森猛は大学の構内で、「猛、ヤバイ、俺ヤバイよ、猛!」と、大学の友人であるとうひろゆきに抱きつかれていた。

 けっして、宏幸に愛の告白をされたわけではない。しかし、テンションが上がりすぎた宏幸は、手加減を忘れた力でぐわんぐわんと猛を揺さぶってくる。たしかに、ヤバイやつだ。

「どうしよう猛! 俺マジでヤバイんだけどっ!!

「おまえがヤバイのはよくわかったから、とにかくはなせ!」

「やっぱり聞きたいか? そうかそうか、聞きたいか!」

 猛は「放せ」と言ったのだが、宏幸には、「話せ」と聞こえたらしい。もっとも、そうでなくとも宏幸は話さずにいられなかったであろうことは、想像にかたくない。

 宏幸にしばらく揺さぶられ続け、ようやく解放されたときには、猛は車酔いに似た感覚を覚えていた。しかし、宏幸はそんなことなどおかまいなしに、マシンガンのように話し始めた。

「俺、バイト先に気になってる子がいるって言ったじゃん!?

 ぐらぐら揺れる頭で、猛は、しばらく前の記憶を再生した。

「ああ……ちゃんだっけ?」

 そう! と、宏幸が猛の鼻先数センチのところに、人差し指を突きつける。

 最初に宏幸の口から「千代」という名前を聞いたのは、猛の記憶では、大学の夏休みが明けた直後だ。夏休み中に、宏幸はレンタルDVDショップのアルバイトを始めたという。ギターを買うための目標金額に達したらやめよう、くらいに考えていたバイトだったが、その計画は初日で一人の女子によって大幅に狂わされてしまったのだという。バイト先に、宏幸の好みド真ん中な女子がいたのだ。

「なんで千代ちゃん、俺の好みの顔を知ってるんだろうなぁ」

「は? どういうこと?」

「だって、俺の好みを知ってなきゃ、あんなに俺の好みド真ん中な顔をしてるはずないと思うんだよ。なんで知られたんだろうなぁ。俺、もうあそこのバイトやめらんねぇよ! ……あ! もしかして俺をやめさせないための作戦かな……」

 宏幸の言っていることはメチャクチャだし、なぜここまで自己中心的に考えられるのか、猛にはさっぱりわからない。一目ボレで恋に落ちるというのは、こういうことなのだろうか。

「それで、その千代ちゃんがどうかしたのか?」

 今もっとも宏幸が言われたいであろう言葉を猛が投げかけると、おもしろいくらい予想どおりに、宏幸は目を輝かせた。その両手が、ふたたび猛の肩をつかむ。

「それがさ! 昨日バイトで二人きりになったとき、千代ちゃんに聞かれたんだよ! 『後藤さん、クリスマス・イヴ、予定、あいてませんかっ?』って!!

 ボリュームを調整する機能が壊れてしまったかのように、宏幸の声がだんだん大きくなる。ここは、猛たちの通う大学内にある学生ラウンジ。時間も四限が終わったあとなので、適度に学生の姿がある。その中心で大音量を発している宏幸には注目が集まっていたが、本人はまったく意に介していない。

「わかった、わかったから、もうちょっと声を落として話せよ。ちゃんと聞くから」


 それは昨日、大学の授業を終えた宏幸が、バイトのシフトに入ったときだ。男子更衣室から出たところで、女子更衣室から出てきたそう千代とバッタリ鉢合わせした。

 ──ナイス店長!

 今日のシフトを組んだ店長に感謝する宏幸であった。

「お疲れさまです、後藤さん。今日も、よろしくお願いします」

 バイト歴としては千代のほうが宏幸より長かったが、年齢がひとつ上の宏幸に対する彼女の物腰は、常に丁寧だ。

 このときも、礼儀正しく腰を折った千代の、まっすぐ切りそろえられた前髪が、彼女の小さな額をなでた。小柄な千代が頭を下げると、宏幸からは彼女の後頭部がよく見える。細くつやつやとした黒髪は、きっと高級な絹糸のようにサラサラなんだろうな、と妄想──もとい、想像してしまう。

 それじゃあ今日もがんばりましょうね、と、いつもなら千代が小さなふたつの拳を作って、それぞれの持ち場につくのだが、この日は、そんな「いつも」とは少し様子が違った。

「あ、あの……後藤さん……」

 所在なげに両手の指先をもじもじと絡めながら、千代の視線が行き場を失っている。そんな千代も反則レベルでかわいらしくて、抱きしめたくなる衝動を宏幸は必死に抑えこんだ。

「なに? どうしたの?」

 理性を総動員して尋ねると──一瞬で、千代の顔が赤くなった。

 その反応を予想していなかった宏幸は、理由がわからず、まばたきをした。千代は、あの、えっと、あの……としばらく繰り返したあと、ようやく顔を上げた。

「クっ……!」

「く?」

「クっ……クリスマス・イヴ、予定、あいてませんかっ!?

 声が裏返っていたために、最初は何を言われたのか、わからなかった。

 ──クリスマス/イヴ/予定/あいて/ませんか?

 国語の文法の授業でやったように、言われた言葉を文節ごとに区切って心の中でつぶやく。品詞分解しようとして我に返り、千代の言葉の意味をしゃくできたのは、三十秒ほど経ってからだ。返事をためらっているように思われてはマズイ。三十秒の遅れを取り戻すように、宏幸は早口で答えた。

「あいてる! もう超あいてる!! あかぬなら、あかせてみよう、クリスマス」

 自分でも何を言っているのかわからない返事だが、そんなことに気を配れる余裕など、今の宏幸にはなかった。自分まで声が裏返らないようにするのが、やっとだ。

 幸か不幸か──幸に決まっているのだが、宏幸に彼女はいない。クリスマスまで、あと一ヵ月ほど……今年のクリスマスも、ひとりぼっちの「サビシマス」かと覚悟していたが、ついに自分にも春が訪れたのだ。

 ──クリスマスって、春の季語だっけ?

 突然のことに思考が散らかって、くだらないことばかり考えてしまう。

 しかし、そんなこととは露知らず、宏幸の返答に千代は明らかにほっとしたふうに表情をゆるめた。先ほどまでの緊張感がウソのように、「よかったぁ……」と小さな肩を下げる。

 ──それは俺のセリフです! キミの勇気に、今年一番の感謝!!

 心の中でかいさいを叫んだ宏幸に向かって、千代が両手を合わせて「お願い」のポーズをする。

「それじゃあ、イヴ、あけといてもらってもいいですか? また改めて相談させてください!」

「うん。わかった」

 平静を装ってうなずいたものの、心臓は口から飛び出しそうになっている。だから、「ありがとうございます!」と、また律儀に後頭部が見えるまで頭を下げた千代がパタパタとレジのほうに向かったあと、宏幸は背中から深く壁にもたれかかった。

「マジかよ……」

 ようやく口にした言葉は、情けないくらい震えていた。千代の前では震えなくてよかった、と、心底思った。


「そんなワケで、俺もついに『サビシマス』卒業だ! これでもう、おまえと瑠美ちゃんがイルミネーションを見に行っても、呪わずにいられるな」

「は? 呪ってたのか?」

 宏幸のテンションに圧倒されながらも、猛は、友人に訪れた「春」を素直に祝福した。

 猛は「千代ちゃん」を知らないが、好きになった相手からデートに誘われるなどという展開は、そうそう起こるものではない。猛には瑠美という恋人がいるし、関係も順調だが、宏幸が体験したシチュエーションを、少しうらやましく感じてしまった。

「それで、その千代ちゃんとどう過ごすのかは、考えてるのか?」

 クリスマス・イヴである。とくに、食事をする店は、早めに予約しておいたほうがいい。

「予約しておかないと、どこにも入れなくて、せっかくのデートを台なしにするぞ」

 猛のアドバイスを、宏幸は真剣な表情で聞いていた。

「ちょっとリサーチしてみるよ。千代ちゃんの好みも聞かないといけないし。聞いてくれて、サンキューな、猛! 俺、興奮しちゃって、ふざけてるように見えるかもしれないけど、この想いは本気なんだ」

 猛は、ふざけているように見えて、その実、いちな友人の恋がかなうよう願った。



 ──イヴまで、あと一週間。

 猛の言ったとおり、クリスマスデートによさそうなレストランは、軒並み予約でいっぱいになっていた。千代に「改めて相談させてください!」と言われた手前、自分が決めすぎるのはどうなんだろう、がっつきすぎと思われて引かれるかもしれないしな……などと考えていたら、いつの間にかクリスマスまで一週間になっていたという状況である。

 これはけっこうキビシイかもしれないな……と、バイトの休憩時間に宏幸がスマホで、雰囲気のよさそうなレストランをチェックしていたときである。

「あ、後藤さん。お疲れさまです!」

 バックヤードに、シフトを終えて帰り支度まですませた千代が入ってきた。ガタタッと立ち上がった宏幸を、大きな瞳が見つめる。

「よかった、ここにいたんですね。イヴのことで、お話ししたいと思ってたんです」

「あ、ほんと? よかった、俺もそろそろ話さなきゃと思ってたんだ」

 宏幸の言葉に、千代がほっと胸をなで下ろす。もうあまりいい店は予約できないかもしれないが、それでも、千代のためにできるだけのことをしようと宏幸は決意した。そして、きちんとその場で、自分の気持ちを伝えるのだ。

「後藤さん、二十四日、あけてくれてますか?」

「うん、一応。俺は、何時からでも大丈夫だよ」

 できるだけ余裕のあるふうに見えるように意識して言うと、千代が「よかった!」と胸の前で手を合わせた。ということは、千代も時間には融通が利くということだろう。宏幸としては、できることなら昼間からデートして、クリスマスディナーにつなげたい。

「じゃあ、何時からにしようか?」

 女の子のほうが準備はいろいろあるものだから、時間は決めてもらったほうがいいだろう。そんな気を利かせたつもりの宏幸に、千代はすぐに答えた。

「それじゃあ、十七時から二十三時まで、お願いしてもいいですか?」

「え? ああ、うん、まぁいいけど……」

 小さな違和感を宏幸は覚えた。千代が提案してきた時刻は、妙に具体的だ。帰宅時間まであらかじめ決めてしまうのは、千代の家の門限がうるさいということだろうか。だとしたら、もちろんムリは言えない。

 そんな宏幸の思考に、千代の明るく弾む声が重なった。

「よかったぁー。イヴにシフト代わってくれる人なんて、いないかもって思ってたから、本当に助かります! ありがとうございます!」

 ──え? シフト?

 思考が切り替わるまで、少し時間がかかったが、切り替わったとたん、真冬だというのにイヤな汗が背中に浮く。

 ちょっと待って。待て待て待て……いや、待ってください。ウソだろ? あり得ないだろ、あんなふうに顔を赤くして聞いておいて、こんな仕打ちなんて。俺、なんか恨まれるようなことしたっけ? もしかして、呪われてる?

「『イヴ、予定、あいてませんか?』って……千代ちゃん、バイトを代わってほしいって、こと?」

「そうですよ? わたし、言いましたよね? もしかしたらシフトを代わっていただきたいかも、って」

 いや、聞いてない、絶対に聞いてない。聞いてないはずだ。そんな言葉、聞きたくない!

 言い返しそうになった宏幸だったが、とたんに自信がなくなって、口を閉じた。

 あのとき──「イヴあいてませんか?」と千代に尋ねられたとき、舞い上がって、そのあとの言葉を聞き逃していた可能性も、正直、なくはない。日頃から猛にも、「ポジティブ思考と紙一重の自己チュー」と言われる。千代は「デート」などとは一言も言っていないのに、宏幸が勝手に思いこんで舞い上がっていただけだったのだ。

 ぐるぐると回転する宏幸の頭に、千代の恥ずかしそうな声が流れこんでくる。

「じつはわたし、大学に好きな先輩がいて……。サークルの先輩なんですけど、今までぜんぜん気持ちを伝えられなくて……でも、決心したんです。二十三日に、サークルのクリスマス会があるから、そのあとで告白するって。もちろん、断られるかもしれないけど、うまくいったら、やっぱりイヴは一緒に過ごしたいんです。だけどわたし、前にイヴに予定がないって言ったらシフト入れられちゃってて……。だから、シフトを代わってくれる人を探してたんです。後藤さんが優しい人で、本当によかった! 今度、改めてお礼させてくださいね!」

 本当に、ありがとうございます! お先に失礼します! と、そう言って千代が律儀に頭を下げる。小さな後頭部を宏幸が呆然と眺めていると、それがパッと跳ね上がった。輝かんばかりの笑顔を残して宏幸に背中を向けた千代が、離れていく。何か言うなら、今しかない。

「千代ちゃん!」

 振り返った千代に、意を決して、宏幸は強い口調で言った。

「千代ちゃん、がんばって。千代ちゃんみたいに素敵な子なら、絶対に、先輩も好きなはずだよ。俺、応援してるから!」

 驚いたように目をみはる千代に向かって、宏幸はニッと笑うと、「グッドラック」とつぶやいて親指を立てた右手を、力強く突き出した。

 それは同時に、宏幸自身を鼓舞する親指でもあった。


(作 橘つばさ・桃戸ハル)