三 愛だけが確かで



「あぁ、やっぱりそうなったんだ」

 話を聞いた死神はそううなずいた。

 殺人株式会社マーダー・インクが設けた会議が文字通りに粉砕された翌日、目が覚めたらガレージの中に死神が入り込んでいたのである。

 時刻は既に夜にさしかかっており、家には誰もいなかった。何か特別な力で侵入してきたのかと思ったが、よく見ればシャッターの一部が破壊されていた。バールか何かをぶち込んで鍵を壊したらしい。いっそ超能力であってくれよと心底思った。

 ともかくとして、寝起きの頭で求められた説明をし、結果として見られたその死神の反応が妙に気にかかる。

…………なんだか、予想はしていたみたいな雰囲気ですが」

「そうなるかなぁとは思ってたよ。だから昨日強い力が使われた気配がして、今日ここにきたわけだし」

 そういう死神の態度にれんは見ることができない。

 表情で先を促すと、死神は手の中でくるりとナイフを回した。どこから説明をしたものか迷うように彼女はうつむいて、それからおもむろに口を開く。

「世界っていうのは押し合いなんだ。君はもう知っているよね。ぼくは最近自覚し始めた」

「僕もルーミーから聞いたのは割と最近のことですよ」

「理解しているならいいんだ。みんなが同じ力で押し合っているから世界はこの形をしている。ぼくみたいに、人よりも多くその力を持っている体質の人もいる。ちなみにこの押し合いの結果生まれた余剰の力が集まったのがサムだね」

「そう聞くとまるでラジエーターみたいですね、あの子は」

 機械の運動に伴って内部に発生する、過剰な熱を放出するための機構の名前を挙げると、死神はこくこくとうなずいた。

「あぁ、うん。らじーえーたー。あの子はそんな感じだね。怪物としての能力に名前がないままだと不便なら、そう呼んであげればいいんじゃないかな?」

「お前、今すごい適当にうなずいてませんか?」

 彼女のてのひらの上でナイフが回る。物理的にあり得ない軌道を描いて回転し続けるそのナイフには、ささやかながら超常の力が働いているのだろうか。

「話は変わるけど、いや、変わらないんだけど、ぼくはルーミーを切ることができる。それは知ってる?」

「君たちのじゃれ合いに口を突っ込む気はないですけど、はい」

 ルーミーが頻繁に服を買っていることも、時折袖や襟が切れた服を捨てていることはシーモアも知っている。

 死神に会いにいった時、たわむれに斬り殺された際の影響だ。シーモアからするとひどく悪趣味な遊びだが、それはあまりにも人間的な尺度の押しつけというものだろうか。

 緑色の視線がこちらを向いた。

「ぼくはルーミーを切れる。切れた。でも、それはどうして?」

「どうしてって…………

「ぼくの殺意は人間にしか適用されないのに。これは、君はよく知っているよね」

 思わずまばたきを一つした。

 そういえば、そうである。死神がその力を振るうことのできる対象は厳密に人間へと限られている。怪物の心臓を持っているだけのシーモアですらその対象外になるほどだ。

 だが死神はルーミーを切っていた、はずだ。

「切れる…………素の身体能力で? いや、君、体力自体はですもんね」

っていうなよ。だけどさ」

「ならどうして切れるのか…………ん? 今、切れたって表現しました?」

「そうだね。少し前までは切れた。今はもう、切れない」

 死神がぽいとナイフを壁に向かって投げた。

 回転しながら飛んだナイフは、柄の方から壁にぶつかって、刺さることなく落ちた。

「なぜなら、ルーミーがようやく一人前になったからだよ」

「どう見ても彼女は成熟した女性だと思いますけど」

「それでも生まれたばかりの最新の怪物だよ…………最新はもうサムに更新されたんだけどさ。ともかく、あの子は若く、幼い」

 だから、と死神は息を継いだ。

「あの子はこれまで世界に何も望んでいなかったんだ」

………………

「世界に対して期することがなかった。世界にどうあって欲しいとも思っていなかった。押し合いで成立する世界で、どの方向にも何一つとして押していなかった」

 不意にシーモアは思い出す。

 出会ったばかりの、美しくもどこか空疎なルーミーの姿を。最近ようやく人のように普通に生活をしている雰囲気が生まれ始めた彼女のことを。

「さすがに吸血鬼として振る舞っている時は別だったけど、誰ともいない時とかにはあの子はもう誰でもなかったんだろうね。人間とかが無意識に周囲に押しつける程度の世界への願望ですらあの子は抱いていなかった。押し合いの世界で、何も押していなかった」

「だから本来対象にならないはずの君の能力ですら切ることができた、ということですか?」

「そう理解してくれていいと思うよ。この世界のあらゆる存在がベクトルとして表現されたならば、ルーミーは大きさはすさまじいけど、向きがなかった。だから存在としてはないに等しいくらいにはかないものだった」

 だった、と死神は話を区切る。

「それももう過去の話だけど。世界で色んな経験をして、色んな人に知り合って、彼女は変わった。ルーミー・スパイクとしての人格はもう一個人と呼べるくらいに明瞭だよ」

 周囲に誰もいなくても、何をしているわけでなくても、確かにルーミー・スパイクとしてあり続けている。

 だからもう死神の能力の例外たり得なくなった。

 そのことをしっかりと考えてから、シーモアは首をかしげた。

………………あれ、悪い話には聞こえませんね」

 むしろ一個人としての彼女を尊重しようとしていたシーモアからすれば喜ばしいくらいだ。

「うん。別に悪い話として君に聞かせたつもりはないよ」

 ぱしり、と死神がナイフをつかった。

「でもその昨日の騒動とこれは全く同じ話ではある」

「全然そういう風には脈絡が見えませんが」

「見える。見ろ。そもそもとしてルーミーは能力に対して願望が少なすぎたんだ。人としての意識が薄くて、望みが何もないから、能力をまともに使ってもこなかった。だろ?」

 見てきたように指摘をする、と思うがそれは間違いない事実だった。

 彼女が本気でその能力を使えばもっと多くの人が死んだり、もっと多くの人が彼女に従ったりしていただろう。望めば吸血鬼の名を冠する国だって建てられるに違いない。だが、そうはなっていない。

「けれど彼女はもういつでもルーミー・スパイクで、いつでも君を心配している。世界に対してそうあって欲しいと願い、実現する能力をルーミーは持っている」

「つまり、その、なんです。ルーミーは僕を心配するようになったということですか?」

「というか、心配した時にどうするか、自分の心を世界に押しつけることを知ったんだよ。そして心配した相手を守ることができる能力も、彼女は持っていた」

 起きそうなトラブルを検知することも、そのトラブルを先んじてまとめてたたき潰しておくことも、彼女のスペックならば容易に達成できるだろう。

 だろうというか、できたのだ。

………………うーん。そのほか色んな問題がありそうで、結構状況がややこしいことは事実の上で一個だけいっていい?」

「どうぞ」

 シーモアはしゃがみ込んで、絞り出すようにいった。

「え、僕めっちゃ愛されてるじゃん。うれしい……………………!


「シーモアさん、昨日はごめんなさいね」

 そうルーミーが改めて切り出してきたのは、彼らの一日の終わり。もうじき夜が明けるという時間になってからのことだった。

 子供たちは既に眠りにつき、シーモアとルーミーだけがエセックスの天井に並んで腰掛けている。伏せられたルーミーの視線が、ちらりとこちらをうかがってくる。

「本当はあんなところを見せるつもりはなかったんですけど…………

「あぁ、謝るのはそこなんだね」

…………? はい。暴れている姿なんて、見て欲しいものではないですから」

 そこ以外に気にすべき点はあるような気がする。

 そもそもとしてひっそりと陰で動いて、マフィアを含めた障害たちをまとめてなぎ倒すというその行動自体を気にしなければならないと、そう感じる。

 だが、どうやらルーミーの視点ではそうではないらしい。

 吸血鬼の視点では。

………………

 今はそのことだけを記憶しておく。

 きっと不用意に触れるべきではない。そういう失敗を散々やってきたのだから。

………………。あぁいうこと、実は前にもやってたり?」

「いえ、やりたいと思うようになったのも、私がやらなければいけないようなトラブルがあったのも最近だけなので。シーモアさん、トラブルを避けるのが本当にお上手なので」

 ルーミー・スパイクにそういわれてしまうと、なんだかすごく高度な嫌みにも聞こえてしまうけれど。心臓をえぐられた時の傷跡をでながらそう思う。

「本来なら昨日のトラブルも僕だけで解決できるはずだったんだけどね。まさかあんなもうりようが湧いてくるとは予想外だったよ」

「この世界、あんなに怪物が潜んでいたんですね。人の歴史の長さを思えばそれくらい当然なのかも知れませんが」

「誤差みたいな人生が星の数ほど積み重なってるからね」

「シーモアさん、その言葉、根に持ちますね…………

「ルーミー的にはどうだった? なんか気になる相手とかいた?」

 シーモア的にはもう全部がお近づきになりたくないタイプだったが。

 強いていうのならば馬に乗っていた女の人はかなりの美人であったため、名前くらいは聞いておきたい。連絡先も交換できるならしておきたい。

 なんてことを考えているのがバレたのか、ルーミーがべったりとした視線を向けてくる。

「特には。全員、私よりもずっと弱いです」

「それな。結構強そうな人もいたのに、そんなに厳然たる差があるんだ?」

「生まれた世代が違いますから。人間の数が増えている以上、新しい怪物の方が平均値はどうしたって高いですよ」

 ましてルーミーはその増えた人類が行った、最大の戦争の結果である。

「あぁ、でもシーモアさんが気になっている女の人だけは面倒だと思います。あの人は乗っていた馬は怪物寄りでしたが、あの人は多分人間なので」

「ただの人間には見えなかったけど…………いや、死神みたいなのか」

「恐らく。面倒ではあっても私に勝てるほどではありませんが」

 淡々とした声音はその内容の不遜さをほとんど感じさせない。

 そしてその言葉はかなり事実なのだろう。今日一日、マフィアどころか彼らも姿を見せなかったことが、ルーミーの存在が抑止力として強烈に働いていることを証明していた。

 つらつらと思い悩むシーモアの手に、白い指がからみついてくる。

「もう終わった話ですよ。あの人たちがシーモアさんの邪魔をすることはもうないので」

「君がずっと僕のそばにいてくれるなら、そうなるよなぁ」

「はい。そして私はずっとシーモアさんを守るので」

 うそ偽りのない言葉なのだと心で伝わってくる。

「私たちが考えるべきなのはニベルコルさんたちのこととか、サムのことだと思いますよ」

「そういえばサムの正体もわかったことだけど、僕を許してくれる気になった?」

「うーん、結局、シーモアさんが他の女の人とばかり何か大事をやってるのは変わらないんですよねぇ」

 きゅ、とからまった指に力が込められる。

 反射的に『折られる』とおびえを覚えてしまう。

「シーモアさんはもっと私を大切にすべきなんですよ。そこのところわかってますか?」

「お嬢様、何をお望みでしょうか? 具体的には何したら許してもらえます?」

「んー、どうしましょうか。シーモアさんが気を遣って私を仕事に加えていないのはわかりますけど、私もそろそろ手伝いたい気もしますし────

 ルーミーが楽しげに将来のことを語り始める。

 足をぱたぱたとさせながら笑う彼女の顔は、こちらの胸を自然と温かくしてくれる。なんだかんだといいながら、今の生活を彼女も気に入っているのだろう。

 だから、間違っていないはずなのだ。

 ルーミーの力によって問題は終わりを迎え、シーモアは元の生活に戻ることができる。子供が一人増えたというのは、もしかしたらもっといい生活になったことを意味しているのかも知れない。

……………………

 だというのに、この落ち着かない胸の内はなんだろうか。

 自分は何か嫌な感覚を覚えている。

 その下の傷が治っていないとわかりながら、かさぶたが剝がれかけているみたいな。

 それがどうしようもなくじくじくと主張するのを感じながら、それでもシーモアは笑顔を浮かべ続けた。



「お久しぶりです、シーモア・ロードさん!」

 ベッキー・ラングレーはそういってほほんだ。

 マフィアも怪物たちも動かなくなった以上、シーモアはいつも通りに仕事を再開している。時折監視の目も感じられることがあるが、それはとても遠巻きでつつましいものばかりだ。

 まるで台風の目のような猶予期間。

 そう思ってから苦笑する。この街で最も台風という比喩がふさわしいのは、彼のガレージにいる吸血鬼で間違いない。ならばまさしくシーモアは台風の目の中にいる。

「お久しぶりです。改めてになりますが僕は運び屋のシーモア・ロード。こちらは仕事に協力してもらっているニベルコル・バーズアイです」

 中天から傾きかけた太陽が照らすカフェの席。隣に座ったニベルコルが頭を下げる。彼女がこうした話し合いの場に連れてこられることは少ないので、緊張しているのかも知れない。

 当時は彼女の名前など知らなかったが、シーモアの持つベッキーの印象といえば父親の原稿を取り戻そうと決意し、しようすいした姿だ。あの時は随分とひ弱な子に感じられていたが、こうして日の当たる場所で会うと、快活な学生らしさが漂う見目をしている。

 ベッキーはその細い眉毛を少し寄せた。

「お子さん…………ではないですよね?」

「訳ありでね。こんな街で運び屋なんてやっていると誰もが訳ありですが」

「なるほど。シーモアさんですもんね!」

 それがどう納得に対して作用するのかはわからないが、ベッキーの中ではきちんと折り合いがついたらしい。明らかに学校に通うべき年齢のニベルコルが仕事を手伝っているという点についての追及はそれで終わった。

「今日はほら、ベッキーさん的にも女の子がいた方が気が楽なんじゃないかなと思いまして」

「ありがとうございます。ニベルコルさんも、お時間をいただけてうれしいです」

 ベッキーがシーモアと同列のように扱ってくれたのが功を奏したようだ。ニベルコルの肩に入っていた力が少し抜けるのがわかる。

「気にしないで。というか、これが過保護なせいで私の仕事が少ないんだもの。これを機に色々任せてくれるようになるなら万々歳よ」

 生意気をいっているニベルコルの頭をぐしゃぐしゃとまわす。

 それにしても、今日の用件はなんだろうか。

 学生の少女がシーモア・ロードのような怪しげな運び屋に頼るのは普通の事態ではない。まさか教授にレポートを出して欲しいとかそういう訳でもないだろう。

 ベッキーはなかなか用件に入らない。ただそれは彼女の中で決心に少し時間が必要なだけなようなので、強いてシーモアから水を向けることもなかった。しばらくの間は少し前にあった死神騒動や、つい先日起きた大規模なマフィアの抗争のような、殺伐としながらもこの街ではたわいもない会話だけが続く。

 ようやくベッキーが本題を切り出したのは、シーモアが二杯のコーヒーを飲み干して内心でげっそりとし始めた頃だった。

「あの、実は私、お父さんの後を継いで仕事を始めたんです」

「お父様の仕事というと脚本家ですよね」

「はい。お父さんがいなくなって色々厳しくて、はしたないとは思いながら知人に自分の書いたものを送ってみたら、お仕事をいただけることになって…………

 誇らしさと恥ずかしさの入り混じった顔でベッキーがうつむく。

 仕事の時には大抵お世辞と社交辞令を使いこなしているシーモアだったが、珍しいことに本心から驚きと賞賛を口にした。経緯の説明自体は簡単なものだが、それで仕事をもらえるようになるのは並大抵の能力ではないだろう。

「それはすごいですね! ラジオのお仕事をお父様はされていましたっけ? もうどこかで聞けたりとか…………

「あ、いえ、まだそういう段階ではないんですけど」

 いじ、と前髪を触ってうつむいたベッキーの顔が、僅かに曇る。

「ただその、やっぱりこのとしで、しかも女が首を突っ込もうとすると、どうしても色々とトラブルが多くてですね…………

「あー…………。ですよね。ベッキーさん、大変わいらしいですし。こんな方が脚本を書いているなんて聞いたら、僕も毎日ラジオの前に座ってしまいそうです」

「えへへ、内容でそうなれれば理想的なんですけど」

「まぁ、ですが、用件はおおよそ理解しました。つまりベッキーさんに代わって原稿を出したり取ってきたり、そういうことをすればいいんですね?」

「はい。もちろん後ろにいるのが私なことは隠しきれませんが、それでも男の人に前に出ていただければ少しは仕事も取りやすくなるかなって」

「なるほど」

「ちなみにシーモアさん、しつけなんですが実はそういう仕事をご存じだったり、あつせんできたりとかは…………

「期待しないでください。僕の仕事はただの運び屋ですし、このご時世に偶然仕事が舞い込んでくるというのはよっぽどの幸運が必要ですよ」

「ですよねー…………

 正直に感想をいうのならば、利率がいいとはあまりいえない。

 ある程度代理人としての振る舞いを求められるのならば必然的に拘束時間は長くなるだろうし、いくら仕事を始めたとはいえベッキーの払える金額には限りがあるだろう。

 だが、そこからラジオ関連の業界に首をつっこめっるのはかなり大きい。

 これまでシーモアがほとんど近づくことがなかった業界だ。そこから業界内の別な仕事につなげられるのならば、会社としての利益を合法的に増やしたい身にとってはこの上ない。そういう意味では直接的ではない利益はそれなりに見込めるだろう。

 そしてねんせねばならないことがもう一つ。

……………………

 初めてベッキーに会った時もそうだった。

 ラジオの発達以来、文章や物語の価値は跳ね上がった。メディアが増えたためにその分の需要が上乗せされているせいだ。

 ゆえに、今そのかいわいにはマフィアがうろついている。

 彼らは金の臭いがするところにはどこにでもあらわれる猟犬だ。だからベッキーの父親の原稿は彼らに奪われたし、ベッキーの原稿を運んだり、彼女の保護者のように振る舞うことは、マフィアに接触したり敵対したりするリスクを──程度は不明ながら──はらんでいる。

 この仕事が自分と自分のガレージにいる人々にどれだけ影響を与えるのかを見積もろうとする。特に悪い意味において。

 見積もろうとして、

……………………………………………………。いいか」

 小さくつぶやきシーモアは首を振った。

「わかりました。細かい打ち合わせはまた今度に回しますが、その仕事は受けましょう」

 ニベルコルが小さく目を見開いてこちらを見た。

 そうした小さな葛藤のようなものは、ベッキーには伝わらなかったらしい。彼女は子供っぽい仕草で身を乗り出してくる。

「ほんとですか!」

「女の子の真剣な依頼をに断ったりしたら、恋人が怒ってしまいますしね」

「あなたがそうやって色んな子に鼻の下を伸ばしている方が怒られると思うけど」

「仕事を受けても受けなくても鼻の下は伸ばすので」

 シーモアがそうすぱりというとベッキーは照れ笑いを浮かべ、ニベルコルは思い切りいきこぼした。


 次に会う日取りだけを決めてベッキーと別れた後、カフェの同じ席でニベルコルが出し抜けにいった。

「で、また何か面倒なことで悩んでるわけ?」

 彼女は指先に引っかけたカップをぷらりと揺らす。飲み干されたカップの底に残っていた滴が、テーブルに小さなマーブル模様を描く。

………………バレた?」

「臆病者のあなたが、あんな風に仕事を決めるなんて珍しいもの。ルーミーさんもちょっと雰囲気変わったし、どうせ何か考え込んでるんでしょ」

「そういわれてしまうと、僕がなんか悩むの大好きみたいだね」

「大好きでしょ。いっつもやってる」

 言い切られて苦笑する。

 そういうものを全て投げ出して生きてきた人生だったはずなのだが。

 大まかな説明をニベルコルにする。マフィアたちの抗争、サムの正体、現れた怪異たちと、そしてそれら全てを制圧したルーミー。

 ルーミーはシーモアのことを助けてくれた。

 間違いなく彼女はそのためだけに力を振るってくれた。

 だというのにその時のことを語ろうとすると自然に声が苦くなった。隠しようもないその陰りに当然気づいて、ニベルコルが薄く笑う。

「それが困りごとなの? 聞いた限りだと、とてもいい話に聞こえるのだけど」

 本当に、そのはずなのだ。

 だがあの夜の出来事が持つ意味はそれだけではない。それだけではないからこそ、今日もこうしてシーモアは眉間に寄りそうになるしわを抑えている。

「さっき、ベッキーさんの仕事。聞いていたよね」

「ええ。すごくスムーズに受けてたわね。珍しい」

…………。僕はあの子からの仕事をきちんと理解して、そこにあるリスクもちゃんと見積もった。見積もった上で、こう思っちゃったわけだ」

 テーブルに肘を突く。

 まぶたの裏に浮かぶのはあらゆるものが壊れた部屋の中で、こちらを見て笑うルーミー。

でもルーミーがどうにかしてくれるよね、って」

 吸血鬼は最新でこそなくなったが、依然として最大最強の怪物だ。

 彼女の前ではあらゆる障害が意味をなさない。台風に対して人間ができることは逃げるか祈るかくらいだし、どちらにせよそれは台風そのものには無意味なのだから。

「金銭的な問題ならともかく、マフィアとかそれ以外でも、危険性を見積もることにもう意味がないんだよ。だってルーミーが守ってくれるから」

 彼女が陰から守ると決めたのならば、それは間違いなく達成されるだろう。たとえばシーモアがベッキーから仕事を受け、大量のマフィアに狙われるリスクが発生したとして、それら全てを彼女は先んじて排除してくれる。

 そうできるだけの能力が彼女にはあり、むしろ今までそうしていなかったことの方が奇妙なほどである。

「それはいいことじゃないの? あなたはいつかにルーミーさんを仕事に使いたくないっていっていたけど────

 随分前のこともよく記憶している、と苦笑する。

 そうだ。シーモアはルーミーにそういう意義を与えたくなかった。まともに自分も世界も知らない彼女に仕事を手伝わせるのは、彼女の能力をあまりにもたたいているとそう感じていたせいだ。

────けど、今はもう違うじゃない」

 状況が違う。

 意味も違う。

 ルーミーは既に世間のことを全く知らない箱入りではないし、自分の願望をきちんと抱いた一つの存在として確立されている。何よりも彼女が動いたのは仕事ではない。

「そうなんだよね。別に僕としても、ルーミーの行動自体を否定する気はないよ。あの子が僕を守りたいと思うのは普通のことだし」

「じゃあ、その度が超していることとか?」

 ニベルコルはいつでも論理的で、思考の回転も速い。

 話の筋を見失わないので助かる、と思いながらシーモアはやはり首を振った。

「確かにあれはひどかったけど」

 マフィアも怪物もまとめて吹き飛ばしてしまう行為自体もそうだし、それを陰でこっそりとやって説明する気が一切なかっただろうこともそうだ。

 今回偶然、殺人株式会社マーダー・インクの協力とシーモアの運転で早くあの場につかなければ、彼女はあらゆる障害を破壊した後、何事もなかったようにいつもの生活へと戻っていたに違いない。

「けど、そこを怒る気もないかなぁ。あれはルーミーにとっては適切な行為なんだし」

 人間から見たらあの行為はひどく度を超しているように思える。

 だが吸血鬼にとってはそうではないのだろう。あの程度の力を振るうことと、日々の家事をこなすことの間に、彼女は区別がつかないに違いない。あまりにも膨大な力を持っているがゆえに、彼女は小指を動かす程度の行動と街を滅ぼすような行動の合間がひどく曖昧だ。

「僕らが日々の家事で頼り合っても怒らないみたいに、吸血鬼に対してあれを怒るのは、なんていうか不平等だよね」

 吸血鬼という存在に対して人間を強いすぎている

 少なくともシーモアはそう感じる。

「じゃあ………………結局あなたの思う問題はなんなわけ?」

 それを半ば予期しながらも、あえて問いかけてやっているという口調でニベルコルがいう。

 シーモアはコーヒー臭い息を吐き出し、適切な表情も思い浮かばないままに首を振る。

「でも、そのために僕は何を失うことになる?」

 これは本当にただの問いかけだった。

「失う…………

「吸血鬼の心臓を借りてから、僕は前よりも暗闇が平気になった。吸血鬼が本気で守ってくれるとしたら、確実に僕は何か変化する。何かを失う」

 その最初の一歩が今日の会話だ。ベッキーの仕事に対して本来ならば働かせるべきだった恐怖心が、全く動こうともしなかった。

 まだそれに気づける。

 だがやがてきっと、やがてはなくなったということにも気づけないまま、多くの機能や能力を鈍らせ、腐らせていくことになる。吸血鬼というのは間違いなくそれだけの影響力を持った存在だ。

 そうしたねん……あるいはゆうの感覚は、ニベルコルにはうまく伝わらないようだった。

「それ、何か困るのかしら」

「何か困るかといわれると、具体的に困るかどうかは全然わからないんだけど」

「あ、ルーミーさんが将来あなたを見放した時には、何もできなくなっちゃったあなたは困るのかも知れないわね」

「見放される前提でいわないで欲しいな」

 そもそもルーミーが自分にあいを尽かす未来というのは正直想像がつかない。

 長い人生のどこかではあり得るのかも知れないが、しかしそれを今疑う気にはなれなかったし、疑いが生じた時点であいを尽かされたのと同じではという気もした。

「ルーミーさんが悪い人たちを倒す前にあなたがやりたいことがあったとか? 後はルーミーさんの倒し方が気に食わなかったとか」

「困ったことに、僕にできることは何もないんだよ。特にこんな状況では」

 だからルーミーの助力は本当にありがたかったし、特にいうべきことはない。

 シーモアにできることはなかった。

 したいこともなかった。

 仮に事前にルーミーから助言を求められていたとしても、結局あの場の全員を吹き飛ばしてもらう以外に選択肢はなかった。

「ルーミーさんがあなたを助けることにも問題はない。将来見放される心配もない。やりたいこともない。やっぱりあなたのねんがわからないわ」

「正直にいうなら僕にもわからないけど、けど、確かに失われるものがそこにあるんだよ」

 ルーミーが本気になれば、シーモアのこの先の人生は限りなく穏当なものになる。

 あらゆる障害は先んじて打ち砕かれ、そこにあったことすら気づけないままだろう。散歩にでも行くようなへいたんで穏やかな道が続いていくに違いない。

 だが別にシーモアとて意図的にかんなんしんを背負い込みたいわけではない。

 わざわざマフィアどもの争いに首を突っ込みたいとは思わないし、怪物たちと会うような趣味もない。ルーミーが除外してくれるのは、見たくもないものばかりだ。

…………………………………………だけどなぁ」

 だけど。

 としかいえないような本当にさいな引っかかり。

 そうだったとしても、それで本当にいいのだろうか。この先何一つとして苦労やねんを抱えることもなく、ルーミーに助けられるだけの人生があって、いいのだろうか。

 ニベルコルが噴き出すようにして笑った。

「ほら、あなたはやっぱり悩むのが大好きなんじゃない」



「とりあえずマフィアどもに動きはなしだ。あいつらよほどこの前の一件が堪えたと見える。お前らと関係のない抗争までまとめて止まってるぜ」

 服屋の棚の陰から唐突に姿を現した、おおかみめいた男はそういった。

 彼の神出鬼没さにもようやく慣れてきた。ルーミーから聞いたところによるとこのおおかみめいた男もまた人外のうちの一種であるらしいし、そうとわかっていれば、多少の突飛さにも心構えができるというものである。

「へえ、この街の平和に少しは貢献できているみたいで何よりです」

「また心にもないことをペラペラと…………

 男が眉間にしわを寄せる。

 殺人株式会社マーダー・インクが用意してくれた会談をルーミーがまとめて破壊して以来、彼らがこうして街の状況を報告しにくることは日課のようになっていた。

 やりかけた仕事に対するアフターフォロー、であるらしい。

 正直にいって何割かはうさんくさいと思っている。殺人株式会社マーダー・インクというのはそこまであれこれと気を配ってくれるような素敵な会社だっただろうか。あの会談の前日に助けてくれたことも含めて、彼らの善意は居心地の悪さと気味の悪さばかりをもたらしてくる。

 だが状況を把握できることはありがたい。

 状況を把握できることがありがたいのだと、今はまだ思うことができている。殺人株式会社マーダー・インクが検知できるような問題が起きたならば、きっとその前にルーミーがたたき潰しているという事実を知りながらも、だ。

「じゃあな。お前らもあんまり暴れんなよ」

「僕らから騒動を起こしたことってほとんどないんですが」

 舌打ちを残しておおかみめいた男が棚の間へと姿を消す。彼も彼なりの仕事へと戻っていったのだろう。

 彼の残した強い煙草たばこの匂いを嗅いでいると、腰に軽い衝撃がきた。

「パパ! 誰とお話ししてるの?」

 サムがいつの間にか近寄ってきていたようだ。

 彼女はその短い腕をシーモアの腰にぎゅうと回してくる。シーモアは既に去った男の影を眺めてから、小さく首を振った。

「怖い女の人の犬かなぁ」

「犬? わんちゃん?」

「それはいい得て妙ですね」

 といったのはサムの後からついてきたルーミーである。彼女は明らかに、つい今までシーモアが誰と話していたのかを察した様子で鼻を鳴らす。

「実に犬みたいな人ですから、彼は。あ、シーモアさん。靴下を買い足そうと思うんですけど、色はどっちの方がいいですか?」

 差し出された方から適当に選ぶ。

 そういえば少し前は下着や靴下の色までこだわっていたはずだ、とふと思い至る。まだあらゆる女の子に好かれようと頑張っていた頃。しかし最近はこだわりも薄れてきてしまった。

 ルーミーがそばにいるからである。

 彼女を愛して彼女に愛されている以上、現状維持以上のことを望む必要性がなくなっている。少なくとも、こうした二択は最初からルーミーが選択肢を選んでいる以上、どちらであったところで彼女の趣味には最低限沿っているのだから、どちらでもいい。

 こうして徐々に、小さな思考のとっかかりを失っていくのだろう。

 最近もこういう話をニベルコルとしたな、と思って苦笑する。

 そう考えてしまうと、愛は惜しみなく与えるだなんて素直な言葉よりは、愛は惜しみなく奪うというひねくれた思想の方が信じるに値しそうだ。

 シーモアの選んだ方を手元のかごに加えてから、ルーミーは僅かに動きを止め、そしてサムの方をった。

「で、サムさん。あなたの服も買いますよ」

 それはシーモアにとっても、サムにとっても意外な言葉だった。

「え、買ってくれるの…………?

「問題は解決したし、これからもあなたはうちにいるんでしょう? ならいつまでも最初の服と、願いで出した服だけを着回すわけにもいかないでしょう」

 いって、妙な照れくささを感じたのかルーミーはぷいと顔を背ける。

 サムはしばらくの間ぽかんとしていたが、やがて花が咲くように笑みを浮かべた。シーモアに回していた手を放し、ルーミーの手を握る。

「えへへ! じゃあ見に行こう!」

「引っ張らないでください。行きます、行きますから」

 改めて離れていく二人の背中を見送りながらシーモアは一度首を振る。

 そろそろ頭の中身を日常に戻していい頃かも知れない。サムを死神の元に送り返す気がないのなら──どう考えてもそれは恐ろしいアイデアだ──彼女を組み込んだ生活を考える必要がある。少なくとも、今のその場しのぎの繰り返しに限界がきつつあるのは事実だ。

「やっぱり家なんだよなぁ…………

 首の後ろを擦ったシーモアの耳に、棚を挟んだ向こう側の声が届く。

「サムさん! とりあえず、ちゃんとした服を着ましょう!」

「えー、リンみたいな格好がいい! 楽そうだし!」

「女の子らしい格好にしてください。はしたないですから! リンさんもそろそろ注意しようかと思っていたところです!」

「ルーミーみたいなってこと? やだー!」

「やだーじゃなくてですね!」

 苦笑する。

「ねー、パパ! パパだってサムがかっこいい格好をしていた方がうれしいよね!」

 店中の耳目を集めてしまうよりも前に仲裁に入った方がよさそうだ。シーモアは棚をいくつか挟んだ位置でもめているらしい彼女たちの下へと歩いて行こうとして、

「パパ! パパってば、聞いて──────

 どさりと何かが倒れる音を聞いた。

「サムさん!?

 ルーミーの声。

 慌てて駆け出せば、視界に飛び込んできたのは服屋の床に倒れ伏したサムの姿だった。

「サム!」

「パ────けおっ」

 サムの喉が嫌な音を立てる。

 その様子は明らかに尋常のものではない。サムの頰には玉のように汗が浮かび、床に突き立てられた指はひどく震えている。

 そして、その瞳に異様な輝きがあった。

 緑色の目がりんこうを帯び、明るい店内でもそうとわかるほどに光っている。不規則な明滅はそれがサム自身によってすら制御されていないことを示すようだった。

「パパ──こ、れ、何か、変で────

 もう一度サムがく。

 同時に、どさりと先ほどとは別な音が鳴った。

 シーモアのすぐそばに落ちてくるものがある。それは何枚かの服であった。簡素なシャツ。古びたオーバーオール。それにワンピース……これはルーミーのものだと一目でわかる。

 ラジエーター。

 サムが異常な存在であることの証明。その能力。周囲の人間が願ったものをそのまま取り出すという力。

 だが、今は誰も願っていなかったはずだ。

 話の流れで連想くらいはしたかも知れないが、それらの服が欲しいだなんて誰も強烈な願いを抱くことはなかった。だというのに、それらは確かにここにある。どころか見ている前でさらに数枚の衣類が出現し、落下してきた。

 しかも、それらの衣類は何か異常だった。

 いや、何かではなく大きさが異常だった。

 まるでテントでも作り出せそうな布の面積をしている。形は全て普通であるのに、明らかに人間が着るサイズではない、その事実がひどく目につく。

 ひゅうとサムが苦しげなぜんめいを立てる。

「パパ、ルーミー、あ、熱いよ…………何か、これ………………

「お、おい、サム! サム!?

 何かひどく悪い事態に陥っていることはわかる。だがそれがなんであるかはわからないし、どうすればいいのかもわからない。

 シーモアにできたことはただサムの手を握ってやることだけで、それも彼女の嫌な熱を持った手が感じ取ってくれたかは謎だった。ルーミーがサムの背中を擦ってやる。逆説的に、彼女にもできることはないのだろう。表情に浮かぶ焦燥が、シーモアと同じような心理状態であることを示していた。

 増え続ける衣服。荒れ続けるサムの呼吸。

 明滅を繰り返す瞳の光。

 どうすれば、という言葉だけが頭の中にリフレインして、

「おっと。少し遅れてしまったかな」

 誰かの声が降ってきた。

 同時に何かの力のうごめきを感じる。こちらの心臓をまわすような気味の悪い鳴動。どこかから伸ばされてきた手が、サムの頭に触れた。

「っ!? 誰ですか!?

 はじかれたように顔を上げる。

 そこにいたのは奇妙なほどに縦に長い、不安さを覚えるような人影だった。その身長は二メートルを超しているだろうが、横幅はシーモアどころかルーミーよりも細い。まるで海藻のようにうねった黒い髪の毛をだらりと伸ばし、その顔は半ば覆われてしまっている。

 そこから片目だけがのぞいていた。

 緑色に輝く瞳が。

「お前………………!

 直感的に理解する。

 以前と違い人のような姿を取っているが、これはあの晩に現れた怪物だ。

 あの増殖する巨大な触手の塊。

「ああ、待った。そちらのお嬢さんも。ほら、敵意はないって」

 僅かに身を沈めたルーミーに対して、男は手を振ってみせた。その身体からだは材質の読み取れない真っ黒な、スーツめいた服装によって覆われている。

 男、あるいは触手がサムを指し示す。

「見てよ。むしろ私はこれでも助けにきたのだというのに」

 れば、サムの呼吸が僅かながら落ち着いていた。

 意識は既に失われている様子だが、少なくとも先ほどまでのような異常な発汗もけいれんも見られない。閉じられたまぶたの内側で目が輝いているということもなさそうだ。

「器を少しばかり補強させてもらったけど…………さて、話を聞いてもらえる感じにはなったかな?」

 いって、こちらの返答も待たずに男は頭を巡らせる。

 周囲にはいつの間にか多くの人が集まっていた。子供がいきなり倒れ、あれだけ大騒ぎをしたのだからそれも当然だろう。

「少し場所を変えようか。ちょっと騒がしすぎる気がするね」


 男の誘いを拒絶するわけにもいかず、辿たどいたのはガレージだった。

 眠り続けているサムを寝かせ、シーモアとルーミーは並んで立つ。その向かい側で、いかにも泰然自若とした様子で男はかべぎわに設けられた棚の上へと腰掛けた。

 男が緩やかに前髪をげる。

 その下には超自然の暗さが漂っていた。

「さて、私のことは好きに呼ぶといい。私は神、私は夢、私は暗闇。人々に望んで生み出され、やがて人々に封じられた力こそが私だ」

 ほんの一瞬だけその姿が膨大な何かと重なって見える。

 それは果てなく続く黒色であり、数え切れない触手であり、こちらを見つめ続ける瞳であった。やはり、あの夜にマフィアを蹴散らしていたあの触手で間違いないようだ。

「闇の人…………とでも呼べばいいんですか?」

 神、と名乗ってみせたそれに対して語りかけるのはひどく緊張した。これが本当にそうであるかは判断がつかないが、この世界には実際に神が出現し得る余地がある。

 男…………暗闇はあっさりと笑う。

「そう緊張しないでもいいだろうに。どんな言葉で自分を飾ったところで、所詮は昨日の新聞。壊れたこつとう品。道路を走りたがる馬さ。君の隣にいるその女の子にはかないやしない」

 シーモアはちらりと隣を見る。ルーミーもまた気が立った様子を見せているが、これは単にサムが倒れる様子を間近で見たせいかもしれない。

 つまり、今自分に求められている役割は警戒ではなく、状況を動かすことだろう。

「まぁ、それはそうですね」

 軽薄に見えることを理解しながら肩をすくめる。

「それで、事情については説明していただけるんですか?」

「もちろん。そのために私は夜分にお邪魔したのだしね」

 暗闇が僅かに首を傾けると、室内の影から触手が湧き出した。

 うねるその触手は棚よりも高いところまで伸び上がり、男の尻を支え、ガレージの天井すれすれまで持ち上げる。

「さて。世界の話をしようか。この世界はひどりんしよく家で、人間に先んじて合理的な形を選び取っていた。人が望んだから合理的になったというよりは、合理的な世界だからこそ人もまたやがて合理性を身につけていったとでも理解すべきなのだろうね」

「どういう意味です? あまり難しい話に僕は興味がないんですが」

「私たちのような超存在は一過性のものではなく、必ず役割を持つということだよ。それは例外的に生まれたあの神のみ子であっても例外ではない」

 髪の隙間からのぞく片目が一瞬だけロフトを見る。

 笑いをこらえるように触手が軽くうねった。

「作られるべきものが砕かれ、その材料だけが再利用された。だがただのやがては失われていくだけの力の器を作ってくれるほど、この世界は勤勉なたちではない」

 けむくようなその言葉の真意を捉えるのは、やはりというべきか同じ怪物であるルーミーの方が早かった。

「単に『死神』の力をこね直したというだけではなく、何らかの能力を持っているということですか? 願ったものを出すような、力の余波としてのものだけではなく」

「その通り。役割さ。余った力を形にしたのだから、あれの役割は必然的にそういうものになる。余った力を受け止め、もう一度形にすること」

 以前形容した言葉がシーモアの頭をよぎる。

 ラジエーター。

 機械が動く際に必然的に発生する余分な熱を集積し、放出するための装置。サムの話を聞いた時にまるでそれだと思った直感は、より正確な意味でもそうだったのだろう。

「この世界の余分な力を、集めている………………?

「その通りさ。集積と放出。その二つが彼女に課せられた役割だよ」

 押し合い、と死神は形容した。

 人々は皆等しい力を持ち、それらが等しく押し合うことによって世界は今の形をしている。ならばその押し合いによって摩擦や熱や電気……ロスが発生することもあるのだろう。

 そうした世界に存在していたロスを、世界はより有効に利用することにした。

 サムという余剰の力を固めた存在がちょうどよくそこに生まれたために、再利用という役割を彼女に持たせた。

「まぁ、世界中の力を集めているわけではないだろうが。それでもあの子はこの街中で発生する余剰な力を集め続けている。特にここ最近は街も騒がしくて死者も多かったからね。死と恨みも合わさって膨大な力をめ込んだことだろう」

 マフィアの抗争。

 しばらく身の周りを騒がせ続けていたそれのことを思い出す。シーモアの目に実際に入った部分は少ないが、その裏ではおびただしい死者が積み上げられたはずだ。

「集めた力は出さないと。君たちも少しずつは何かを作っていたようだけど、流入に対して放出が足りていなかった。その結果があの子の現状だよ。器の限界だ」

 破裂しかけている風船を想像する。あるいは、無理矢理閉めたせいでひびが入ってしまいそうな棚だとか。

 サムの内側には大量の力が渦巻いている。

「なんとかしないといけないのだろうね。やがては限界がくる話だよ」

…………それの提案にきたわけですか」

「話が早い。そういうことだよ。私は今日、その力をもらえないか提案にきたんだ」

 びり、とシーモアの背筋があわつ。

 彼の背後でルーミーが眉をつり上げたためだ。サムの身柄を寄越せといっているように聞こえるその言葉に、吸血鬼がけんのんな表情を見せていた。

「怖い怖い。そうにらまないでくれ。そんな嫌な意味じゃないさ」

 暗闇がとてもそうは見えない仕草で肩をすくめる。

「私が欲しいのはあの子の中の力だけだよ。それを取り出して、私が消費する。あの子はそのまま。まぁ、そのうちまた力はまるだろうけどそうしたらまた引き取りにこよう。世界は余剰の力を使えるし、あの子は器が壊れることもないし、みんなうれしい。だろう?」

 道理ではある。

 道理であるということは、その裏にあるものも容易に読み取れるということだ。

「そしてあなたは望むままの力を手に入れるわけですか」

 粘着質な笑みが向けられる。

「否定はしないよ。力を消費しない限りはどうしようもないし、私が使うのならば、使いたい方針くらいはあるからね」

「別にあなたに頼らなくてもルーミーに消費してもらうという手立てもありますよね」

 力の消費、というものが具体的にわからないながら、シーモアは提案してみる。

 少しくらいは動揺してくれるかと思ったが、仮にも神を名乗った身だけあって、男は当然知っているとばかりにほほむだけだ。

「それはあなたのパートナーが同意していなさそうだけど」

 れば、確かにルーミーは微妙な表情をして黙っている。

「ルーミー?」

「んー…………それについては後で相談させていただければ…………

 とりあえずそれについてルーミーがあまり乗り気ではないことは伝わってくる。

 表情的に頼み込めばやってくれるだろうし、彼女もいざとなればその選択をするくらいの感じだが、だとしても即断をできるようなものではないらしい。

「なるほど。まぁ、じゃあそれは脇に置いてですね」

 仕草でも何かを動かしてみせてから、シーモアは話を戻す。

「あなたはサムの力を使って、仮にですよ。仮にあなたがサムの力を自由に使えるとして、そうしたら何をするんです?」

「決まっている。神とはすなわちノリでありくびきだ」

 触手がその首をもたげ、男の身体からだをこちらの視線に合うまで下げてくる。

 のぞき込んできた緑色の目はどこまでも深い沼のようだった。

「世界に改めて罰と痛みを敷こう。今の私ではもう力不足だが、やはり人が人とだけ生きていると、世界は少しばかり騒がしすぎるからね」

「それは…………つまり独裁者気取りをしたいと?」

「強い力を持つ存在は必要だよ。君たちももう知っているじゃないか」

 だって、と触手が外を示す。

「吸血鬼一人の存在で、世界はここまで平和になった。あの荒くれ者どもたちも鳴りを潜め、街中で生み出されていた死者たちも数を減らした」

 ルーミーが、シーモアの手を握ってきた。

 指摘された事実には気づいていた。

 マフィアがこの街で大手を振って存在できているのは、法令や世情が後押ししたこともあるが、彼らが人間において強い側だということに由来している。銃と爆薬を違法に持つ彼らが強いというのはどうしようもないほどの現実である。

 だがそれも、怪物たちが現れたことによって揺らいだ。

 特に吸血鬼、ルーミー・スパイクがその力を振るったことによって、マフィアたちはいやおうもなくそれに適応せざるを得なくなった。だから彼らは吸血鬼の顔色をうかがい、普段ならばとうに爆破しているはずのこのガレージもいまだに健在なままとなっている。

「誰かが正しく力を振るえば、世界をよりよくすることは結構簡単だよ。しかしどうにも君たちは、というかその吸血鬼の少女は乗り気ではないらしいね?」

 首をかしげてから、男が頭を縦に戻す。

「仕方があるまい。神ならざる身では、世界を管理するだなんて重責はとてもだが抱えがたい。だから私がやろう。古き神である私が」

 例えばルーミー・スパイクが本気でその力をこの街の治安のために使ったとして、その場合この街はどうなるだろうか。

 具体的なその様相を想像することは難しい。

 だがその街が今よりもよく、平和である可能性を全く否定することは不可能だ。少なくともシーモアからは、賭けるだけの価値がある発想に思える。

 ただし、それもこれも、

「全てはあなたが信用できてこそ、あなたがよい神であるという前提での話ですよね」

 問いかけると男は一度手を打った。

「神にしを語るなどナンセンスだよ。だが、私が人を愛していて、人のために善くある神であることを証明するのは簡単さ」

 男の姿が溶けた。

 現れたのは触手の塊。

 正気を削り落とすようなその本来の姿。

「私は人に求められて生まれ、やがてうとまれて封じられた。だが今こうしてここにいる。なぜだかわかるかい?」

………………なぜなんです?」

「封印なんて、いつでも解けたからさ。けれど人が封じられていて欲しいと願ったから、私は今日まで封じられたように振る舞っていてあげたのさ」


 男が影にズブズブと沈むように立ち去って、シーモアとルーミーだけが残された。

 話していた時間はそれほどでもないはずなのに、全身にずっしりとした疲労がまっているように感じられる。

 まだ夜も浅くこれから仕事をしなければいけないというのに。

「はぁー…………。お疲れ、ルーミー」

「いえ。シーモアさんこそ、神様に会うとは貴重な経験でしたね」

「自称というか、あくまでも人間の望みが作った怪物だけどね」

 古い時代に生まれたそれと、実際の神を隔てるものが何なのかはシーモアからは判断することができないが。

 やれやれと伸びをしてから、尋ねた。

「あれが語っていたこと、どう思う?」

「少なくともうそはないです」

「そうなの? だまそうとしているって線も結構考えてたんだけど」

うそを吐いた瞬間に殺されるとわかっているのに、わざわざ不要なうそを吐きにくるほどあれも愚かな存在ではないと思いますよ」

 そんな物騒なことを考えていたのか。

「それに、怪物というのは大体、うそを吐くのが苦手なんです」

…………そうなの?」

 と声にいぶかしさがにじんでしまったのは、初めて会った頃ルーミーに色々といわれ、そそのかされ、散々な目に遭ったことを覚えているからだ。

 まさか忘れたわけでもないだろうに、ルーミーはしれっとした顔で首を振る。

「怪物は指向性を持って生まれるので。あれは役割と呼んでいましたっけ。どういった存在であるかをあらかじめ定義されて生まれる以上、うそというのは苦手なんです。というよりも、あらかじめある指向性に沿わないことを本能的に避けがちというか」

「ふぅん。まぁ確かに、わざわざうそをいいにくる柄には見えなかったかな」

 で、と言葉を句切る。

「さっきのだけど」

「やっぱりその話になりますよね」

 ルーミーが握られたままだった手を引っ張るので、並んで地べたへと座った。

 いや、座るというよりはもうもたれるといった方が正確なくらいに、ルーミーはその身体からだをこちらに預けてくる。猫のようにその頰をこちらの肩へすり寄せてから、少しばかり重そうな口を開く。

「できるかできないかでいえば、できますよ。サムさんの力を私が消費する。はい、怪物なら誰でもできると思います」

「でもそうしたくないんだ?」

………………何の能力で消費するか、という話です」

 吸血鬼であるルーミーの能力をシーモアはいくつも見てきている。

 吸血とそれに伴う致死。黒い霧を出し自在に操る。肉体の変化。コウモリやおおかみといった動物の出現と使役。そして、夜を呼ぶこと。

「私の能力はたくさんありますが、サムさんの力を消費しようと思うとどれかは使う必要があります。あれはすごく不安定なエネルギーなので、能力としてきちんと使用しておかなければなりません」

「それのどの辺りが問題になるの?」

「例えばですけど私が、犬とかおおかみとかを出すあの能力に膨大な力を注ぎ込んだらどうなると思いますか?」

………………どうなる?」

………………人の視点の高さだと、それがちゃんとおおかみに見えるかどうかすら疑問ですね」

 街中にビルよりも大きく、風よりも速い野獣が出現するところを思い描いてみる。それだけでひどくげんなりとしてしまった。

 仮にその獣がルーミーに制御されていたところで、もう関係がない。それだけ強大な存在が衆目に触れる時点で、世界に対して決定的な影響を与えるだろう。

 仮に他の能力にしてみたところで同じだ。

 膨大な力を吸血鬼が振るう。その結果として生み出されるのはどうしようもなく、誰の目にも留まるくらいに異常で大きなものとなるだろう。

「正直にいうと、サムさんに対してすごく非情なようですが、やりたくないです。私は別に私を隠そうと思っているわけではありませんが、そんな無造作な力を放り出すようなことは、したくないです」

………………わかるよ」

 だって、シーモアとてルーミーに何かを頼むことは避けてきていたのだから。

 彼女の力を使えばあの触手が語っていたように、社会全体にだって影響を与えることができることはとうに理解していた。あるいはリンやサムだってそうだろう。

 だがそこに何の望みもないのだ。

 この軽い頭で抱え込むには社会や世界といったものは大きすぎる。そこに対して影響を与えたいとも思わないし、責任を負いたいとも思わない。ただ社会があるように回って、そこで自分たちが平穏にいられれば、それでよかったのだ。

 だからルーミーも、あの触手が話しかけてきた時に、最初から力尽くで退けるようなことをしなかったのだろう。

「多分ですけど、他の人たちもそのうちくると思いますよ」

「あ、やっぱり?」

「サムさんの力は消費しなければなりません。そのうち器の限界がきて、無加工の力があふしたら、それはきっと彼らの話のどれを選ぶよりもぐちゃぐちゃな未来になります」

 サムは周囲の願い事をかなえる存在だ。

 ならばその力が完全に無差別に振るわれれば、一体どうなることだろうか。僅かに漏れ出したあの時でさえ、服屋には膨大な衣類が積み重なっていたのだ。

 しかもあの大きさ。

 あふしたリソースが仮に小さな願いに反応すればどうなるのか、あれだけで想像がつくというものである。この街全体を覆うような巨大とも言い表せない衣服が生まれ、街中が押しつぶされるところを想像する。

 誰のどんな願いをかなえるのかわからないままにサムの力が解き放たれるのは、本当にどうしようもない事態というほかなかった。

「マフィアはともかく、怪物たちはそれぞれ目的があってサムさんを狙ったんですから。話し合いでそれが手に入る機会があるなら、きっとくると思いますよ」

 そして同時に、それはシーモアたちの利益でもある。最悪な事態を避けるという、最低な利益でしかないが。

 思わず天を仰ぐ。

「結局弁論大会かよ…………

「弁論大会?」

「何でもない。気にしないで」

 ロフトの方でサムが起き上がる音がしたので、シーモアは立ち上がった。



「とりあえずしばらくは平気ってことね?」

「うー…………?

 後部座席でニベルコルとリンが同じ角度で首をかしげている。

「まぁ、まとめちゃえばそんな感じだね」

 シーモアは苦笑しながらハンドルを回した。

 触手が来訪してきた翌日のことである。今日はニベルコルとリンがやや遠方での仕事のために、夕方からシーモアが車を出している。

「で、どう。話を聞いて。実は力を使いたい気持ちとかない?」

 正確にはその問いかけはリンに向けたようなものだったが、それをシーモアは意図的に濁した。

 仲良しの姉妹であっても彼女たちの関係は複雑だ。リンがその能力を意図的に隠している以上、シーモアからそこに触れることは避けたい。

 そうしたこちらの心情を察しているのか、自分が使うことはないと表明するようにリンはその首を横に振った。

「うー」

「だよねぇ」

「というか、仮に私たちが使わせて欲しいとして、使わせてくれるわけ?」

「うーん、難しいとこだね。参考にしたい気持ちがあるのは確かだけど」

 いってしまえば、これは世界を変えるような力の取り扱いの話だ。

 望むままに世界を変えられるとして、この少女たちがどんな風に世界を望むのかには少しだけ興味があった。保護者的な視線から、彼女たちが今抱いている不満がないか気にしているという面もいくらか。

 存外に真面目にニベルコルは腕を組んでから、

「まぁ、でも、そういわれても困っちゃうわね」

 といった。

「どんな形であれ大きな力が振るわれれば、つまりこの世界が思ったよりも壊れていることが普通になれば、生きやすくなるのかなとは思うわ」

 そういったニベルコルの視線が一瞬だけリンを向いたことに気づく。

 リンは隠し事をしている。

 ニベルコルは、どうだろうか。それを察しているのだろうか。察した上で姉らしい寛容さで黙っているという可能性も十分にある。

 どちらにせよその仕草はさいなもので、リンですらそうと見て取ることはなかった。

「でも、多分だけど、それはやってはいけないことよね」

「君はそう思うんだ」

「だって私たちは踏みつけられて生きてきたんだもの。世界というのが誰かを踏み潰す形をしていることを、私たちはよく知っているわ」

 ニベルコルが手を伸ばして、リンの頭をぐしゃぐしゃとまわした。

「なんというか、世界を変えるって、どうしたって誰かを踏むもの。私たちに都合のいい世界になればいいなと無邪気に願うことと、本当に世界を変えて誰かを踏んでしまうことって、かなり違うと思わない?」

 苦笑する。

 彼女の言葉はいつもせいこくを射ていて、子供がそんな言葉遣いを身につけてしまったことがいっそかわいそうなくらいだ。

「違いない。君は本当にいい子だね、ニベルコル」

「もしかして馬鹿にしてる? ぶつわよ」

「段々暴力的になってきてないか。誰の悪影響だろう」

「悪い大人の下で働いてるんだもの。仕方がないじゃない」

「うー!」

 最近はリンの単純な音の連なりから感情や意図を読み取ることにもすっかり慣れている。

 だが、むしろだからこそその声にシーモアは困惑を覚えた。

 警戒や警告。強い危険とそれに対する回避を促すような音。そのはずだ。だがここは夕暮れ時の街中で、辺りにはいくらかの人通りこそあれ、どんな種類の危険を見て取ることもできない。何から、どう回避すればいいのかが全く判断ができない。

 直後、首筋にぐいと衝撃が走った。

「うー、あー…………!

 リンが二人の首筋をつかんで飛んだのだ、と理解できたのは数秒後のこと。

 その時にはリンにかばわれる形でシーモアは道路に転がり、エセックスは木の上にぶら下がっていた。

 理解してから、目を擦る。

 確かにそうなっている。つい数秒前までなかったはずの巨木がアスファルトを砕いて道路の中央に生え、たった今成長したあかしのようにそのこずえへとエセックスを引っかけている。

「わ、わ、何!?

…………しっ。面倒なお客さんみたいだ」

 そして、そのエセックスの上に獣がいた。

 太陽のように輝く毛並みをした、人ほども大きなたいを持つコヨーテ。

────また会うたな、獣の同胞よ」

 遠くで雷が鳴るような低く重たい声だった。

 そしてコヨーテはとおえを一つ。本能が悲鳴を上げるような、どうしようもなく獣の声だった。とっさにシーモアは耳を覆い、背後のニベルコルをかばう。そして同時に周囲にいくらかいた一般人がその声に追われるように逃げていくことを理解する。荒っぽい人払いだ。

 とおえの最後の響きが消え去るまで慎重に耳を押えてから、ゆっくりと外す。

「お久しぶりです。ですが僕たちは人ですよ」

「人とて獣の一つであろう。たちというにはいささか混じり物があるが」

………………うー」

「そう、にらむでない。ぬしも在り方としては我に近いだろうに」

 コヨーテは木のこずえで器用に座り、その両前足を重ね合わせる。

 尻尾を一度振ると、どこからともなく強い風が吹いた。輝く瞳がシーモアを射抜く。

「さて、血と呪いの番よ。先日は失礼をしたな」

「あー、それでその、あなたは?」

「我はそうさな。太陽の現し身。全てを笑うもの。世界にあまた存在する人以外の獣の代弁者として生まれた我は、精霊とでも表すのが近いのだろうな」

 人以外、と頭の中で繰り返してから、シーモアは小さく驚く。

 いわれてみれば当然ではあるが、この世界を定義しているのは人間のみではないのだろう。その力のほどはわからないが、世界を変化させ意思の力を、人以外も持っている。

 そしてそれが怪物として形を成すこともまた、あり得ないことではない。

「あなたが精霊でも何でも興味はないけど」

 シーモアの服の裾をぐいと引いて、ニベルコルが強い口調でいう。

「リン、構えて。話には聞いただけだけど、この前このバカのことを吹っ飛ばしたらしいじゃない。何されるかわからないわ」

「うー…………!

「血気盛んなのはよいことよな。しかし我は今日、主らによい提案をしにきたというのに」

…………サムの力を譲れという話ならもう別な人から聞きましたよ」

「知っておる。しかしあの神のまがものと我は決定的に異なっておるからな。そしてそれは主らにとって喜ばしいことだろう」

 シーモアが眉を潜めると、精霊は喉の奥を鳴らした。

「我は人の思い描いたものではないゆえ、権能もまたそれに準じておる。荒唐無稽さはおよそ全ての獣の中で人のみが持てるものよ」

 その四つ足が樹木を蹴った。

 コヨーテが地面へと着地すると、その足が触れたアスファルトが割れ、植物が顔を出す。季節も時間も無視して生えゆく草木は、ある意味では吸血鬼が使う奇怪な力よりもよほど不自然に見え、あるいはある種の自然現象の一環のようにも見える。

「我はその力を自然のままに使おう。我が権能がそれならば、あの人の殻の力はやがて雨や風や光となってこの街に降り注ぐこととなるだろう」

「それが…………

 何であるかと問いかけそうになって、この前の神の提案とはまた異なることに気づく。

 あれはこの街に新たな管理者を生み出すという話だった。あの触手に力を渡せば、これからの世界には継続的に怪物の干渉が行われることになると見て間違いない。

 しかし、少なくともこの精霊は違う。

 この獣が行うのはあくまでも自然現象を力で補強するというだけだ。話しぶりからして、そこに自分の意思を挟み込もうという気すら感じられない。起きるのはただの自然現象で、そこには誰の意思も介在しない。少なくとも、人間のものは。

………………

「誰かの意思によって世界を左右するなどあまりにも不遜。不遜もまた人という獣の性ではあるが。どうだ、主らにその責を負わないだけの謙虚さがあるのならば、我に力を預けるというのも一考に値するだろう」

「それは、そうですが…………

 話がうますぎる、と考えてしまうのがシーモアの基本的な思考だ。

 そんなにも都合のいい提案があるはずがない。そしてこの精霊の提案から欠けている要素は、あっさりと見つけ出すことができた。

………………その場合、起きる自然現象はどんなものです?」

 マフィアたちが、そして怪物たちが追い求めるほどの膨大なリソースこそがサムだ。

 そんなものを注がれて起きる自然現象が普通のものであるはずがない。

「そうさなぁ」

 生えた草を軽くんで、コヨーテは世間話のような調子でいった。

「あれほどの力ならば大風が吹くか、地が揺らぐか、ともすれば星が落ちるという可能性もあるが、それほどのことを望むのは過ぎた話か。何にせよ、街はただでは済むまい」

 背後でニベルコルとリンが絶句する気配がした。シーモアもまた、ここがガレージの中だったならば罵声の一つや二つはあげていただろう。

 ぐるぐるとコヨーテが笑う。

「それもまた摂理のうちよ。摂理に反した力を使うのは、主も嫌いであるはずであろう」

「摂理に反した力?」

「なんといったか、あの片手と片足がまがものの女。主はあやつを嫌っておったのではなかったか?」

 シーモアは小さく息をんだ。

 頭の中で何かがつながる。だがそれは今は関係のないことだ。一旦それを脇に置いて、シーモアは唇をめてから笑みを浮かべる。

「話はそれでおしまいですか?」

………………。自然のことに悪態を吐く趣味はないと思っておったが、主の態度を見ていると我ももう少し敬って欲しくなるのう」

 のんびりとした調子でコヨーテはつぶやく。

 それから体重を感じさせない動きで大きく踏み切った。ビルを超すほどに跳び上がったその姿は、数秒で見えなくなる。

「あー…………全く」

 全身に冷や汗をかいていたシーモアは、どっと息を吐き出す。

 ルーミーの異質さとはまた違った、人類に野性時代の恐怖を思い起こさせるような相手だった。

「お疲れ様」

 付き合わされる形になってしまったニベルコルが、肩をたたいてくれたことばかりが救いである。やれやれと首を振って、それでも仕事に戻らねばと思ってから、

「うー?」

「あっ」

 こずえに取り残されたエセックスを見て、シーモアは頭を抱えた。



 手の中で木製の箱をくるくると回す。

 フランの家の中でのことである。今日は二つ用意されていた椅子の片方へとシーモアは座り、先ほどからひたすら頭をひねっている。

………………この箱が開くってマジ?」

 そういった彼が握っているのは細長い木材をいくつも組み合わせてできた立方体だ。その表面は木材の隔たりがどこであるかを感じさせないほどにつるりとしていて、重量は見た目よりも僅かに重たく感じられる。

 振っても回してもひねっても、ぴくりとも形を変えようとしないそれを、シーモアはいきとともに投げ出した。

「ちょっと、お兄ちゃん!」

 ホーンズビー家の暗がりに潜む何者かが、その箱をからめ取った。フランのてのひらの中に箱が収まったことで、シーモアはその何者かが動いたことに気づく。

「壊れたらどうするんですか」

「壊しちゃえばいいじゃん。その中に何かがあるって話なんだろ?」

 先日のチラシ配りに続いて新しい仕事でも、とこの家にやってきたシーモアに渡されたのがくだんの箱である。

 フランいわく、その内側には何らかの情報が収められているんだとか。

「何だっけ、えーと」

「ショーグン・イエヤスの埋蔵金だよ。何回もいったじゃん」

「そのどっかのなんとか将軍ジエネラルが誰だかは知らないけど、君がそんな風にお金に執着しているなんて意外だったな」

「お金はどうでもいいんだけど、誰も知らない情報はすごくいいよねぇ」

 そういってフランは箱に頰ずりをしてみせる。

 本心からの言葉なのだろう。その表情は年相応に、いやそれ以上に嫌な感じでとろけている。家が変わろうと、彼女の変質ぶりには変わりがないらしい。

「わたしはそれを誰かに教えてもいいし、教えなくてもいいし、教えるふりをしてもいい。それをわたしが握っているということが大事なんだよ」

「やっぱり割ればいいんじゃないか。どうせ紙か何かが入ってるんだろ?」

「あのね、もし本当にこの中に大事な情報を誰かが入れたなら、そんなことは対策されているに決まってるでしょ? お兄ちゃん、発言が適当すぎるよ」

 といいながらフランはその手から箱を放った。

 空中で不自然な減速を見せた寄せ木の箱は、かべぎわに設けられた棚へと着地する。その棚にはくだんの箱のみならず、古今東西の怪しげな物品が大量に並んでいた。

「いつの間にこんなコレクションをしてたんだ?」

「集めるの自体は結構前から。最近はほら、こんな感じで仕事もハイテクになってきたから────

 家中で鳴る電話をフランが示す。

────ようやく解読とかで楽しむ暇が出てきたってことで」

「ふぅん。そういうもんか。まぁ、趣味に励めるのはいいことだよな」

 シーモアは席から立ち上がって腰を一度伸ばす。

 それからその足を棚の方に向けた。

「お兄ちゃん、危ないからあんまり触らないでね」

「うーん。しかし、これは何だ? 世の中、変なものを作る人は多いもんだなぁ」

「それより結構お仕事がありそうだよ、お兄ちゃん。最近、なんかこう、街中で運送への需要が高まっている気配がするから」

「へぇ」

 だろうか。

 その理由を想像しようとして、シーモアは一つ息を吐き出した。手を伸ばし、棚に置かれた奇妙な金属の集合体を手に取ろうとし、

────ちょっと、お兄ちゃん!?

 直後、金属音が鳴り響いた。

 それが集合体の内部からとげが飛び出した音であることを理解するには、シーモアの動体視力は低すぎた。ましてやそのとげが明らかに毒とおぼしき液体でれていることを見て取るにも。

──────っ

 彼がわかったのは二つ。

 一つは何かが起きたことで、もう一つはそれをどこからともなく湧き出した黒い霧はばんだということである。

 飛び出した針は霧によってはばまれ、その先端がシーモアに届くことはなかった。

「お、お兄ちゃん!? 大丈夫!?

…………うん。平気みたい」

「ちょっと、もう! 馬鹿なの!? 触ったら危ないことぐらい、普段のお兄ちゃんならわかってるはずじゃん!」

 思わず椅子から腰を上げかけたフランが、ぷりぷりと怒っている。

 だがその彼女の反応も、シーモアの手へとまとわりつく霧を目にするまでのことだった。そう、普段ならばシーモアはあんなにも危険が目に見えているフランのコレクションに、不用意に触れることなどしなかったに違いない。

 今は、普通ではないのだ。

「お兄ちゃん、それ…………

「あー、うん」

 シーモアは手をひらひらと動かして、黒い霧に触れようとする。

 それからそっと呼びかけた。

………………ルーミー?」

 足下の影の中から、一匹のコウモリが現れた。

 まるで影を編んで作りあげたような、立体感のないコウモリだ。少しの間があって、そのコウモリから声が返ってくる。

「あ、すみません。ちょっと編み物をしていて…………。大丈夫でしたか、シーモアさん」

「やっぱり、これルーミーが守ってくれてるんだ」

「はい。使い魔です。最近は力の使い方にも慣れてきて、何かがあっても大丈夫なように色々と備えているんですよ」

 役に立てることがうれしくて仕方がない、というようなルーミーの声。

 シーモアは小さく笑う。視線でフランに目配せをして、黙っているように伝えた。

「使い魔、ね。他にも実は色々やってたり?」

「そんなに沢山ではないです。でも、これからもっときっと色々できるようになりますよ!」

「もしかして運送業の需要が増えているっていうのも、君?」

 コウモリがぱたぱたとその羽を動かす。

「それはまだやっていないです」

 まだ、と内心でシーモアはつぶやいた。

「シーモアさんがご自身でちゃんと会社を運営されていますし、それに私は街のことをよく知らないので、どうすれば需要が増えるのかもわからないですし」

 それはまるでシーモアが会社の運営をうまくできず、ルーミーがどうすれば運送の仕事を増やせるのかを知っていれば、その手段を取るといっているように聞こえた。

 いや、ようにではないのだ。

 彼女にはそれを実現できる知識はないが、実現できる力はある。指向性さえ帯びれば、ルーミーは容易たやすくそれを成せる。

 あるいはもっと直接的に、どこかから金を持ってくることだって。

 シーモアはどんな表情を浮かべればいいのかわからず、全身から力を抜いて、ただ軽く肩をすくめてみせた。

「君がそんな風に何でもしてくれると、僕は何にもできなくなっていってしまいそうだよ」

 あっさりとした言葉が返ってくる。

「それでもいいですよ」

 その言葉を返すのに、どんな決断すらも必要ないといった声音だった。

「いいの? だって、君だって僕を何かで好きになったんでしょ? そういうのも何もかもなくなってしまうんだけど」

 針が刺さりそうになった手を、シーモアは握って開く。

 そういうことだ。ルーミーに会った頃の自分ならば、決してあんなにも不用心な行動はしなかっただろう。日々はあらゆるものを変化させていく。それは自分自身だって、決して例外ではない。

「だって、シーモアさんはもう変わったじゃないですか」

………………

「シーモアさんは私が会った頃から、ずっと変わりました。きっともう、昔のシーモアさんが今のあなたに出会っても、自分だなんて思わないくらいですよ」

「だから僕はもうどんな風に変わってもいい?」

「はい。それでも私はあなたが好きですから」

 なら、と思う。

 その時にルーミーは何をよすがとしてシーモアを思うのだろうか。その恋心は何によって定義され、どんな風なものなのだろうか。

 内心の疑問が伝わったかのように、コウモリの向こう側でルーミーがほほむのがわかった。

「あの時、シーモアさんが私を生かしてくれたからです」

 胸に突き刺さったルーミーの手。

 その感触を思い出す。

「あなたは初めて私を優しいといってくれて、あなたは初めて私が好きになれた人です。あなたにいわれて初めて、私は世界を素敵だと思えたんです」

「その過去があれば、いいんだ?」

「あの日の思い出とあなたが不可分である限り、あなたがどんなものになっても、私はあなたを愛し続けますよ。あなたがどんなに堕落して、駄目になって、老いさらばえても」

 それはまるっきり、いつかにシーモアが口にしたことだった。

 だからこそそれは危機であった。

 シーモアがルーミーを好きであり続けるように、ルーミーはシーモアを好きであり続ける。そこには何のうそもてらいもなく、だからこそ過去によって定義された恋心は絶対である。

「この恋心は永遠で、確かで、ずっと変わりません」

 恐怖に何よりも似た甘やかさでささやきが届く。

「だからシーモアさん、私に任せて、楽になってくださいね」

 それはすなわち、全人的な危機であった。

 吸血鬼の愛は永遠で、そしてその力は絶大だ。彼女が守ってくれる限り、シーモア・ロードという個人は何をせずとも生きていける。その短い生を全うするまでの間。

 そしてそれにあらがう意味はない。

 そうするだけの価値をどこにもシーモアは見つけ出せないからである。自らの足で立たねばならないという強い信念はない。ルーミーに頼ることにためらいがあるわけでもない。シーモアに達成できることで、ルーミーの能力では及ばないこともこの世には存在しない。

 ならばシーモア・ロードという一個人の尊厳は、これから破壊し尽くされる運命にある。そのことにおびえ続けても、いやおうなく。

 その恐怖すらもルーミーは優しく包んでくれるだろう。

「あ、でも今回の騒動は私も初めてなので、しばらくご迷惑をおかけするかも知れません。けど次からはもっとうまくやりますから!」

…………だろうね。君ならそうだと思うよ」

「後、あんまりフランさんと仲良くしすぎないでくださいね。私だってさみしくなることはあるんですから」

 コウモリが影へと潜り込んで、ルーミーとの会話は途切れた。

 怪物、という言葉の定義にシーモアは思いをせる。

 それは人類の敵である。最大にして最強の怪物である吸血鬼は、人を愛してもなお、どうしようもなく人間の敵であった。

 戦う意味もなく、勝つことに価値を見いだせない、最悪の敵だ。

……………………愛されてるなぁ、僕」

 つぶやきは煙のようによどんで、足下へと落ちていった。

 話をしている間は黙って気配を消していたフランが、大きく息を吸ってから、からりとせせら笑う。

「お兄ちゃん、大変な恋をしているねぇ」

「ほんとにね」

 あるいは、これを大変だと思うこの心すらもいつかは腐り落ちるのだろうか。



「パパ! 見て、上手でしょ!」

 サムがこちらに駆け寄ってくる。

 何かと思ってれば、彼女の両手は一枚の皿を抱えていた。その上には不格好なパンケーキが乗っている。

「サムが作ったんだよ! すごいでしょ!」

「おお! というか僕が書類整理している間になんかやっていると思ったら…………

 得意げにくるくると回る彼女の頭をでてやる。

「でも勝手にやったら危ないだろ。僕に先に声をかけなよ」

「平気だよ。ルーミーにやり方教わったし!」

………………へぇ」

 知らない間に彼女たちの関係も少しずつ改善しているらしい。いや、そもそもとして間にシーモアがいるからややこしくなっていただけで、人格的に見た場合ルーミーとサムというのは特に相性が悪いというわけではないのだろうか。

 ともかくとして、もう一度彼女の頭をかいぐり回した。

「くすぐったぁーい!」

 首を縮めてサムは笑う。

「さ、食べよ、パパ! 冷めちゃったら悲しいもん!」

「それはそうだな。ちょっと待て、フォークか何かがそこら辺にあったはずだから」

 かつ、と軽い音が鳴った。

………………あ」

 サムの足下にフォークが一つ転がっている。

 一秒前まではそこになかったはずの食器。

 少女の瞳が薄く明滅している。

「ご、ごめんなさい…………

 きゅ、と下唇をみしめたサムにほほみかけてみせる。

「別に別に。食器が増えてよかったよ。ルーミーだって喜ぶさ」

 拾い上げて、ついたつちぼこりに息を吹きかける。

 今は小康状態だが、それは問題が解決したことを意味してはいない。サムの容量の限界は今こうしている間も迫り続けており、それまでに決断を下さねばならないのだ。

「まだ大丈夫そう?」

「う、うん。まだ平気! だいじょうぶだよ!」

「ならよかった。無理はしないでね。いざとなったら僕が────

 僕が。

 何だというのだろうか。

 サムの限界を遠ざけることはできない。その内部の力を消費するのは怪物だ。今は彼らもシーモアにお伺いを立ててくれているが、本当にサムが限界に達したならば、再び争奪戦が始まるに違いない。

 シーモアが決断すべきことはない。自分が何をしなくとも、世界は粛々と回っていくし、何をしたいかすらも思い浮かばない。

 そうした諸々を飲み込んで、シーモアはほほむ。

「僕がなんとかするからさ」

 本当は何をすべきかすらもわかっていないというのに。

「うん!」

 無邪気にうなずくサムの笑顔がひどく心に刺さった。

 並んでパンケーキを食べようと、ガレージのあちこちに転がっている缶を拾ってこようと立ち上がる。そうした時、不意にシャッターがたたかれた。

「誰かな?」

「僕が出るからそこにいてね」

 フォークをくわえたまま近づき、シャッターを引き上げる。

 夜の闇を背負うようにしてそこにいたのは、殺人株式会社マーダー・インクおおかみめいた男だった。この春先でも手放さないコートのポケットへ男は両手を突っ込んでいる。

「よう。今日の報告にきたぞ」

「とはいえ、問題なし以外にいうことがありますか?」

「ねぇな」

 メッセンジャー代わりの仕事が不服であることの表明のように男は舌打ちを漏らす。

 その顔に、ふと言葉を投げつけたくなった。

「ところで、一つ聞いていいですか?」

「手短にならな」

 ちらりとサムを振り返る。彼女は男の人相が怖いのか、バレバレな仕草でこっそりと缶の後ろに隠れようとしていた。

 その姿に小さく笑って、自然に問いかける。

「サムの情報をマフィアに流したの、あなたたちですよね?」

 今回の騒動はこの街の裏社会に属している組織がサムを追い始めたことがきっかけだ。今回の騒動に関わった組織のリストを作るだけで、裏社会のほとんどの組織を網羅するリストを作り上げることができるだろう。

 そんな状況は誰かが意図的に情報を流さなければ生まれない。

 あらゆるマフィアに対して利害関係を持つことなく交渉することができ、世界と怪物に関する知識を持っていて、なおかつそうするだけの動機がある誰か。マフィアに追われる中で考えても思いつかなかったが、この前の精霊の言葉が発想をくれた。

 そんな組織は、殺人株式会社マーダー・インク以外に存在しない。

………………。だからなんだ?」

 けんのんな視線が向けられる。

 いつもならばこんなところでこんな言葉を投げかけはしないだろう。だが今はもう、目の前の男に対する恐怖すらもが機能を失っている。

 ルーミーがどこかにいて、自分を守っている以上、恐れる必要がどこにもなくなる。

 慢性的で致命的な

「別に。ただ、あの社長、大丈夫なのかなって思っただけです」

 肩をすくめる。

 殺人株式会社マーダー・インクはマフィア同士の争いを調停し、またそれに伴ってマフィアの人員を殺すことを目的とした組織だったはずだ。その手段はどうあれ、本質的にはそれは平和的な目的で運用されていた。

 しかしサムの情報を流すことは、その真逆だ。

 明らかにそこには意図的にマフィア同士の抗争を起こそうという計算が見える。でなければあれほど同時多発的にマフィアたちが、そして怪物たちが一人の少女を追いかけ始めるはずがない。

「いつの間にか手段と目的が入れ替わっていますよね。マフィアを殺すために、わざと抗争の火種をくだなんて」

「状況が違ェんだよ。怪物の力が隆盛になれば、必然的にマフィアどもは勢力を減衰させざるを得ねェ」

「へぇ、それが言い訳というわけですか」

 あの社長、クラウディア・ホーロックスからすればどんな道筋でもよかったのだろう。

 彼女にとって大事なことはサムを巡って抗争が起こればマフィアが互いに殺し合うことと、サムに力が注ぎ込まれその容量が限界に達することだ。

 どの怪物がサムを手にしようと、あるいはサムが単に能力を暴発させても、結果として怪物の力は多くの人の目に留まることになる。ルーミーが暴れたことで古い怪物たちが現れたように、その集めた衆目はさらなる怪物を呼び込むだろう。

 具体的にどんなことが起きるのかが問題なのではない。

 何かが起きれば、それら全てが彼女にとっての利益だ。

 挑発を受けて不快そうに眉間にしわを寄せたおおかみめいた男だったが、しかし彼は同時に皮肉そうにくちを持ち上げて笑った。

「少なくとも、あの人は何かを決めるだけの根性はあったぜ」

「僕と違って、ですか」

 いいながら、少しうらやむ。

 確かにクラウディア・ホーロックスは決断をしている。世界に自分の想像を押しつけるだけの願望と理由が彼女にはある。サムを餌にして抗争を起こすような精神性はろくでもないが、しかしろくでもないなりに願いを抱いている。

 おおかみめいた男が舌打ちをする。

「俺らと違って、だな」

 そこに声が飛び込んできた。

「おや、まぁ。私は君の一族に力を与えてあげたというのに」

 男の後ろ、ガレージをのぞき込むような位置に女が一人立っていた。

 その姿にもまた見覚えがある。前に会った時は夜で、そして女は馬の上に乗っていた。燃えるような瞳を持つ、六本足の馬だ。

 おおかみめいた男がはじかれたように振り返り、その女を見てうなる。

「テメェ、『魔女』………………!

「やあ、いとしい私の子孫。そしてシーモアくん」

 魔女と呼ばれたその女は、名前を表すようなつばの広い帽子をつるりと一度でた。それから僅かに首をかしげる。

「けど今はあなたは邪魔ねぇ。はい、再会はまた今度にしましょうか」

「ふざけんな、殺────────

「うるさい子はどかしてしまいましょうか」

 魔女が視線を向けると、おおかみめいた男の姿がえた。何らかの異常な能力を使って、彼をどこかへと飛ばしたのだろう。

 だがその仕草があまりにも自然だ。

 大仰な仕草も言葉も、何一つない。呼吸をするように滑らかに力を行使するその姿は、生得的にそれを持つ怪物たちとも、意識的にそれを使う『死神』のような人間とも違う。

「おっと、それにサムくんも。久しぶりね」

 魔女が手を振ると、サムがその身を縮めた。

 シーモアはその視線を遮るように立って、飽き飽きだという表情を大げさに作ってみせる。

「それで、あなたもあなたの夢を語りにきたわけですか。管理、災害ときて次は何です? 魔女の国とか作る気ですか?」

「あは。悪くない考えね。でも私の提案は別よ。もっと魔女らしいことを提案しにきたの。それとも、提案してもらいにきたというべきかしら」

 魔女はぱちりと音がしそうなほど鮮やかに片目をつむってみせる。

「私はあなたの願いをかなえにきたのよ」

………………は?」

「もう聞いているかしら。そもそもとして私はあの被造存在たちではなく、創造者の側よ。最近だと死神って子が随分街を荒らしたみたいだけど」

 そういって魔女は座った。

 そこにあった椅子に。

 このガレージの中には椅子なんて一つもなかったはずなのに、魔女が座った時にはそこに椅子が存在していた。

「死神よりも私は少し歴史が古い創造者よ。少し、本当に少しだけね? だからその分だけできることも多いわけ。…………このパンケーキ、ちょっと粉っぽいけどしいわね」

 魔女がパンケーキを食べる。

 それはサムが作ったパンケーキだ。不安定な厚さとところどころにある焦げ目がそれを示している。

 だというのに、サムの手の中には全く同じパンケーキが残ったままだった。

「えっ、えっ!?

「驚かないで、サムくん。それにシーモアくんも。私にはこういうことができるという話。それに、もっとたくさんのことも」

 だから、と魔女がフォークでこちらを示してくる。

「このままでは消費が追いつかないサムくんのリソースを、私が加工してあげるわ。あなたが望みをいえば、私がそれをかなえてあげる」

 怪物たちはうそが苦手なのだとルーミーは語っていたが、だとすればこの女はどうなのだろうか。真実だと信じれるような理由もないが、わざわざうそをいいにくる理由も見当たらない。

…………そうすることでのあなたの利益はなんです?」

「利益? いいじゃない。おとぎばなしの魔女というものは、なんとはなしに奇跡を使って助けてくれるものでしょう? そういうことよ」

「僕が知っている魔女は毒で殺したり、茨で眠らせたりしてもいましたがね」

「あら、お姫様気取り? あぁでも、誰かに助けられている立場ということなら、確かにあなたはお姫様だものね」

 魔女が立ち上がると、椅子もパンケーキも幻だったように消え去った。だがそれが確かに存在したことを証明するように、強く甘い匂いだけは漂っていた。

「利益。そうね、利益というのなら、あの怪物たちにリソースを使わせないことが利益といえるのかしら」

「怪物が嫌いなんですか、魔女の癖に」

「人間だから嫌いなのよ。生まれついて持っただけの能力を振るうなんてはしたないと思わない? 考えて、望んで、それに必要な手段を編み出すことこそが人間の証明じゃない」

 シーモアからすれば一番人間離れしているように見えたこの魔女が、平然と人間を語る姿は恐ろしくもあり滑稽でもあった。

 にまりとした笑みを浮かべて、魔女が首をかしげる。

「だから私はあなたを助けてあげる。願いをかなえてあげる。私が編み出した手段が、あんなはしたない存在よりもいいものだって教えてあげるわ」



 胸元に灰が落ちて、自分が随分と長くぼうっとしていたことに気づいた。

「熱っ、わっ」

 慌ててぱたぱたと服をたたき、くわえっぱなしだった煙草たばこを数度吹かす。

 もう夜明けも近い時間帯、ガレージの屋上にシーモアは一人でいた。視線はずっと地平を捉えていたはずだが、その端が白み始めたことを今ようやく知ったようなありさまである。

……………………はぁ」

 頭の中にあったのはサムのこと。そしてサムを取り巻くいくつもの事情。

 人類のくびきとなると宣言したあの暗闇。

 自然の猛威をもたらすと語ったあの精霊。

 望みをかなえるとうたったあの魔女。

 その三つを思い浮かべて、そのどれもがろくな話ではないことを確かめていた。そもそもとして自分は大したことを望んでいないのだ。ただの人間であるシーモアが抱ける望みなど、たかが知れている。

 世界や社会を変えるだとか、そんな規模の話をされたところで何もピンとこない。

「シーモアさん」

 下方から呼びかけられて、シーモアは立ち上がった。

 ガレージの縁からのんびりと手を下ろすと、柔らかな手がからみついてくる。引き上げれば、当然ながらそれはルーミーだった。

「ここにいたんですね」

「そろそろ夜明けだぞ」

「はい。ですが、少しだけ」

 そういってルーミーは、もう一度寝転がったシーモアの隣へ腰掛けた。視線が一瞬だけこちらを向いて、シーモアがくわえている煙草を見る。

「それ、サムに出してもらったんですか?」

「出してもらったというか、出たというか」

 サムの中に人々の願いの力はまる一方だ。

 ここ数日はほんの僅かな願いにも反応して、願った物品が家の中に転がるような状態となっている。

 そして、それでもなお、サムは自分の能力を抑えようと必死になっている。

「消費しないと、ダメなんだろうなぁ」

 こんな煙草をいくつか出すようなさいなものではなく、もっと大々的に。もっと膨大に。彼女の中にまり続ける力を消費し尽くすには、願い事の絶対的な大きさが足りていない。

 あの三人のうちの誰かが願いをかなえるのか。

 あるいはサムの力が暴発して、しかし結果としてその異常な能力が多くの人の目に触れ、新たな怪物たちを呼び込むことになるのか。

…………………………

 あんたんたる気持ちで黙り込んでいると、ルーミーがその身をそっと寄せてきた。

 何かをいおうとして迷っているような、そんな気配。彼女の口を後押ししたのは、後十分も待たずに登り始めるはずの太陽だっただろう。

 ルーミーが、静かにつぶやく。

……………………実は」

「うん」

「どの願いもかなえない方法が、一応あります。私が力を使うというのでもなく」

 どんな変化もこの街にもたらさず、シーモアたちの日常が変化することもなく、決断を迫られるようなこともなく。

 そんな手段があるのだろうか。

 あるわけがないとシーモアは思って、しかしルーミーはいった。

「私がサムさんを食べる、という方法です」

……………………

 ルーミーの吸血というのは極めて絶対的な力だ。

 人間ならばその血の一滴でも吸われた時点で致命となる。血の量やの重さなど関係なく、『吸血鬼に血を吸われた』というだけの因果が速やかに命を奪う。

 あるいは、それを怪物に向ければ、どうなるのだろうか。

「サムさんの力を消費する、という意味ではありません。吸血して、殺します。その存在を粉々に砕いてちりにします」

 血を吸われかけた日のことを思い出す。

 どこまでも深い穴に命が落ちていくような、そんな感覚。サムという巨大なリソースの塊でさえ、何の意味も持たせないままに殺し尽くすことができるのだろうか。

 できるの、だろう。

 ルーミー・スパイクという規格外の怪物は、そんなことですらできる。

「それで…………元通りです」

 元通りなのは確かだ。

 今よりも少し前の元通りだが。

「そういう選択もある、という話です」

 そしてそれは取りも直さず、ルーミーがサムを殺すという意味でもある。

 サムの力を誰かに渡せば、どうしようもなくこの街は変わる。変わり方に違いはあれど、不可逆な変化をもたらすことは間違いがない。

 ルーミーがサムを殺せば、そんな事態は避けることができる。

 誰かや何かが変わることも損なわれることもない。ただ少し前まではいなかった一人の少女が、またいなくなるだけだ。

……………………………………………………

 シーモアは何かをいいかけて、やめた。

 今、何をいってもルーミーはそれを『サムを食べろ』という意味に取るような気がした。そういう結末を選び取ってしまう後押しになると思った。

 だからシーモアにできることは沈黙くらいで、その静けさの隣でルーミーがほほむ。

「ごめんなさい。そんなことをいわれても困りますよね」

 その銀色の髪を、朝をもたらす風が揺らした。

「大丈夫です。私はちゃんと、自分で決められるので」

 ルーミーは既に曖昧な自我を抱えた、おぼろのような存在ではない。

 確固として自分で考え、決断を下すことができる独立した人格だ。

……………………………………………………

 だからきっと、自分が関わらなくてもこの話は終わる。

 この騒動の結末は、シーモアが選ばなくても何かにはなる。

 それがどんなものであったところで自分にはそれを区別するだけの理由がない。神が再び現れようが、災害が街を襲おうが、何か願いがかなおうが、どれであっても大差はない。

 あるいは、ルーミーがサムを殺したところで。

 自分にできることはない。

 ルーミーが最初の話し合いを力尽くで解決した時から何も変わっていない。

 ルーミーがいれば全ての問題はどうあれ解決に向かうし、ルーミーはその愛でもってシーモアに最大限の配慮をしてくれる。

 ならば、強いて自分が何かをする理由は、あるのだろうか。

「私が、ちゃんと解決しますから」

…………ねぇ、ルーミー」

「はい?」

「愛してるよ」

 その言葉が本心からのものであると自分でわかることが、今となっては滑稽なほどだ。

「はい。私もシーモアさんを愛していますよ」

 彼女に愛されているという確信もまた。