「お父さん、リンゴ買ってきたから、むいてあげるよ」

 いつものように、学校を終えたアカネが病室に見舞いにやってきた。

「あぁ、すまんな。いただこうか……」

 男は、そう言って体を起こした。

 アカネはきりたにのことを「お父さん」と呼ぶが、桐谷は本当の父親ではない。現在、高校生のアカネは、幼い頃に両親を失い、この桐谷という男に育てられてきたのだ。

 アカネには、幼い頃の記憶がない。両親が二人とも死んだ事件のショックから、それまでの記憶をすべて失ってしまったのだ。

 桐谷は、その事件を担当した刑事だったが、孤児となったアカネに同情し、自らひきとって育てることにしたのである。もちろん、アカネも、桐谷が実の親ではないことを知っている。

「調子はどう? 少し顔色がよくなったみたいね」

 アカネが笑いかける。

「さぁ、どうだろうな……。私の体は、あちこちにガンが転移して、死を待っているだけだからな。良いも悪いもなかろう。でも、今日は天気がいいし、気分はいいよ」

 アカネが悲しそうな表情をしている。

 アカネの悲しみは、命が尽きかけている私に向けられたものなのだろうか。それとも、ふたたび孤独の身となる自分に向けられたものなのだろうか。桐谷は、窓の外の平穏な町の風景をながめた。

「ナイフ、どこだっけ?」

「そこの引き出しの中かな」

 アカネは、果物ナイフを取り出すと、器用にリンゴの皮をむきはじめた。

「学校はどうだ?」

「変わりないよ」

 アカネは、肩をすくめる。

「勉強はしっかりせんとな」

「卒業できればいいのよ。大学に行くわけじゃ……。うっ……」

「どうした!」

 突然、アカネが頭をかかえてうずくまった。ナイフとリンゴが床に転がった。

「おい、アカネ! 大丈夫か!!

「うっ、ううう……」

 アカネは苦しそうに眉間にシワをよせ、額に脂汗をかいている。

「先生を呼ぼう……」

 ナースコールを押そうとすると、アカネが手を出して制止した。

「いいの。……もう大丈夫」

「おい、どうしたんだ?」

「最近、たまにあるの。なんか、記憶がよみがえってくるの……」

「記憶が!? 何か思い出したのか?」

 桐谷は、ベッドから身を乗り出し、アカネの肩をゆすった。

「ううん、何も。断片的に見えるんだけど、肝心なことは何も……」

「そうか……」

 大きくため息をついた。

「もう、私の命は長くない。お前に、本当のことを話しておいたほうがいいかもな……」

「えっ? 本当のことって?」

「いや、やっぱり、やめておこう。知らなくてもいいことだ」

「お父さん……」

 アカネは複雑な表情を見せた。

 きっと、真実を知ることはつらいことだろうけど、両親に何があったのか、アカネには伝えておかなくてはいけないと桐谷は思っていた。

 その晩、桐谷の容態が急変した。


 アカネは病院に呼び出され、医師から、今夜が峠になると聞かされた。

 病室の前には、父親の同僚の刑事二人がいて、アカネを見て一礼した。桐谷は、激しく呼吸しながら目をつむっている。

「お父さん、がんばって……」

 アカネは、桐谷の手を強くにぎった。

 すると、彼はゆっくり目を開け、アカネの手をにぎり返した。そして、何かを決意したように目を閉じると、しゃがれた声で言った。

「アカネ、聞いてくれ。実は、あの事件があったとき、私は現場にいたんだ」

「えっ!?

 アカネは耳を疑った。

「私は、事件に関わっていたんだ。お前の本当の父親を殺したのは、私なんだ」

 どういうことなの? アカネは動揺した。今の父親が話ができる状態でないことは、明らかだ。しかし、今を逃せば、真実を知る機会は永遠に失われるような気がする。

「お父さん、どういうことなの? 本当のことを教えて」

 アカネは、桐谷に強く呼びかけた。

 桐谷に、アカネの声が聞こえているのかいないのかはわからない。しかし、彼は、声をふりしぼって話しつづけた。


 ……あれは、ちょうど十年前。

 私は、幼なじみの女性から、電話で個人的な相談を受けた。マユミというその女性は、そう、アカネ、お前のお母さんだ。

 彼女は、毎日のように夫からひどい暴力を受けて、自分は殺されるのではないか、とおびえていた。電話越しでも、声が震えているのがわかったよ。

 私は驚いた。彼女は、幸せに暮らしていると、ずっと思っていたから。

 実は、お前のお母さんだけではなく、お前のお父さんのことも、私は知っていた。私たちは、同じ高校だったからな。

 お前のお母さんは、多くの男子生徒から好かれていたが、結局、お前の父親を選んだんだ。

 大学を卒業して、二人が結婚した、ということは、風の噂で聞いていた。勝手な想像、いや願望で、お前のお母さんには幸せでいてほしいと思っていたんだ。

 しかし、実際に会ってみたマユミの状況は想像を超えていた。彼女の目は、青黒く腫れ上がり、首や腕にはひどいアザがあった。

 私は怒ったよ。お前の父親のところにも行って怒鳴りつけもしたよ。

 しかし、あの男は、まったく意に介する風もなかった。

「警察がわざわざ、さまの家庭のことに首をつっこむってどういうことだ? これは、きちんとした捜査なのか? 上司も知っているんだろうな? まさか、俺たちを別れさせて、ちゃっかり自分の結婚相手にしようってんじゃないだろうな?」

 そんなことまで言ってきた。

 当時はまだDVという言葉も一般的じゃなくて、マユミにも、自分が被害者という意識がなかった。

「夫に不満を持たせる自分が悪いの。自分はどうなってもいい。でも、娘だけは守らなければ」と言っていたよ。

 あれだけのひどい傷があれば、傷害事件として立件できたはずなのに、マユミは、被害届を出すことをかたくなに拒んだ。彼女は、夫を逮捕してもらいたいと思ってはいなかった。娘から父親を奪うことにためらいがあったんだろう。

 とはいっても、マユミの命を危険にさらしたままでいいわけがない。私は職務とは別に、彼女のことを守ってやろうと思った。彼女を説得して、定期的に会うことにし、様子を見ることにしたんだ。

 私は、週に一度、マユミと会って話をした。私は、さまざまな事件を見てきたから、そういうことを話して聞かせた。いろいろと話しているうちに、彼女の気持ちにも変化があらわれた。

 自分が悪いのではない。どんな理由があるにせよ、暴力を受ける覚えはない。そして、夫とも別れるつもりでいる、と語るようになった。

 私にマユミに対する好意がなかったといえば、それは噓になる。あの男が言ったように、私の心のどこかに、マユミが離婚すれば、自分と結婚してくれるのではないか、と思っていたのかもしれない。しかし、誓って言うが、私とマユミの間には、やましいことはなかった。

 だが、悲劇は訪れたんだ。

 その日、私はマユミの自宅を訪れる約束をしていた。しかし、仕事が終わらず、予定よりもだいぶ、到着が遅れてしまった。

 私は、マユミと娘の様子に変わりがないことを確認すると、早めに家を出ようとした。もう、あの男が帰宅する時間が迫っていたからな。

 ところが、タイミングが悪かった。私が上着を着て家を出ようとしたとき、あの男が帰ってきてしまったんだ。あの男は、私たちを見るなり、関係を疑った。

「最近、様子が変だと思ったら、こういうことだったのか。お前は、俺を裏切っていたんだな」

 男はそう叫んで、刃物を取り出し、マユミに襲いかかった。私は、それを止めようと、素手でなんとか抵抗した。だが、太ももを深く刺され、床に倒された。しまった、と思ったが、もう遅かった。次の瞬間、あの男は、彼女の胸に刃物を突き刺していた。

 そして、ちょうどその光景を見ていたのが──アカネ、お前だった。

 男は興奮していた。マユミを刺してしまったことで、自分も死ぬつもりだったのかもしれない。そして、娘を道連れにしようとしたんだろう。アカネにも刃物を突き立てようとしたんだ。

 私は、すかさず銃を取り出し、撃ったんだ。


「お前の父親を撃ち殺したことに後悔はないよ。だって、アカネの命を救うことができたんだから」

 桐谷は、激しくんだ。

「お前は、あまりのショックで記憶を失った。最初、私は、お前の記憶が戻りそうになったら、それにフタをするために、そばにいなければいけない、と思ったんだ。しかし、今は違う。やはり、お前は真実を知るべきだ。だから──」

 そこまで話すと、桐谷は、満足したように目をつむった。

 目の前で深い眠りについた男に、アカネはもう、「お父さん」と声をかけることができなかった。

 やがて、心電図に動きがなくなり、脈拍が止まった。かけつけた医師が瞳孔などを確認し、死亡を伝えた。

 アカネは、拳を固く握って泣いた。悲しくて泣いたのではない。心の中に渦巻く感情をどうすればよいのかわからずに泣いたのだ。

 父は、母に暴力を振るった、とんでもない男に違いない。しかし、桐谷が現れ、余計なことをしなければ、もしかすると父と母が命を落とすことはなかったのではないだろうか。

 でも、桐谷がいなければ、私は父に殺されていたかもしれない。

 私は、誰を憎み、誰を恨めばよいのか……。それがわかったところで、もう誰もいないではないか。私はもう、過去とけつべつし、一人で生きていくしかないのだ。

 病室の外から、その様子を見ていた二人の刑事は、もくとうをささげて病室を離れ、静かに病院を出て行った。自分たちには、彼女にしてあげられることは何もないとわかっていたからだ。

 ──つらいだろうが、アカネちゃんは、自分の力で生きていくしかない。

「知らなかったな……、あんな話。桐谷さん、昔のこと、話したがらなかったからな。ナベさんは、あの事件のこと知っていたんですか?」

 若い刑事が、先輩らしき刑事に話しかける。「ナベさん」と呼びかけられた刑事は、無表情なまま答えた。

「あの事件を担当したの、俺と桐谷さんなんだよ」

「じゃあ、ナベさんも、よくご存じなんですね?」

「いいや、全然知らない」

 若い刑事は、驚いたように聞き返した。

「どういうことですか? 担当だったナベさんも知らないって……」

「桐谷さんのあの話、あれは、噓だよ」

「えっ、そんなことあり得ますか? 死の間際に噓つくなんてこと……」

 先輩刑事は、悲しそうな表情で言った。

「死の間際だから、一世一代の噓をついたのさ。アカネちゃんを苦しませないために……」

 そして、ため息をついて続けた。

「アカネちゃんの父親が、奥さんに暴力を振るっていたってのは本当のことさ。それで、奥さんを殺してしまったってことも。でも、その父親を殺したのは、桐谷さんじゃない。アカネちゃんなんだよ」

「ど、どうして?」

「父親の暴力でひんの状態だった母親を助けるために、父親をナイフで刺したんだ。何度も何度も。でも、母親を殺されたショックと、自分が殺人を犯してしまった罪の意識で、あの子は記憶を失ってしまった。そういう事情と年齢のこともあって事件は不起訴になった。だから、詳しいことは、誰にも知られていない」

「じゃあ、桐谷さんは、そのことを隠すために?」

「そう。桐谷さん、いつも恐れていたよ。いつか、アカネちゃんが記憶を取り戻すんじゃないかってことを。彼女が真実を知ったら、罪にさいなまれて、立ち直れなくなるだろう。だから、記憶を取り戻しそうになったら、偽りの記憶をアカネちゃんに植え付けようと思っていたんじゃないかな。自分が憎まれることで、アカネちゃんを守ろうとしたんだ。桐谷さんらしいよ」


(作 桃戸ハル)