母、帰る
父が病気で世を去り、そのあと母が若い男と出ていって、もう一年以上が
しかし、そんな子どもたちを捨てて、恋に浮かれる母親は出ていってしまった。長男は、母親を憎く思った。同時に、母親が「若い恋人」と「自分たち
それでも、彼には、守らなければならない弟妹たちがいた。進学をあきらめ、懸命に仕事をして、少ないお金でなんとか家計のやりくりをした。親戚が援助してはくれたが、親戚の家に身を寄せることだけはしなかった。母親がいなくても、四人の兄妹だけで生きていける……。自分たちを捨てて出ていった母親への、せめてもの当てつけだったのかもしれない。
そうやって、兄妹四人で結びあってきた「家族」という輪に、雪が降ったある日、ひずみが生まれた。
「久しぶりね。みんな、元気だった?」
家庭を顧みず、若い恋人と駆け落ち同然で出ていった母親が、ふらりと帰ってきたのである。
「なにしに来たんだ」
長男の声は、その日の朝に軒下から垂れ下がったつららよりも冷たく、とがっていた。しかし、母親はそれを笑顔でいなし、玄関で靴を脱いだ。
「『なにしに来た』だなんて、冷たいこと言わないでよ。わたしは、あなたたちの母親なんだから」
その言葉に、長男は、ため息さえつくことができなかった。「母親」が聞いてあきれる。本当は、あの男に捨てられて、行くあてもないから戻ってきたんじゃないのか。まさか、このままここでまた暮らすなんて言うつもりだろうか。
しかし、長男のそんな思いを、母親の笑顔が否定した。
「最近、急に冷え込んできたから、あなたたちの様子が気になってね。あの人に許可をもらって、戻ってきたのよ。少しくらい、いいでしょ? 少ししたら、帰るから」「許可」という言葉が出てくる時点で、母親が言う「あの人」は、自分たちより重い存在なのだ。大人たちに交じって社会で働き始めた長男には、それがたやすく理解できてしまった。
それに、「少ししたら帰るから」と、母親は言った。「この家に帰ってきた」のではなく、「この家から帰る」と。母親の帰る場所は、この家ではないのだ、と。
母親の中にある天秤は、今も、自分たちには傾いていない。自分たち兄妹は母親の心の大事なところに置かれる存在ではないのだと、長男は突きつけられてしまった。
「出ていけ!」と、すぐにでも叫びたかった。こちらももう、母親を心の大事なところに置いておく必要はないのだ。彼には、一番に考えなければならないものがあるのだから。
「ここはもう、あんたの家じゃないんだ」と、長男は拳をにぎりしめて、母親を追い出そうとした。しかし、それを幼い三人の弟妹たちが止めた。
「やめて、お兄ちゃん。お母さん、かわいそうだよ」
「そうだよ。おそと、ユキでまっしろだよ」
「おかあさんのこと、ゆるしてあげて、おにいちゃん」
十二歳の妹と、九歳の弟と、七歳の妹にそでをつかまれた長男は、その小さな手を振り払えるほど冷酷になることができなかった。母親のことは許せなくても、長男にとって妹と弟は、かけがえのない宝だ。
母親が帰ってきたことで、弟妹たちは笑顔になった。「母親のおかげ」というのが悔しいところだったが、笑ってくれるならそれが一番いい、と長男は思っている。
かわいい弟妹たちのために、彼は、ぐっとこらえて母親を奥の部屋に通した。
その夜、母親は兄妹たちに鍋を作った。記憶に残っていた母親の味に、弟妹は大喜びした。長男も、一口食べた瞬間に母親の味を思い出したが、妹たちのように「おいしい」とは言わなかった。
たしかに、自分が妹たちに作ってやる料理に比べたら、何倍もおいしいと思う。しかしそれを言葉にして認めてしまえば、これまで、親のいない家庭で懸命に守ってきたものが、音を立てて崩れてしまうような気が、彼はしていたのである。
下の弟妹二人は、自分の器が空になると、母親に「とって! とって!」とせがんだ。長男がとってやろうと手を伸ばすと、妹は器をサッとひっこめた。
「おかあさんに、とってもらうの!」
七歳の妹の無邪気さが、長男の胸をえぐった。
「にんじんは入れないでー」
「ぼく、つみれ食べたい」
「はいはい、わかったから。順番ね、順番」
右から妹に袖を引かれ、左から弟に腕をつつかれ、母親は苦笑まじりに鍋から具をよそう。その光景を目の前に、長男はひたすら箸をにぎりしめていた。
「よそってあげようか?」
そのとき、母親がおたまを持ったまま、もう一方の手を差し出した。差し出された十二歳の妹が、口に運んだばかりだった野菜をごくりと飲み込む。
「あ、え……。でも、まだ入ってるし、あとでお兄ちゃんによそってもらうから、いいです」
その言葉に、母親は「そう」とかすかに笑って、あっさり、おたまを置いた。食べ始めようとした矢先、下の妹が箸先からシイタケを、ひざの上に落としてしまう。
母親に「しょうがないわねぇ」と言われながら嬉しそうに笑う妹……。ほっぺたにつけたつみれのカケラを、母親にとってもらって、くすぐったそうにする弟……。
「お兄ちゃん」
妹に呼ばれて、長男ははっとした。もう少しで、手の中の箸が折れそうだった。
「最後、おうどんにする? お兄ちゃん、雑炊より、おうどんのほうが好きだよね」
「あ、あぁ」
長男が無意識にうなずいたのを見て、十二歳の妹が台所へうどんを取りに立つ。その足音を聞いて、ようやく、気をつかわれたのだと長男は思い至った。妹は雑炊のほうが好きなのに、うどんを選んだことも、母親がおたまを持って差し出した手を、「あとでお兄ちゃんによそってもらうから」と言って断ったことも、すべて妹が自分に気をつかってのことだとわかった。
「空気を読む」とか「遠慮する」とかということが、十二歳の女の子にもできてしまう。それはいいことなのかもしれなかったが、年歳の離れた妹に自分がそうさせてしまったことが格好悪くて情けなくて、長男は、器に残っていたくたくたの白菜を、無言で口の中にかきこんだ。
鍋がすっかり空になると、下の二人はすぐにうとうとし始めた。温かい鍋に胃袋を満たされれば、無理もない。母親は「しかたないわねぇ」と口もとをゆるめ、手際よく子どもたちを寝間着に着替えさせると、布団に運んだ。
ふだん、しっかり者で家事も手伝ってくれる弟と妹が、このときばかりは母親に甘えていた。当然のことだと頭では理解していても、長男はずっと、唇をかんでいた。
下の二人が眠ったのを見て、そばに寄り添っていた母親は起き上がった。そのまま家を出ていこうとしたのか、上着を手にした母親を見て、長男はほっと胸をなで下ろしたのだがそこに、まだ起きていた上の妹が、すがりついた。それは、今まで兄にも弟妹にも母にも気をつかっていたぶん、張り裂けそうな声だった。
「行かないで、お母さん! もう、あたしたちのこと、置いてかないでよ……」
涙の浮かぶ瞳に見つめられ、困り果てたかのように、母親がちらりと長男を盗み見る。白々しい、と長男は思ったが、それでも出ていけと言うことは、彼にはできなかった。母親のことより、妹のことを思えば、言えるはずもなかった。
「一晩だけ……今夜だけなら、泊まっていけばいい」
ぶすっとした表情のまま長男が言うと、母親は、また口もとに笑みを浮かべて、娘の頭をなでた。
「よかったね。お兄ちゃんが許してくれたよ」と、そう言って妹をなでる手は優しく見えるのに、どうしてあの日、同じ手で我が子たちを突き放せたのだろうと、今さら思ってもしかたのないことを長男は思った。
長男は渋々、居間の畳に布団を敷いた。その布団は、かつてこの家で母親が使っていたものだ。母親が出ていったあとも親戚が様子を見にきたついでに泊まっていくことがあったので、そのままにしていたのである。まさか、これをふたたび母親が使うことになろうとは。
複雑な思いをめぐらせながら長男が用意した布団を見て、母親は「あらあら」と目を丸くした。
「あなたも、すっかり大人になったのね」
誰のせいで、と怒鳴りそうになったのを、長男は必死でこらえた。隣の部屋では、幼い弟妹たちが眠ったばかりだ。不穏な声で起こしてしまうのは忍びない。
「明日になったら、出ていってもらうから」
せめてもの抵抗に、いつもより強く、ふすまを閉めた。そのまま自室に戻った彼は、いろいろなものを恨みながら布団にもぐり込んだ。冬の夜にひたされたせいか、たっぷりと詰め込まれた綿の奥まで布団は冷えきっていた。
翌朝、長男は、末の妹の悲鳴にも近い声で
居間に敷いた母親の布団に、眠っていた当人の姿がなかったのだ。
「おかあさんが、いないー!」
「ぼくたちのこと、もうおいてかないでよぉ……」
妹の泣き声に引きずられて、弟もめそめそし、うなだれている。上の妹は声を上げも泣きもしなかったが、握りしめた拳が赤を通り越して白くなっているのを見て、長男は胸にきしみを覚えた。
──あの人は、なんで今になっても。
「あっ、おにいちゃん!」
聞こえたのが妹の声だったのか、弟の声だったのか、判然としないままに長男は家を飛び出していた。
一昨日降った雪が、まだ薄白く道を染めている。しかし、それはたくさんの足に踏まれて、特定の誰かの足跡をたどることなど、とうていできるはずもない。あてずっぽうで、長男は駆けた。駆けるたびに口からもれる吐息が、即座に空中で白く凍ってゆく。
「自分の母親なら、こっちに行くだろう」という勘も働かないことが、運命なのかもしれない。そう思いながら、それでも、長男は走った。妹たちの顔を思えば、走るしかなかった。
しかし、空へ昇る前に吐息を凍らせてしまう寒さは、
このままでは、体を壊してしまう。万が一、自分が倒れるようなことがあれば、幼い弟妹たちはどうなってしまうのか。それを思うと、無茶はできなかった。今もきっと、どうしていいかわからずにいるに違いない。木陰に残された季節はずれのセミの抜け殻のように、母親が残していった布団のそばで。
長男は、家への道を駆け戻った。凍えた手足に無理やり力をねじ込んで、泥のまじったみぞれに靴が汚れるのも気にせず、家への道を駆け続けた。帰らなければならない。自分にとって大事なぬくもりの残る、あの家へ──
「あ、おにいちゃん!」
道の先から、よく知った声が彼を呼んだ。二人の妹と弟が、ただひとりの兄を追って家から出てきたのだった。雪の名残で白くかすむ早朝、それぞれに赤と濃緑と黒の上着を着た弟妹の姿は、長男の目にも入っていたはずである。
しかし、彼が足を止めることはなかった。
走る速度をゆるめるそぶりも、弟妹に視線を向ける気配もないまま、そればかりか三人に泥が跳ねるのにも気づかない必死の形相で、長男は我が家に戻ることばかりに意識を注いでいたのである。
こちらの声に気づいて立ち止まるものとばかり思っていた三人の弟妹たちは、兄のただ事ではない様子に、とまどった。「おにいちゃん」と呼んだあと、続けて声をかけることもできないまま、
一方、靴を脱ぎ散らかして家に戻った長男は、荒々しい手つきで居間への戸を開けた。そこには、母親の抜け殻のような布団がまだ残されている。弟妹たちには、高さのある押し入れに布団を片づけることができなかったのだろう。片づけるという発想自体が、なかったのかもしれない。いずれにせよ、長男にとってそれは幸運なことだった。
長男は、凍えた両手を迷うことなく、布団の中につっ込んだ。そこにはまだ、眠っていた母親のぬくもりが残っているような気がした。
母親の体温を感じてしまった瞬間、長男は、全身から力が抜けたかのように、そこから動くことができなくなった。とたんに、まぶたを乗り越えて
「かあさん……!」
母親がいなくても、兄妹四人で生きていける──。ことあるごとにそう胸を張ってきたのは、母親への当てつけのつもりだった。しかし、そうではない。そう思わなければ……、そう自分に言い聞かせなければ、母親がいない毎日を前に心が折れそうになるからだ。
子どもを捨てた母親なんて、自分の心の大事なところに置いておくだけ無駄だ──そう思い込まなければ、「自分が、母親の心の大事なところにもういない」という事実に、負けそうになってしまう。
母親の作る鍋の味を「おいしい」と思っていても、その言葉を口にすれば最後の糸が切れてしまいそうで、何も言うことができなかった。
帰ってきた母親に甘えて眠る弟妹たちを前に、唇をかみしめていなければ、弱い本音がこぼれてしまうに違いなかったから。
泊まることを許した。布団を敷いた。弟妹たちが「どうしても」と言うから、というのを言い訳にして、本当は、弟妹たちが母を懐かしんでグズってくれたことにほっとした。
居間に母親の姿がないとわかったとき、ベソをかく弟妹を置いて飛び出したのだって、弟妹たちのためではなかった。
あの人は、なんでまだ、自分の心の大事なところから消えないんだろう。
「かあさんっ!」
母親の体温が残る布団に顔をうずめ、母親のにおいを懐かしむように、長男はただただ声を殺して泣いた。
(原案 菊池寛・田山花袋 翻案 桃戸ハル・橘つばさ)