幕間 水嶋静乃の初恋
小学生の頃のあだ名は、「水嶋くん」だった。
同い年の男子より背も高かったし、足も速かったし、休み時間や放課後は外を走り回っていたから、いつもズボンを履いていたし。
おまけに男子たちに交じって遊ぶことも多かったから、一人称は「僕」。我ながら、これじゃあ男の子扱いされても無理はないなと思う。
実際、当時はまだ今みたいに女の子らしい体型でもなかったから、初めて会う人には本当に男の子だと勘違いされることもしょっちゅうだった。
でも、別にそれを嫌だと思ったことはない。
もちろん「かわいい」って言われるのが一番嬉しいけど、「かっこいい」って言われるのも私は好きだったから。
「ねーねー水嶋くん! 学校終わったら私たちと一緒に帰らない?」
「ダメダメ! 水嶋くんは俺たちと公園でサッカーすんの!」
「ちょっと男子! なんでアンタたちが勝手にそんなこと決めてるのよ!」
「へ~んだ! 水嶋くんも女子たちと一緒より、俺らと一緒の方が楽しいよね?」
自慢するつもりはないけれど、多分、私はいわゆる「学校の人気者」だったんだろう。
放課後ともなれば他クラスも含めてあちこちのグループからお誘いの声が掛かり、常に誰かしらと一緒に過ごしていた。
ただ、小学生というのはやたらと「男子」と「女子」を区別したがる年ごろだからか、私をどっち側に引き込むかでしばしば諍いが起きるのには困ったものだった。
男の子たちと遊べば女の子たちが怒るし、女の子たちと過ごせば男の子たちが拗ねるしで、どうにか喧嘩にならないように立ち回るのが大変だった。
「静乃ちゃんは、すごいね。あんなに沢山のお友達がいるなんて」
だから、なんだろう。
私にとってお昼休みに江奈ちゃんと過ごす時間は、楽しくも気苦労の絶えない日々の中で、唯一リラックスできる時間だった。
江奈ちゃんとは、小学三年生の時からずっと同じクラスだった。皆が私の事を「水嶋くん」と呼ぶ一方で、江奈ちゃんだけは「静乃ちゃん」と呼んでくれた。
皆が私の外面を見ている中で、彼女だけはちゃんと私自身を見てくれているような気がした。
江奈ちゃんの前でだけは自然体でいられたから、それが嬉しくてよく一緒に話すようになったのかもしれない。
「静乃ちゃん、美人だし大人っぽいし、人気になるのもわかるよ。それに比べて私は、地味だし、友達も全然いないし……」
「そんなことないって。僕は江奈ちゃんのこと、可愛いと思うな。多分このクラスの中にも何人かいると思うよ。江奈ちゃんのこと好きな男の子」
「えぇ!? い、いないよ、そんな人……! そ、そういう静乃ちゃんこそ、聞いたよ。今まで何度か、その……告白、みたいなこと、されたって」
「あ~……」
たしかに、それまでに何度か告白、というか「好き」だと言われたことはあった。といっても、全部女の子から言われたんだけど。
「静乃ちゃんは好きな人とか、いないの?」
「今はいないかなぁ。な~んて、今までもいたことないんだけどさ」
正直、その時の私は「好き」とか「恋」とかをよくわかっていなかった。
人並みに少女漫画とかも読んでいたけれど、それはあくまでもフィクションの話で、実際に自分が漫画のヒロインみたいに誰かに恋をしたりする姿は、いまいち想像できなかった。
「そう、なんだ……でも、もし静乃ちゃんに好きな人ができるとしたら、きっと静乃ちゃんに負けないくらいカッコよくて、頭も良くて、王子様みたいな人なんだろうね」
「え~、どうだろ? わかんないや」
我ながら、ちょっと色恋沙汰に興味がなさすぎたなとは思う。
それでもやっぱり、私が一人の女の子として誰かを好きになることなんて、きっともっとずっと未来の話だと思っていた。
だけど、私たちが小学四年生になったある日のこと。
その後の私の人生を大きく変える、運命的な出会いがあったのだ。
それは、小学四年の夏休みが終わり、厳しい暑さもおさまって過ごしやすい季節になったころのこと。
私たちの学校では、毎年恒例の校外遠足が行われる時期を迎えていた。
場所は、市内の小高い丘の上にある森林公園。元々は競馬場だった土地を整備したという広い公園内には、大きな芝生の広場や池があったり、馬に関する博物館なんかもあったりした。
「は~い、皆さん! それでは今から一時間ほど自由時間にしたいと思います。公園内であればどこに行ってもいいですが、くれぐれも危ないことはしないように。何かあれば見回りをしている先生に連絡してくださいね~!」
午前中に博物館の見学をして、それからお弁当を食べたあとは、いよいよ皆がお待ちかねだった自由時間だ。
「なぁなぁ水嶋くん! 俺らと一緒にケイドロやろうぜ!」
「はぁ? 何言ってんの、水嶋くんは私たちと一緒に遊ぶの!」
「そんなのいつ誰が決めたんですかぁ? 何時何分何秒地球が何回まわった時~?」
「うわ、ウザ……ほんと男子って子供だよね!」
案の定、みんな私と一緒に自由時間を過ごしたがって言い争いになってしまったけど、最終的にはそれぞれのリーダー格の男女数人と一緒に行動することに落ち着いた。
本当は江奈ちゃんと二人でお散歩でもできれば一番気が楽だった。けど残念ながらその日、江奈ちゃんは風邪を引いてお休みだったので仕方ない。
「よ~し、それじゃ俺からいくぞ~!」
そんなわけで、男子と女子両方のやりたいことを踏まえた上で、私たちは折衷案としてボール遊びをすることになった。
ルールは簡単で、皆で円を作るようにして立ち、ボールを地面に落とさないように手や足で打ち上げ続けるというものだ。
ボールが地面に落ちてしまったら直前に触っていた人が失格となり、円から抜ける。それを最後の一人になるまで続けるのだ。
「えいっ」
「ほっ!」
「よいしょ!」
みんな最初は順調にボールを打ち上げていたのだが、やがて疲れてきてしまって、一人、また一人と脱落していく。
そして、最後に残ったのは男子のうちの一人と私の二人だった。
「よっしゃ。水嶋くんと一騎打ちだぜ」
「ふふ、負けないよ」
「じゃあいくぞ! おりゃ……あ、やべっ」
「ちょっと! どこ投げてんのよ!」
しかし、相手の男子が力加減を誤って思いっきり打ち上げてしまったボールは、そのままあさっての方向に飛んでいき。
「……うおっ!?」
不運にも、近くのベンチに座っていたおじさんの頭に当たってしまった。
「──おいっ! 何しやがんだ、このクソガキどもがァ!!」
シワだらけのスーツを着崩してベンチに座っていたそのおじさんは、缶ビールを飲みながら私たちに怒鳴り散らした。
よく見れば、ベンチの下には空いたビールの缶がいくつも転がっていた。
「ヒック……おい! このボール投げたのはどいつだ、あぁ? 誰が投げたんだよぉ!?」
ボールを引っ摑んでベンチから立ち上がったおじさんは、焦点のぶれた目で私たちを睨みつけ、フラフラとおぼつかない足取りで近づいてきた。
おじさんは相当酔っぱらっていたみたいで、酒臭い匂いがツンと鼻についた。
「ひっ!?」
「だ、誰って……」
おじさんの剣幕にみんな震えあがってしまい、まともに声すらも出せない状態。
ボールを打ち上げてしまった張本人の男子にいたっては、顔面蒼白といった様子で立ち尽くしてしまっていた。
「誰が投げたんだ、って聞いてんだよぉぉ!!」
バーン!
しびれを切らしたらしいおじさんが、持っていたボールを思いっきり地面に叩きつけた。派手にバウンドしたボールは宙を舞い、そのまま転がっていってしまう。
いよいよ恐怖もピークに達した皆の視線は、自然とボールを打ち上げた男子に集まっていた。
「んんン? ……お前かぁ? クソガキこら、お前が投げたんか? あぁ!?」
おじさんに凄まれた男子は、もう目に涙さえ浮かべてしまっていた。
このままでは彼がおじさんにどんなに手酷くどやされるかわからない。
そう思った私は、気付けばその男子を庇うようにして一歩前へ出ていた。
「……僕です。僕がボールを投げちゃったんです。ごめんなさい」
ボールを投げた男子含め、グループの皆が驚いた顔で私を見る。
そんな皆を尻目に、私は真正面からおじさんと対峙した。
「遊んでいるうちに、間違ってボールを高く飛ばしちゃったんです。おじさんに当てちゃったことは謝ります。でも、わざとじゃないんです」
いくら酔っぱらっているとはいえ、相手は大の大人だ。
こっちが誠実な態度を見せてきちんと謝罪すれば、多少怒鳴られはするかもしれないけど、それでこの場は収まるだろう。
幼かった私はそんな風に考えていた……のだが。
「そうか……お前が投げたんかぁ!!」
それからすぐに、世の中はそう単純にはできていないことを思い知った。
「うぐっ!?」
こちらの弁明にはまるで耳を貸さず、おじさんは出し抜けに私の胸倉を摑んで持ち上げた。
背が高いといっても、それはあくまでも小学生にしては、の話。
当然、私は地面から足を浮かせ、宙ぶらりんの状態になってしまう。
「『ごめん』で済んだらなぁ! クソ高い税金払ってまで警察を働かせてる意味がねぇだろ!」
「うっ……」
「くそっ! くそおっ! どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって! 俺だってなぁ、好きで平日の真昼間にこんな公園で時間潰してるわけじゃねぇんだよぅ!」
わけのわからない愚痴をまき散らし、おじさんは持ち上げた私をブンブンと前後に揺らす。
「ご、ごめんな、さ……」
「だ~か~ら~ぁ! ごめんで済んだら警察要らねぇっつってんだろぉ! ガキだからってなぁ、何したって許されると思ったら大間違いなんだよっ!」
必死に謝ろうとしても、おじさんはますます激昂するばかりだ。
私はこの時ほど、「話の通じない相手」というのがどれほど恐ろしいのかを思い知ったことはなかった。
まるで理性のない野生の猛獣を相手にしているようで、さすがに恐怖を感じずにはいられなかった。
「う、うわぁぁぁぁ!?」
「きゃぁぁぁぁ!?」
ついに我慢の限界だったらしい。
血走った目で当たり散らすおじさんに恐れをなして、その場にいた私以外のクラスメイトたちは皆さっさと逃げ出してしまった。
「あっ……」
当然、取り残された私はおじさんの怒りをたった一人で受け止めなくてはいけなくなり。
「俺を……俺をバカにすんじゃねぇぇぇぇ!」
次には大きく拳を振り上げたおじさんを、私は恐怖で悲鳴もあげられないまま、ただただ見ていることしかできなかった。
「──ちょっと待ったぁ!」
私が殴り飛ばされる寸前、しかし、急にどこからか誰かのそんな声がこだまして。
「食らえ必殺! 《アデリードロップ》!!」
「ぐへぇ!?」
次の瞬間、派手に地面に吹っ飛ばされてうめき声をあげたのは、おじさんの方だった。
胸倉を摑んでいたおじさんの腕から解放され、私は地面に尻もちをつく。
「いっ……つつ」
「おい、早く立て!」
座り込む私にそう言って手を差し伸べてくれたのは、たった今おじさんをドロップキックで吹っ飛ばした、見知らぬ男の子だった。
「逃げるぞ!」
「え、あ……う、うんっ」
訳もわからないまま、それでも私は男の子の手を取って立ち上がり、そのまま彼と一緒に一目散にその場を後にした。
そうしてしばらく走り続け、私たちはやがて人気の少ない静かな雑木林までやって来た。
「……ふぅ。ここまでくればあのオッサンも追いかけてこないだろ」
「はぁ、はぁ……あ、ありがとう。助けてくれて……」
私が息も絶え絶えにお礼を言うと、男の子はこちらを振り向いてニッ、と白い歯を見せた。
「気にするな。ヒーローとして当然のことをしたまでだからな!」
朗らかな笑顔でそう言って、サムズアップでカッコつける男の子。
少しクセのある黒髪にやや三白眼気味の目つきが印象的だった。
「……ヒーロー?」
「おう! ちなみにさっきのはあれな、『南極超人ペンギンナイト』のキック系の必殺技な!」
「ペンギン……なに、それ?」
「なにって、ペンギンナイトだよ。お前知らないの? テレビで毎週やってるじゃん。いま俺が一番推してるヒーローだ! このあいだヒーローショーも見に行ったしな!」
ぽかんとする私を置いてけぼりにして、男の子は立て板に水のごとく「ペンギンナイト」とやらについてアツく語り始めた。
ついさっき私の窮地を颯爽と救ってくれた男の子の、打って変わって無邪気な様子を目にして、思わずクスリと笑ってしまう。
「あ! お前、いま俺のこと『子供っぽい』とか思っただろ!」
「ごめん、ごめん。そんなこと思ってないよ。でも、ペンギンでヒーローって面白いね。あんまり強くなさそうな名前だけど」
「へへん、これだからシロウトは困るよ。知ってるか? ペンギンのパンチはな、人間の骨を折るくらいのパワーがあるんだぜ? そしてペンギンナイトの《エンペラーパンチ》の威力はその百倍だ! 弱いわけないっつーの!」
シュッ、シュッ、と虚空に拳を突き出してステップを踏んでいた男の子は、それからガサガサと雑木林をかき分けて歩き出す。
「さてと、そんじゃ芝生広場まで一緒に行くか。またあのオッサンが来るかも知れないからな。俺がお前をゴエイしてやるぜ」
「う、うん……あれ?」
私もその後に続こうとして、けれどペタンと地面に座り込んでしまった。
「おい? どうした、ケガしてんのか?」
「い、いや……なんか、安心したら、腰、ぬけちゃったみたいで……」
立ち上がろうとしても、うまく力が入らない。
一向に言うことを聞いてくれない自分の体に、思わず乾いた笑いがこみ上げた。
「は、はは……ごめん。ちょっと休めば、歩けると思うから」
「そうか。んじゃあ、それまで俺も待っててやるよ」
「ありがとう。正直ひとりだと心細かったから、たすか……っ!?」
そこまで言いかけて、私はブルブルと身震いする。
外で過ごしやすいとはいえ、さすがに肌寒くなってきている季節。冷たい土の地面に座り込んでしまったことも災いしてか、急激にトイレに行きたくなってしまったのだ。
「あ、あの……」
「うん? どうした? もう歩けるか?」
「いや、そうじゃなくて……僕、トイレ行きたくなっちゃって……」
「トイレ? トイレならすぐそこの道を行けば……って、そうか。お前いま立てないんだっけ」
「う、うん」
必死に尿意を我慢しながらコクコクと頷くと、男の子は「しょうがねーな」と言って私のそばにしゃがみこんだ。
「ほら、肩貸してやるから」
「え?」
「いいから摑まれって。漏らしても知らないぞ」
促されて、私はおずおずと男の子の肩に手を回した。
私が体を預けたのを確認して、男の子も私の肩に手を回して立ち上がる。
「うおっ、お前なかなか背高いな。まあいいや、それじゃトイレまでレッツゴー!」
「ありがとう。……ごめんね、僕、助けてもらってばっかりで……」
肩を貸してもらってなんとか歩みを進めながら、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
どちらかと言えば、今まで誰かの世話を焼いたり助けたりするのは私の方だった。
喧嘩している子たちがいたら仲裁に入ったり、泣いている子がいれば話を聞いて慰めたり。なまじ大人っぽい雰囲気だったからか、悩み事を相談されることも多かった。
だから、こんな風に誰かに、しかも同年代の男の子に世話を焼いてもらうなんて初めてのことで、なんだか新鮮だった。
「しっかし、お前も変わってるよなぁ」
トイレまでの道すがら、不意に男の子がそんなことを言ってきた。
キミだってかなり変わってると思うけど、という言葉はぐっと飲み込んで、私は聞き返す。
「変わってるって、どういうところが?」
「だってお前、女子なのに自分のこと『僕』とか言ってるしさ」
「えっ……?」
正直、びっくりした。
私はその時まで自分のことを女子だと言ったことはなかったし、服装だってシャツにズボンという中性的なものだ。
当時は今みたいに体の凹凸が目立つわけでもなかったし、髪型もショートヘアー。だから、初めて会う人には大抵男の子だと思われていた。
なのに、彼は少しも迷う素振りを見せずに、私を女の子だと見抜いたのだ。
「なんで……僕が女の子だってわかったの?」
不思議に思った私がそう聞いてみると、帰ってきた答えはごくシンプルなものだった。
「はぁ? そんなの見りゃわかるじゃん」
さも当たり前のことみたいに、男の子はあっけらかんとそう言った。
「…………ふふ、ふふふっ」
「な、なんだよ。俺なんか変なこと言ったか?」
「ううん。変じゃ、ないよ」
「かっこいい」って言われるのは嫌いじゃない。
男の子みたいに扱われるのも不快に思ったことはない。
だけど、やっぱり心のどこかでは望んでいたのかもしれない。ごく自然に、女の子として扱ってもらえることを。
一目見ただけで自分のそんな「本音」を見抜いてくれたような気がして、だから、それがなんだかとても嬉しかったのだ。
「さて、と。着いたぞ。さすがに中には一人で行ってくれな?」
「うん、ありがとう」
そうこうしている内に、木々に囲まれるようにして建つ芝生広場近くの公衆トイレまでたどり着いた。
その頃には体も動くようになっていて、私は落ち葉を踏みしめながらトイレへと向かう。
「あの……僕が入ってる間なんだけど……」
それでも、やっぱりまだ一人になるのは心細くて、私は恐る恐る男の子のほうを振り返る。
一瞬きょとんとした顔を見せた男の子は、けれどすぐに私の言わんとしていることを察したのか鷹揚に頷いて見せた。
「わかった、わかった。お前が出てくるまでここで待っててやるから」
「う、うん。待っててね? ……勝手にどこか行かないでね? 絶対だよ?」
「行かないっての。ほら、早く行ってこい」
男の子に念を押して、私は女子トイレへと入る。
トイレは仕切りによって外からは見えないようになっているけど、壁と屋根の間に隙間があるので、声や音は丸聞こえだ。
「ねぇ、そこにいる?」
「おう。いるぞ」
「……ねぇ、待っててくれてる?」
「待ってる、待ってる」
「…………ねぇ、まだいてくれてるよね?」
「だからいるっつーの!」
なんてやり取りを何回か繰り返しながら、無事に用を足した私は公衆トイレの外へ出た。
男の子はトイレ近くの木に腕を組んで寄りかかり、少し呆れた顔を浮かべていた。
「お前なー、何回『そこにいる?』って聞くんだよ?」
「ごめん、ごめん。……でも、待っててくれてありがとう」
「まぁいいけどなー」
そう言って、男の子はすぐ目の前の芝生広場を指差した。
「ここまで来れば、あとはもう一人でも大丈夫だろ? 大人もいっぱいいるしな。俺もそろそろ戻らないといけないから、ここでバイバイだな」
「えっ? う、うん……」
そう頷いたものの、これでお別れだと思うと、なんだか妙に寂しさを覚える自分がいた。
怪我なんかしていないはずなのに、不思議と胸の辺りが痛む。
もう少しだけ、彼と一緒にいたい──。
もっと彼のことを知りたい──。
そんな気持ちを抱いたのは、生まれて初めてのことで。
「じゃーな! もう変なオッサンに絡まれたりするなよ!」
「あっ……ま、待って!」
だから、走り去ろうとした彼の背中に向かって、気付けば声をかけていた。
「今日は本当にありがとう! それで、その……また、今日みたいに──」
「お~い、颯太~! どこにいるの~?」
と、私の言葉を遮るようにして、誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。
「やべ、樋口が呼んでる! さすがにもう戻らないと先生に怒られるな」
「ね、ねぇ!」
「うん? なんだよ、俺もう行かないとなんだけど」
足踏みをしながら振り返る男の子に、私は咄嗟に問いかけた。
「また、どこかで会えるかなっ?」
精一杯の勇気を出した私の言葉に、男の子は一瞬驚いた表情を浮かべると。
「──フッ」
それから不敵に笑ったかと思えば、ポケットの中から取り出した何かを私に向かって放り投げた。
「わわっ、と。これって……笛?」
手に取ったそれを見てみると、小さなホイッスルだった。側面には、水色を基調としたコスチュームとペンギンっぽいマスクに身を包んだキャラクターのイラストが描かれている。
「そいつは『Pホイッスル』だ。また今日みたいに困ったことがあれば、それを空に向かって思いっきり吹け! そいつの音が届く範囲に俺がいたら、駆けつけてやる! そうしたらまた会えるだろ?」
ニッと白い歯を見せて、太陽みたいに眩しい笑顔を浮かべた彼は。
「では、さらばだ少女よ! 縁があったらまた会おう!」
最後の最後までヒーロー気取りのセリフを口にして、今度こそ振り返ることなく走っていってしまった。
後に残された私は、不思議な胸の痛みがどんどん増していくのを感じながら。
「……ソータくん、か」
彼の背中が見えなくなるまで、手のひらの中のホイッスルをギュッと握りしめていた。
「……つまり、好きな人ができた、ってこと?」
「うん……多分、そう」
遠足から一週間ほどが経ったある日のお昼休み。
私はあの日起きた出来事と、自分が抱いた初めての「感情」についてを、かいつまんで江奈ちゃんに打ち明けた。
「それって、どこの学校の子だったの?」
「わからない。でも、その子は僕が困っていたところを助けてくれたんだ。『ヒーローとして当然のことをしたまでだ』なんて言ってさ」
「ヒーロー?」
「……そうだね。僕にとっては、間違いなくヒーローだった」
実際にその現場を見ていない江奈ちゃんには、あまり想像がつかないようだったけれど。
それでも江奈ちゃんは「よかったね」と言ってくれた。
「静乃ちゃんに好きな人ができたのは、なんだか嬉しいな。私、応援するよ。静乃ちゃんがいつかまたその男の子と会えますようにって、お祈りしておくね」
「ありがと。なら僕も、早く江奈ちゃんにも好きな人ができますように、ってお祈りしとくね」
「え、えぇ? わわ、私はいいよ~!」
にわかに顔を赤らめてブンブンと首を振る江奈ちゃん。
微笑ましい親友の姿に私もクスクスと笑って肩を揺らした。
恋をすると人は変わる、なんてよく言うけれど。
ともかくそれからの私はと言えば、まさにその良い例だったと思う。
「なぁなぁ水嶋くん! 放課後にみんなで市民体育館行くんだけど、水嶋くんも来るよな?」
「あ~……ごめんね。私、今日は用事があるから。また今度ね」
「えっ!? お、おう……そう、なんだ?」
好きな人ができたことで、曖昧にしていた自分の中の「女の子らしさ」みたいなものを、子供なりに磨こうとしたんだと思う。
だから私は、まず自分のことを「僕」ではなく「私」と呼んでみることから始めてみた。
もちろん、最初はなんだか照れ臭かったし、クラスメイトの皆も驚いたような態度だった。
それでも思いのほかすんなりと定着し、数日も経てばまたいつも通りの日常に戻っていた。
まぁ、考えてみれば女の子の私が自分のことを「私」と言っても何も不自然なことはないし、当然といえば当然だったかもしれない。
さすがに学校にまで着ていく勇気はなかったけど、休みの日には目いっぱい女の子らしい服を着て出かけてみたり、他にも料理やお菓子作りの初歩的な練習をしてみたりもした。
そうして、ささやかながらも女子力向上に精を出す日々が過ぎていき。
「ごめんなさい、静乃ちゃん。本当は、中学校でも一緒だったらよかったんだけど……」
「そんな顔しないでよ、江奈ちゃん。もう二度と会えなくなるわけでもないんだし」
気付けば私たちは、あっという間に小学校を卒業する時期を迎えていた。
「そうだけど……じゃあせめて、私の一番のお気に入りの『ペロペロさん』、あげる。そうすれば、静乃ちゃんも私のこと、覚えていてくれるだろうし」
「これ、江奈ちゃんが集めてるストラップでしょ? 大事にしてたのにいいの? 私、一度貰ったものはよっぽどじゃないと返さないよ?」
「あぅ……や、やっぱりこれじゃなくて、別のものを……」
「いいって。違う学校って言っても、同じ市内なんだからさ。会おうと思えばいつでも会えるし、スマホで連絡も取れるし、江奈ちゃんのこと忘れる暇なんてないよ。だから、ね?」
両親の言いつけで人一倍勉強して中学受験に臨んでいたという江奈ちゃんは、結局は第一志望だった聖エルサ女学院ではなく、市内の別の私立に行くことになったらしかった。
「……うん、そうだね。中学生になっても、高校生になっても、また仲良くしてくれる?」
「もちろん。親友だもんね」
一方の私は、これまた親の言いつけで聖エルサ女学院へと進学することになっていた。
『静乃、あなたにはこれからうちの事務所所属のモデルとして働いてもらうつもりです。今のうちから業界や現場の雰囲気に慣れておきなさい。いいわね?』
加えて、当時設立したばかりの芸能事務所でさっそく敏腕社長として腕を鳴らしていたお母さんの意向で、私は進学と共にモデルの卵として活動することも決まっていた。
半ば無理やり決められていたから、たしかに驚いた部分もある。けれど、これもちょうどいい機会だと思うことにした。
いつかまたあの勇敢なヒーローと再会した時、彼が振り向いてくれるような素敵な女の子になっていたい。モデルとしての活動を続けていけば、その願いに大きく近づけると思った。
それに、私が有名になれば、彼もすぐに私のことを見つけてくれると思ったから。
そして彼ともう一度会うことができた、その時には。
その時こそ彼に、私のこの想いを──。
(待っててね、ソータくん)
いざモデルとしての活動を始めてみたら、今の「Sizu」へと繫がるボーイッシュなスタイルがウケてしまったのは、ちょっと誤算だったけれど。
それでも、いつか彼の隣に立つことができるヒロインになるために、私はこれからの青春を捧げようと決めたのだ。
──なのに。
【静乃ちゃん。私ね、恋人ができたんです】
これを運命のイタズラと言わずしてなんと言うのだろうか。
学業にモデル活動にと忙しい中学時代もいよいよ終わりを迎えようとしていた、中学三年生のある冬の日。
江奈ちゃんから届いたそんなメッセージに添えられていた一枚の写真に、私は目の前が真っ暗になってしまった。
【同じ学校の佐久原颯太くん。今度、静乃ちゃんにも紹介しますね】
送られてきたのは、江奈ちゃんと「恋人」とのツーショットだった。
すっかり体つきも大人になって、なんだか昔のような太陽みたいに明るいオーラはなくなってしまっていたけれど。
少しクセのある黒髪に、ちょっと怖いけどどことなく愛嬌を感じられる三白眼気味の目つきは、あの頃とちっとも変わっていない。
「…………ソータくん?」
間違いない。
江奈ちゃんの隣で幸せそうな顔をして笑っていたその男の子は、私が再び会う日を夢にまで見ていた、私のヒーローだった。
(なんで…………なんで、なんで、なんで、なんでなんでなんでなんで?)
「…………なんでよ」
どうして、よりにもよって江奈ちゃんが選んだのが彼なのか。
江奈ちゃんは、彼が私の「好きな男の子」であることは知らない。
だから、とても受け入れがたいことだけれど、二人は私のまったく知らない場所で出会い、私とはまるで関係ない経緯で、偶然にも恋人同士になったのだ。
「……こんなの、あんまりだよ」
頭がどうにかなりそうだった。
彼は何も悪くない。そして、江奈ちゃんも何も悪くない。
それなのに、私は初恋の男の子と親友にいっぺんに裏切られたような気がして、ただただ愕然とするしかなかった。
「…………ダメ」
だけど、それで彼を諦めることができるほど、親友のために涙を吞んで身を引くほど。
私は、潔い人間ではなかったらしい。
「ソータくんは……私のヒーローなんだから」
自分がこれほど執着心の強い女の子だったことに自分でも驚きながら、気付いた時には私は女学院の制服を脱ぎ捨てていた。
もう遅いかもしれないけれど。もう自分にはどうしようもできないかもしれないけれど。
それでも、とにかく少しでも彼の近くに行かなければと思った。
だから。
「お母さん。私──女学院の高等部に行くの、やめる」
今までなんだかんだ親の言いなりに生きてきた私にとって。
きっとそれが、人生で初めてのワガママだった。