旦那さま、申し上げます。あの人は、ひどい奴、悪い人間です。ああ、もう我慢ならない。はい、落ち着いて申し上げます。あの人を、生かしておいてはなりません。世の中にあだなす人間です。何もかも、全部申し上げます。私は、あの人の居所を知っています。すぐに御案内申します。だから、捕まえて、殺して下さい。

 あの人は、私の師です。は三十四、私と同い年です。私は、あの人よりたったふたつき遅く生まれただけです。たいした違いなどないはずです。それなのに、私は今日まであの人に、どれほど意地悪くこき使われてきたことか。どんなに嘲笑されてきたことか。ぎりぎりまで堪えてきたのです。でも、怒る時に怒らなければ、人間としての尊厳が踏みにじられてしまいます。

 私は今まであの人を、どれだけかばってきたか。そのことを誰も知らないし、あの人自身、それに気がついていない。いや、そんなことはない。あの人は知っていたはずです。知っていたからこそ、なおさら私に意地悪し、軽蔑したんです。あの人は、私からずいぶん世話を受けていたから、それがしかったんだ。

 あの人は、馬鹿みたいに自惚うぬぼれ屋です。私から世話を受けているということを、「自分のひけめ」のように思い込んでいる。あの人は、なんでも自分でできるかのように、他人から見られたくてたまらないのです。馬鹿な話だ。世の中はそんなものじゃない。この世でうまくやっていくには、どうしても誰かに、ペコペコ頭を下げなければいけないのに、あの人にいったい、何ができましょう。なんにもできやしないのです。私から見れば青二才だ。私がもしいなかったら、あの人は、もう、とうの昔にのたれ死にしていたに違いない。その日の食事にも困っていて、私がやりくりしてあげないと、みんな飢え死にしてしまうというのに。

 私は、あの人に話をさせ、群集からこっそりお金を巻き上げました。また、宿はもちろん、日常の衣食の世話までしてあげた。それなのに、あの人はもとより、あの人の弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。お礼を言わないどころか、私のこんな隠れた日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変なぜいたくを言ってくる。私はあの人を、ある意味、「美しい人」だと思っています。私から見れば、子どものように欲がなく、私が日々の食事のために、お金をせっせとめても、すぐにそれを無駄使いしてしまう。

 けれども私は、それを恨みに思いません。あの人は、「美しい人」なのだから。私は、もともと貧しい商人ではありますが、それでも物より心の豊かさを理解しているつもりです。だから、あの人が、私の苦労して貯めたわずかなお金を、どんなに馬鹿らしく他の人のために使っても、私は、なんとも思いません。思いませんけれども、たまには私にも、優しい言葉の一つくらいはかけてほしかった。

 私は、あの人を愛していた。ほかの弟子たちが、どんなに深くあの人を愛していたって、それとは比べものにならないほどに愛していた。でも、あの人とともに歩いたって、なんの得するところもないということを、私は知っていました。それでいながら、私はあの人から離れることができなかった。私は、静かな一生を、あの人と暮らしていきたかった。私の村には、まだ私の小さい家が残っています。ずいぶん広い畑もあります。春、今ごろは、桃の花が咲いて見事です。一生、安楽に暮らすことができるのです。私がそばにいて、御奉公申し上げれば……。

 しかし、結局、あの人は、私に打ち解けてくれなかった。本当は、私はあの人が言うこと、信じるものを何一つ信じていない。けれども、あの人の「美しさ」だけは信じている。あんな美しい人は、この世にいない。私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ。私は、なんの見返りも求めていない。私は、ただ、あの人から離れたくない。ただ、あの人のそばにいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めていればそれでよいのだ。あの人のやっていることは、やめてもらいたい。そして、私と二人で生きていてもらいたい。ああ、そうなったら、私はどんなに幸せだろう! 私は今の、この世の喜びだけを信じる。あの人は、私のこの純粋の愛情を、どうして受け取って下さらないのか。

 ああ、旦那さま、あの人を殺して下さい。私はあの人の居所を知っています。御案内申し上げます。あの人は、私を憎み嫌っております。私が、あの人をこんなにも愛しているのに。

 聞いて下さい。六日前のことです。ある村で食事をしていたとき、村娘が、あの人の頭に香油をこぼすという失態を演じたのです。私は、その娘を怒鳴ってやりました。それなのに、あの人は、私のほうを見て言ったのです。

「この女を𠮟ってはいけない。この女は、私に香油を塗ってくれた。大変いいことをしてくれたのだ」

 その言葉自体は、あの人がいつもやる、お芝居じみたものだったので、平気で聞き流すことができました。

 ですが、その時のあの人の声に、あの人の瞳の色に、いまだかつてなかったほどの違和感を覚えて、私はとまどいました。そして、あの人のかすかに赤らんだ頰と、うすく涙に潤んでいる瞳を見て、はっと思い当たることがありました。ああ、いまわしい、口に出すことさえためらわれるようなことであります。

 あの人は、こんな貧しい女に恋をした? まさか、そんなことは絶対にないはずですが、でも、それに似た感情を抱いたのではないか? あの人ともあろうお方が、あんな無知な女に、少しでも特別な感情を抱いたとあれば、それは、なんという失態。取りかえしのつかない大醜聞。

 私は、ひとの恥辱となるような感情を嗅ぎわけるのが、生まれつき上手な人間です。ちらりと一目見ただけで、人の弱点を、見抜く鋭敏の才能を持っております。あの人が、たとえ少しでも、あの無学の女に、特別な感情を抱いたということは、やっぱり間違いありません。私の目には狂いがないはずだ。我慢ならない。許せない!

 私は、あの人は、もう駄目だと思いました。あの人はこれまで、どんなに女に好かれても、いつでも美しく、水のように静かであった。いささかも取り乱すことがなかったのだ。あの人だってまだ若いのだし、それは無理もないと言えるかもしれないけれど、そんなら私だって同い年だ。しかも、あの人より二月遅く生まれている。若さに変わりはないが、それでも私は堪えている。あの人だけに心を捧げ、これまでどんな女にも心を動かしたことはない!

 あの女は、たしかに美人だった。そのことは、私だって思っていたのだ。町へ出たとき、何か白絹でも、こっそり買ってきてやろうと思っていたのだ。ああ、もう、わからなくなりました。私は何を言っているのだ。私は口惜しい。残念なんです。あの人が若いなら、私だって若い。私だって才能のある、家も財産もある立派な男です。それでも私は、あの人のために、私のすべてを捨ててきたのです。だまされた! あの人は、噓つきだ。

 旦那さま、あの人は、私の女をとった。いや、違う! あの女が、私からあの人を奪ったのだ。ああ、それも違う! とにかく、私がこんなに、命を捨てるほどの思いであの人を慕い、従ってきたのに、私には一つの優しい言葉もくださらず、あんな女のほうに思いを寄せる。ああ、やっぱり、あの人には見込みがない。ただの人だ。死んだって惜しくはない。そう思った私は、ふいと恐ろしいことを考えるようになりました。悪魔に魅入られたのかも知れません。そのとき以来、あの人を、いっそ私の手で殺してあげようと思うようになったのです。

 あの人は、いずれ誰かに殺されるに違いない。自分を殺させるように仕向けている様子も、ちらちら見える。ならば私の手で殺してあげたい。他人の手で殺させたくはない。あの人を殺して、私も死ぬ!

 旦那さま、泣いたりしてお恥ずかしゅうございます。はい、もう泣きませぬ。はい、落ち着いて申し上げます。

 それからは、あの人に対して、もはや、れんびん以外のものは感じられなくなりました。何を見ても、愚かな茶番を見ているような気がして、「この人は一日生き延びれば、生き延びただけ、あさはかな醜態をさらすだけだ」と思うようにもなりました。花は、しぼまぬうちこそ、花である。美しい間に、摘み取らなくてはいけません。あの人を、一番愛しているのは私だ。どのように人から憎まれてもいい。「一日も早くあの人を殺してあげなければならない」と、私は、いよいよつらい決心を固めるだけでありました。

 その後も、あの人は暴走しました。あの人から離れてみると、あの人の異常ぶりもわかりました。きんがある、地震が起こる、星が落ちてくる、大勢の人が死ぬなど、実に、とんでもない暴言を口から出まかせに言い放つようになったのです。なんという、思慮のないことを言うのでしょう。自分が正しいと思えば何を言っても許される、という思い上がり。もはや、あの人の罪は、まぬかれません。

 あの人の首に懸賞金が懸けられたことを知りました。あれだけ皆を不安にしたのだから当然です。あの人は、どうせ死ぬのだ。ほかの人の手ではなく、私が、それをなそう。私があの人に捧げた愛情の、これが最後の義務です。私のひたむきの愛の行為は、誰に理解されなくてもいいのです。私の愛は純粋の愛だ。人に理解してもらうための愛ではない。そんなさもしい愛ではないんだ。私は、人々の憎しみを買うだろう。けれども、この純粋の愛の前には、それは問題ではない。私は私の生き方を生き抜く。身震いするほどに固く決意しました。私は、機会をうかがいました。

 その日、とある料理屋で、あの人と私たち弟子が食事をしようとしていたとき、あの人がおかしな行動をとりはじめました。タライに入れた水で、私たちの足を順番に洗いはじめたのです。理由はわかりません。しかし、あの人は、私たち弟子にすがりたかったのだと思います。あの人は、自分の運命を知っていたのかもしれません。その様子を見ているうちに、私は、突然、強力な嗚咽が喉につき上げてくるのを覚えました。あの人との思い出が急によみがえってきたのです。あの人は、いつでも優しかった。あの人は、いつでも正しかった。あの人は、いつでも貧しい者の味方だった。そうしてあの人は、いつでも光るばかりに美しかった。

 私は、あの人を失うことが怖くなった。私は、目が覚めたのです。急に自分の考えが怖くなりました。でも、もう大丈夫です。誰があの人を捕まえに来ても、あの人のお身体に指一本ふれさせることはない。そう思いました。私がそんなことを思っている間にも、あの人は、弟子たちの足を洗っていきました。そして、とある弟子の足を洗おうとしたとき、その弟子がかたくなに、それを拒んで言いました。

「なぜ、こんなことをするのです」

 あの人は、そっと微笑みながら言いました。

「お前の足を洗えば、お前の全身は清くなるのだ。皆、汚れがなく、清くなったはずだ」

 そして、すっと腰を伸ばし、苦痛に耐えかねるような、とても悲しい目つきをし、すぐにその目をぎゅっと固くつぶったのです、そして、つぶったままで言葉を続けました。

「そう……皆の汚れがなくなり、清くなっていればいいのだが……」

 心臓が止まりそうになりました。私のことを言っているのだ! 私があの人を売ろうとたくらんでいた、さっきまでの暗い気持ちを見抜いていたのだ。けれども、違う! もう私は、変わっている! 私は清くなっているのだ。あの人はそれを知らない。知ってくれていない。違う! と喉まで出かかった絶叫を、しかし、私の弱い卑屈な心が、唾を飲みこむように、飲みくだしてしまいました。言えない。何も言えない。あの人からそう言われると、私はやはり清くなっていないのかもしれない。みるみる卑屈な心が、醜く、黒くふくれあがり、私のぞうろっをかけめぐって、逆にふんの炎となって噴出したのです。

 もうだめだ。私はあの人に心の底から、嫌われている。あの人を売ろう。あの人を、殺そう。そうして私もともに死ぬのだ。私は、完全に復讐の鬼になりました。

 私はすぐに料理屋から走り出て、夕闇の道をひた走りに走り、ただいまここに参りました。そうして急ぎ、このとおり訴え申し上げました。さあ、あの人を罰して下さい。捕まえて、拷問するなり殺すなりしてください。あの人は、ひどい人間だ。

 旦那さま、今夜、私とあの人が立って並ぶ光景を、よく見ておいてくださいまし。私は今夜、あの人と、ちゃんと肩を並べて立ってみせます。あの人を怖れることはないんだ。卑下することはないんだ。私はあの人と同い年だ。同じ、すぐれた若者だ。おや、そのお金は? 私に下さるのですか。私に、銀貨を? なるほど、はははは。いや、お断りします。私が殴らぬうちに、その金をひっこめてください。金が欲しくて訴えたんじゃないんだ。早くひっこめろ! ……ごめんなさい、やっぱりいただきましょう。そうだ、私は商人なんですから。金勘定のことで、私は「美しい」あの人から、いつも軽蔑されてきました。いただきましょう。私は、あの人がいやしんだ金銭で、あの人に復讐してやります。これが私に、一番ふさわしい復讐の手段だ。ざまあみろ! これっぽっちのお金で、あの人は売られる。私は、ちっとも泣いてやしない。私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。そうです、旦那さま。私は、噓ばかり申し上げました。私は、金欲しさに、あの人について歩いていたのです。あの人が、ちっとも私にもうけさせてくれないと、今夜見極めがついた。だから、素早く寝返ったんだ。金。世の中は金だけだ。銀貨をもらえる? なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。もらえるものはもらいます。はい、がとうございます。はい、はい。申し遅れました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダと申します。


(原作 太宰治「駈込み訴え」 翻案 蔵間サキ)