五月も終わりに差し掛かり、いよいよ外の空気も蒸し暑くなってきた。
本来であればこんな日はさっさと家に帰り、エアコンの除湿機能の恩恵を盛大に受けつつ映画鑑賞などと洒落込みたいところなのだが。
「はぁ、はぁ……っ! だから……俺は典型的なインドア派だって言ってるだろうにっ!」
そんな理想とは裏腹に俺は今、額にじわりと汗を滲ませながら、ひたすら昼下がりの市内を走り回っていた。
「ぜぇ……はぁ……あの女狐め……!」
何が「恋人ごっこ」だ。
何が「全部演技だった」だ。
最後の最後の最後まで、クールでキザなイケメン美少女を気取りやがって。
こんな後味の悪い「勝利」で俺が喜ぶとでも思ったら、とんだ大間違いだぞ。
「くそ──どこにいるんだ、水嶋っ!」
──時は数十分前に遡り。
「まさか……あの時の、あいつが!?」
江奈ちゃんの口から語られた、水嶋の「初恋」の話。
その一部始終を聞いた俺の脳裏には、今まで記憶の引き出しにしまわれていた小学生時代の思い出がにわかに蘇っていた。
そうだ。たしかに俺は小四の時の遠足で、あの森林公園に行っている。
あの時は樋口と二人で公園内を探検していて、でも途中から樋口が年上のお姉さんたちに囲まれてしまって、蚊帳の外に追い出されて退屈だった俺は一人で遊びまわっていたんだ。
そうしたら雑木林の向こうで誰かが怒鳴る声が聞こえてきて、木陰から覗いてみればびっくりだ。俺と同い年くらいの女の子が、酔っ払いのオッサンに胸倉を摑まれていたんだから。
それで俺は、とにかくその子を助けなきゃという一心で、考えるよりも先にオッサンにドロップキックをかましていた。
正直、今となってはあの女の子の顔も声もほとんど思い出せないけど。
そのエピソードを知っているのは、俺とあの女の子だけのはずだ。
「じゃあ、あいつは……本当に、小学生の時から?」
江奈ちゃんは黙って頷いて、それからぽつりぽつりと述懐する。
「……全部、静乃ちゃんが教えてくれたんです。この学校で再会した時に」
同じ特進クラスに入ることになって、二人はまた小学生の頃のような日々が送れることを喜んでいたという。
離れ離れになってからのこと、これからの高校生活のこと、色々な話をしたそうだ。
そしてある日、江奈ちゃんは自分の悩みを水嶋に打ち明けたのだという。
付き合っている彼氏が、本当は自分なんかに嫌気がさしているのではないかと。
彼に好きでいてもらえるほどの魅力が、果たして自分にはあるのだろうかと。
「私がそう言ったら、静乃ちゃん、なんだかちょっと雰囲気が変わって……それから、それまで隠していた全部を私に打ち明けてくれました」
小学生の頃に話していた「好きな男の子」が俺であったこと。
遠足で酔っ払いのおじさんから助けてくれたことがきっかけだったこと。
もう一度俺に会った時に想いを伝えるために、今まで必死に頑張ってきたこと。
けれど──その「好きな男の子」が、自分の親友と恋人同士になってしまっていたこと。
自分の中の複雑な心境を、水嶋は包み隠さず江奈ちゃんに話したそうだ。
『だからさ、江奈ちゃん──私と勝負しようよ』
全てを打ち明けた後、水嶋は江奈ちゃんにそう提案してきたという。
俺が江奈ちゃんのことを本当に好きなのかどうかを確かめるために、二人でひと芝居をうつ。
その後、水嶋が一か月間「恋人役」として俺にアピールをしかけ、それに俺が屈してしまうかどうかを試す。
俺が水嶋の告白を突っぱねたら、江奈ちゃんの勝ち。俺の江奈ちゃんへの愛が本物だったと証明され、その時は水嶋も大人しく身を引くことを約束したという。
でも、もし俺が水嶋の告白を受け入れたら、水嶋の勝ち。俺の江奈ちゃんへの愛がその程度のものだったと証明されてしまい、大人しく身を引くのは江奈ちゃんの方だったそうだ。
『彼のこと、信じたいんでしょ? ならこの勝負、受けてくれるよね。江奈ちゃん?』
やっと巡り合えた「仲間」であり、恋人である俺を信じたいという強い願い。
一方で、意図せず親友から初恋の人を奪ってしまったという事実への罪悪感。
自分の中に渦巻いていた様々な感情に背中を押されて、だから、江奈ちゃんはその「悪魔のささやき」に耳を傾けたのだという。
つまり、この一か月間の「勝負」は、俺と水嶋の勝負であると同時に、江奈ちゃんと水嶋の勝負でもあったのだ。
「結果、颯太くんは私を選んでくれた。それは、嬉しい。すごく嬉しいです。でも……やっぱりダメです、こんなの。こんな決着では、私……静乃ちゃんに勝ったなんて、言えない」
「江奈ちゃん……」
とうとう、江奈ちゃんの目からポロポロと涙が零れ落ちる。
「本当は、ポッと出は私の方なのに……静乃ちゃん、小学生の時のこととか、全然颯太くんに打ち明けようとしなかったんです。私が『そんなの公平じゃありません』って言っても、『ちょうどいいハンデだよ』なんてカッコつけて」
胸元でギュッと両手を握りしめて声を震わせる彼女にどんな言葉をかけていいのかわからず、俺はただただ立ち尽くすしかなかった。
「私……颯太くんのことが好きです。自分に自信がない私ですが、世界中の誰よりも颯太くんが好きなことだけは自信があります。だけど……子供のころから募らせていた想いをひた隠しにして、あえて颯太くんに嫌われるような恋敵からスタートして。そんな不利な状態でも一生懸命に振り向いてもらおうと頑張って……あまつさえ、自分の身が危ないのに迷わず颯太くんを庇おうとした。そんな静乃ちゃんを見ていたら……私、わかっちゃったんです」
制服の袖で拭っても拭っても零れる涙で頰を濡らし、江奈ちゃんは俺を見上げて微笑んだ。
こんなに悲しそうに笑う江奈ちゃんを見るのは初めてで、俺はグッと胸が詰まりそうになる。
「ああ、無理なんだな、って。勝てないんだな、って。世界中の誰よりも颯太くんのことが好きな女の子は、私じゃなくて静乃ちゃんだったんだなって……私、それがどうしようもなくわかっちゃったんです」
涙交じりの声で、それでも必死に笑顔を保ちながら、江奈ちゃんはそう言った。
「静乃ちゃんは……悪役なんかじゃありません。全部自分が仕組んだことで、自分こそが黒幕だったって、そんな風に振る舞っているけれど……本当の悪者は、私です」
「そ、そんなこと」
ない、と言いかけた俺の言葉に被せるように、江奈ちゃんは続ける。
「私がもっと颯太くんのことを信じられていたら、そもそもこんな勝負、受ける必要はなかったはずなんです。だけど……弱い私は、信じきれなかった。疑ってしまった。だから、静乃ちゃんの誘いに乗ってしまった。颯太くんはずっと、私のことを思ってくれていたのに……私、最低ですよね」
「な、なに言ってるんだよ? それを言うなら、江奈ちゃんに信じてもらえるようなことをしてこなかった俺にだって責任が……」
「いいんです、もう。今回のことで、嫌というほど思い知ったんです。陰湿で、自分勝手で、大好きなはずの人からの愛情にすら猜疑の目を向けてしまう臆病者……こんなどうしようもない私には──もう、颯太くんに好きでいてもらう資格なんか、無いんだって」
取り繕うように微笑む江奈ちゃんの目からは、もはや壊れた蛇口のように涙が溢れ出てくる。
いっそ目を背けられたらどれだけ楽だっただろう。
痛ましいまでに赤く腫れた彼女の目元を見ていると、俺も自分の身が引き裂かれるような思いだった。
「だから……お願いします、颯太くん」
それから不意にグシグシと目元を拭うと、江奈ちゃんはその表情をにわかに真剣なものにして、俺の目をまっすぐに見つめる。
「もし、ほんのひとかけらでもいいから、静乃ちゃんのことを好きだと思う気持ちが、颯太くんの中にあるのなら……選んであげてほしいんです。私ではなく、私の大好きな親友のことを」
「江奈、ちゃん? な、何を言って……?」
「たとえそうなったとしても、私にはもはやそれを止める資格なんてないし、止めるつもりもありません。私なんかに気を遣う必要もありません。颯太くんは……ただ、自分が思ったように決めていいんです。だから、その代わり──正直に、応えてください」
そう告げる江奈ちゃんの顔は、一か月前に俺に「勝負」を持ち掛けてきた水嶋が見せたような、「腹をくくった女の子の顔」だった。
だから、その場しのぎの思いやりも、どっちつかずの中途半端な態度も、きっと今の江奈ちゃんには受け入れてもらえないような気がした。
少し湿った初夏の風が、向かい合って立つ俺と江奈ちゃんの髪を揺らす。
(俺は……)
覚悟を決めたといった表情の江奈ちゃんを前にして、俺はしばし言葉を詰まらせる。
キーン、コーン、カーン、コーン。
そうしてたっぷり数分ほどは立ち尽くしていたところで、耳慣れたチャイムの音が学校内に響き渡った。
「……………………ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
やがて、小さくなっていくチャイムの余韻が完全に消えた頃。
俺は肺の中の空気をすっからかんにする勢いで、大きく大きく息を吐く。
それから、一瞬ピクリと肩を跳ねさせた江奈ちゃんのもとへと、ゆっくり歩を進めて。
「噓つきばっかりだ──俺を好きだって言ってくれる女の子は」
そのまま江奈ちゃんの脇を通り過ぎ、屋上の扉に向かって駆け出した。
校舎のあちこちを駆けずり回ってみても、どこにも水嶋の姿は見当たらなかった。
仕方なく昇降口までやってきた俺は、水嶋の靴箱を覗いてみる。
案の定、中には上履きが入っていた。どうやらすでに学校を後にしてしまったみたいだ。
「……とりあえず行くしかないか」
捜索範囲が一気に広がってしまったことに気が滅入りそうになりながら、俺も上履きからスニーカーに履き替えて昇降口を飛び出した。
「はぁ、はぁ……っ! だから……俺は典型的なインドア派だって言ってるだろうにっ!」
正門を出て、ひとまず最寄り駅までの通学路を走り抜ける。
途中、放課後に水嶋と立ち寄ったことがあるクレープ屋やゲームセンターなどにも足を運んでみたが、やはりあいつの姿はない。
結局、水嶋を見つけられないまま、俺は学校の最寄り駅までたどり着いてしまっていた。
もしかして、あのまままっすぐ家に帰ってしまったんだろうか?
押しかけても部屋に上げてはくれないだろうし、だとしたらさすがにお手上げなんだが。
「……今はとにかく、あいつが行きそうな場所を探すしかないか」
俺は駅のホームへと降りて電車に飛び乗る。
やってきたのは、隣町にある商店街だった。
「あの広場は……」
商店街のゲートを潜り抜けると、見覚えのある広場が見えてきた。
俺がここでベジタブグリーンの代役を務めてヒーローショーに出演したのが、まるでつい昨日のことのようだ。
思い返せば、あの日俺が舞台から落ちそうになった水嶋を助けた時も、水嶋は俺のことを「私のヒーロー」と言っていた。
あの時は、単に俺がヒーロー役をやっていたからそう言っていただけだと思ってたけど。
あの言葉の裏には、あるいはあの遠足の日の思い出があったんだろうか。
「はぁ……ふぅ、着いた」
やがてたどり着いたのは、水嶋の行きつけの喫茶店「オリビエ」だ。今日はメイドデーではないようで、店先の看板は通常営業時のものとなっている。
「いらっしゃいませ……おや、佐久原さんでしたか」
カランコロン、というドアベルの音を響かせて店内に入ると、マスターが相変わらずの恭しい口調で出迎えてくれた。
「あ、ども、マスターさん」
「今日はお一人ですか? そういえば、帆港学園はちょうど今時分はテスト期間中でしたか。自習をするのでしたら、どうぞ広い席をお使いください」
「いや、えっと、実は人を探していまして……水嶋のやつ、店に来ませんでしたか?」
「水嶋さん、ですか?」
整えられた口髭を撫で擦り、マスターは首を傾げる。
「いえ。今日はお見えになっていないと思いますが」
「そう、ですか……わかりました」
「お力になれず申し訳ない。もし彼女を見かけたら、貴方が探していたと伝えておきますよ」
「あ、ありがとうございます! 助かります!」
紳士的な老店主に頭を下げて店を出た俺は、けれどいよいよ心当たりがなくなってきてしまい頭を抱える。
さっきからチャットでメッセージを送ってみても既読すらつかないし、ダメ元で何度か電話をかけてみても繫がらない。
どうやらチャットはブロック、電話は着信拒否にでもされているようだ。
(くそ、他にないのか?)
あいつが行きそうな場所とか、あいつが好きそうな場所とか……。
「……あいつが、好きな場所?」
俺の脳裏に、ふと昨日の水嶋との会話がフラッシュバックした。
『──やっぱり私、海が見える町って好きだな』
(海、か……いやでも、それだけじゃ漠然とし過ぎてるしなぁ)
ブー、ブー、ブー!
「おわぁ!? な、なんだ?」
不意にスマホに着信があり、俺はおっかなびっくり画面に目をやる。
「よ、吉田さん?」
表示されていたのは、水嶋のマネージャー、吉田さんの名前だった。
そういえばブライダルモデルのバイトの時に、手続きの一環として一応連絡先を交換していたんだっけ。とはいえ、電話されるような心当たりはないんだけど。
「も、もしもし?」
《もしもし、佐久原さんですか?》
「はい、そうですけど……どうしたんですか?」
《その、ちょっとお聞きしたいんですけど……水嶋さんがどこにいるか、ご存じありませんか? 今日は学校が終わったら一度事務所に顔を出してもらうスケジュールだったのですが、まだ来ていなくて》
「え?」
俺が驚きの声をあげると、吉田さんが声のトーンを一段下げて続ける。
《こちらから電話やチャットをしてみても、まったく音信不通なんです。それに、ついさっき『Sizu』のインスタのアカウントに妙な投稿がアップされていまして。もしかしたら何かあったんじゃないかって、不安になってしまって……》
「妙な投稿、ですか?」
《はい。一枚の写真だけが添付されてて……ああいえ、実際に見てもらった方が早いかも……いまチャットでリンクをお送りします》
吉田さんの慌てた声が聞こえた直後、彼女とのチャットのトークルームにURLが送付されてくる。
通話状態を維持しながらリンクをタップすると、「Sizu」のアカウントの最新の投稿ページに飛ぶ。
「これは……!」
投稿には、ハッシュタグもコメントも何も添えられていない状態で、一枚の風景写真だけが載せられていた。
《おそらく、どこかの海辺の風景だと思うのですが……目印になりそうなものが何も無くて、私にはどこの写真なのか全くわからないんです。いつ撮影された写真なのか、そもそも水嶋さん本人が投稿したものなのかもわからないし……》
たしかに、いきなりこんな写真だけを投稿して音信不通なんて不自然だろう。
投稿のコメント欄にも、不思議に思ったらしいユーザーたちの声が集まっている。
〈Sizuさん、フォトテレ更新おつです!〉
〈コメントもハッシュタグもナシ? なんぞこれ?〉
〈これどこ? 海? 白いのは砂浜かな?〉
〈今度の撮影現場とかじゃないの?〉
〈Sizuさ~ん、何の匂わせなんですか~?(>_<)〉
写真に写っているのは、白い砂浜と、その向こうに広がる海と空。
たしかに、これだけで場所を特定するのはかなり至難の業だろう。
だけど。
「……吉田さん。俺、わかったかもしれないっす。あいつの居場所」
《えっ!? ほ、本当ですか!?》
「はい。なんで、今からちょっと行ってきます」
《え? え? ちょ、ちょっと、佐久原さん!? せめて場所を──》
吉田さんの言葉も聞き終わらぬうちに素早くスマホをポケットにしまうと、俺は再び商店街を走り抜けた。
商店街から電車に乗って一度桜木町駅へとやってきた俺は、そこからさらに電車とモノレールを乗り継いで、市内の沿岸部にある海浜公園へと降り立った。
時計を見れば、時刻は十七時を回ったところ。学校内やら街中やらあちこち駆けずり回っているうちに、気付けばこんな時間になってしまった。
太陽もすっかり西の空に傾き、東の空ではオレンジとピンクと紫のグラデーションがうっすらと形成されている。
「……さてと、無駄足にならなきゃいいけど」
ここは、以前「八景島シーパラダイス」に行った際に、水嶋がやたらワクワクした様子で眺めていた海浜公園だ。
公園とは言っても、その敷地面積の大半はビーチが占めているので、どっちかと言えば海水浴場って感じだけど。
『見て見て颯太。めっちゃ広いよ、砂浜』
『この辺りはプライベートでも撮影でも来たことなかったんだよね。こんな良いビーチがあったなんて知らなかったなぁ』
そう言って子供みたいにはしゃぎながら写真を撮っていた彼女の姿を思い出す。
確証があるわけじゃない。単なる俺の思い違いかもしれない。
でも、あいつはきっと、この公園のどこかに……。
──ピィィィィィィィィ。
不意に、潮風とさざ波の音に交じって、微かに笛の音のような音が聞こえてきた。
海辺の上空で優雅に飛んでいるトンビたちの「ピィィィィヒョロロロロ」という特徴的な鳴き声とも違う。一定の高さの音を響かせる、この笛の音は……。
俺は広い砂浜へと足を踏み入れ、風に乗って聞こえてくる音を頼りに歩みを進める。
平日の夕方ということもあってか、砂浜を歩く人影はほとんどない。
だから。
「ピィィィィィィィィィィィ……」
探していた人物は、存外にあっさりと見つけることができた。
「……海水浴にはちょっと早いんじゃないのか?」
靴と靴下を砂浜に置き、学校の制服を着たまま脛のあたりまで海に入っていたその少女に、俺は背後から声をかけた。
「えっ……そ、颯太?」
「おう。探したぞ、水嶋」
にわかに笛の音を途切れさせた水嶋が、あからさまに驚いたような表情を浮かべて振り返る。
その左手がさりげなく背中に回されるのに、俺はちらりと視線を走らせた。
ただそれもほんの一瞬のことで、水嶋はすぐさまいつもの飄々とした笑みを仮面のように顔に張り付けると。
「え~と……どうして佐久原くんがここにいるのかな?」
いやいや、さっき咄嗟に「颯太」って言っちゃってるし。今さらよそよそしくしたって無理があるだろ。
俺は肩を竦めつつ、自分のスマホを取り出してひらひらと掲げて見せてやる。
「インスタ。お前、さっき更新してただろ」
途端に「ミスった」というような顔をして、けれど水嶋はまたすぐに取り繕うように言った。
「ちょっと海で散歩したい気分になってさ。最近あんまり更新してなかったし、ちょうどいいかなって。ただの気まぐれだよ、気まぐれ」
「コメントも、ハッシュタグも無しにか?」
「たまにはそういう日もあるよ。これはこれで、なんかエモくない?」
この期に及んでのらりくらりとした態度だが、今はそれに付き合ってやるつもりはない。
俺は一呼吸おいてから、単刀直入に切り出した。
「話がある」
「……それって、『勝負』のこと?」
やれやれ、とでも言いたげに、水嶋が眉をハの字にして首を振る。
「その話ならもう終わったと思うけど? 勝負はキミと江奈ちゃんの勝ち。キミたちはこれからも仲良しカップルを続けて、水嶋静乃はもう関わらない。めでたし、めでたし、ハッピーエンド。それでおしまいでしょ?」
「いや、終わってない。フェアプレーに反する不正が発覚したからな」
俺の言葉に、水嶋は一瞬きょとんとした表情を浮かべると。
「……あはは。不正って? 私はべつにズルなんてしてないでしょ? それに、たとえ私が何かズルをしていたとしても、今さらそれを指摘するメリットはないんじゃない? だって、勝ったのは佐久原くんたちの方なんだから」
あくまでもすっとぼける腹づもりらしい。
水嶋は相変わらずの飄々とした笑みを崩そうとせずそうのたまった。
「……お前、さっき言ったよな? この一か月のことは噓だったって。全部、俺の江奈ちゃんへの愛が本物かを確かめるための演技だったって」
「ふふ。自分で言うのもなんだけど、なかなかの演技力だったでしょ? まぁ、さすがにちょっとキミを追い詰め過ぎたかもしれないって、反省はしてるけど」
「俺のことが好きだって言ったのも、全部演技か?」
注意していなければ気付かないほど、ほんの一瞬だけ言葉を詰まらせた水嶋は、それでも白々しい笑顔で頷いた。
「うん、そうだよ」
「じゃあ、もし今日、俺がお前の告白を受け入れてたら、お前はどうするつもりだったんだ? 好きでもない男と付き合うつもりだったのか?」
「まさか。その時は、どっちみちさっきみたいにネタばらしをしてから、江奈ちゃんに佐久原くんをお返しするつもりだったよ? まぁ、その場合はその後のキミたちの関係がギクシャクすることにはなっちゃってたかもだけど」
おちゃらけた口調でそう言って、水嶋は「もういいでしょ?」とため息をついた。
「噓だったんだってば、全部。だから佐久原くんも本気にしないでよ。っていうか、こんな所で私と話してていいの? せっかく愛を確かめ合えたんだから、江奈ちゃんのそばにいてあげた方がいいんじゃ──」
「俺をここに送り出してくれたのは、その江奈ちゃんだ」
ようやく、水嶋がそれまでの薄ら笑いを取り払う。
何を言っているのかわからない、という風に怪訝な顔をする彼女に向かって、今度は俺が不敵な笑みを向ける番だった。
「そういえば、むかし約束したっけな? その『Pホイッスル』の音が聞こえる場所に俺がいたら駆けつけてやる、ってさ」
俺が水嶋の背中に隠されている左手を指差すと、今度こそ彼女は驚きに目を丸くした。
しかし、俺のそのセリフによって全てを察したらしい。いよいよ観念したといった諦観の表情を浮かべて、水嶋はゆっくりと左手に握りしめていたものを見せてきた。
果たして、彼女の華奢な手のひらのなかに収まっていたのは、いつか俺がくれてやった、「南極超人ペンギンナイト」のホイッスルだった。
「はぁ~あ……良くないなぁ、江奈ちゃん。『それは言わないで』って言っておいたのに」
この場にいない江奈ちゃんに向かって、水嶋が窘めるようにそう言った。
「でも、そっか……じゃあ、全部聞いたんだね。颯太も」
「ああ。『このままじゃフェアじゃないから』って言って、全部話してくれたよ」
「ふふ、なにそれ? 恋敵に塩を送るようなことするなんて、とんだお人好しだね。『恋人は性格が似る』って、ほんとだったんだ」
クスクスと笑っておどけて見せて、けれど、それでもまだ水嶋は、俺の顔を真正面から見ようとはしなかった。
「でも、同じだよ。結局」
「同じ?」
「たしかに、私は小学生の時から颯太のことが好きだったし、勝負に勝ったら遠慮なく颯太をもらうつもりだった。昔のことを隠していたのは、同情とか憐憫とか、そういうので颯太の気を引きたくはなかったから。そもそも、颯太の方はそんなこと覚えていないかもだったしね」
けど、と。
手のひらの中でホイッスルをコロコロと転がしながら、水嶋は言葉を続ける。
「それに、そんなことをしなくても……正直、勝てると思ってた。江奈ちゃんが築いてきた数か月よりも、私の一か月の方が絶対に勝ってるって。今の私だけでも、十分キミに振り向いてもらえるって……そう思ってた。だけど結局、颯太が選んだのは江奈ちゃんだった。完敗だよ。これまでの江奈ちゃんの頑張りと、颯太の義理堅さを舐めていた、私の完敗」
いっそ清々しいとでも言わんばかりに、水嶋は空を見上げて大きく伸びをした。
「一か月、私にやれるだけのことは全部やったつもり。それで敗けたんなら、もうしょうがないじゃない? 潔く諦めるよ。いつまでも女々しく引きずるなんて、『Sizu』のスタイルじゃないしね」
俺に、というよりは自分に言い聞かせるようにそう言って、水嶋がパシャパシャと足元の水を跳ねさせた。
それからくるりと俺に背を向けて、水平線に沈みゆく太陽に目を向ける。
「だから、ほら。親友から恋人を奪い取ろうとしたような、こんなどうしようもなく最低な女の子のことなんて、綺麗さっぱり忘れてさ。キミは今まで通りに──」
「江奈ちゃんはな」
遮るように俺が言うと、水嶋がピタリと足を止めた。
「江奈ちゃんは、『静乃ちゃんを選んであげてほしい』って言ったんだ」
弾かれたように振り返った水嶋は、おそらくは今日一番の驚きの表情を浮かべていた。
「………え?」
ぽかんと開いた口から、間の抜けた声が零れ落ちる。
立ち尽くす水嶋に、俺はついさっき江奈ちゃんから告げられた思いの丈を話して聞かせた。
本当は「ポッと出」なのは自分の方であること。
この一か月に俺と過ごす水嶋の姿を見て「勝てない」と悟ってしまったこと。
愛を確かめるという名目のもとに一方的に試すようなことをしてしまった自分には、もはや俺に選んでもらう資格はないと思い知ったこと。
だから、もし俺にほんの少しでも水嶋を想う気持ちがあるのなら、自分ではなくて「親友」のことを選んであげてほしいこと。
「江奈ちゃんは、俺に言ったんだ。『正直に応えてほしい』って。本当は裏切ってなかったんだからとか、江奈ちゃんに申し訳ないからとか、そんな優しさを優先して自分の気持ちを誤魔化さないでほしい──そう言われてるような気がしたよ」
当然の報いとはいえ、これでもう俺との関係がすっぱり終わってしまうこと。
やっと見つけた心の拠り所を失い、またもとの灰色でつまらない人生に戻ってしまうこと。
自分が──「選ばれない側」になってしまうこと。
「それを全て覚悟の上で、江奈ちゃんは俺にそう言ったんだ。だから俺も、江奈ちゃんのその選択を尊重することにした。江奈ちゃんの覚悟と、自分の正直な気持ちに従って……だから今、俺はこうしてお前の目の前に立ってんだよ!」
水嶋のクールぶった態度にもいい加減ムカついていた俺は、だから、呆然とする奴に向かってビシリと人差し指を向けて宣言する。
「俺がお前に勝ったら、なんでも一つ言うことを聞かせられる約束だったな? その『追加報酬』の権利を、今、ここで使わせてもらうぜ」
虚を突かれたように瞠目する水嶋に、俺はきっぱりと言い放った。
「もうこれ以上、噓を吐くのは止めにしろ。俺にも、江奈ちゃんにも──お前自身にもな」
「あ……」
まるで石像にでもなってしまったみたいに、水嶋は微動だにせず立ち尽くす。
人気もなく静かな海辺を、ザザーン、という波の音が支配する。
そして。
「あ、れ……?」
呆然とした表情のまま、それでも、さながら彼女のエメラルドの瞳が溶け出したかのように。
水嶋の頰を、一筋の涙が伝っていた。
(うえぇ!? あ、あの水嶋が、泣いてる!?)
笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔、子供みたいにはしゃぐ顔。
この一か月だけでも色んな顔を見てきたけれど。
それでも決して涙だけは見せなかった水嶋が初めて見せたその泣き顔に、今度は俺が虚を突かれる番だった。
「あ、あはは……いやだな、なんで……なんで私、こんな……」
ただ、驚いたのは水嶋自身も同じだったらしい。
乾いた笑い声をあげながら、水嶋は慌ててゴシゴシと涙を拭う。
それでも、その目元はうっすらと赤く腫れていた。
「……お前でも、泣いたりするんだな。ちょっとびっくりした」
「え~……ひどいなぁ。私のこと、血も涙もない冷徹女とか思ってたってこと?」
ひとしきり涙を拭いたタイミングを見計らって俺が言うと、水嶋がおどけた口調でそう返して微笑んだ。
さっきまでの白々しいそれではなく、この一か月で何度となく目にしてきた、ごく自然な笑みだった。
なんだよ。「全部噓だった」なんて、それこそやっぱり噓っぱちだったんじゃないか。
「はぁ~あ……そっかぁ。そうきたか~」
「言っとくけど、お前が言いだしたことなんだからな。まさか忘れたとは言わないよな?」
「大丈夫。ちゃんと、覚えてるよ」
事ここに及んで、さしもの水嶋もいよいよ吹っ切れたらしい。
「──さっきの、インスタの話だけどさ」
張りつめた空気を弛緩させ、水嶋はすこしバツが悪そうに後ろ手を組みながら口を開いた。
「『気まぐれ』なんて言ったけど……本当は、ちょっと期待してたんだ。颯太なら、気付いてくれるんじゃないかなって。気付いて、ここまで来てくれるんじゃないかなって。……そんなワケないのにね? だって、私は颯太に選ばれなかったんだから」
そこで一旦言葉を切って、水嶋は左手に持っていたホイッスルを口元にあてがう。
ピィィィィィィィィ……──。
広い砂浜に、水嶋の吹いた笛の音が再び響き渡った。
「でも……来てくれた。この笛を吹いたら、本当に来てくれた。小学校のあの遠足の日からずっと大好きで。高校生になっても、なんだかんだであの頃と変わらずに優しくてお人よしで。この一か月間、本気の本気の本気で振り向いてもらおうと頑張ったけど、その想いが届かなくて……。だけど、もうなにもかもが終わっちゃった今この瞬間も……やっぱりどうしても諦められなくて、忘れられなくて、この先もずっと大好きでいることをやめることなんてできない──そんな、私のヒーローが」
嚙み締めるような水嶋の言葉を、俺は黙って聞き続けた。
「だから、もし……もし本当に、江奈ちゃんが、颯太が、私の本当の気持ちを受け入れるって言ってくれるなら……もう一度だけ、チャンスをくれないかな?」
そこにはもう、文武両道、容姿端麗なカリスマJKを演じるイケメン美少女の姿はない。
圧倒的なオーラで多くの若者を魅了する、超人気モデルの「Sizu」の姿はない。
いまの俺の目の前には、どこにでもいるような、けれど世界にたった一人だけの、ごくごく普通の「恋する少女」しかいなかった。
「──ずっと、大好きでした」
いつもの余裕ぶった態度も、全てを見透かしているかのような飄々とした顔も、その気になればいくらでも口にできるだろう虚言や戯言も。
何もかも全部をかなぐり捨てて。
「もし、こんな最低で、自分勝手で、わがままで、キミを困らせるようなことしかしてこなかった……こんなどうしようもない女の子でも、良いって言ってくれるなら」
夕陽に照らされる中でもそれとわかるくらい真っ赤に頰を染めながら、俺に向かってゆっくりと手を差し出して。
水嶋は、自分の中に最後に残っていたらしい、飾り気のないシンプルな言葉を口にした。
「佐久原颯太くん──キミの、ヒロインになってもいいですか?」
水嶋の口から告げられる、三度目の告白。
けれど、一度目とも二度目とも違って何の含みも思惑もない、純粋な愛の告白。
きっと水嶋にとっては、小学四年生から高校一年生までの六年間もの時を経てようやく初めて伝えることができたのであろう、その想いを受け止めて。
俺はゆっくりと、水嶋が差し出してきた右手に向かって自分の右手を──。
「────待ってぇぇっっ!!」
突如として響き渡ったその声に、俺たちは思わず振り返る。
「え……?」
「あ……」
ほとんど同時に声を漏らした俺と水嶋の視線の先で。
海とは反対側、砂浜の向こうに立ち並ぶ松林の間から誰かが飛び出してくる。
遠目からでも息を切らしているのがわかるくらいに肩を上下させ、ギュッと両の拳を握りしめながら。
少女は、そこに立っていた。
「「江奈ちゃん!?」」
またまた俺と水嶋が同時に叫ぶや否や、江奈ちゃんが両手を振って一生懸命にこちらに向かって走ってきた。
俺と同じく典型的な文化系であることも祟ってか、途中で何度か砂に足を取られて、砂浜に顔面からベシャッ、とダイブしてしまう。
しかし、その度に江奈ちゃんは顔についた砂を払い落として、必死な顔で駆けてきた。
「はぁ……はぁ……けほっ……」
「え、江奈ちゃん? どうして、ここに……」
やっとの思いで俺たちの近くまでたどり着いた江奈ちゃんに、俺は困惑気味に声をかける。
「──噓つき、なのでっ!」
それには答えず、江奈ちゃんは息も絶え絶えに俺の顔を真っすぐ見据えて言い放った。
「私……颯太くんが言う通り、噓つきなので! 『静乃ちゃんには敵わない』って……『静乃ちゃんを選んであげてほしい』って……そう言ったけど!」
すでに真っ赤に目元を泣き腫らしながら、江奈ちゃんはなおもポロポロと涙を流す。
「今さら、そんな資格はないかもしれません。たくさん迷惑をかけて、傷付けておいて、虫のいい話なのもわかっています。それでも、私……私、やっぱり無理です! これで颯太くんとお別れなんて……これから先ずっと、颯太くんのいない人生を過ごしていかなきゃいけないなんて……生きて、いけない……イヤ……イヤなんでず!」
「江奈ちゃん……」
なんとなく、わかってはいた。
自分が選ばれなかったとしても、それで構わない──江奈ちゃんのその言葉が、本当は精一杯の強がりだったんだろうということは。
もちろん、本気でそう思っていた部分もあると思う。俺がもし本当に水嶋を選ぶことになったら、それを甘んじて受け入れようと。
長年想いを募らせていた親友のために、自分の方こそ身を引こうと。
だからこそ、自分に噓をついてまで俺を送り出そうとしてくれた江奈ちゃんの覚悟に、俺も腹をくくって応えようと思ったのだ。
「……ダメ、でしょうか?」
だけど、やっぱりその覚悟を貫き通せるほど強くはなくて。
「私……颯太くんのそばにいては、ダメでしょうか?」
だからいま、江奈ちゃんはこうして俺のもとへと走って来たんだろう。
「もう一度──あなたの彼女になっては、ダメでしょうか!?」
俺の脳裏に、四か月前の冬休み明けの記憶が蘇る。
『私と……付き合ってください』
本当はこちらから言い出そうと思っていたのに、足踏みをしている内に結局先を越されてしまったのは情けない限りだけど。
だからそれは、俺が人生で初めて経験した告白だった。
そして、俺に人生初の彼女ができた瞬間でもあった。
言葉も、シチュエーションも、何もかもがあの時とは違うけれど。
俺を真っすぐに見つめるその真剣な瞳だけは、あの時と何一つ変わっていなかった。
(なんて言えばいい? 俺は、江奈ちゃんに、なんて)
水嶋に差し出しかけて中空で動きを止めた右手のように、俺の心はものの見事に宙ぶらりんになってしまっていた。
水嶋の本音も、江奈ちゃんの本音も……そして自分自身の本音も、俺はもう一切合切知ってしまった。
どんな選択肢を選んでも、必ず誰かを傷つけることになると知ってしまっているのだ。
しかし悲しいかな、俺は恋愛映画の主人公でも、ラブコメ小説の主人公でもない。
ただちょっと映画に詳しいだけの、それこそ石を投げれば当たるくらいどこにでもいる、陰キャでオタクな冴えない男子高校生に過ぎない。
創作の中に登場するかっこいい男たちみたいに、こんな状況でなんて答えたらいいのか、どんな行動を取るのが正解なのか、なんてことはまったく見当もつかなくて。
(俺は……)
もの言わぬ案山子のように、ただただ立ち尽くすことしかできなくて。
「──ダメだよ」
だから、最初に江奈ちゃんにそう答えたのは、俺ではなくて水嶋だった。
「今さらそんなこと言ったって、もう遅いよ」
そう言った水嶋の表情は、彼女にしては珍しく険しいものだった。
「幼馴染なんだから知ってるでしょ? 私、一度貰ったものはよっぽどのことがないと返さないから」
「へ? お、おい、ちょ、水嶋!?」
言うが早いか、水嶋は宙ぶらりんになっていた俺の右手をぎゅっと摑むと、そのまま浅瀬の中へと引っ張っていく。
「ま、待て待て待て!? 靴! 俺、スニーカー履いたままだから!」
「濡らしちゃえ、濡らしちゃえ」
「無茶言うな! グチョグチョの靴で帰りたくないぞ俺は!」
そうこうしている内に、俺はとうとう片足を水の中に突っ込んでしまった。
「つ、冷てぇ~!?」
「全部濡れちゃえば慣れるって」
なおも腕を引っ張ってくる水嶋のせいで、とうとうもう片方の足も水に浸かりそうになった、その瞬間。
「……ん~~~~っ!」
「ふぁ!? え、江奈ちゃん!?」
しかし、空いていた俺の左手を、今度は江奈ちゃんがギュッと握りしめて引っ張ってきた。
必然、両方の腕を別々の方向から引っ張られた俺の体は、片足を水の中に、片足を砂の上に置いた格好で静止する。
か細い腕を目いっぱい使って、非力ながらも必死に俺の腕を引っ張る江奈ちゃん。
モチモチと柔らかそうな頰っぺたをプクッと膨らませ、まさに全身全霊といった様子だ。
そんな彼女の姿に、水嶋が「へぇ」と不敵な笑みを浮かべる。

「随分と食い下がるんだね。いつも引っ込み思案な江奈ちゃんのクセに」
いつになく挑発的なセリフを吐く水嶋に対して、江奈ちゃんも江奈ちゃんで珍しくキッとした表情だ。
全神経を俺の腕を引っ張ることに集中させているために喋る余裕もないみたいだが、水嶋に無言の抵抗を見せている。
こんな雰囲気の二人は、今まで見たことがない。
「颯太の選択を尊重するんじゃなかったの? 黙って送り出す覚悟を決めたんだよね? なら今さら撤回するなんて、それはちょっとズルいんじゃない?」
「……(フルフルフルフルフル)!」
「それでも譲りたくないって? ふ~ん、面白いじゃん」
「お、おい、キミタチ!? いいからとりあえず手を放して──」
そろそろ腕の痛みも限界に達しようとしていた俺が、なんとか二人をなだめようとした瞬間。
「……もう……げん、かい……」
「わっ!?」
「へ!?」
先にスタミナ切れを起こしたらしい江奈ちゃんが脱力する。
江奈ちゃんサイドからの引張力がなくなったことで、当然、力のベクトルは一気に水嶋の方へと傾いていき……。
バシャァァァァン!
あわれ、手を繫いだままだった俺たち三人は、そのまま勢いよく浅瀬の中へと倒れ込むハメになってしまった。
「キミたちね~。何があったんだかしらないけど、ダメだよ。制服着たまま海に飛び込んだりしちゃあさぁ」
十分後。
海っぺりで俺たちが揉めていた様子を見て、公園を通りがかった誰かしらが管理事務所に通報したらしい。
駆けつけてきた事務員のおじさんに連れられ、びしょびしょの制服から貸してもらった職員用のツナギに着替えた俺たちは、おじさんからのお説教に耳を痛めていた。
「足がつくとこでも、そのまま溺れちゃう人だっているんだよ?」
「……はい」
「キミたち、学生さんだよねぇ? 通報してくれた人の話を聞く限りじゃ、なに? 痴話喧嘩してたんだって?」
「……はい」
「いやね、こう見えておじさんもキミぐらいの年の頃は、色んな女の子にモテてね。おじさんを巡っての言い争いなんてしょっちゅうだったから、キミの気持ちもわかるんだけどさぁ。でも、そういう時こそ男がビシッと場を収めなきゃダメよ」
「……そっすね」
しまいにはいつの間にかおじさんの学生時代の武勇伝が始まってしまい、俺はさっきから「はい」か「そっすね」しか言えなくなっていた。
タオルで髪を拭かせてもらった上にツナギまで貸してもらっている手前、こちらから話を中断させるのは忍びないのがなんとも歯がゆい。
「まぁとにかく、喧嘩もほどほどにね。今日はもう事務所も閉めないとだから、そのツナギは着て帰っちゃっていいよ。今度ここに来た時に返してくれればいいからさ」
「……すみません、助かります」
「いいの、いいの。じゃ、三人とも気を付けて帰りなさいね」
温かい言葉で見送ってくれたおじさんにお礼を告げて、俺たちは海浜公園のモノレール駅へと向かう。
すでに陽も完全に沈み、空にはうっすらと星の光が見え始めていた。
「…………」
「…………」
(き、気まずい!)
俺を挟むように両脇を歩く水嶋と江奈ちゃんは、さっきから一言も喋らない。
ピリついた空気に気圧されて、俺もただただ押し黙るしかない。
結局、モノレールと電車を乗り継いで桜木町駅に降り立つまで、その気まずい沈黙は続き。
「……じゃあ私、バスだから」
「……私は、地下鉄なので」
「お、おう……気ィ付けて、な?」
最後に短い別れの言葉を口にする二人を、俺は恐る恐る見送ることしかできなかった。