天使嫌い
天使は、命の灯が消えそうな人間のもとへ降り立ち、その人間の魂を抱いて、天へと戻ってゆく。
一人の天使が一度に運べる魂の数は多くない。だから、流行病や大きな戦争では、空に何百何千という数の天使が、人間の魂を運ぶために現れる。人間の魂を、正しく天に導き救う──それが、天使の仕事なのだ。
人間は、天使の邪魔をしてはいけない。それは絶対のルールだ。天使に連れ去られる魂が、たとえ愛する家族や恋人、友人だったとしても、私たち人間が、天使を止めることはできない──はずなのだけれど。
天使嫌いの、とある医師は、「翼を切るぞ」と脅しつけ、今日も天使を追い払おうとしていた。
私が看護師として配属されたF地区第四野戦病院は、今日もひどい有り様だった。
戦場で負傷した兵士を収容するこの病院は、すでに二千人を超える患者を抱えている。医師がたった五人しかいない現状では、まともな治療は到底無理だ。私たち看護師と衛生兵は合わせて百人くらいはいるけれど、それでも人手はまったく足りない。
病院設備も粗末なもので、急ごしらえの木造病舎には、下水道も整備されておらず汚水の処理もままならない。屋根は雨もりし、床は割れ、壁からすきま風が吹く。
どの病室にもびっしりとベッドが並べられており、手や足を
看護師養成学校を卒業したての私にとって、ここでは、目に映るすべてが地獄そのものだ。目を覆いたくなるけれど、目を覆ったところで、臭いや声から逃れることはできない。むせかえるような血の鉄臭、鼻をつくような
夜の巡回は、まだ半人前の私の重要な仕事の一つだ。患者ひとり一人を見て回り、緊急処置の必要な患者がいれば、医師を呼ぶ。死亡している患者がいれば、衛生兵に依頼する。彼らが死亡した患者をどうするかは知りたくない。そして、危篤状態の患者に対しては……そこには、必ず天使が迎えに来ているはずだ。天使に出会ってしまったときは、静かに見て見ぬふりをしなければならない。そして天使が仕事を済ませて飛び去った後、衛生兵を呼んで「依頼」をするのだ。できることなら、天使にだけは、会いたくない。
「うぅ、ああぁ」と、一人の患者が獣のような叫び声をあげていた。右腕を失った患者だった。「痛い、痛い」と身もだえしながら、ベッドから転げ落ちそうになっている。幸い、天使は来ていなかった。私はその患者に歩み寄り、背中をさすりながら声をかけた。
患者は荒い息の下で、苦しげに言った。
「痛い、切り刻まれるみたいだ。手が! 手が!!」
「ここですか?」
私は、患者の左腕をとり、手首をゆっくりさすった。
「違う、左じゃない。右だっ!!」
──右の手首?
私は思わず首を
「何をしている。早く薬を取ってきてくれ!」
後ろから、厳しい口調で声がかけられた。振り向くと、一人の医師が、
その医師は、上背のある、やせた体をまっすぐに伸ばした、年若い医師だ。美しい顔立ちをしているが、目つきが鋭く無愛想な印象だったため、なんとなく避けてしまい、これまで彼と会話をしたことはなかった。夜の巡回は医師の仕事ではないはずだが、彼はなぜここにいるのだろうか。
「薬品庫から鎮静剤のアンプルと、注射器材を。早くしてくれ。それが君の仕事だろう!!」
必要書類に署名をすると、医師は私にそれを荒っぽく渡す。私は書類を受け取ると、大慌てで指示された物を取りに走った。
「ご苦労」
私が戻ると、医師は無愛想にそうつぶやいて、注射の準備をはじめた。薬液が入ったガラスアンプルを折り開け、注射針で吸い取っていく。
「君は看護師なのに、幻肢痛を知らないのか?」
医師は作業の手を進めながら、ちらりと軽く私をにらんだ。
──げんしつう? そんな言葉、初めて聞いた。私は恐縮して頭を下げた。
「手や足を失った患者に起こる、欠損部位の幻の痛みだ。『ファントム・ペイン』ともいう」
「幻の痛み……ですか?」
注射筒の空気抜きをしながら、医師は私に教えてくれた。
「たとえば足を失くした患者が、すでに存在しないはずの爪先が痛いと訴えたりする。実在しないその部位が、なぜか痛いと感じるんだ」
淡々とそうつぶやいて、医師は患者に鎮静剤を注射した。痛がって暴れるその患者を、私はしっかり押さえてなだめた。やがて薬が効いてきたようで、患者の顔は徐々に和らぎ、まどろみはじめた。
「これでよし」
そうつぶやいて、かすかに表情を緩めた医師の顔を、私は黙って見つめていた。
──ひょっとしたら、優しい人なのかもしれない。
私の視線に気がつくと、医師はまた不機嫌そうに顔をしかめた。
「俺は、こちらの病室を見回っておくから、君は他の病室を回ってくれ。死にそうな患者がいても、絶対にあきらめないで、俺に教えてくれ!」
「わかりました」
私は病室を出て廊下を渡った。左右の壁に数メートルの間隔で取りつけられた燭台の上で、ろうそくの灯が揺れている。暗闇の中を歩きながら、私は少し
──私もがんばろう。大きい歩幅で力強く、次の病室に踏み込んだ、そのとき。
私は、出会ってしまった。最も出会いたくない存在──天使に。
「あ……」
さぁ、と血の気が引いていく。とても美しい天使が、表情もなく、そこにいたのだ。
ふぁさ、ふぁさ、と、翼で穏やかに宙をかき、床から一メートルほどの高さに浮いている。とある患者のすぐそばで、天使はその患者を見つめていた。待っているのだ。この患者の死の瞬間を。その患者は土気色の顔をし、ひゅう、ひゅう、と異常な呼吸で横たわっていた。
私がするべきことは何? あの医師に助けを求めに行くべきなのか。……でも、何かが私の足をすくませた。
天使が迎えにきたのなら、誰も邪魔をしてはいけない。そういうものなのだ。この野戦病院でも、戦場でも、あるいは平和な日常だったとしても……。人が死ぬとき、天使は必ず現れる。医療は患者を救うけれど、それは天使の迎えが来ない患者に限った話だ。天使が来たら、私たち医療に従事する者は、患者を天使に渡さなければならない。
──そういうものなのだ。
やがて天使は、その患者の手をそっと握った。次の瞬間、患者の体からゆるりと光の玉が抜け、天使がそれを両手でそっと包もうとした。私は、唇を
ばたんと扉を強く開いて、あの医師が病室に踏み込んできた。
「俺の患者をかすめとろうだなんて、いい度胸だ!」
それだけではない。私は自分の目を疑うほどの光景を見た。医師が、天使を殴りとばしたのだ。
天使は床に尻もちをつき、ひどく驚いた様子で美貌をこわばらせている。
人間が天使に暴力を振るうなど、とんでもない話だ。そもそも、人間が天使に触れられるとは思わなかった。それは、天使にとっても同様だったのだろう。
「……何をするのですか?」
天使が、ためらいがちにそう言った。天使が声を出せることも、私は今まで知らなかった。
「目障りだ! とっとと消えろ!!」
医師は窓を開け、天使を窓から追い出そうとした。
「どうして、私の邪魔をするのです?」
「天使が大嫌いだからだ! なぜお前たちはすぐにあきらめる!! 人間が死ぬのを待っているだけなら、お前たちは、死神と一緒だろう!!」
医師は天使を外に追いやって、勢いよく窓を閉めた。
「これ以上、俺の目の前でうろつくなら、お前の翼を切り落としてやる!!」
窓越しにそう怒鳴りつけると、医師は天使に背を向け、治療をはじめた。
壁も天井もすり抜けて現れるのが天使だ。窓から閉め出されても、簡単に戻ってこられるに違いない。しかし天使は、医師を警戒している様子で窓から中をのぞき込むだけだった。
医師の処置で、患者は奇跡的に息を吹き返した。天使はそれを不思議そうな表情で見つめていたが、そのうち、いなくなってしまった。
医師は一息つくと、私をにらんで顔をしかめた。
「なぜ、俺を呼ばなかったんだ。何かあれば、すぐに呼べと言っただろう」
「だって、天使が……」
「天使なんて、無視すればいい」
「先生、正気ですか!? 天使の邪魔をしてはいけない、なんてことは、絶対的なルールです。看護師養成学校でさえ、そう教えられました。天使が来たら、もうあきらめるしかないんだと。私だって、患者さんの命を救えないのは悔しいです。でも、もう助からないなら、せめて魂が天国に運ばれてほしいと思います!」
医師は、さっき天使に対して見せたのと同じ険しい表情になって言った。
「患者が、そう言ったのか!?」
「え?」
「患者自身が、『自分は死んで天国に行きたい』と言ったのか? それに、誰が『死ぬ』なんて決めた? 天使が来たら、死ぬのか? なら、なおさら、
「『誰が決めた』って、そんなの、みんなが知っていることじゃないですか!?」
私も興奮して言い返した。
「みんなが言っているとかは関係ない。君がどう思うかだ。患者を治している最中に、横から命を奪われても、悔しくないのか? 理不尽なことには、きちんと立ち向かえ!!」
そう言われても、簡単にはうなずけなかった。
「すまん、言いすぎた。君だって悔しいんだったな」
そう言って黙り込んだ医師に、私はおそるおそる聞いた。
「先生は、どうしてそこまで天使が嫌いなんですか?」
「君は、嫌いじゃないのか」
「嫌いというか……天使は、『運命』ってことですよね。私たち人間が逆らえる存在ではないでしょう?」
「俺は嫌いだね。あいつらは、自分たちの存在に疑問を持っていない。それこそ、自分たちが運命を
「そうじゃないんですか?」
「違うね。運命は、その人間のものだ」
医師は、はっきりと言い切った。
「天使だって本当は、自分の頭で考えることもできるし、感情も持っているんだ。なのに、いつでも澄まし顔で、事務的に人間から魂を抜いて運ぶだけ。それが『救い』だなんて、笑わせる。本当に救うつもりなら、まずは、どうすれば生かせるのかを考えるのが筋だろう? どうして、そう考える天使がいないんだ?」
そう言いながら、医師は、テキパキと患者に処置をほどこしている。
そのとき──
「…………っ」
医師の顔が、不意に
「先生!? どうしたんですか?」
医師は、激痛に身をよじる患者と、同じ表情をしていた。
「どこか痛むんですか?」
「心配するな。ただの幻肢痛だ」
──幻肢痛? 医師の身体に、欠損しているところなど、ないように見える。
痛みに震える患者にするのと同じように、私は医師の背をさすった。そして──異様な感触に気がついた。左右の肩のうしろ──
「一応、言っておくが……」
私が顔を凍らせていると、医師が、親指で自分の背後を指さし、力ない声で、しかし、誇らしげな表情で言った。
「俺は、誰かにやられてこうなったわけじゃない。自分で、切り落としたんだ。人を救うことができない翼なんか、あっても邪魔なだけだからな」
(作 越智屋ノマ)