なんともスピーディーな話だが、水嶋のメイドとしての出勤日は五月の第三金曜日。つまり、部長から話を持ち掛けられた、その二日後のことだった。
「にしても、まさか『メイドデー』をやる喫茶店っていうのが、ココのことだったとはね」
放課後、学校から隣町の商店街にやって来た俺たちは、一軒の喫茶店へと足を運んでいた。
喫茶「オリビエ」。前にヒーローショーバイトの帰りにも立ち寄った、水嶋の行きつけだ。
「なんつーか、ちょっと意外だな。昔ながらの老舗のレトロ喫茶、って感じなのに」
「昨日の顔合わせで話を聞く限りじゃ、『今はそういうのが流行ってるんだろ?』って具合に、会長さんが半ばゴリ押ししたっぽいけどね」
「流行ってるどころか、だいぶ今更感あると思うけどな」
何かの本で知ったのだが、一説によれば明治時代の後半にはすでにメイドカフェの原型となる店が存在していたらしい。
その手の店の聖地である秋葉原で本格的にメイド喫茶文化が花開いた時期でさえ、二〇〇〇年代初期にまで遡るという話だ。それを考えれば、周回遅れもいいところである。
「『ザ・喫茶店のマスター』って感じのあのマスターも、よくOKしたよなぁ。『店のイメージを損ないますので』とか言って断りそうなもんだけど」
「まぁ、メイドカフェって言っても店員の服装がメイド服になったり、精々いくつか限定メニューを出したり、くらいの緩いスタイルみたいだし? そのくらいならお店の雰囲気を壊すこともないって判断じゃない?」
「ふ~ん」
なんてことを店先で話しているうちに、気付けばぼちぼち約束の時間が迫っていた。
「じゃあ、着替えの時間もあるしそろそろ行くよ。私は裏口から入るから、颯太はお客さんとして正面から入ってくる感じでよろしく」
「へいへい」
俺が頷くと、水嶋はスタスタと店の裏手に回っていった。
さて、と。なら俺もぼちぼち入店……いや、ご帰宅とやらをしてみるかね。
実際にメイド喫茶というものを体験するのは初めてだから、さすがにちょっと緊張するけど。
カラン、コロン──。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
若干身構えながら店の扉を押し開けると、出迎えてくれたのはメイドさん……ではなく、カウンター裏で作業をしていたマスターだった。
「おや? たしか、昨日水嶋さんの付き添いでいらっしゃった……」
「あ、どうも。佐久原です」
「そうそう、佐久原さんでしたね」
白い口髭を僅かに歪めて、朗らかに微笑むマスター。銀縁メガネの奥で細められた優し気な目元からは、彼のその誠実で穏やかな人柄が滲み出ていた。
前にこの店に来た時も思ったけど、俺もどうせ歳を取るならこんな紳士然としたお爺ちゃんになりたいものだ。
「つい今しがた、水嶋さんもお見えになりました。こちらには今日もご一緒に?」
「はい、そうです。客としてですけど、今日もほとんど付き添いみたいな感じで……あとはまぁ、せっかくだし一度メイド喫茶っていうのを体験してみようかな、と」
「左様でございますか。そういうことでしたら、今日はどうぞごゆっくり。すぐにメイドの方々もフロアにいらっしゃると思いますので」
そう言って恭しく一礼する今日のマスターは、白シャツに黒ベストというフォーマルな服装も相まって、なんとなくメイドたちを束ねる老執事のようにも見えた。
マスターに促され、俺は窓際の角にあるソファー席に腰を下ろす。
ちょうど客足が落ち着いたタイミングだったのか、店内には俺を含めて数人の客がいるのみだ。心地よいクラシックのBGMに耳を傾けながら、俺は卓上のメニューを手に取った。
そうして待つこと数分後。
「──お、お帰りなさいませ、ご主人様。ご注文は、お決まりでしょうか?」
メニューに目を落としていた俺に、一人のメイドさんが声を掛けてきた。
声の感じからして水嶋ではなさそうだ。そう言えば、あいつの他にも何人か応募してきたスタッフがいるって、マスターも昨日言ってたっけ。
「あ、すみません。ちょっとまだ考え中なん、です……が?」
メニューから視線を上げた俺は、しかし、思わずポカンと大口を開けて固まってしまった。
俺に声を掛けてきたのは、ミニスカートのワンピースにエプロンといういわゆるアキバ系な感じのメイド服を着た、俺と同年代くらいの黒髪ロングなメイドさんだった。
ワンピースは胸元の部分が大胆に空いた構造になっていて、華奢な足を覆うのはガーターベルト。なかなかにセクシーなデザインだ。
頭には犬の耳のようなものがついたヘッドドレスを着けていて、そしてなぜか、顔には怪盗を思わせる白いアイマスクを張り付けている。
だがしかし、そのどれよりも俺の目が吸い寄せられたのは。
(な……なにしてるの、この子!?)
メイドさんの首元に巻かれていた──赤と黒のチェック柄の首輪だった。
「え~……っとぉ~……」
声を掛けてきた黒髪ロングの犬耳メイドさんと顔を合わせたまま、俺は辛うじてそう口にするのが精いっぱいだった。
メイドさんもメイドさんで、お腹の辺りで両手を組んで小さな口をきゅっと引き結び、おすわりを命じられた犬のようにじっと俺の二の句を待っている。
そうしてお互いに十秒ほども黙りこくってしまっただろうか。
これ以上の沈黙には耐えられそうになかった俺は、おそるおそる、しかし確信に近い思いでそのメイドさんに問いかけた。
「……里森さん、だよね?」
途端にビクンッ、と肩を震わせるメイドさん。
わかりやすく動揺し、けれどすぐさま取り繕うような愛想笑いを浮かべて見せる。
「な、何のことでしょう? サトモリさん? という名前の方は存じ上げませんが。どなたかとお間違えになられてはいませんか?」
「いや、でも……」
「そ、そういえば自己紹介がまだでしたね? 改めまして、私、メイドの『エレナ』と申します。本日は颯……コホン! ご主人様のために、誠心誠意ご奉仕させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
そう言って深々とお辞儀をする「自称エレナ」さん。
格好こそ際どいメイド服だが、確かな気品を感じさせる楚々とした所作は、むしろご奉仕される側の地位の人間のそれだった。
間違いない。やっぱり江奈ちゃんだ。
アイマスクのせいで目元は隠されているが、綺麗な濡れ羽色の髪や、清流のように透き通った声は、他の誰とも間違えようがない。
しかし。
「あの、里森さ──」
「エレナです」
「ア、ハイ」
すごい勢いで訂正されてしまった。
どうやら本人はあくまで別人で通すつもりのようだ。
「なんでここでバイトしてるの?」とか、「そのアイマスクはなに?」とか、「足寒くない?」とか、聞きたいことなら山ほどあるけれども。
この様子では、きっと何を聞いてもはぐらかされてしまうだけだろう。
なら……俺もここはひとまずただの客に徹して、彼女に話を合わせるしかない、か。
「ええっと……じゃあ、エレナさん」
「はい、エレナです。あなたのエレナです」
「う、うん。とりあえず……そうだな、アイスカフェオレを一つください」
「アイスカフェオレ、ですね? かしこまりました」
ペコリと頭を下げてキッチンまでオーダーを通しに行く江奈ちゃんの背を見送り、俺は脱力気味にテーブルに突っ伏した。
まさかこんな場所で江奈ちゃんと遭遇するとは。しかも、客同士としてならまだしも、「メイド」と「ご主人様」としてだなんて。
部長の話では、この店の「メイドデー」は、つい最近始まった業態だという。
ああしてメイドさんの格好をしているということは、つまり彼女もつい最近このバイトの募集を見つけて応募していた、ってことだよな?
なんだその偶然は。神のイタズラにもほどがあるだろ。
(にしても……江奈ちゃんも、バイトとかするんだな)
彼女の実家の里森家は、横浜で代々貿易商を営んできた旧家だ。
そんな家の子として生まれた江奈ちゃんは、きっとわざわざバイトなんてしなくたってお金に困るということはないだろう。
実際、俺への「三か月記念日」のプレゼントとして贈ってくれたブレスレットは彼女いわく「お小遣い」で買ったものだそうだが。あとで分かった値段は、俺の知っている高校生のそれのレベルを優に超えていた。
少なくとも、まだ俺と付き合っていた頃の江奈ちゃんは何のバイトもしていなかったはずだ。
(それがどうして……しかも、よりによってなぜメイドさん?)
俺はテーブルに突っ伏していた顔を上げて、チラリとカウンターの方に視線を向ける。
可愛らしいメイド服に身を包んだ江奈ちゃんが、マスターと話をしている様子が見て取れた。
どこか楽しげにも見えるそんな彼女の姿に、俺は先日のファミレスでのことを思い返す。
『実は私もちょっと興味あったんだ、メイド服って』
『メイド服ってちょっと興味あるし、私は全然OKなんだけどね~』
思えば水嶋も菊地原先輩も、メイド服には興味があると言っていた。
ああいうコスプレって、ただ単にそういう格好が好きな人たちへのニーズに応えるために着ているだけ、ってイメージだったけど。
実はメイド服って、女子にとってはそれなりに憧れの衣装だったりするんだろうか?
もしかしたら江奈ちゃんも、お金を稼ぎたかったからではなく、メイドの格好をしてみたかったからこのバイトに応募したのかも。
だけど、やっぱり友達や知人にこのバイトのことを知られるのは恥ずかしくて。
だからアイマスクで素顔を隠して、「メイドのエレナさん」を演じているのかもしれない。
(なるほど……そういうことなら、これ以上の詮索をするのもヤボってもんだな)
江奈ちゃんがどんな事情で何のバイトを始めようが、それはもちろん江奈ちゃんの自由だ。
家族や恋人や友人ならいざ知らず……赤の他人には、それに口を挟む権利なんてない。
「……よし、決めた」
今日の江奈ちゃんは、あくまでも「メイドのエレナさん」。
ならば今日の俺も、あくまでも一人の客として振る舞おう。
俺は江奈ちゃんがメイドさんのバイトをしていることなんて知らないし、江奈ちゃんも俺が今日この店に来たことなんか知らない。今日のことはお互いに見なかったことにして、学校では変わらずただの同級生として接するんだ。
うん、それがいい。そうしよう。
「決まったの? 注文」
俺が心中で密かな決意をしたところで、横合いから出し抜けに声がかかる。
びっくりして顔を上げると、そこにいたのはまた別のメイドさんだった。
外側が少しハネたブロンドの髪が目を引くそのメイドさんが着ていたのは、くるぶしまであるロングスカートタイプの黒いワンピースだ。
肩からフリルのついた白エプロンをかけ、頭には白いヘッドドレス。江奈ちゃんのものとはまた違った、いわゆるクラシックなタイプのメイド服である。
スラリと背が高くてスタイルの良い金髪メイドさんが着ていると、なんだかファンタジー世界なんかに登場するエルフが召使いをしているみたいな雰囲気があった。
「あ、ああ、すみません。『決めた』っていうのはそういう意味じゃなくて……」
「あはは。なに、その畏まった喋り方? もしかして気付いてないの?」
「へ?」
妙に気安い態度で話しかけてくる金髪メイドさんに眉を顰めた俺は、けれどやがて、コーヒーの香ばしい匂いに混じって仄かに鼻腔をくすぐる金木犀の香りに気付き、ハッとする。
「お、お前……水嶋、か?」
俺が声を潜めて尋ねると、セミロングの金髪をポニーテールにまとめるその高身長メイドさん、改め水嶋は小さくピースサインをしてみせた。
「正解。どう? 私のメイド服姿は」
「いや、どうって言われても……その髪はどうしたんだよ? 染めたのか?」
「あはは、違う違う。ウィッグだよ、ウィッグ」
前髪を指で弄びながら、水嶋はクスクスと笑う。
「ほら、私って一応有名人だし。『Sizu』がメイドやってるなんて知られたら、ファンがお店に押し掛けちゃうかもでしょ? だから変装しとこうと思って」
「なるほど……それもそうだな」
「あ、ちなみにここでの私の名前、コレだから。『水嶋』じゃなくてこっちで呼んでね?」
言って、水嶋が胸元に付けられた名札を指差す。
そこには女子っぽい丸文字で「シノン」と書かれていた。

たしかにいくら本人が変装していても、俺が本名を口にしてしまったら意味ないもんな。
(……あれ、ちょっと待てよ?)
そこまで考えたところで、俺はある重大な問題を見落としていたことに気が付いた。
俺は水嶋の背後、店のカウンターの方に慌てて視線を走らせる。
今はキッチンに引っこんで仕事をしているのか、幸い俺たちが見える場所に江奈ちゃんはいなかった。
「颯太? どうしたの、そんな血相変えて?」
「バッ……俺の名前を呼ぶな! 知り合いだってバレる!」
考えてみれば、この状況はかなりマズいんじゃないか!?
俺がここで江奈ちゃんと遭遇するだけならまだいい。多少気まずくはあるが、お互いに見なかったことにして、客と店員に徹すればいいだけだからな。
だが、この場に水嶋までもがいることを江奈ちゃんに知られるのはヤバい!
江奈ちゃんから見れば、俺と水嶋は元恋人と現恋人。いつ殴り合いの喧嘩が始まってもおかしくない宿敵同士なんだ。
なのに、そんな二人が「メイド」と「ご主人様」として親しげに話していたらどうだ? そんなの絶対に怪しまれるだろ。
そうすれば、俺と水嶋が「勝負」のためとはいえ、あくまで「お試し」とはいえ、江奈ちゃんに内緒で付き合っていることがバレかねない。
……うん、やっぱり超ピンチだねこの状況は!
「バレるって、誰に?」
「いいか、よく聞け。いまこの店にはな……」
吞気な顔をしている水嶋に、俺はかくかくしかじかと説明する。
「ああ、はいはい。『エレナちゃん』のことね」
「……お前も気付いてたか」
「そりゃ、あんなバレバレの変装じゃあね」
「そうか……参ったな。まさか江奈ちゃんもここでバイトしていたなんて、完全に予想外だ」
「ははは、たしかに。ほ~んと──なんでここにいるんだろうね?」
そう呟いた水嶋の目が、一瞬だけ険しくなったように見えた。
けれどすぐさま表情を緩めると、焦りに焦る俺とは反対に、なんともケロッとした態度で言ってのける。
「まぁでも、そこまで気にしなくてもいいんじゃない? こっちもこうして変装してることだし、他人のフリしてれば案外私だってバレないんじゃないかな。颯太だって、私から言われなかったら気付かなかったでしょ?」
「それは……いやでも、万が一バレた時が大変だろ」
俺がそう指摘しても、水嶋はあくまで楽観的な態度を崩さなかった。
「その時は、『すごい偶然もあるよね~』とでも言ってごまかすよ」
「それでごまかせるとは思えないけど……」
「大丈夫だって。それにこの状況なら、私が颯太と多少イチャイチャしてても、疑うどころかむしろ感心してくれるんじゃない? 『いくら嫌いな相手でもお客さんである以上は全力で愛想を振りまくなんて。静乃ちゃん、すごいプロ根性!』、ってさ」
「そ、そうかぁ?」
「まぁとにかく私に任せてよ。颯太も知っての通り、噓や演技には自信あるからね、私」
どうにも不安を拭いきれないが……とはいえ、俺にはこれといって現状をどうにかする策が思い浮かばないこともたしかだ。
なら、ここはひとつ水嶋のハッタリに任せてみるしかないか……。
「……わかった。じゃあ、今日のお前はあくまで『メイドのシノンさん』。俺はただの一人の客だ。いいな?」
「了~解。なら、小難しい話はこれで一旦終わりね」
水嶋はパン、と両手を合わせて仕切り直すようにそう言うと。
「コホン! じゃあ、改めて──お帰りなさいませ、ご主人様」
次には潑溂とした笑みを浮かべて自己紹介をし始めた。
「私、新人メイドの『シノン』って言います。よろしくね、ご主人様?」
「あ、ああ……よろしく」
おお、なんという変わり身の早さ。この辺りはさすがだな。
「ご主人様は、もう注文は決まったのかな?」
「えっと、飲み物はさっきもう頼んだよ」
「そうなんだ? でも今日はせっかくの『メイドデー』だし、何か他にも注文してくれたら嬉しいな。例えばほら、今日はこういう特別メニューが……」
そう言って、水嶋が脇に挟んでいたバインダーを取り出そうとした時だった。
「お、お待たせいたしました、ご主人様っ!」
それに割り込むような形で、トレーを持った江奈ちゃんが水嶋の横合いから現れた。
「こちら、ご注文のアイスカフェオレです」
「え? あ、ああ、ありがとうございます」
「いえいえ。それで、他に何かご注文はございますか?」
テーブルにドリンクを置いた江奈ちゃんはそのまま立ち去るかと思いきや、すかさず小脇に抱えた小さなメニューブックを俺に差し出してくる。
「ほ、他の注文?」
「はい。もし悩まれているのでしたら、私が本日のおススメをご紹介させていただきます」
「あ~、えっと……」
心なしか「私が」の部分を強調して、江奈ちゃんがそう提案してくる。
その背後で俺たちを見下ろす水嶋は、話を遮られたのが不満だったのか、ジトッとした目をこちらに向けていた。
いや、そんな「私が先に勧めてたのに」みたいな視線を向けられましても……。
「……コホンッ! ええっと、エレナさんだっけ? 忙しいでしょうし、こちらのご主人様の対応は私がするので大丈夫ですよ?」
不満げな顔から一転して営業スマイルを浮かべた水嶋が、あくまでもやんわりとした口調で江奈ちゃんを引き留める。
「あ……えっと、シノンさん、ですよね? お気遣いいただきありがとうございます。でも、今はちょうど手も空いていますので、大丈夫です」
対する江奈ちゃんも、あくまでも穏やかな態度で水嶋の申し出を断った。
ニコニコとした笑顔で見つめ合いながら、しばしの沈黙を保つ「エレナ」と「シノン」。
本来であれば、メイドさんたちがお互いを気遣い合う微笑ましい場面なのだろうけれど……なんだか空気がピリついているように感じるのは、俺の気のせいだろうか?
「いやいや。エレナさんは一仕事終えて疲れているだろうし、ここは私が」
「いえいえ。そんなご心配に及ぶほど疲れてはいませんので、ここは私が」
「いやいやいや」
「いえいえいえ」
お、お~い? なんでちょっと張り合ってるの、お二人さん?
もうどちらでも構わないんで、さくっと分担していただけませんでしょうかね……?
いよいよ押し問答を始めてしまったメイドさんたちを、俺がハラハラとした心持ちで眺めていると。
「おぅい、そこの金髪のねぇちゃん。注文いいかい?」
二人の静かな戦いは、別の卓に座っていた常連客らしきおじさんの一声で幕切れとなった。
ご指名を受けてしまった水嶋は、一瞬あからさまに眉を顰める。
それからチラリと俺と江奈ちゃんを交互に見やると、ため息交じりに苦笑した。
「……呼ばれちゃった。じゃあエレナさん、ひとまずこっちはお願いします」
「は、はい。お任せください」
江奈ちゃんが頷くと、水嶋は渋々といった感じで引き下がっていった。
ふぅ……よかった。とりあえずこの場は収まったみたいだな。
ほっと胸を撫で下ろし、俺は改めて江奈ちゃんに向き直った。
「えっと、じゃあメニューの紹介っていうのをお願いします」
「はい。かしこまりました」
やけに声を弾ませながら頷くと、江奈ちゃんは俺に差し出していた小さなメニューブックを開いて見せてきた。
「本日、当店では一部メニューが『メイドデー』限定仕様となっております。こちらに書かれているメニューをご注文いただくと、メイドさんの特別な『ご奉仕』が付いてきます」
「と、特別なご奉仕?」
それはなんというか……ちょっといかがわしい響きだな。メイド喫茶は初めてだからよくわからないけど、さすがにそこまで不健全なサービスとかはないよな?
今はカップルや子供連れの客も意外と多いって聞くぐらいだし、大丈夫だよな?
「はい。具体的には、一緒に記念撮影をしたり、にらめっこのような簡単なゲームをしたりといったものですね」
「ああ、そういう……んじゃあ、せっかくだしその『ご奉仕』付きのメニューにします」
良かった。ちょっと照れ臭いけど、それぐらいならビギナーの俺でもできそうだな。
なんて、俺は内心で安堵のため息を吐いていたのだが。
「あの……ちなみに、なのですが。私のおススメの『ご奉仕』は……こ、こちら、ですっ」
それまでは理路整然とメニューの紹介をしていた江奈ちゃんが、不意にもじもじと身じろぎしながら、とあるメニューを指差す。
「え~っと、なになに? 『ドキドキ♡あ~んタイム』……〈注文した料理をメイドさんに食べさせてもらえます♪〉……って、ええ!?」
思わずメニューから顔を上げると、自分で勧めておきながら、江奈ちゃんは頰を真っ赤に染めて顔を背けていた。
写真撮影とかゲームとか、他にも比較的無難なものはたくさんあるのに……よ、よりによってコレ!? 一体どういうつもりでこのメニューを推したんだ、江奈ちゃん!?
困惑する俺に追い打ちをかけるように、江奈ちゃんはチラリと(アイマスク越しだけど)こちらを見ながら訊いてくる。
「どう、しますか──ご主人様?」
えぇ~……ど、どうしましょう?
口元に手をあてがって気恥ずかしそうに俯きつつも、チラチラと俺の様子を窺う江奈ちゃん。
そんな彼女を前にして、俺は唐突に叩きつけられた難問に頭を悩ませていた。
正直、記念撮影やにらめっことかよりも遥かに難易度が高いぞ、それは。
いわんや、その相手が江奈ちゃんであるなら尚更だ。今日はあくまでも一人の客に徹すると決めたとはいえ、一応は元カノである女の子に「あ~ん」をしてもらうなんて、色々な意味で気まず過ぎる。
というかそもそも、江奈ちゃんだって仕事とはいえフった元カレにそんなことするなんて、嫌なはずじゃないのか? なのに、なんでわざわざ……。
「ご主人様? お決まりに、なりましたか?」
「へっ!? う、う~ん、そうだなぁ……」
いや、落ち着け俺。落ち着くんだ。
江奈ちゃんがどういうつもりで「あ~ん」を推してくるのかは全くわからない。
けれど、これはあくまで「江奈ちゃんのおススメである」というだけ。俺が必ずしもそれを選ばなくちゃいけない理由はないはずだ。
(ならば、ここは他の無難なものを選択してやり過ごすのが得策!)
江奈ちゃんからの提案を蹴ることに若干の罪悪感を覚えながらも、だから、俺はメニューの一番上にあった、「メイドさんとチェキ撮影」という項目を指差した。
「じゃあ、これで」
「え……」
葛藤の末に導き出した俺の注文に、けれど江奈ちゃんはどこか残念そうに眉根を寄せる。
そんな彼女の態度を怪訝に思うのも束の間。
「……切れです」
「え?」
「売り切れです」
「売り切れ!? 写真撮影なのに!?」
次の瞬間には、なぜか微妙にムスッとした表情を浮かべる江奈ちゃんに、きっぱりとそう言われてしまった。
な、なんだ? 何か気に障ることでも言っちゃったのかな、俺?
ワケが分からないまま、俺は仕方なく一つ下のメニューに指をずらした。
「……じゃあ、この『メイドさんとあっちむいてホイ』で」
「準備中です」
「何の準備!? ……な、ならこっちの『ケチャップでお絵描き』は?」
「冬季限定です」
「えぇ……?」
しかし、どういうわけだか俺が選んだ「ご奉仕」は悉く江奈ちゃんにお断りされてしまい。
結局、残ったのは最初に勧められた「ドキドキ♡あ~んタイム」のみとなっていた。
どうやら、俺には最初から選択権など存在しなかったようだ。
「……じゃあ、この『ドキドキ♡あ~んタイム』で。料理は『よこすか海軍カレー』にシマス」
「海軍カレーに『ドキドキ♡あ~んタイム』のセット、ですね? 承りました、ご主人様。それでは少々お待ちくださいませ」
とうとう観念した俺がオーダーすると、打って変わって上機嫌な様子の江奈ちゃんは、足取りも軽くマスターの元へと向かっていった。
「はぁ~……メイド喫茶って、メイドさんに癒してもらうお店、のはずだよなぁ?」
まだようやく注文を済ませただけだというのに、なんだかどっと疲れが押し寄せてきて、俺は脱力気味にソファー席の背もたれに体を預ける。
それからふと店の一角に目をやれば、ちょうど他のお客さんの注文を受けている最中らしい水嶋が、わかりやすくむくれた顔で俺を睨んでいた。
だからそんな目をされても困るっての……。
ボーン、ボーン──。
店内の壁に掛けられた古めかしい振り子時計が鐘の音を鳴らす。
時計の針を見れば、時刻はちょうど十八時。ぼちぼち夕食時ということもあってか、静かだった「オリビエ」も段々とお客さんで賑わっていた。
雰囲気こそレトロな純喫茶だが、この店はマスターがバリスタであると同時にウイスキーのソムリエでもあるとかで、夜になると酒類も提供しているらしい。
店内BGMも、いつの間にか落ち着いたクラシックから軽快なアイリッシュに変わっている。
レンガをベースとした古風な内装も相まって、さながらRPGとかでお馴染みの「冒険者の酒場」みたいな雰囲気だ。加えて今日はスタッフがメイドさんだし、余計にそれっぽい。
「お待たせいたしました、ご主人様」
賑やかな店内を何とはなしに眺めていたところで、江奈ちゃんが料理の載ったトレーを持ってやってきた。
「こちら、ご注文の『よこすか海軍カレー』です」
「お~、美味そう!」
テーブルに出されたのは、これぞ昔ながらといった風情のカレーライスだ。
ツヤのある白米にたっぷりとかかったルーには、少し大きめにカットされた人参、玉ねぎ、ジャガイモ、鶏肉がゴロッと沈んでいる。漂ってくるスパイスの香りが、ダイレクトに食欲を刺激してきた。
「それと、こちらが付け合わせのサラダと、牛乳です」
続いて卓に並べられたのは、透明な小鉢に入ったミニサラダと、コップ一杯の牛乳だった。
そうそう。「よこすか海軍カレー」と言ったら、やっぱりこの三点セットだよな。
なぜなら、サラダと牛乳がセットになっていることで初めて、「よこすか海軍カレー」は「よこすか海軍カレー」を名乗ることができるからだ。
明治時代に旧日本海軍が発行したレシピにも、ちゃんとカレーとサラダと牛乳を一緒に提供することが「よこすか海軍カレー」の定義だと記されていたりするのだ。
などと内心でウンチクを語りながら、俺は卓上のスプーンに手を伸ばす。
「さて、じゃあさっそくいただき……」
俺が伸ばしたその手首を、けれど傍らにいた江奈ちゃんが華奢な手でギュッと摑んできた。
「お待ちください、ご主人様」
「へ? な、なに?」
「いえ、その……お料理は、私が……」
「あ……」
そ、そうだった。いま俺の目の前にあるのは、ただの「よこすか海軍カレー」じゃない。
サラダと牛乳に加えて、「メイドさんによる『あ~ん』」のセットがくっついた、いわば「よこすか海軍メイドカレー」なのだ。
「えっ、と……じ、じゃあ、お願い、します?」
「は、はいっ。わ、私……私、精一杯ご主人様にご奉仕させていただきましゅっ」
あからさまに緊張した様子でそう言うと、江奈ちゃんはおもむろに俺の左隣に腰かけてきた。
可愛らしいメイド服姿の江奈ちゃんが至近距離に迫ってきて、さすがに俺もちょっとドキドキしてしまう。
あくまでメイド喫茶のサービスの一環に過ぎないとはいえ、だ。
俺、今から江奈ちゃんに「あ~ん」してもらうのか……やばい、なんかちょっとマジで緊張してきた!
だって、まだ付き合っていた時でさえ、江奈ちゃんにこんなことをしてもらったことなんてなかったんだぞ? ファースト「あ~ん」なんだぞ!? ファースト「あ~ん」!
空腹とはまた違った理由で、俺はゴクリと唾を飲み込む。
その隣では、いよいよスプーンでカレーを掬った江奈ちゃんが、空いた方の手を受け皿代わりに添えてこちらに向き直った。
「で、では、失礼します……あ、あ~ん♪」
ぎこちない江奈ちゃんの掛け声に、俺もゆっくりと口を開けてそれを迎え入れようとして。
「……えっ?」
「……あっ?」
けれど、江奈ちゃんが運んでいたカレーが俺の口に入るよりも早く、彼女の持っていたスプーンが横から何者かに奪われてしまった。
「こらこら、エレナさん。メイドがそんなに恥ずかしがってたんじゃ、ご主人様だって緊張して、料理の味なんかわからなくなっちゃうでしょ?」
果たして、呆気にとられた俺たちが振り向いた先にいたのは、水嶋だった。
「し、シノンさん!?」
「どーも。他のご主人様のお世話も一段落したんで、ちょっと様子を見に来ました~」
スプーン片手にヒラヒラと手を振った水嶋は、「でも」と言ってわざとらしく肩を竦める。
「なんだかあんまりにもじれったかったから、ね。悪いとは思ったんだけど、つい手を出しちゃった」
言うが早いか、水嶋はするりと俺の右隣の席に座り込んできた。
「は~い、ちょっとお邪魔しますね~」
「し、シノンさん? 何を……?」
「ん? 何って、『ドキドキ♡あ~んタイム』ですよ、エレナさん。そこまで照れ臭いんなら、代わりに私がやってあげようかな~って」
「え? い、いえ、でも……」
「別に問題ないですよね? 『あ~ん』をするのは料理を運んできたメイドさんじゃなきゃダメ、っていうルールは無いですもんね?」
「それは……で、でもっ。私が注文を受けた以上は、最後まで私が責任をもって『ご奉仕』をするべきではないかと……!」
俺を間に挟んだ状態で、またぞろ水嶋と江奈ちゃんが言い争いを始めてしまう。
なんだかとても口を挟めるような空気ではなく、俺はただただハラハラしながら二人の舌戦を眺めることしかできずにいた。
(おいおい……またややこしいことになってきたぞ?)
つーか水嶋の奴、いくら変装しているからって、さっきから不用意に江奈ちゃんと接しすぎじゃないか?
幸い、江奈ちゃんはまだ「シノン」の正体が水嶋だということには気づいていないっぽいけど……これじゃいつバレてしまうか、わかったもんじゃない。
(何か、何か手を打たなければ……!)
どうにか二人を引き離そうと、俺は必死にこの場を収める第三の道を提案してみる。
「あ、あのさ? 正直、絶対に『あ~ん』をしてもらいたいわけでもないからさ? ここはもう俺が自分で食べるってことでひとつ……」
「「ご主人様は黙ってて」ください」
「ア、ハイ」
ダメだ。二重奏で一蹴されてしまった。
どうやらこの店では、ご主人様よりもメイドさんたちのヒエラルキーの方が上らしい。
「さぁ、口を開けて。私のご主人様?」
「……いや、あのさ」
そうこうしている内に、話し合いでは埒が明かないと判断したのか、とうとう水嶋が実力行使に打って出る。
ついさっき江奈ちゃんから奪ったスプーンを、じりじりと俺の口元に近付けてきた。
「あ、それとも……ご主人様は料理より、メイドとのイチャイチャをご所望ですか? そういうことなら、たっぷりとして差し上げますよ? ──ご、ほ、う、し♪」
「だから、そういう問題じゃなくて……」
「ご、ご奉仕なら、私がしてあげますっ」
一方の江奈ちゃんも、水嶋に出遅れまいと俺の左腕に抱き着き、そのままぐいぐいと引っ張ってくる。
「ご、ご主人様のお世話は、私の仕事です、ので……!」
「ちょ、ちょっと、里……いや、エレナさん!? 何をっ」
「は、はい、エレナです! 私は『サトモリ』などではなく、エレナです!」
あーもう! どうやって収拾つければいいんだコレ!
美味しそうなカレーを目の前にしながらおあずけを喰らった状態で、俺はただただ嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶしかなかった。