6章 令嬢、めげたりはしない



 テレーゼの手の中で、くるりくるりと小さな惑星が回転する。

 くるりくるり。回転するにつれ、惑星からぼこぼこした皮ががれ、つるりとした黄色い地殻があらわになっていく。全ての皮を剝がされた黄色い星はテレーゼの手により、ちゃぷん、と音を立てて水底に沈む。

 その星の名は、芋。

 アクラウド公国の農村地帯で収穫された、丸々と肥えたおいしそうな芋である。

「ほんとほんと。最初は、見習といえどまさか女官様に下ごしらえを手伝ってもらうなんて、恐れ多いと思っていたが……」

「いやはや、なんともすばらしい芋のき具合! 可食部分ぎりぎりに包丁を入れ、皮を剝く技能!」

「それだけでなく、作業も速いとなったら言うことなしじゃないか!」

「アクラウド公国の明日は明るいねぇ!」

「ありがとうございます!」

 芋の皮を剝くだけでアクラウド公国の未来に光が差すとは思えないのだが、包丁と芋片手に振り返ったテレーゼはとりあえず、元気よくお礼を言っておいた。

 本日半日の休暇をもらっているテレーゼは、公城のちゆうぼう──の脇に隣接している小部屋にお邪魔していた。

 今までは半日休暇をもらったならば、バザーに行ったり城下町の屋敷で暮らしている家族に会いに行ったりリズベスたちと町をぶらついたりしていたのだが、今のテレーゼはまだ「職務以外での外出禁止」を食らっている。

 ということで、休日でもテレーゼの移動範囲は公城内に限られてしまうため、せっかくだからと大公妃候補時代のように城内を探検したり、使用人たちの仕事の手伝いをしたりしていた。

 料理人たちが一日中忙しく走り回る厨房と違い、「下ごしらえ部屋」と呼ばれるここは人の動きは少なめで、比較的平和だった。ただ、やるべきことはとにかく多い。

 床に座り込んでひたすら芋の皮を剝くテレーゼの背後では、下ごしらえ係たちがのほほんと会話をしているが、話しながらも彼らの手はすさまじい速度で野菜の皮を剝き、鶏肉の筋を取り、魚を三枚に下ろしている。料理に慣れているテレーゼだが、彼らの神速にはかないそうもない。

 ちなみに大公妃候補時代に知ったのだが、城の厨房は一つではなかった。今テレーゼがお邪魔しているのは、自分たち女官やジェイドたち騎士、官僚やそのほか大勢の使用人など、いわゆる「城仕え」の者たちの食事を提供するための厨房だった。大公やリィナなどの食事を提供するための厨房は別の場所にあるらしく、そちらは当然のことながら部外者立ち入り禁止だ。

(私も家族のご飯を作ったり領地での炊き出しに参加したりはしたけれど、ここまで忙しくも量が多くもなかったわね……)

 テレーゼはできる限り速く、そして怪我をしないよう細心の注意を払った上で芋の芽を取り、皮を剝き、水に浸していく。既に結構な量の黄色い星が水底に転がっており、隣に据えたバケツにはせんを描く茶色い皮がかなり積もっている。

 それでも、テレーゼの脇にあるかごにはいまだに山ほどの芋が盛られている。剝いても剝いても、数が減っているようには思われない。むしろ、途中で誰かがテレーゼにばれないよう、芋を追加しているのではないかとさえ思われてくる。

(下ごしらえ係の人たちは、私たちのご飯のために毎日毎日、この作業を繰り返しているのね)

 普段、何気なく食べている料理。

 テレーゼたちの口に運ばれる前に、食材を作る者がおり、それを城まで持ってくる者がおり、下ごしらえをする者がおり、調理する者がいる。そんな過程なんて知りもしないし、気にも留めない人も多いだろう。

(毎日おいしいご飯を食べられることに、感謝しないとね)

 テレーゼが下ごしらえを手伝うと申し出た時、最初は困った顔をされた。だが、「感謝したいから」と告げると皆は戸惑いつつも、テレーゼの手伝いを受け入れてくれるようになった。

 最初は「テレーゼ様」と呼ばれていたのが、すぐに「テレーゼさん」になり、間もなく「お嬢ちゃん」と親しく呼ばれるようになった。そんな変化が、テレーゼはうれしかった。

「すまないなぁ、お嬢ちゃん。おかげで助かったよ」

 包丁を握っていたため疲れた手をぶらぶらさせていると、ぬっと大きな影が頭上から降ってきた。顔を上げると、白いエプロンを身につけた中年男性──下ごしらえ係の責任者がテレーゼの手元をのぞき込んでいた。

「そろそろ手が疲れただろうし、お嬢ちゃんは片づけと掃除を頼む」

「確かにちょっと疲れたけれど……まだお芋がたくさん残っているわ」

「俺たちでするから気にすんな。……にしても、まさかリィナ様の姉君が芋の皮剝きをするとはなぁ……」

 しみじみとつぶやかれた言葉に、ほんのちょっとだけテレーゼの胸がちくっと痛んだ。

 だがあえて表情には出さず、テレーゼは立ち上がってうーん、と大きく伸びをした。

「そう? でも、リィナも大公閣下も許してくださるんだから、いいんじゃない?」

「はは、そりゃあまあな。……ああ、そういえばリィナ様といえば」

 ふと責任者が考え込むようなまなしになったので、凝り固まった体の筋肉をほぐすためにストレッチをしていたテレーゼは首を傾げた。

「リィナがどうかしたの?」

「教えるから、おおまた開きのままこっちを見ないでくれ。なんか見ている俺の方が恥ずかしくなってくる」

「あら、ごめんあそばせ。……それで、リィナが何て?」

「厨房のやつが専用厨房のやつから聞いた話だから、又聞き情報になっちまうんだがな。最近、リィナ様の食があまり進まれないそうなんだ」

 先ほどまでテレーゼが座っていた場所に腰を下ろし、テレーゼが残していた芋を凄まじい速度で剝きながら彼は呟いた。

 専用厨房とは例の、大公やリィナなど高貴な身分の者たちの食事を作るための特別な厨房だ。こちらの厨房と専用厨房でも、情報の交換は行われるようだが──

(……リィナが、ご飯を食べていない?)

「……それって、体の調子がよくないとか……?」

 自分が剝いた芋入りのボウルを移動させながら、にわかに心配になってきたテレーゼが尋ねると、男はすぐに首を横に振った。

「ご病気とかではないそうだし、まったく召し上がらないわけでもない。リィナ様はお一人で食事をなさるのがお好きではないようなので、普段から侍女や女官、お時間の空いた時には大公閣下も一緒に召し上がるそうなのだが……簡単に言うと、食事にそこまで乗り気でらっしゃらないそうなんだ」

「好き嫌い……はあまりしそうにないわよね」

「そのようだな。大公閣下も心配なので好物などを尋ねられているそうなんだが、『特にない』の一点張りらしく。普段のご様子はよろしいようだしティータイムなどは楽しまれているようなんだが、食事の時だけ少しだけご様子が違うようなんだ」

 どうしたものかな、と難しい顔をしながらも、彼の手は休むことなく芋の皮を剝き、水に浸し、芋の皮を剝き、浸し、を繰り返している。ちゃんと目視で包丁の位置やボウルの位置を確認しないと芋を取り落としたり包丁で指を切ったりしてしまいそうなテレーゼと違い、彼はよそ見をしながらでも考え事をしながらでも、確実に仕事をこなせるようだ。

(それにしても、さっきの話──)

 ボウルの移動を終えたテレーゼは掃除道具箱からモップを取り出し、床を磨きながら考える。

 リィナが、食事に対してあまり乗り気でないという。食べ物の好き嫌いがあるわけでもなかったと思うし、お茶の時間やその他の時には元気そうということなら、体調面での問題があるわけでもないのだろう。だいたい、病気であれば即刻大公が医者を呼ぶはずだ。

(でも、この前の食事会では楽しそうに──あれ?)

 ふと、テレーゼは掃除をする手を止めて瞬きをする。

 以前、リトハルト家の家族と大公を交えて食事会が開かれた。最初は皆どことなく緊張していたり距離をつかみかねたりしていたが、最後には和やかに会を終えることができた。

(でも、食事会を終えて──お父様たちをお見送りした後、確か私はリィナに、ご飯がおいしくてお腹いっぱいになれたね、って声を掛けたわ)

 その時のリィナは、少し言葉の切れが悪かった。何か思うことでもあったのだろうかとテレーゼも気にしていたではないか。

「……お嬢ちゃん? 立ったまま寝ているのか?」

「しかも目を開けたままなんて、女官は器用だなぁ」

「え?……あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたの」

 モップを持ったまま動きを止めていたからか、周りで作業をしていた者たちに心配されて声を掛けられてしまった。

 いそいそとモップで床を磨きつつ、テレーゼは頭も回転させる。

 リィナは最近、あまり食事に乗り気でない。しかし、食べないわけではない。

 大公に好物を聞かれても、「特にない」と答える。

 食事以外の様子は良好で、お茶会などでは普通に過ごしている。病気の可能性も低い。

 そして、「おいしくてお腹いっぱいになれたね」というテレーゼの言葉に対し、口ごもっていた。

(……もしかして)

 テレーゼは顔を上げ、壁に貼られていた「今日のメニュー」の紙を見つめる。そして、相変わらず凄まじい速度で芋の皮を剝いていた責任者の名を呼んだ。

「あの、もしかしたらなんだけど──」


 本日は大収穫だった。

 厨房を出たテレーゼは、いたくご機嫌だ。

 テレーゼの「意見」を聞いた責任者は乗り気になり、目を輝かせながら話を聞いてくれた。そうして、「お嬢ちゃんの言うことには一理ある。今度専用厨房のやつらにも相談してみる」との言葉をもらえた。

(これで、リィナも元気になればいいんだけど)

 平民出身の次期大公妃。テレーゼたちの前では弱った姿を見せたことはないし、見習に過ぎない自分が常にリィナの様子を見られるわけでもない。だが、一国の妃となる重責をその身で感じていることだろう。

(ついでに、とっておきの節約料理も教えてもらえたし! ああ、何から作ろうかなぁ……!

 肩から提げているポシェットには、料理人たちから譲ってもらったレシピを入れていた。口頭で説明された内容を急いでメモしたものなので、部屋に戻ったら読み直して清書する必要がありそうだ。普段からまかないを作っている料理人たちの知恵と食材の活用術には、メモを取りながらテレーゼも舌を巻くばかりだった。

(野菜の皮で作ったチップスもおいしそうだし、柔らかい葉っぱを使ったサラダも簡単に作れそうだわ。ああ、そういえばマリーとルイーズはパイが好きだから、鶏肉の代わりに刻んだお豆を入れたヘルシーミートパイを作ってあげられたら──)

 かわいい妹たちの喜ぶ顔が脳裏に浮かぶようで、思わず頰が緩んでしまう。

「……また、城内をはいかいしているのですか」

 ふわふわ夢見心地だった頭はあきれたような声を聞いたとたん、さっと我に返った。

 振り向くと、廊下の角に立つ女官の姿があった。少々夢想にふけってはいたもののちゃんと周りを見ていたつもりだったが、廊下の柱の陰で死角になっており気付くのが遅れてしまった。

(うっ……さっきの緩んだ顔、見られた!?

 慌てて冷静な表情に切り替え、スカートをつまんでお辞儀をする。

「お疲れ様です、コーデリア様。厨房に行っておりました」

「聞かなくても分かります。……泥と生臭い臭い。このような臭いをまとわせたまま平然と出歩けるような女官は、あなたくらいです」

 コーデリアはヘーゼルの目をぎらぎらと輝かせ、テレーゼをにらんできていた。胸の前で組んだ腕は力がもっているのがいちもくりようぜんで、いらちを示すように指先がそわそわ動いている。いつものことながら、既にコーデリアはお怒りのご様子だ。

「申し訳ありません。厨房のお手伝い中は私服で過ごし、その後着替えたのですが」

「お待ち。あちこちちょろちょろするのみならず、使用人の仕事を手伝ったのですか!?

 もともとコーデリアの機嫌はよろしくなかったが、テレーゼの返事でますます悪化してしまったようだ。

(……でも、なじられるようなことはしていないわ)

 テレーゼはきゅっとまゆを寄せ、「お言葉ですが」と一歩進み出た。

「……わたくしが他の女官の皆とは違った行動をしていることは承知しております。しかし、女官としての評判を下げることはしておりませんし、料理人の皆様や騎士様、使用人の皆からはお褒めの言葉をいただいております。もしわたくしの行動で城仕えの皆様にご迷惑をお掛けするなりしていれば既に、女官長様に報告が行っているはずです。それが今の今までないのは、わたくしがとがめられるような行動をしていないというあかしではないでしょうか」

 城外での行動はともかく、城内での行いや振る舞いは思ったより多くの人に見られている。女官の中でも、「休憩時間に恋人とおうを重ねていた」「仕事中、城の備品を壊していた」「部屋に騎士を連れ込んでいた」といった失態を報告され、処罰を受けたりクビになったりした者がいると聞いたことがある。城仕えの者にとって、「誰にも見られていないから、きっと大丈夫」は案外通用しないものなのだ。

 テレーゼは自分があちこちフラフラしていることを隠していないし、テレーゼの奇行は大公の耳にも届いている。もしテレーゼが女官として──ひいては次期大公妃の姉君として目に余る行動を取っていると判断されれば、もっと早い段階で女官長からお叱りを受けているはずだ。

 テレーゼ自身も気を付けているし、女官長からもそういった忠告を受けた覚えはない。部下に対して一切の甘えを許さない女官長だから、テレーゼが間違ったことをしていればリィナの姉だろうと何だろうと容赦はしないだろう。

 テレーゼの反論に、コーデリアの口元が引きつった。

「……べんです」

「わたくしは真実を申したのみです。本日わたくしをここでご覧になったことを女官長様にご報告なさるのでしたら、わたくしはお止め申し上げません」

「っ……わたくしを挑発しているのですか!? だいたい、あなたはいつも──」

 コーデリアがぎりっと歯をきしませて一歩詰め寄ってきたと同時に、廊下の奥から若い女性の話し声が聞こえてきたため、テレーゼとコーデリアははっとそちらを見やった。

 夕暮れ時の日が差し込む廊下。その先に、色とりどりのドレスを纏った令嬢たちの姿があった。

(そういえば、今日のお昼から何人かのご令嬢が集まるって言ってたっけ……)

 ぼんやりしているテレーゼとは対照的に、コーデリアは素早く態度を切り替えるとその場でお辞儀をした。

「これは、失礼いたしました。……あなた、道をお開けなさい」

「は、はい」

「どうも……ってあなた、テレーゼ・リトハルトではなくて?」

 コーデリアに倣って道を譲ろうとしたテレーゼだが、名前を呼ばれて顔を上げた。

 侍女を従えて廊下に立っている令嬢たちが、五人。五人ともテレーゼと同じ年頃で、その佇まいは高位貴族としての威厳に満ちている。よく顔を見ると──

「……あ、ひょっとして大公妃候補時代にご一緒しました?」

「まあ、わたくしたちのことを忘れていましたの!?

「そっ、そういうわけではありませんが……失礼いたしました」

「あら、そんなにかしこまる必要はなくてよ。わたくしたちの仲ではありませんか」

 どう対応したものかと目を泳がせるテレーゼに対し、令嬢たちはくすくす笑っている──が、その笑い方は決して嫌みなものではなく、「仕方ありませんね」と言わんばかりだった。

 そう、ここにいる五人は全員伯爵家以上の出身で、半年前には大公妃候補として共に登城した者たちである。

 公爵令嬢クラリスを崇拝する彼女らは最初こそまま放題で、テレーゼを無理矢理茶会に連れ込んだりリィナをひっぱたいたりしてくれた。だがテレーゼがバルバ王国の手先に捕まった際にはクラリス主導で結託し、バルバ王国派一網打尽とテレーゼの救出に一役買ってくれたのだ。

(あの後、お礼を言おうとしたけれど皆様は、リィナをたたいたことを水に流してほしいっておっしゃって、それっきりになっていたのよね)

 かつては対立していた彼女らだが、あの事件を通していろいろ考え直したのだろう。半年ぶりに再会した彼女らからは敵対心が感じられず、テレーゼはほっと胸をなで下ろした。

「それはそうですが……今のわたくしは女官見習ですので」

「ああ、そういえばそんなことも伺いましたっけ」

「何もわざわざ下働きなんてしなくてもよろしいのでは?」

「そうそう。実家の経営が苦しいのでしたら、わたくしたちに声を掛けてくださればよろしいのに」

「リィナ様のご実家ですもの。助力は惜しみませんよ?」

 そう言いながら令嬢たちはずいっと身を寄せてきた。どことなくその目がきらきら輝いているように感じられ、テレーゼは苦笑する。

(な、なるほど。リィナの実家だから、資金援助もするってことね)

 あまりにもあけすけで私欲に忠実だ。だが、裏でこそこそたくらまれるより直球を打ち込まれる方がずっと気持ちがいいし、テレーゼもそんな彼女らのことをかえって信頼したくなる。

「ありがとうございます。しかし、女官見習として働く日々は充実しておりますし、何よりわたくしはお金稼ぎが好きなので」

「……ああ、そういえばあなたはそういうお方でしたね」

「あなた、もうちょっとどんよくになった方がよろしいですよ?」

「本当に、呆れたお方です」

 それでも、令嬢たちは苦笑混じりに受け答えしてくれた。「こいつはこういう人間だから仕方ない」と彼女らも分かっているのだろう。

(……よかった。半年前はちょっとぎすぎすしていたけれど、皆様とも仲良くなれそうだわ)

 ふと、テレーゼはやけに静かなコーデリアの方を見やったが──

「……あら?」

「どうしましたの?」

「あの、わたくしの先輩がここにいたのですが……」

 いつの間にかコーデリアは姿を消していた。すると令嬢の一人が思い出したように、「ああ、あの女官なら」と声を上げる。

「ちょっと前にいなくなりました」

「えっ……」

 気付かなかった。

(もしかして、私が令嬢の皆様と立ち話していることを女官長様に報告しに行かれたのかしら……!?

 さっと青ざめるテレーゼだが、その理由をさとく察したらしい令嬢の一人が扇子の先を廊下の奥に向けた。

「あなたが心配することはなくってよ」

「そうそう。わたくしたちに捕まったのだとでも言えばよろしいでしょう」

「そうそう。うるさい女に捕まったのだと泣きつけばよろしいでしょう」

「そうそう。なんならこれから一緒にお茶でもしませんこと?」

「そうそう。毎日お仕事で疲れるでしょう。たまにはゆっくりしません?」

「え?……えーっと、わたくし今は休憩時間ですが、もうじき貴婦人のばんさん会の補助に行く予定でして」

「あら、それは残念」

「ではまた今度、ゆっくりお食事でもしましょうね」

「リィナ様にもよろしくお伝えくださいませ」

「よろしければ今度、リィナ様も交えてお茶会でもできれば」

 最後まで自分を売り込もうとする、抜け目のない女性たちだ。だがそんなところがまたしたたかな彼女ららしく、テレーゼは笑顔でお辞儀をして令嬢たちの行進を見送った。

(……皆様、変わられたのね)

 この半年間で彼女らが何をしたのかは分からないが、テレーゼへの態度は和らいだし、テレーゼの平民根性も一応認めてくれた──ように感じられる。

 以前のチャリティー公演会で活を入れてくれたクラリスにしろ、今回対等な立場で接してくれた令嬢たちにしろ、アクラウド公国は本当に強かでパワフルな女性が多いことだ。

(……うん、私だって頑張らないと!)

 そのためにもまずは、テレーゼを置いて帰ってしまったコーデリアへの言い訳を考えないといけない。

 だが結局その日、テレーゼはコーデリアを見つけられなかった。

 それどころか、晩餐会後に女官長に報告をしに行った際に令嬢たちのことを自己申告したのだが、「そのようなことはコーデリアから聞いておりません」とげんそうな目で見られてしまったのだった。


*  *  *


 今日もいい天気だった。いい天気でしかも、からりと乾燥していた。

「おおっ……! いい感じ、いい感じ!」

 一日の仕事と講義を終えて部屋に戻ってきたテレーゼは、メイベルが差し出してきた容器をのぞき込み、満面の笑みを浮かべた。

 この容器は一見ボウルだが、小さな穴がいくつも空いているコランダーと呼ばれる調理器具で、野菜やめんるいの水切りなどに利用される。メイベルが持っている金属製のコランダーの底には、くしゃくしゃになった紙切れのようなものが転がっていた。

「うん、いい乾燥具合!」

「このメイベル、テレーゼ様のおっしゃるとおり部屋の気温と湿度に気を配って管理をしました」

「ええ、あなたのおかげよ、メイベル。ありがとう!」

 欠片かけらを一つ摘んでその乾燥具合を確認したテレーゼは、ぎゅっとメイベルに抱きついた。テレーゼのお守りをしてきてもうじき十九年になるメイベルはそんな突然の行動にも慣れっこで、抱きつかれる寸前にコランダーを頭上に掲げてくれた。なんとも気の利く侍女である。

 メイベルに見張りを頼んだこのしなびた物体は、オレンジの皮だった。リズベスの両親が領地で採れたオレンジを大量に送ってくれたらしく、テレーゼにもおすそけしてくれたのだ。かなりの量だったので半分以上は現在城下町の屋敷で暮らしている家族のもとに送り、残りをメイベルと一緒においしくいただいた。

 普通なら果実の皮なんてすぐゴミ箱にポイだろうが、そうはしないのがテレーゼだ。

「オレンジの皮はね、そのままでも紅茶に入れたり床磨きに使えたりするし、乾燥させたらもっといろんな用途があるの」

 メイベルから受け取ったコランダーをテーブルの上でひっくり返し、カリカリに乾燥したオレンジの皮を広げる。食べ終わった後の皮を手で千切っただけなので大小様々だが、使う分には問題ない。

 乾燥させたオレンジの皮をハンカチに入れて、ひもで縛る。これだけでも消臭剤として優秀だが、に入れると入浴剤代わりになる。

 公城で寝泊まりしているといえど、水は貴重だ。テレーゼたち女官見習は普段、たらいに張った水で体を洗っている。半月に一度くらいは城下町の大衆浴場に行き、八人で一つの湯船を使って温かいお湯にほっこりつかることにしていた。

 先輩女官たちもお気に入りだという大衆浴場は大浴場ではなく、グループにつき一つの浴室、浴槽を借りることができる。人数制限はないので、一人あたりの料金を安く抑えるためになるべく大人数で湯船を使うようにしているのだ。大浴場よりもやや割高だが、仲間だけで使うことができるのが人気の理由だったし、テレーゼも気に入っていた。

(その時、みんないろいろなお風呂道具を持ってくるのよね)

 いい匂いのする石けんや、「なんか不気味なほど泡立つ」がキャッチフレーズらしいふわふわのボディタオル、炭を使った洗顔料や風呂上がりに使う保湿剤などを持参し、半月に一度の風呂を存分に楽しむ。このオレンジも、今度リズベスたちと一緒に浴場に行く際に持って行けそうだ。

 また、乾燥したオレンジの皮を細かく刻めば肥料にもなる。テレーゼの部屋には植物を置いていないので今は活用できないが、きっと母たちはおいしく味わったオレンジの皮を同じように乾燥させ、栄養抜群の肥料にして領地に送っているだろう。

(もしお砂糖がたくさんあれば、オレンジの皮のピールを作れるんだけど……さすがにそんな余裕はないわね)

 細く切ったオレンジの皮を砂糖水でよく煮て、乾燥させる。仕上げに砂糖を振ればおいしいオレンジピールのできあがり──なのだが、いかんせん砂糖は高価だし、安物の砂糖は不純物が多いため舌触りが悪くて茶色っぽく、これでオレンジピールを作ってもあまりきれいな色にならないのが難点だ。金に余裕ができたら真っ白な砂糖を買い、妹たちにおいしいお菓子をたくさん作ってあげたいものである。

 一通りオレンジの皮を確認した後、メイベルが淹れてくれたお茶で一息つく。仕事の後に仲間たちと一緒に夕食を食べたので、今はお茶だけで十分だった。

 紅茶には、まだ残っていたオレンジをくしがたに切ったものを添えていた。普段テレーゼやメイベルが飲む紅茶は市場で仕入れた超特価品なので、味はいまいちだ。そんないまいちな紅茶も、リズベスが分けてくれたオレンジを添えればそれだけでかんきつるいの香りが部屋に満ちて、優雅な食後の茶を飲んでいる気分になれた。

「……そういえばテレーゼ様。明日、女官長様から重大なお知らせがあるそうですね」

「そうそう。リィナのお披露目会で側に控える女官を選ぶことになったのよ」

 女官長の説明によると。

 来月、大公とリィナの婚約記念式典が執り行われる。その際、リィナの世話係となる臨時の専属女官を選ばなくてはならないのだそうだ。

「今のリィナは女官にしても侍女にしても、まだ『専属』を選んでいない。だから今度のお披露目会では、ひとまずのところ今回限りの専属を付けないといけないのよ」

「……もしかすると、その会で臨時の専属に選ばれた者が最終的に末永くリィナ様をお支えすることになるのかもしれませんね」

「そうなの。だから先輩たちは結構ピリピリしていてね……でも、いつものことかな」

 テレーゼたち見習は最初から選ばれる気がないのだが、先輩女官たちならばどの階級でも十分可能性がある。

(リズベスたちによると、コーデリア様が有力株らしいのよね)

 コーデリアのチョーカーの色は赤。見習である白より一つ階級が上なだけの四等女官だが、実力さえあれば赤チョーカーの者が選ばれてもおかしくない。そして──コーデリアにはいろいろ思うことはあるのだが、彼女のリィナに対する忠誠心は本物のようで、かなり高く評価されているらしい。

『でも、テレーゼは分からないわよ』

 紅茶を飲んでいるとふと、今日の夕食時の仲間の言葉が思い出された。

 明日、リィナの臨時専属の発表ということで、仲間同士での話題でも持ちきりだった。そんな中、「私たちはまず選ばれないわよね」と話していると、意外な指摘が入ったのだ。

『テレーゼはリィナ様の姉君だもの。見習だとしてもテレーゼなら選ばれるかもしれないわ』

 そんな馬鹿な、とそれを聞いた時のテレーゼは笑い飛ばした。

(今の私は、白チョーカー──つまり、見習。この道何年の先輩たちを押しのけて、私が選ばれるはずないわ)

 だいたい、選ぶのはリィナやあの厳格な女官長だ。女官長は「姉妹なのだから、勉強も兼ねてたまには行動を共にしなさい」という助言はくれたが、かといってそれ以上にテレーゼを特別扱いしたことはない。リィナと行動を共にすることは許されても、それを仕事での評価に入れることは絶対にしなかったのだ。

 もしかすると、メイベルも同じようなことを考えているのかもしれない。だが彼女は余計なことは一言も言わず、「そうですね」と無難な相づちを打つだけだったのがありがたかった。


*  *  *


 翌日。

 女官見習たちは普通、朝食の後で講義があるのだが、今回は女官長からのお達しがあるため午前中の講義は全て休講となった。

「私たちはまず、専属女官には選ばれないけどね」

「でも、婚約記念式典当日の仕事割り振りも今日発表されるんでしょう?」

「そうそう。会場係なのか、受付なのか、接待なのか。よほどのことがない限り、何かを任されるそうね」

 隣で身だしなみを整えながら仲間たちがおしゃべりをしている間、テレーゼは黙って鏡に映る自分の姿を見つめていた。

 ふわふわの髪を左右の肩で束ねるリボンの位置は、ばっちり。ドレスにはシミもしわもなく、エプロンの紐も曲がっていない。

(私が臨時専属に選ばれることは、あり得ない。……そう、あり得ないのよ)

 むしろ、そんなことがあってはならない。

 リズベスたちは「どこに配属されるかな?」「お酒臭い酔客の相手は嫌よねぇ」と気軽な様子でおしゃべりをしている。それは、「自分は絶対専属にはならない」というある種の自信があるからできることだろう。

(私だって同じ。同じ、はずなのに……)

 リズベスたちは男爵家、もしくは子爵家の娘たち。

 対するテレーゼは彼女らと同じ職に就き、一緒に勉強し、時には遊びに行く仲であるものの、侯爵令嬢であり、次期大公妃の姉。

 なぜか今は、彼女らとの距離が少しだけ遠いと感じられた。


 身仕度を調えると、テレーゼたちは大広間に向かった。普段女官長から呼び出しを受ける際の集合場所は女官長の執務室なのだが、今回は百名以上の女官が集まる。そのため、大広間を借りて役割発表を行うことになったのだという。

 大広間には既に、大勢の女官たちが集まっていた。顔だけだと彼女らの階級を判断できないので、チョーカーの色を確認するのが一番手っ取り早い。

(白は私たち見習。コーデリア様たちが赤で、それ以降は順に黄、青、紫、黒と続いているのよね)

 赤いチョーカーの下級女官には日頃から世話になっているが、中級・上級女官とは滅多に顔を合わせることもない。あちこちに使い走りさせられる見習や下級女官と違って、黄色チョーカー以上の女官たちは専ら城内で仕事をするので、そもそもの行動範囲が異なるのだ。

 ざっと見たところ、テレーゼたち十代後半は白か赤チョーカー、二十代くらいは黄色チョーカーで、三十代になってやっと青チョーカーに到達できるくらいのようだ。女官長は確か三十代だったと思うが、若くとも最高位の黒チョーカーを身につけるだけの才覚にあふれているということだろう。

「テレーゼ、私たちはこっちよ」

 人間観察していたテレーゼはリズベスに小声で呼ばれ、女官たちの列の最後尾に並んだ。途中、テレーゼの方をちらっと見る者たちの視線を否応なく感じる。「テレーゼ」と聞いて、その身分を知ったのだろう。

(気まずい……でも、今の私は下っ端中の下っ端! 先輩には敬意を!)

 気合いを入れ、視線が合った相手にはお辞儀を返す。するとたいていの者はわずかに首を傾げるなりうなずくなりして応え、そのまま前を向いてくれた。

(お母様直筆『お城で生き抜くためのメソッド集・きわみ』より、『自分の立場を忘れるな! 敬意を払うべき時は、マナーに則って礼儀を尽くせ』のとおりだわ! よし、平常心平常心!)

「皆、集まりましたか」

 やがて女官長が入ってきたので、順に集合確認を行う。ちなみにテレーゼたちは今年の第一期の見習で、この夏に二期が入ってきている。二期の者たちはまだ実地訓練もしていないため、今回の会で仕事を割り振られることはない。よって彼女らは、見学のために集まっているようだ。

 全員の点呼を終えると、壇上の女官長は頷いて声を張り上げた。

「それではこれより、大公閣下ならびにリィナ・リトハルト様の婚約記念式典における役割分担の発表を行います。この分担は大公閣下とリィナ様のご意見をもとに、わたくしが立案いたしました。どのような結果になろうと、己の職務に忠実であることです」

 ごくり、とつばんだのは誰だろうか。緊張のあまり、体が震えている者もいるようだ。

 テレーゼは手袋の手のひら側の布をつまんで、少し中に空間を作った。「専属になるはずがない」と思っているというのに心臓は高鳴っているし、手汗がひどい。

 女官長は緊張の面持ちの女官たちを見渡すと、腕に抱えていたようせん挟みを手に取り、表紙を一枚めくった。

「ではまず、式典中にリィナ様の臨時専属女官となる者から──」


*  *  *


 今夜は、曇り空だった。

「どうぞ、お姉様」

「ありがとう、リィナ」

 リィナが差し出したカップを受け取り、テレーゼは顔を上げた。

 ここは、公城一階の隅にあるサンルーム。ガラスで四面を囲まれているので、見上げると鉛色の夜空を仰ぐことができた。このガラスの天井に落ち葉が積もったり泥が付いたりするだろうから、掃除する人はたいへんそうだ。

 仕事と夕食を終えたテレーゼは、リィナに会いに来た。事前の予約をしていなかったので門前払いされる覚悟だったが、大公もリィナも許可をくれた。だがどうやらリィナの部屋は現在少々散らかっているようで、よくリィナが大公と一緒にお茶の時間を過ごすというサンルームで話をすることになったのだ。

 ガラスの壁には、しようしやなテーブルを挟んで座るテレーゼとリィナの姿が映っている。見た目も性格もかなり違う二人だが、リトハルト侯爵家のあかしである家紋を、テレーゼは胸のブローチに、リィナはペンダントトップに刻んでいる。

「たまには姉妹で語り合いたいから」ということでリィナは侍女たちを少し遠ざけ、手ずから茶をれてくれた。もちろん最初はテレーゼがすると申し出たのだが、「わたくしも少しは器用になったのですよ」と主張するので、お願いすることにしたのだ。

「いかがですか、お姉様」

…………うん、おいしいよ」

「正直にお願いします、お姉様」

「すごく渋い」

「ありがとうございます。……まだまだですね」

「う、うーん……でも大公妃候補だった頃、一度だけ淹れてくれたことがあったよね? あの時よりはずっと上達したと思う」

 大公妃候補だったテレーゼと、その教育係だったリィナ。当時のリィナの立ち位置は、付添人という令嬢のお友だちのようなものだったので、彼女が茶を淹れたりテレーゼのメイクをしたりする必要はない。だが、「リィナの淹れるお茶を飲んでみたいなぁ」と、試しにお願いしてみたことがあった。

 テレーゼが紅茶を飲んでまずさのあまり噴き出したのは、後にも先にもあの時だけだろう。リィナは真っ青になってびるし、テレーゼは自分でお願いしておきながら噴き出したことが申し訳ないしで、ジェイドが間に入ってくれなければあのまま謝罪合戦になっていただろう。

「それならよかったです。……実はですね、ちょっと前にレオン様がわたくしの淹れたお茶を飲みたいとおっしゃったことがありまして」

「う、うん」

「お姉様に淹れて差し上げたことを思い出したので、わたくしはきちんとお断りしました。でも、それでもいいからとおっしゃるので淹れたのですが……」

「淹れたのですが?」

「ゴフッとガフッの間のような音を立てて、むせてらっしゃいました」

「あぁー……

「それからはちゃんと練習したのです。……少なくとも吐き出されるような代物ではなくなったようで、一安心です。もっと精進しますね」

「……そう、だね」

 とりあえず相づちは打ったが、あの大公なら「リィナが淹れました」「リィナが作りました」と言えば何でも喜んで口にしそうなのが心配ではある。

 リィナが淹れた茶を二人で協力して飲み干した後、今度はテレーゼが淹れ直すことになった。

(高価な茶葉なんだから、大事に使わないと!)

 大公の愛する婚約者であるリィナならともかく、自分はいち女官に過ぎない。目を皿のようにして茶葉の量を調節し、沸かした湯をポットに注ぐ時には息を止め、ひっくり返した砂時計の粒がベストタイミングを刻んだ瞬間、茶葉を揚げる。

 そうして淹れた茶は──

「お、おいしい……!」

「よかった! あの、おかわりあるからね」

「ありがとうございます、お姉様。おかわりお願いします」

 リィナはにっこり微笑んでおかわりの茶を飲んだ後、ふと真剣な表情になった。

「……お姉様が今日いらっしゃったのは、本日の発表についてでしょうか」

 やはり、何も言わずともリィナも察していたようだ。

 テレーゼはポットを置いて微笑み、ひざの上に手を重ねて深くお辞儀をした。

「リィナ──様。本日は、ありがとうございました」

「お姉様……」

「わたくしを専属に据えなかったこと──心より感謝いたします」

 そう告げた声ははっきりと通り、サンルームに響いた。

 ……今朝、女官長が発表した分担。

 リィナの臨時専属女官に選ばれたのは、紫チョーカーの女官が二人、青と黄色が一人ずつ、そして──赤チョーカーのコーデリアだった。

 女官の列でテレーゼにほど近い場所にいたコーデリアの顔は、よく見えた。自分の名前が呼ばれた瞬間、その横顔がぱあっと晴れ渡ったのも。

 女官長は選ばれた五人に関して、「それぞれの階級でもっとも献身的で、仕事能力が高く、今後が期待できそうな者だから」と述べた。先輩女官たちの表情を見るに、人選は誰もが納得いくものだったようだ。

 臨時専属に、選ばれなかった。

 それが分かったとたん──口から心臓が飛び出そうなほど緊張していたテレーゼの体は一気に落ち着きを取り戻し、視界がすうっと開けたように感じられたのを思い出す。

 一番に思ったのは──「よかった」だった。

(選ばれなくて、よかった。リィナも女官長様も、公正に選んでくださって……本当によかった)

 テレーゼの感謝の言葉に、リィナは赤茶色の目を細めてカップを置いた。

「……それは、身内だからとひいしなかったからですか?」

「はい。……実は見習仲間からは、『テレーゼはリィナ様の姉君だから、選ばれるかもしれない』と言われていたのです」

「……しかしお姉様は、選ばれなくてあんしたのですよね?」

「そうです。もし、わたくしが選ばれるようなことがあれば……リィナ様が、わたくしを姉だからと贔屓していれば──」

 その後は言うのがはばかられ、テレーゼは言葉と共に唾を吞み込んだ。

 だがリィナはテレーゼの言わんとすることを察したようで、ふわっと微笑んで紅茶を一口飲んだ。

「……なるほど。もしわたくしが公正な目を持たず、お姉様を身内贔屓するようであれば……お姉様は、わたくしを見損なわれていたでしょうね」

「リィナ様、わたくしは──」

「本当はですね、お姉様を推薦しようと思ったのです。ですが、レオン様に叱られてしまいました」

 リィナの衝撃発言に、テレーゼは目を見開く。リィナがテレーゼを推薦しようと思ってはいたということも驚きだが、それ以上に──

(叱られ……ええっ!? リィナが、あの大公閣下に!?

 婚約者だけにはやたら甘い顔を見せているあの大公がリィナを叱るなんて、想像も付かない。

 だがリィナはくすっと笑い、その時のことを思い返しているかのような遠いまなしになった。

「叱るといいましても、注意を受けた程度ですけれどね。……それが本当に自分のため、そしてテレーゼ・リトハルトのためになるのかよく考えろ──レオン様はそうおっしゃいました。わたくしの甘えた心をしつしてくださったのですね」

「それはそうでしょうが──」

「そんな顔をなさらないでください、お姉様。レオン様はわたくしを正してくださったのです。そのことに感謝しております」

 そう言うリィナの表情は落ち着いている。

(そっか……大公閣下はリィナに甘いけれど、何でもかんでも許しているわけじゃないのね)

 大公のプロポーズシーンを目の当たりにしていたく興奮したテレーゼだが、押しの強い大公と引き気味のリィナがうまくやっていけるのか、少々心配はしていた。リィナがよそのお嬢さんだったら「頑張れ」の一言で済んだだろうが、今のリィナはテレーゼの妹。リトハルト家の家族も皆、大公とリィナの様子を気にしているのだ。

(でも、これなら問題なさそうね)

 リィナはここ半年間の教育のたまものか、以前よりさらに気品に満ちた微笑みを浮かべてテレーゼを見つめ、「それにですね」と続ける。

「わたくしにとって、テレーゼ様──お姉様は、永遠のあこがれであり、目標なのです」

「目標がしょぼすぎない!?

「何をおっしゃいますか。わたくしが官僚だった頃も、レオン様の婚約者になった今も、お姉様にはかないません」

「自分で言うのもアレだけど、私を比較対象にしない方がいいわよ?」

「お姉様はそう思われているのかもしれませんが、わたくしはずっと、お姉様に助けられてきました。本当は、今度の式典でもお姉様に側にいてほしかった。……わたくしの存在が全ての国民に認められているわけではないことは、分かっております。ですから努力もしてきました。……それでも、やはり心細くて」

 だめですね、と小さく笑うリィナを、テレーゼは目を見開いて見つめる。

(やっぱりリィナも、気付いていたのね)

 平民出身の次期大公妃を、歓迎しない者もいる。

 表面だけ従順なフリをして、内心では見下している者もいる。

 いつも真っ直ぐ背筋を伸ばしているリィナだって気が滅入るだろうし、何かにすがりたくなるだろう。縋る先ががっしりした大樹のような人ではなく、わらを編んで作ったひものような自分であるというのは少々想定外だが。

「……つらい?」

「はい、辛いです。……でも、レオン様や家族の皆、そしてお姉様が──支えてくれる人がいるので、頑張れます」

 はっきりと言い切るリィナの姿に、テレーゼの胸が温かくなった。

「平気です」「辛くありません」と意地を張るのではなく、テレーゼの前では素直な気持ちを教えてくれたこと。そして、テレーゼのことを「支えてくれる人」と呼んでくれたことが、純粋にうれしかった。

「わたくし、強くなります。この前はついついお姉様に甘えてしまいそうになりましたが……レオン様もおっしゃったとおり、それではわたくしのためにもお姉様のためにもなりませんからね」

 そう告げる血のつながりのない妹の眼差しは真剣で、それでいて温かみがある。ぐっとこぶしを固めて宣言する姿はまさに、リトハルト家の娘といったところか。

(……私も頑張っているつもりだけど、リィナも同じように努力しているのよね)

 テレーゼはニッと笑い、リィナと同じように右手の拳を固め、目の高さに挙げた。

「それじゃあ、私だって同じように頑張らないとね!……あ、でも無理は禁物よ! 二ヶ月だけだけど、私はリィナのお姉ちゃんなんだからね。何かあれば、どーんと頼ってちょうだい!」

 その言葉に。

 ほんの少し、リィナの紅茶色の目が揺れたような気がする。

 だが彼女はすぐに笑みを浮かべ、うなずいた。

「はい。……これからも頼りにしています、お姉様」


「……そういえばさっき、大公閣下に叱られたって言っていたけれど……リィナは大公閣下とけんとかはしないの?」

「うーん……喧嘩、というほどのことはしないですね。……あの、ですが一つだけ悩みがありまして」

「んんっ?」

「……時々、レオン様に対してどう反応すればいいか分からず、困ることがあるのです」

「悩み相談ね! それならこの私にどーんと任せて!」

「ありがとうございます! 実はですね、レオン様はたまに手を出してきたりいきなり距離を詰めてきたりするのです。その時、手をちょっとたたいたり胸を押したりすると……何というかこう、とろっとした感じの嬉しそうな顔になるのです。……この騎士の方いわく、『もっと叩いてとうされたいのでは』とのことでして」

「……」

「わたくし、どうすればいいと思います?」

「叩けばいいと思います」

 公国は、今日も平和だ。

 実によろしいことである。


*  *  *


 リィナと一緒に、たいへん有意義な時間を過ごすことができた。

「それじゃあ、お休みなさい」

「はい、お姉様も気を付けてお帰りください」

 リィナを部屋まで送り届けて、テレーゼはきびすを返した。

 サンルームでおしゃべりをしている間に、夜も更けてきていた。お茶を飲んでいる間は灰色の雲が空一面を覆っていたが、ふと渡り廊下で立ち止まって手すりに手を掛けると、分厚い雲の切れ間からいくつかの星が輝いているのが見えた。

「きれい……」

 公城の廊下は夜間でも警備のためにこうこうと明かりが灯っているし、城下町も酒場や宿屋など、夜こそ繁盛する店が多い。そのため夜でも明るいのだが、かえって星空は見えにくくなってしまう。

(リトハルト領で見える星空は、もっとはっきりしていたなぁ)

 リトハルト領だと、星空がきれいに見える。夜間営業している店やろうそくをぜいたくに使える家がほとんどないので、夜は真っ暗になるのだ。

(でも、夜でも営業している酒場とかがあると、一日お仕事をして疲れた人たちの憩いの場になるわ。それに、明かりがあれば夜道も安全になるし、野獣から作物を守ることもできる……)

 現在、リトハルト領は最低限の整備をして再スタートを切っている段階だ。もっと潤えば、もっと領地が整えば、より住みやすい地域になる。これまでついてきてくれた領民にもたくさんのものが返せる。そうすれば、いつか弟のエリオスが爵位を継いだ時には、「貧乏な」という修飾語の付かないリトハルト侯爵家になっているはずだ。

(私たちは、頑張っているよ)

 公都の屋敷にいるだろう母や弟妹たち、そして領地にいるだろう父や領民の皆に、声にはならない叫びを届ける。今日は曇り空のわりに空気は澄んでいるから、きっと遠いところまでテレーゼの思いは届くだろう。

 よし、と一息ついて自室に戻ろうと振り返ったテレーゼだが、ふと前方の廊下を横切っていくポニーテールを目にして動きを止めた。

(あれは……コーデリア様ね)

 この距離で、ポニーテールの色と形だけで相手を判断できるまでになるとは、我ながらコーデリアに関して敏感になったものである。

 コーデリアはテレーゼに気付いていないようで、ひらひらした髪はすぐに廊下を曲がって見えなくなった。

 彼女を追いかける必要はまったくない。ないのだが──

(そっち、私の部屋の方向なのよね……)

 他にも一応道はあるが、遠回りになるしあまり明かりの多くない場所を通るかもしれないので、夜間に城仕えの女性が通っても安全だとされる道は限られている。

(まあ、今回は何か叱られることをした覚えはないし……通りかかっただけだものね、うん)

 気を取り直し、テレーゼは歩きだした。途中、警備らしい騎士とすれ違ったらお辞儀をし、荷運びをしている使用人がいたら労いの言葉を掛ける。

「おや、あなたはテレーゼ・リトハルト様ですね。お久しぶりです」

 途中、一人の騎士に呼び止められてテレーゼは振り返った。廊下に立っていたのは、まだ若そうな近衛騎士だった。男性にしては長めの赤毛を結っており、緑色の目は少し眠そうにとろんとしている。見たところ、テレーゼより一つか二つほど年下といったところだろうか。

(……お久しぶり?)

「あの……どちら様でしょうか?」

「ああ、そういえばちゃんと自己紹介しないままでしたね」

 彼はふっと笑うと、一つに結わえていた髪を少しねじり、左肩に添えた。

「改めまして。アクラウド公国近衛騎士団第二番隊所属、ライナス・マーレイと申します」

「ライナス?……あっ、マーレイって、もしかして──」

「はい。半年前の大公妃選定の際には、お世話になりました」

 眠そうな目の少年騎士はそう言うと、存在しないスカートのすそを摘んでエアーお辞儀をした。その様と、クリーム色のドレスを着てぼんやりと立つ少女の姿が重なる。

(そうだわ。大公妃候補の一人だったルクレチア・マーレイ様は、姉君にふんしていた弟さんだったのよね)

 独特の雰囲気があり、大公妃候補たちの中でも浮いた存在だったルクレチア。その正体は妃候補選定のために偵察をしていた弟のライナスで、テレーゼがバルバ王国派に捕まった際には剣を持って真っ先に切り込んできてくれたのだった。

 ルクレチアが男だと知らなかったテレーゼが、いきなり胸がぺたんこになった彼を見て動揺してしまったのも、今ではいい思い出だ。

「まあ! お久しぶりです、ライナス様。あの時はお世話になりました」

「いえ、あれが僕の仕事でしたから。テレーゼ様こそ、お元気そうで何よりです」

 ライナスは淡々とした口調で答えた。眠そうな目をしているのも語り口が単調なのも、眠いわけでもテレーゼが嫌いだからでもなく、きっとそれが彼の通常状態なのだろう。

 ライナスは髪を押さえていた手を離し、しげしげとテレーゼを見つめてきた。もともとテレーゼよりも若干背が高かったがここ半年でますます成長したようで、高みからテレーゼを見下ろす形になっていた。骨格も男らしくなってきているようなので、今ではもう女装することは難しそうだ。

「それにしても、こんな時間までまた城内をはいかいしていたのですか?」

「ええっと、まあ……リィナとおしゃべりをしていて」

「なるほど。でも、だからといってあんまりお一人でフラフラしない方がいいですよ。お帰りになるのでしたら……ああ、ジェイド様。お疲れ様です」

 テレーゼの背後を見やったライナスが言ったので、テレーゼは振り返った。はたしてそこには、片手を挙げてライナスのあいさつに応えるジェイドの姿があった。仕事終わりだからか、いつも腰に下げている長剣の代わりに刀身が短めの剣を装備していた。

「ジェイド! お仕事お疲れ様!」

「テレーゼ様こそ、お疲れ様です。……ライナスと立ち話ですか?」

「ええ。あの事件以来、ちゃんとお話ができていなかったから、ちょうどいい機会だと思って」

「そういえばそうですね。……とはいえ、そろそろあなたも部屋に戻るべきでしょう。よろしければ私が途中までご一緒しますよ」

「あ、それ僕もジェイド様にお願いしようと思っていたのです。僕は夜勤なんですが、ジェイド様は今お暇でしたよね? お願いします」

 腰から下げた剣の柄をポンポンと叩き、ライナスも付け加える。ジェイドとライナスだとそこそこ年の差がありそうだが、ジェイドに対してもわりと気さくな態度で接するライナスは、かなりの大物なのかもしれない。

(……そうね。こうして立ち話をしている間にコーデリア様は通り過ぎているだろうし、女子用宿舎に行くまでならジェイドと一緒に歩いてもおかしくないわよね?)

 少し考えた後、テレーゼはちょこんとお辞儀をした。

「よろしければお願いします、ジェイド」

「ええ、喜んで。……ライナス、夜勤ご苦労。無理はせずに務めるように」

「かしこまりました」

 ライナスはジェイドに向かって頭を下げ、続いてテレーゼを見ると、「あまりフラフラしないでくださいね」とどこか据わった目で注意してきた。ごもっともなので、テレーゼは一切文句を言わず丁寧にお辞儀を返しておいた。ライナスはテレーゼより二つほど年下だと聞いた覚えがあるが、眠そうな顔つきのわりにしっかりしているようだ。

「この時間までどちらに?」

「リィナと一緒にお茶をしていたの。もちろん、大公閣下のお許しも得ているわ」

 並んで歩いているとジェイドに尋ねられたので、テレーゼは背後を親指で示した。

「ジェイドは聞いているかしら? 今朝、婚約記念式典に向けた役割分担発表があったの。それについてちょっとリィナと話がしたくって」

「そういえば朝から、大広間が貸し切りになっていましたね」

「そうそう。あ、ちなみに私は受付係になったの! 花形ってわけじゃないけれど、お客様の接待をするのも大切なお仕事だものね。しっかりおつとめを──」

 そこまで言いかけ、テレーゼは足を止めた。廊下の先で、見覚えのありすぎるポニーテールが見え隠れしていたのだ。

(……まだいらっしゃるし)

「テレーゼ様?」

「……先輩女官があちらにいらっしゃるの。コーデリア・フィリット様とおっしゃって、私も世話になっているんだけど……」

 手の先でコーデリアのポニーテールを示しながら小声で告げると、テレーゼの言い方から二人の関係など、だいたいのことを察してくれたらしいジェイドは「なるほど」とつぶやく。

「いかがいたしましょうか。かいします?」

「うーん……でもここまで来ると、他の道はかなり遠回りなのよね」

 コーデリアのいる場所を通過すれば、最短距離で部屋まで戻れる。だがコーデリアのことだから、「こんな時間までどこにうんぬん」とか「男を連れて歩くなんて云々」とか言ってきそうだ。正面衝突はできるだけ避けたい。

(う、うーん……やっぱり回り道をするべき? すぐにいなくなってくださればいいんだけど……)

「……そうなのです! わたくし、リィナ様の専属に選ばれたのです!」

 どうしたものか、と悩んでいると、風に乗ってコーデリアの声が聞こえてきた。それも彼女らしくもなくはしゃいだ声色で、テレーゼはおや、と首を傾げる。

「……ええ。赤チョーカー──四等女官の中では、わたくしだけが選ばれたのです! お父様のおっしゃるとおり、毎日己を磨き、リィナ様のために尽くしたことが認められたのです! いかがですか、お父様?」

「……どうやらあの方は、お父上と話をなさっているようですね」

 ジェイドの呟きに頷き、テレーゼは目を細めてコーデリアの横顔を見つめた。

 星明かりに照らされ、コーデリアのくっきりとしたぼうがよく見えていた。テレーゼたちの位置からだと彼女と話をしている父親の姿は見えないが、自分が評価されたことを親に報告するコーデリアの顔は生き生きと輝いていた。

「……はい。子爵家の名に恥じぬ働きをお約束します! どうかこのコーデリアの働きを見ていてくださいませ、お父様!」

 声がうわずっているコーデリアとは対照的に父親の方は低い声でしゃべっているからか、彼の返事はまったく聞こえない。だがやがてコーデリアは一礼すると、軽い足取りで廊下を歩いていった。父親への報告は終わったようだ。

(コーデリア様、すごくうれしそうだった……)

 遠目からではあるが、自分の仕事ぶりを報告する彼女の目は輝いていたし、喜びに満ちあふれていたのがよく分かった。

(女官長様もおっしゃっていたものね。臨時専属に選ばれた女官の先輩は全員、それ相応の力があるんだって)

 いつもテレーゼたちに厳しいコーデリアだが、かわいいところがあるものだ。

 厳しい先輩の意外な一面をかいま見られたようでくすっと笑ったテレーゼだが──ふと顔を上げた際、隣に立つジェイドが厳しいまなしを廊下の奥に向けていることに気付き、すぐに笑顔を引っ込めた。

「……ジェイド?」

…………ああ、何か?」

「いえ、ちょっと怖い顔をしていたから、どうしたのかと思って……」

「怖い顔でしたか……いえ、少し気になることが」

 そう言ってジェイドが歩きだしたので、テレーゼは彼についていく。ジェイドの方が圧倒的に脚が長く歩幅も大きいが、テレーゼの速さに合わせてくれているので早足にならなくても肩を並べて歩くことができた。

「先ほどの女官の方の様子が、少々気になりまして。テレーゼ様は何か気付かれましたか?」

「コーデリア様のこと?……いえ、珍しくはしゃいでらっしゃるなぁ、でもリィナの臨時専属に選ばれたんだからそれも当然のことだなぁ、くらいしか」

 他に何か、不審な点でもあったのだろうか。

 ジェイドはあごに手をあてがうと、テレーゼを横目で見ながら言った。

「どうやらあなたはあの女官の方としばしば顔を合わせる間柄のようですし、お伝えしておきましょう。……先ほど、コーデリア嬢は父親である子爵と話をしていたようですが……話をしている間、ずっとどうこうが開きっぱなしでした」

「どうこう?」

「目の黒い部分です」

「そ、それは分かるけれど……えっ? あの距離で見えたの?」

「星明かりがあったので。それに、私やテレーゼ様のように濃い色の目だと瞳孔の大きさが分かりにくいのですが、コーデリア嬢は目の色が薄かったので分かりやすかったです」

 ジェイドはなんてことないように言うが、視力にはそこそこ自信のあるテレーゼでもあの距離で瞳孔の大きさを確認するなんて不可能だ。

(す、すごい! ジェイド、すごく視力がよかったのね!)

 驚きでくわっと目を見開くテレーゼに、ジェイドは肩をすくめてみせた。

「こういう仕事をしていると、目の動きやわずかな動作で相手の心情をだいたい察することができるようになるのです。……まあ、私のことはいいとしまして。興奮してしゃべっていたにしては、彼女の挙動は不審でした」

「……どういう意味で?」

「簡単に言うと……おびえている、でしょうか」

 コーデリアが、怯えている。

(あっ、あの時……)

 ジェイドの言葉で、テレーゼは女官長から呼び出しを食らった日のことを思い出した。

 先輩女官のシャノンと廊下で話をした後、コーデリアが出てきた。彼女は「余計なことを」とテレーゼに圧力を掛けてきたが、その時の彼女も──どこか、怯えたような眼差しをしていたではないか。

(その時も疑問には思ったけれど、お父様に仕事の報告をする時にも怯えるって、どういうことなのかしら……?)

「何か、事情があるのかしら」

「かもしれません。まあこれ以上のせんさくは野暮でしょうが……コーデリア・フィリット嬢には少し気を付けた方がよろしいでしょうね」

「う、うん」

 ジェイドにまで「要注意人物」の札を掛けられるとは、コーデリアは本当にくせ者なのかもしれない。


 その後、ジェイドに見送られて部屋に入ったテレーゼは、メイベルが準備してくれた湯で体を洗って化粧を落とし、寝間着に着替えてベッドに腰掛けた。

「気を付けた方がいい、かぁ」

 腕を伸ばし、枕の下からお手製の帳簿を取り出す。コーデリアに遭遇して緊張していた心も、帳簿に記されたたくさんの数字を見ているうちに落ち着いてくる。

「んんん……! そう、もうすぐ給料日!」

 減給処分は食らったが、実家や領地への仕送り金額は変えない。自分のかつな行動で給料を減らされたのならば、小遣いに充てる分を減らせばよい話だ。

 気を取り直し、テレーゼはここ最近の収支を帳簿に書き込んだ。給料などの収入は黒のインクで、支出は赤のインク──は高価なので安いブルーインクで書く。そうしてたたき出した金額と財布の中の現金を比べ、ぴったりであることを確認できると言いようもない幸福感に身を包まれる。帳簿の数字と現金が合っているのが当たり前なのだが、比較するこの瞬間はいつもはらはらするのだ。

「……頑張ろっと」

 テレーゼは帳簿を枕の下に戻し、ベッドに横になった。

 金額もあっていたし、今日はきっといい夢が見られるだろう。


 夜にいろいろ起きたからか、その日のテレーゼはコーデリアに「お姉様」と呼ばれ、噴き出すほどまずい紅茶をたらふく飲まされる夢を見た。

 おかげで翌日の寝起きは、あまりよろしくなかった。