「まったく……昨日のお前には本当にヒヤヒヤさせられたよ」
「あ、まだ言ってる。いいじゃん、結局バレずに済んだんだからさ」
水嶋が一日限りのメイドデビューを果たした、その翌日の土曜日。
宣言通り中間テスト直前だろうと休日デートを敢行するらしい水嶋の呼び出しを受け、俺は例によって待ち合わせ場所に指定された朝十時の桜木町駅へと赴いた。
その後、駅で合流した水嶋と共に電車とモノレールを乗り継ぎ、三十分ほどかけて市内沿岸部に位置する人工島、八景島にまでやってきたのがつい今しがたのことである。
「それに、私たちがこうして今日ここに来られたのも、私が映研の代理としてメイドさんになったからでしょ? むしろ労いの言葉の一つでも欲しいところだよね」
「いや、俺は別に来られなくても良かったけど。デートならもっと近場でもできるんだし」
「も~、またそんなツンツンしたこと言っちゃってさ~。せっかくの『シーパラ』なんだから、もっとテンション上げていこうよ」
水嶋の言葉の通り、今日のデートの舞台はここ、「八景島シーパラダイス」である。
東京湾に面した人工島の上に遊園地や水族館、レストラン、ショッピングモールなどが広がっているという、休日に遊びに行く場所全部盛りみたいな観光スポットだ。
「今日は部長さんからもらったコレもあることだしね」
「……まぁな」
そう。俺たちが今日ここに来た理由は、端的に言えば昨日のメイドバイトへの「報酬」ってことになるんだろう。
映研代理としてバイトを引き受けた水嶋は、本当にその給料の全額を部に還元したのだ。
それに対するせめてもの感謝の気持ちとして、部長が(ポケットマネーで)俺たちにくれたのが、シーパラの水族館入館券と遊園地のフリーパスがセットになった「ワンデーパス」だ。
つまりこいつがあれば、今日一日はシーパラで遊び放題というわけである。
こんな人が多い観光スポットに好き好んで来ることはあまりない俺だが……奢りというのならまぁ、たまにはこういう場所も悪くはないか。
「う~ん、いい天気」
シーサイドライン八景島駅の改札を出た水嶋が、燦々と降り注ぐ日差しに目を細めながら大きく伸びをする。
ほんのりと潮の香りを含んだそよ風が、彼女のサラサラな髪を波打たせた。
「晴れて良かった~。絶好のレジャー日和だね」
「日差しが強いな……なぁ、水嶋。ひとつ提案があるんだが」
「うん、却下」
「……まだ何も言ってないじゃん」
「言わなくてもわかるよ」
カラカラと笑いながら、水嶋が俺の額と図星を突いてくる。
「颯太のことだから、どうせ『水族館とかの屋内施設だけ回って帰るんじゃダメか?』とか、『遊園地はこの前も行ったし、今日はパスしようぜ』とか言うつもりだったんでしょ?」
「うっ……だからエスパーかよ、お前は」
「やっぱりね。ダメだよ。遊園地も水族館も、今日はどっちも遊び尽くすから」
「……さいですか」
肩をすくめた俺は、それから改めて水嶋の服装に目を向ける。
今日の水嶋のファッションは、ノースリーブのニットトップスの上からカーディガンを羽織り、下は足首までのワイドパンツで、頭には例によってプチ変装用のキャスケット帽。
いつもよりも動きやすさ重視って感じの装いだ。
マジで一日遊び回る気マンマンだな、こいつ。
「ふふ、気になる?」
俺の視線に気付いた水嶋が、あえて腋を見せるようなポーズを取って聞いてくる。
いちいちあざとい奴め。
「べつに」
「またまた。今朝待ち合わせした時からここに来るまで、チラチラ見てたのわかってるよ?」
「はぁ? そ、そんなことあるわけ……」
ないことも、ないですけど。
「颯太って、もしかして腋フェチ? ああ、それとも縦リブが好きなのかな? たしかにこれだとおっぱいの形が強調されてエロいもんね」
「爽やかな顔して下ネタぶっかましてんじゃねぇよ……いいから、行くならとっとと行こうぜ」
「照れなくていいのに」
「照れてない」
「ふふ、そういうことにしといてあげる」
なんていつものやり取りをしながら、俺たちは水族館へと足を踏み入れる。照明が絞られた館内を、ひとまず順路に沿って展示品を見て回ることにした。
「見て見て、颯太。すっごいトゲトゲなのがいる。オニダルマオコゼ、だって」
「はいはい。トゲトゲだね~」
魚の種類や生息地域によっていくつかに分けられたエリアを、水嶋は子供みたいに目を輝かせながら巡っていく。いちいち俺を呼びつけては、あれ見てそれ見てと騒がしい。

「あっちにはクラゲがいるみたい。うわぁ、ぷよぷよでカラフルで可愛いね」
「はいはい。四匹集まったら消えそうだね~」
はしゃぐ水嶋に適当に相槌を打ちながら。
しかし、俺は頭の中ではすっかり別のことを考えていた。
(あんなことがあったっていうのに、能天気な奴だよな、こいつも)
改めて振り返っても、昨日の「オリビエ」での一件は大ピンチと言ってもいいレベルだった。
いくら水嶋が変装していたとはいえ、何かひとつでもボロを出していたら、江奈ちゃんに俺たちの「勝負」のことがバレていたっておかしくなかったんだから。
むしろ、あれだけ顔を突き合わせて言い争っていたのに、よく気付かれなかったもんだと不思議に思うくらいだ。
それだけ水嶋の変装が巧妙だったということか、はたまた江奈ちゃんが鈍かったのか。
いずれにしろ、もうあんなピンチはごめん被りたいもんである。
「勝負」が終わるまで、あと二週間。
誰にも俺たちの関係を知られないように、改めて気を引き締めないとな。
(まぁ、それはともかく……メイド姿の江奈ちゃん、可愛かったよなぁ)
気を引き締める、と決めたそばから説得力に欠けるとは思うが、自然と頰が緩んでしまう。
江奈ちゃんの私服は清楚で大人しめなものが多かったから、あんな風にフリフリヒラヒラとした服を着ているところを見るのは初めてだった。
しかも、何のために空いているのかよくわからないブラウスの胸元部分の穴といい、やたら短いスカートからのぞくガーターベルトといい、あんなセクシーな衣装を。
「…………た」
昨日は色々と混乱していてそれどころじゃなかったけど、よく考えたらあれはダメだろ。ちょっとエッチが過ぎるだろ。
よくあの衣装を着て接客しようという勇気が湧いたもんだよ、江奈ちゃん。ここだけの話、思い返すだけでちょっと前屈みになってしまいそうだよ。
「……? ……うた?」
というか、今まではあそこまで露出度の高い格好をしたことがなかったから気付かなかったけど……江奈ちゃんって、実はかなり着瘦せするタイプだったんだな。
「……てるの? 颯太?」
さすがに水嶋ほどではないにしろ、引っ込み思案な性格とは反対にかなり主張の激しい……。
「ねぇ、颯太ってば!」
「わぁ!? って、水嶋……?」
「やっと気付いた。もう、さっきから何度も呼んでたのに」
声に驚いて顔を上げれば、いつの間にか俺の正面に立っていた水嶋が盛大にぶすくれていた。
「わ、悪い。ちょっとボーッとしてて……何の話だったっけ?」
「だから、もうすぐ四階のアクアスタジアムでイルカショーが始まるから、見に行こうよって」
「あ、ああ~イルカショーな。OK、なら早いとこ行こうぜ」
俺は取り繕うようにそう言って歩き出そうとしたのだが。
「待って」
「ぐぇっ」
不意に水嶋にパーカーの襟元を摑まれ、絞め殺される爬虫類みたいな声を出してしまう。
「ゲホッ、ゲホッ……な、なんだよ?」
「颯太さ。もしかしていま、江奈ちゃんのこと考えてた?」
ギクッ。
「その顔……図星って感じだね。どうせ、昨日のちょっとエッチなメイド服姿の江奈ちゃんでも思い出してたんじゃないの?」
ギクギクッ。
立て続けに看破されて、俺は冷や汗を流す。
そんな俺の両頰に、水嶋はおもむろに自分の両手をあてがうと、そのままぐいっと自分の顔の方に引っ張る。
宝石みたいなエメラルドの瞳が、もうすぐ目と鼻の先で真っ直ぐに俺を見据えていた。
「颯太にひとつ、質問です」
「な、なんでしょうか?」
「今日、颯太とデートをしているのは誰ですか?」
「……み、水嶋静乃さん、です」
「だよね? そうだよね? だったらさ」
すこぶる不機嫌そうな半眼で俺を睨む水嶋は、俺の頰を挟む両手に微かに力を込めると。
「江奈ちゃんのことなんて考えないで。私は颯太のことしか考えていないんだから、颯太も私のことだけ考えるべき。じゃなきゃフェアじゃないじゃん。分かった?」
有無を言わさない、といった彼女の迫力に気圧されて、俺はコクコクと頷くほかなかった。
俺が素直に首肯したことで、水嶋もひとまず納得したらしい。それまでのしかめっ面を崩してにわかに笑みを浮かべると。
「よろしい。じゃ、行こっか? ほらほら、早くしないと良い席がなくなっちゃうよ」
「わ、わかったから。そんな引っ張るなって」
再び無邪気な子供みたいにはしゃいで、俺の手を引く水嶋。打って変わってご機嫌な様子だ。
江奈ちゃんのことをちょっと考えていただけでコレとは……やれやれ、面倒くさい。
けど、なんだか今日はいつもよりもしつこかったな。今までは、二人でいる時に江奈ちゃんの話題が出ても、ここまで不機嫌になることはなかったのに。
(よくわからんが……もう水嶋の前では江奈ちゃんのことは禁句にした方が良さそうだな)
イルカショーの会場へと向かう道すがら、俺は心中で静かにそう決意するのだった。
《──さぁ! まず最初に登場してくれたのは~? は~い! 全身真っ白のシロイルカのコンビ、ククルちゃんとモコくんで~す!》
アクアスタジアムへとたどり着くと、ちょうど公演が始まったところのようで、すり鉢状の客席にはすでに多くの観客が詰めかけていた。
《それではっ! 人とイルカが織り成す優雅な水中ショーを、どうぞお楽しみくださ~い!》
司会進行役のお姉さんのそんなアナウンスに、会場中からパチパチと拍手が湧き起こる。
「あ、もう始まっちゃってるね。颯太、早く席を確保しよう」
「ここからでも見られるっぽいし、もう立ち見でいいんじゃないか?」
「こんな最後列じゃなくて、最前列で見たいじゃん。ほら、早く早く」
「へいへい」
エメラルドの瞳を子供みたいにキラキラ輝かせながら、水嶋は俺の手を引いてどんどん最前列への階段を下りていく。
しかし、やはりというか既に最前列の席はほとんどが埋まってしまっており、辛うじて見つけた空席は一人分だけだった。
「まぁ、来るのが遅かったし仕方ないだろ。最前列は諦めて、大人しく空いてる席に座ろうぜ」
そう言ってその場を後にしようとした俺は、しかし手をつないだままの水嶋が動こうとしなかったせいで、後ろ向きにつんのめってしまう。
「おわっとと……おい、何してるんだ?」
「颯太こそ何してるの? 早く座ろうよ」
「はぁ? いや、座るったって、一席しか空いてないじゃんか」
まさか、俺に横で立っとけとでも言うつもりじゃあるまいな?
俺はにわかに眉を顰めるが、水嶋の出した答えはさらに斜め上をいくものだった。
「だから、こうすればいいんだよ」
言うなり、まずは俺を空いている席に座らせる水嶋。
そして何を血迷ったのか、次には俺の股の隙間に自分のお尻を押し入れてきた。
「……あの、水嶋さん? 何をやってらっしゃるのでせうか?」
「いやほら、こうすれば一席しかなくても二人で座れるでしょ?」
さも名案とでも言いたげなドヤ顔で、水嶋は俺の胸板を背もたれにして寄りかかってくる。
その上、置き場所に困っていた俺の両手を自分の腰に回させるオマケ付きだ。
「お~。颯太に抱っこされるこの感じ、なんかすっごく落ち着く。よし、今度から颯太と映画とか見る時はこうしよう」
「いや『よし』じゃないが? 何に感動してんだよ、お前は」
なんて、俺はあくまで平静を装ってツッコミを入れるが、内心では結構焦っていた。
こいつがこんな風にベタベタくっついてくるのは今に始まったことじゃないし、自分でもある程度は耐性がついてきたと思う。
けど、いくらスキンシップに慣れてきたといっても、こうまで密着されるとさすがに少しは意識してしまう。
「ほらほら颯太。私のことが気になるのはわかるけど、せっかく最前列の席に座れたんだからさ。今はショーを楽しまなきゃ」
「べ、別に気にしてなんか……暑苦しいと思ってるだけでだなぁ」
「はいはい。ツンデレ、ツンデレ」
「デレてない!」
結果、俺はロクにショーに集中することができなくて、気付いた時には最初の演目が終了してしまっていた。
《──以上、シロイルカたちによる水中ショーでした~! ククルちゃん、モコくん、とっても素敵なパフォーマンスを見せてくれてありがと~!!》
水槽の淵から顔を出したシロイルカたちが、「キュイ、キュイ」と可愛らしい鳴き声を上げて観客に愛想を振りまいている。
会場のあちこちから拍手喝采とカメラのシャッター音が飛び交った。
「う~ん! 可愛かったなぁ、ククルちゃんとモコくん。ねぇ颯太、あとで水族館のショップに行かない? あの二匹のぬいぐるみが買えるんだってさ」
「ぬいぐるみ? ああ、うん。買ったらいいんじゃないの」
「いやいや。他人事みたいに言ってるけど、颯太も買うんだからね?」
「え、俺も? なんで?」
俺が首を捻ると、水嶋はやけに真面目くさった顔で語り始める。
「あのね、颯太。ククルちゃんとモコくんはシーパラのイルカたちの中でも特にラブラブカップルで有名な二匹なんだよ? だからグッズなんかも必ず二匹がセットになってるの。持ってると恋愛運がアップする、なんて噂もあるくらいなんだから」
すっげぇ早口ですね、水嶋さん。
さてはこいつ、シーパラのトレンド情報なんかを事前に調べ上げて来たな?
「私がククルちゃんのぬいぐるみを買うから、颯太はモコくんのぬいぐるみを買ってよ。二匹のグッズをカップルで一つずつ持っていれば、そのカップルはあの二匹みたくずっとラブラブでいられるんだってさ」
「なんだかつい最近も聞いたな、そういう話」
普段周りからは「イケメン」だの「彼氏にしたい」だのと言われているこいつだが。
この手のジンクスや占いが好きなところは、同年代の女子と変わらないよな。
(……ずっとラブラブでいられる、ね)
俺たちの「勝負」の期間は、もうあと一週間くらいしかない。
俺が水嶋の二度目の告白を断ることで、俺たちの「恋人関係」はそこで終わりだ。
ずっとラブラブ、だなんて……そんなことはありえない。
それをわかった上で、あえて強がっているのか。それとも、あと一週間で絶対に俺を攻略できるという自信があるのか。
どういうつもりなのかはわからないが、いずれにしろ、水嶋の意志は固いようだった。
「だから、ね? 今日のデートの記念って意味でもさ」
「はいはい、わかったよ。けど、いま買うと荷物になるから、買うなら帰る直前な」
「やったね。……っと、そろそろ次のショーが始まるみたいだよ」
水嶋がステージに目を戻すと同時に、再び司会のお姉さんのアナウンスが響き渡る。
《さてさて! 次にプールの中にやってきてくれたのは、皆さんも色々な水族館で見たことがあるでしょう! そう、バンドウイルカです!》
お姉さんの口上に、水嶋が「わ~!」と歓声をあげながらパチパチ手を叩く。
「来たっ。颯太、バンドウイルカだよ」
「わ、わかったから! いちいち俺の方を振り返らなくていいから!」
授業参観日で教室の後ろに立つ親が気になる小学生かお前は。
普段はあんなに大人びているくせに、変なところで子供っぽくなる奴だ。
「お前、そんなにイルカが好きなのか?」
「大好き。だってあんなに顔も鳴き声も可愛い上に、こうしてショーができるくらい賢いんだよ? 動物の中でも一番好きかな」
「ほ~ん」
ビジュアルが良くて、頭も良くて、大勢の人間に見てもらうのが仕事の人気者。
そう考えると、水嶋とイルカって共通点が多い気がする。
イルカ好きっていうのも、もしかしたら無意識に親近感を覚えてのことだったりしてな。
《体長約二m~三m、体重約二百kg~三百kgという大きな体を使った、ダイナミックなジャンプを披露してくれるようです! それでは……ミュージック、スタート!》
やがて、ドラマチックなBGMが流れ始めると共に、イルカたちによるアクロバティックなショーが繰り広げられる。
鼻先に人間を乗せてサーフィンをしたり、空中に設置されたリングをジャンプしてくぐったりと、たしかになかなかの迫力だ。
イルカたちが水面にダイブする度に、水しぶきが最前列の観客席にまで降り注いだ。
「わっ、冷たっ」
水しぶきが顔や髪にかかったらしい。
猫みたいにブルブルと頭を振った水嶋が、湿った髪の毛の先からポタポタと水滴を垂らしながら、こちらを振り返って微笑んだ。
「ふふ……濡れちゃった」
「っ!?」
こ、こいつはまた、天然で人をドキッとさせるような表情を……!
そういう無自覚な色気がかえって一番クるから止めてほしい。
「あはは。楽しいね、颯太」
「……ああ。見りゃわかるよ」
はしゃぐ水嶋を前に肩を竦めて、けれど、気づけば俺も自然と頰を緩めていた。
「んっ……颯太っ。私、もうっ……!」
「まだ先っぽ入れただけじゃんか。じきに馴染んでくるから、我慢しろって」
「だ、だってっ、すっごくビクビクしてるし……」
「それが気持ちいいんだろ? ほら、もっと下まで突っ込めよ」
「や、ダメダメっ! これ以上はもう本当に……んひぅ!?」
「変な声を出すな! ちびっ子たちもいるんだぞ!」
イルカショーを見終えて館内のレストランでランチを取った俺たちは、その後も再び水族館の展示を眺めて回っていた。
シーパラの敷地内には、コンセプトごとに分けられた水族館が四か所もある。
「ワンデーパス」を持つ俺たちはその全てを回り放題なため、海の生き物が好きらしい水嶋は、それはもう満喫しているご様子だった。
「あ~くすぐったかったぁ、ドクターフィッシュ。でもちょっとクセになっちゃったかも。あとでもう一回行こうかなぁ」
「いいけど次は他人のフリをさせてもらうからな、俺は」
「え~、ひど~い……って、颯太あれ見て! ペンギンいる、ペンギン!」
グイグイと服の袖を引っ張ってくる水嶋の視線の先には、南極の風景を再現しているらしいペンギン用フィールドがあった。
フィールドには大きさもフォルムも様々な複数種類のペンギンが闊歩していて、こうして俯瞰してみるとなかなかに壮観だ。
館内でも特に人気のエリアのようで、周りにはひと際大勢の人だかりが形成されていた。やっぱりペンギンはどの水族館でも稼ぎ頭のようだ。
「あっちの眉毛がある子たちはイワトビペンギンかな? あ、見て見て! まだちっちゃい赤ちゃんペンギンもいる! かわいい~!」
「なんかやたらデカいヤツもいるな。ありゃ身長一mくらいあるんじゃないか?」
「どれどれ? お~、あれはオウサマペンギンじゃないかな?」
フィールドの柵に設けられた解説パネルを見つつ、水嶋はスマホカメラのシャッターを切るのに大忙しだ。
「そういえば、さ……颯太は知ってる?」
すっかりペンギン専門フォトグラファーのようになっていた水嶋が、そこでふと思い出したように聞いてくる。
「オウサマとかコウテイみたいな大型ペンギンのパンチ力って、実は結構強いんだって」
「あ~、なんか聞いたことはある気がする。でも、強いって具体的にどんくらいなんだろうな」
「種類や個体にもよるだろうけど、羽のビンタ一発で人間の骨が折れることもあるらしいよ」
マジで? 可愛い顔してえげつないな、ペンギン。
目の前でヨチヨチ歩いているこの生き物が急に怖くなってきちゃったよ。
「つーか、よくそんなこと知ってるな。ネットか何かで調べたのか?」
俺は素直に感心してそう聞いてみたのだが、水嶋はやんわりと首を振って否定する。
「子供の頃にね。教えてもらったこと、あるから……こんな風にさ」
「ふ~ん」
たしかに俺も、子供の頃にこういうトコに連れて来てもらっちゃあ、親父や母さんに色々教えてもらったっけな。今ではもうほとんど覚えちゃいないけど。
「はは……まぁ、仕方ないよね」
「え?」
ボソリと呟かれた言葉に振り向けば、どこか寂しそうにペンギンたちを見つめる水嶋の横顔があった。
「『仕方ない』って、何が?」
「あ、聞こえちゃった? ごめんごめん、大したことじゃないから。気にしないでよ」
けれどそれもほんの一瞬のことで、次にこっちを振り返った水嶋は、すっかりさっきまでのハイテンションに戻っていた。
「それよりほら。他にもまだまだ展示はあるんだから、早く次のエリアに行こうよ、颯太」
「お、おう? そうだな」
なんだか意味深な態度が気になるが……まぁ、本人が気にするなと言う以上は、気にしたって仕方ないだろう。
一抹の疑問は抱きつつも、俺は水嶋と一緒に水族館巡りを再開して。
「うわぁ、すごい! 海の中にいるみたい!」
「たしかに圧巻だな、これは」
最後に一番大きい大水槽のあるエリアまでやって来たころには、俺ももうすっかりレジャーを楽しんでいた。
「……すごいよね」
大きさも色も種類もバラバラなたくさんの魚たちを眺めながら、水嶋がしみじみとした口調でそう呟く。
「ああ。陸にいながらこんなに色んな種類の魚が集まっているところを見られるなんて、考えてみればすごいことだよな」
「あはは。たしかにそれもそうだけどさ」
どうやら、俺はちょっとズレたことを言ったらしい。
苦笑交じりに、水嶋が言葉を続ける。
「普段生活してたら絶対に目にすることはないけどさ。海の中では、毎日こんな光景が広がってるんだなって」
「ああ、なるほどそういう」
もちろん、展示のために人工的に手を加えている部分はあるんだろう。
それでもこれとごく似た世界が広がっていると思うと、改めて自然の雄大さを思い知らされる気分だ。
「ね、颯太。私さ……いつかキミと一緒に、海に行きたいな」
大水槽を背にしてこちらに振り返った水嶋が、大きく両手を広げてみせた。
「ガラス越しじゃない。本物の海の世界を、颯太と一緒に見に行きたいんだ」
無邪気な笑顔でそう語る水嶋の背後で、沢山の魚で形成された巨大な群れが竜巻みたいに動いている。水面から差し込む光の柱が、まるでスポットライトのようにそれを照らしていた。
「きっと、すっごく綺麗なんだろうね」
楽しそうに、それはもう本当に楽しそうに笑って、水嶋は俺にそう言った。
その笑顔があんまり無邪気なものだったから、だろうか。
一瞬だけ、俺は自分の胸の辺りに「ズキン」という鈍い痛みが走ったような気がした。
(ちっ……お人好しかよ、俺は)
そこまで考えて、俺は思考を消し去るように頭を振った。
「……いちいち芝居がかった喋り方をするな。生まれてから一度も本物の海を見たことがない未来人じゃあるまいし」
俺が肩を竦めてみせると、水嶋も「あ、バレた?」と照れ臭そうに舌を出す。
「実はこの前、人類が火星に移住した近未来が舞台のSF映画を観てさ。ヒロインが昔の地球の海の映像を見ながら似たようなことを言うシーンがあったから、つい真似したくなって」
「やっぱりな。マイナーだけど、その映画は俺も昔見たことがある。道理で見覚えあるわけだ」
「あはは。さすが映画オタクだね」
そいつはどーも。誉め言葉として受け取っておくよ。
「でも、颯太と海に行きたいのは本当だよ? 一緒に泳いで、シュノーケリングとか、ダイビングとかもしてみたいな。ああ、安心して。もちろんその時は、ちゃんと前に颯太が気に入ってくれたような、露出度高めの水着を着てきてあげるからさ」
「その心配は一ミリもしてないから結構だ。あと、別に気に入ったなんて言ってないからね?」
都合よく過去を改変する水嶋に文句を言いつつ、「そもそも」と俺は彼女を指差した。
「お前との『恋人関係』は、もうあと一週間で終わりだ。海水浴シーズンになる頃には、俺とお前はもう宿敵でも恋人でもない。ただ同じ学校に通ってるだけの赤の他人だ。だから俺は……水嶋、悪いがお前と一緒に海に行ってやることはできないな」
そう。俺はもう決めたんだ。
たとえ水嶋が俺の事を本当に好きで、本気で俺と恋人になりたいと思ってるんだとしても。
やっぱり俺は、江奈ちゃんを裏切るようなマネはしたくない。
一週間後、こいつからの二度目の告白を断って、この奇妙な関係にピリオドを打つって。
そう、決めたんだから。
「……できない、ね」
俺が毅然として言い放つと、水嶋は悲しそうに、けれどなぜか少しだけ嬉しそうに呟いて。
「へぇ、強気じゃんね。まだ一週間もあるのに勝利宣言なんて、ちょっと気が早いんじゃない?」
やがていつもの、あの飄々としていけ好かない笑みを浮かべて、目深に被ったキャスケット帽のつばをくいっとつまみあげながら。
「そういう人に限って、最後の最後に足を掬われたりするものなのだよ、ワトソンくん?」
「へっ、好きに言ってるがいいさ。似非ホームズめ」
「ふふ。一緒に海に行くためにも、追い詰めて見せるから──必ずね」
台詞とは裏腹に、まるで狙ったお宝は絶対に逃さない怪盗のように、水嶋はそう言ってのけるのだった。