大正生まれの老人がひとり、静かに息を引き取った。よわい百を超える老人は、若かりしころ戦争で満州へ出征し、終戦後、シベリアに抑留された経験をもつ、「戦争の生き証人」だった。

「オヤジ、よく言ってたな。『シベリアの冬は、寒さなんかじゃなくて痛さだった』って。『固いパンに、何の肉かわからない粗末な食事を仲間たちと少しずつ分けて、ゆっくりゆっくり時間をかけて嚙み続けた』って」

 老人の息子が言うと、その息子──老人の孫も、喪服に合わせたような神妙な面持ちでうなずいた。

「『木の皮を食べたこともある』って言ってたよ。衛生状態も最悪だから、伝染病で、同じように捕虜にされた日本人が何十人も死んでいったって」

「ひいじいちゃんの友だちも、死んじゃったんだよね?」

 老人のひ孫である少年がそう言うと、老人の息子と孫は、「そうだな」と複雑な表情を見せた。

 シベリアに捕らわれた青年時代の老人は、かならず生きて日本に帰るのだと心に誓い、劣悪な環境を耐えていた。しかし、仲間たちは次々と、伝染病や寒さや飢えで死んでいった。

「気づいたときには、『おい』と呼びかけても、誰も答えてくれなくなっていた。仲間たちは誰ひとり、日本に帰れなかったんだ」

 胸が痛んだような表情で、かつて老人が語っていたのを、家族はつい先日のことのように思い出していた。

「現地で亡くなった人たちは気の毒だけど……それでもオヤジは、捕虜という立場から生きて解放されて、帰国後に結婚もして、百歳を超えるまで生きられたんだから、幸せだったんじゃないか。大往生だと思うよ」

「まぁ、そのおかげで俺たちもいるわけだしな」

 老人の息子の言葉に、孫がそう言って苦笑した。

 いつもかくしゃくとしていた老人だったが、九十歳を超えたあたりから記憶に混乱をきたすようになった。老人の独り言が増えたのも、そのころからだ。

 老人は日々、おかしなことを口走るようになった。家族の名前を呼び間違うことが増え、間違うたびに、その名前は変わっている。家族たちの知らない思い出話をブツブツと語ることもあった。

 しかし、家族がもっとも困惑したのは、老人が語る「愛の言葉」だった。

 ある日、床から出ない老人に食事を持っていった息子の妻は、老人がせったまま、じっと天井を見つめ、「愛しい、おみよさん……」と繰り返しているのを聞いてヒヤリとした。

「おみよさんって、誰かしら……。お義母さんの名前とは違うけれど」

 聞いてはいけないものを聞いてしまったというような表情で妻が報告に来たとき、老人の息子は、じつはたいして驚かなかった。

「オヤジの初恋相手か、過去にフラれた女性か、そんなところだろう。男は過去の恋愛を忘れられない生き物だからね」

 しかし、老人が口にする名は、「おみよさん」だけではなかった。聞くたびに、相手の名前が「キヨ子さん」だったり「おかめちゃん」だったりと違っていた。老人の口から出てくる女性の名は、両手でも数えきれないほどだった。

 いったい何人の女性を想っていたのかと驚いたが、さらに驚かされたのは、老人の口調である。女性の名を呼ぶときの老人の口調は──まるで、ロミオがジュリエットに語りかけているかのような──よく言えば愛情のこもった、悪く言えば大仰に飾りたてたものだった。

 そして、亡くなる直前、老人は、「おみよ、史郎……幸せになってくれ……」と涙ながらにつぶやいて、眠りについたのだった。

「『史郎』って、まさか隠し子じゃないだろうな。せめて最期くらい、おふくろの名前を呼んでほしかったよ」

「じいさんにも、家族には打ち明けられない、いろいろな思い出があったってことだろ」

 複雑な気持ちで言葉を交わした息子と孫は、ちらりと時計を目にすると、黒いネクタイを締め直して立ち上がった。そろそろ、通夜の時間だった。

 老人の通夜には多くの参列者が列をなし、途切れることはなかった。これほどまで多くの人々の記憶に残り、惜しまれながら旅立った老人は、やはり幸せな人生をおうしたのだと、家族は思った。従軍し、捕虜となるという過酷な若き日々の記憶を、何十年とかけて塗りかえたに違いない。妻ではない女性の名を呼んだり、息子や孫の名を忘れてしまったことくらい、大目に見てやってもいいだろう。

 そんなことを考えながら、家族が通夜の片づけをしていたところへ、一人の男が近づいてきた。喪主であった老人の息子より、いくらか年長の、メガネをかけた白髪の男だった。

「すみません。故人様のご家族に、お話ししたいことがありまして……」

「えっと、どちら様で?」

「わたしは、すみと申します。墨田たけしの息子です」

「墨田毅さんの、息子さん?」

「そうです。墨田毅と墨田みよの息子の墨田史郎といいます」

「墨田みよ? まさか、『おみよさん』ですか!?

 老人の息子は声を上げた。それは、老人が最期のときまでつぶやいていた女性の名前である。

「それじゃあ、あなたは、じいさんの昔の恋人の息子だっていうのか?」

 老人の孫は声をひそめて、墨田と名乗った男に尋ねた。

 しかし墨田は、「恋人?」と、メガネの奥の瞳を大きく見開き、驚いた様子を見せた。

「いえ、恋人などでは……。なるほど、そのご様子だと、あの方は真実を告げずに亡くなられたのですね」

「真実?」と、今度は老人の家族が目を見開く番だった。それに応じて、墨田が言う。

「故人様と関係があったのは、母ではなく、父のほうです。わたしの父は、故人様と同じく、出征した先で捕らえられ、シベリアに抑留されていたんですよ。そして、多くの仲間と同様、収容所で命を落としました」

「え? 亡くなった?」

「はい。ご尊父様は、父と同じ収容所の部屋の、唯一の生き残りだそうです」

 先ほど以上に目を見開き、息をのむ息子や孫たちに、墨田はゆっくりと語り始めた。


 収容所の過酷な状況下、全員が生きて日本に帰れる可能性は限りなく低いということを、父たちは理解していました。だから父たちは「約束」を交わしたのです。このなかの誰か一人でも生き延びて帰国することができたら、帰れなかったほかの者たちの家族に遺言を届けよう、と。

 しかし、そもそも、手紙を書くための筆記用具を手に入れることができない。それに、手紙を書いたとしても、それが見つかれば没収される。そんなものを書いていたことが敵兵に知られたら、どんな罰を受けるかもわからない。

 そう考えた父たちは、別の方法で仲間のメッセージを残すことを考えました。

 すべて、頭の中に記憶しようとしたのです。

 みんなが、自分以外の仲間が家族に伝えたい言葉を全員分暗記し、同時に、自分が家族に伝えたい言葉を、仲間たち全員に覚えてもらいました。そうすれば、誰か一人でも生き残りさえすれば、その者が残りの仲間全員の遺族に、故人の言葉を届けることができますから。


 墨田の話に、老人の家族たちはじっと耳をかたむけていた。老人が、何人もの女性の名前を呼んでいた理由や、家族たちには覚えのない昔話をつぶやいていた謎が解けたのだ。

 きっと老人は、この真相を墓場まで持っていこうとしていたに違いない。しかし、その記憶が、認知症になったことをキッカケに噴き出したのだろう。

「わたしの父、墨田毅は、捕虜になっている間に負ったケガが原因で命を落としたそうです。ですが、生還したご尊父様がわたしの母を訪ねてくださり、父の言葉を届けてくれたのです。父が出征する前、まだ二歳だったわたしには、父の記憶がありません。それでも、わたしが父の存在を確信でき、愛することができたのは、あなたのお父様のおかげなのです。お父様はそうやって、多くののこされた家族に『愛の言葉』を届けて回られたのです」

 そう言って墨田は、亡き老人の家族一人ひとりの手を取って頭を下げた。

「オヤジは、自分の死期を悟って、昔の仲間たちを思い出していたのかもしれないな」

 祭壇に飾られた老人の遺影に、遺された者たちは頭を下げた。命懸けで約束を果たして天寿をまっとうした老人の雄姿を、いつまでも語り継いでいこうという決意とともに。


(作 おかのきんや・桃戸ハル・橘つばさ)