俺と水嶋の「勝負」の一か月も、ついに最後の一週間を迎えた。
いよいよ決着の時も差し迫ったことで、水嶋もこれまで以上に全力で俺を攻略しにかかってくるに違いない……と思っていたのだが。
当の水嶋の行動はというと、これが先週とほとんど変わっていなかったのだ。
来週に控えた中間テストに向けて相変わらず放課後にファミレスで勉強会をするだけ。
他に特別なことは一切せず、気付けば月曜日から金曜日までが矢のように過ぎていった。
それどころか。
「……は? お休み?」
《うん。明日の土曜日はちょっと用事があってさ。だから、デートはお休みにしようと思って》
一体どういう風の吹き回しなのか、金曜日の夜に水嶋からそんな連絡があったのだ。
彼女の方からそんな提案をしてくるのなんて初めての事で、ちょっと面食らってしまった。
いや、デートがなくなること自体は別に構わないし、その分自由に過ごせるのは俺としてはありがたいのだが。
水嶋にとっては貴重であろう最後の休日の半分を捨てるというのは、今までのあいつの行動パターンとは明らかに違う。正直、ちょっと不気味ではあった。
「あいつ……最後の最後で、ま~た何か企んでるんじゃないだろうな?」
いまいち釈然としなかったが、ともかくそういうわけだったので、俺は久々にフリーダムな休日を満喫することにしたのである。
そうして迎えた、翌日の日曜日。
「お~、颯太見て見て。軍艦があるよ、軍艦」
「海上自衛隊と米軍の基地があるからな。そりゃ軍艦ぐらい停泊してるだろ」
お試しの恋人期間も最終日ということもあってか、水嶋の提案により俺たちはホームタウンから少し足を延ばして横須賀の方まで遊びに来ていた。
横須賀駅を降りれば目の前に広がっている軍港の景色を眺めて、水嶋が感嘆の声を上げる。
「やっぱり普通の船とは全然違うね。う~ん、せっかくならもっと近くで見てみたいけど、さすがに一般人には難しいかな」
「たしか、港から観光用のクルーズ船が出てたような気がする。軍港をぐるっと一周して間近で艦船を見られるらしい」
「え? めっちゃ楽しそうじゃん、それ。ならあとで行ってみようよ」
「別にいいけど、たぶん事前に予約してないと乗れないぜ? 当日券が残ってるかどうか……」
「その時はその時ってことで。とにかく、ほら」
言うが早いか、水嶋が俺のシャツの袖口を引っ張った。
そのままいつものように俺の腕に抱き着いてくる……と思いきや。
袖口を摑んでいた水嶋の右手が、するりと俺の左手に伸びてきて。
「え……?」
次には俺の指に自分の指を嚙み合わせる、いわゆる恋人繫ぎの状態へと移行した。
「行こっか、颯太」
「お、おう」
てっきり例によってコアラみたいにくっ付いてくると思っていただけに、俺はなんだか拍子抜けしてしまった。
別にそれを期待していたとかそういうわけでは断じてないが。
ただ、いつも鬱陶しいくらいにベタベタしてくる水嶋にしては大人しいスキンシップだなと思ったのだ。まぁ、恋人繫ぎだって結構なものだとは思うけども。
(……大人しい、といえば)
晴れた港の景色に目を細めて隣を歩く水嶋を、俺は改めて横目で見やる。
本日の水嶋のファッションは、上はシンプルな無地のニットセーターで、下はチェック柄のロングスカート。その裾からはショートブーツが覗いている。
以前こいつが俺の家に襲来した時も似たようなコーデだったが、今日はあの時とは違いセーターはしっかり首元まであるタイプだし、スカート丈はくるぶしの辺りまで伸びている。水嶋のファッションは今まで色々と見てきたけど、今日は過去一で露出度低めな組み合わせだ。
髪型も、左のこめかみ付近の毛を三つ編みにして垂らしているという女の子っぽいスタイル。
いつものクールビューティーでちょっとセクシーな水嶋とは一転、今日の彼女の装いは正統派な清楚系美少女という感じで、まさしく「大人しい」の一言だった。
(まぁ、相変わらず何を着てもオシャレに見えるのは流石だけど……)
それでも、普段あの手この手で俺をドギマギさせようとしてくるこいつにしては、いかんせん置きに行っている感がある、気がする。
(最後だしもっとキメキメで来るかとも思ってたけど。意外に無難なヤツが来たな……いや、待てよ? 実はこれもギャップ萌えを狙ったこいつの作戦という可能性も……)
水嶋の意図を測りかねているうちに、気付けば俺はじっと彼女の横顔を観察してしまっていたらしい。
「颯太? どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
「へっ?」
視線に気づいてこちらを振り返った水嶋の言葉に、俺はハッとして顔を逸らした。
「い、いや、別に……何でもないよ」
咄嗟のことで上手い誤魔化し方も思い浮かばず、言葉を詰まらせてしまう。
(しまった……これはまた、「いま私に見惚れてたでしょ?」とかなんとか揶揄われるパターン)
不覚をとった自分を戒めつつ、だから俺は、水嶋のうざったい追及をどう躱そうかと身構えていたのだが。
「そっか。まぁ、私の顔くらいいくらでも見てくれていいけどさ。何でもなくても」
「へ?」
想像とは違う反応が返って来て、思わず間抜けな声が出てしまう。
対する水嶋はというと、いつものクールで澄ました彼女はどこへやら。らしくもなく照れ臭そうに赤面したかと思えば、次には上目遣いでこしょこしょと呟いた。
「だってほら、嬉しいじゃんね? 颯太が私のことを見てくれるってだけで、その……幸せだから、私」
「いぃ!?」
生憎と鏡を持ち合わせていなかったので、確認することこそできなかったが。
(おいおいおい……誰!? このピュアでいじらしい清純派美少女は誰なの!?)
その時の俺はきっと、水嶋と良い勝負ができるくらいには、顔を赤くしていたに違いない。
一体どういう風の吹き回しなのかはサッパリわからない。
ただ、その後の水嶋とのデートは、これまでと比べるといたって健全そのものだった。
《──さて、ただいま皆様の右手に見えておりますのが、アメリカ海軍横須賀基地です。あちら側の岸に上陸する際はパスポートが必要になります。クルーズ中、万が一この船から落ちてしまったお客様は、必ず横須賀市方面に向かって泳ぐようにしてくださいね~》
「あはは、だってさ颯太。上陸する場所、間違えないようにしないとね」
「いや落ちるの前提かよ」
こんな具合に、運よく当日券で乗り込むことができた軍港クルーズを楽しんだ時も。
「うわぁ……噂には聞いてたけどすごいボリュームだね、『横須賀ネイビーバーガー』。付け合わせのポテトも大量だし、まさにアメリカンって感じ」
「やっぱり一人前にしといて正解だったろ? これでも二人で分けるには十分なんだよ」
「ふふっ、たしかに。颯太のお陰で命拾いしたよ。あ、お皿貸して。私が切り分けてあげる」
クルーズを終えて地元グルメを楽しんだり、市内を観光して回ったりしている時も。
俺の隣でコロコロと表情を変えては休日を満喫している水嶋は、良い意味で「普通」だった。
「パーソナルスペース? 何それ美味しいの?」と言わんばかりに過激だったスキンシップも、今日はすっかり鳴りを潜めている。せいぜい肩が少し触れたり、たまに手を握ってくるくらいの可愛らしい接触だけだ。
初デートの「ファッションショー」や中華街での食べ歩きの時のように、いきなり過激で暴れ馬な衣装に着替えて俺を誘惑してくるようなこともない。
むしろこれまでの奔放さがウソのように、今日の水嶋はガードが固いように見えた。
(どうなってるんだ? いつもは俺を振り回すだけ振り回してくれるくせに……今日のこいつ、マジで「普通に可愛い彼女」って感じじゃんかよ)
変な小細工も色仕掛けも使わず、真正面から堂々と恋人らしい恋人をやっている水嶋。
これまでとは百八十度違う攻略を仕掛けてくる彼女に、だから俺も最初のうちこそ警戒していたのだが。
「じゃーん。このスカジャン、颯太に似合いそうじゃない?」
「チョコバナナもいいけど、マンゴーも捨てがたいなぁ。ねぇ、颯太。両方とも買ってさ、二人で分けない? クレープ」
「ふふっ。潮風が気持ちいいね、颯太? やっぱり私、海が見える町って好きだな」
ある意味では飾り気のない、しかしだからこそ新鮮味を覚える水嶋の言動に。
(くっ、なんで……なんで俺は今さら、こいつなんかに……)
ふと気付けば、不覚にも、ドキドキさせられてしまっている俺がいた。
そして一度そう意識してしまうと、もうダメだ。
「じゃあ、次はこのエリアに行ってみない? インスタでよく話題になってるお店が……」
「おおうっ!?」
今の今までなんとも思っていなかったはずなのに、不意に水嶋に手を握られて、俺は気恥ずかしさから思わず奇声を上げてしまった。
「ど、どうしたの颯太? びっくりした~」
「あっ、わ、悪い……急に変な声だして」
俺の返事を恐る恐る聞いていた水嶋は、次には視線を手元まで下げたところで、ハタと何事かに思い当たったようだった。
「もしかして……手繫ぐの、嫌だった?」
「へ?」
「ご、ごめんね? 私、つい楽しくて……はしゃぎ過ぎちゃってた、よね」
そんなしおらしいことを言って寂しげに目を伏せる水嶋の姿が、なんだか寒さに震える捨て猫のように見えてしまって。
「い、いやいやいやっ! 別に手を繫ぐのが嫌とかじゃなくて……そ、そう、虫! ちょっとデカめの虫が耳元を横切ったから、びっくりしてさ! はは、ははははっ」
そこはかとない罪悪感から、俺はつい必死にそうフォローしていた。
「そう、なの? えっと……じゃあ、手は繫いだままでもいい、のかな?」
「お、おう。大丈夫だから、気にするな」
「そっか……うん。なら、良かった」
途端に、いつもの凜とした相貌を崩し「えへへぇ」とユルユルな笑みを浮かべて見せる水嶋。
(だ、か、ら! 勘弁してくれ! そんな無邪気な笑顔で俺を見るんじゃあなぁい!)
まずい……なんか俺、今日はまともに水嶋の顔を見られないかもしれない!
軍港クルーズをしたり市内観光したりと、朝からひとしきり横須賀巡りを満喫していたら、気付けばぼちぼち夕方の四時を迎えようとしていた。
「結構いい時間だな。あと一、二か所くらいなら回れそうだけど……どうする、水嶋?」
俺はスマホの時計を確認しつつ、次の目的地を尋ねてみる。
だが、水嶋の中ではすでに行先が決まっているようだった。
「じゃあ、最後にあそこに行こうよ」
「あそこ?」
水嶋の指差す先を見てみれば、そこには港沿いに建つ大型のショッピングモールがあった。
(あのモールって……いや、まさかな)
ふと頭に浮かびかけた邪推を霧散させ、俺は肩を竦める。
「何か買いたい物でもあるのか? それか行きたい店があるとか?」
「う~ん。お店、じゃあないかな」
「うん? なら何しに行くんだよ」
「それはもちろん、颯太と一緒にやりたかったことだよ」
いまいち話が読めず首を傾げる俺の手を引き、水嶋は「行けばわかるよ」と言って微笑んだ。
そうして連れられるままにモールに入り、エスカレーターを乗り継いで辿り着いたのは……最上階にある映画館エリアだった。
(ああ……なんとなくそんな気もしてたけど……やっぱりここか)
水嶋が最後のデートの場所にこの横須賀を指定してきた時から、実は薄々ここに連れて来られるんじゃないかとは思っていた。
ちらりと横を見ると、案の定だ。水嶋は意味ありげな笑みを浮かべて俺を見上げている。
「……やりたいことっていうのは、一緒に映画館で映画を観ること、か?」
「うん。部屋で鑑賞会をしたことはあったけど、映画館には一度も一緒に行ったことがなかったでしょ?」
「そうかい。にしても、わざわざここじゃなくたっていいだろうに……」
この映画館は何を隠そう、俺と江奈ちゃんが初めてのデートで訪れた映画館だったりする。
あの時も、二人でちょっと遠出をしようという話になって、横須賀まで足を運んだんだっけ。
まぁ、今日と違ってあの時はただ普通に映画を観て帰るだけのシンプルなデートだったけど。いま思えば、なんてエスコート力に欠けた彼氏だったんだろうな、俺は。
だから、トラウマ……というほどではないにしろ。
江奈ちゃんにフラれた俺にとっては、苦い思い出の映画館というわけだ。
「嫌がらせのつもりか?」
「そんなんじゃないって。ただ、颯太と江奈ちゃんが初デートした場所で、私も颯太と一緒にデートしてみたかった、ってだけ」
「なんでだよ?」
「ん~だってさ、そうしたらここはもう颯太にとって、『江奈ちゃんとの思い出の場所』ってだけじゃなくなるでしょ?」
そんなことを言いながら、水嶋はさっさとチケット売り場へと歩いて行ってしまう。
鼻歌さえ歌いながらの無邪気な足取りに、俺もそれ以上は過去に浸る気は失せてしまった。
(……まぁ、今さら気にしたってしょうがないか)
センチメンタルな気分を振り払うように一度大きく息を吐き、俺は水嶋の背中を追いかけた。
そうして、二時間ほどをシアターの中で過ごしたのちに。
「──いやぁ~、なかなか面白かったね」
映画鑑賞を終えた俺たちは、モール内のカフェに移動して感想会と洒落込んでいた。
「私、すっかり雪国に旅行しに行きたくなっちゃったよ」
「たしかに、あんな光景を直に見られたら最高だろうな」
水嶋が選んだ映画は、アンデルセン童話の一作である「雪の女王」を原作とした、いわゆるおとぎ話を実写化したタイプの作品だった。
登場人物たちの熱の入った演技もさることながら、厳しくも美しい雪国の風景も見事な映像美で描写されていて、これが非常に見ごたえのあるものだった。
正直、この手のジャンルは俺の好みとは少しズレるし、観る前はあまり期待していなかったのだが。やっぱり食わず嫌いは良くないな、うん。
おかげで、らしくもなく水嶋との感想会にも花を咲かせてしまう。
「それにストーリーも良かったしさ。私、好きなんだよね。『雪の女王』のお話」
「そういえば、『雪の女王』ってどういう話だったっけ? 大まかには知ってるんだけど、実はちゃんと原作を読んだことないんだよな」
「そうだなぁ。私も全部を知ってるわけじゃないけど……」
そう言って水嶋が語るあらましは、概ね俺の記憶にあるものと似たようなものだった。
とある雪国で暮らしている少女・ゲルダには、カイというとても仲の良い少年がいた。
しかしある日、魔法の鏡の破片が心臓に突き刺さったことがきっかけで、カイは別人のように冷たい性格になり、ゲルダにも辛く当たるようになってしまう。
そんな時、二人の暮らす町に雪の女王がやってきた。雪の女王と出会ったカイはすっかり彼女に魅せられてしまい、そのまま彼女の城へと連れていかれてしまう。
そんなカイのことを連れ戻すために、ゲルダは彼を探す旅へと出かけるのだった。
「で、紆余曲折の末に雪の女王の城へとたどり着いたゲルダの涙によって、カイの心臓に刺さっていた鏡の破片が溶けた。そうして優しい心を取り戻したカイとゲルダは、一緒に仲良く故郷へ帰りましたとさ……っていうお話。原作はもっと長いし登場人物も多いんだけど、大まかな流れは同じだね」
「たしかに今回の実写化映画でも、大筋はそんな感じだったな」
「うん。でもさ、そう考えるとこの三人の関係性って、ちょっと今の私たちに似てない?」
「どういうことだ?」
俺が訊き返すと、水嶋が悪戯っぽい笑みを浮かべてピンと三本の指を立てて見せる。
「だって、このお話って要は『仲良しの子を別の人に奪われちゃうお話』でしょ? だから、颯太と江奈ちゃんをカイとゲルダだとすると、さしずめ私はゲルダからカイを奪った雪の女王……みたいな?」
「いや、そりゃ逆だろ? 実際に奪われたのは江奈ちゃんの方なんだから、それで言うならゲルダのポジションは俺だ」
「う~ん、まぁ事実はそうだけど…………内情は、あながち逆でもなかったり?」
「は? どういうことだ?」
「ううん、なんでもない。まぁ、細かいことはいいじゃん。ただのちょっとした例え話だよ」
なんて他愛もない話をしている内に、気付けば外もぼちぼち薄暗くなってきた。
俺たちの「最後のデート」も、いよいよ終わりが近づいている。
それが分かっているからだろうか。水嶋はまだ帰りたくないとでも言うように、さっきからほとんど手元のカップに口をつけようとしなかった。
「でも私、原作よりも今日の映画版の方が好きかも。特に……雪の女王の設定がさ」
カップの紅茶をようやく一口啜って、水嶋が窓の外の港の景色に目を向ける。
「原作では、雪の女王がカイを連れ去った理由って、明確には描かれていないんだよね。タイトルになっている割には出番も少ないし、目的がいまいちよくわからない。だけど今回の映画版では、はっきりと理由が設定されていたじゃない?」
水嶋に問われ、俺は頷く。
雪の女王がカイを連れ去った理由。映画版の終盤で、それは明かされていた。
原作とは違い、映画版の雪の女王は、実はまだゲルダと出会う前のカイと会ったことがある、という設定にされていた。
一人ぼっちだった雪の女王は、ある日森の中で幼き頃のカイと出会い、やがて二人は友達に。
そして、他の人間とは違い自分のことを怖がったりしないカイに、雪の女王は段々と心惹かれていき……。
「でもある日、カイの前にはゲルダという別の女の子が現れ、二人はたちまち意気投合。カイはめっきり自分のもとへ来なくなってしまった。だから、もう二度と自分の元から離れないように、雪の女王はカイを自分の城へ連れて行った……ふふ。なかなか面白いアレンジだよね」
そう言って微笑む水嶋の瞳が、けれど少しだけ寂しそうに見えた気がした。
「まぁ、結局カイはゲルダの元に帰ってしまうわけで、それでハッピーエンドなんだけど。でも私、ちょっと雪の女王にも共感しちゃうかも。これもやっぱり……同じ悪役だから、かな?」
どこか自虐的にそんなことを呟くと、水嶋はそこでちらりと時計を確認する。
それから、まだほとんど口をつけていなかった紅茶を一気に飲み干して。
「……名残惜しいけど、そろそろ遅いし帰らないとだね」
「え? お、おう、そうだな」
さっきまでとは打って変わってテキパキと帰り支度を始める水嶋。
怪訝に思いつつ俺も手早く片付けと会計を済ませ、やがてショッピングモールを後にした。
建物の外に出ると、すでに陽が暮れて薄暗い空にはどんよりとした雲が広がっている。
なんだか今にもひと雨きそうな雰囲気だ。
「しまったな。俺、傘持ってきてないや」
「駅に行くくらいまでなら大丈夫じゃない?」
「そうだな。まぁあんまりひどくなりそうなら、駅前のコンビニで一本買っておくか」
曇天の夜空を見上げて眉を顰めつつ、俺は水嶋と一緒に最寄り駅までの道を歩いていく。
そして……。
「──あれ?」
最初にそれに気づいたのは、水嶋の方だった。
不意に立ち止まった水嶋を不思議に思い、俺は振り返る。
「水嶋? どうした?」
「いや、うん。もしかしたら気のせいかもだけど……」
歯切れの悪い物言いでそう言って、水嶋は俺たちから見て斜め前方、大きな車道を挟んで反対側の歩道を歩いていた人物を指差した。
「ねぇ、颯太。あそこにいるのって……江奈ちゃんじゃない?」
「え……?」
言われて、水嶋の指差す方に視線を走らせてみれば……本当だ。たしかにあの後ろ姿は江奈ちゃんだ。
しかし、きっと俺は水嶋に指摘されなければ、彼女が江奈ちゃんだと気付くことはなかったに違いない。
なぜなら今日の江奈ちゃんはなんというか、すごくらしくない格好をしていたからだ。
いわゆる地雷系ファッション、というやつだろうか。やたらフリルやレースがついた肩出しのピンクブラウスに、大胆に太ももを露出させた黒のミニスカート。膝から下はこれまた黒いレースのソックスに覆われており、足には沢山の装飾が施されたロングブーツを履いている。
髪型はいつもと同じで特に結わえたりはしていないが、頭にはパンクな感じの赤いカチューシャをつけ、そして首元にはお馴染みの首輪という装い。
正直、「どちら様ですか?」って感じだ。
街中ですれ違っても、もしかしたら江奈ちゃんだと気付かないかもしれないレベルである。
「え、江奈ちゃん? な、なんでこんな所に……それにあの服装は一体?」
「それはわからないけど……でも、どうやら一人ってわけじゃなさそうだね」
水嶋の言う通り、たしかに江奈ちゃんの隣には連れ合いらしき人物がいた。
見た目からして大学生くらいの若い男だ。
そのうえ、男は茶髪でパーマでピアスで丸メガネでダメージジーンズだった。
早い話が、江奈ちゃんの隣にいたのは、お手本のように典型的なパリピ男だったのだ。
「んなっ!?」
「う~わぁ……」
俺の驚きの声と、水嶋の苦虫を嚙み潰すような呟きが重なる。
「な、なん、なん……なんだよアレは!? どういうことだよ!?」
「どうもこうも、見たまんまなんじゃない? どう見てもデート帰りの現場でしょ、あれは」
状況が飲み込み切れず慌てふためく俺に、水嶋が吐き捨てるように呟いた。
「はぁ~あ、そっかぁ……江奈ちゃん、今度はあのお兄さんに鞍替えしたってわけかぁ」
「は、はい!?」
じゃあ、何か? 江奈ちゃんは俺のことをフッて水嶋と付き合うことになったのに、実はその裏でさらに別の男とも関係を持っていたとでもいうのか!?
それで今日は、その新しい男と仲良く横須賀デートしていたってことなのか!?
「まぁ、私だって似たようなことやってるわけだし、言えた義理じゃないけどさ……ちょっとショックかも。まさか、あの清純派な江奈ちゃんがあそこまで『恋多き乙女』だとは思わなかったなぁ」
「こ、恋多き……って、いやいやいや! ありえないって! これはきっと何かの間違いだ!」
だって、あの江奈ちゃんだぞ?
清楚可憐で大和撫子、真面目で優等生なお嬢様なんだぞ?
恋愛どころか友達付き合いにも奥手で、俺と付き合うまでは同年代の男子とまともに会話したこともないって言ってたくらいなんだぞ?
「なのに、お前のその言い方じゃまるで……まるで、江奈ちゃんが恋人をとっかえひっかえしているとんでもない悪女みたいじゃんか!」
「そりゃあ、私だってそう思いたくはないけど……でも案外、それがあの子の本性だったりするのかもよ? だってほら、見てごらんよ」
言われて、俺は促されるままに江奈ちゃんの方へと視線を戻す。
今日一日のデートの感想でも語り合っているのだろうか。江奈ちゃんは隣を歩くパリピ大学生と何やら親し気に言葉を交わしている。
しまいには少し戸惑う素振りを見せつつも、なんと男の右腕にギュッと自分の腕を絡ませ始めてしまった。すごく……すごく、仲が良さそうだ。
「あ~あ~、すっかり誑し込まれちゃってさぁ。あの典型的な地雷系コーデも、あのチャラ男さんの趣味なのかもね」
「そ、そんな……」
あまりにも受け入れがたい光景に、俺は眩暈がしてきた。
たしかに……江奈ちゃんには、俺をフッて水嶋に乗り換えたという「前科」はある。
けれどそれは、きっと俺が江奈ちゃんの心を繫ぎとめておけるだけの男ではなかったからだ。俺が不甲斐なかったから、江奈ちゃんは愛想を尽かしてしまったんだ。
でも、水嶋は違う。俺なんかとは違ってビジュアルも良ければ頭も良いし、おまけにカリスマJKモデルだ。財力だって、きっとその辺の高校生の比じゃないだろう。恋人としてこれ以上の優良物件もそうそうないと思う。
だから江奈ちゃんだって、俺の時とは違って水嶋に愛想を尽かすようなことはない、って。そう……思っていたけど。
「はっ!? も、もしかして江奈ちゃん、俺たちの『関係』に気付いたんじゃないのか? だからあんな風にグレちゃったんじゃ……」
「う~ん、あの子の前でボロを出したことはないと思うけど。土日と放課後は颯太と過ごしていたとはいえ、学校にいる間は常に構ってあげてたから、寂しさのあまりに、ってこともないだろうし」
「じゃ、じゃあ……本当に、あれが江奈ちゃんの本性だった、ってことなのか?」
頭の中で、これまでの江奈ちゃんとの思い出がフラッシュバックする。
好きな映画について楽しそうに語っていた江奈ちゃん。
三か月記念日のプレゼントを贈ってくれた江奈ちゃん。
いつか手編みのマフラーを編むと言ってくれた江奈ちゃん。
そんな、まるで地上に舞い降りた天使みたいだった江奈ちゃんは。
(全部……本当の姿じゃなかった、っていうのか?)
急に足元の地面が音を立てて壊れていくような感覚に襲われて、俺はとうとう膝から地面に崩れ落ちてしまった。
「え、ちょっ、颯太? 大丈夫?」
「……怖い」
「え?」
「……女の子って、怖い」
「おおぅ……女性恐怖症、一歩手前って感じだねコレは」
ふと気が付けば、いよいよポツリポツリと雨粒が降ってきた。
項垂れる先の白いアスファルトの地面が、徐々に黒く塗りつぶされていく。
「降ってきちゃったか……颯太、とりあえず駅まで行こうよ。もうすぐそこだから。ほら、ひとまず私の傘に入って」
「あ、ああ……そう、だな……」
ポンポンと優しく肩を叩いてくる水嶋の言葉に頷いて、俺はヨロヨロと立ち上がる。
斜め前方の江奈ちゃんたちに目をやれば、二人はこれまた仲睦まじそうに一本の傘を分け合い、肩を寄せながら駅前広場へと向かっていた。
(ああ、そうか……もう、どうあがいても俺の手が届かない場所に行ってしまったんだ)
いよいよ泣き出してしまいそうな俺をさすがに見かねたらしい。
立ち上がった俺の肩を支えて歩きながら、水嶋が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「颯太。その、なんて言えばいいか……」
「……大丈夫、わかってる。むしろ、これではっきりして良かったんだよ。俺と付き合っていた頃の江奈ちゃんはもう……どこにもいないんだって、さ」
もはや涙を流すのも通り越して、俺は乾いた笑いを零しながら、せいぜいそんな強がりを言うことくらいしかできなかった。
「……帰ろう、水嶋」
「うん……ねぇ、颯太。あんまり気を落とさずにね。颯太の落ち込んだ顔を見るのは、私も辛いからさ」
「水嶋……」
「まぁ、颯太から江奈ちゃんを奪った私が言うのもなんだけどね」
「……それもそうだな。お前が言うな、まったく」
俺を励まそうとしてか、水嶋があえておどけた口調で揶揄ってくる。
正直、今はもう何も考えたくないくらい気が滅入っているからか、彼女のそんな些細な心遣いすらやけに胸に染みて、俺はいよいよ目頭が熱くなるのを感じた。
しかし。
「……ん? ねぇ、颯太」
「うん?」
「あの二人、なんか様子が変じゃない?」
そんな水嶋の言葉に、俺はもう目を背けたい気持ちを押し殺して、再び江奈ちゃんたちの方に顔を向ける。
二人は今、ちょうど駅前広場へと続く歩道橋を歩いているところだった。
しかし、歩道橋の中間ほどに差し掛かった所で足を止めて、何やら言い合っている様子だ。
俺たちのいる場所からはその内容までは聞き取れないが、遠目から見た江奈ちゃんの表情は穏やかではない。
先ほどまでとは打って変わって、険悪なムードが漂っているらしいことだけは窺い知れた。
「な、なんだ? 急にどうしたんだ、江奈ちゃん?」
「あのお兄さんと喧嘩にでもなったのかな?」
「ええ? そんなことあるか? さっきまであんなに仲良さそうだったのに……」
俺たちが首を捻っている間にも、二人の言い争いはさらにエスカレートしていく。
というよりも、男の方が一方的に江奈ちゃんに何事かをまくし立て、江奈ちゃんの方は怯えた表情でそれをじっと耐えているような雰囲気だ。
そして。
(おいおい……ダメだろ、それは)
しまいには男が左手で江奈ちゃんの肩を摑み、空いたもう片方の手を大きく振りかぶったところで、俺は頭が真っ白になってしまった。
もしも、あの男が本当に江奈ちゃんの新しい恋人なんだとしたら。
たとえ二人が喧嘩をしようと、それはあの二人で解決するべき問題だ。いわんや、俺みたいな赤の他人がでしゃばるようなことじゃない。
だけど──それでも俺は、江奈ちゃんが怖い思いや痛い思いをしようとしているのを黙って見ていられるほどには、潔い人間でもなかった。
(江奈ちゃんっ!)
ついさっきまで彼女から目を背けようとしていたことも忘れて、だから、俺は思わず歩道橋への階段を駆け上がろうと走りだす。
「待って」
そんな俺の腕を摑んで踏みとどまらせたのは、水嶋だった。
「颯太、何するつもり?」
「何って……お前も見ただろ!? あの野郎、江奈ちゃんに手を上げようと!」
「だから? 割って入っていって、『江奈ちゃんに手を出すな』とでも言うつもり?」
「ああ」
「『助けて』って言われてもいないのに?」
言われて、俺はほんの一瞬言葉を詰まらせてしまう。
「触らぬ神に祟りなし、じゃなかったの?」
「それは……」
自分の中の正義感に疑いもせず従って、望まれてもいない人助けをする。
そんなのは正義の味方でもヒーローでもなんでもなく、ただの自己満足野郎であることを、俺はよくよく知っている。
水嶋の言う通り、だからこれは、俺自身がいつも嫌っていた「お節介」ってやつなんだろう。
(……それがどうした)
けど、今は俺のそんなちっぽけなポリシーなんてどうでもいい。
江奈ちゃんがピンチだと言うのなら、俺はいくらでもお節介野郎になってやる。
「関係ない」
静止の声を振り切って階段を上ろうとすると、俺の腕を摑む水嶋の手に力が込められる。
それからゆっくりと息を吐くと、水嶋は嚙んで含めるように俺を窘めた。
「……ねぇ、もういいじゃん。颯太は誰よりも優しい人だから、放っておけないのかもしれないけど。江奈ちゃんはもう、私たちを置いて別の場所に行っちゃったんだよ? ならもう颯太がこれ以上、あの子を気にかけてあげる義理はないんじゃないの?」
肌にポツポツと冷たいものが当たる感触が広がっていく。
どうやら雨脚が強まってきたらしい。
時折通りかかる車のライトが、降りしきる無数の雨粒を照らし出した。
「それに……颯太があのチャラ男さんから江奈ちゃんを助けてあげたとしても。それであの子が颯太の元に戻ってくるわけじゃない。ここで飛び出しても颯太には何の得もないどころか、余計みじめな思いをするだけかもしれないよ?」
それはきっと、水嶋なりに俺のことを案じて言ってくれた言葉なんだろう。
たしかに水嶋の言う通りだ。
ここで俺が飛び出して、それこそヒーローよろしく江奈ちゃんのことを救ったとしても。
彼女にとって所詮俺は元カレ。いや、もはや委員会が同じだけの「ただの同級生」だ。
俺に愛想を尽かしたからこそ水嶋に鞍替えしたのであろう江奈ちゃんが、たかだか一度ピンチに駆けつけた程度で、もう一度俺に振り向いてくれるなんてことはない。
現実ってやつはいつも、映画の中の世界ほど都合の良いシナリオでは成り立っていないんだ。
得られるものは何もない。
むしろ、惨めな自分にさらに追い打ちをかけるようなことになるだけかもしれない。
「それでも、行くの?」
限りなく「やめておきなよ」に近い、水嶋のその問いかけに。
「……行くよ」
けれど、俺はきっぱりと言い返した。
「義理とか、損得とか、そういうのじゃない。──俺が助けたいから、助けるんだ」
瞬間、水嶋の唇が僅かに引き結ばれる。
「…………やっぱりキミは、そうするんだね」
次には水嶋が何事かボソリと呟くが、それを気にする余裕は俺にはない。
引き留める彼女の腕をやんわりと押しのけると、俺は今度こそ階段を駆け上がり、江奈ちゃんたちの前に躍り出た。
「──ちょっと待ったぁ!」
「殴り合いがしたいなら、俺が相手になってやる!」
今まさに江奈ちゃんを殴ろうとしていたチャラ男の前に躍り出て、驚く江奈ちゃんを背に庇い、俺は柄にもなくそんな啖呵を切っていた。
だから、きっとそのままストリートファイトに突入するだろうと覚悟していた、のだが。
「いきなり出てきてマジなんなんだよお前……ちっ、あ~めんどくせぇ」
ところがどっこい、さにあらず。
「キモいヒーロー気取り野郎のせいですっかり萎えちまったぜ。もういいわ、お前ら。好きにしやがれ」
思いのほかあっさりと引き下がったチャラ男はひどく面倒くさそうにそう言うなり、江奈ちゃんをほっぽり出してさっさと一人で帰ってしまったのだ。
「ええっ、と……とりあえず、事なきは得た、のかな?」
荒事にならずに済んだのは万々歳だが、やけに引き際のいいチャラ男になんだかすっかり拍子抜けしてしまって、俺はポカンと奴さんの背中を見送るばかりだった。
なんだ、あいつ? 割って入った俺が言うのもなんだけど、急に現れた見知らぬ男に彼女を預けてさっさと帰っちまうとは、薄情なやつもいたもんだ。
「……あの、佐久原くん?」
ほっと胸を撫で下ろしていた俺は、けれど背後から呼ばわれてハッとする。
そうだ。江奈ちゃんを助けに飛び出してきたはいいけど、色々と説明をすっ飛ばしちゃってたんだよな。
「あ~、えっと……ごめん、里森さん! 急に俺なんかがしゃしゃり出てきて、びっくりさせちゃったよね?」
「い、いえ……それより、どうして佐久原くんがここに?」
「それは、その……き、今日は、たまたま横須賀に用事があってさ! それで、帰り際に里森さんが男の人と歩いてるのを見かけたから……ちょっと、気になって」
俺が咄嗟にでっち上げた経緯に、それでも江奈ちゃんは「なるほど」と納得したようだった。
本当に素直で良い子で……それだけに、危なっかしいんだよな。
「そしたら、里森さんが殴られそうになってたから、つい放っておけなくて」
「そう、だったんですね」
「後をつけるようなことしてごめん! それに今だって、もしかしたら余計なお世話だったかもしれない……勝手なことばっかりして、ごめん。本当に」
俺は深々と頭を下げて、精一杯の謝罪の言葉を江奈ちゃんに告げた。
触らぬ神に祟りなし。
自分の正義感だけに従って誰かを助けようとするのは、ヒーローではなくただのお節介野郎。
そんなことは百も承知だったはずなのに、当の俺自身がその「お節介野郎」になるなんて。
冷静になって思い返せば、まったく笑ってしまう話だ。
(……江奈ちゃん、呆れてるだろうな)
恐る恐る顔を上げて、俺は江奈ちゃんの二の句を待つ。
しかし、俺の心配とは裏腹に、江奈ちゃんの表情に非難や怒りの色はなかった。
「そんな……謝らないでください。佐久原くんが来てくれなければ、きっとひどいことになっていたと思いますから」
俺を責めるどころか、江奈ちゃんはそんな慈悲深い言葉をかけてくれた。
さっき、水嶋は俺のことを何と言っていたか。誰よりも優しい人、だったか?
とんでもない。俺なんかよりも江奈ちゃんの方が、圧倒的にその評価に相応しい。
こんな状況で言うのもなんだが、やっぱりマジで天使みたいな女の子だ。
いや、むしろ天使そのものと言ってもいいね。うん。
(ただ……だからこそ、分からない)
こんな優しくて、謙虚で、清廉潔白な女の子である江奈ちゃんが。
俺みたいな陰キャオタクはともかく、あのスパダリでカリスマなイケメン美少女モデルである水嶋まで差し置いて、だ。
あんな一山いくらみたいなチャラ男に浮気をするなんてことが、本当にあるんだろうか?
(江奈ちゃんがそこまで節操がない性質だなんて、少なくとも俺は思えないんだけど)
そこまで考えたところで、俺はほとんど無意識のうちに口を開いていた。
「あ、あのさ里森さん。それで……」
一体、あのチャラ男とはどういう関係なのか。いつどこで知り合って、どういう経緯で今日一緒に出掛けることになったのか。
よっぽどそう聞こうかとも思ったのだが。
「いや、ごめん……なんでもない」
現在の恋人である水嶋ならいざ知らず、もはや赤の他人に過ぎない俺がそれを聞くのはやっぱりお門違いな気がしたので、やめた。
「もうすぐそこだけど、せめて駅まで送るよ。ああ、もちろん迷惑じゃなければ、だけど」
仕切り直すように頭を振って、俺は江奈ちゃんに提案する。
「いいんですか? ですが佐久原くん、見たところ傘をお持ちでないようですが……」
「あ~平気平気。俺はちょっとくらいなら濡れても大丈夫だから」
「いえ、そういうわけにも……あ、それなら」
髪の先から水を滴らせながらさっさと歩き出そうとする俺に、江奈ちゃんが手に持っていた傘を差し出してくる。
「これを、二人で使いませんか? 駅まで行くだけなら十分だと思います」
「えっ?」
そ、それってつまり、いわゆる相合傘ってやつですか!?
「い、いいの?」
「はい。私を送るために雨に濡れさせてしまうのも申し訳ありませんし」
「あ~……」
降ってわいた相合傘イベントに若干喜んでしまったが、江奈ちゃんの方は特に意識していないご様子。あくまで人として常識的な判断をしただけ、という感じだ。
うん。分かってた。分かってはいたけど、やっぱりこの事務的な対応は寂しいです、はい。
「えっと……じゃあ、行こうか?」
「はい」
江奈ちゃんの傘を俺がさし、そうして二人並んで歩き出す。
傘のサイズが普通よりも小さめだったため、俺は江奈ちゃんの肩が濡れないように、かなり彼女寄りになるように傘を傾けていた。
それでも、心なしか江奈ちゃんが俺の方へ距離を詰めてきている気がしたのは、多分、俺の脳が見せた都合の良い錯覚に違いない。
そうして並んで歩き出した俺たちは、特に何を話すでもなくただただ黙って駅までの道のりを進んでいき。
ほどなくして駅に辿り着いたところで、別れの挨拶をするためにようやく口を開いた。
「送っていただいて、ありがとうございます。それに、さっきのことも。今日は本当に助かりました」
「いやいや! 俺なんかホント、大したことはしてないしさ。とにかく里森さんが無事で何よりだよ。はは……」
「…………」
「…………」
二言、三言交わしたところで、けれど俺たちの間には気まずい沈黙が流れてしまう。
話したい事ならいっぱいある。今日は何をしに横須賀まで来たのか、とか、あのチャラ男は結局江奈ちゃんの何だったのか、とか。
だけど、残念ながらそのどれもが今の俺には知る資格がないことで、だから何も聞けないことが歯がゆかった。
こうして黙っているところを見ると、きっと江奈ちゃんも、今日のことについて俺に話すことは何もないと思っているんだろう。
「……それでは、そろそろ電車が来ますので」
「え? あ、ああ、そうだね……」
やがて沈黙を切り裂いて、江奈ちゃんがペコリと頭を下げる。
どれだけ服装が変わっても、その楚々として丁寧な所作は少しも変わっていない。
少なくとも、恋人をとっかえひっかえして遊んでいるような女の子のそれとは、俺はやっぱり思えなかった。
(本当に、今までの江奈ちゃんはウソだったのか?)
踵を返して駅の改札口へと向かっていく江奈ちゃん。
遠ざかっていく彼女の背を見つめながら、俺の脳裏にふと過ったのは、いつかの屋上での出来事だった。
『私──信じています』
あの時、そう言って俺に口づけ──だったと思う──をしたのは、一体どういう意図でのことだったんだろうか。
何か俺に伝えたい、秘めた思いでもあるのだろうか。
はたまた、それすらも彼女の本当の姿ではなかったというのだろうか。
──江奈ちゃんの本心が知りたい。
今この瞬間ほど、そう強く感じたことはなくて。
「……あ、あのっ! 江奈ちゃん!」
気付いた時には、俺の口からは彼女の名前が飛び出していた。
振り返る江奈ちゃんに向けて、絞り出すように言葉を繫げようとして。
「あ、その……帰り道、気を付けて」
けれど、やはりそれすらももう俺には知る資格がないことだと思い直し、結局はそんな当たり障りのないセリフしか出てこなかった。
肩を竦めて目を伏せる俺を、江奈ちゃんはしばらくの間じっと見つめて。
「…………ごめんなさい」
最後に短くそれだけ言い残すと、足早に改札口の雑踏の中へと消えて行ってしまった。
(ごめんなさい、か)
それが一体なにに対しての謝罪なのかも、今の俺には推測することすらできなかった。
ああ……俺ってやつはほんと、江奈ちゃんのことを何も分かってなかったんだな。
そりゃあ、フラれるのも当然って話か。
「あいつの言う通り……みじめな思いをするだけだったなぁ」
駅構内の天井を力なく見上げながら、俺は自嘲した。
「……って、やべっ。そういえば、その水嶋のことをほったらかしだった」
咄嗟だったとはいえ、雨の中に「彼女」を置き去りにしたのはさすがにマズかったよな。
これじゃあ、俺もさっきのパリピ男のことをとやかく言えないじゃんか。
「まぁあいつ傘持ってるし、心配ないと思うけど……うぉっ!?」
駅を出て水嶋の所まで戻ろうとした俺は、しかし、振り返った先の光景にギョッとする。
「……み、水嶋?」
いつの間に追いかけて来ていたのか、水嶋は俺の後ろ、ちょうど駅の屋根がある部分のすぐ外の辺りで立っていた。
しかし、どういうわけか今の彼女はさっきまで差していたはずの自分の傘をすっかり丸めてしまい、手で持っているだけ。
必然、髪の毛から服から全身が雨でずぶ濡れになってしまっていたのだ。
「お、お前、何やってるんだ? 早く入れよ、風邪ひいちまうぞ?」
俺は慌てて屋根の下に来るように手招きをするが、水嶋はただじっと黙って立ち尽くしたまま動こうとしない。
濡れた前髪で隠れてしまっているせいで表情もよく見えないし、無言なことも相まって、それがなんだか不気味だった。
「お、怒ってるのか? その、置いていったのは悪かったよ、ごめん。あの時は……」
きっと静止の声も聞かずに勝手に飛び出し、置き去りにしたことに腹を立てているんだろう。
そう考えた俺は、おそるおそる謝罪と弁解を口にしようとして。
──ガバッ。
「んんんんんんんんっ!?」
しかし、次に水嶋がとった行動は、俺を瞠目させるには十分すぎるものだった。
(な、な、な……!?)
声を出すこともできず、俺はさながら金縛りにでもあったかのように身動きをとることができずにいた。
それもそのはず。だって水嶋は、いきなり俺の懐に飛び込んで抱き着いてきたかと思ったら、そのまま有無を言わさず唇を重ねてきたんだから。

(こ、こいつ、いきなり何のつもりだ!?)
慌てて引きはがそうとするのだが、水嶋は全身全霊の力で俺に密着し、絶対に離れようとしない。そしてその間も、決して口付けを止めようとはしなかった。
「……んっ……はぁう……じゅるっ……」
「んんっ……ちょ、待っ……むぐっ……!」
「ぇあ……ひゅむ……んはぁ……はむっ……」
いや、それはもう「口付け」とか「キス」とかいう生易しいものじゃない。
捕らえた獲物を貪る捕食者のように、骨の髄までしゃぶり尽くそうとする獣のように。
水嶋はただひたすらに俺の唇を舐っていた。舐り続けていた。
昼間に見せていた清楚清純な彼女の姿は、もはや見る影もない。
(こいつ、舌までっ!?)
降りしきる雨の音に交じって、水嶋の荒い息遣いと、お互いの粘膜が艶めかしく擦れ合う音が鼓膜を刺激する。
(ま、まずい……意識が……)
そうして、実に数十秒ほどにも渡って唇を重ね、いよいよ俺の理性も宇宙の彼方にぶっ飛びそうになったところで。
「………ぷは」
ようやく拘束を解いた水嶋が、一歩、二歩と後ずさった。
濡れた前髪をかきあげて、その向こうから現れたエメラルドの瞳でじっと俺を見つめてくる。
真意はまったくわからない。
それでも、目の前の少女が何かただならぬ様子であることだけは確かだった。
「…………好き」
「え?」
「……好き、好き、好き好き好き好き好き。大好き。世界で一番キミのことが好き。本当は『好き』なんて二文字だけで表すことなんてできないくらい……私は、颯太のことが好き」
「みず、しま……?」
飄々としていて、こっちがどれだけ目を凝らそうとまるで本心を見せようとしない普段の彼女からは想像もできないほどに、むき出しの感情を見せてそう告げてくる水嶋。
「いつもキミのこと騙したり、罠にハメたり、噓を吐くこともあったから、信じてもらえないかもしれないけど……私、本気だよ? 本当に、颯太のことが好きなんだ。心から」
穏やかに微笑み、けれどどこか縋るような目をして、水嶋がそう言ってくるものだから。
「急にどういうつもりなんだ」とか、「つまり何を言いたいんだ」とか、そんな茶々を入れる気も起きずに、俺はただただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
「……あはは、ごめんね。急にこんなこと言われても、ワケ分からないよね」
やがて、少しだけいつもの調子に戻った水嶋が、再びツカツカと俺の方へ近づいてくる。
「でも……とにかく今は、伝えておきたかった。伝えておかなきゃいけないと思った。私が、どれだけ颯太のことを想っているのか、ってことを」
「それは……」
正直、今は頭が混乱していて、ロクに考えもまとまらない。
それでも、ひとつだけはっきりとわかったことがあった。
いや……俺はもうきっと、いつかこいつが命がけで俺を庇ってくれた時から、薄々分かっていたんだろう。
ずっと誤魔化していたけれど。
ずっと目を逸らしていたけれど。
「颯太、私はね──キミの彼女になりたいんだ」
俺の耳元に顔を近づけ、水嶋が囁くように呟いたその言葉は、やっぱり紛れもなく彼女の本心なんだということを。
理由も、経緯も、いまだにわからないけれど。
どうやらこの水嶋静乃という少女が本気で自分のことを好きであるらしいことだけは、筋金の入った捻くれ者である俺でも、さすがに認めざるを得ないようだった。
「今日で『勝負』も終わりだね」
するりと俺の脇を通り過ぎた水嶋が、そのまま首だけをこちらに向けて改札口へ歩いていく。
「明日さ、待ってるから──答え、聞かせてね」
最後にそれだけ言い残し、水嶋は人ごみに紛れて煙のように去ってしまった。