偽札
「その角で
後部座席から聞こえてきた声で、タクシーの運転手はブレーキを踏んだ。タイヤが小さく鳴いて、夜中の住宅地の端で止まる。
「四千八百円になります」
後部座席を振り返って初老の運転手が言うと、客の男はコートの内ポケットから財布を取り出した。そうして中から一万円札を一枚抜き、運転席と助手席の間に差し出す。運転手からお釣りを受け取った客は、開いたドアから車外に出た。ひょうっ、と冬の風が車内に吹き込み、まだ運転手の指の間にあった一万円札がなびく。
「ん?」
かたい声をこぼしたのは運転手だ。
「お客さん!」
運転手はあわててシートベルトをはずすと車外に飛び出し、タクシーを離れようとしていた客の肩に手を伸ばした。肩をつかまれた客が、コートのすそを翻しながら、ゆっくり振り返る。
「なんでしょう」
「なんでしょう、じゃないでしょ! ふざけてもらっちゃ困る。これ、コピー機で作った偽札じゃないか!!」
右手の人差し指と中指の間に挟んだ一万円札をひらひらさせて、運転手は眉間に刻んだシワを深くした。街灯に照らされた一万円札に、透かしは入っていなかった。
「紙幣の偽造は重罪だ。今から警察に通報するから、とりあえず、車の中に戻って待ってもらおうか」
運転手はそう言うと、客をタクシーのほうへ引っぱってゆき、車内に押し込んだ。それから自分は運転席に戻り、すべてのドアにロックをかけてから携帯電話に手を伸ばす。それを見た客はあわてた様子で、「偽札だなんて!」と声を上げた。
「まさか、そんなはず……あぁ、そうか、またか……。いや、違うんだ」
何事かを口の中でつぶやいてから、客の男は深いため息をついた。
「運転手さん、聞いてくれ。俺は偽札なんか作ってない。
はぁ? と、眉を片方だけつり上げて、運転手は
「罠って、どういうことだ」
座席に戻された客は頭を抱えると、ひどく疲れた声で話し始めた。
「これでもう何回目か……。俺の知らない間に、誰かが勝手に俺の財布に、偽札を入れているんだ。そうとしか思えない。これまでは、渡す前に気づいたから何事もなかったけど、このタクシーの中は暗くて、わからなかった……。申し訳ない」
神妙な表情で素直に頭を下げられ、今の今まで目を三角にしていた運転手は、ひるんだように目をしばたたかせた。
「じゃあ、なんで偽札が財布にあるって気づいたときに、警察に言わないんだ」
「そんなこと、信じてもらえるかわからないじゃないか。さっきのあなたみたいに、おまえが作ったんだろうって言われたらと思うと、怖くてね……。だから、偽札はその都度、燃やしてたんだ。捨てるのも物騒だと思って」
でも……と、客がまた深い深いため息をつく。肺の中にある空気を、すっかり入れ換えようとするかのようだった。
「なぜか、燃やしても燃やしても、いつの間にか偽札は、俺の財布に戻ってるんだ。バカなことだと思うだろう? 俺だって最初は、そう思ったよ」
吐き捨てるように言って、客の男は両手で顔をおおった。噓をついているようには、運転手には見えなかった。
「あんたの言ってることが本当なら、あんたの近くにいる誰かが……家族とか、会社の人間とかが、あんたの財布に偽札を入れてるってことか?」
運転手の問いかけに、しかし、客は弱々しく首を振る。
「そう単純なことじゃない……もっと謎めいたことなんだ。あんまり頻繁に偽札が入ってるもんだから、さすがに異様に感じてね。あるとき、家で財布を見たら、また偽札が入っていたんで、そいつをコンロで燃やしてみた。そのあと、財布をテーブルの上に置いて、ずっと観察してたんだ。もちろん、片時も目を離さずにね。それで、十分後に財布の中を見てみると、案の定と言うべきか、そこに偽札が入ってるんだ」
はぁ……と、先ほどとは温度の違うつぶやきが運転手の口からこぼれた。それが聞こえたのか聞こえなかったのか、乱暴に頭をかきむしった男の髪が乱れる。
「俺は目を離さなかったし、誰も俺の財布には指一本、触れてない。そもそも俺は独身で、家には誰もいないんだ。いったい誰が、どうやって、俺の財布に偽札を入れてるっていうんだ。なぁ?」
ここで初めて、いらだったように客の男が声を大きくした。しかし、運転手に答えられるはずもない。
「そんなバカなことがあるか」
運転手のため息まじりの一言に、客がようやく顔を上げる。そこには、挑むような色が浮かんでいた。
「だったら、論より証拠だ。見てろよ」
客の男は語気も荒くそう言うと、運転手の手から、透かしの入っていない一万円札をさっと抜き取った。さらに、客の男は財布と同じく、コートの内ポケットからライターを取り出す。シュボッ、と軽い音を立てて
客の男は、後部座席のドアの窓を開けると、火のついた一万円札を外へと放り出した。地面に落ちた一万円札は、そのままチリチリと燃えてゆく。
「見ろ。一万円札は、もう持ってない」
客は、つっけんどんに言うと、大きく広げた財布を運転手に突きつけた。財布の中には千円札が数枚と、五千円札が数枚入っているものの、確かに一万円札は見当たらない。間違いないという意味で運転手が軽くうなずくと、客の男は助手席に財布を放り投げた。見ていろと言わんばかりである。運転手にしても、ここまでくれば乗りかかった船だった。
二人とも、一言もしゃべらないまま、十分が経過した。恐ろしく長い十分だった。腕時計を確認しながら運転手は思った。
「十分経ったぞ。財布の中を見るからな」
腕時計から客の顔へと、運転手が三白眼を向ける。客は目を閉じ、こくりと首を縦に振っただけだった。
運転手は助手席から財布を拾い上げると、そうっと開いた。急に
乗り慣れた車だというのに居心地が悪く、それを振り払うように、運転手は一枚一枚、紙幣を数えることにした。
千円札が、まず六枚。続いて五千円札が、二枚。一万円札は──ない。
「おい、どういうことだ」
目を丸くした運転手の口から、裏返った声がこぼれた。
「一万円なんて入ってないじゃないか。十分経ったら偽札が出現するんじゃなかったのか?」
どういうことかと詰め寄ろうと、運転手が顔を上げたときだった。
客の男が手を伸ばし、運転手の手から財布をすっと取り上げたのである。その顔からは、十分前にはあったはずの疲労やいらだちが、きれいさっぱり消えていた。
「おい、あんた──」
違和感を覚えた運転手が声をかけようとした矢先。
「一万円の偽札? 運転手さん、なんのことを言ってるんですか?」
「……は?」
唐突な言葉に、運転手の反応はたっぷり三秒遅れた。
「何って……あんたが言ったんだろう。自分の財布にいつの間にか一万円の偽札が入ってて、燃やしても燃やしても戻ってくるんだって。それを見せてやるって、あんたが、そう言ったんじゃないか!?」
客の鼻先に指を突きつけて、運転手は声を高くした。すると、客の男は両方の目をふっと細めて、鼻から息を吐いたのだった。笑われたのだと、運転手が悟るまで、また三秒の間があった。
「運転手さん、大丈夫ですか? お札が勝手に戻ってくるわけないじゃないですか。まさか、飲酒運転してるんじゃないでしょうね。まぁ、事故ったわけでもないから、警察には言わないでおいてあげますけど」
運転席と助手席の間に身を乗り出して、客の男が平然と言う。「警察には」と言ったとき、客があえて一音一音、区切ったことが運転手にはわかった。最初、偽札を渡された直後、「警察に通報する」と言った腹いせだろうか。
運転手の頭に、かあっと血がのぼる。
「さっきの偽札は、なんだったんだ! 燃やしても戻ってくるだなんて言って!」
運転手が声を荒らげれば荒らげるほど、客の男は目元と口元に浮かべた笑みを
「だから、運転手さん。燃やすとか、戻ってくるとかって、何を言ってるんですか?」
客は、あっけらかんとそう言うと、自らの手で後部座席のドアを開けた。外が見える。降りてすぐのところに、灰色の何かがあった。あの一万円札が燃えて灰になったものだった。こんな状態では、燃える前にそれが本物だったのか偽札だったのか、区別などできるはずがない。
だまされたのだ、と、運転手は再び唇を嚙んだ。
いや、渡されてすぐ偽札であることに気づいたから、本当にだまされたわけではない。気づかなかったら、あのまま運賃を踏み倒されていたのだから、不幸中の幸いだったと言うべきなのだろう。しかし、コケにされた気分は、偽札をつかまされたほうがマシだったかもしれないと感じるほどに大きかった。
「ああ、四千八百円でしたっけ?」
わざとらしく、思い出したように、客の男が膝を叩いた。叩いた手を財布に伸ばし、そこから取り出した五千円札二枚を、硬直している運転手のネクタイピンにそっと挟む。
「さっきもらったお釣り分を合わせて一万円。小銭のお釣りは、とっておいてください。でも、お酒は買わないでね」
ニヤリと唇をイビツな三日月形にして言うと、客の男はタクシーを降りていった。先ほどよりも冷たくなった冬の風が、運転手の顔をなでる。
大きくコートを翻してタクシーを降りた客が、念を入れるように、外に残っていた灰を踏みつぶした。そのまま悠々と去ってゆく背中を、運転手は、車内の空気がすっかり冷えきるまで見つめているしかなかった。
(作 桃戸ハル・橘つばさ)