「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
怒涛の展開の連続だった月曜日から一夜明けて、火曜日の朝。
玄関で靴を履くなり盛大にため息を吐いた俺に、妹の涼香が胡乱な目を向けてくる。
「どうしたの、兄? 辛気臭い顔してため息なんか吐いて。ああ、辛気臭い顔は元からか」
「……学校に行きたくないです」
「はぁ? このダメ兄ときたらまた……な~にバカなこと言ってるんだか。インドアが過ぎてとうとう学校行くのも面倒になったの? 引きニート極めるのも大概にしなよ。そんなんじゃSizuさんにも愛想つかされちゃうよ?」
「うぐぅ!? そ、その『Sizu』という死の呪文を唱えるのはやめてくれ、胃に穴が空きそうだ……あと、俺は引きニートじゃない……」
にわかに腹を押さえてうずくまる兄の姿に、我が愚妹はいよいよ不審者を見るような目で顔を顰めた。
「う~わぁ……変人だ変人だと思ってたけど、いつにも増して変だよこの人。昨日もどこで借りてきたんだか知らないツナギ着て帰ってきたと思ったら、そのままご飯も食べずに寝ちゃうし。う~ん、もしかして私、受験終わったらこの家を脱出した方がいい感じ?」
相変わらず兄を兄とも思わない舐め腐ったことをほざく妹に言い返す気力もなく、俺はフラフラと立ち上がって玄関の扉を開けた。
「……行ってきます」
「あ、ちょっと! ……ったくもう。車とかに轢かれないように気を付けなよ~?」
涼香のそんな言葉を背に受けつつ、俺は鉛のように重く感じる足をどうにか動かしながら学校へと向かった。
「オォォォォォォ……」
「おはよう、颯太。今日も今日とて元気にゾンビやってるね?」
そうしてなんとか遅刻ギリギリに教室までたどり着くと、人懐っこい笑顔で樋口が出迎えてくる。こいつはいつでも元気そうで羨ましい限りだ。
「……『元気なゾンビ』ってなんだよ」
「さぁ? そんなことより知ってる? 昨日の夕方、『Sizu』のインスタにアップされたっていう『謎の写真』の噂。投稿はもう削除されてるんだけど、ファンの間では『何の匂わせだ?』って持ち切りらしくてさ」
「ふぐぅ!? お、お前までその死の呪文を……」
「どうしたのさ、颯太。僕はニフラムなんか唱えてないよ?」
「あくまでゾンビ扱いかこの野郎。そこはせめてザキと……イテテッ」
キリキリと痛む胃をさすりつつ、俺は昨晩のことを思い返していた。
(参ったなぁ)
結局、昨日は勝負の決着もうやむやになって、なんだか気まずい感じで解散になっちゃったんだよな。あれ以降、水嶋からも江奈ちゃんからも何のコンタクトもないし……。
(俺、これからどうなっちまうんだ?)
さながら判決を言い渡される前の罪人のような気持ちで、俺は中間テストの二日目を粛々とやり過ごした。
そうして、幸か不幸か校内で二人に出くわすこともないまま、帰りのホームルームが終わったところで。
「うっ……」
スマホのチャットアプリに、一件の新着メッセージが送られてきた。
【十分後、あの場所で】
恐る恐るアプリを開くと、水嶋からのそんな短い伝言。
(き、きたか!)
用件こそ書かれていないが、間違いない。
十中八九、昨日のことで俺に話があっての呼び出しだろう。
「……怖ぇなぁ、おい」
正直、ビビってる。それどころかこのまま無視して家に帰りたいまである。
だけど、逃げていたって何も始まらない、いや、終わらないのも事実だ。
幸いにして、向こうは俺に十分の猶予を与えてくれている。
心の準備を整える時間としては充分だろう。
「すぅぅ…………行くか」
覚悟を決めて、俺は教室を後にした。
十分後。
「よ、よし……開けるぞ」
屋上に出る扉の前で最後の精神統一を済ませた俺は、意を決して扉を押し開けた。
「や、颯太。待ってたよ」
果たして、屋上で俺を待ち構えていたのは、当然ながら水嶋だった。
そして。
「……昨日ぶり、ですね。颯太くん」
「え、江奈ちゃん?」
水嶋の傍らには江奈ちゃんも立っていた。
どうやら、呼び出されたのは俺だけではなかったようだ。
「えっと、もしかして江奈ちゃんも、水嶋に?」
「は、はい……というか、私の方は昨日の夜に静乃ちゃんに言われて」
「昨日の夜って、お互い家に帰ったあとに?」
「うん。江奈ちゃんと私で、あのあと色々と電話で話してたんだ」
「な、なるほど」
そうか。帰る時には一言も交わさなかったから、どうなることかと思ったけど。
どうやらあの後、一応二人で何某かの話し合いがなされたらしい。
と、いうことはだ。
「つまり……俺が呼び出されたのは、その『話し合い』とやらに関係があるんだな?」
「そういうこと。話が早くて助かるよ」
水嶋は満足げにそう言うと、それから隣にいる江奈ちゃんと顔を見合わせて、どちらからともなくうなずき合う。
な、なんだ? 一体何が始まろうっていうんだ?
「颯太」
「颯太くん」
戦々恐々としながら、俺が彼女たちの次の言葉を固唾をのんで待っていると。
「「──本当に、ごめんなさい!」」
次の瞬間、二人は見事にシンクロした動きで、それはもう綺麗な土下座を敢行した。
「…………ふぁ?」
一瞬何が起こったのか理解できなかった俺は、思わず間の抜けた声を発してしまう。
しかしすぐに、学内きっての有名人である二人の美少女が俺の足元で地にひれ伏しているという異常事態に慄き、大慌てでしゃがみこんだ。
「ちょ、まっ……えぇ!?」
「私たちの勝手な都合で颯太に迷惑をかけたこと、本当にごめんなさい」
「いやいやいやいやっ! 入ってこない! 話入ってこないって! 何やってんの!?」
「そ、颯太くんの気持ちも考えずに……勝手に試すようなことをして、本当にごめんなさい」
「そんなのいいから! と、とにかく二人とも頭を上げてくれ!」
なんかよくわかんないけど、こんな所を誰かに見られたら俺は殺されちまう気がする!
構わず謝罪の言葉を述べようとする二人を必死になだめすかし、俺はどうにかこうにか水嶋たちに顔を上げさせた。
はぁ~びっくりした。こっちはお前、さっき呼び出された時は何を言われるのかとビクビクしていたというのに。
いざやってきてみれば初手で土下座って、予想外にもほどがあるだろ。
「まさか、これなのか? 昨日の夜にお前たちが話し合って出た結論が、土下座か!?」
俺の質問に、スカートのほこりを払いながら立ち上がった二人が口々に答える。
「まぁ、そうだね。結論の一つ目だよ」
「な、何故に?」
困惑気味に尋ねると、水嶋がきっぱりと答えた。
「まぁ簡単に言えば、ケジメだね」
「け、ケジメ?」
「はい。さっきも言いましたけど……今回は、私たちの勝手な都合で始まった勝負に颯太くんを巻き込んで、たくさん傷付けてしまいましたし、迷惑もかけてしまいましたから。ちゃんと謝らないとって、思って」
「そう。だから二人で話し合って、決めたんだ。これくらいのことをしないと、今回のことにはケジメがつかないと思ってさ」
「いや、だからってなぁ……」
ケジメをつけるために土下座とは、令和の女子高生にしてはなんとも律儀というか、前時代的というか、汗臭いというか。
さては水嶋のやつ、つい最近時代劇か極道モノの映画でも観たな? これで意外と影響されやすいところあるしなぁ、こいつ。
(そもそも、俺は別にそこまで気にしてないんだけど)
頭を搔き搔きため息を吐いた俺は、けれどいたって真面目な顔をする二人を交互に見やり。
(……変に否定するより、ここは合わせてやる方が二人のため、か)
結局は、そのケジメとやらに協力することにした。
「……わかったよ。二人の謝罪、確かに受け取った。許す。だから、この件についてはこれで手打ちとしよう。水嶋も、江奈ちゃんも、それでいいな?」
俺の宣言に、二人とも安堵したような表情で頷いた。
「ありがとう、颯太」
「颯太くん、ありがとう……それから、本当にごめんなさい」
「もう手打ちだって言っただろ? だからもう気にしなくていいから。な?」
「は、はい」
ふぅ、やれやれ。どうやらこれにて一件落着みたいだなぁ。
なんて、俺はすっかり肩の荷が下りた気分になってしまっていたのだが。
「じゃあ、無事にケジメもつけられたところで──本題に入ろっか?」
「Oh……」
そうだ。むしろ、この後が問題なんだった。
「とりあえず、簡単に状況を整理してみようか」
水嶋の言葉に、俺と江奈ちゃんは首肯する。
「まず、一か月の『勝負』の期間を終えて、最初に颯太が出した答えは、『水嶋とは付き合えない』。つまり、この時点では江奈ちゃんを選んだ、ってことでいいよね?」
「ああ。そうだ」
迷わず頷くと、隣に立っていた江奈ちゃんがポッと顔を赤らめる。
うん、可愛い。
「OK。だけどその後、颯太は江奈ちゃんから私の過去の話を聞いた。そして、江奈ちゃんに『少しでも静乃ちゃんのことを想う気持ちがあるなら、静乃ちゃんを選んでほしい』と言われて、私のところに駆けつけてくれた。つまり、この時点では私を選んでくれた、ってことでいいんだよね?」
「まぁ……そういうことになるな」
水嶋が嬉しそうな顔をして確認してくるので、俺は気恥ずかしさに顔を背ける。
う~む。こうして改めて言葉にされると、かなりこっぱずかしいなコレ。
「うんうん。だから、最終的に颯太と付き合うのは私になる……はずだったんだけど。最後の最後で江奈ちゃんが乱入してきたことで、勝負がどっちつかずになってしまい、今に至る、と。そこまではいいかな?」
「ああ」
と、そこで俺はふと気になって江奈ちゃんに水を向ける。
「そういえば、江奈ちゃんはどうして俺たちがあの海浜公園にいるってわかったの?」
たしか、江奈ちゃんはSNSの類はやっていなかったはずだ。
水嶋がインスタにアップした海辺の写真を見られた可能性は低いし、よしんば見られたとしても、それがあの海浜公園の海辺の写真だとすぐに気付くのは難しいと思うけど。
「えっと……私、実はこの前、静乃ちゃんからその海浜公園の写真を送ってもらってたんです。ほら、颯太くんとどこで何をしたのか報告してくれてるって、言いましたよね?」
言いつつ、江奈ちゃんがスマホを取り出してその写真を見せてきた。たしかに、あの海浜公園の写真だ。
そういえば八景島に行ったときにパシャパシャ景色を撮ってたな、水嶋の奴。
「それであの時、クラスの友達が私に例のインスタの写真を見せてくれて……その写真に、静乃ちゃんから送ってもらったものにも映っていた、見覚えのある松の木が見切れていたので。それで、『もしかしたら』と」
そうか。たしかにあの写真には、ほんのちょっとだけど松の木が見切れていた。
実際、俺もそれをヒントにして場所の見当をつけていた。
「コホン。え~と、話を戻してもいいかな?」
「あ、ああ、悪い。それで、どこまでいったっけ?」
「だから、結局颯太が私と江奈ちゃんのどっちを選ぶかが保留状態になっている、ってところ」
「そ、そうか。そうだな……」
まぁ、やっぱり結局そこに行きつくんだよなぁ。
(だけど)
俺はちらりと、隣に立つ江奈ちゃんに視線を向ける。
里森江奈ちゃん。
俺の人生で初めての彼女で、俺の灰色だった青春を色づかせてくれた女の子。
ちょっと引っ込み思案で後ろ向きな面もあるけれど、心優しくて、清楚可憐で、同じ趣味を持つ者同士で気も合う女の子だ。
(そう言われたって)
それから、今度は目の前に立つ水嶋の方に目を向ける。
水嶋静乃。
成績優秀、スポーツ万能、スタイル抜群のイケメン美少女で、誰もが憧れるカリスマJKな人気モデル。
俺にとっては初めての彼女を奪った恋敵(フリだったけど)で、江奈ちゃんと付き合いながら堂々と俺に浮気しようと持ち掛けてきたヤバい女(演技だったけど)で。
だけど、本当は小学生のころからずっと一途に俺のことを想い続けてくれた女の子。
(……答えなんて、そうそう簡単に出せるわけない)
我ながら褒められたものじゃないとはわかっているが。
白状すれば、今の俺は水嶋にも江奈ちゃんにも好意を抱いてしまっている。
しかし、そんなのは許されることじゃない。
もし彼女たちの告白を受け入れようというんだったら、選ばなかった方を深く傷つけてしまうことを覚悟の上で、きっぱりとどちらか一人を選ぶのが筋というものだろう。
……それでも、やっぱり。
「やっぱり、俺にはまだ二人のうちのどちらか一人なんて、決める勇気も覚悟も……」
情けないことは百も承知で、だから俺は正直な気持ちを口にして。
「「どっちかじゃなくて、どっちもでもいいよ」です」
しかし、その言葉が終わらぬうちに、水嶋たちはとんでもないことを口走った。
「……は?」
「私と江奈ちゃんのどっちか一人だけを選ぶのが無理なら、私と江奈ちゃんの両方と付き合えばいいんだよ」
「はぁぁぁ!?」
放課後の屋上に、俺の素っ頓狂な叫び声が響き渡る。
「お、お前、自分が何言ってるかわかってるのか!? それはつまり、俺に『二股をかけろ』って言ってるようなもんなんだぞ!?」
「『ようなもん』っていうか、まさにその通りだけどね」
まったく悪びれる様子もなくあっけらかんとそう答える水嶋。
俺は思わず頭を抱えて天を仰いだ。
ダメだ。こいつが何を言っているのか、俺にはさっぱりわからない。
「何も難しいことは言ってないでしょ? 私は颯太のことが好き。で、江奈ちゃんも颯太のことが好き。そして颯太は私たちのどっちにも好意を持っている。なら颯太が私たちを二人とも彼女にすれば万事解決。ね、簡単でしょ?」
「バカなの?」
それができたら最初から苦労はしてないんだよ!
そりゃあ俺だって、水嶋と江奈ちゃんのどっちも切り捨てなくて済むなら喜んでそうするさ。
「だからって、常識的に考えて二股は良くないだろ二股は」
「颯太、知らないの? 『善く生きることを大切に』って説いたかの聖人ソクラテスには、奥さんが二人いたんだってさ。それってつまり、むしろ二股は『善いこと』ってことに」
「なるか! 生憎とここは古代ギリシャじゃなくて現代日本なんだよ!」
二股なんてしたら、それこそ俺はクズ男に成り下がっちまうだろうが。
「なぁ、勘弁してくれって……付き合う前から浮気を推奨するなんて話、聞いたことないぞ。お前、そんなことされて嫌じゃないのかよ? お前だって、昨日は、その……え、『江奈ちゃんに颯太は渡さない』的なこと言ってたじゃんか!」
う、うわぁ。自分で言ってて恥ずかしくなってきた。
赤面する俺を見て愉快そうに笑いながら、水嶋がポツポツと呟く。
「もちろん、颯太が私だけを選んでくれるなら、それが一番うれしいよ。だけど……私はやっぱり、江奈ちゃんのことも大事だからさ。初恋の人も、親友も、今はどっちも手放したくないって思ったんだ」
傍らに立っていた江奈ちゃんの頭を、水嶋が優しく撫でる。
不意に撫でられて気恥ずかしそうにしていた江奈ちゃんは、けれどやがて毛づくろいをされる猫みたいにリラックスした表情を浮かべていた。
この二人、なんだかんだいっても、やっぱり仲が良いんだな。
「どっちかを手放すことになるくらいなら、私は颯太に二股をかけられてたって気にしない。むしろ相手が江奈ちゃんならハーレムエンド上等、って感じかな……今は、ね」
小悪魔チックな微笑を浮かべてからかってくる水嶋に、俺はもう振り回されっぱなしだった。
良くない流れを断ち切ろうと、俺は説得の相手を江奈ちゃんへと切り替える。
「え、江奈ちゃんは? 江奈ちゃんだって、いくら相手が親友の水嶋だからって、俺が二股なんてするのは許せないよね? メチャ許せないよね!?」
ご両親が厳しい家庭で育ったこともあるだろう。江奈ちゃんは真面目で貞淑な女の子だ。
浮気だとか二股だとか、そんな不純なことを許容するはずがない。
だから、江奈ちゃんならきっと一緒に却下してくれるだろうと、俺はそう思って援護射撃を要請したのだが。
「えと、その……私も、浮気相手が静乃ちゃんなら、別に……あっ、で、でも、ちゃんと私と二人きりの時間も作っていただけると、嬉しい、といいますか……」
「エナチャン?」
えぇ~なんでもう二股する前提で話してるのぉ? ワケワカンナイヨー!
「言っとくけど、これについてもちゃんと二人で話し合って、お互いに納得した上で出した結論だよ。だから、後は颯太が決めるだけ」
「は、はい。颯太くんは、何も私たちに遠慮することなんてないんですよ? たしかに、二股なんてほんとは良くないことだけど……颯太くんには、それだけの権利があると思う、から」
不意に真面目な顔をして、水嶋も江奈ちゃんも真っすぐに俺を見つめながら詰め寄ってきた。
こ、こいつら……本気だ!
「ね。私たちの気持ちとか、世間の常識とか、そういうのは一旦抜きにしてさ。颯太が『どうしたいか』を聞かせてよ」
「お、俺が、どうしたいか?」
「颯太くんは、私たち二人とお付き合いするのは……イヤ、ですか?」
「うっ……」
じりじりとにじり寄ってきながら、獲物を追い詰める女豹のような目をした水嶋と、捨てられる子犬みたいな目をした江奈ちゃんが、いまかいまかと俺の次の言葉を待っている。
水嶋とも付き合いながら、江奈ちゃんとも付き合う。
許されるのなら、俺だってそれが一番の選択肢だとは思うし、そうしたい気持ちも山々だ。
(だけど……)
二人の事が好きだからこそ、好きになってしまったからこそ。
彼女たちとそんな不誠実な付き合い方をするのは、俺にはどうしても憚られてしまい。
「や、やっぱり、俺にはそんなこと……」
今すぐにどちらか一方を選ぶなんてできそうにないし、ましてや二股なんて無理だ。
だから、情けなくもそんな日和った答えを返そうとしたところで。
「もう。しょうがないなぁ」
水嶋が、俯いた俺の顎に手を伸ばしてクイッと顔を上げさせてきた。
「へっ? み、水嶋?」
「バカがつくほど真面目で一途な颯太のことだからさ。きっと二股なんて認めないだろうなとは思ってたけどね。まぁ、そんなキミだからこそ好きになったんだけど」
上目遣いでそんな甘ったるいセリフを吐いてくる水嶋の横では、江奈ちゃんも「同感です」と言わんばかりにコクコクと頷いていた。
「だからね、颯太。優柔不断なキミには、私たちから『第三の選択肢』をあげましょう」
「…………はい?」
第三の、選択肢?
屋上での話し合いによって、今度こそ俺たちの「勝負」に決着をつけた、その翌日の水曜日のこと。
「──〈大いなる力には〉?」
「〈大いなる責任が伴う〉」
面倒な中間テストも最終日を終えた放課後。
何を思ったのか「映研に用事がある」と言い出した水嶋と江奈ちゃんに頼まれて、俺は二人を連れて部室へと足を運んでいた。
そして。
「いや~、ようこそようこそ! こんな場末の文化部によくやってきてくれたねぇ! 部長としてはもう願ったり叶ったりさ! 歓迎するよ! 今日からよろしくね、二人とも!」
「はい。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いしますっ」
「……マジですか?」
部室の中へと案内して部長や先輩たちと引き合わせるなり、なんと二人そろってその場で映研への入部を申し込んだのだ。
「わ、すごい。撮影機材がいっぱいだ。ほんとに映画作ってるんですね」
「そうだよ~。今はほとんど開店休業中だけど、マコちゃんが次回作のプロットを仕上げたら、近いうちにまた新作を作るつもりなんだ~」
「こ、ここに置いてある映画って、自由に観てもいいんですか?」
「ああ、問題ない。アニメからサイコホラー、誰もが知る名作から眩暈がするようなZ級まで、一通りはとり揃えてある。部室に来たらいつでも好きに鑑賞してくれていい」
まったくいきなりのことで困惑する俺を尻目に、常に予算と人員に飢えている我らが宮沢部長はこれを快諾。
あれよあれよという間に、二人の入部が決定することと相成ったのである。
「それにしても、こんな期待の新人が二人も入ってくれるなんてねぇ! 里森君はアニメーション映画への造詣が深くて将来有望だし、水嶋君に至ってはなんといってもあの人気モデルの『Sizu』だろう? いや~、よくまぁこれほどの逸材たちをスカウトしてきてくれたよ! ありがとう佐久原君! やはり君こそが、次代の映研を担う我が部の救世主だ!」
「は、はぁ……」
「よぅし! そうと決まったら忙しくなるぞぅ! せっかくこうして部員も増えたことだし、そろそろ本格的に次回作のプロジェクトを進めなければ!」
「いいからお前はまずとっとと構想を考えろ。話はそれからだ」
「そうだね~。プロジェクトを進めるなら、まずはマコちゃんが頑張らないとね~」
いつにもましてハイテンションな部長に、藤城先輩と菊地原先輩が冷静に正論を叩きつける。
そんな映研の日常が繰り広げられている横で、俺は水嶋達に小声で詰め寄った。
「どういうつもりだ? 二人とも、なんでウチに入部したんだよ?」
「なんでって、そりゃあ……ねぇ?」
二人して顔を合わせた水嶋と江奈ちゃんが、ニッコリと笑って答える。
「こうすれば、少しは颯太と一緒にいられる時間が増えるでしょ?」
「はい。だってほら、私たちは……颯太くんの『彼女候補』、なので」
「うっ。それ、本気で言ってたのか……」
そう、「彼女候補」。
二人が俺に提示してきた「第三の選択肢」というのが、それだった。
現状、俺は江奈ちゃんと水嶋のどちらか一人を選ぶことはできない。かといって、どちらとも付き合う「公認の二股」みたいなこともしたくない。
ならば、俺がどちらか一人を選ぶ決心がつくまで、二人は俺の「彼女候補」としてそばにいることにすればいい……というのが、彼女らの言い分だった。
「な、なぁ。やっぱり止めないか?」
「え?」
「『彼女候補』なんて言ってるけど、それって要はキープってことだろ? すげぇ気が引けるんだけど。二人のことを、その、なんだ……都合の良い女? みたいな扱いしてるようでさ」
「あはは。颯太が罪悪感を覚えることなんて何もないよ。だって、私たちの方から好きで颯太のキープになってるんだから。ね、江奈ちゃん?」
水嶋に同意を求められた江奈ちゃんも、胸元でギュッと手を握り締めながらコクコクと頷く。
その首元には、もはや当たり前みたいに赤と黒のチェック柄の首輪が着けられていた。
「ひとまずは高校卒業までを目処にして、私と江奈ちゃんのどちらが颯太を攻略できるか。噓も演技も無い。今度こそ正々堂々とした、恨みっこナシの真剣勝負ってことで」
「はい。なので、颯太くんは何も難しく考えずに、今まで通り私たちと仲良くしてくれると嬉しいです」
「う、う~ん……」
言っていることはメチャクチャだが、それでも二人の表情は真剣そのものだった。
まぁたしかに、二股をするよりはそっちの方が遥かにマシな選択肢ではある。
結局は結論を先延ばしにしているだけとも言えるかもしれないが、それでも、何より当の二人がそれを望んでいるのなら、俺にはそれを拒む権利はないだろう。
こんな決着になってしまったのは、まだどちらか一方を選び、そしてどちらか一方を切り捨てる覚悟ができていない、欲張りで情けない俺にも大いに責任があるのだから。
「はぁ……わかった。もう好きにしてくれ。ただし、面倒になる予感しかしないから、彼女候補だの何だのの話はオフレコで頼む。俺たちはあくまでも同級生で、同じ部活に所属する親しい友人同士。今はそれでいいな?」
「もちろん。わかってるよ」
「私たちだけの秘密、ですね」
なんて俺が二人に釘を刺したところで、ふと振り返れば何やら部長たちが出かける準備を整えていた。
「部長? 先輩たちも、どこか出かけるんですか?」
「うむ! 次回作に備えてのロケハンさ! いくつか候補地があるんだけど、今日はそのうちの一つを下見しようと思ってね」
「ちょうどいい。おい、佐久原に新入部員二人。お前たちも一緒に来い。ロケハンがてら、機材の簡単な使い方なんかをレクチャーしてやる」
そう言って手招きされてしまったので、俺たちも内緒話を一旦切り上げ、部室を出る先輩たちの背中を追いかけた。
「で、部長の言ってた『候補地の一つ』ってのが……ココか」
「あはは。まさか、よりによってココとはね」
その後、部長たちと一緒に学校を出発した俺たちがやってきたのは、つい昨日の放課後にも足を踏み入れて、なんなら軽くひと泳ぎもしてしまった、例の海浜公園だった。
なんとタイムリーな。こんな事なら、事務員のおじさんに借りてたあのツナギ、今日学校に持ってくればよかった。
「まぁいいや。とにかくまずは、部長たちに頼まれた仕事をこなそうぜ」
「うん。たしか、砂浜でいい感じにサンセットが撮れそうなスポットを探すんだっけ?」
「ああ。部長たちが機材の準備をしている内に、さっさと済ませちまおう」
とまぁ、そんなわけで俺と水嶋と江奈ちゃんの三人は、つい昨日も歩き回った砂浜を再び踏みしめていた。
ザザーン、というさざ波の音をBGMに、ぼちぼち夕暮れ時の海辺を歩いていく。
「う~ん。風が気持ちいいね」
「はい、ほんとに。映研に入って、さっそく良い思い出ができました」
俺を挟んで笑い合う二人を見て、気付けば俺も自然と笑みを浮かべていた。
考えてみれば、こんなにゆったりとした時間を過ごすのも、随分とまぁ久しぶりな気がする。
なにしろ俺のこの一か月の生活ときたら、それだけで映画の一本くらいは撮れるんじゃないかってくらいに色々あったからなぁ。
潮風になびく髪をかき上げて、今日も今日とて絵になる横顔を披露している水嶋に、俺は目を向ける。
一緒に服を選んだり、俺の家に押しかけて来たり、お互いのバイトを見学したり、水族館に行ったり。本当に、こいつとは色んな場所に行って、色んな体験をしたよなぁ。
もちろん嫌なこともあったし、面倒くさいと思うこともあったけど……うん。それでも、今ならはっきり言える。
水嶋と過ごしたこの一か月は、ヘタな映画を観るよりもよっぽど面白くて、楽しかったって。
「……ん?」
俺の視線に気づいたらしい水嶋が、こっちを振り返って優しい笑みを向けてくる。
「どうしたの、颯太? もしかして今、私に見惚れちゃってた?」
次にはからかうような口調で、俺に流し目をくれる水嶋。
少し前までの俺だったなら、きっと照れ隠しに鼻で笑っていたところだろう。
だが、甘いな水嶋よ。もうあの頃の俺とは違うんだ。
「ああ。お前、やっぱり美人だよな。さすが現役モデルだわ」
「っ!?」
俺の火の玉ストレートを不意打ちで食らった水嶋は、わっかりやすく動揺していた。
「へ、へぇ……そ、そう?」
なんて、必死にいつものクールビューティーを気取ってそっぽを向くけれど、その耳の先が真っ赤に色づいているのが丸見えだ。
ふむ……もしかしたらと思っていたけど、こいつ、意外と攻撃力に全振りしていて防御力が低いタイプなのか? これはいいことを知ったかもしれない。
完璧超人な水嶋の思わぬ弱点を見つけて、俺が内心でほくそ笑んでいると。
「……(ジィィィィィィィィ)」
気付けば、いつのまにか俺の制服の裾を摑んでいた江奈ちゃんが何やら物申したそうなジト目で俺を見上げていた。
相変わらずプニプニとして柔らかそうな頰っぺたが若干膨らんでいる。
「な、なんでしょうか?」
「……いえ、べつに」
あ、そっぽ向いちゃった。
もしかして江奈ちゃん、ちょっとやきもち妬いてる?
江奈ちゃんのこんな子供っぽい顔は初めて見た。お昼寝を邪魔された猫みたいで、すごくとても可愛いんですが。
やっぱり江奈ちゃんマジ天使。
「ん? そういや、この辺って……」
そんなこんなをしている内に、俺たちはつい昨日、三人そろって浅瀬にダイブしてしまったあたりの砂浜までやってきていた。
「なんつーか、これからここに来るたびに昨日のことを思い出すんだろうなぁ」
「そりゃあ、あれだけのことがあったらね。忘れられないでしょ」
そう言って肩を竦めた水嶋が、次には何事か思いついたように、悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「そういえばさ、颯太は知ってる? どうして江奈ちゃんが、キミに魅力を感じてもらえていないんじゃないか、って不安になったのか」
「え?」
「昨日は単に『自分に自信がないから』って言ったけど。実は、他にも理由があるんだよねぇ」
「し、静乃ちゃん!?」
途端に、なぜか顔を真っ赤にした江奈ちゃんが大慌てで水嶋へと詰め寄った。
な、なんだ? 江奈ちゃんってば、何をそんなに焦って……。
「そ、それは言わないって約束じゃ……!」
「あれ? 約束を破って私の過去をバラしちゃった人が何か言ってる」
「あぅ……そ、それは……」
「それに江奈ちゃんさぁ。この一か月、私に黙って何度かズルしてたでしょ? ふふふ、なら多少のお仕置きは必要だよね?」
「うぅ……」
水嶋の言葉に反論できないのか、江奈ちゃんはさっきから面白いくらいに目線をあっちこっちに泳がせてあたふたしていた。
「ズル? ズルって、何のことだ?」
話が読めない俺が首を捻ると、水嶋は俯く江奈ちゃんの背後に回り込み、彼女のモチモチほっぺを両手でむにゅっと摘み上げた。
「ひ、ひふのひゃんっ……ひゃ、ひゃめへふらはひぃ……」
江奈ちゃんは涙目になりながら、か細い腕で水嶋の手を払いのけようとする。
が、モデル活動の中で普段から体を鍛えているという水嶋に力で叶うはずもなく。
結局は観念したようにダランと腕を下ろし、「あぅぅ」と情けない声を上げることしかできなかった。
うん、可哀想だけど可愛い。
「それがさ~。『勝負』を始める時に、この一か月は江奈ちゃんは極力颯太に近付かない、ってルールを決めてたんだよ。万が一にもボロが出ないようにね」
なるほど。たしかに「勝負」が始まってからの江奈ちゃんは、打って変わって事務的な塩対応だったもんな。
……なんか、思い出すだけで泣きそうになってきた。
あれも全部演技だったとわかって、本当に良かった。いやマジで。
「だけどこの子ってば、よっぽど颯太と離れ離れなのが寂しかったみたいで。そのうち私に隠れて颯太と図書室で二人きりになろうとしたり、挙句の果てには正体を隠してメイドになってまで颯太とイチャつこうとしたりしてさぁ。一か月間は私の『攻略』を邪魔しないってルールだったのに、そうやってアピールするのはちょっとズルじゃんね?」
「えっ?」
水嶋の言葉に、俺はこの一か月の江奈ちゃんとのやりとりを思い返してみる。
そう言えば、いつか図書館の事務室で二人きりで作業したことがあったっけ。
それまで着けていなかった首輪を着けてきていたり、やたらそれを見せつけようとしてきたり、たしかにあの時の江奈ちゃんの様子は少し不自然だった。
メイドのバイトにしたってそうだ。俺が知っている江奈ちゃんは引っ込み思案で人見知りで、だから、まずあんな派手な格好で接客業ができるような子ではない。
それでもアイマスクや偽名を使ってまで正体を隠して(バレバレだったけど)俺に「ご奉仕」してきたのには面食らったっけ。
思い返せば、俺と付き合っていた時の彼女からは想像もつかないくらい、この一か月の江奈ちゃんは行動力があった気がする。
「てっきり、江奈ちゃんが俺と水嶋の関係を疑って探りを入れようとしての行動だと思ってたんだが……そもそも最初から全部知っていたってことは……」
「焦ったんでしょ。颯太が段々と私に心を許していってるのを感じて、『このままじゃ本当に攻略されちゃう!』って。かといってネタばらしをするわけにもいかないから、せめてもの抵抗として江奈ちゃんなりに颯太にアプローチしようとしていた……ってところかな? んん? そのへんどうなの、江奈ちゃ~ん?」
追い詰めるような水嶋の口調に、江奈ちゃんはもうバツが悪いやら気恥ずかしいやらといった顔で項垂れるしかないようだった。
「だから、そんなルール違反を犯した江奈ちゃんへの、これは罰ってことで」
「うぅ……ゆ、許してくださいぃ……」
「ダ~メ。ほらほら、言ってみ? どうして不安になったのか、自分の口で言ってみ?」
いたいけな町娘の弱みにつけ込んで辱める悪代官みたいになった水嶋が、意地の悪い笑顔で江奈ちゃんに自白を促す。
哀れ江奈ちゃんは目の端に涙を浮かべながら、なぜか夕陽にも負けないくらいに赤面して。
「……て…………たから」
けれど、やがて観念したといった様子で、ギュッと胸元で両手を握りしめながら、ゆっくりと口を開く。
「え?」
俺に向かって江奈ちゃんが何事かを喋りかけてくるが、声が小さすぎて波の音にかき消されてしまう。
「……手……して…………なかった、ので」
「えっ、と……ごめん。よく聞こえなかったんだけど」
俺が頰を搔き搔きそう言うと、江奈ちゃんはいよいよ茹でダコみたいに顔を真っ赤にしながら、精一杯の声で叫んだ。
「だ、だからっ! 颯太くんが、全然私に手を出そうとしてこなかったので!」
「……は?」
かくん、と下あごを落とす俺に、江奈ちゃんはもうヤケッパチだとでも言わんばかりにまくしたてる。
「わ、私っ、本当はもっと颯太くんとくっついたりしたかったんです! 手を繫いだり、ハグしたり……き、キス、とか……そそ、それ以上、とかもっ!」
「はい!?」
「こ、これでも私、結構アピールしてたんですよっ? 颯太くんとデートする時、偶然を装ってさりげなく体に触ったり! 映画館で肩を並べて座る時は、話しかけるふりしていつもより顔を近づけたり!」
「え、江奈ちゃん!? ちょ、ちょっと落ち着いて……」
「家族が仕事で家を空けがちなのをいいことに、颯太くんを部屋に連れ込んだりもしました! なのに颯太くん、全然そういう素振りも見せなかったからっ……」
「んん!?」
そ、それって、つまり……。
「俺が……あんまりエッチなことをしようとしてこなかったから、自分には魅力が無いのかもって不安になった……って、こと?」
俺が簡単にまとめたところで、もはや羞恥心も限界だったらしい。
「そ、そ、そ……颯太くんのバカ!」
最後にそんな捨て台詞を吐くと、江奈ちゃんは水嶋の腕からすり抜けて、ぴゅーっと部長たちのもとまで走り去ってしまった。
「江奈ちゃん……そ、そうだったのか。てっきり、そういうのはあんまり好きじゃないタイプだと思ってたから……」
「いやいやいや。女子って男子が思ってる以上にエッチなことに興味あったりするよ? 特に、江奈ちゃんみたいに親が厳しい家だったりすると、かえって溜まってたりするんだろうね」
「おい生々しいことを言うんじゃないよ、お前は」
遠ざかっていく江奈ちゃんの背を見送りながら、俺は盛大にため息をついた。
う~ん、やっぱり女の子って難しい。
「だからまぁ、これからは颯太も適度に江奈ちゃんとスキンシップしてあげたらいいんじゃない? 私としてたみたいにさ」
「お前のはスキンシップってレベルじゃないものもあったけどな」
この一か月で、こいつが幾度その恵体をフル活用して俺に色仕掛けをしてきたかわからない。
ほんと、我ながらよく理性を保っていたと思うよ。
「さて、どうする? 江奈ちゃん戻っちゃったけど、私たちは続行する? 撮影スポット探し」
「そうだな。ちゃちゃっと見つけて、そしたら俺たちも戻るか」
「OK。……あ、そうだ颯太。この場所で思い出したけど」
散策を再開しようと歩き出したところで、水嶋に呼び止められて振り返る。
視線の先では、水嶋がスカートのポケットから何かを取り出して掲げる姿があった。
「これ、颯太に返すよ。もう私には必要ないものだからさ」
言われて水嶋の手を見れば、そこには「Pホイッスル」が握られていた。
「必要ないって、どういうことだ?」
「だって、もうこれで呼ばなくたって、これからはずっと颯太がそばにいてくれるでしょ?」
言うが早いか、水嶋は手に持っていたホイッスルを俺に向かって放り投げた。
しかし、少し力を入れ過ぎたのか、コントロールを誤ったのか。
空中に放物線を描いて飛んだホイッスルは、そのまま俺の頭も飛び越えて背後の砂浜に落下してしまう。
(おいおい、どこ投げてるんだよ)
危うく浅瀬に落ちて波にさらわれるところだった。
所詮は子供のおもちゃとはいえ、もう少し丁寧に扱ってほしいもんだな。
「ったく、投げるならちゃんと俺が取れるように……」
砂の中に半分埋まったホイッスルをつまみ上げ、文句の一つでも言おうと振り返った、その瞬間。
──ちゅ。
不意に、潮の匂いに交じって甘いキンモクセイの香りが鼻をくすぐり。
俺の唇に、何か柔らかくて温かい感触が伝わった。
(…………え?)
一瞬何が起こったのかわからなかった俺は、けれどいつの間にかすぐ目の前に水嶋の美貌があったのを見て、にわかに顔中が熱くなるのを感じた。
「キミの、初めてのヒロインにはなれなかったけどさ」
してやったり、とでも言いたげにはにかんで。
水嶋はすこし照れ臭そうに、けれど心の底から嬉しそうに言った。
「キミの一番のヒロインになるチャンスは、まだ残ってるよね」
あまりの不意打ちに面食らってしまっていた俺は、それでも、そんな彼女の飾りのない笑顔を前にしては、何か言い返す気もすっかり失せてしまう。
「颯太、ありがとう──私の初恋を守ってくれて」
パッと花が咲いたみたいな、その眩しいほどの満面の笑みに、俺はつくづく安堵していた。
本当に色んなことがあった一か月だったけど。

それを乗り越えた先で、この笑顔が失われずに済んだことに。
この笑顔を、守ることができたことに。
「……何もたいしたことはしてない気もするけど」
だから俺は、いつかこいつを助けた時と同じように。
「まぁ、気にするな」
せいぜいカッコつけながら、不敵に笑って言ったのだ。
「──俺は、お前のヒーローなんだろ?」