一 過ぎ去らぬ過去



 新聞の文字を追ううちに言葉を聞き流していたらしい。

 シーモアが呼びかけに気づいた時、ルーミーの声は少しだけ不機嫌そうな響きを帯びていた。慌てて新聞をたたみ、口の中にあったサンドイッチを飲み込む。

「えっと、なんだっけ?」

 幸いにしてルーミーはそのつやつやとした眉間に寄ったしわをすぐに解いてくれた。

「今日、買い物をお願いしてもいいですか? ちょっと夜から用事があって」

「あぁ、それくらいならいいよ。メモとかくれると助かる」

「そういうと思って準備しておきました。前みたいにむやみに高級なやつを買ってきたりしないでくださいね?」

 ルーミーの口調は注意というよりも、共有できる思い出話をそっと持ち出すような感じで、その子供みたいな態度にシーモアはほほんでしまう。

 缶とブリキ板で作った即席のテーブルに同じくついていたニベルコルとリンがそろって首をかしげる。見た目はでこぼこであるが、そうしているとやはり姉妹という具合だ。

「うー?」

「いえ、結構な量になりますから。車を持っている人に頑張ってもらいましょう」

「というか珍しいわね。何か用事?」

「サニーさんと料理教室に行くんです。しい料理を覚えてくるので、期待しておいてくださいね」

 さらりといわれた自分の妹の名前にシーモアは思わずまばたきをする。

「え、君たちいつの間に仲良くなったのさ。一緒に料理習いに行くほどの仲とは知らなかったんだけど」

「ちなみにお母様には編み物も習ってますよ」

「待って。もしかして普通に実家に出入りしてる?」

 別にそれを禁じるようなつもりもないが、どうやらシーモアが仕事に出ている間、ルーミーも彼女なりの時間を過ごしているらしい。

 詳しく聞こうとしてもはぐらかすルーミーとあれこれ話しながら朝食──時刻的には昼過ぎなので厳密には昼食──を終え、車のキーを指先でくるりと回す。

 そうして仕事をしにいこうとして、しかしその前にルーミーに呼び止められた。

「あ、シーモアさん、待ってください」

 エセックスの扉を開きかけていた手を止める。

 振り返れば、ルーミーがその腕をこちらへと伸ばすところだった。両の手のひらが頭を挟み込んできて、緩い力で引き寄せられる。

 ルーミーの唇が額へと軽く触れた。

「はい、おしまいです」

 唇の触れていた辺りを指でこすりながら、シーモアは曖昧に笑う。

「最近お気に入りだね、それ」

「幸運のおまじないですから」

「サニーも、余計なことを教えてくれたよなぁ…………

 幸運のおまじないと称して額にキスをするのは、シーモアたちが子供の頃に母親がしてくれたことだ。

 最近妹から聞いたというその行為のどこかがルーミーの琴線に触れたらしい。

「恋人同士なんですから、照れなくていいのに」

「恋人同士だから照れてるって訳じゃないんだけどね…………

 ルーミーが積極的なのはうれしいことだが、それが子供時代の記憶を刺激しないような行為ならばもっとうれしかった。

「お熱いことねー」

「あ、ニベルコルさんもですよ。動かないでください」

「私はいいわよ! そんな恥ずかしいこと!」

「あなたも照れなくていいんですよ。リンさん、協力してください」

「うー!」

 視界の隅で姉妹の小さい方が、大きい方に捕まっていた。

 これもまたここしばらくの日課のようなものだ。シーモアはさして気にせずに服装を整え、くつひもを縛り直す。抵抗してこそいるが、本気で嫌そうならばリンとルーミーとて押さえつけてまでキスをすることはないだろう。………………ない、はずだ。

 二人がかりで文字通りもみくちゃにされたニベルコルが、よろよろとやってくる。

「ねぇ、あの人、最近テンション高くない? あんな人だっけ」

 ニベルコルがあまりにもげっそりしているものだから、シーモアはいたわりを込めて肩へと手を置いた。

「確かに最近のルーミーは…………変わったかなぁ?」

「変わったわよ」

 出会った頃のルーミーを思い出して、首をかしげる。

 一つ一つの要素を手に取って比べれば確かに変わっているのかも知れないが、日々の中で訪れたそれらの変化はなだらかかつ不連続的で、いつ何がどう変わったのかをつまびらかにすることは難しい。

 そんな内心が表れていたからだろう。

 あきれたようにニベルコルがため息をこぼした。

「こんなのと恋人なんだから、ルーミーさんも苦労するわね」

「確かに苦労するかも知れませんが────

 いつの間にかリンへのおまじないも終わらせていたらしい。

 ほこほことした笑顔を浮かべているリンを連れて、ルーミーがすぐそばに近寄ってきていた。話をどこから聞いていたのか、彼女は穏やかに首を振る。

────好きで恋人になったので、そういうことで苦労するのもうれしいものですよ」

………………

 いや、やっぱり変わったなと思う。

 ちよくせつてきな言葉に頰に血が上っていくのを感じる。シーモアは慌てて車の扉を開け直し、その運転席に滑り込んだ。

………………。おら、いくぞー」

「あれ、シーモアさん照れてます?」

「ちょっと、顔隠してんじゃないわよ」

「うるせぇうるせぇ。今日、車一緒に乗っていくやつは誰だっけ?」

「うー!」


 ホーンズビー・シガーストアの跡地へとたどり着くと、そこにはまだ焦げ臭さが漂っている気がした。先月、この街ではある意味平常運転の一騒動があって、その過程で建物がまるごと爆破されたのだ。

 四月の半ばを迎え、そこには今、代わりのように一軒家が建っていた。

 何の変哲もない、と表現するしかないような街角の家である。いろせ、角の欠けたれん。足下からがるつたくさ。歳月を経た窓ガラスは波が打ったように表面が曇り、ひなびたぜいは決して派手ではないが、多くの人々の郷愁を誘うだろう。

 それはそれとして、と思う。

「つい今月建った家がこの古さなの、変じゃねぇ…………?

「うー」

 今日は仕事に同行しているリンが隣でうなずく。

 それから彼女は自分の鼻の辺りを指してひくひくと動かしてみせた。彼女が何かを感じているということは、やはり何か不自然なものが働いたのだろうか。

 まぁ、これも彼女らしいといえばらしいのだろう。

 先月はずいぶんと落ち込んでいたが、どうやら本調子を取り戻しつつあるらしい。これくらい不気味な方が彼女らしいと、シーモアはようやく再建が済んで招待にあずかったその家の扉を開く。

 内側は、外の様子からは一転していた。

「うわ、なんだこれ」

 そこは例えるならば暗がりに住む奇怪なすみだろうか。

 二階建ての家の中はすべての壁と床がくりぬかれ、巨大な一つのフロアとなっている、のだろう。おそらく。

 室内は通常よりも一回り小さく感じられる。すべての壁面に不規則な配列で機械が並べられているためだ。おおよそ、それらは電話機なのだろう。見慣れた家庭用のものも、街角に置かれているようなものも、軍用とおぼしきかなり無骨なデザインのものも入り交じっている。

 見通しを極端に悪くしているのはあらゆる場所からあらゆる方向へと張り渡された電線である。熱帯雨林のごとく空間を埋めるそれらの線は、あるものは電源につながっていて、あるものは電話へとつながっていて、あるいはシーモアでは用途も機能も理解できないような何かへもつながっている。

 あらゆる機械が立てるじいじいとした鳴き声めいた音が、耳から入り込んで背筋をみだすようだった。

「やあ、いらっしゃいませ、お兄ちゃん」

 その異質な空間の中央で、少女が膝を抱えていた。

 病んだ目つきと夜よりも不健全な黒髪が特徴的なその少女の名を、フランシーナ・ホーンズビー。ホーンズビー・シガーストアの店主である少女だ。

 あるいは、このありさまを見るに店主であったというべきなのだろうか。

「よう、煙草たばこ屋はもう店じまいなのか?」

 この家の全体を見て取ることなど誰にもできないのだろうが、ともかくとして煙草が置いていなさそうなことは確実である。

 フランはそればかりが煙草屋だった頃と変わらない、足のつかないような高い椅子の上でくるくると回る。

「そうなりますかね。店を壊されてわたしもわたしなりに考えたんです。そろそろ時代に合わせて情報を売り買いする形を更新してもいいのかなって」

「その結果が、これか。まぁ、確かに最先端って感じはするけど」

 そういって辺りを見回し、シーモアは小さく首をかしげる。

 完全に記憶などしていないが、つい先ほどと配線の具合が変わっている気がした。それに風もないのに、宙を渡っている電線の一本が揺れている。

…………うー」

 隣で小さくリンがうなる。

 同時に彼女はわずかに姿勢を前傾させ、シーモアをかばうように一歩前へと出た。

「リン?」

「あ、そっちの子にはもしかして見えてます? 生い立ちを考えれば当然ですかね」

 いったフランの背後で、何かが跳ねた。

 見えない何か。移動が素早いとか、室内が暗いとか、そういうことは関係がない。人の目には見えないという物語を持つ、どこにいても死角に収まってしまうような奇怪な感覚。

 その感覚をシーモアは別な時に覚えたことがある。

 隣に立つリン。彼女が妖精に力を借りた時だ。妖精たちの姿は決して普通の人間の目には映らず、その声と結果だけがこちらに届くのである。

 つまり、ここにいるのか。

…………お前、一体何と仕事を始めたんだ?」

「さあ。わたしもよく知らない」

 フランはあっけらかんと笑う。

 その間も彼女の背後では何者かがしきりに動き続けている。電話をあちらからこちらへとつなぎ、時には配線をつなぎ直している。

「知らないって、おい」

「興味がないんですよね。わたしが好きなのはこの街のどこかに影響を与える、生きた情報です。誰にも正体がつかめず、誰にも興味を持たれない情報は趣味じゃないんですよ」

 ちらりと視線を背後へと向けて、フランは片目をすがめる。

「わたしが興味あるのは、彼だか彼女だかそれだかの機能です。どうやらなにがしさんはわたしと同じ趣味を持っているようで。力を貸してくれるならそれでいいんです」

「だからってなぁ。そんな得体の知れないものと仕事なんて、やばいだろ」

「得体の知れないお兄ちゃんと仕事をしてきたわたしに、そんなことをいいます?」

 むぐ、と言葉に詰まるのはシーモアの方だった。

 今でこそ多少マシにはなっているが、フランと出会い、フランに興味を持たれた頃の自分は本当にろくでもなかったからである。

 それはそれとして、とそっと尋ねてみる。

「リン、あれ、どう思う? やばそう?」

「うー? うー…………

「よくわからないけど、即座にやばいって感じのものでもない?」

「うー」

 いくら彼女が妖精のけんぞくだとはいえ、この世界に存在するあらゆる怪異、異常に通じているわけでもないのだろう。リンは暗闇を見つめて曖昧に身体からだを揺らしてばかりだったが、少なくとも彼女が直感的に敵と判断するような相手ではないらしい。

 それにしても、と思う。

 怪異にも慣れてしまったものである。吸血鬼との出会いを皮切りに、妖精や死神、ルーミーの話ではおおかみ男に魔女なんかも実在しているんだとか。

 おそらく標準的な人間が一生に出会う怪異の数は大幅に超えただろう。別に平均を統計で調べたことはないが。

 そして同時にこうも思う。

 世界も、慣れたものだと。

 怪異に。

「お兄ちゃんも気づきましたか」

 フランが一度手を打ち鳴らす。

「今日お招きしたのは新しい家を見せたかったというのもありますが、お兄ちゃんにこれを肌で感じておいて欲しいなと思いまして」

 少し前ならばこんなことはあり得なかった。

 突如として影も形もなかった古い家が街中に現れることも、その家の中で得体の知れないものが影の中をまわることも。まして怪異と人がそろって仕事をするなど。

 だが、それらの異常は厳然としてここにある。

「怪物が増えている…………?

「というよりも、多分ですけど、隠れていたものが出てきたんだと思いますよ。出てくることができる、出てきてもいいんだと、多くの人が目にしてしまいましたから」

 思い出すのは少し前のこと。屋上から落下する自分と、白昼を切り裂いた夜空。日の中を飛んできた吸血鬼。

 それら全部が、多くの人の目に留まった。

 あの夜空は街中の空を見上げた全員が見たし、写真も撮られて出回った。その原因を街の片隅に住む運び屋と吸血鬼に結びつけるような愉快な推理は誰もしなかったが、新聞やラジオを通じて科学的な、あるいは空想的な仮説は数多あまた語られた。

 そしてきっとその誰もが気づいている。

 あれは全くの未知なのだと。これまで自分たちが知ってきた世界の理では説明がつかない、あり得ざるはずのものが確かにあり得ているのだと。明文化されていなくとも、自覚はなくとも、しかし知ってしまった。

 あの夜空だけがすべての原因だとは思わないが、一つの契機にはなったのだろう。人々の意識が変わったし、もしかしたら怪異たちの意識も変わった。

 意識が変わったというだけで、この世界を変えるに足る十分な原動力だ。

「気をつけてくださいね、お兄ちゃん。もしかしたらこの街は今、前の大戦よりももっと大きな変革の中にあるかも知れないんですから」

「声にわくわくが隠し切れてないぞ、のぞき魔め」

「こうして人の役に立つこともしているんですから、ちょっとした喜びくらいは許してくださいよ」

 口を三日月のように裂いてフランが笑っている。

 フランとこれ以上話をするべきか一瞬考え、やめる。今はリンがいる。もしもその変革とやらに血なまぐさい要素が既に生まれているとしたら、それをこの少女の耳に入れたくはない。

 その代わりに、シーモアは大げさに伸びをしてみせた。

「ご忠告どうも。しかしどうしようかね。煙草が買えないとなると、ここ以外の場所で情報を買うってのも手だよな」

「お兄ちゃんならそういうと思ってました」

 フランが何かをこちらへと投げてくる。

 シーモアは受け止めようとしたが、それよりも速く、隣で動くものがあった。

 リンである。

「うー!」

 彼女は手の中に収まった煙草の箱をチラリと見て、得意げにこちらへ差し出してくる。

…………あー、偉いぞ」

「うーっ!」

「でも過保護。格好つかないからあんまりやらないでくれよ」

…………うー」

 しょんぼりと肩を落としたリンに苦笑しながら、投げつけられた煙草の箱を開く。一見してありきたりな紙巻き煙草だが、すぐに気づいた。一本の煙草の中に細くキツく巻かれた紙片が差し込まれている。

 内容は見なくてもわかる。

「仕事の依頼、これですることにしたのか?」

「お兄ちゃんにまだうちに来て欲しいなーっていう妹心ですよ。喜んでください」

「わーい」

 適当にいいながら、煙草の箱をふところへ。

 細かい仕事の内容は後で確認すればいいだろう。フランからの依頼ならばそれくらいおうように受けてもいい。

「じゃ、またな。悪巧みはほどほどにしろよ」

「あ、仕事が終わったらその紙は燃やしておいてくださいね。煙草に差し直して、燃やして吸うと大変かっこいいです」


 料理教室と聞いてやや仰々しいものを想像していたが、実際には近所の女子や主婦を集めての交流会のような性質も持っていたらしい。

 そう考えると夜に入ってから始まるという時間帯のおかしさも少しわかる。今日一日の仕事を終えた女性たちのささやかな癒やしなのだろう。

 そう判断し、無意識に適切な笑顔をシーモアは選ぶ。

 仕事向けよりは少し隙を大きく、相手との距離を適切に保つための壁としてではなく、むしろその壁を崩してふところを広くするようなつもりで。そうした仕草は身体からだみついたもので、具体的にどうしようと考えることもなく彼は行っていた。

 エセックスの扉に寄りかかって立つシーモアのもとにルーミーたちが現れたのは、彼が何度目かにきゃあきゃあという女性たちへと手を振った後でのことだった。

 流れに乗って出てきたサニーが、こちらに先に気づく。

「あ、兄さん。待っていてくれたんだ」

 シーモアとほとんど変わらない長身は、料理教室が行われたらしい邸宅から出てくる人々の中でも頭一つ抜けていた。

 美しさという意味で頭一つ抜けているルーミーと並ぶと、その二人組は驚くほどに目立つ。どうやらこの料理教室を──おそらく何割かは趣味で──やっているらしい家主の女性へと手を振りながら、シーモアはそんな感想を抱いた。

 シーモアが誰に手を振っているのかと背後を見て、サニーがあきれて眉を持ち上げる。

「兄さん、まだそんなことしてるの?」

「そんなこと?」

「女の人を見たら鼻の下を伸ばさずにはいられないのかって話」

 思わず手を鼻の下にやる。

 軽くこすってからキメ顔を作り、一度片目をぱちりとつむる。サニーはくるりと目を回して、隣に立つ吸血鬼へ問いかけた。

「ルーミーさん、どう思います、この兄」

「まぁ、ほら、シーモアさんの仕事に必要なものですし、あいって…………

「ほら、ルーミーもそういってくれてるし。そういえば料理教室はどうだった? どんな感じの話をしながらやってるの、ああいうのって?」

「それは、あー…………

「聞いちゃダメよ。デリカシーがない兄さんだなぁ」

 そういうものだろうか。

 世間の普通の女性や少女がそうするように、男には聞かせられない秘密のうわさばなしに花を咲かせるルーミーというのはちょっと想像がしづらい。

 だがそもそもとして、秘密だから想像ができないという方が正しいのかも知れない。

「そーれーよーりー」

 サニーがその長身を曲げて人差し指をこちらへと向けてくる。

「『ほら』じゃないのよ。大事な話なんだから流さないの。兄さんの今までの女性遍歴とか、遊び癖に文句をいうつもりはないけど、今はちゃんとルーミーさんと付き合ってるんでしょ」

 家を出て暮らしていた頃も最低限の交流はサニーとは持っていた。当然ながら一番荒れていたシーモアの生活を──もちろんシーモアは本当にまずいことはいつも隠していたが──ある程度サニーは知っている。

 過去の生活態度の悪さをおおっぴらに口にされ、ほんのりと気まずさを感じる。そのままシーモアは視線をルーミーへと向けて、ぎょっと目を見開いた。

………………

 ルーミーがむっつりと黙り込んでいたからだ。

 表情はほとんど変化していないが、眉の角度が僅かにだけ変化している。その表情に変化を生むまいとする態度が、むしろ彼女の内心に生まれた屈託の大きさを表していた。

 恋人の過去に触れられそこに不快感を示す。

 人間の感情表現でそのまま言い表すならば、それはきっと嫉妬になるのだろう。

「ルーミー…………?

 そのことにひどく戸惑いを感じてしまうのは、その感情があまりにも吸血鬼からは縁遠く思えるものだったせいだ。

 これまでもシーモアの過去の素行の悪さが会話の端々に語られることはあった。

 そうした時、ルーミーは特に目立った反応を示していなかったはずだ。だから彼女はそうしたことには関心がないのだとてっきり思っていた。

「そうですね。シーモアさん、女性に人気ありますもんね」

 どう見ても、今のルーミー・スパイクはねていた。

 シーモアと同じ感想をサニーもまた抱いたのだろう。サニーが慌ててその長い両腕をぶんぶんと振って、そういった意図でいったことではないのを示そうとする。

「ち、違います、違います! そういう悪い兄さんだったのももう昔の話ですし! ね、兄さん! もう遊んでないよね!」

「そ、そりゃあそうだろう! 大体僕がどれだけルーミーのことが好きなのか、言葉で伝えられないのが残念なくらいでさぁ!」

「言葉以外でも表してくださっていいんですよ?」

「するする。君に愛を疑われないためなら何でもするって」

「本当ですか? どんな行動でも?」

「それは…………つまりこういうこと?」

 ひょいとシーモアは大きく両腕を広げてみせる。わかりやすいハグの仕草に、視界の端で顔を覆ったサニーがきゃあきゃあといっていた。

 が、ルーミーはそれに応じることもなく、してやったりとばかりの笑みを浮かべる。

「ハグはいいので、明日のゴミ出しお願いしていいですか?」

「うぐっ、面倒くさい家事だ…………

「何でもしてくださるんですよね?」

 シーモアが嫌いな家事は百個も二百個もあるが、当然ながらゴミ出しはそのうちのひとつだ。大仰にため息をこぼす。

 とはいえ、これで手打ちということなのだろう。

 本気でねたのかも知れないが、それでも一旦不問にするという落としどころを作るための冗談。ならば甘んじて受け入れねばならない。

「そもそもルーミーさんに家事を任せっきりなの、やめなよ兄さん」

 サニーがあきがおだったが気にしないことにした。

 過去のことは過去のこと。今はそれなりに真面目でそれなりにまともな、それだけしか価値のない自分を受け入れて生きていこうという気持ちなのだ。

「さ、帰ろうか────

 シーモアは仕草でルーミーたちに車に乗るよう促そうとして、

────パパ!」

 とん、と背後から軽い衝撃を感じた。

 犬か何かに飛びつかれたような感覚と、同時に耳に届く聞き慣れない言葉。伸ばされた小さな手が自分の腹側へと回ってきたことで、どうやら誰かが──それもシーモアの腰ほどまでしか身長がないような誰かが抱きついてきたということを理解する。

 首をひねってれば、そこには幼い少女が一人いた。

………………うん?」

 不明瞭なうなり声を上げたシーモアへ少女が笑いかける。

 そのものの満面の笑みだった。

 その笑顔のまま、爆弾をぶち込んできた。

「やっと見つけた、パパ! サム、パパに会いたくてきちゃったんだ!」

 空気が凍る。

 数秒、誰が何をいうこともできない、どうしようもない停滞があった。そしてシーモアとサニーがそれを同時に破ることになった。

「「えぇぇええええええええええええっ!?」」


「サムだよ! パパに会いにきたの!」

 狭苦しいガレージに器用に収まったエセックス。

 そのボンネットの上で少女──サムはそういった。それから、彼女にとって日付も変わるこの時間は遅すぎるのか、一度大きくあくびをする。

 彼女に突然飛びつかれてから少し後のことである。料理教室の前でご近所のうわさの種を振りまく気にもなれず、仕方なしにその少女を連れてガレージへと帰ってきていた。

「はぁ、えっと、なるほど…………

 サムの言葉に曖昧にうなずく。

 肯定にしろ否定にしろ、はっきりしたことをいったら大変なことになるという、そういう予感だけははっきりしていた。

 冷や汗を背中に感じながら、そっと問いかける。

「その、パパっていうのは…………

「パパだよ! あなた、シーモア・ロード!」

「うぐっ」

 はっきりと名前をいわれてしまった。これではしらを切ることもできやしない。いや、しらを切ると決めたわけではないし、しらを切らなければいけないような事実があるとも認めていないが。

 額を拭いながら、少女を改めて観察する。

 黒に近い茶色の、地味な色をした髪の毛を腰の辺りまで長く伸ばしている。くりくりとした緑色の瞳は興味深そうにガレージのあちこちを走り、そしてその中でもひときわ多くシーモアに向けられる。

 視線がこちらに向くたびに、シーモアは針でチクチクと刺されるような居心地の悪さを覚えた。サムの視線は好意的なものだが、そういう問題ではない。

 そして、これがとても重要なこと。

 見たところサムの年齢はニベルコルやリンよりもやや下、十歳には少し足りないくらいに見える。十年前くらい…………と想像してシーモアは思わず遠い目をした。

 学校をやめ路上で暮らし、一番生活が乱れていた頃である。

「その…………心当たりは?」

 ちょうど帰ってきて、話を聞いていたニベルコルがそっと身体からだを寄せ、小さく問いかけてきた。その背後でリンもハラハラとした様子でこちらを見つめている。

…………アンバーか、エリー。あのくらいの年齢なら、ナタリア…………いや大丈夫、大丈夫だったはず…………!

「何も大丈夫じゃないことはよくわかったわ」

「いやいやいやいや! 僕に子供がいるわけないだろ!? いないって、多分!」

「えっ」

 小さく声を上げたのはサムだった。

 見開かれた彼女の緑の瞳に、みるみるうちに涙の粒が盛り上がっていく。

「パパ、サムのこと、娘だって思ってくれないの………………?

「うぐぅ!? いや、その! 何かがですね! それを認めると何かが危うくてですね!」

「サムは、一目見てパパのことをパパだって感じたのに…………!

 今度は明確に言葉に詰まる。

 それは、確かにそうだった。

 これが血のつながりなのだろうか。突然現れた娘を名乗る少女を一言で否定せず、わざわざ家まで連れ帰ってきたのは同じことをシーモアもまた感じているせいだ。

 多分、この少女は自分と何か関係がある。

 そんな感覚がある。

「だとしても娘ではない…………! 僕はそういうとこしっかりしているタイプのくずだったし…………!

「まぁ、あたしはあなたがどんなくずでもどうでもいいんだけど、言い訳する方向が違うんじゃないかしら」

 ニベルコルが肩をすくめ、ひょいと手で一方向を示した。だらだらと汗を流していたシーモアは、一層それが流れ出すのを感じた。

 その方向に、ルーミーがいるからだ。

………………………………………………………………………………

 無言であった。

 サムが現れてシーモアの娘を名乗って以来、ルーミーは全くの無言であった。その顔には一切の感情がなく、なぎのように静まりかえっている。彼女がシーモアやサムに対してどんな感慨を今抱いているのか、何一つとして見いだすことができない。

 そのことがひどく恐ろしくて仕方がない。

「あ、あのー、ルーミーさん。これは違うんですよ。ちょっとした手違いでして」

………………………………………………………………………………

「というかまさか今になってこんな事態が発生するとは……。過去の僕は実際そういうやつだったので、そこに言い訳はできないんだけど……」

………………………………………………………………………………

「そう考えると、この件についてはもう、謝るしかないんだよなぁ。だからせめて先にどれくらい怒っているのか教えてくれると助かるんだけど……」

 ごにょごにょとシーモアの言葉がしぼんで消えていく。

 その口が完全に止まってしまったところで、ルーミーはようやくというように一度まばたきをし、ゆっくりと口を開いた。

…………。そこまで先にいわれると怒りづらいじゃないですか」

 深い深いため息がそれに続く。

「というか、元からそんなに怒ってはないですよ。シーモアさんがそういう人なのは、最初から知ってましたし、知った上で恋人になったんですから」

「ルーミー…………!

「あ、でもなんかそれでも気分は悪いので、死ぬ気で機嫌を取ってくださいね」

「そ、それはもちろんでございます! 死ぬ気でとりあえず足なめさせていただきます!」

 腰を低くしてすり寄っていったシーモアを、雑にルーミーが蹴っ飛ばす。

 ルーミーは立ち上がってサムに近づいていった。ボンネットに座っている彼女に視線を合わせるため、軽く膝を折る。

「初めまして、サムさん。私はルーミー・スパイクです」

 子供に向けるために作られたとわかる笑顔と、穏やかな言葉。

 しかしサムの顔に浮かんだのは不審者に相対したような当惑で、彼女はシーモアの方へと振り向いてくる。

「あの、パパ。このおばさん、誰?」

 すぱりとした失礼な物言いに、ルーミーの頰がひくりと引きつるのが見えた。

「ルーミー・スパイクです。二度目ですが。今、シーモアさんと交際をしています」

「えっ、パパ恋人いるの? ママは?」

 純粋な問いかけが大変に痛い。

 ルーミーもまたそうした物事を子供に語って聞かせるつもりはないのか、その質問には触れずに、自分の質問を投げかける。

「それ、私も聞きたかったです。シーモアさんの子供ということですけど、具体的にお母様のお名前を聞いてもいいですか?」

……………………むぅ」

「サム、お願いだから素直に答えてくれ。僕の胃が保たない」

「んー、でもサム、いわないよ。だってママがいわない方がいいっていったもん!」

 サムが得意げにその小さな鼻をひくつかせる。

「ママが誰かわからない方が、パパはきっと助けてくれるからって」

 とりあえず、と思う。

 この少女の母親が誰であるかはさておいて、その人物がシーモアのことを知っているのは間違いない。その物言いは、明らかにシーモアのことを知っていないと出てこない。

 そして実際、迷惑をかけたりかけられたりして過ごしていたあの頃の誰かがこの子をたどった先にいるのかと思うと、限りなく見捨てづらくなったことは事実である。

 シーモアはぐりぐりと頭を擦って、首を振る。

「サム。君、お母さんのところに帰ることはできる?」

「無理!」

「帰れない? 家はどこなんだ?」

「おうちはないよ! だからママが会いに行けって!」

…………。家がないような、なんか切迫した事情がある」

「事情があることはいっちゃダメってママに習った!」

「なるほど。まぁ、なかなか素敵な教育をするお母さんだったみたいだね」

「『おかあさん』じゃなくて、パパの恋人だよ!」

「うぐぅっ!」

 だからそういうことはやめて欲しい。

 一言言われるたびに寿命ががりがりと削り落とされている気分になるのだ。

「で、シーモア。結局どうするの、その子のこと」

 そういいながらも、ニベルコルの言葉はシーモアの答えをすっかり予想してしまっているような響きだった。

 実際、そうではある。

 シーモアはちらりと視線をルーミーに向けようとして、結局答えが同じであることに気づいてやめた。

「まぁ、その。助けるしかないよね」

 背後でルーミーの大げさなため息が聞こえた。



「パパ、起きてー!」

 どん、と腹の上に乗った衝撃でシーモアは一度うめいた。

「起きて、起きて、おーきーてー!」

「わかった。わかったからやめてくれ。吐く」

 どうにか目を開ければ、案の定そこにはサムがいた。彼女は子供にしか実現できないような寝起きのテンションの高さで、シーモアの上で飛び跳ねている。

 ガレージの隅にブランケットだけをかぶって転がっていたシーモアは、身体からだのあちこちにバキバキとした痛みを覚えながら起き上がった。時刻は昼過ぎ。夜と昼の境を生きるものたちにしては標準的な起床時間だ。

 ぴたりとサムがすり寄ってくる。その態度は人間の少女というよりは、犬か猫を相手にしているような気分にさせられた。高い体温と多い毛量も実にそれっぽい。

 同じ時間帯にルーミーは起き出し、先に起きて昼間の仕事をしていたバーズアイ姉妹は外から帰ってくる。

 そうしていつも通りに一人を加えたガレージの中を見て、シーモアは出し抜けにいった。

「いや、狭いな、おい」

 元々はシーモアが一人で生きていくためだけに借りていたガレージである。

 それがいつの間にか一人増え二人増え、気がつけばこの人数だ。どうにかやりくりしてきてはいたが、もう限界という感じがありありと漂っていた。

 朝食を準備しようと身体からだをひねっていたルーミーが、べったりとした視線をこちらに向けてくる。

「それもこれも、シーモアさんが次から次に女の子を拾ってきちゃうからですけどね」

「いや……その……女の子なのは単なる偶然だし…………!

「そこも問題ですけど、今問題なのはそこじゃないですよね?」

 シーモアは曖昧に視線をさまよわせる。

 一時的にならばエセックスを路上に出し、シーモアがそこで寝起きするなどで無理矢理スペースを確保することはできるが、どうしたってそれはその場しのぎだ。

 どうしようか、と悩むシーモアの隣でサムがニコニコと笑っている。

「サムはパパと一緒にいられるのならどこでもいいよ! どこか別の場所で一緒に暮らす?」

「そうするなら私とシーモアさんが別で暮らします。そうするのが自然ですから」

「えー、家族が一緒に暮らす方が絶対普通だよ。ねー、パパ。パパもそう思うよね?」

 ずばずばとした物言いにシーモアの胃がねじ切れそうだが、サムとしてはそれほどこの会話にこだわるつもりはないらしい。

 彼女は朝方に仕事をしてあくびをしているリンへと駆け寄り、両手を広げる。

「リンお姉ちゃん、おはよー! ぐるぐるしてー!」

「ううー!」

 リンがサムの脇へと手を通し、その身体からだを軽々と持ち上げる。そのまま器用に狭い空間で彼女の身体からだを振り回し始めた。

「うわーい! ひゃほーい!」

 リンのたいにもものじせずになついているらしいその様子を見て、シーモアは眉を下げる。それ自体は喜ばしいことだが、ああもひとなつこいのがサム本来の性質なのだとしたら、どうしてルーミーとの会話は毎回あんなありさまになってしまうのだろうか。

「そりゃ、独占欲でしょ」

 ひょいとのぞき込んできたニベルコルがすぱりと答える。

…………こっちの内心を勝手に読まないでくれよ」

「二人とも子供だから、あなたが他の誰の何かであるってことを初めて知ったんでしょ」

「二人って…………

「ルーミーさんもよね。あんな風に意地を張って」

 まるっきり幼いサムが、一応父ということになっているシーモアに対してそういう子供のような強い感情を振り回すのはわかる。

 だが、ルーミーにそういう印象はない。

 いや、なかっただけなのだろう。変わったのだ。昨日のサニーとの会話への反応も合わせて、きっとそういう風に変わったのだ。

………………愛されてるなぁ、僕」

「その愛も! こんなことばっかりだと冷めちゃいそうですけどね!」

 がん、と強い勢いで朝食が床に置かれる。ルーミーから注がれる冷たい視線に、シーモアは背筋を震え上がらせた。

 いつも以上に騒がしい朝食を終え、仕事の準備へ。

「今日はちょっときゆうきよだけどニベルコルについてきてもらおうかな」

「あら、いいの。私の分の仕事が一日遅れることになるけど」

「いいよ。どうしようもないのは後で手伝う。ほら、さすがにサムを家に一人で置いておくわけにはいかないし」

「今日、パパと一緒にいれるの!? わーい!」

 サムが元気よく抱きついてくる。

「じゃあいこっ! すぐいこっ! えへへ、やったー!」

「一応いっておくけど、仕事だからな?」

「知ってるよぉ。お利口さんにできるもん!」

 シーモアの手が引っ張られ、その足がエセックスへと向かう。

 その背中へ小さくルーミーが手を伸ばしかける。

………………あ」

 振り向いて、シーモアは笑う。

「おっと、そうだった。はい、どうぞ」

 どういった表情を浮かべればいいのかわからないという顔で、ルーミーがその唇を額に寄せてくる。ふと思い立って、普段ならばそれで終わるおまじないに、シーモアはもう一つ付け加えることにした。

 そういって、シーモアの方からルーミーの額に唇をつける。

 つやりとしたその感触を僅かに感じてから、すぐに離した。

「じゃ、いってくるよ。無事を祈っててね」

……………………こんなことでごまかされませんからね」

 ルーミーはむっつりとした顔を保ちながら振り返った。

 少なくとも彼女はそのつもりだっただろう。

 だが背後を見るそのぎわ、どうしようもなく緩んだ口元を隠し切れてはいなかったので、今ので正解だったに違いない。

「あ、パパずるい! サムも、サムも!」

「ははは。困ったな。身長が違いすぎて届かないや。ごめんね」

「しゃがんで! しゃーがーんでー!」

 適当にサムの頭をでながら、シーモアは改めて車に乗り込んだ。


 車で配達すべき仕事を一通り終え、その後ようやく始まった本命の仕事は、見た目上とても地味なものだった。

 やることはシンプルである。ここに来る途中で指定された場所から回収した大量のビラを抱え、家々の玄関の隙間へと押し込んでいく。それだけ。

 ただ少し奇妙な点があるとすれば、ビラは複数の種類が用意されており、これもまた事前に渡されたメモの指示に従って家に入れるビラを選択しなければいけないところだ。家の大きさや世帯の名字、あるいは番地の数など様々な変数に応じて入れるビラは変化し、時には入れないことも選択しなければならない。

 自分が実験室のマウスか、テストで算数の問題を解かされ続ける生徒にでもなった気分でシーモアはビラを配り続ける。

 その隣でニベルコルが首を振った。

「また変な仕事ね。意味あるの、これ?」

「あるかどうかでいえばあるんだろうけど」

 そういってシーモアは手の中でメモを揺らめかせた。

 フランから渡された煙草の中に押し込まれていた紙切れである。このビラ配りこそが、フランが昨日依頼してきた仕事だった。

「もしかしたら意味があるかを確認中なのかもね」

 情報屋である彼女は、その店を爆破されるという形で一度仕事への自信を砕かれている。

 そうして始めた新しい事業があの電話とラジオの集積地のような店であり、その効果のほどがどれくらいなのかはフラン自身にもきっとつかめていないのだろう。

 こうしたビラ配りも、おそらくは自分が電線の束を通じてどういった影響を与えることができ、あるいは与えることができないのか、把握するための活動の一環に違いない。シーモアはそう予想する。

 もちろん、ニベルコルに必要以上につまびらかにはしないが。

「いやぁ、それにしても、持ち物が多いから一人増えるだけで大助かりだよ。それに、今日はサムもいるしね」

「あんたねぇ、そうやって面倒なことをまたあたし任せに…………ほら、サム! 勝手にふらふらしないの!」

 話している最中にもどこかへと離れていこうとするサムに、慌てた様子でニベルコルが走り寄る。その面倒見のよさは生まれつきのものなのか、それとも姉としての生活が養ってきたものなのか。

 どちらにせよ、興味深そうにあちこちをうろつくサムの世話はニベルコルに頼んでしまって大丈夫そうだ。二人の後ろ姿を眺めたシーモアは、勝手にそう判断して手元のメモに集中する。変数が多いせいで割と手間がかかるのである。

 ニベルコルがサムを連れて戻ってくる。そのサムの手の中にチョコレートキャンディーが収まっているのを見て、思わずほほんでしまう。

「何よ」

 その暖かな視線が気に食わなかったのか、ニベルコルがねめつけてきた。

 ただ日頃のそれに比べれば随分と迫力不足だ。

「いやいや。君も成長したんだなって」

「親みたいなこといわないで。気持ち悪いわ」

 かつて出会った頃のニベルコルは、そのチョコの一かけすらも他人に与えようと思わず、与えることもできない少女だった。

 それが今や出会ったばかりの見知らぬ子供にチョコを分け与えられるようになったのだから、シーモアが日々胃をすり減らしながら会社を経営しているもあるというものである。

「パパ、パパ、知ってる?」

 ひし、とサムがももの辺りにひっついてくる。

「チョコって甘くてしいんだよ! すっごく甘いの!」

「へぇ、それはいいことを教えてもらったかもだ」

「むぅ…………感動が足りない! もっと驚いて!」

「そんな今日初めてチョコを食ったんでもないだろうに…………

 シーモアがいいながら視線を向けず、ビラを誰かの家の玄関に突っ込んでいたのは、どうしたって子供に対する苦手意識があったからだ。

 人をけむいたり、眉をひそめさせたりする類いのジョークが好きな口の持ち主からすると、それが通じない相手は大体苦手としている。純真な子供というのはその最たるものである。

 そのシーモアの後をひよこのようについていきながら、サムがチョコをかじる。

「えー、食べるの初めてだよー!」

「へえ…………?

「初めてなこといっぱいですごく楽しい! 車にも初めて乗れたし!」

「あのね、初めてなことには危ないこともあるんだから、一人でどっかに行かないの!」

「お姉ちゃん、こわーい!」

 きゃっきゃと騒ぐ少女たちに首を振って、なくなりかけたビラを抱え直す。そうしてシーモアは次の家の玄関へと歩み寄って、

「おっと」

 ビラを差し込もうとした瞬間、扉が開いた。

 どうやら家の中から出てきた人物も、そこにシーモアがいると気づいて出てきたわけではないらしい。偶然そこに立っていた男に対して、シーモアの妹よりは若そうな少女が一度まばたきをする。彼女に対して何か言い訳を口にするよりも早く、少女がこちらの顔を見て声を上げた。

「運び屋さん!」

…………はい?」

 僅かに困惑。

 どう見ても少女は日の当たる世界の住人で、シーモアのような運び屋に縁が生まれる類いの人間ではない。最近はシーモアもまっとうに暮らしてはいるが、それでもやはり高校生くらいの少女が運び屋に仕事を依頼することなどないだろう。

 が、程なくして彼女の顔に散らばるそばかすが、シーモアの海馬を刺激した。

「あー、いつかの、ラジオの!」

 苦い味が舌に広がったのは、シーモアにとって心地よい記憶ではないせいだ。

 ちょうどニベルコルとリンが家に駆け込んできた頃、シーモアはマフィアからの依頼でラジオの原稿を運んだことがある。正確にはマフィアが強奪した原稿を、だが。

 そしてその原稿の正当な持ち主だったのがこの少女だ。

 高名な脚本家であり既にこの世を去った人物であった彼女の父親。その父親がのこした最後の作品の原稿をマフィアが奪い去り、一時的にシーモアの手元にそれが回ってきた。まだシーモアが運び屋を会社として設立するよりも以前の話である。

「その節はありがとうございました! 運び屋さんのおかげでお父さんの形見の原稿も戻ってきて、お礼をいいたかったんですが運び屋さんの名前もわからず…………!

「あー、いやいや。いわないでください。ほんとに。マジで」

 あの時は色々あって、シーモアはこの少女を見捨てた。運び屋としての役割に徹して、この少女に返すべきだった原稿をマフィアへと渡したのだ。

 その原稿が結果として少女の手元に戻ったのはちょっとした偶然と、多大な幸運のおかげでしかない。

 据わりの悪さに首元をごりごりと擦って、それから視線を左に逃がす。

「あ、お礼はあっちの子に。正確にはあっちの子の妹ですけど」

「へっ、何!? 何の話よ!」

「ありがとうございます!」

「だから何の話かって聞いてるんだけど!?

 あの時多分なんとかしてくれたのだろう妖精の、その妖精が連れてきた子供であるリンの、そのリンの姉であるニベルコルが突然少女に手をつかまれて盛大に動揺していた。

「パパ、この人はー?」

「んー。ちょっとした縁のあった相手」

「縁?」

「生きていれば色々あるってことだよ」

 サムの頭をでてやると、彼女は機嫌のいい犬のように目を細めた。

 少女がニベルコルを抱いたままこちらを見てくる。

「私、ベッキー・ラングレーです。運び屋さんのお名前は…………?

「シーモア・ロードです。でもお察しかも知れませんが、僕みたいなやつの名前はこれからの高校生活を健やかにしたいのならば覚えない方がいいですよ」

「そんなこといわないでください! そうだ、この前のお礼もありますし、この後ってお時間あったりとかしますか! 私、実はお父さんの後を継いで仕事も始めてて────

────シーモア」

 シンプルな呼びかけが聞こえて、シーモアは視線をニベルコルに向ける。

 彼女がうなずいたのを見て理解。どうやら、状況はこの後のお茶をゆっくりと楽しめるようなものではなくなったらしい。

 にこやかな笑みを浮かべて、首を横に振る。

「すみません。実は仕事の予定が詰まっていて、お誘いはありがたいのですが」

「パパ、今日の仕事はこれで一旦終わりって────もがっ」

「名刺をお渡ししますので、連絡はそちらに。とはいえ本当にお礼をいっていただくようなことはないんですけど」

 シーモアの急な態度の変わりようにベッキーは戸惑いを浮かべるが、しかし彼女はすぐに社会的な礼儀を思い出すことに成功した。

「いえいえ! こちらこそお仕事中にすみませんでした! 絶対連絡しますね!」

「ええ、ではまたの機会に。二人ともいきますよ」

 サムの背中を手で押して、ニベルコルを連れて歩き出す。その足取りは少女たちがついてこられるギリギリの速さを保つ。

 視線を動かさないようにしながら問いかけた。

「きた?」

「きたわ」

「もう驚きもないけど、やっぱり、そういう相手?」

 ええ、とニベルコルがうなずく。

「マフィアよ」


 何らかのトラブルを抱えて転がり込んでくる少女。

 というものがシーモアの下に現れるのはこれが初めてのことではない。そろそろいやが応でも慣れというものは生まれるし、ある程度の先読みもできるようにはなる。

 母親にいわれ、事情も明かさずにシーモアの下へときたサム。

 となればシーモアがマフィアの追跡や襲撃を警戒するのは、もう至極当然な流れとしかいえないものだった。

「しかし、うわー、マジできたのかよ……。サム、心当たりは?」

「え、あの、その、わかんない!」

 そういったサムの表情にあるのはあせりと困惑だ。

 全く心当たりがないわけではないが、これがそうであるとは確信し切れていない表情。

「何か、やっぱり隠してるよね?」

…………

 サムが唇を引き結ぶ。

 詳しく聞いてみたい気もするが、ここで事情を追及するほどの暇はないだろう。無理に聞き出すというのも考え物ではあるし。

 ならば、これはサムが原因で起きたトラブルなのだろうか。

「別の線もあるわよ。単にあなたがトラブルを抱えていたとか」

…………ないとは言い切れないなぁ」

 ニベルコルの指摘に首を振る。

 シーモアの仕事は徐々に一般の世界からのものが主流になりつつあるが、それでも裏の世界とのつながりも続いている。

 ニベルコルに指摘されて気づいたが、今日たまたま襲撃があったためにサムと関連性があるように感じられるだけで、実はこのマフィアの追跡はシーモアを狙ってであるという可能性も、高くはないが確かに存在している。

 それにしても、とシーモアは歩きながら視線を背後に向ける。

 既に歩き始めて数分が経過しているが、ようやく追跡者たちの気配が感じられるようになってきた。少女二人で路上生活を続けてきただけあって、ニベルコルの敵意に対する敏感さはシーモアよりもずっと高いものだ。

「で、どうするの? っていっても私を連れてきた時点で決まってるんでしょうけど」

「いや、そのー、そういうつもりじゃなかったんだけどね?」

「うじうじしないで。別に怒りやしないわよ。むしろ私の能力をきちんと評価してくれてるんだから、喜んであげてもいいくらいだわ」

「合流は?」

「車。五分くらいでいくから」

 そういってニベルコルはシーモアの手からするりとサムの手を抜き取った。

「えっ、どこいくの? あれ?」

「ちょっと別行動よ。あたしとあなたはこっち。そこのパパさんはあっち」

「えっ、パパぁ!」

 露骨にさみしそうにこちらを見られると、さすがのシーモアも少し悪いことをしたのではないかという気がしてきてしまう。

 ただニベルコルはもっと慣れたものだった。

「はいはい。いくわよ。いい子にしてればきっと後でパパが褒めてくれるだろうから」

「えっ、ほんとに!? パパ、サム頑張ってくるね!」

 ひらひらと手を振って送り出す。

 マフィアから追っ手がきている。その目的がシーモアとサムのどちらなのかわからない。となれば取るべき方策は極めて明快である。

 二手に分かれてしまえばいいのだ。

 もちろんサムを一人で街に放り出すわけにはいかないので、彼女のお守りとなる人間が必要だったことも間違いない。

「ニベルコルには悪いことをしたなぁ」

 こちらから押しつけるまでもなく、向こうからお守りを買って出られてしまった。リンやルーミーと違ってただの少女である彼女が、マフィアからの追っ手をつり出す目的では最も適切だったことは間違いなかったが、保護者代わりの身としては泥をかぶるくらいはさせてほしかったものである。

 サムたちと別れたシーモアは一人で歩き出す。

………………

 こうして一人で街をさまよっていると、少し昔に気分が戻る。どこにいても何をしていても迷子のような気分がしていた、そんな頃だ。

 だがその頃とは既に決定的にシーモアは変わっている。

 あの頃は一人で歩けば、それが全てだった。一人で歩く自分のみが自分といえるようなもので、それ以上でも以下でもない状態がそこにあった。

 今ではもうそんなことはできない。家にはルーミーがいて、リンがどこかで仕事をしていて、そしてサムとニベルコルがマフィアから逃げている。どれほどここにいる自分だけを意識に残そうとしても、どこかに彼女たちは残る。

 仕事を誰かに任せるなんて、という気持ちに名前をつけるとしたら何だろうか。

 落ち着かないし、不安だし、自分一人で全部できればとも思うし、同時にそんなことが不可能だとも知っているし、もどかしいようでどこか心地よさもある。

 いまだ慣れないが、いつかは慣れないといけないのだろう。

 いや、少女をマフィアに追いかけさせて一人のんびりと歩いているこの状態が素晴らしい大人であるかどうかはさておいて、だが。

「これは僕の方は外れだなぁ………………

 距離を詰めてくる気配がない。いくつかの視線は感じられるが、それもひどくおざなりだ。

 つまりマフィアがサムを狙っているのは確定と見ていい。

「一応昔ニベルコルを追ってたおっさんどもって線も残っているけど……いやないな」

 今更そんな連中に出てこられても困ってしまう。

 無事にエセックスに到着した後、シーモアは緊張を紛らわすために伸びをした。どこかでニベルコルが追われていて、もしかして窮地に陥ったりしているかも知れないが、自分にできることはない。

 その状況にひどく落ち着かない気持ちにさせられながら、同時にニベルコルに対して申し訳ない気持ちにもなっていた。

 ちゃんと彼女の力量を信頼もして、ここで一人待っているので、許して欲しいものだ。

──────シーモア!」

 ニベルコルが視界に入ってきたのは、シーモアが日陰で冷え切ったドアを開き、エセックスのエンジンをかけた後のことだった。

 周囲の人目を引かないようになのだろう。走らない限界の速度でニベルコルはこちらへと向かってくる。サムに気遣う余裕すらないそのあせり具合が、彼女の置かれている状況のひつぱく具合を示していた。

「ごめん! 思ったよりも多かった! ききれなかったわ!」

「パパ、パパ! めっちゃ人きてる!」

「乗って! すぐに出す──────

 クラッチを蹴って車を走らせようとした瞬間、シーモアの動きが凍り付いた。

 ニベルコルが逃げ切れなかったという時点でよほどマフィアが本腰を入れて追いかけていたに違いないと判断していた。

 が、それでもニベルコルの背後から迫る男がふところから無造作に拳銃を引き抜いたのは、予想を超えていたからだ。

──────!

 昼日中から銃撃しようというのか。

 それほどの事情をマフィア側は抱えているのか。

 いや、問題はそこではなく、ここで車を無理に発進させれば本当に撃たれる可能性が高いということだ。

 仮にシーモア一人であれば、撃たれればそれまでと容赦なくアクセルを踏んでいただろう。それが最も被害を小さくする方法であると知っている。

 しかし今は後ろにニベルコルとサムがいる。

 成人男性であるシーモアが撃たれるのと、いまだ成長途中の少女たちが撃たれるのでは致命傷になる可能性が大きく違う。被害を抑えるためにはそれでも発進するしかないとわかりつつも、決断をしきれない。

 シーモアはただ身を固くし、飛び込むように後部座席に入ったニベルコルとサムもまた止まって、

…………………………………………

 何も起きなかった。

…………………………………………?

 こちらに迫るマフィア。窓ガラスがたたかれ、あるいは罵声が投げかけられる。

 そうした想像をしていたにもかかわらず、それらの何一つとして起きなかったのである。ただマフィアはその眉に困惑をにじませ、ふところに拳銃を入れながら、首をあちこちに巡らせている。

 まるで目の前にあるエセックスを突如として見失ってしまったかのように。

 そう気づいた瞬間、シーモアは手を伸ばしていた。後部座席、間近に迫るマフィアを見て悲鳴か何かをあげようとしたサムの口にてのひらを押しつけ、その声を無理矢理抑え込む。

……………………むー!?

 そのすべすべとした頰に触れた瞬間小さなひらめきがあったが、今は一旦脇に置いておく。

「静かに。ね」

 シーモアが潜めた声でささやく。その視線の先でマフィアの男たちは続々と路地から現れ、しかしその目の前にまったエセックスへとたった一つの視線すら送ることなく、首をひねっては三々五々に離れていく。

 ニベルコルが不審そうに眉間にしわを寄せて、それからこちらを見た。彼女の指先が、自分の胸元をたたく。

 そう、シーモアはこの現象を知っている。

………………いやもう、マジありがとう、ルーミー」

 シーモアが借り受けた吸血鬼の心臓。

 それが彼に吸血鬼としての文脈を持たせているのである。暗闇になじみ、影に潜むのはそうした性質の最もわかりやすい現れだ。

 数分後には、通りには誰もいなくなっていた。マフィアたちは、シーモアたちが慌てて離れていったと判断して、どこか見当違いの方向に走って行ってしまったのだろう。そのことをじっくりと確認してから、どっと息を吐き出す。

「あぶねー…………。なんとかなったかな?」

「私も肝が冷えたわ。あんな人数に追われるなんて想定外だったし…………その、ごめんなさい。あんなに自信満々に別れておいて、かなり危なかったもの」

「いーや。むしろよく頑張ってくれた。ほんとにありがとな」

 雑に頭をでてやると、ニベルコルは不満かつうれしそうという器用な悲鳴を上げた。

……………………

 その隣でサムが黙り込んでいる。

 その顔は緊張と恐怖によって引きつっていて、しかしそれはマフィアに追われたからというものではないように見えた。

 むしろもっとなじみのある顔だ。

 うそがばれて親に怒られると覚悟を決めようとしている表情。

…………。ま、話は後でな。僕も考えをまとめたいし」

 今追及をするべきではない。

 少なくとも、泣かせたいわけではないのだから。なのでニベルコルにしたよりも優しくでてやると、サムはこくりと小さくうなずく。

 シーモアは改めてエンジンをかけ直し、緩やかにエセックスを発進させた。

「やっぱ便利だよなぁ、吸血鬼の身体からだ。もっと借りれたりはしないかな。ダメか」

 つぶやきながら、ふと思う。

 暗闇になじむ。その性質によってシーモアはたった今助かった。しかし、どうだろうか。今までその力が使えたのは、シーモアが一人で、もっと濃い影に潜んでいた時のみだ。そのくらいが後付けで心臓を手に入れたシーモアの振るえる力の限界なのだと、自然に理解していた。

 今、シーモアたちを覆っているのは昼日中のひどく薄い影。

 それも車ごとという、今までにない範囲を能力に収めている。

………………

 果たして、吸血鬼の心臓はそんなにも強烈に能力を発揮できるものだっただろうか。


 ルーミーの頰をつまんでみる。

 見た目の心配になるほどの薄さとは裏腹の柔らかさ。引っ張ると意外と伸びるし、伸びても美人は美人だ。むにむにとそれをいじり回していると、仕事の準備をしていたルーミーが思い出したように眉をひそめた。

「らにふるんれすか」

「んー」

 考えていたことを確かめる。

 思考に沈んでいる間に口は勝手に返事をしていた。

「ちょっと荒れてるね。サムに比べるとちょっと汚れてる」

「おい」

 吹っ飛ばされた。

「ぐわぁああああああっ!?

 盛大に棚に突っ込んでから自分が何をいったのかをようやく理解する。この口が勝手に、と言い訳をするまもなく、ルーミーが足音も荒くガレージから出ていく。

「買い物に行ってきます!」

「気をつけてねー」

 機嫌を損ねてしまった、とひっくり返ったまま嘆息するシーモアに、サムが歩み寄ってくる。先ほどのマフィアとの逃走劇は少女に多大な負担になったのか、ガレージに着いた辺りから彼女はすっかりしようすいしてしまっている。

 ちなみにニベルコルは疲れも見せずに今も仕事に行っている。大変元気なことだ。

「だ、だいじょうぶ…………?

「大丈夫、大丈夫。これくらいはじゃれ合いのうちだから」

 首を振って、ついでのようにいう。

「あ、サム。君の事情については聞かないことにしたよ」

「えっ?」

「多分だけど、君のママが君について指示を出している。君はそれに従っている。だろ?」

 意図して黙っていることと、当人も知らないために黙っているしかないことがサムの言葉の中には入り混じっているのが感じられる。

 そしてどれがどれであるかをシーモアが判別することはできない。

「だから現状で君に聞くのはフェアじゃない。聞くべきなのは君のママの方だ」

「つまりパパの奥さん!」

「あー、そのー…………それは複雑な問題だから一旦脇に置いておくとして」

 とりあえずシーモアの中で結論はそう落ち着けることにした。

 サムは明らかに自分の事情を全て把握できていないのだから、彼女には何も聞かない。だが彼女の事情についての調査はさすがに始めなければならないだろう。マフィアが思った以上に本腰を入れている以上、シーモアが想像しているよりもずっと切迫している可能性がある。

 とはいえ、

「うーん…………ルーミーの機嫌が怖いよなぁ…………

 ようやく身体からだを起こしてあぐらをかくと、膝の上にすっぽりとサムが収まってくる。彼女は首をひねってこちらを見上げると、

「ねぇ、パパ」

「うん?」

「パパってルーミーが好きなの?」

 ぶは、とシーモアは噴き出した。

 つばが盛大にかかったサムが顔をしかめ、ばっちいと小声で文句をいってくる。

「あー、うん。まぁ、そうだね。恋人っていうことはそういうことだね」

「ふーん…………。なんかずっと機嫌悪いし、パパのこと投げたりするし、どこが好きなの?」

 機嫌が悪いのは多分君のせいだよ、とはさすがにいえなかった。

 それはそれとして、改めて問いかけられると少し困ってしまう。ルーミーのことを好きなのは、愛しているのは間違いないが、それは一体彼女のどこをどう定義しているということなのだろうか。

 日々は人間のみならず怪異すらも変貌させていく。あんな風にねたり怒ったりするルーミーをシーモアは想像することすらできていなかった。

 そうした一面があらわになっていって、あるいはシーモア自身が変わっていったとして、ならば自分はルーミーの何をもって好きだとするのだろうか。

 考えてもすぐに答えは出ないので、シーモアは笑っていった。

「顔」

「うわー、パパ、それ多分すっごいダメな答え!」

 膝の上でサムが不満げに暴れるのを、抱き寄せるようにして押さえ込む。

「ちゃんと答えてー! ねー!」

「そうだなぁ…………

 サムと一緒に身体からだごと揺れながら考える。

 あらゆる要素は変わっていくとして。時間が擦り切らせ、いろせさせ、腐敗していき、その先に新たな何かが生まれてくるとして。

…………でも、ほら」

 小さく笑った。

「ルーミーは、僕と一緒に夕日を見てくれたからね」

 夕暮れ時、海沿いの道をともに車で走った。

 過去が人を定義するのならば、あの日の風景はシーモアを定義して、そしてルーミーのこともまた定義した。

 だから変わりゆく彼女をこれからも好きでいる理由なんて、そんなある日の記憶一つで十分なのだろう。

「えぇー。そんな思い出だけぇ? なんか変だよぉ、それ」

「サムにはまだわからないかもなぁ」

 そうしながらシーモアは、ルーミーが化粧をしているのを見たことがないことを思い出していた。彼女はいつだってありのままで美しいが、そんな彼女でももっとなりたい容姿や印象に思いをせることがあるのだろうか。

 変わりゆく彼女ならば、そろそろそう思い始める頃合いかも知れない。

 機嫌を取る意味合いも兼ねて今度口紅でも用意してみても────

────痛」

 こつん、と何かが降ってきて、シーモアは頭を押さえた。

 軽くて小さなものが頭にぶつかったのだ。天井からネジでも落ちてきたのだろうかといぶかしみながら、それを手に取って、しかしシーモアの困惑はさらに深まることになる。

……………………あれ、なんだ、これ?」

 それは口紅だった。

 このガレージでは誰が使うこともないような、大人向けのブランドものの口紅。たった今シーモアがルーミーに贈ろうかと想像したまさにそれが、手の中に収まっている。

 誰かが買ったということもないだろう。隠す意味がないし、化粧をしそうな人物はガレージにはいない。シーモアが以前に買ったということもない。化粧品を贈ってみようかと思い立ったのは、ほんの数秒前のことだ。

 なぜそこにあるのか、どうして自分の手の中に収まったのかわからない口紅。

 だが一つだけはっきりしていることはあった。

「あっ…………!

 こちらを見て顔を青ざめさせたサム。

 彼女がこれについて、何か知っているということだ。