終章 令嬢、皆と一緒に走って行く



 医務室に強制移動させられたテレーゼはその後、こんこんと眠った。

「テレーゼ様、失礼します」

「……んー……このバスタブは、純金製なのぉ……」

「左様でございますか。それはいいとして、そろそろお目覚めになってはどうでしょうか」

「んぅ?」

 寝起きだから、変な声を上げてしまった。

 聞いたことのない男性の声を耳にし、純金製のバスタブを一生懸命磨く夢を見ていたテレーゼは緩やかにかくせいした。

(……あら?)

 顔を横に向けると、窓の外がほんのり薄暗いことに気付く。

「……朝? メイベル、メイベルはどこ……?」

「侍女殿は別室にいらっしゃいます。そして今は夕方ですよ」

「夕方……?」

 毎朝起こしてくれるはずのメイベルを求めてベッドの上をいずり回っていたテレーゼは、男性の声に今度こそはっきり目を覚ました。そして驚きのあまりバランスを崩し、しりから派手に転げ落ちる。尾てい骨が痛かった。

「ゆ、夕方!? どうしよう、今日のお仕事……!」

「大丈夫ですよ。女官長様からも、しばらくの間はゆっくり体を休めるよう指示が出ております」

 床に転がったまま嘆くテレーゼを優しく説き伏せたのは、白衣をまとった高齢の男性。胸のバッジから、城仕えの医師であることが分かった。

 彼はテレーゼを支えてベッドに座らせると、テレーゼと視線を合わせるようにしゃがんだ。

「お休み中に診断しましたが、軽い疲労ですね。昨晩から半日以上眠られていたので、ここ最近仕事などで気を張られていたのではないでしょうか」

「そ、そうかもしれません……あっ」

 ンゴゴゴゴゴ……と、どこからともなく地響きのような音が鳴り、テレーゼは閉口する。

「……どこかで地鳴りがしているようですね」

「この老いぼれの耳が正しければ、あなたの腹部から聞こえたかと」

「お、おっしゃるとおりです。あの、お腹がいたので何か食べるものと……あと、お手洗いにも行っていいでしょうか」

「もちろんです。介助が必要な場合は部下にさせます。……いろいろ事情はあるようですが、まずは心身の健康を整えなければなりませんな」

 その後、テレーゼは女性助手たちの手を借りながら身だしなみを整え、軽食もった。半日以上何も食べていなかったからか、食事を前にすると先ほどの比ではないくらい盛大に腹が鳴り、「これは過去最高レベルかもしれません……」と助手の一人につぶやかれた。

 医務室の食事は基本的に薄味で肉より野菜が多いが、過去十八年間もやしのフルコースに舌鼓を打っていたテレーゼにとっては十分なごそうだった。大公妃候補、女官見習とおいしい食事にありつける日々を送ってきてはいるものの、リィナと同様に、テレーゼの舌は庶民の味を懐かしんでいるようである。

(……ああ、そうだ)

「あの……昨夜の式典はどうなったのですか?」

 食後のお茶で体をほかほか温めながら問うと、食器を片づけていた助手の一人が顔を上げた。

「婚約記念式典ですか? おおむね成功で、お客様方からもありがたいお言葉をたくさんいただけたとしか伺っておりませんが……」

「そうなのですね。ありがとうございます」

 さすがに医務室担当の助手にまでは会がどうなったのか、子細までは伝わっていないだろう。だが、無事に終えられたのならば一安心だ。

 その後、腹ごなしをして気持ちも落ち着いた頃、医務室に両親がやってきた。

「テレーゼ! あなたがフィリット子爵家の問題に巻き込まれたと聞いて、わたくしたちは肝を冷やしていたのですよ!」

 開口一番、母が険しい顔で声を上げる。昨日のようなごうしやな服から一転、地味なドレス姿の母はその年にしては若く見える顔を怒りに染めてテレーゼを叱り飛ばした。

「半年前のように否応なしに巻き込まれたならばともかく……あなたはお友だちに、様子を見るだけだと言っていたのですよね?」

「は、はい」

「それなのに、子爵とコーデリア様の間に割って入ったそうですね?」

「そ、そうです。でも、無事でした」

「何を言っているのですか!? あなたがリィナ様の姉だということに途中で気付かれたから、あなたが大怪我をせずに済んだのですが……偶然を必然のように言うのではありません!」

「申し訳ありません。以後気を付けます」

 母の言うとおり、コーデリアを助けたいという思いで飛び出したはいいものの、場合によってはテレーゼまで一緒くたにふくろだたきにされていた可能性だって十分にあった。

 古いことわざに「獣、捕らわれし仲間を救わんとして人に食わる」というものがある。仲間を助けようとしたら自分も同じような目に遭ってしまった、という意味だが、まさにテレーゼが陥るかもしれなかった状況である。

 テレーゼがずーんとうなれていると、妻と娘のやり取りを黙って見ていた父がおもむろに口を開いた。

「そこまでにしなさい。テレーゼも反省しているようだ」

「しかし、あなた──!」

「テレーゼももうすぐ十九歳になる。自分のことには自分で責任を取らなくてはならない年だろうし、それを覚悟の上で仕事を始めたはずだ。いつまでも口うるさく叱っていては、テレーゼのためにもならない」

「それは、そうですが……」

「しかしだね、テレーゼ。お母様の言うとおりなんだ」

 母をやんわりとなだめた父はテレーゼを見、ほんの少し悲しそうな顔になった。

「今回は偶然早く騎士団が駆けつけられたが、もしかすると怪我をしていたかもしれないし、他の家の問題にさらに深く関与していたかもしれない。……先輩を助けようとする勇気は、私たちの誇りだ。でも、テレーゼが危険なことをすると心配する者たちもいるのだと……それだけは分かっておいてくれ」

「……はい。軽率な行動をしてしまい、申し訳ありませんでした」

「分かってくれたのならいいのだよ。……なんだかんだ言ってお母様も、テレーゼが無茶をしたのは先輩を守るためだと聞いた時には『あの子らしい』『無茶だけど優しい子』と言っていたのだからね」

「あ、あなた! それは内緒にと!」

「おお、すまない。口が滑ってしまったようだ」

 おやおや、と芝居がかった仕草で自分の口元を覆う父と、顔を赤らめて夫の背中をたたく母。そんな両親の姿を見ていると、少しずつテレーゼの心も落ち着いてきた。

「……ふふ。あの、お父様、お母様。どうかこれからもご指導、よろしくお願いします」

「テレーゼ……?」

「お父様のおっしゃるようにわたくしはもういい年ですが……それでも、お父様とお母様から学ぶべきことはたくさんありますし、お二人のしつを必要とする時があると思います。どうかこれからも、お願いいたします」

 改まった気持ちでそう言って頭を下げると、とたん、父はうっとうめいて口元に手をあてがった。

「テレーゼが……ああ、こんなに立派なことを言うなんて……!」

「あなたったら、しゃきっとしてください!」

 母が気付けのつもりで父の背中をばしばし叩いているが、とうとう父は目頭を押さえてくすんと泣き始めた。

(……お父様、お母様。ご心配をお掛けしてごめんなさい)

 悲しいかな、十分に気を付けるつもりではあるが、これから先も両親を心配させ続ける自信だけはある。

 その時は、今日のようにテレーゼを叱咤し、背中を押してほしい。

 そうすればきっと、テレーゼはもっともっと前に進めるはずだから。


「本当にそなたは何をしでかすか分からんな」

「申し訳ありません」

「別に、私はそなたの父でも兄でもないのだから、説教をするつもりはない。だがな、テレーゼ・リトハルト。いろいろと、もう少し落ち着け」

「返す言葉もございません!」

 がばっとその場にひれ伏すテレーゼと、あきれ顔で向かいのソファに座る大公。

 昼頃、大公とリィナが公務の合間を縫ってテレーゼに会いに来てくれた。そして一番に「落ち着け」と厳しいお言葉をいただいたのだが、まったくもってそのとおりだと自覚している。

 大公の隣に座るリィナは婚約者と姉のやり取りをはらはらしながら見守っていたが、一段落ついたところでお付きの官僚──見た目の年齢からしておそらく、リィナの元上司だ──から書類を受け取った。

「わたくしはお姉様の性格をある程度把握しておりますので、わたくしから申し上げることは──少なくとも、怪我だけはなさらないように、というくらいです。……それでは改めまして。昨夜の件について、先ほどの会議で話がまとまりましたので、ご報告をさせてください」

「リィナ──様がしてくださるなんて、恐れ多いです!」

「これも公務練習の一環だそうなので、お気になさらず。ではまず、フィリット子爵ならびにコーデリア・フィリットに関してですが……」

 そうして改まった表情のリィナが説明してくれたことによると。

 昨夜、テレーゼがベルエト将軍の娘を助けたことで、親ばかな将軍は大声でテレーゼのことを褒めちぎったそうだ。その話し声は、将軍や大公とは離れた場所に座っていたリィナや、彼女の側にいたコーデリアのもとにまで届くほどだったという。将軍の爆音、すさまじい。

 リィナの近くにいた者は「さすがリィナ様の姉君」「姉君の機転はすばらしいですね」と、本心なのかごまを擦るためなのかは分からないが、テレーゼを褒めたという。

 そうしているうちにコーデリアが貴婦人に意見を求められたそうだが、彼女はあろうことか「しよせん貧乏侯爵家の娘ですけれどね」と口を滑らせてしまったそうだ。

(……ああ、そんなことが)

 話を聞いたテレーゼは、額に手をあてがった。

 父親から圧力を掛けられていたコーデリアは、女官の中でもっともリィナに近しいテレーゼを嫌っていた。そんなテレーゼが褒めちぎられたことで怒りや焦りの感情が湧き──リトハルト家がリィナの養子先であることを失念し、「貧乏侯爵家」となじってしまったのだろう。

 コーデリアがとんでもない失言をかましてしまったため、一瞬その場は凍り付いた。だがすぐにリィナが「貧しいけれど、とてもお優しい方ばかりなのです」とフォローに回ってくれたので貴婦人たちも納得してくれたという。

「コーデリア本人も自分の失言に気付いていたようなので、いったんその場から下がらせました。……しかし、会場で騒ぎを聞いていたらしいフィリット子爵が廊下に出たコーデリアを捕まえ、人目のない場所で叱りつけていたということです」

「……そこに私が入っていったのですね」

「はい。……取り調べの結果、子爵による実の娘への虐待が認められました。またほぼ同時に子爵夫妻が違法海外輸出業者と手を組んでいたことも明らかになり、子爵の爵位はくだつ、弟君への子爵位譲渡が命ぜられました」

「剝奪……えっ、それじゃあコーデリア様は──」

 テレーゼが少し身を乗り出すと、リィナは書類をひっくり返し、ある一点を指差す。そこには、「コーデリア・フィリットの処遇」という見出しがあった。

「……お父上である子爵が爵位剝奪処分ですので、コーデリアも本来ならばフィリットの家名を失い貴族界から離れることになります。コーデリアには……わたくしの養子先である、リトハルト侯爵家を侮辱する発言をしたとががあります」

「私はコーデリア・フィリットを厳罰処分するよう提案したのだが、当の本人であるリィナが減罰を申し出てきてな」

 そう言う大公のけんにはしわが刻まれている。彼からすれば、愛する婚約者やその養子先をとうされて快いはずがないだろう。

 コーデリアを罰したい。だが、リィナ本人が減罰を申し出ている。また、諸悪の根元はフィリット子爵であり、コーデリアも被害者である──いろいろなことを考慮した結果、コーデリアへの罰は大幅な減給措置といったんの身分剝奪ということになった。

「いったん、ですか?」

「今度フィリット子爵に就任する彼女の叔父が、コーデリア嬢や彼女の腹違いのきょうだいたちを養子に迎える旨を提案されています。案が通ったならば、一度父親と共に身分剝奪処分を受けたコーデリアは叔父である次期子爵の養女となり、子爵家の縁者として復帰することになるでしょう」

 リィナの言葉に、なるほど、とテレーゼはあごに手をあてがって考え込む。

(……確かに、コーデリア様は被害者だものね)

 テレーゼにだけ特化して厳しかったが、女官としての姿勢は尊敬するべきものがあった。昨夜の式典でおこなったドレスのシミ抜きだって、以前コーデリアがリィナのために花を摘んだことを真似して、仕事用のウエストポーチにいろいろなものを入れるようにしてみたからできたことなのだ。

 コーデリアがテレーゼに厳しい理由も分かった。だからといって理不尽にテレーゼばかり攻撃したのは褒められることではないだろうが、子爵が暴力と脅迫でコーデリアを教育していなければよかった話だ。

 リィナが事務的説明を終えたところで、「それにしても」と大公は長い脚を組み、ひじ置きにほおづえをついてため息をついた。

「そなたは、貴族の令嬢でありながら身分にこだわらない人間だ。だが──今回は、そなたになまじ身分があることが勝機につながったようだな」

「レオン様……」

 さっと顔色を変えたリィナを片手でやんわりと制し、大公は同じように体中を緊張させたテレーゼを澄んだブルーの目で見据えてきた。

「そなたにとっては心苦しいことかもしれん。だが、そなたが『大公妃の姉君』であるのは真実であり、身分を盾に生きることも必要になる。その点では、そなたの行動は非常に有効だったし、『仲間想いの勇敢な令嬢』ということでいくらでもそなたにとって有利な展開にできる。そなたがどこまで考えていたかは分からないが、よい判断だったと思っている」

 テレーゼがリィナの姉だから、いずれ大公の縁者となる者だから、子爵を制圧することができた。そうでなければテレーゼ自身も思っていたように、コーデリアを助けるどころかテレーゼまでぼこぼこにやられていたかもしれないし、言いがかりをつけられていたかもしれない。

 己の身分を武器にする。

 それはテレーゼにとってはあまりうれしいことではないのだが、これからリィナの姉として生きていくのならば、覚悟しなければならないことなのだ。

(「大公妃の姉君」と言われたくないと思っていた私が身分を盾にするなんて、おかしな話だわ。でも……)

「……ありがとうございます、閣下。でも、わたくしはここで止まりたくありません」

「……ということは?」

 大公が問うてくる。先ほどまでは少しだけまなじりり上がっていた目は三日月のように細められており、どこかおもしろがるようにテレーゼの反応を待っているように思われた。

 テレーゼは少しあごを引き、なにやら楽しそうな大公と心配そうな顔のリィナを真っ直ぐ見つめた。

「わたくしは、次期大公妃を妹に持つこと、そして貧しいながら愛情に満ちた家族や真面目な領民たちと共に生きるリトハルト家の人間であることに、誇りを持っております。……だからこそ、わたくしは自衛のためだけに自分の身分を使いたくないのです」

 大公妃候補時代から歯がゆく思っていた、この国に根付く身分差。間違っていることを間違っていると指摘できない、心苦しさ。どんな状況だろうと、下の者は上の者に逆らえないという理不尽。

 自分ごときには、何もできないと思っていた。

(でも、そうじゃなかったわ)

 クラリスは「正しいと思うことを胸を張って正しいと言えるようになれ」と言っていた。

 身分だけに頼り、守られながら生きなくてもいいようになりたい。この国の理不尽を一つでも減らし、皆が心地よいと思えるような国になってほしい。

 大公は数度瞬きすると、ふっと小さく笑った。

「……我が未来の姉君は、私よりずっと、この国の未来をよく考えているようだな」

「そ、そうですか?」

「私はリィナを婚約者に迎えて初めて、一般市民たちに目を向けるようになった。情けないことだ。これでもしリィナが一般市民ではなく貴族だったら、私は一生国民たちの気持ちに寄り添おうとすることはなかっただろうし、そなたの言葉にも耳を貸さなかったかもしれない」

「そんなことはないでしょう。閣下はとても敏腕で素敵な方だって、我が領民たちも知っておりますもの!」

「それはありがたいことだな。……だが、アクラウド公国の未来を考えるなら──私もそなたたちと一緒に、この国のあらゆる点に目を向けなければなるまいな」

 そう言うと大公は立ち上がり、胸にこぶしを当てる礼をした。

 高貴な者としてではなく、軍人──アクラウド国の一人の男としてのお辞儀だった。

「テレーゼ・リトハルト。そなたが今後、我が国を支える柱の一つとなることを願っている」

「そ、そこまでたいそうなことはできません!」

「何を言うか。私はこれでも人を見る目はある方だ。……国民のため、そして愛するリィナのためにも、そなたの力を借りたい」

 いきなりスケールの大きな話を持ってこられてぜんとしていたテレーゼだが、「リィナのため」と言われて急にやる気が湧いてきた。

 我ながら単純だと思うが、家族のため、となると話は別だ。

 テレーゼも立ち上がり、ドレスのすそつまんでしとやかに礼をした。

「……ありがたきお言葉です。こちらこそよろしくお願いいたします、大公閣下」


*  *  *


 テレーゼは昨日から自室に戻っていた。すぐに仕事に復帰してもよかったのだが、「いろいろあったしゆっくり休みなさい」と女官長に言われたため、仕事に戻るのは明後日からにしていたのだ。

「テレーゼ様、コーデリア・フィリット様がお越しです」

「え?」

 メイベルの告げた名を耳にして、部屋でくつろいでいたテレーゼは目を丸くした。

「……今日は夕方にリズベスたちが来てくれるってのは聞いていたけれど、コーデリア様も?」

「はい。……いかがいたしますか?」

「通してちょうだい。お仕事の話かもしれないし」

 部屋着の上にカーディガンを羽織ったテレーゼは、コーデリアを迎え入れた──のだが。

「……えっと、コーデリア様ですよね?」

「違います」

 おずおずと尋ねたら、否定された。そんな馬鹿な。

 メイベルに案内されてやって来たのは、テレーゼの目が間違いなければコーデリアである。だがあの特徴的な長いブルネットの髪はどこに行ってしまったのか、ばっさり切り落とされており、短くなった髪が肩先で揺れているだけだった。

 しかも、服装が女官の装いではない。あの美しい赤チョーカーも外されていて、なんだか別人みたいだ。

(……あれ? 今「違います」って言われたってことは、別人なの?)

 もしかしてポニーテールが彼女の本体で、ここにいるのは元コーデリアの抜け殻なのか。それともここにいるのはコーデリアの皮をかぶった別の人間なのだろうか。なんと恐ろしいことだろう。

「……何か失礼なことを考えていませんか?」

「い、いえっ! その、お体は大丈夫ですか? 怪我をされていたと思うのですが……」

「まだ少し痛みはありますが、立てないほどではありません」

「それはよかったです。あの……いつもとご様子が違うようですが」

「……もう、わたくしに敬語を使う必要はありません、テレーゼ様」

 どこか覇気のない声で言ったコーデリアは立ち上がると、お辞儀をした。

「改めまして……コーデリア・マギーでございます」

「まぎー?」

「母方の姓でございます。わたくしは昨日の夜、フィリット子爵家から除名し、平民となりました。もちろん、女官職も退職しております」

 謎の姓に首を傾げていたテレーゼは、事態を察して目を見開く。

(除名? 平民……えっ? でも、確かコーデリア様は──)

「……叔父様の養女になられるのではなかったのですか?」

「叔父様はそのように提案してくださいましたが、お断りしました。……リィナ様をろうしたわたくしを子爵家に置いておくと、よいことにはなりません。よってわたくしはわたくしの意志で子爵家から離れ、一人の平民として城を離れることにしたのです」

「平民……として?」

 よどみなくしゃべるコーデリアに対し、テレーゼの理解はワンテンポ遅れてしまう。以前のコーデリアなら「愚図」とののしっただろうが、今の彼女は顔色一つ変えることなくうなずいた。

「女官は貴族でなければ務まらないので、子爵家の娘でなくなったわたくしは女官を続けることができません。よって公城を離れ、ただのコーデリアとして生きていくことにしました」

「でも……それって、コーデリア様にとっては苦痛でしょう。私ならぞうきん絞りも掃除も芋のかわきもどんとこいですが……」

「それはそれでどうかと思いますが……しかし、これはわたくしが自身に科すべき罰です。敬愛すべきリィナ様の名誉を踏みにじったこと、己の保身に走るあまり周りの者たちに優しくできなかったこと、そして……あなたに醜いしつ心を抱いたこと」

 そこで、コーデリアは微笑んだ。これまでの挑戦的な笑みとはまったく違う、今にもぼろぼろと崩れてしまいそうなほどはかなく繊細な笑顔。

 それは、父親の圧力から身を守るべく被っていた仮面ががれた瞬間のように、テレーゼには感じられた。

「わたくしは父に何か言われる前から、リィナ様を尊敬しておりました。半分貴族のわたくしはひねくれゆがんでいるのに、平民出身と指差されようとりんとしていて前を向いてらっしゃるリィナ様は、わたくしのあこがれでした。本来ならば、リィナ様の姉であるあなたのことも敬い、それでいて立派な女官になれるよう先輩として指導しなければならなかった。それなのに──わたくしがあなたに与えたのは『理不尽』ばかりでしたね」

「そんなことはありません! あの、この前の式典で私、困っているお嬢様を助けたんですが、それはコーデリア様が以前リィナにしていたのを参考にしたからできたことなんです!」

 このままコーデリアを放っておけば、初冬の風に乗って消えてしまうかもしれない──そんな風に思われ、テレーゼは少々口調が崩れるのを覚悟しながら早口で言いつのった。

「そりゃあ確かにちょっとつらいな、とかおかしいな、と思うことはありました。でも、私は成長できたんです!」

「……あなたは本当に、恐ろしいくらい素直で底抜けにいい人なのですね。シャノン様のおっしゃっていたとおりです」

 かつては「シャノン」と呼んでいた同期に敬語を使うのを見ていると、のどを絞められたかのように呼吸が苦しくなる。

 これが、コーデリアが自分に科した罰。

 彼女が望んで受けた報いなのだ。

「テレーゼ様、あなたは女官見習の誰よりも正義感が強く、明るい方でした。わたくしがこのように捻くれ歪んでいなければ──あなたを後輩としてかわいがることができたかもしれません。でも、散々理不尽にあなたをいじめ、目の敵にしてきたわたくしが今さらそんなことを申し上げても、何の意味もありませんね」

「あの、コーデリア──」

 様、と言いかけたテレーゼを片手で制し、コーデリアは立ち上がった。

「テレーゼ様。あの時、わたくしをかばってくれて……ありがとうございました。どうか、お元気で」

 かすれた声で言った後、コーデリアは深くお辞儀をした。

「目下の者」が「目上の者」に対して行う礼をしたコーデリアの後頭部に、自信たっぷりに左右に揺れるポニーテールの幻が見えた気がした。


*  *  *


 夕方になると、仕事を終えたリズベスたちがやってきた。どうやら女官長の許可を取ったらしく、同期七人が全員同じ時間に上がることができたそうだ。

「心配したんだから!」

「テレーゼったら、いつも危険なことばかりするし!」

「そうそう、コーデリア様が退職なさったそうなの!」

「この前の件が関係しているみたいだけど……先輩たちにも何も言わずにいなくなったらしくてね」

「そうそう! 今日担当した貴婦人からクッキーをいただいているの!」

「テレーゼも食べよう!」

 女が集まるとかしましい。だが、今はちょっとにぎやかなくらいがテレーゼはうれしかった。

 午前中にコーデリアが来てから、テレーゼは少々意気消沈していた。「テレーゼ様のせいではありません」とメイベルははっきり言っていたし、昼頃にリィナの名で届いた手紙には、「コーデリアの決意を寛容に受け止めてあげてほしい」と書いてあった。大公によれば、「コーデリアが自ら科した罰をテレーゼが受け入れることで、リィナの面子も保てる」らしい。リィナも手紙のシメに、「彼女のこれからに幸があることを願いましょう」と記していた。

 見習仲間たちとお茶をしながらしばしにぎやかに過ごした後、リズベス以外の六人は夕食に向かった。

(……ああ、そうだ。リズベスともちゃんと話をしていなかったわ)

「あの、リズベス」

「テレーゼ。無茶したそうね」

「あっ……はい」

「……まあ、それは私がとやかく言うことじゃないわね。……何にしても、無事で良かったわ、テレーゼ」

「……うん。あの、リズベスまで巻き込んでごめんなさい」

「あら、そんなこと言っていいの? 私が警備を呼びに行ったから助かったのでしょう?」

「まさに仰せのとおりでございます、リズベス様」

 ふふっと笑ったリズベスだが、ふと真面目な顔になってテレーゼを見つめてきた。

「……私ね、あなたのことが不思議でたまらないの」

「よく言われるわ」

「でしょうね。ひようひようとしていると思ったらずばっと核心を突いてくるし、話を聞いていなそうなのに誰よりも情報通だし、ちょっと風が吹けばぽっきり折れてしまいそうに見えるのに勇敢だし」

「……よく言われるわ」

「でしょうね。……私ね、そんなあなたのことが大好きだし、うらやましいの」

 突然の告白に、ひざを抱えて丸くなっていたテレーゼは目を見開く。

 人生で初めて告白してきた相手は、まさかの同性の親友だった。

「え……ええっ!?

「ほら、私はあなたみたいな勇気は持ってないし、機転も利かない。テレーゼはよく私のことを褒めてくれるけれど、私は命じられたことを命じられたように動くしかできないわ。……この前の式典で、あなたが異国のご令嬢のドレスのシミを取って差し上げた件もそうよ。もし私があなたの立場だったとしても、同じように動くことはできなかったと思うわ」

 リズベスはそこでいったん言葉を切って、「それに」と少し躊躇ためらいがちに続ける。

「わ、私の好きな人のことも……テレーゼたちに頼んだっきりで、私自身は何の行動も取れていない。それどころか、あなたがあの人と行動しているのを見ると、胸がモヤモヤしてきて──」

「……ん?」

 それまで黙って話を聞いていたテレーゼは、聞き捨てならぬ言葉を耳にして首を傾げる。

「……私が、誰と一緒に行動しているの?」

「あの……私が片思いしている人と。ごめんなさい、時々見ていたの」

「……。……まさかのジェイド!?

「話がこじれるような思いこみをしないでくれる!? ジェイド様じゃないわよ!」

「そ、そっか。よかった!」

 両者とも焦りのあまりよくも考えないまま発言し合っていたが、一息ついた後、リズベスは胸を張った。

「……テレーゼを見ていて、思ったの。私、このままウジウジしてみんなに頼ってばかりなのはだめだわ。だから!」

「おおっ!」

「私、これからあの方のところに行ってみるわ! 今日は夜勤じゃないはずだから、あの方も騎士団詰め所にいらっしゃるはず!」

「いよっ、待ってました! リズベス様!」

 下町の酒場にいる飲んだくれのような合いの手を入れるテレーゼだが、リズベスは自分のことで精一杯らしく何も突っ込まずにいてくれた。

「善は急げ、よ。今から騎士団詰め所に行くの!」

「それは素敵だわ! あの、私も行ったら……だめ?」

「……。……実は、それをお願いしたいと思っていたの。途中まででいいからついてきてほしいのだけれど……体調とか予定とかは大丈夫かしら」

「体調はばっちりだし、大丈夫よ!……メイベル、今からちょっと出かけるけれど、いいわよね?」

「夕食が少し遅れてもよろしいのでしたら。……あの、テレーゼ様」

 リズベスが「戦の前の腹ごしらえ」と言って冷めた茶を手酌で注いで飲んでいる間、メイベルにそでを引かれたテレーゼは続き部屋に向かう。

「何? あ、メイベルも一緒に来てもらっていい?」

「もちろんでございます。それはいいのですが……テレーゼ様、先ほどの『よかった』というご自分の発言は、まことでしょうか」

「えっ? いつの話?」

「……いえ、お気付きでないのならばよろしいです。ささ、外は冷えますので上着をお持ちしましょうね」

「え、ちょっと、何なの、メイベル! 気になるじゃないのー!」


 テレーゼたちは外出の準備を整え、騎士団詰め所に向かった。リズベスも自分の世話をしてくれる侍女を連れてきたので、四人で廊下を歩く。

 初冬ともなると夕方はかなり冷え、日が落ちるのも早くなっている。だが人通りの多い廊下や中庭はランタンが灯っているし、見張りの姿も多い。何度か巡回の騎士に呼び止められたが、名乗って事情を言うと「ではお気を付けて」と通してくれた。

「騎士団はあっちね」

「う、うん。……あの、ここまでで大丈夫よ。ここなら暖かいし、メイベルさんと一緒に待っていてくれるかしら」

 そう言ってリズベスが振り返った。確かに、ここは壁のある廊下だから風から身を守れるし、明るい。

(本当はいろいろな意味で、もうちょっとついていきたいわ。……でも、リズベスだって現場を見られていたら緊張するだろうからね)

 リズベスの片思いの君がどんな人なのか気になるが、無理を通すべきではないだろう。

「分かった。じゃあメイベルと一緒にここで待っているね」

「ええ。……あの、頑張ってくるわ!」

「うん、女は度胸!」

 笑顔を交わし合った後、リズベスは自分の侍女を連れて騎士団詰め所の方に向かっていった。やはり見ていてはらはらするが、侍女がランタンを持っているし周りには他の騎士の姿もある。きっと大丈夫だろう。

「リズベスの恋、うまくいくかなぁ」

「どうでしょうか」

「それよりさ、メイベル。リズベスは、私がリズベスの好きな人と行動を取っているみたいなことを言っていたわよね。私、全然心当たりがないんだけど」

「……左様ですか」

「あっ、もしかしてメイベル、知っている感じ?」

「それは……しかし、わたくしの口から言うのは、はばかられまして」

「……テレーゼ様?」

 メイベルとおしゃべりしていたテレーゼは、名を呼ばれて振り返る。見ると、騎士団詰め所の方から歩いてくる背の高い男性の姿が。辺りが夜の闇に包まれているからか、彼の髪は濃い茶色ではなく漆黒に染まって見えた。

「あら、ジェイド。こんばんは」

「こんばんは、テレーゼ様。気分はいかがですか?」

「……あ、うん、大丈夫よ! ジェイドも、あの時はありがとう。本当にジェイドにはいつも助けられてばかりだわ」

「とんでもないです。……ただ、あの時も申し上げましたが、あなたも御身を大切になさってくださいね。今回はあなたの先輩を守るためだったといっても、あなたが危険な目に遭っていると思うと……俺も、気が気でないのです」

 歩み寄ってきたジェイドがほんの少しまなじりり上げて言うので、テレーゼはしゅんっとこうべを垂れた。

「……う、うん。無茶はしません」

「頼みますよ。……それで、あなた方はここで何を?」

「……。……あ、そ、そういえばジェイド、今詰め所の方から来たわよね!? リズベスを見なかった?」

 顔を上げたテレーゼが問うと、ジェイドは目を瞬かせた後、今自分が来た道を振り返った。

「リズベス・ヘアウッド嬢ならそこで会いました。うちの騎士に用事があったとのことなので、呼んだところです」

「んんっ! そ、そうなのね!」

「テレーゼ様?……あ、彼らがこちらに来ました」

「あら?」

 見ると確かに、詰め所の方からこちらにやってくる人影が。一人はリズベス、一人は彼女の侍女。

 そしてもう一人は──

「……え、ええっ!?

「テレーゼ様、メイベル殿、こちらへ」

 ジェイドに手招きされ、テレーゼたちは慌てて物陰に隠れる。リズベスに「ここで待っていて」と言われていたのでちゃんと動かず待っていたのに、まさかあちらからやって来るとは。

(しかも、リズベスの好きな人って……)

「……ここなら明るいな。それで、用事って何?」

 やや高めの男性の声。なんとなくテレーゼは、リズベスがそわそわと辺りを見回しているような気がした。相手の男はともかく、リズベスはこの付近にテレーゼたちがいることを知っているのだから。

「……あの、それは」

「用事がないのなら、僕は帰るよ」

「あの、お待ちください!」

 じゃり、と地面を踏む音が止まった。相手の男が立ち去らずにその場にとどまってくれたことに気付き、テレーゼはいつの間にか止めていた息を大きく吐き出した。テレーゼの隣で同じように身を潜めるジェイドが、「落ち着いてください」とささやいてくる。

「わたくし……あなたにお伝えしたいことがございます」

「僕に? 仕事の依頼なら、事務係を通してからにしてよ」

「仕事ではなく……わ、わたくし、あなたのことが好きなのです!」

 リズベスの声がはっきり耳に届いたとたん、テレーゼは両手のこぶしを固め、目をくわっと見開いた。

(い、言ったわ! よくやったわ、リズベス!)

 何が「テレーゼみたいな勇気は持っていない」だ。自分の恋心をちゃんと相手に伝えられるなんて、勇敢な人でないとできないことだ。

 無言でびったんびったんもだえるテレーゼをなだめるように、ジェイドはポンポンと肩をたたいてくれる。だが彼もこの後の展開が気になるようで、分厚い壁越しにリズベスたちの方を見つめているようだ。

「……。……突然だね。僕たち、そんな親しい仲じゃないよね?」

「そ、それはもちろんです。でも、子どもの頃にパーティーでお会いした時から気になっていて……その後も、正騎士に叙される前から華々しい活躍をされていて、半年前にテレーゼがバルバ王国派にさらわれた時も、あなたが一番に救出に飛び出したと伺っていて──」

「正直あの時期のことは思い出したくない黒歴史なんだけど……まあ、いいや。リズベスさんだったかな。僕、恋愛をするために騎士団に入ったわけじゃないんだけど」

 淡々とした男の声に、ひゅうっと胸に風穴が空いたような気持ちになり、陸に打ち上げられた魚のように悶えていたテレーゼは動きを止める。

「そりゃあ、騎士に恋愛は不要とまでは言わない。でも、僕は正騎士になって間もないし、僕の記憶が正しければあなたは僕より年上だ」

「と、年上ではだめですか……?」

「だめじゃないけど……むしろ年上の方がいいけど……そうじゃなくて、僕は恋愛と仕事を両立させられるほど器用じゃないから。全然筋肉も付かないし」

「筋肉がなくっても、あなたは素敵です!」

「んっ……そ、そうか。でも、何にしてもちょっと考えさせてほしい。僕はあなたのことをよく知らない。だから、まずは互いのことをよく知り合うべきだと思うんだけど?」

「……そう、ですね。おっしゃるとおりです」

「うん、それじゃあそういうことで、今後もよろしく。……部屋まで送っていくよ」

「えっ……?

「べ、別にやましい気持ちはないから安心してよ。こんなところに女性を残していくわけにはいかないだろう。騎士として当然の行いだっ」

「ありがとうございます……あ、でも……」

 リズベスが困っている。きっと、ここにテレーゼを置き去りにしてしまうことを躊躇ためらっているのだろう。テレーゼたちがここに隠れていることは、相手の男に知られたくないはずだ。

(リズベス、あまりいい返事がもらえなかったのに……)

 テレーゼはくすっと鼻を鳴らし、「私のことは気にしないでいいから」と念波を送る。

 テレーゼの念波が届いたのか、やがてリズベスは「それでは、お言葉に甘えて……」と答え、三人分の足音が遠のいていった。

 テレーゼは大きく息を吐き出し、ずるりとその場に座り込んでしまう。

「テレーゼ様」

「……リズベス、頑張ったわよね」

 しゃがみ込み、心配そうに顔をのぞき込んでくるジェイドを見上げ、テレーゼは微笑んだ。

(まさか相手が……ライナスとは思わなかったけれど)

 そういうことなのか、としっくりいった。確かにテレーゼはしばしばライナスと立ち話をしたり馬車で城まで送ってもらったりしていた。リズベスはその様子をどこからか見ていたのかもしれない。彼女からすれば、自分の好きな人と友人が至近距離にいるのを見るのはつらかっただろう。

(ひょっとしたらリズベスが時々口ごもったり何か考え込んだりしていたのは、ライナスのことがあったからなのかもしれないわね……)

 だが納得がいったのもつかの間。

 ライナスの返事は終始単調で、気乗りしていないのが明らかだった。

(ライナスの方からこっちに誘導したのだから、盗み聞きするつもりはなかったわ。でも……リズベスになんて声を掛ければいいのかしら……)

 振られたのは自分ではなくリズベスなのに、どうしようもなく悲しいし胸が痛い。ひざにあごをうずめてくすんと鼻をすすると、両肩にそっと温かい重みが載せられた。

「泣かないでください、テレーゼ様」

「まだ泣いてない。部屋に帰ってからリズベスと一緒に泣くわ」

「どうしてリズベス嬢と一緒に泣く必要があるのですか?」

 優しい言葉と共に、あごがすくい上げられた。

 目線の先には、モスグリーンの目を和らげてこちらを見つめてくるジェイドの顔が。

「まさか後輩のこのような場面に遭遇するとは思ってもいませんでしたが……大丈夫です。リズベス嬢の勇気は報われています。告白は大成功です」

「……。……どこが?」

 ぽかんとしてテレーゼが問うと、ジェイドは胸ポケットからきれいなハンカチを出し、テレーゼの頰をそっとぬぐった。泣いていない、と言ったはずなのだが。

「あなたもご存じかもしれませんが、ライナスはひねくれているし、人に対する好き嫌いがはっきりしています。彼はこれまでに何度か女性に告白されているようですが、そのどれも手厳しい言葉で却下しているそうなのです」

「……うん?」

「先ほどのライナスは、『自分は新人だから』とか『仕事と両立できないから』という理由で断っていましたよね? それは、彼がリズベス嬢のことを意識しているからなのです。もし相手が好ましくなければ、『僕はあなたのことを好きじゃない』ってはっきり言うでしょう。そもそも、好きでもない相手に呼び出されても彼は応じませんよ」

「そ、そうなの?」

「ええ。……おまけに彼の方から『互いのことをよく知り合いたい』とか『部屋まで送っていく』と申し出ています。仕事第一、効率第一の彼がこれまで心を砕いているというのだから、リズベス嬢を女性として意識しているということなのですよ」

 それはきっと、ライナスの先輩であるジェイドだからこそ言えるのだろう。

(……確かに、ライナスの性格を考えればうなずける話だわ)

 もし、今告白したのがテレーゼだったとしよう。

『ライナス、好き!』

『はぁ? ついに正常な判断力さえ失ってしまわれたんですか?』

 きっとこうなるはずだ。

「……そ、か……」

 ほうっと息をつき、テレーゼはふにゃりとした笑顔でジェイドを見上げる。

 リズベスの勇気が無駄にならなくて、本当によかった。

「リズベス、よかった……!」

「ええ。……実はですね、先ほどライナスに連れられて部屋に戻る時のリズベス嬢は、非常に足取りが軽かったのです」

「ええっ、じゃあリズベスも、分かって──?」

「好きな人のことですから、性格を把握しているのももっともな話です。……お部屋に戻ったら、リズベス嬢の勇気を労われるといいですよ」

「うん、そうだね!」


 その後、「今戻ればライナスと鉢合わせしそうなので」というジェイドの提案により、テレーゼたちはしばし散歩をしてから部屋に戻ることにした。

 夕食の時間は大幅に過ぎてしまいそうなので、メイベルが食堂に行って先に夕食を調達し、部屋に運んでもらうことにした。そのため、今廊下を歩いているのはジェイドとテレーゼの二人だけ。

 二人が向かったのは、風通しのいい開放廊下だった。

 城の棟と棟をつなぐこの廊下は地上四階に相当し、昼間だと眼下の庭園の様を一望でき、晴れて空気が澄んでいる日だと公都の彼方まで見渡すことができるのだ。

 夜だからか、見張りの騎士の数は少ない。だが誰もがテレーゼとジェイドを見ると、何も言わず会釈をして通してくれた。

 この廊下には人気がないので、テレーゼは大きく息を吸い込んで手すりに身を乗り出す。

「風が気持ちいい!」

「寒くありませんか?」

「ちょっとってたくらいだから、これくらいがちょうどいいわ!」

 それに、今日は晴れているので星がよく見える。リトハルト侯爵領で見るほどの数ではないのが相変わらず残念だが、紺色の空にちりばめられた星たちは、見ていて飽きない。夜空に瞬く星たちはまるで、ペイル金貨のよう。

 ジェイドは隣に立ってテレーゼの横顔を見ていたようだが、やおら「星が……」とつぶやいた。

「ん、何?」

「いえ、あなたのひとみに星が映っていて……とても美しいと思いました」

 そう言うジェイドは唇の端に穏やかな笑みを浮かべて、テレーゼを見つめてきている。テレーゼも笑みを返し、大きく頷いた。

「そうよね! 星ってずっと見ていても飽きないくらいきれいよね!」

「そうじゃない、と言ったらどうします?」

「……どういうこと?」

「いえ、何でもありません。それより、こちらを」

 ジェイドは自分の上着のボタンを上から二つ分外し、下に着ていた制服の胸ポケットから何かを抜き取った。廊下の壁に掛けられたランタンに照らされている、それは──

?」

「そうです。……本当は廊下で会うのではなくて、あなたの部屋に伺ってメイベル殿に届けてもらう予定でしたが──やはり直接の方がいいですね」

 そう言うとジェイドは、リボンで束ねた薔薇の花束をそっとテレーゼに差し出してきた。

「こちらを、あなたに」

「ほ?」

 思わず変な声が出てしまった。

 テレーゼは口を半開きにしたまま、視線を落とす。ジェイドが差し出している薔薇は品種改良品なのか、普通の薔薇よりかなり小さく、合計五輪の薔薇が束ねられてようやく大きめの薔薇一つ分ほどのサイズになっていた。なるほど、これくらいのサイズだと上着の中にそっと入れていればつぶれることもなさそうだ。

 それはいいとして。

 テレーゼは視線を上げ、笑みを浮かべるジェイドを見つめた。

 薄暗がりの中なので判別しにくいが、おそらく薔薇の色は赤。束ねられた五輪の薔薇は、みずみずしく花開いている。

「……ジェイド」

「はい」

「ジェイドって花言葉、詳しい?」

「え?……あいにく私は、鑑賞用の植物に関する知識には疎く。こちらの薔薇は、あなたへの見舞いに差し上げようと思って購入したものです」

「……あっ、そ、そうなのね!」

 なーんだ、とテレーゼはほっとし、いつの間にかばくばく高鳴っていた胸にそっと左の手のひらをあてがった。

(もう、私の馬鹿。ジェイドはお見舞いの気持ちで薔薇をくれたというのに、勘違いして!)

 以前ライナスに対して、「薔薇の花を持って愛の言葉をささやく」のが男性から女性への好意の表れだと力説した時のことが思い出され、早とちりしてしまった。

(そうよね。ジェイドは私のことを特別扱いしているわけじゃないし……)

「ありがとう、ジェイド。いただくわ」

「どうぞ」

 受け取った薔薇は見た目通り軽く、しかしふんわりと控えめな甘い香りがした。花より食用の雑草に造詣が深いテレーゼは花の強烈な匂いがあまり好きではないのだが、この花ならベッドサイドにでも飾って、いつまでもその香りをいでいたくなる。

「いい匂い……この匂い、ジェイドみたい」

「私は人間ですが……」

「そうじゃないの。優しくて、いつでも側にいてほしくなるというか、夜寝る前にぴったりというか──」

「……。……そうですか。それは光栄です」

 ほんの数秒ジェイドは硬直したようだが、すぐにいつもの笑みを浮かべて小粋な仕草で会釈をした。

「あなたに気に入っていただけたようで何よりです。……それでは、そろそろ部屋に戻りましょうか。リズベス嬢とも話をなさるべきでしょうし、夕食もまだですよね?」

「あ、そうね!」

 テレーゼはふわっと笑い、ミニチュアローズのブーケを大切に両手で包み込んだ。

「これ、ベッドサイドに飾るわ。とてもきれいだもの、これを見て匂いを嗅いでから寝たら、とても幸せな気持ちで眠れそうだわ」

「そうですか。しかしそれでは、夢に私が出てしまうのでは?」

「ジェイドならいいわよ? あっ、もしかして出演料を取るの!? そ、それならちょっと……」

「……。……もし私が夢に出たとしても、出演料なんて取りませんのでご安心ください。さあ、お手をどうぞ」

 片手を胸元にあてがい、もう片方の手をテレーゼに向かって差し伸べるジェイド。

 テレーゼはくすっと笑い、彼の手に片手を載せた。


 テレーゼを部屋の近くまで送ったジェイドは、誰もいない廊下で足を止めた。

「……俺は、『知識には疎い』とは言いましたが、『花言葉を知らない』とは申していませんよ」

 アクラウド公国の紋章は、「薔薇と指輪」。ジェイドは男性だが、薔薇の品種改良も盛んなこの国の貴族である彼が、基本的な花言葉を知らないはずがない。

 五輪の深紅の薔薇の花束を大切そうに持つテレーゼの姿を思い出したジェイドはふっと微笑み、歩きだした。


*  *  *


 薔薇の花束を自室に置いた後、テレーゼは予想通りはしゃいでいたリズベスの部屋に居座り、「ライナスのどこが好きなのか」「これから一緒にどんなことをしたいのか」「初デートはどこがいいのか」などを熱心に語り合った。

 さすがに夜遅くなると心配したのかリズベスの侍女がメイベルを呼んでくれたので、彼女に引きずられる形で部屋に戻り、メイベルが取っておいてくれた遅い夕食を食べ、寝仕度を調えてベッドに直行する。

 その手には、花瓶に生けた深紅の薔薇が。

(五輪の薔薇の花言葉は、「あなたと出会えた幸福」だったかしら)

 ベッドサイドに花瓶をそっと据え、何度か角度を直してみた後、ふと思いついて枕の下に入れていた帳簿を引っ張り出して花瓶の横に立てかけた。すばらしい光景になったので、ベッドにうつぶせになったテレーゼはうっとりしたまなしで薔薇の花と帳簿を見つめる。

(ジェイドは分かっていないみたいだけど……私も、ジェイドと知り合えて本当によかったと思うわ)

 ジェイドだけではない。

 大切な家族と、リィナ。大公やメイベル、リズベスたち女官仲間。ライナスやクラリスに、その他、これまで出会ったたくさんの人たちに支えられて、テレーゼは頑張っていける。

 明日からも、テレーゼは皆と一緒に走って行く。