深い深い夜の闇を、けいは鋭くにらみすえた。

 慶子には、どうしても許せない人間がいた。そいつは、自分の人生をメチャクチャにしておきながら、今もどこかで、のうのうと生きている。そう考えただけで、慶子のはらわたは煮えくり返りそうになった。警察に相談しても、何もしてくれなかった。しかし、自分に力がないことも、慶子は理解している。

 ならばと、慶子は見えない力を借りて相手に報復することを決意した。神様が自分の味方になってくれないなら、その反対のまがまがしい存在に魂を売ればいい。それだけ慶子は、相手を憎んでいた。

 噂に聞いた呪術師に相談をしたところ、包帯でグルグル巻きにされた人間のような、「呪いの人形」を手渡された。なんでも、報復したい人物との忌まわしい記憶が残る場所で、この人形を天地逆さまにし、くぎを打ちつけるだけで、その相手は地獄へ落ちるらしい。

「呪いの儀式」を行うときには、「白装束を着るように」とも、呪術師の老婆に言われた。全身を白一色にすることで怨念の純度が上がり、呪いの効果がいっそう高まるらしい。慶子は言われたとおりに準備を進め、あの男との忌まわしい記憶が残る山中の木に、この人形を打ちつけることにした。

 しかし、夜とはいえ、さすがに家から白装束で行くわけにはいかない。それでは、明らかに不審者だ。山に入ってしまえば、人目につかず着替えることはできるだろう。そう考えた慶子はバッグに白装束と人形を詰め、ラフな格好で出かけた。

 山に着いた慶子は、やぶをかき分けて奥へと進んだ。「呪いの儀式」を行う前に、まずは服を着替える必要がある。

 しばらく歩き進んだ慶子は、岩肌がくぼんでいる場所を見つけた。ここならばとバッグを地面に置き、着ている衣服を脱ぐと、白装束に着替えた。あとは、小さなミイラのような人形を、どこに打ちつけるかだ。

「この山だったら、どこでもいいと思うけど、見つかりづらい場所のほうがいいかな……」

 慶子は、落ち葉で足場の悪い山の斜面を、動きにくい白装束で懸命に登った。慶子をそこまで突き動かすものは、あの日、自分に乱暴をはたらいた男へのふくしゅう心にほかならなかった。

 当時、慶子が勤めていたペットショップへ、ひとりの男が頻繁に通ってくるようになった。ケージの中にいる子犬や子猫ではなく、自分のことが目当てなのだと、慶子はすぐに見抜いた。男って単純。そう思ったが、悪い気はしなかった。その男が、なかなかの好青年だったからだ。

 男と意気投合した慶子は、ある日、男のクルマでドライブデートに出かけた。

「僕のお気に入りの場所なんだ」と言うので、どこへ連れていってくれるんだろうと楽しみにしていたのに、着いた場所は深い山の中。そこにはもう一人、やたらとガタイのいい男がいて──ただし、こちらは顔がよく見えなかった──その二人から、慶子は暴行を受けたのだ。

 そう。今いるこの山こそが、あのとき男にされた山なのである。

 ──許さない、許さない許さない、許さない! 絶対に許さない、あの男!!

 着替えをした場所から少し登ったところにあった大木の幹に、慶子は、呪術師から授かった「呪いの人形」を、頭が下になるよう逆さまに持って、力任せに打ちつけた。まず胴体に釘を一本、それから手足にも一本ずつ、間違っても木から落ちてしまわないよう念入りに、恨みつらみの釘を突き刺していった。

 自分に名乗っていたのはどうせ偽名だろうが、あの男の顔だけは忘れない。背が高く、すっきりとした面差しの優男で、大きな泣きぼくろが印象的だった。その顔を、慶子は、人形に釘を打つ間ずっと頭の中に浮かべ続けた。これで呪いが、あの男を奈落の底へと引きずりこむはずだ。

 興奮から肩で息をしていた慶子は、それがいくぶん落ち着くのを待って、山の斜面を下り始めた。儀式は終えた。早く帰って、熱いシャワーを浴びたい。そんなことを考えながら、バッグを置いた場所へと戻った慶子は、「え?」と声をもらした。

「えっ、ない? なんで? あたしのバッグ!」

 ここに置いていたはずのボストンバッグが、着替えとともに岩肌のくぼみからこつぜんと消えていたのである。

 マズい……と、慶子は唇を嚙んだ。ここまで着てきたトレーナーとジーンズは、あのバッグの中だ。あれがないと、この白装束のまま帰らなければならないということになる。

 やがて、それ以上に深刻な問題に気づいて、慶子は悲鳴を上げた。

「ウソ、財布もあの中じゃん!」

 財布だけではない。携帯電話も交通系のICカードも、すべてバッグの中に入れてあった。バッグがなければ、帰ることもできない。

 ──まさか、歩いて帰れっていうの? このカッコで? どう考えても、怪しすぎる!

 そうは思ったが、「帰らない」という選択肢はない。とりあえず、道に出よう。もしかしたらクルマが通りかかるかもしれない。そうすれば、適当な理由をでっち上げて、途中まで乗せてもらおう。そう決めて山を下り始めたら、いろいろなことが心配になってきた。

 盗まれたバッグに入れていた財布の中には、お金だけではなく身分証明書もクレジットカードも入っている。それらを悪用されたらどうしようと思うが、カード会社に連絡しようにも、携帯電話も一緒に持っていかれてしまっている。そうだ、携帯電話を悪用される可能性だって──

「マズい、マズいよ!」

 慶子は山を必死に駆け下り、ようやく山間の道路に出た。白装束は汚れ、長い黒髪もボサボサに乱れているが、そんなことを気にしている場合ではない。

 慶子は町へ向かって、足早に道路を歩き始めた。時間も時間なので通りかかるクルマはないかもしれないと思っていたが、天は見放さなかった。右側から、カーブを曲がってきた白いライトが慶子を照らした。逆光なのでよく見えないが、下り方面の車線を一台のクルマがこちらに向かって走ってくるのは間違いない。

「お願い、止まって! あたしを町まで乗せて!!

 髪を振り乱し、両手をクルマのライトに向かって差し出しながら、慶子は叫んだ。その声が聞こえたのかどうかというタイミングで、クルマがタイヤをけたたましくきしませて、進路を変更した。



 さとは高鳴る胸を押さえながら、クルマの助手席に乗りこんだ。運転席に座っているのは、一ヵ月ほど前に知り合った男である。里美の胸の中では、先ほどから、浮かれた気持ちと緊張感が競り合っていた。それは、とてもなつかしい感覚だった。男性とのドライブデートなんて、何年ぶりだろう。

 きっかけは、里美がウェイトレスとして勤めるレストランに、男が客としてやってきたことだった。男のテーブルに料理を運んだのが里美で、そのときに声をかけられ、連絡先を渡された。最初は取り合わなかった里美だが、男はそれから頻繁に店にやってきて、話しかけてくるようになった。その熱意に根負けする形で、今日、初デートに出かけることになったのだ。

 男はまとという名前で、は里美よりいくつか上の三十歳だった。なかなかすっきりした面差しに大きな泣きぼくろが印象的な男で、クルマの趣味も悪くない。こんな男性がどうして自分を? と思った里美だったが、同時に、こんな男性が恋人だったら毎日が潤うのかもしれない、とも思い始めていた。

「今日は、どこに行くの?」

「僕のお気に入りの場所。山の高台にある、夜景スポットだよ。里美ちゃんにも気に入ってもらえるといいんだけど」

「里美ちゃん」という呼び方に、鼓動が速くなる。この人が見せてくれる景色なら、どんな景色だって一瞬のうちにお気に入りになってしまうような気がした。

 的場は一時間ほど、夕暮れが夜の闇に変わるまでクルマを走らせた。その間、楽しいおしゃべりが尽きることもない。

 的場は話術もさることながら、聞き上手でもあり、男性と二人きりという久しぶりの状況に緊張していた里美も、驚くほど気楽に会話することができた。

 そんな的場が、山道の途中でクルマを停めた。的場にうながされるがままに里美が助手席を降りると、闇のなか、草木に隠れるようにして、さらに山の上に向かう細い階段が続いている。

「ここを登った先に、絶景スポットがあるんだ。誰にも知られていない場所だから、きっと、二人きりで過ごせるよ」

 爽やかに微笑んだ的場が、里美に向かって手を差し出す。その手をおずおずと握り、里美は的場のあとに続いて山中の階段を昇り始めた。

 夜景を眺めながら、的場は自分に、どんな言葉をかけてくれるのだろう。そして、自分はそれに、どう答えるのか──ふたたび、にわかにさざめいてきた胸を、里美はギュッと押さえた。

「そういえば、知ってる? 里美ちゃん」

「えっ?」

 唐突に声をかけられて、里美はハッと顔を上げた。少し上のほうに、こちらを振り返って微笑む的場の顔がある。爽やかな顔に、今は、夜の影が暗く落ちていた。

「この山には、噂があるんだ。女の幽霊が出る、っていうね」

「ゆっ、幽霊?」

 里美は思わず、的場の腕にしがみついていた。そういう話は苦手だ。しかし、しがみついたのは、幽霊話をおそれてではない。

「ごめん、怖がらせちゃったね。大丈夫だよ。僕がついてるから」

 里美の手をギュッと優しく握り返して、的場が笑う。それからほどなくして、的場は立ち止まった。

「さあ、着いた」

「え?」

 里美が声をもらしたのは、絶景を前にしたからではなかった。絶景どころか、的場が立ち止まったその場所は、まだ依然として深い山の中だ。ひとつだけ、物置なのかなんなのか小さな山小屋があるだけで、まさかこれが目的の景色だとは思えない。しかし、疑問に思う里美の手を優しく引いて、的場は「こっちだよ」と小屋のほうへ向かった。

 小屋のきしむ扉を開けて、中に入る。もしかして中にサプライズが待っているのだろうかと考えた里美だったが、その考えは即座に、足もとの落ち葉に埋もれるように消えた。

 ほんのりと明かりの灯った小屋の中には、的場よりガタイのいい男が一人、壁のように立っていた。

「おせぇよ。寝ちまうところだったぜ」

わりぃ悪ぃ。けど、こういうことは、急ぎすぎてボロが出るといけないからさ」

 目つきの悪い大男は的場と顔見知りのようで、気安く言葉を交わしている。しかし里美には、交わされているその言葉の意味がわからない。

「あの、的場さん、これは──」

 尋ねようとした里美の腕を、的場がグイッと力任せに引く。バランスを崩した先には大男がいて、里美はあっけなく捕まえられた。

「へぇ、今度は『的場』って名乗ってるんだ。たしかに、鈴木なんて平凡な名前じゃ、相手もときめかないか……」

「おい、名前を言うんじゃねぇよ」

 なに? なにを言ってるのこの人たちは?

 里美の疑問を振り払うように、大男が里美の体を横に突き飛ばした。持っていたバッグが落ちて、中身が散らばる。里美は小屋の床に倒れこんだ。乱暴に突き飛ばされた衝撃は、里美の手足に鈍い痛みを──そして、重い恐怖を与えた。

「ま、的場さん……これって……」

 ──いや、「的場」ではない。名前だけではなく、この男が語ったことすべてがウソなのだろう。里美が抱いたそんな疑心を確信へと変えるように、的場がニヤリと笑みを浮かべる。これまでの爽やかさが剝がれ落ちた、凶悪な笑みだった。

 ゾッと背筋が凍りつくような悪寒に包まれ、里美は声のかぎりに悲鳴を上げた。

「叫んだってムダだぜ。こんな山の中に、人がいるワケねぇからな」

「さっさと、あきらめちまいな」

 男たちの声にまじって、ビリビリビリッと衣服の破かれる音がする。

 ──イヤ、イヤイヤイヤイヤ、早く逃げなきゃ!

 メチャクチャに手足を動かして抵抗していた里美は、右手に触れたものをとっさにつかんだ。冷たい筒状の物体。きっと、落ちたバッグの中から飛び出したのだろう。

 里美はそれを、迫り来る男たちの顔面に向かって容赦なく噴射した。

「うわっ!」

「なんだッ!?

 男たちが携帯用のヘアスプレーにひるんでいるうちに、里美は全身に力をこめて跳ね起きた。小屋を飛び出し、とにかくその場を離れようと夜の山の中を駆け出す。男たちもバカではないだろうから、二手に分かれて自分のことを探すだろう。でも、この暗闇が味方になってくれるはずだ。里美は泣きながら走り続けた。木の枝に引っかかって服が破れるのにもかまわず、力のかぎりに走り続けた。

 そして、もう動けない、と倒れこみそうになったとき、前方の少し下ったところに岩肌の大きくくぼんだ場所が見えた。神様は弱い者の味方なのだ。そこに駆けこんで身を縮め、暴れる息を懸命に殺そうとする。男たちの足音や声は聞こえない。もしかしたら、獲物を追うことよりも逃げることを優先したのかもしれない。

 しばらく経っても気配が迫ってこないことを確認した里美は、殺していた息を大きく吐き出した。鼓動はまだ乱れているが、危機は去ったと考えてよさそうである。安心すると、怒りと悲しみで、さらに涙がこぼれてきた。

「どうしたらいいの……」

 自分の体を確認して、里美は顔をゆがめた。ブラウスは男たちによって破かれたのか、逃げているときに破けたのか、胸もとを隠すことは不可能な状態だ。今まで気づかなかったが、スカートも裾のスリット部分から大きく裂け、太ももがあらわになっている。こんな格好では町に戻れない。里美はあたりを見回した。山の中である。何か体を隠せるものがあるとも思えなかったが、無意識のうちに目があたりを探っていたのだ。

 そして里美は、思いもよらないものを見つけた。くぼみの奥に隠すように、ひとつの白いボストンバッグが鎮座していたのだ。近づいてみると、どうやら新しいものである。どうしてこんなところに? と思いながらゆっくり手を伸ばし、ファスナーを開けると、中には今の里美におあつらえ向きの女性ものの衣服が詰まっていた。

 ……どういうこと? やっぱり、神様が手を差し伸べてくれてるの?

 さすがに都合のよすぎる話だが、しかし、今の里美にとって、これは何よりも必要なものである。きっと神様も許してくれるはずだと思いながら、里美はボストンバッグの中から引っぱり出した衣服に着替えた。

 トレーナーとジーンズ、どちらもサイズは少し大きいが、これで町に戻ることができる。破かれた服は、ボストンバッグに詰めた。縫い直すことはできそうにないが、これも証拠品になるかもしれない。ボタンやどこかに男たちの指紋がついていれば、犯人にたどり着くことだってできるだろう。

 町に戻ったら警察に駆けこんで、絶対にあの男たちを逮捕してもらおう。強い決意とともに、里美は慎重に山を下り始めた。



 獲物に逃げられた「的場」たちは焦った。これまで何度も同じ手口で女たちを毒牙にかけてきたが、逃げられたのは初めてである。華奢な見た目に油断していたと言わざるを得ない。

「いたか!?

「いや、見つからねぇ……。マズいぞ。警察にでも駆けこまれたら……」

 大男の言葉を受けて、的場は爪を嚙んだ。

「仕方ない、逃げるぞ。このまま捜しているうちに警察が来たら、バカを見る。証拠になるようなものを持ち帰れば、バレっこねぇ」

「そ、そうだな!」

「下にクルマを停めてあるから、早く山を下りるぞ」

 コクコクと壊れたように首を縦に振る大男は、ガタイに似合わずすっかりおびえきった顔をしており、それが的場のイラ立ちを募らせた。

 転がるように山を下りた二人は、ここまで里美を連れてくるのに使ったクルマに乗りこみ、猛スピードで山道を下り始めた。途中で運よくあの女に出くわせば、再度捕らえることもできるが、そううまくはいかないだろう。今は何より、逃げることが先決だ。場合によっては、助手席で震えている図体ずうたいばかりデカイ男を見捨ててでも、自分は逃げきってやる。そのためにはどうするべきか、的場はイライラしながらシミュレーションを続けていた。

「お、おい……ちょっと飛ばしすぎじゃねぇか? もうちょいスピード落とせよ」

「うるせえなっ! 早く逃げなきゃなんねぇだろ!? 顔がバレてんのは、俺なんだからな!」

 フロントガラスをにらんだまま、的場が怒号を張り上げる。そのままクルマは急カーブに差しかかり──その瞬間、的場は目を見開いた。

 道の先、ヘッドライトが夜の闇を丸く切り抜いたなかに、ぼんやりと白い影が浮かび上がった。女だ。あの女ではない。振り乱した黒髪の合間からかいえたその顔は、冷たさを感じさせるほど白く、この世のものとは思えない雰囲気をまとっていた。

 ギロリと、白い女の視線がフロントガラス越しに的場を射た。ゾッとしたものを含む女の目に、全身が金縛りにあったように動かなくなる。ついで女がこちらに襲いかかるかのように両手を持ち上げるのが見え、直後に、的場の脳裏にあのウワサがフラッシュバックした。

「ゆっ、ゆゆゆゆゆ幽霊──!?

 助手席で大男が情けない悲鳴を上げるなか、的場は、女の顔にどこか見覚えがあるような気がした。そのとき、的場はふいに思い出した。的場の毒牙にかかった女性のなかには、自ら命を絶った者もいるという話を聞いたことを……。その女の亡霊なのか!?

「ひっ……!」

 的場の本能が、幽霊から逃げることを選択した。ハンドルが急激に左に切られる。クルマがタイヤをけたたましくきしませて、進路を変更した。

「うわあああああッ!!

 男たちを乗せたクルマはガードレールを突き破り、慶子が叫ぶ間もなく、谷底へと落ちていった。黒い影が、男たちを奈落の底へ引きずりこむように……。


(作 桃戸ハル・橘つばさ)