翌日の月曜日。
今日は五月末に行われる中間テスト、その一日目だ。
テスト自体は昼過ぎに終わるので午後はほぼ丸々フリーになるのだが、残念ながら中間テストは明後日まで続く。
この後も学校に残って勉強したり、ファミレスやカフェで明日の対策を練ったり、という生徒がほとんどだろう。
「ふぅ、一日目終了~。颯太、どう? 手応えのほどは」
クラスメイトたちがめいめいに教室を後にする中、樋口が背伸びをしつつ尋ねてくる。
「え? あ、うん……どうだろうな。お前は?」
「僕は英語がちょっと不安かも。最後の長文読解とか、半分くらいしか読めなかったしさ」
「あ~、あれな。ムズかったよな」
なんて適当に相槌を打ってはいるが、正直俺は上の空だった。
中間テストなんぞ受けたい奴だけ受けてろや、なんてヤンキー漫画みたいなことを言うつもりは毛頭ないが。
俺にとってはむしろ、この後に控えているイベントの方こそがよっぽど重要だった。
「……ふぅ」
「颯太? どうしたの、ため息なんてついちゃって。そういえば今日はなんだか朝からずっと難しい顔してるよね。大丈夫? 鳩サブレ、食べる?」
「いらない。あと、鳩サブレじゃなくて『鳩サブレー』だ、二度と間違えるんじゃねぇ」
「えぇ、急に過激派県民になるじゃん……で、どうしたの? なにか悩み事?」
「……まぁ、そんなところだ」
投げやりな答えを返し、俺は視線を窓の外へと戻す。
コの字型になっている本校舎東棟の二階。そこにある俺の教室からは、見上げれば反対側にある西棟の屋上のフェンスが見えた。
ちょうど一か月前、俺が人生で二回目の告白をされた場所。
俺と水嶋の「勝負」の一か月が始まった場所。
そして──今日、その「勝負」の決着がつく場所。
『一か月後、私はもう一度キミに告白をする』
そう言った時の、どこか一世一代の大博打にでも挑むかのようなあいつの真剣な顔は、不思議と今でもはっきり覚えている。
俺がその告白を受け入れたら、水嶋の勝ち。
あくまでもお試しだった「恋人」という肩書は正式なものとなる。この一か月にあいつと過ごしたような日々が、これからもずっと続いていくのだろう。
逆に、俺がその告白を断れば、俺の勝ち。
水嶋は俺の事をすっぱりと諦め、もう付きまとったりすることはないという。この一か月にあいつと過ごしたような日々は、きっともう二度と訪れることはないだろう。
(──俺は)
無意識のうちにポケットの中の拳を握りしめ、俺は目を閉じた。
(俺の答えは、もう決まってる)
決着の時は、もうすぐだ。
【十三時に、あの場所で】
樋口と別れて教室を出たところで、水嶋からそんなシンプルなチャットが届いた。
「どこかは言わなくてもわかるよね?」というあいつの試すような笑顔が目に浮かぶようだ。
ふん、と鼻を鳴らし、俺は既読だけしてスマホをポケットにしまう。
それから適当に時間を潰した俺は、やがて約束の時刻が近づいてきた頃、いよいよ本校舎西棟の屋上へと続く階段下にやってきた。
約束の時間まではまだ十分ほどあるが、多分あいつはもう来ているんだろう。
薄暗く、人気のない階段の踊り場には、微かにキンモクセイの香りが漂っていた。
「……行くか」
深呼吸をして、俺は一段、また一段と階段を上っていく。
上る度に心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、やがてたどり着いた屋上への扉に手をかけ、押し開けた。
「……っ」
ビュオッ、という一陣の風とともに、扉の向こうから眩い陽光が差し込んできて、俺は思わず目を細める。
やがて、視界を覆うホワイトアウトが徐々におさまってきたところで。
「──待ってたよ、颯太」
屋上の扉に背を向けて立っていた水嶋が、くるりとこちらを振り返る。
後ろ手を組んで凜と立つ彼女のサラサラの髪や、透き通ったエメラルドの瞳が、陽の光を受けてまるで宝石のように輝いて見えた。
「……ああ。待たせたな」
一瞬目を奪われていた俺は、しかしすぐに我に返って扉を閉める。
仕切りなおすように咳払いをして、水嶋の前へと歩み出た。
「今日、英語のテストあったでしょ? どうだった?」
「……まぁ、いつもよりは手応えあった気がするよ。これもお前に連日、勉強見てもらったおかげかもな」
「はは、それは良かった。颯太が留年なんてことになったら、寂しいもんね」
「あのな、俺だってさすがにそうならない程度には真面目にやるっての。お前は俺のことを何だと思ってるんだ」
ビシッと指を突きつけてやると、水嶋はさも当たり前のことのように言ってのけた。
「ヒーロー」
「は?」
「成績とか、愛想とか、あとついでに目付きとかも悪いけど。それでも、優しくて、カッコよくて、びっくりするくらいお人好しな……そんな、私のヒーローだと思ってるけど?」
「……そればっかりだな、お前は」
そんな当たり障りのない会話を二度、三度と交わしたところで、やがてどちらからともなく押し黙る。
聞こえてくるのは、そよ風が屋上を吹き抜ける音や、木の葉が揺れる潮騒のような音だけだ。
そして。
「それじゃあ、さ」
しばし場を支配していた沈黙を破り、水嶋がおもむろに切り出した。
「答え、聞かせてよ」
いつかと同じその言葉を口にする彼女に。
そうして俺は、人生で三度目の告白をされた。
「佐久原颯太くん──私と、付き合ってください」
いつか俺に向けたような、あの獲物を追い詰める女豹みたいな目ではない。
俺を攻略するために権謀術数を巡らせる、あの女狐のような笑顔ではない。
何を考えているのかわからない、あの霞のように飄々とした態度ではない。
真剣な、ただただ真剣な表情で告げられた、その言葉に。
「……俺は」
だから俺も、真剣な言葉で返した。
「俺は、水嶋とは付き合えない」
かつてないほどの緊張感の中、俺が絞り出すようにそう答えると。
「……理由を聞いてもいい?」
悲嘆にくれた表情を浮かべるでも、「無理だったか~」などとお茶を濁すでもなく。
たったいま俺に告白をしてきたその少女は、すこぶる落ち着いた態度でそう尋ねてきた。
「やっぱり……私が『宿敵』だから、かな?」
そう先回りする水嶋に。
「いや、それはもう関係ない」
俺はきっぱりとそう答えた。
「俺はもう、お前のことを『宿敵』だとか思ってない。つーか、ぶっちゃけ勝ちだの負けだのもどうでもいいんだよな、もう」
「へ?」
突然身もふたもないことを言い出した俺に、さすがの水嶋もポカンとした表情だ。
そりゃそうだ。じゃあこの一か月は一体なんだったんだ、って話だもんな。
苦笑しつつ、俺は学生カバンに忍ばせていた缶コーヒーを二つ取り出して、片方を水嶋に放って渡す。
「ほれ」
「うわっ、とと」
「まぁ、話せばちょっと長くなるからさ。コーヒーでも飲みながら聞いてくれよ」
言って、俺は缶コーヒーのプルタブをカシュッ、と引き開ける。
戸惑っていた水嶋も、やがて習うようにしてプルタブを開けた。
「……屋上で缶コーヒーって、ちょっとカッコつけすぎじゃない? 映画やドラマじゃあるまいし」
「いいだろ別に。一度やってみたかったんだよ、こういうの」
「ふ~ん……まぁ、私も嫌いじゃないけどさ。こういうの」
水嶋の茶々を受け流し、俺はフェンスの向こうに広がる校庭を見下ろした。
「前にお前に告白された時も言ったけどさ。俺、最初は絶対に揶揄われてるだけだと思ってたんだよ」
だってそうだろ?
今まで一度も喋ったことがない初対面同然の、しかも誰もが憧れるイケメン美少女で人気モデルなカリスマJKの水嶋静乃が、だ。
俺みたいな陰キャラでインドアな映画オタクのことが好きだなんて、そんな都合の良いことあるわけないだろ?
「それこそ、映画やドラマじゃあるまいしな」
ましてやこいつは、俺の彼女を奪っておきながら、なぜかその彼女そっちのけで俺につきまとって来やがったんだ。
普通だったら、血だらけの傷口に嬉々として塩を塗って追い打ちをかけるが如き、悪魔の所業としか思えない。
恋人を奪われてみじめに肩を落とす俺に後ろ指を指し、嘲笑い、リア充陽キャの仲間たちと「あれは傑作だった」とネタにする。
そんな、反吐が出るようなタチの悪い嫌がらせをされているに違いないと思っていた。
「『勝負』が始まってからも、俺は腹の中ではお前のことをあくまでも宿敵としか思っていなかったんだ。一か月経って、もし俺がお前の告白を受け入れたら、例えばそこの花壇の物陰あたりからでもお前のお仲間が出てきてさ。『ドッキリ大成功~!』、『こいつ彼女を奪った張本人に惚れてやんのプ~クスクス!』てな具合で、笑いものにされるのがオチだとすら思ってたよ」
「えぇ……そんな酷いこと、考えたこともなかったけど」
「まぁ、これは極端な例え話だけどな」
とにかく、だから。
たとえ仮とはいえ恋人同士になろうとも、いくらこいつが俺に好意をアピールしようとも。
それらは全て俺をハメるためのトラップで、こいつが俺に言う「好き」という言葉は、所詮は口先だけのものに過ぎないと。
俺は結局、心のどこかではそう決めつけていたのだ。
だけど。
「覚えてるか? お前に誘われてブライダルモデルのバイトをしたあの日の事。帰りしなに、お前をつけ狙っていたストーカー男とひと悶着あっただろ?」
「そりゃあ忘れようったってそうそう忘れられないでしょ、あんな事件。それが何?」
「あの時な、俺がナイフで切られそうになって、そこにお前が割って入って来て。危うくモデル生命に関わる大怪我を負うかもしれなかったのに、それでも『好きだから』なんて理由で俺を庇ったお前を見てさ……実のところ、思い知らされた気がしたんだ」
理由はわからない。
だけど、無理やり恋人を奪ってまで、そして文字通り身を挺して守ろうとしてまで。
それほどまでに、水嶋が本当に本気で俺のことを好きだと思ってくれていたんだということだけは、人一倍ひねくれている俺にも痛いほどわかった。
あいつが俺に向けていた好意の数々は、全部まぎれもない本心だったんだと思い知った。
それなのに、俺はその純粋な好意を頭から否定して、曲解して、穿った目で見ることしかしなかった。思い返してみれば、水嶋の本気の思いに、俺は本気で向き合っていなかった。
そんな自分が、どうしようもなく嫌な奴に思えて仕方なかった。
本気の思いには、こっちも本気で向き合わなければ、フェアじゃない。
「だから俺は、もうお前を『宿敵』とは思わない。俺にとってお前は、酔狂にもこんな冴えない男のことを本気で好いてくれている、ただの一人の女の子だ」
不意に「女の子」と言われたことに驚いたのか、水嶋が風に流れた髪を耳にかけながら俯く。
日光に照らされて体温が上がっているからか、その頰は少し赤らんでいるようにも見えた。
「人を馬鹿にしていたのは、俺の方だ。今までお前の告白を真面目にとりあってこなかったこと、悪いと思ってる。ごめん、水嶋」
「颯太……」
「でも、だから俺も、真剣にお前の告白に向き合うことにした。その上で……俺はやっぱり、水嶋とは付き合えない」
そこで一旦言葉を切り、俺は缶コーヒーの残りを一気に飲み干す。
それから照れ臭さを誤魔化すようにガシガシと頭を搔いた。
「あ~、その、なんだ……白状すると、振り返ってみれば正直、悪くないと思った。お前と過ごしたこの一か月は」
家族以外の誰かと服を買いに行ったり、自分の部屋に妹以外の女子をあげたり、この一か月は俺にとって初めてのことだらけだった。
ブライダルモデルの現場でバイトするなんてことも、多分こいつと出会ってなきゃ一生体験できなかっただろうな。
「振り回されることもいっぱいあったけどさ。それでも新鮮なことばかりで、良くも悪くも退屈するヒマもなかったよ。お前と一緒にいればこの先もずっとそんな毎日を過ごせるのかな、なんて考えると、それもまぁ悪くないかもなって思う……だけど」
俺はポケットからスマホを取り出し、カメラロールの「お気に入り」に登録されている写真一覧をざっと眺める。
我ながら、未練がましいとは思うけど……俺が江奈ちゃんと過ごした三か月の間に積み重ねた思い出の数々が、そこにはまだ残っていた。
「俺は……やっぱりまだ、江奈ちゃんのことを嫌いになれないんだ」
「お気に入り」の写真一覧をスクロールし、俺は適当な一枚を選んで表示させる。
場所はどこかの喫茶店だろうか。向かい合って座っている俺たちが、斜め上からのアングルのカメラに向かって笑顔を向けていた。
自撮りなんてあんまりしたことがなかったから、カメラを持っている俺の顔はちょっと見切れてしまっている。
「前にお前が言った通り、たしかに江奈ちゃんは尻軽女かもしれない。俺が不甲斐なかったとはいえ、あっさり俺を裏切ってお前に靡いたかもしれない。だから、今さら俺が江奈ちゃんに何の義理立てをする必要もないのかもしれない。もう知るか、そっちがそんな好き勝手するなら俺だってそうするぜ、って……いっそ、そんな風に思えたら楽なんだろうけど」
でも、こんな仕打ちを受けてもなお、俺はまだ彼女を恨むことなんてできそうになかった。
だって、俺が江奈ちゃんと過ごしたあの数か月は本当に楽しかったんだ。
放課後は喫茶店で好きな作品について語り合って、休日には一緒に映画を見に行ったり、たまに家に遊びに行ったり。
はたから見れば刺激的とは言えないかもしれないけど、そんな穏やかで温かい日々が、どれだけ俺の灰色だった青春を色づかせてくれたことか。
たとえ江奈ちゃんが本心でどう思っていたとしても。少なくとも俺にとっては、あの数か月がこれまでの人生で一番幸せな時間だったという事実は変わらない。
「もし、仮に俺がお前と付き合うことになってもさ……きっと上手くいかないよ。だって俺の心の中にはまだ、江奈ちゃんがいるんだから。あの頃のことを全部忘れて、水嶋、お前のことだけ考えていられる自信が……俺にはまだ無い」
俺の言葉を、水嶋は黙って聞き続けている。
プルタブが開いた缶コーヒーには、まだ一口も口をつけていない。
「お前の気持ちは嬉しいよ。もしこれが俺の人生で初めてされた告白だったなら、きっと二つ返事でOKしてた。でも、ごめん。だから俺は、水嶋と恋人になることはできない。……これが、お前の告白に対する俺の答えだ」
「……そっか。うん……そっか」
とうとう観念したようにそう呟くと、水嶋はそれまで口をつけていなかった缶コーヒーをグイッとあおった。
そのままゴクゴクと飲み干して、「プハァッ」と大きく息を吐く。
「はぁ~あ! ほんと、颯太って変なところでバカが付くほど真面目だよね。顔に似合わず」
「……へいへい、どうせ悪人面だよ悪かったな」
俺が言い返すと、水嶋がクスリと笑う。
水嶋が笑うから、俺もつられて笑ってしまった。
あえて勝ち負けで言うとしたら。
きっと俺は、試合に勝って勝負に負けた、といったところだろう。
だって……俺はいつの間にか、もう胸を張ってこいつのことを「好きになるなんてありえない」とは言えなくなってしまっているんだから。
「う~ん、そっかぁ」
猫みたいにググッと伸びをして、水嶋がため息交じりに呟いた。
「じゃあ、要するに告白の返事は『NO』ってことね」
「ああ……そういうことになるな」
申し訳なさげにそう言って、俺は水嶋の次の言葉を待つ。
──しかし。
「なら」
不意にいつもの飄々とした態度に戻っていた水嶋が次に放ったセリフに、俺は天地がひっくり返ったかのような衝撃を受けることとなった。
「この『勝負』はキミの勝ちだね──江奈ちゃん?」
…………は?
江奈ちゃん? なんでここで、江奈ちゃんの名前が出てくるんだ?
「おい。それって、どういう……?」
と、俺が口を開くのもつかの間。
水嶋の背後、屋上庭園の植え込みの陰から、何者かが姿を現す。
「ふぇ!?」
瞬間、俺は自分でも笑ってしまうくらいに素っ頓狂な声をあげてしまった。
なぜかって?
だって、植え込みの陰から出てきたその人物は……。
「さ、さ、さ……」
肩口あたりまで伸びた、濡れ羽色の髪。いつも片方の目が隠れがちになるその長い前髪の向こうには、少しあどけなさを残しつつも目鼻立ち整った可憐な顔がのぞいている。
大和撫子然として楚々とした雰囲気が印象的な、俺の人生で初めての彼女。
「……里森、さん?」
里森江奈ちゃん、その人だったのだから。
「こ、こんにち、は……」
「なん、で……?」
なんで江奈ちゃんがこんなところに!?
それに、水嶋の言う「キミの勝ち」って、どういうことなんだ?
あまりの急展開に脳の情報処理が追い付かない。
突然現れた江奈ちゃんと、訳知り顔で腕を組む水嶋とを交互に見やりながら、俺は馬鹿みたいに口をあけて突っ立っていることしかできずにいた。
「あ~あ。これでも結構自信はあったんだけどなぁ……やっぱりポッと出の私なんかじゃ、キミたちの間に入り込むなんて無理な話だったってことかな」
さっきまでのシリアスな態度が噓みたいに、水嶋は悪戯が失敗した子供みたいな口調でそう言って肩をすくめた。
「お、おい、どういうことだよ水嶋? 里森さんの勝ちだとか、入り込むだとか……一体なんの話をしてるんだ?」
「ああ。それはね」
俺が詰め寄ると、水嶋が江奈ちゃんに目配せをする。
それにコクリと頷き返すと、江奈ちゃんはおずおずと俺の前まで歩み寄って来た。
と、思ったら。
「──ごめんなさい、颯太くん!」
ブォン、という音が聞こえてきそうな勢いで、江奈ちゃんが深々と頭を下げてくる。
「私……私、本当は水嶋さんと付き合ってなんかいないんです!」
人間ってのは、本当にびっくりすると、もはや叫び声すらもあげられなくなるらしい。
「……っ!?」
衝撃の事実の連続に、俺は思わずガシャン、と屋上フェンスに寄りかかり、そのままズルズルと尻もちをついてしまった。
「そ、颯太くん!? だ、大丈夫ですか!?」
慌てた様子で江奈ちゃんが駆け寄ってきて、俺の隣にしゃがみこんで肩を支えてくれる。
「あ、ああ……大丈夫。ちょっと、腰が抜けちゃって……」
心配そうに顔を覗き込んでくる江奈ちゃんに、俺は辛うじて頷き返した。
いつの間にか、俺の苗字ではなく名前で呼びかけてくれている江奈ちゃん。
思えば彼女にこんな風に呼んでもらえるのも久しぶりで、なんだか懐かしい気分になる。
「そ、それより……どういうことなの?」
江奈ちゃんは水嶋と付き合っていなかった。
そんなカミングアウトに、俺は喜んだり安堵したりするよりもまず困惑してしまっていた。
「里森さん……いや、江奈ちゃん、言ってたよね? 他に好きな人ができた、って」
「そんな人、いません」
「俺に、愛想を尽かしたんじゃ……?」
「そんなこと、あるわけないです」
「『私のことはすっぱり諦めて』って……」
フルフルと首を横に振り、江奈ちゃんは脱力していた俺の右手をぎゅっと両手で握りしめた。
それから心底申し訳なさそうに眉根を寄せて、ポツポツと語り始める。
「噓、だったんです。私が颯太くんを捨てて水嶋さんを選んだっていうのも、水嶋さんが颯太くんから私を奪ったっていうのも……全部、噓なんです」
「う、そ……?」
江奈ちゃんの言葉を受けて、俺は傍らに立っていた水嶋の顔を見上げる。
そうなのか、と俺が無言で問いかけると、水嶋もコクリと首肯した。
「颯太にそう思わせるように、この一か月ずっと、私たちで一芝居うってたってこと」
「って、ことは……お前と江奈ちゃんは、最初っから……?」
「うん。グルだった」
まるで、コンゲームものの映画の終盤で大どんでん返しを見せられた時のような気分だった。
軽い放心状態になってしまい、俺は昼下がりの空をポカンと見上げる。
そうか……そう、だったのか。
「スゥゥゥゥゥゥ…………はぁ~~~~」
一度大きく息を吸い込み、胸の奥に溜まっていたモヤモヤを吐き出すように息を吐く。
二度、三度とそれを繰り返すうちに、やがて俺の思考も徐々に平常に戻っていった。
「落ち着いた? 颯太」
「……ああ。正直、まだ色々と飲み込み切れていない部分もあるけど」
へたり込んでいた体を持ち上げ、再び立ち上がる。
言いたい事や聞きたいことはいくらでもあったが、俺はとりあえず、そもそもにして最大の疑問をぶつけることにした。
「どうして、こんなことを?」
江奈ちゃんは俺を裏切ってなんかいないし、水嶋は俺から恋人を奪ってなんかいない。今のこの状況を見れば、たしかにそれは本当なんだろうということはわかる。
わからないのは、なぜ二人が共謀して、そんな盛大なドッキリをしかけたのかということだ。
「単なるイタズラ……ってわけじゃないよな? どう考えても」
もしそうだとしたら、それはそれでびっくりどころの騒ぎじゃないんだが。ハリウッド映画も顔負けのビッグスケールなイタズラだ。
「それは……」
「それについては私から説明するよ。なにしろ『黒幕』は私だからね」
江奈ちゃんが口を開くのを遮るように、水嶋が一歩前に出る。
「江奈ちゃんは、颯太の愛を確かめたかったんだよ」
「俺の、愛……?」
俺が聞き返すと、水嶋は頷き、江奈ちゃんは気恥ずかしそうに顔をそむける。
「──あるところに、子供のころから自分に自信が持てないお姫様がいました」
俺と江奈ちゃんに背を向けた水嶋が、おとぎ話でもするように滔々と語り始めた。
「お姫様はいつも勉強や習い事に追われていて、遊ぶヒマなんてありません。流行の話題や娯楽にも触れる機会がなく、同じ年ごろの子たちからも孤立してしまいます。『自分はなんてつまらない女の子なんだろう』──お姫様は、ますます自分に自信を無くしていってしまいました」
もはや聞きなれた水嶋のハスキーボイスが、屋上を吹き抜ける風に乗って俺の耳に流れ込んでくる。
「そんな時、お姫様は一人の男の子と出会います。偶然にも共通の趣味を持っていたその男の子は、お姫様にとっては初めての『仲間』ともいえる存在でした。つまらない自分と過ごす時間を『楽しい』と言ってくれた男の子に、やがてお姫様は段々と心惹かれていきます。そしてついに、二人は晴れて恋人同士となったのです」
それは、いつだったか江奈ちゃんが俺に打ち明けてくれた身の上話と同じだった。
私はつまらない人間です──思い返せば、たしかに江奈ちゃんは時々そんな風なことを言っては、不安そうに俯くことが幾度かあった。
その度に俺は、そんなことない、江奈ちゃんと一緒にいると楽しい、と励ましていたっけ。
「しかし──それでもやっぱり、お姫様はどうしても自分に自信を持ち切れずにいました。『自分なんかが恋人なんて、本当は彼も嫌なんじゃないか』、『彼に好きでいてもらえるほどの魅力が、本当に自分なんかにあるのだろうか』。男の子と過ごす日々が楽しければ楽しいものであるほど、お姫様はそんな不安に押しつぶされそうになっていきました」
そこまで話したところで、水嶋がくるりと俺たちに向き直る。
それから慣れた様子でウィンクをしてみせながら、鼻先に自分の人差し指をあてがった。
「そんなある日のことです。お姫様の前に、悪戯好きのわる~い魔女が現れて、彼女にこう囁きました──『彼の愛が本物かどうか確かめたくはないか?』、と」
「魔女……ってのは、お前のことか?」
「そうそう。ああ、どっちかって言ったら『悪魔』かな? まぁ、どっちでもいいか」
とにかく、と言って水嶋は人差し指をピンと立てた。
「江奈ちゃんからそんな話を聞いた魔女は、だから唆してみたわけだよ。一度、江奈ちゃんが颯太を袖にして裏切るフリをした後に、今度は私が颯太に言い寄るのはどう、ってさ。それで颯太が私の誘惑に負けちゃったら、江奈ちゃんへの愛はその程度のものだったってこと。でも逆に、それでも颯太が私の誘惑に屈しなかったら、颯太の江奈ちゃんへの愛は本物だったことが証明されるでしょ?」
「……そういうことか」
思い返せば、たしかに色々と不自然な点を感じていないわけではなかった。
もし江奈ちゃんと水嶋が本当に付き合っていたとしたら、江奈ちゃんがあまりにもドライすぎるのだ。
だって、恋人なんだから普通は休日や放課後に一緒に過ごしたいと思うだろ? なのに、いくら相手が多忙な人気モデルだからって、休日も放課後もデートできないのを良しとしておくなんておかしな話だ。
それに、大した変装をするでもなく堂々と浮気相手と街中を歩き回る水嶋も、考えてみればあまりに無防備が過ぎる。
本気で江奈ちゃんにバレたくないなら、本人やその知り合いと出くわしてしまう可能性も考えて、せめてサングラスやマスクで人相を隠すくらいのことをしてもいいはずだった。
だがそんな疑問も、水嶋と江奈ちゃんが最初からグルだったというならすべて納得だ。
「そうそう、昨日江奈ちゃんが男の人と歩いていたのも、ただの演技だから。あの場でちょうど鉢合わせるように、二人で前日に打ち合わせしてたんだ。ちなみに、相手役にはうちの事務所の新人俳優さんに協力してもらいました~」
「なっ……あれも仕込みだったのか?」
「そうだよ。江奈ちゃんの本性が恋人をとっかえひっかえするような女の子かもしれない、って所を見せて、それでも颯太が江奈ちゃんを助けようとするか……江奈ちゃんへの思いが揺らがないかを見たくてさ。私が一計を案じたのだよ」
ちょっとやりすぎだったかもだけどね、と続けて、水嶋はバツが悪そうに舌を出した。
諸々の種明かしをひとしきり聞いて、俺はいま一度深い深いため息をついて肩を竦める。
「要するに……俺はずっと試されていたわけだ。彼女にフられたらすぐに次の女の子に鼻を伸ばすようなクズ男か、それとも本気で彼女のことを想っていた男か、を」
「今まで騙していて……本当にごめんなさい。フリだったとはいえ、私の身勝手な理由で颯太くんを試すようなことをして……何も知らないままいきなりこんなことをされたら、きっと颯太くんをとても傷付けることになるって、わかっていたのに……」
「江奈ちゃん……」
たしかに、江奈ちゃんに裏切られたと知った時、俺は心底落ち込んだ。ショックだったし、傷付きもした。
俺を試すためだったとはいえ、江奈ちゃんが取った手段は、世間一般からすればあまり褒められたものではないかもしれない。他にいくらでもやり方があったのかもしれない。
だけど……目の前で今にも泣きだしそうに声を震わせて頭を下げる彼女を責めることは、少なくとも俺にはとてもできそうになかった。
「いや、いいんだ。江奈ちゃんが俺を裏切ったわけじゃないってわかっただけで、十分だよ。むしろ、俺の方こそごめん。まさか江奈ちゃんをそこまで不安にさせていたなんて……」
「そんなっ! 颯太くんは、何も悪くないです……!」
江奈ちゃんはイヤイヤをする子供みたいに頭を振って、必死に俺の言葉を否定した。そんな彼女の姿に、俺は思わず苦笑する。
ちょっと引っ込み思案でネガティブなところもあるけど、本当は人を騙すようなことなんて人一倍苦手な、とても穏やかで心優しい女の子。
やっぱり、江奈ちゃんは江奈ちゃんだ。
「え~と。どうやら誤解も解けて、無事にお互いの想いも確かめ合えたみたいだね」
コホン、という咳払いに顔を上げると、気付けば水嶋は屋上から校舎内へと入る扉に手をかけていた。
「改めて、この試練は君たち二人の勝ちだ。おめでとう。そういうわけで、敗者の悪役はクールに去るとするよ」
「えっ? ちょ、おいっ!」
「約束通り、私はもう金輪際、颯太に付きまとったりはしないから安心して。あとは愛し合う二人でごゆっくり、ってね」
「おいってば! 待てよ、水嶋!」
早々に立ち去ろうとする水嶋を、けれど俺は慌てて呼び止めた。
「……噓、だったのか?」
俺の問いに、水嶋の肩がわずかに跳ねた。
しかし、それでもいつもの飄々とした態度は崩さない。
「どれのことを言ってるのかな?」
「全部だ。この一か月間のお前の言動は……全部、噓だったって言うのか?」
俺の再度の問いかけに、水嶋はくるりと背を向ける。
屋上の扉に顔を向けたまま、しばしの沈黙を保って。
「──そうだよ」
やがて、振り返りもせずにそう言ってのけた。
「これまで一緒に楽しくデートしたのも、手を繫いだのも、抱きしめたのも……『好き』って、言ったことも──全部、演技だった」
「そんなっ!?」
切り捨てるような水嶋の答えに、思わずといった口調で声をあげたのは江奈ちゃんだった。
「だって……だって、静乃ちゃんは!」
「江奈ちゃん」
しかし、何事かを言いかけた江奈ちゃんの言葉を、水嶋が珍しく強い語気で遮った。
それから、やはりこちらを振り返ることなく、フルフルと首を横に振る。
背を向けられていても感じる水嶋の無言のプレッシャーに気圧されたのか、江奈ちゃんもそれっきり口を噤んでしまった。
(な、なんだ? 今の意味深なやり取りは……?)
話が読めずに立ち尽くしているうちに、今度こそ水嶋は屋上を後にしようと扉を開けた。
「それじゃあね、江奈ちゃん。これからも彼氏と仲良くね。ああ、そうそう。それから……この一か月、なかなか楽しかったよ。キミとの恋人ごっこ」
せせら笑うような口調で俺にそう言うと、水嶋は日の当たる明るい屋上から、薄暗い校舎の中へと歩を進めて。
「じゃ、さようなら──『元』彼氏くん」
そんな他人行儀な挨拶だけを残し、扉の向こうへと消えてしまった。
「静乃、ちゃん……」
慌てて後を追いかけようとして一歩踏み出した江奈ちゃんは、けれど先ほどの突き放したような水嶋の態度を思い起こしたのか、それ以上は先に進めずにいた。
「そんな……そんなの、ダメだよ、静乃ちゃん……」
「えっ、と……江奈ちゃん、どういうこと? それに、『静乃ちゃん』って……」
いよいよ怪訝に思った俺は、立ち尽くす江奈ちゃんにそう尋ねる。
ゆっくりと俺の方に向き直った江奈ちゃんは、何事かを俺に打ち明けようとして、しかし言葉を詰まらせて俯いてしまう。
そんなことを何度か繰り返して、それでも最終的には、江奈ちゃんは何かしらの覚悟を決めたような決然とした表情で切り出した。
「私……颯太くんに、大事な話があるんです」
改まった態度でそう言われて、俺は思わず背筋を伸ばす。
「大事な、話?」
「はい。颯太くん、さっき水嶋さん……静乃ちゃんに、聞きましたよね? この一か月のことは全部噓だったのか、って」
少し言葉を詰まらせながら、江奈ちゃんがそう聞いてくる。
「颯太くんは、噓だと思いますか?」
「え?」
眉を顰めた俺に、江奈ちゃんは自分のスマホでチャットアプリの画面を表示させて見せる。
そこには、水嶋から江奈ちゃんに送られたものと思われるメッセージがずらりと並んでいた。中には、あいつが撮影したらしい俺とのツーショット写真なんかも添えられている。
「これって……」
「この一か月、静乃ちゃんは颯太くんとどう過ごしたかを、こうしてこまめに私に教えてくれていたんです。どこへ行って、何をしたのか……きっと、静乃ちゃんなりに私を不安にさせない為、だったんだと思います」
「それはまた……律儀というかなんというか」
「はい。だから私は、この一か月の間に二人がどんな風に過ごしていたのかはおおよそ知っています。その上で、もう一度聞きます。颯太くんは……静乃ちゃんの言う通り、全部が演技だったと思いますか?」
聞かれて、俺は答えに困ってしまう。
最初のうちは、俺もたしかに疑っていた。
あいつのすることは全部演技なんだと。あいつの言葉は全て噓なんだと。
だけど、あのストーカー事件をきっかけに、それは俺の間違いだったと気付いた。
演技でも噓でもない。あいつはどこまでも本気だったって。
本気で俺のことが好きで、本気で俺と恋人になろうとしてたんだって。
ようやくそれがわかった──はずだったのに。
「……わからない」
にわかに自信がなくなってしまい、俺はそんな弱音を口にする。
短い間だったけど、一緒に過ごしていくうちに、あいつのことを少しは理解できたような気がしていた。
でも、俺にはもう、水嶋が本当は何を考えているのかがわからない。
「ううん。本気でしたよ、静乃ちゃんは」
「え……?」
しかし、江奈ちゃんは俺のそんな弱音を一蹴した。
「……どうして、そう言い切れるの?」
「だって……静乃ちゃんは、小学生の時から颯太くんのことが好きだったんだから」
「…………ぇ?」
今日はもう、これ以上驚くようなことはないと思っていたのだが。
江奈ちゃんが出し抜けに明かしたその事実に、俺は今日何度目ともしれない啞然とした表情を浮かべていた。
「ど……どういう、ことなんだ?」
水嶋が? 小学生の時から俺のことが好き?
そんなバカな。だって、俺とあいつはつい一か月前に出会ったばかりなんだぞ?
それなのに、なんであいつが小学生の時から俺を知ってるっていうんだ?
と、というか……なんで江奈ちゃんがそんなことを知ってるんだ?
「……私、本当は高校生になってから静乃ちゃんと知り合ったわけじゃありません。私たち、昔同じ小学校に通っていたんです。中学校は、別々になっちゃったけど……でも、静乃ちゃんが外部進学でこの学校に来て、再会したんです。『静乃ちゃん』っていうのも、小学生の頃からの呼び方なんです」
「えっ……じ、じゃあ、つまり二人は『幼馴染み』だった、ってこと!?」
江奈ちゃんがコクリと頷いてみせる。
知らなかった。まさか、江奈ちゃんと水嶋にそんな繫がりがあったなんて。
「いつも一人ぼっちだった私にも、唯一気さくに接してくれたのが静乃ちゃんでした。放課後に一緒に遊んだりすることはできなかったけど、学校ではほとんどいつも一緒にいました」
「……そうだったんだ」
てっきり、一か月前に同じ特進クラスになったことで仲良くなったんだとばかり思ってた。
水嶋だって「知り合って一か月」とか言って、全然そんな素振りを見せなかったのに。
「お昼休みなんかには、二人で色んな話をしました。好きな音楽の話とか、将来の夢の話とか……初恋の話、とか」
「初恋?」
「はい。それで私、静乃ちゃんから聞いたんです。どこの学校なのかもわからないし、名前もほとんど知らないけど……好きな男の子ができたんだ、って。その男の子が誰だったのか……私は静乃ちゃんと再会して、ようやく知ることになりましたけど」
そこで一度言葉を切り、江奈ちゃんは一瞬ちらりと屋上の扉に視線を走らせると。
「静乃ちゃんには『黙ってて』と言われていたんですけど……やっぱり私、このまま『勝負』を終わらせるのはフェアじゃないと思うから」
それから意を決したように打ち明けた。
「だから聞いてほしいんです、颯太くん。──静乃ちゃんの、初恋の話を」