序 今日までの積み重ね



 人となりを決めるのはその人が見てきた景色だ。

 ふとそんなことを思ったのは、母と妹が車をただ移動手段としてしか見ていないと気づいたからだった。

 彼女たちはドライブという概念を持っていない。車に乗るのはどこかからどこかへと移ることをスムーズにするためで、ただ乗るためだけに乗り、運転するためにだけ運転することを理解できない。

 自分と彼女たちの差がどこで生まれたのかを考えた時、それはきっと見てきた景色の差なのだと気づいた。

 自分は見てきた。

 制御できる限界を半歩超した速度の中で、すべてが溶け合って流れていく街を。家をなくしそこにしか自分の空間がなく、うずくまって見上げる車の天井を。どこかを目指すこともなく走り続けた末に、たどり着いてしまったどこでもない街角を。

 そして水平線に残った残照と、走り去っていった電車。

 後部座席できっと泣いていた吸血鬼を。

 そうしたものが記憶の中で積み重なっていって、自分にとって車とはもうただ車というだけのものではない。どこかへ行くための移動手段というだけではない。道具を擬人化して見ることはそれほど好きではないが、それでも最も概念として近い言葉を探すのならばそれはきっと「家族」になるのだろう。

 いやおうなく引き合い、そばにいることに疑問を抱かないのだから。

 そしてこの感覚は決して母親と妹には伝わらないものだ。彼女たちとは見てきた景色があまりにも違い、だから彼女たちが何をどう感じているのかも、きっと自分にはわからない。

 その日、シーモア・ロードがその提案をしたのはそんな考えがきっかけだった。母親と妹にドライブを提案して、すげなく断られた末にあれこれと考え、結果として彼は現在同じガレージに住む恋人にこういった。

「ねぇ、ルーミー。君ってどこまで高く飛べるの?」

 問いかけられたルーミー・スパイクが首をかしげる。

 白い髪の毛が頭の角度に従って流れ、細すぎるくらいに細い首筋があらわになる。それだけの仕草に目を奪われてしまうほど、ルーミーは隔絶した美しさを持っている。

「どこまで…………。試したことはないですけど、どうなんでしょう」

 そういったわけで仕事が始まる前に試すことになった。

 太陽が地平線に隠されるのを待ってから外に出る。工場と倉庫、ガレージばかりのこの地域は人通りも少なく、誰かに見られる心配は少ない。

 ルーミーが至極当然といった態度でふわりと宙に浮かび上がる。差し伸べられた手を握ると、シーモアの身体からだもまた地面から離れた。全体重のかかる右肩が悲鳴を上げるようなこともないので、何か奇妙な力が働いているのだろう。

 つま先をふらつかせてしまうような不安定感が遠ざかっていき、街灯が目前を通り過ぎる。工場の煙突を真横に見る頃には、もう高所への恐怖はなくなっていた。あまりの非現実的な状態に人間が持つ危機感がしてしまったのだろう。

「この辺ですかね」

「限界?」

「はい。シーモアさんが。そろそろ酸欠になっちゃいますよ」

 やがて地面よりも雲の方が近くなれば、そこにはもう、ただ爽快感だけがあった。

 学校をやめてしまった時のことを思い出す。二つとない壊れ物にハンマーを振り下ろすみたいな、いやおうのないいさぎよさ。

 いや、それに加えて感慨が一つ。

………………遠いなぁ」

 ここから見下ろす街は、まるでミニチュアの作り物だった。

 遠近感が狂ったビルはおもちゃみたいで、その間を走り抜ける車はマッチ箱よりも存在感がない。街明かりの一つ一つ、それぞれの内側に誰かがいることを想像するのはまるっきり不可能で、通りをく豆粒よりも小さな人々は部屋の隅に集まったほこりにしか見えなかった。

 足下へ黒い霧を集め、二人が立てる分だけの足場を作ったルーミーが、こちらを見る。

「そうですか?」

「そうだよ」

 遠いのだ。

 そして、これが吸血鬼の見る景色である。

 彼女の持つ能力はあらゆるものがこのスケールにそろえられている。人々の願いによって生まれた存在である、この少女は。

 何かを思うべきだと思うが、何も思わない。

 だからといって離れられるわけでもないし、この手を離す気もない。もうどうしようもないほどに、シーモア・ロードという人間の根幹にルーミー・スパイクは食い込んでいる。

 そう、どうしようもない。

 ぼうぼうたる砂漠、圧倒的なばくと手でもつなげば、こんな気持ちになるのだろうか。どうしようもないほどの力だけが、ただそこにある。

 そんなシーモアの考えを知ってか知らずか、ルーミーがほほんだ。

「いい景色ですよね」

 シーモアは、うなずく。

「そうだね」