無口なアン夫人
昼間の夫婦ゲンカのことを思うと、エグバートはゆううつになった。ささいなきっかけで妻と口論になり、腹立たしい気持ちのまま家の外に出たが、このまま帰らないというわけにはいかない。
「ただいま」
玄関の扉を開け、家に入ると、エグバートは努めて平静を装った声でそう言った。長い夫婦生活を送るなかでは、夫婦ゲンカは何度もあったし、そのたびに仲直りをしてきた。今度もまた、この状況を何とかしなくてはならない。
そのためには、自分が折れて、和解の糸口を見つけるしかないだろう。問題は、妻アンがどのようなつもりでいるかだ。仲直りをしたいのか、それともケンカを蒸し返すつもりでいるのか。
「今、帰ったよ」
リビングに入ると、妻はいつものひじかけいすに座っていた。夕方の薄明かりのなかで、その表情を読み取ることはできなかった。
暖炉の前の床には、長毛種の大型犬、ドン・ターキニオが退屈そうに寝そべっていた。敷かれている高級なじゅうたんにもひけをとらない美しい毛並みの純血種だ。また、リビングの一角には鳥かごがあり、アトリと名づけられた小鳥が自慢の歌声を披露している。ひじかけいすに座る妻、犬、小鳥、いずれも、いつもの風景である。
しかし、帰宅した夫に対して、アンは返事をしなかった。まだ怒っているのだろうか。エグバートは自分でお茶を注ぎながら言った。
「昼間に私がああ言ったのは、あくまで一般論だよ。なにも、君自身のことを言ったわけじゃないんだ」
実際のところ、エグバートは、自分が悪いと思っているわけではない。だから、いきなり謝るというのも不自然だと思った。エグバートは先ほどの口論のなかで、少し言いすぎたと思う部分についてのみ、釈明をした。
夫人はまだ口を開いてくれない。機嫌が悪いときはたいていこうだ。しばらく押し黙ったあとで、自分の言いたいことをまくし立てるのが彼女のやり方であった。
エグバートは、ドン・ターキニオの皿に牛乳をついでやりながら、妻の様子を探った。相変わらず、夫の言葉に反応するつもりはないようだ。
「お互いに、少々大人げないとは思わないかな?」
鼻にかかった老眼鏡を指で押し上げながら、エグバートは、わざとらしいまでの上機嫌を装い言った。
「私のほうにも、いけないところがあったのかもしれない。この年になっても、なかなか丸くはなれないものだな」
まだ許してはもらえないようだ。ドン・ターキニオの頭をなでながら、エグバートは譲歩を続けた。
「おそらく、昼間の件は、私が悪かったのだろう。いや、完全に私が悪かった。もし君が機嫌を直して、いつものように笑顔になってくれるのなら、これからの行いを改めるよ」
今まで、どちらが悪いとは言えない、こうした夫婦ゲンカにおいて、自分がこれほどまで下手に出たことはなかった。
自分のこの態度は、もはや感動的ですらあるとエグバート自身は思ったが、アンはそうは思っていないようだ。まだ許してもらうことはできない。
「そろそろ夕食の時間だから、部屋着に着替えてくるよ」
エグバートは、最後まで気弱な態度で扉を閉め、部屋をあとにした。パタン、という小さな音が広いリビングに響いた。
──ばかだな。
心のなかでそう思ったのは、犬のドン・ターキニオだ。それからドン・ターキニオはふさふさの毛が生えた金色の体を起こして、鳥かごの真下に移動した。今、思いついた行動ではない。以前からチャンスをうかがっていた、ある計画をついに実行に移すときがきたのだ。
ドン・ターキニオは、鳥かごめがけて小さくジャンプし、それを床に落とした。壊れたかごのすき間から口を突っこみ、なかで暴れる小鳥にかみつこうと、何度も攻撃をしかける。小鳥のアトリは助けを求めるように、ピイピイと甲高い声をあげた。
しかし、同じ部屋にいるアン夫人は、ドン・ターキニオのこの行いに対して、しかったり、やめさせようとしたりすることはなかった。
なぜなら、アン夫人は、夫が帰宅する二時間も前に、すでに死んでいたからである。
(原作 サキ「無口なアン夫人」 翻案 小林良介・蔵間サキ)