8章 令嬢、式典に臨む



 城内はごうしやな調度品で飾られ、客人用廊下の床は泥の付いた靴で歩くことがはばかられるほど念入りに磨かれている。落葉の季節であるが城の廊下はおろか、中庭にも枯れ葉一つ落ちていないのは、「途中で落ちるくらいなら先にたたき落としてしまおう」ということで、使用人一同で広葉樹をり飛ばして無理矢理葉を落とさせたからだ──という噂さえ流れている。

「受付係には、ここで受付事務をしてもらいます」

 そう言って先輩女官はテレーゼたちを、大広間前の廊下に案内した。婚約記念式典は今日の夕方から行われる。今はまだ昼過ぎなので辺りを使用人たちが慌ただしく走り回っている中、テレーゼたちは純白のテーブルクロスの掛けられた受付カウンターをしげしげと見つめていた。

 テレーゼたちに割り振られたのは、会場前の受付。といっても来客が玄関ホールで騎士団のチェックを受けた後で行うので、テレーゼたちは招待状を受け取って一覧表の名前と照合したり、何か困った様子の人がいれば助力を申し出たりすればいい。

「基本的には招待状の確認作業のみですが、お客様のご要望にお応えし、式典が円滑に進行できるよう補助する役目もあります。受付は目立つ仕事ではありませんが、あなた方の気遣いやちょっとした態度で、お客様に快適なお時間を提供できるか機嫌を損ねるかが決まります」

 先輩の言葉に、テレーゼたちはごくっとつばんだ。会場係や接待係ほど積極的に客と関わることはないだろうが、失態を犯せば客は機嫌を損ね、「女官のせいで会を楽しめなかった」などと言われるかもしれない。

 テレーゼたちが緊張の面持ちで受付席を見つめていると、先輩は持っていたようせん挟みを脇に抱えた。

「……あなたたちは見習、もしくは赤チョーカーです。しかし女官長様は、あなた方にならば受付業務もこなせるだろうと判断なさった上で、このさいはいをなさいました。……自信を持って職務をまっとうなさい」

 りんとした声で言った彼女は二十代後半といったところで、チョーカーの色は青──二等女官の階級を表している。

(背筋が伸びているし、すごく格好いい──! 私もあの方みたいになりたいわ!)

 先輩が去った後で、テレーゼたちは分担表を見た。受付に割り振られたのは見習ではテレーゼとリズベス、そして赤チョーカーの先輩女官が二人だった。

「わたくしたちは会の前半を担当します。来客数は圧倒的にこちらの方が多いので、あなた方は交代時間になる三十分前には、わたくしたちと引き継ぎができるようにしてください」

 そうハキハキした口調で言うのは、テレーゼもリズベスも今まで組んだことのない赤チョーカーの先輩だった。コーデリアのような威圧感はないので、テレーゼも少しだけ肩の力を抜いてうなずく。

「かしこまりました」

「ただし、後半になると客の出入りは減りますが、大公閣下とリィナ様がお通りになります。わたくしたちは大公閣下方がご入場なさるまではあなた方に付き添いますが、それ以降は別の場所に移動することになっております。以降、受付終了までは任せます」

「はい。よろしくお願いします」

 事前に研修はあったし一通りの説明はなされているとはいえ、お客を相手に受付をするのは緊張する。だが隣にはリズベスがいるし、交代後も途中までは先輩が付き添ってくれるのならば心強い。

「あなた方は夕食を早めに取ることになっていたと思うので、休憩、食事、仕度の時間を念頭に置き、遅刻せずに降りるようにしてください」

「分かりました。では、いったん失礼いたします」

 リズベスとそろってお辞儀をし、受付の準備を始めた先輩たちに背を向ける。引き継ぎまでまだ時間があるので、万全の状態で仕事に臨めるよう準備しなければならない。

 リズベスと二人で使用人用の化粧室に飛び込んだテレーゼは、鏡の前で大きく伸びをした。

「んー……なんだかどきどきするなぁ」

「あら、心臓に毛が生えているテレーゼでも緊張するのね」

「えー、何それ。私だって緊張するわ! なんてったって、リィナの晴れ舞台だもの!」

 先ほどの先輩の話でも出てきたが、テレーゼとリズベスが受付をする後半は客の数は減るものの、大公とリィナが入場する様を見守ることになる。

(今日のためにリィナは勉強や訓練を頑張っているって言っていたし……私も自分の仕事をきちっとこなさないと!)

 大公と一緒に入場するリィナにテレーゼの方を見る心の余裕はないだろうが、彼女の姉として背筋を伸ばし、仕事をしたいものである。

 意気込んだテレーゼだが、返事がない。おや、と思って横を見ると、洗面台の縁に手を掛けて前傾姿勢になっているリズベスの横顔が目に入った。

「リ、リズベス!? どうしたの、吐きそう!?

「さすがに吐きはしないけれど……ちょっと、考えることがあって」

「……仕事のこと?」

 受付業務関連で、何か気になることでもあるのだろうか。

 リズベスに何か質問された際にはスムーズに答えられるよう、仕事用のウエストポーチに入れているはずの指示書きを出そうとごそごそ漁った。が、中にいろいろ入っているので目当てのものがなかなか出てこない。

 そんな中、顔を上げたリズベスは柔らかく微笑んだ。

「……ああ、ごめんなさい。仕事のことじゃないし、今悩んでも仕方のないことなの」

「そう? でも、何か気がかりなことがあるのなら、仕事が始まる前に解消した方がいいんじゃない? 私でよかったら、話だけでも聞くよ?」

 正直自分のおつむの程度はしれているので、「聞くだけなら」と言ったら本当に「聞くだけ」なのが我ながら虚しいと思う。

(でも、お母様のメソッド集にも、『悩みがあるならまず吐け、吐き出せ! 不安なものは吐き出して、明るい気持ちで前を向け!』ってあったものね)

 するとリズベスは緑色の目を見開いた。なぜかそれは、驚いているようなまなしに感じられる。

「……聞いてくれるの?」

「もっちろん!……あっ、当たり前だけど、相談料とか言ってお金を取ったりしないからね!?

「ふふ、分かっているわよ。……あの、ね──」

「……っ、待って、リズベス!」

 リズベスの向こう側、化粧室の外に見覚えのある茶色いしつが見え隠れしていたため、テレーゼはとっさにリズベスの腕を引っ張り、化粧室の奥に連れ込んだ。我ながら、「彼女」に対する感知機能が発達したものである。

「──ええ、もちろん。これを機にさっさと赤チョーカーからおさらばして、黄色まで上り詰めてみせます」

「コーデリアはまだ十七歳でしょう? その年で黄色チョーカーなんて、最速じゃなくって?」

「ふふ、わたくしに不可能はありませんのよ」

 おほほほ、と高笑いする声が近づき、そして遠のいていく。化粧室に入ってこなくてよかった。一応身は隠しているが、身につけている香水の匂いで何か感づかれてしまうかもしれなかった。

 テレーゼとリズベスは壁に体をくっつけるようにして潜んでいたが、笑い声が完全に遠のいてからほぼ同時にふーっと息をついた。

「……リズベス、私思うの」

「うん?」

「私、もはや本能レベルでコーデリア様から逃げている気がするのよ」

「大丈夫よ。それはきっと、私たち見習全員が身につけている生存本能だから」

「まったくもってそのとおりだわ」

 やれやれと肩を落として鏡の前に戻る。鏡に映るテレーゼたちの顔は、先ほどよりしょぼくれている。コーデリアは女官長オーラのように、食らった相手を疲弊させるコーデリアビームでも放っていたのだろうか。

「……ああ、そうだ。何か悩み事があるんだっけ?」

 コーデリアが通過したことにより話が途中でとぎれていた。だがリズベスはしばし黙って考え込んだ後、首を横に振った。

「……いえ、やっぱり大丈夫よ」

「本当?」

「本当。……正直言うと、コーデリア様の登場でなんだかもう、いろいろなものがどうでもよくなったというか」

「まったくもってそのとおりだわ」

 テレーゼたちは鏡に映った互いの顔を見、苦笑をこぼした。

 ──交代まで、あと四時間。


*  *  *


 先輩女官に言われたとおり、テレーゼとリズベスは夕方からの交代に備え、昼のうちに少し仮眠を取って早めの夕食を食べた。普段なら使用人用の食堂も閉まっているような時間だが、今日は皆の行動スケジュールが不規則になるため、いつでも食事ができるように常時解放されているそうだ。

 食事をしたらいったん部屋に戻り、身仕度を調える。メイベルに手伝ってもらって髪にブラシを入れ、いつものように肩先で二つに結わえる。作業のしやすいしちそでのドレスの上に規定のエプロンを着け、胸には麦と二重線と丸──ほうじようと平等、永遠を示すリトハルト侯爵家の家紋入りのブローチを飾る。これを身につけることで、「皆のために頑張ろう」と気持ちを引き締められるのだ。

 化粧はごく薄めに。昔は化粧道具をケチっていたのでほぼすっぴんで通していたのだが、最近はメイベルに頼んでテレーゼに似合うメイクをしてもらっていた。メイベルも最近の若い娘にぴったりのメイク方法を会得してくれたようで、感謝の言葉もなかった。

「それじゃ、そろそろ行ってくるわ」

 大きな姿見の前でくるっと一回転した後、メイベルに声を掛けた。これからテレーゼは仕事に行くので、メイベルにはいつもどおり部屋で待機してもらうことになる。

 メイクセットを片づけていたメイベルは頷き、テレーゼのエプロンのすそをそそっと直してくれた。

「はい、お気を付けて。……ポーチの中に小物を入れておりますので、何かあれば探ってみてくださいませ」

「分かったわ。じゃあ、留守を頼むわね」

 メイベルに見送られ、テレーゼは廊下に出た。ちょうどリズベスも仕度を終えたところらしく、お付きの侍女に声を掛けて廊下に出てきていた。

「お疲れ様、リズベス。気合いを入れて行こう!」

「そうね、頑張りましょう」

 おー、とこぶしを天に突き上げるテレーゼに対し、リズベスはおっとりと笑っている。

 いずれ、テレーゼもリズベスのようにしとやかになりたいものだ。


 既に大半の客は受付を済ませて大広間に入っているようで、廊下で客人を見かけることはなく、巡回の騎士や使用人たちとすれ違いざまに会釈をするだけだった。

 こそこそと裏道を通りながら受付の場所まで向かうと、ちょうど客人もはけていたようで先輩がこちらを見て手を挙げた。

「時間通りに来ましたね。それでは、こちらに来てください。一人は接待、一人は招待状の照会と分担するといいでしょう」

「分かりました。わたくしが接待、リズベスが照会を担当します」

 しゃべるのはテレーゼ、文字の確認はリズベスの方が得意だ。それを踏まえて事前に二人で打ち合わせしておいたので、もめることなく指定された席に座った。つい先ほどまで先輩たちが座っていたからかほんのり温かい椅子に座り、テーブルの上に並べられている用具一式の説明を受ける。

「テレーゼ、あなたは来客にあいさつをし、招待状を受け取ってリズベスに渡します。リズベスはこちらのリストを使って素早く照会をし、該当する名前の箇所にチェックを入れます。その間、テレーゼはお客様のご様子をよく観察し、何かお困りのことはないか確認します」

「こちらから話題を振る必要はないのですね」

「ええ。相手に何か問われた時、もしくは相手が何かお困りの様子の場合は声を掛けますが、それ以外には黙っておくのが吉でしょう」

 これまで先輩に同行した実地訓練では積極的に話しかけたり今日の天気を問うたりする方が相手の反応もよかったのだが、受付のように短時間で相手を終えるべきものの場合は必要最低限のやり取りで十分のようだ。

 先輩たちは大公とリィナが通るまでは、廊下の陰に立ってテレーゼたちの様子を見てくれるそうだ。その後、遅れてやって来た客の相手はテレーゼたちに一任されるが、そこまで来ると人数もぐっと減るので負担は少ないはずだ。

(……よし、リズベスと協力してさくさくっとお客の相手をしよう!)

 リズベスと視線を交わし、気合いを入れた──のだが。

「ようこそいらっしゃいました。招待状の確認をいたします」

「……そうそう! あのお宅はまた外国から高価な調度品を購入したらしくって!」

「嫌ですわ、またわたくし、呼ばれておりますの」

「あの、招待状を──」

「ああ、それはきっと自慢です、自慢! 嫌ですわよねぇ、『たいしたものはございませんが』なんてしおらしい態度を取っておきながら自慢するのですよ、あのお宅の夫人は!」

「奥様方、申し訳ありませんが招待状を拝見してもよろしいでしょうか!?

「え?……ああ、ごめんあそばせ。あら、招待状はどこに入れたかしら? ジム、早く捜しなさい! 他のお客方がお待ちです!」

 他の客が彼女の背後で待っている原因は使用人のジムではないはずだが、テレーゼは何も言わず、招待状が差し出されるのを鉄壁の笑顔で根気強く待った。

(なんというか、まあ……手強いわね)

 美しく着飾った女性はおしゃべりに夢中だし、紳士の中にはテレーゼたちをじろじろ見て、「……六十七点」とつぶやいていく者もいた。彼の好みの顔立ちでないというのは非常にどうでもいいのだが、せっかくだから六十七なんて端数ではなく七十に切り上げてほしいと思う。

「あらやだ、あなた、左利きですの!? ご存じでして? 左利きの女の子は将来大出世するということで……」

 接待を請け負ったテレーゼはもちろんだが、リズベスも絡まれている。今リズベスが招待状の照会を行っている相手はリズベスが左手でペンを持っているのにざとく気付き、すさまじい速度でなにやらまくし立てている。

(左利きの女の子が出世するって、それってお母様が若い頃に流行っていた迷信じゃないのかしら……)

 リズベスも「そうですのね」「まあ、うれしいですわ」と笑顔で応対しているが、テーブルクロスに隠れて客からは見えない彼女の脚はぷるぷる震えている。廊下の隅にいる先輩の方をちらっとうかがったが、「そういうもんだからあきらめろ」と言わんばかりの視線を返されるだけだった。きっと彼女らも同じような目に遭ってきており、回避しようがないのだろう。

(んー、でもただ単におしゃべりな方なら全然平気だわ)

 テレーゼだって、にバザーの売り子をしているわけではない。一般市民階級だろうと貴族だろうと、おしゃべりなマダムの相手には慣れっこだ。

 ……困るのは。

「……そうです。よりによって平民を花嫁に迎えるとは」

「仕方ないから祝福はするけれど、さすがになぁ」

「案外、長子さえ産まれれば愛人でも囲うかもしれませんよ?」

 ひそひそ、と聞こえてくる失礼な言葉の数々。

 それは、次期大公妃が平民出身であることへのべつの言葉だった。

(……しっつれいな人たち! 大公閣下とリィナがどれだけ仲がいいか、何も知らないのに!)

 内心では腹が立ちつつも、テレーゼは笑顔で接待を貫いた。中には、「あ、君は確か貧乏侯爵家の」「ああ、あの運ばかりいいお嬢さんか」と呟いてくる者もいるが、全て無視だ。

(無視無視無視無視! 今の私は女官! 仕事をするのみ、するのみよ!)

 母の奥義の書にもあった「感情を表に出すな」は、本当に正しい。ここでテレーゼが怒っても仕方ないし、リィナが平民出身であるのは紛れもない事実だ。これは、大公とリィナが乗り越えていくべき問題であるはずだ。

 すーっと息を吸い、テレーゼは笑みを浮かべて次の客にお辞儀をする。

「ようこそいらっしゃいました。招待状の確認をいたします」

「はい、どうぞ」

 ──その声がテレーゼの鼓膜を震わせたとたん、鉄壁の仮面ががれてしまうかと思った。

 お辞儀から顔を上げた先、そこにはシックなキャラメル色のがいとうを着た紳士と濃紺のドレスを着た婦人──テレーゼの両親の姿があった。もちろん、彼らの後ろには子ども用の礼服を着たエリオスと、兄に手をつながれたマリーとルイーズの姿もある。

 父はテレーゼが一瞬固まってしまったのを見ると、「おや」と首を傾げて微笑んだ。

「どうかなさいましたか、女官殿?」

「い、いえ。招待状、拝見いたします」

 テレーゼは震える手で父から招待状を受け取り、リズベスに渡した。最初は少しだけげんそうな眼差しでこちらを見ていたリズベスだが、招待状の名前を見て事態を察したらしく、何も言わず名簿をめくっていた。

「やれやれ、なかなか客が多いようだ。……うちには小さい娘たちがいるのだが、子ども用の椅子などはあるだろうか?」

 父が「さて、困ったなぁ」とどこかもったいぶった口調で呟いたので、緊張していたテレーゼは思わず噴き出してしまいそうになった。

(……ああ、なるほど。お父様は私を試してらっしゃるのね)

 きっと、娘がきちんと受付の仕事を果たせているか確認するためなのだろう。少しおどけたような顔で言う様は実にわざとらしいが、これも父の気遣い、そして娘への「試練」なのだろう。

「はい。お子様の年齢に合わせて各種椅子を準備しております。色やデザインにも種類がございますので、腕に赤いリボンを巻いた会場係にお申し付けくださいませ」

「おお、そうか。ではそうさせてもらうよ」

「確認できました。リトハルト侯爵家ご一行様、どうぞお通りください」

 リズベスもちょうど照会を終えたようで、招待状を父に返した。父はかぶっていた帽子を取って「それでは、失礼」と小粋な仕草をし、周りから見えないように母から小突かれていた。エリオスはあえて知らないフリをして素通りしたが、マリーとルイーズは何も言わないものの、きらきらの眼差しでこちらを見てきていた。

(ああっ、おそろいのドレスを着たマリーとルイーズ、本当にかわいい! エリオスも、今度お家に帰った時にお話をしましょうね!)

 家族を見送ると、むかっとしていた心も一気に落ち着いてきた。

(もしかするとお父様も、私の心の乱れに気付いてらっしゃったのかもしれないわ)

 父にはかないそうもない、とテレーゼは内心苦笑し、気持ち新たに次の客にお辞儀をしたのだった。


 テレーゼたちが受付を始めて一時間も経つと、リズベスの手元にある名簿のほとんどにチェックが入っていた。そうして人もはけてきたところで、ほうきを手にした使用人たちが大広間前をささっと掃き始めた。

「お、お疲れ様です」

「どうも。……あ、ちょっとそこ退けてください。すなぼこりがあるので」

「あ、はい」

「ひょっとして、そろそろ大公閣下のお見えですか?」

 テレーゼと同じように椅子から立ち上がったリズベスが問うと、使用人はうなずいた。

「そうです。もうじきお越しになるので、現在正面門付近にいらっしゃるお客にはいったん待機していただいて、先に大公閣下とリィナ様をお通しします」

「分かりました」

 いよいよだ、とテレーゼは大きく息を吸った。

 使用人たちが掃除を終えると間もなく、大公たちがやって来た。

 大公は大公妃候補選定の挨拶の時と同じ、白い軍服にやたら裾の長いマントを羽織っている。堂々たる足取りで大広間に向かう彼は年若いといえども、君主としての威厳に満ちていた。

 そしてその隣には、ブルーのドレスをまとった婚約者──リィナの姿があった。

 ドレスの胸元が大きく開いているのは、きっと大公の趣味だろう。テレーゼとおそろいの家紋入りペンダントが胸元で躍っており、照明を浴びてスパンコールでも縫いつけているかのようにドレスのスカート部分がきらきら輝いている。髪は結い上げ、いつもより大人っぽい化粧をしているので、少し雰囲気が異なって見えた。

 テレーゼはリズベスとそろって立ち上がり、頭を下げた。大公もリィナも何も言わずテレーゼの前を通り過ぎ、その後をコーデリアたち臨時専属女官や侍従たちが続いた。コーデリアの髪は今日も元気よくぶんぶん左右に揺れているが、今のテレーゼの意識は大公とリィナにくぎけだった。

(リィナ……とても素敵だわ)

 お辞儀をしているのでじっくり顔を見ることはできなかったが、胸を張って前を向く妹は強い眼差しをしていた。きっと、大丈夫だろう。

「レオン・アクラウド大公閣下、ならびにリィナ・リトハルト様、ご入場!」

 侍従が声を張り上げ、それまで閉ざされていたドアが開かれる。衆目を集める中、足並みを揃えて大公とリィナが大広間に入っていき──一行が全員入ったところで、ドアは閉められた。

 ふう、と息をついたのはテレーゼとリズベス、どちらだろうか。

「お疲れ様です、二人とも。事前に申しましたとおり、ここでわたくしたちは上がらせてもらいます」

 へたっと椅子に腰を下ろした二人に声を掛けたのは、これまで陰で様子を見ていた先輩女官だった。最初は存在を意識していたのだが、だんだんと先輩がいることすら忘れていた。

 先輩も同じことを思っていたようで、真顔で頷いた。

「思っていた以上に、あなたたちは肝が据わっておりました。わたくしたちがいなくても、二人でやっていけるでしょう」

「わたくしたちは上がりますが、何かあれば使用人でよいので呼びなさい」

「はい。ありがとうございました」

 きびすを返して去っていった先輩たちを見送った後、テレーゼはリズベスと顔を見合わせた。

「……同じ赤チョーカーでも、だいぶ違うのね」

「それがね──赤チョーカー内でも勢力争いがあるらしいの。多分、さっきの先輩方はコーデリア様たちとは別グループよ」

「な、なるほど」

 女の派閥対立は、場所や階級を問わずぼつぱつするようである。


 名簿にチェックが入っていないのは、あとわずか。

「……おやおや、もう大公閣下はお通りになったのですかね?」

 今になっていきなりキャンセルも入り、使用人から渡された欠席通知を手にリズベスが必死で名簿を捲っていると、使用人に手を引かれた高齢の貴族がやってきた。七十歳近いだろう彼は腰が曲がっているため、椅子に座っているテレーゼとほとんど目線の高さが変わらなかった。なんとなく、子どもの頃に一緒に遊んでくれた領民のおじいちゃんのことが思い出される。

「ようこそいらっしゃいました。招待状の確認をいたします」

「おお、それならこちらに」

 高齢の貴族に代わり、使用人が招待状をリズベスに渡した。貴族はつえを突いているが、杖を持つ手も震えている。

(……あ、そうだ)

「もしよろしければ、車輪付きの椅子をご用意いたしますが、いかがなさいますか?」

 テレーゼは申し出た。高齢の貴族や若くても脚を負傷して移動が困難な貴族がいるため、車輪付きの椅子を用意しているのだ。台数は限られているが、まだ数台は残っているはずだ。

 それを聞くと、貴族は嬉しそうに微笑んだ。

「そうか、それはありがたい。……すまんがお嬢さん、椅子を持ってきてくれないかね?」

「もちろんでございます。……リズベス、ちょっとお願いね」

「ええ」

 リズベスにこの場を任せ、テレーゼは物置に置いていた車輪付きの椅子を運び出した。座った時にしりが痛くないよう、クッションも多めに積んでおく。

「お待たせしました。……こちら、お付きの方に操作していただきますが、説明は必要でしょうか?」

「はい。……その、できたらしばらくの間、操作方法を拝見してもよろしいでしょうか」

「かしこまりました。では、参りましょう」

 使用人に頼まれたので、テレーゼは貴族の乗った椅子の持ち手をつかみ、ゆっくり押した。

(この椅子の使い方も、ちゃんと予習しておいてよかった!)

 貴族は体重も軽いようで、テレーゼの腕でも問題なく椅子を動かせる。ほっとしながらテレーゼは大広間に足を踏み入れ──あまりのまばゆさに、目がくらむかと思った。

 きらびやかな内装に、着飾った人たち。この部屋のどこかに家族が、顔見知りの貴族が、そして大公とリィナがいるのだろう。

(うーん、私は場違いだなぁ)

 侯爵令嬢ではあるが、今のテレーゼは介助のためにお邪魔しただけの城仕えの人間。美しいドレスを着ているわけでも、きれいに髪を結っているわけでもない。

「……こんな感じで操作してください。段差には気を付けてくださいませ。返却時には、腕に赤いリボンを付けた会場係にお申し付けてくだされば大丈夫です」

「分かりました。ありがとうございます」

「すまないね、お嬢さん」

 使用人と貴族を見送り、テレーゼはふうっと息をついた。とたん、すぐ近くを通っていった貴婦人のきつい香水の匂いまで吸い込んでしまい、むせそうになる。

「……あら、思ったよりもお美しいのね、リィナ様って。もっと野暮ったいかと思ったら」

「いくら指輪の選定があったとはいえ、平民を大公妃に据えるなんて、この国の未来が心配です」

「おまけに大公閣下は最近、平民どもの生活水準の見直しなんてことを提案なさっているとか」

「リィナ様のせいで、そうめいな大公閣下が平民の色に染まってしまうなんて、嘆かわしいことです」

 手袋をめた手で口と鼻を覆っていると、側で貴婦人たちが話す声が聞こえてきた。それも、リィナに対してあまり好意的でない内容のようだ。

(大公閣下、市民の生活にも目を向けてくださっているのね……!)

 それは喜ぶべきことのはずだ。

 それなのに、この貴婦人たちは平民出身のリィナや、リィナを通じて国民たちに意識を向けてくれている大公をけなしている。

 すり、とテレーゼのブーツの先が動く。

 いち女官見習に過ぎないテレーゼが割って入ったところで、ろくなことにはならないだろう。でも、「お飲み物でもいかがですか?」などとやんわり声を掛けることで、妹や大公への悪口を止めることができれば。

 ──そう思って息を吸ったテレーゼだが。

「失礼します。……我らが大公閣下やリィナ様に対し、なにやら不穏な噂をしている者がいると聞いたのですが」

 りんと響く美しい声。

 声のした方を見やれば、深紅のドレスに、ぐるんぐるん回転している金の巻き毛が。

 そこにいたのは、貴婦人たちより二十以上年若いだろうが、威厳と気迫に満ちた美女──クラリス。彼女は、明らかにびくびくしている貴婦人をいちべつし、優雅にお辞儀をした。

「ああ、申し遅れました。ゲイルード公爵家のクラリスでございます」

「こ、これはこれは、クラリス様、ごきげんよう!」

「いえ、わたくしたちはただ世間話を……年寄りのごとでございますので」

「あら、そうですの? 近いうち、我々アクラウド公国の全女性がお仕えすべき次期大公妃に対して、礼を欠いた発言をしている者がいると聞いたのですが……気のせいでしょうか」

「気のせいでございますね! わたくしたちは、リィナ様のぼうをお褒め申していただけです!」

「まさか、この式典でそのような発言をする者はいないでしょう!」

 噓ばっかり、とテレーゼは冷めた視線を送りつつ、吸ったまま行き場をなくしていた息を吐き出す。

 クラリスもまた目を細め、つややかな赤に塗られた唇をふっと緩めた。笑っているのだろうか、と思われるが。

「それもそうですね。……まあ、リィナ様はお美しいだけのお方ではありませんが。せっかくですし、奥様方。わたくしと一緒におしゃべりしません? わたくしも、敬愛するリィナ様や大公閣下について熱く語りたいと思っておりましたの」

(あっ、これ好意的な意味で笑ってるんじゃなくて、けんせいのつもりだったのね)

 そしてクラリスはおどおどする貴婦人からすいっと目線だけ横に滑らせ、テレーゼを見てきた。群衆に紛れていたつもりだったが、ばれていたようだ。

 クラリスはまゆを寄せ、手にした扇子でちょいちょいっと会場の入り口の方を示した。「余計なことはしなくていいから、おまえはさっさと仕事に戻れ」ということだろう。

(そのとおりだわ! ありがとうございます、クラリス様!)

 パフェはパフェ屋。リィナたちの陰口をたたいていた奥様方の相手はクラリスに任せ、テレーゼは自分の仕事をするべきだろう。

 心の中でクラリスに何度も礼を言いながら、ドアの方へ向かおうとしたテレーゼだが──どん、と脚に何かがぶつかった。

「え?」

「ひゃっ」

 見下ろすと、テレーゼの腰ほどの位置に金色のくりくりした髪を持つ頭があった。今テレーゼにぶつかったのはこの子だろう。

「まあ、失礼しました。お怪我はありませんか?」

 小さな子どもだが、ドレスを着ているので良家のお嬢さんだろう。「どうしたんですかー?」と町の子どもたちのように接するわけにはいかない。

 テレーゼがしゃがんで子どもの顔色をうかがおうとした──とたん、ひっく、と子どもがしゃっくりを上げたため、ぎょっとしてしまう。

(えっ!? ま、まさか私、こんな小さい子を泣かせた!?

「あ、あの……」

「……ドレスが──」

 子どもはけなにも大泣きしないように努めているようだが、のぞき込んだ顔は涙でれており、小さなこぶしでパステルピンクのドレスのすそを摑んでいる。見ると──

(あっ、シミが──)

 繊細なオーガンジーの布地を幾重にも重ねた、かわいらしいドレス。そのスカート部分に赤いはんてんが散っていた。生地がぞう色なので、何かのソースらしい赤いドット模様はかなり目立つ。

「ドレスに汚れが付いてしまったのですね」

「……ん。おとうさまがミミをね、きれいって言ってくれたの。でも、ご飯をおとして、ソースがたれて──」

「そうだったのですね……あの、誰かを呼んで──」

「やっ! みっともないって言われる!」

 どうやらミミというこの子は、父親も褒めてくれたお気に入りのドレスを自分のせいでダメにしてしまったことがつらく、また「ドレスを汚すなんてみっともない」と言われることを恐れて泣いていたようだ。テレーゼはいかにも女性使用人といったふうぼうなので安心しているのかもしれないが、他の貴族にばれてしまうとこの少女は傷つくだろうし、男性使用人を呼ぶのも嫌がりそうだ。

 早く会場を出たい気持ちはやまやまだが、双子の妹たちと同じ年頃の少女を放っておくなんてできない。

(ご家族の方を見つければいいかと思ったけれど、他の人にドレスを見られるのが嫌なのね。私でなんとかして差し上げられたら──)

『余計なことはするなと、言いませんでしたか?』

 ──冷たく放たれた声が、頭の中でこだました。

『あなたの修繕が失敗し、ストールが余計にひどい状態になってしまったなら、どう償うつもりだったのですか!?

 コーデリアの声がこだまする。あの時と同じだ。

(しっかり考えないと。今、私にできること。今、私たちに掛けられている制限は──)

 少女は、このままの姿で父親のもとに行きたがらない。他の貴族にドレスが汚れたことを気付かれたくない。そしてきっと、男性に見られるのも嫌がるだろう。

(……私でこの子を助けられる?)

 ウエストポーチの中を探る。メイベルが一通りの品を入れてくれているのなら、きっと──

(あった)

 テレーゼはこくっとつばむと、少女としっかり目線を合わせて、問うた。

「お嬢様。もしよろしければわたくし、女官のテレーゼに、ドレスのシミ抜きをさせていただけませんか」


 テレーゼは少女を抱き上げ、会場隅のカーテンの裏にそろりと忍び込んだ。分厚いカーテンの向こうはすぐ窓ではなく、休憩に使えそうなカウチやミニテーブルなどが据えられている。ここは酒で酔った客などを通し、酔いが覚めるまで休ませるための場所だった。そのため、テーブルには水差しとグラスも置いている。たいへんありがたい。

「とてもお美しいドレスですね。お嬢様の髪の色にぴったりです」

 少女をカウチに座らせて優しく語りかけながら、ドレスのシミをざっと目で確認する。

(この匂いは──トマトソースね。刺激臭はないから、香辛料は入っていなさそう。バターみたいな油っぽいてかりもないから、きっとうまくいくわ)

 少女は、真剣なまなしでドレスの汚れを見分するテレーゼを黙って見下ろしていた。ドレスが元通りになるかもしれない、という期待を抱けたからか泣きやみ、スンスンと鼻を鳴らしている音が聞こえている。

「……これ、とれる? あらうの?」

「そうですね……このシミなら下手に洗うより、たたいて汚れを移した方が確実でしょう」

「たたく?」

「はい」

 テレーゼは少女を安心させるように笑顔でうなずき、まず自分が身につけていた白いエプロンを外した。

「叩いて、別の布に汚れを移すのです。……少々作業をしますので、汚れている部分の布地を少しだけ引っ張ってもよろしいでしょうか」

「……うん」

 少女が素直な子で助かった。テレーゼは自分のエプロンをカウチの座面に広げ、その上にドレスの汚れている部分を裏返して伸ばした。

(エプロンは……だめになるかもしれないけれど、背に腹は代えられないわ)

 そしてポーチから取り出したのは、木綿のハンカチと携帯用の小さいブラシ。ミニテーブル上の水差しを引き寄せて自分の髪を束ねていたリボンを解けば、準備物がそろった。

 まずブラシの柄の部分をハンカチでくるみ、リボンでぎゅっと縛る。これで即席綿棒の完成だ。

(マリーやルイーズはよく、ソースを服にこぼしていたわ。エリオスも何度か、学校の授業で服を汚したことがあったわね)

 普通の貴族ならば、服が汚れれば新しいものを買えばいいと考えるだろう。一度も洗濯することなく毎日新しいドレスにそでを通す者もいるそうだが、リトハルト家では服一着一着を何度も洗って着回してきたし、テレーゼも普段着なら自分で手洗いしていた。だから、シミ抜き技術もばっちりだ。

 水差しの水をグラスに注ぎ、綿棒の先端を浸す。そして少女がじっと見つめる中、赤い斑点をとんとんと叩き始めた。

「……とんとんするの?」

「はい。この汚れの場合、こうやってあて布を敷いてシミの部分を叩くと、シミが布に移るのですよ」

「そ、そうなの?」

「完全に取るのは難しいですが、目立たなくはなります」

 そう答えながら、丁寧にシミを叩いていく。

(いきなり真ん中から叩いたら、シミの部分が目立って残ってしまう。外側から地道に、少しずつ、なおかつこのお嬢様を心配させないよう急いで……)

 半ば祈るような気持ちでひたすら手を動かす。少しずつエプロンの布地に赤い汚れが移り、エプロンの位置をずらして再び叩き、水を垂らしながら汚れを落としていく。

 ──そうしてしばらく繰り返した後。

「さあ、いかがでしょうか?」

 最後に自分のハンカチでドレスの水分をぬぐい取り、テレーゼは少女にかつてシミのあった場所を見せた。そこはほんのわずか赤色っぽい線が残っているのみで、ほとんど目立たなくなっていた。少女は身長が低いので、普通に歩くだけならシミの跡に気付かれることはないだろう。

(できることはやったわ。これでご満足いただけたらいいのだけれど……)

 余裕の声を上げながらも、テレーゼの胸はかつてないほど激しく高鳴っていた。

『あなたの修繕が失敗し、ストールが余計に酷い状態になってしまったなら、どう償うつもりだったのですか!?

 再びテレーゼをさいなむ、コーデリアの声。

 もし、少女がまた泣きだしたら。「ぜんぜんだめ!」と突っぱねたら──

 はっ、と息を吞む声。テレーゼが掲げ持っていたドレスの布地が引っ張られる感触。いつの間にか固く閉ざしていたまぶたをそうっと開くと──

「……す、すごい! ぜんぜんめだたない!」

 少女は下着が見えそうなほどスカートを持ち上げ、はしゃいだ声を上げた。テーブルの明かりにドレスを照らし、カーテンの隙間から差し込む会場の明かりにかざし、最後には満足そうにほうっと息をつく。

 同時に、緊張で強ばっていたテレーゼの体からも力が抜け、固まっていた息を吐き出した。

「ありがとう、にょかんさん!」

「いえ、お力になれたようで何よりです。……あ、ただ応急処置をしただけですので、お家の侍女や使用人には必ず事情を伝えてくださいね」

「うん、わかった! ちゃんと言うね!」

「それでは、わたくしはこれで──」

「あのね、おとうさまに会いにいこっ!」

 後片づけをしてさっさと退散しようとしたテレーゼだが、小さな手に腕をつかまれてがくっと体を前のめりに倒してしまう。この少女と同じくらいの年の妹を持つテレーゼに、無邪気な手を振り払うことはできない。

「え? あ、あの、わたくしはしがない女官で──」

「ミミをたすけてくれたんだもの! おとうさまもね、なにかしてもらったらどんな人でも、ありがとうって言わないといけないって言うの」

 そこまで言われると、ウダウダ言い訳することもできなくなった。

(……でもまあシミ抜きもうまくいったみたいだし、お父様にごあいさつくらいしないといけないわよね)

 観念して、カーテンをまくって会場に戻った。カーテンの奥はほんのり暗かったのでいきなりのせんこうに目を焼かれそうになったが、少女は意に介しないでずんずんと歩いていく。彼女に手を引っ張られながらちらっとドレスを見たが、やはりほとんど目立っていなくて安心した。

(それにしても、このお嬢様はどこのご令嬢なのかしら)

 少なくとも、テレーゼとリズベスが受付を始めてからはお目に掛かっていない。そう考えながらついて行っていると──

「あっ、おとうさま!」

「おお、ミミティア! どこに行っていたのだ?」

 テレーゼの手をぱっと離し、少女は父親らしき男性に駆け寄って思いっきり抱きついた。

(……あら? この方、外国からいらしたのかしら?)

 父親は娘と違って肌が浅黒く、まとっている礼服もアクラウド公国の正装と違い、ゆったりとしたローブのような形をしていた。目も髪も濃い色で、口元には立派なひげをたくわえている。

「あのね、ミミがこまっていたら、あのにょかんさんがたすけてくれたの!」

 父親に抱っこされた少女がうれしそうに言うと、父親はおや、とテレーゼを見てきた。

「そうなのか? それは助かった。娘が世話になったようだな」

「いえ、お嬢様が元気になられたようで何よりでございます」

「いやいや、感謝している。して、名前はなんというのだね? 是非礼をしたいのだが」

 少女の父親はたいへん気さくで人当たりがよいようだ。

(お礼……! そ、そりゃあ素敵な響きだけど、私はお嬢様からお礼をぶんどりたくてやったわけじゃないし!)

 むしろ、妹くらいの年の少女に「ありがとう」と言ってもらえただけで十分だ。

「わたくしはテレーゼ・リトハルトと申しますが、お礼なんてとんでもないです」

「そうなのか?……待て、そなた、もしやリトハルト侯爵家の──?」

 テレーゼの家名の意味するところを知ったのか、男性は目を見開いた。そしていきなりガッハッハ、と笑いだすと、娘を抱き上げていない方の手でテレーゼの手をがしっと握ってきた。

「まさか、娘を助けてくださった女官がレディ・リィナの姉君だとは──お会いできて光栄ですぞ、レディ・テレーゼ!」

「い、いえ、そんなことは──」

「──未来の大公妃殿下の姉君に、心からの感謝を」

 それまでの大声から一転、男性は娘を床に下ろすとどこか厳かな声で告げ──太い腕で、テレーゼをがしっと抱きしめてきたのだった。

 どうやら彼にとっては親愛のあかしらしいが、テレーゼはそれどころではない。

(ち、力強い! 息、が……うっ)

 テレーゼは、目の前が、真っ暗になった──