄いね、そらからくん」

「そりゃ、だから、先に聞いてはいましたから……ちゃんと驚いてますって。剣藤さんは、本当に知らなかったんですか?」

「うん。あ、でも、実用化されているとまでは知らなかったけれど、そう言えば聞いたことはあったかも……自分の周囲の光を捻じ曲げて、スーツそのものを見えなくするとか……まあ、SF小説の技術だよね」

「へえ……」

 とても納得できるものではない剣藤の、これまたざっくりした説明だが、しかし空々はそれで納得した。別に仕組みやシステムを知りたいわけではない。

「実現すれば軍事利用される技術だって言われているけど、地球撲滅軍ではもう実現段階だったってわけだ。そっかそっか、確かに必要だね、それ。ゴーグルだけじゃ駄目だ。そうじゃなきゃ、身を守るすべがないものね、怪人から」

「…………」

 怪人、という言葉を剣藤が使ったのを受けて、どうやらあの言葉は、牡蠣垣や落雁が空々の年齢に合わせて言ったわけではなく、地球撲滅軍に共通の隠語であるらしいとわかった。

 怪人。そして──怪人退治。

「私が『破壊丸』を支給されてるように、きみにはそのボディスーツが支給されたということだ……、スーツだけじゃなくて、ヘルメットも手袋もブーツも、同じ機能があるんだね。へえ……透明人間かあ。いいなあ」

「……本当にそう思ってますか?」

「まあ」

 そう頷いた。その頷きだけでは本音は読めない。しかし透明化するという機能がわかれば、お世辞ではなく羨ましく思うかもしれない──第一印象をマイナスまでもっていく、デザインや悪趣味な色合いが、奇麗さっぱり消えてしまうのだから。

「て言うか、透明化を解除してくれないかな? そらからくん。さっきからなんだか私が、誰もいないところで独り言を言っている、危ない奴みたいなんだけど」

 僕の姿が見える見えないとは関係なく剣藤さんは危ない奴です、なんて言えるほど、打ち解けているはずもない。ただ、ここで言われるがままに解除するわけにはいかなかった。

「あの、できればゴーグルの機能も試してみたいんで……ちょっと外出に付き合ってもらってもいいですか?」

「……構わないけれど、別にきみはこの部屋に閉じ込められているわけじゃないんだから、外出とか、いちいち私の許可を取らなくてもいいんだよ? 私が付き添う必要もないし。世話をしろとは言われているけれど、私、介護をしろと言われたわけじゃないんだ……」

「まあ、それでも、お願いします。最初ですし、牡蠣垣さんにも、そうするように言われていますし」

 この言いかたは牡蠣垣の言葉を笠に着て剣藤に命令したようで、少し自分が嫌になったので、さりげなく途切れないように、空々は言葉を続ける。

「それに、ほら、ひょっとすると、見込み違いかもしれないじゃないですか。その場合、フォローしてくれる人がいないと……本当に介護が必要になるかもしれないので……」

「ああ。……たぶん、その心配はないと思うけどね……で、どこに行けばいいの? それも『茶飲み話』から言われてる?」

「はい。えっと……」


     16


 そのゴーグルの機能は、いわばボディスーツの真逆である。

 そのボディスーツが見えるものを見えなくするためのツールであるならば──もちろんその際ゴーグルも同様に見えなくはなるのだが、そちらの機能は後から付与されたもので──そのレンズは、見えないものを見えるようにするためのツールなのだ。

 徒歩で一時間ほど歩いて移動した先。

 とあるビジネス街の、とあるビルディングの入り口の前で、そのゴーグルを通して──空々空は見た。見えないはずの怪人を見た。見たこともないような怪人が、堂々とした振る舞いで、セカンドバッグと紙袋を持って、携帯電話を片手にビルの中に入っていくのを見た。

 怪人、それは。

 恐ろしく美しい──美の極致とも言うべき怪人だった。

 神々こうごうしくさえあった。

 歩くのに使っているのが、手なのか足なのかが判別できない──空々がこれまでの人生で見た、いかなる何にも似ていない。その上で怪人は美麗極まりなかった──竜宮城は絵にも描けない美しさだと歌われているが、たぶん、その竜宮城も、いやはや乙姫だって、あの怪人よりも美しいということはないだろう。

「ちなみにそらからくん、私には『あれ』が、普通の人間に見えている。普通にぱりっとしたスーツを着た、ビジネスマンに見えている。というか、もっと言えばきみがあの辺にいる誰を見て驚いているのかも、本当はわかっていない。まあ、『茶飲み話』の情報にミスはないだろうから、たぶんあの会社の中の誰かが『そう』なんだろうと思うだけ……」

 剣藤が隣で言った。淡々と言った。

「きみの見ている怪人が、『どういう風』なのかも私にはわからない……そのゴーグルを通して見れば見えるんだろうけど、見たくない。だってそんな『現実』を見たら、眩しくて目が潰れてしまうから

「…………」

 その言葉を聞きながら、空々は怪人に見入っている。いや、見入ってはいない。普通に見ている

 スーツアクター『グロテスク』は。

 その美しさを、感動もせずに普通に見ている。

「怪人を見る技術そのものはとっくの昔に確立していた──けれど、それを見られる人間がいなかった。きみのように、何を見ても動じない、どんな姿を見ても感動しない人間の登場を、私達はずっと待っていた。ところで私達は人類に擬態した、あの怪人達のことを『地球陣ちきゅうじん』と呼んでいる──それがきみの戦うべき相手だ、ヒーロー」

 剣藤は言う。出掛けに持ってきた竹刀袋を肩に置いたまま。

 その刀はいつでも、空々の身体の致命的な部分を斬るだろう。

「戦え」


(第二話)
(終)