あのときのことを教訓にし、今、慎重にハンドルをにぎっている。

 その日、トムは、仕事の付き合いで、ほんの一杯だけワインを飲んで、車を運転していた。自分では酒のせいとは思っていないが、出会い頭に別の乗用車と衝突事故を起こしてしまった。

 幸い怪我人はいなかったが、その後の警察の取り調べで飲酒運転が発覚してしまった。そのことで、トムは長い間、免許を停止され、車の運転ができなかった。また、違法行為による事故であったため、相手の車を修理するための保険もきかず、大金を失うはめになってしまった。まったく、酒を飲むとろくなことはない。

 あの日以来、トムは、よほどのことがない限り、酒を飲むのをやめていた。

 しかし、どれほど気をつけて運転をしていても、時には、避けられない事故というものがある。トムの運転する車は、正面衝突する事故を起こされてしまった。「起こされてしまった」というのは、非は相手にあるように思うからだ。

 車がめったに通らない山道。大きく曲がったカーブで相手の車が大きくセンターラインをはみだしてきたのだ。トムは避けることができず、二台の車は正面から衝突した。どちらの車も大きく壊れはしたが、奇跡的に、どちらの運転手も無事だった。車がめったに通らない道だから、怪我をして動けなくなっていたら、通報も遅くなっていたかもしれない。

 それにしても、なんて下手な運転だ。運転しているのはどんな奴だ? 白い煙をあげるボンネット。その向こうでドアが開いた。相手の車から出てきたのは、うら若き美女であった。その女性は、自分の車が壊れたことを気にする様子もなく、大急ぎでトムの車に近づいてきた。そして怪我はなかったが、身動きがとれなくなっていたトムを助け出し、美しく柔らかい声で言った。

「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」

 トムは、相手の女性の美しさに驚き、また、自分のことより相手のことを心配するその姿勢にも驚いた。こんなとき、多くの女性は、いや男性も、自分の過失を棚に上げて、「どこ見て運転してんだ!」と、怒鳴ってきてもおかしくはない。にもかかわらず、この人はどうだ。やはり、美しい女性というのは、心の中も美しいものなのだ。トムの心の中からは、運転が下手な相手への怒りは消えていた。そして、精一杯の気取った声で言った。

「ありがとうございます。あなたこそ、お怪我はなさいませんでしたか?」

「ええ、私も無事です。こんなに大きな事故だというのに、お互いに怪我ひとつないなんて、奇跡としか言えませんね」

 やさしくほほえんだ顔は、ますます美しい。そして二人は、お互いに名のりあった。女性はエリザベスという名前であったが、「リズと呼んで下さい」と付け加えた。

「私は……トム。お互い、とんだ災難でしたね」

「お互いだなんて、申し訳ないわ。私の不注意のせいかもしれないのに」

「いや、それこそお互い様ですよ。私にもきっと落ち度があったから、こうなったんでしょうから」

 エリザベスの謙虚な態度に、トムは好感をいだいた。

「あの、友人に電話をしてもいいですか? 実は友人のおうちに遊びに行くところだったのですが、今日は、とても行けそうにないわ。電話しておかないと……」

 エリザベスは、トムから少し離れたところで携帯を取り出し、電話をかけた。声は聞こえないが、その様子からは落ち着きが感じられた。こんなときにあわてずにいられるなんて、何と素敵なことだろう。

 そして、エリザベスの横顔に見とれていると、ふと目が合った。ちょっぴり困ったように、申し訳なさそうに微笑を浮かべる表情は、ますます美しい。

 エリザベス同様、トムも、今回の事故では落ち着いた大人の対応をしている。トムがエリザベスを「素敵な女性」と感じたように、エリザベスも自分のことを「素敵な紳士」と見ているだろう。見た目には落ち着いていても、もしかすると心のなかは興奮状態かもしれない。興奮状態にある男女は恋に落ちやすいと聞いたことがある。たしか、「ばし効果」と言ったはずだ。

 これはちょっぴり意地の悪い神様が演出してくれた、運命の出会いなのでは……。内心、トムの胸は高ぶった。

「それにしても、あなたの美しい顔に、傷がつかなくて、本当によかった」

 エリザベスの目を見つめながら、トムは言った。

「そんな、美しいだなんて……」

 照れてほほえむ姿は、まるで天使のようだ。間違いない。エリザベスは、自分にれている。自分自身がエリザベスにひかれているように……。

「でも、こんなことになって、まだ心臓がどきどきしていますわ」

「無理もない。私も少し、興奮気味なようです」

「そうだ、いいものがあるわ」

 そう言うとエリザベスは、自分の車の助手席に置いてあった紙袋の中からワインのボトルを取り出した。

「ああよかった、割れてなかった。友人の家に持って行くつもりでしたの」

 大事そうに、ワインボトルを抱きしめると、エリザベスはトムに向かって言った。

「気を落ち着ける……というより、私たちの出会いを祝して乾杯しませんこと?」

 あたりは夕闇に包まれつつあった。もしまだ陽が照らす時間だったならば、彼女の顔が真っ赤に染まっていることがわかったに違いない。

「グラスがないので、ボトルから直接飲むことになりますけど、いいかしら?」

 エリザベスの提案を、トムは快く受け入れた。

「ここは高級レストランではありません。片田舎の山道です。そのほうがこの場にふさわしいかもしれません」

 エリザベスからボトルを受け取ると、トムは一気にボトルを半分ほど飲みほした。濃い赤紫色をした液体がのどを通り抜けると、トムの心臓はほんの少し高ぶった。さすがに、これから先の愛の言葉を照れずに言うためには、ワインの力も必要である。しかし、顔がほてって感じられるのは、ワインだけが理由ではない。エリザベスという女性を目の前にしているからだ。トムは、ボトルをエリザベスのほうに向けた。

「さあリズ、君も……」

 トムが渡したボトルを受け取ると、エリザベスはボトルをさかさまにし、中身を路上にすっかり捨ててしまった。何か気に障ったのだろうか? それとも、間接キスに抵抗があるのかもしれない……。不安げなトムをよそに、エリザベスは時計をちらりと見ると、ニッコリほほえんで言った。

「私は、警察の事情聴取が終わってから、家に帰ってゆっくりといただきますわ」

 ちょうどそのとき、遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてきた。警察官は二人に、事故のいきさつを尋ねることだろう。そして私は事情を説明することになるのだ。口からアルコールのにおいをプンプンとさせながら……。

 事故を起こした二台の車。一人のドライバーはまったくのしらふ、もう一人は酒くさい息を吐いている……。これがどんな意味をもつのか、過去に事故を起こしたことのあるトムに分からないはずがなかった。


(原案 欧米の小咄 翻案 小林良介・桃戸ハル)