「いよいよ今日が、地球最後の日ね」

 朝、私は夫に向かって言った。

「いろいろあったけど、最後は夫婦二人きりね。最後に何をしたい?」

 私はおだやかな声で続けた。

「『何を』って? 行ってくるけど?」

 夫はいつものようにネクタイを締め、そう言った。

「え? どこに?」

「『どこに』って、決まってるだろ。仕事だよ」

「はぁ? あなたバカじゃない!? 今日の夜八時に隕石が落ちてきて、地球は……人類は滅亡するのよ!!

「だって、出かけたい場所も、したいことも特にないし、仕事がたまっているから」

 そう言って、夫は玄関を出て行こうとする。

 私は、それ以上、声をかけられなかった。

 この人は、最後まで、日常を通す人なんだ──。去って行く夫の背中を見ながら、玄関で立ちつくす私。

 神様に祈りを捧げても、運命なんて変えられそうもない。

「まさか、最後に一人ぽっちなの?」

 私は家族と一緒に最後の瞬間を迎えたかった。

 あと、親しい友だちに、お礼の言葉なんかも言いたかった。

 しかし、現実はまったく違った。

 我が家の一人息子は、「恋人と最後の夜を過ごしたい」と言って、昨日の晩、家を出ていってしまった。回線がパンクして電話がつながらず、実家とも友人とも連絡がとれない。

 道路は渋滞しているので、遠くまではいけないだろう。最後に私は一人。一人で生まれてきて、一人で死ぬんだ。

 そんなものなんだと、肩を落とした。

 しょげた気持ちで死んでしまうのもなんだか頭にくる。

 だから、一番好きな映画を見ながら、お酒を飲むことにした。

 だって、他になにかある? しかたないじゃない?


 私の夫とは、まったく違うタイプの主人公。

 映画の中のヒロインは、いつも主人公に抱きしめられている。

 現実の私は、なんで一人なの?

 グラスをかたむけるピッチがあがる。


 そして映画を見ている最中、私は知らないうちに眠ってしまっていた。


「うそ! 私、寝てしまったの? こんな大事なときに」

 跳ね起きる。私は大馬鹿者だ。最後の最後まで。

 まだ生きていることだけが救いだった。

「時間は? 今、何時なの?」

 私は部屋の電気をつけて、時計を見る。

 二十時を過ぎている。

「どうなっているの? 隕石は?」

 画面をテレビ放送に切り替えた。

 町で大勢の人たちが喜び抱き合っている姿が中継されている。ニュースキャスターが興奮気味に話している。いや、叫んでいると言ったほうがよいかもしれない。

「まさに奇跡です。奇跡が起きました!! まさか隕石が消滅するなんて! おそらく、隕石の成分が地球の大気圏突破に耐えうるものではなかったのでしょう!!

 私も両手を上げて叫んだ。

「やったわー! ウソみたい! 地球が助かった! 私も生きてる!!

 自分自身びっくりするほど飛び跳ねて笑い転げた。しかし、一緒に喜ぶ相手がおらず、余計にさみしく、死にたい気持ちになった。せっかく助かったというのに……。

 そのとき、玄関のチャイムが鳴る音がした。

 扉を開けると、夫が立っていた。

 いつも通り、夫が帰ってきたのだ。

 八時過ぎに帰宅するのが夫の日課だ。

「あなた! 私たち生き残ったのよ! やったわね! ね! よかった! よかったよ! 隕石が落ちなかったの!」

 私は夫に飛びつき、抱きついた。

 すると夫は、露骨に嫌そうな表情をし、こう言った。

「だと思った。やっぱり、会社に行ってよかったよ。そんなにくっつかれると暑いから、離れてくれないか。そんなことより、晩ご飯できてる? まずは、家に入れてくれ」

 その瞬間、私の中で何かが切れた。

「この野郎!」

 私は、夫の顔を思いきり殴りつけた。

 夫は白目をむいて、ゆっくりと、そして棒のように倒れた。

 受け身をとれず、夫は地面に頭を打ちつけた。

 隕石は落ちなかったが、夫の頭には地球がぶつかった。


(作 井口貴史・桃戸ハル)