5章 令嬢、立ち向かう



「テレーゼ・リトハルト。女官長様がお待ちなので、朝食後すぐに参りなさい」

 その知らせを聞いたとたん、見習仲間と一緒に食事をしていたテーブルに雷が落ちたように感じられた。

 伝言係らしき先輩女官は関わりたくないと言わんばかりにそそくさと去っていったが、食堂にいた数名の先輩たちはうろんなまなしをテレーゼに向けてきている。

(やっぱり来たわね。といっても、まさか翌日だとは思わなかったけれど……)

 十分予想していた事態なのでテレーゼは落ち着いてベーコンをき込むが、仲間たちはそうもいかなかったようだ。

「女官長様って……ちょっと、テレーゼ! あなたいったい何をしでかしたの!?

 真っ青な顔の仲間がテーブル越しに詰め寄ってきたので、ベーコンをつるんと平らげたテレーゼは小首を傾げる。

「何って……いつもどおり仕事していただけよ?」

「噓よっ!」

「私、まだテレーゼとたくさんおしゃべりしたいのに……!」

「私たちを置いて先に行ってしまうなんて、そんなの残酷よ!」

「私、死ぬわけじゃないんだけど……」

「普通に考えたら、朝っぱらから女官長様の呼び出しを受けるって相当なことなのよ」

 一人事態を飲み込めず、しかしベーコンだけはしっかり飲み込んだテレーゼに、リズベスが声を掛けてくれた。

「事情を知る者が一人はいた方が心強いでしょう」とメイベルから助言をもらったため、リズベスだけには昨日の夜のうちに、チャリティー観劇で起きたことをかいつまんで話していたのだ。

「テレーゼは知らないかもしれないけれど……私たちの一期先輩にあたる去年の第三期女官見習の中には、早朝に女官長様に呼び出されて、その日の午前中には除籍処分を受けた人もいたそうなのよ」

「まあ。その見習はそれだけのことをしてしまっていたのね」

「そ、それはそうだけれど……」

 リズベスも最後には「天然って怖いわ……」とぼやいていたが、別にテレーゼはとぼけているわけでも、事の重大さが分かっていないわけでもない。

(呼び出しを受けることは分かっていたわ)

 そのため昨夜のうちにメイベルと一緒に、仕事中に起きた出来事を紙に起こして時系列を整理し、誰がどのような発言をしたのかも極力思い出し、女官長に意見を求められたり過程を尋ねられたりした際にきちんと受け答えできるように準備していた。

 気を付けなければならないのは、「テレーゼの主張」と「テレーゼの失敗」を明確にし、途中で変えたり都合よく改ざんしたりしないこと。

(女官長様は厳しい方だけれど、先輩の話だけ聞いて私の意見を無視するということは絶対になさらないはずよ)

 そういうわけで、テレーゼは周りから処刑を待つ死刑囚を見るようなれんびんの眼差しを向けられながらもしっかり食事をり、デザートのプリンもおいしくいただいてから席を立った。今日のプリンには、ちょこんと生クリームの飾りが付いていた。女官たちの中で流行っている「プリンにクリームが付いていればいいことがある」というジンクスの通り、今日のテレーゼは絶好調になるはずだ。

「あ、あの、テレーゼ」

「うん、講義までには戻れるようにするわ」

「っ……わ、私、テレーゼが無事に戻ってこられるよう、お祈りしているから!」

「私、テレーゼが戻ってきたらお昼ご飯の一人一つ限定デザート、あげるから!」

「だから、生きるのをあきらめたりしないでね!」

「う、うん? ありがとう?」

 こぶしを固めて涙ながらに訴えてくる仲間たち。その隣でどこか遠い眼差しをしているリズベス。周りの先輩女官たちの、「大丈夫かこいつ」と言いたそうな眼差し。

(お腹はいっぱいだし、身だしなみも整えた。体調もばっちりだし……行こう)

 テレーゼは背筋を伸ばし、食堂を後にした。


「テレーゼ・リトハルトです」

 名乗って、「入りなさい」という女官長の声を聞いてからドアを開け、一礼。

「朝食の後に来るように、ということで参りました」

 そう言って顔を上げたテレーゼは、おや、と内心首を傾げる。

 この場に女官長に加え、昨日一緒に組んだ先輩がいるのはいい。当然だ。

(……どうしてコーデリア様までいらっしゃるのかしら?)

 テレーゼと視線を合わせようとしない先輩の隣にはなぜか、居丈高な態度のコーデリアの姿もあった。うつむいたまま動かない先輩とは対照的に、腕を組んだコーデリアはテレーゼを見るとふっと鼻で笑ってくる。

(先輩の付き添いかしら? 付き添いを連れてきていいのなら、私もメイベルかリズベスを連れてきたのになぁ……)

 コーデリアの存在は予想外だった。だが今さら引っ込むわけにはいかない。

 テレーゼは、難しい顔でデスクにひじをついている女官長の「こちらへ」という言葉を受け、彼女の前まで進み出た。

「テレーゼ・リトハルト。昨夜シャノン・キャニングから聞いたのですが……あなたは昨日の仕事中、シャノンに口答えをして彼女の仕事を妨げたそうですね」

 女官長の言葉に、なるほどそう来たか、とテレーゼはほんのわずか身を固くする。

(私の発言が、シャノン様の仕事を妨げた。確かに、そうともとらえられるわね……)

 大噓をつかれたらテレーゼもすぐに反論しただろうが、今は何も言わず女官長の次なる言葉を待つことにした。

(下手にうなずけば、自分の非を認めたことになるわ)

 母直筆のメソッド集にも、『すぐに頷くな、すぐに謝るな。自分の非を認めて初めて頭を下げなければ、相手の言いなりになる』とあった。今こそまさに、その教えを実践すべき時のようだ。

「シャノンの話では、チャリティー劇の代表者はあいさつの際、あなたたちが担当していたバノン子爵夫人の名前を間違えた。傷心のバノン子爵夫妻を使用人共々先に帰らせ、シャノンが代表者を告発していた──ここまでで間違いは?」

「ありません。シャノン様のおっしゃるとおりです」

「ではその後ですが、あなたは代表者へのを言い渡していたシャノンの許可なく割って入って話の腰を折った──そうですね、シャノン」

「はい、おっしゃるとおりです」

 ここでようやく先輩が顔を上げた。声ははっきりしているが、顔色はよくない。

(シャノン様の様子が変ね……)

 てっきりテレーゼの失態をとしてあげつらってくるかと思いきや、当の本人は調子がよくなさそうだ。じっと彼女を見つめていると、先輩はテレーゼの視線を受けてふいっと顔を背けてしまった。

(……どういうこと?)

 だが考える間もなく、女官長が言葉を続ける。

「テレーゼ・リトハルト。今回の事態は劇団側に完全な非があります。子爵側は、襲爵とご夫婦のご結婚から間もなく、夫婦でチャリティー活動に参加するのも初めてということで緊張しており、より入念に準備をしてきたはずです。劇団側も、夫妻の名前を連名で記したカードを招待状として送っているはずだというのに、この始末。バノン子爵夫人への暴言と見なし、我々で彼らの沙汰を言い渡す権利があるのは承知ですね?」

 女官長の言うとおりだ。

 確固とした身分制度の存在するアクラウド公国において、貴族の前では一般市民の存在など風前のちりのようなもの。彼らが貴族に対して無礼を働けば罰を受ける。それは当然のこと。

 だから今回の場合、子爵夫人の名前を間違えるという失態を犯した代表者や劇団員は公都からの追放を命じられたり、賠償金を求められたりしてもおかしくない。それは貴族である先輩がある程度判断し、官僚や側近などとの相談を経て国に報告することになっているのだ。

(それは正しいわ。でも……)

「女官長様、ひとつだけ申し上げさせてください」

 腹の底から声を出すと、女官長はほんの少しだけまゆを動かした。却下はされないので、「言え」とのことだろう。

「事の概要はシャノン様のおっしゃったとおりです。……しかしわたくしが口を挟んだのは、道理に合わないことをシャノン様がおっしゃったからなのです」

「……それは?」

 女官長が真顔で先を促す。

 テレーゼはちらっと隣を見──コーデリアが顔をしかめ、先輩が気まずそうに視線をらしているのを視界の端に入れ、女官長の方に向き直る。

「シャノン様は子爵夫人の名前を間違えたことに加え、『貧相な劇を子爵夫妻にお見せした』という点で代表者を告発しておりました。しかし子爵夫人は劇そのものには満足されていたようですので、その発言は適切ではないと指摘したのです」

 ここまでが、「テレーゼの主張」。そして先輩たちに何か言われる前に、テレーゼはこうべを垂れた。

 ここからがクラリスにも指摘された、「テレーゼの失敗」である。

「……しかし、それは代表者たちの前ではなく、後で申し上げればよかったことです。シャノン様が事後処理をなさっているというのに水を差してしまったことは確かですし、皆の前でシャノン様の名誉を傷つけることをしてしまいましたことを……おび申し上げます。わたくしの浅慮ゆえ、シャノン様や他の方にご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありませんでした」

 クラリスにも言われたし、事情を聞いたメイベルも同じようなことを忠告してくれた。だから、後輩として先輩の尊厳を踏みにじるような行為をしたことは謝らねばならない。

 ひゅっ、と小さく息をむ声がした。そちらを見ていなかったのではっきりとは分からなかったが、今息を吞んだのはおそらく先輩の方だ。

 女官長は目を細めると、ほとんど頭を動かすことなく横目で先輩の方を見やった。

「シャノン、テレーゼの言い分は真実ですか?」

「……」

「シャノン、答えなさい」

「お話し中申し訳ありません。……シャノンは昨夜から体調が優れないそうなので、わたくしがシャノンの代わりにお答えさせていただきます」

 黙ったままのシャノンの肩に手を置き、そう口を挟んできたのはコーデリアだった。これまでずっと黙っており、何のためにここに突っ立っているのだろうと思っていたが。

(……なるほど。体調の優れない先輩の代返のために来ていたのね)

 コーデリアは女官長が頷いたのを確認すると、こほんとせきばらいして一歩前に進み出た。

「チャリティー活動があったのは昨日の午後のことですが……先ほど、子爵家から手紙が届きました。簡単に申しますと、『昨日のことのかたは付いたのか』とのことです」

 そうしてコーデリアはテレーゼの方を手で示し──その時、どこか勝ち誇ったような眼差しを向けてきて──続けた。

「シャノンは、昨日のうちに劇団への沙汰を決定するために奔走しました。それは子爵夫人のお心を癒すことにもつながります。劇団にどのような罰を言い渡すにしても、結果を長引かせればすなわち、子爵夫人のお心が休まらぬ時間もそれだけ続くということ。シャノンは早期に決着を付けるべく努力しておりました。……テレーゼ・リトハルトが口を挟み、その場の雰囲気を乱さなければ」

 最後の一言は意識してゆっくりと、ややねちっこく述べた。彼女の言葉から、今朝になっても昨日の一件にまだ決着が付いていないことが分かり、テレーゼの胸がひやっとした。

(あの後、「あなたはもう関わるな」と言われて放置されたんだけど……私が口を挟んだから、事後処理が一日で終わらなかった……)

 テレーゼの脳裏を、柔らかく微笑む子爵夫人の顔がぎる。

 テレーゼとほとんど年の変わらないだろう、夫人の力になりたかった。だから彼女の様子に気を配ったし、女官の仕事として教わっていた以上のことをしてきた。

(それなのに、私は子爵夫人の力になれなかったどころか、不安を取り除く邪魔をしてしまった……)

 テレーゼがあの時ぐっと言葉を吞み込んでいたら、早期に決着が付いていた。そうすればすぐに子爵邸に手紙を出し、「かたが付いたから、安心してください」と告げることができていた。

(……でも、あの時私が黙っていれば──)

「……コーデリア様のおっしゃるとおりですし、可及的速やかに事後処理を終えるというのは子爵夫人のことを思っても重要なことでしょう。しかし、あのまま速さばかり気にして正当な沙汰を言い渡せなかった可能性もあったのではないですか?」

 それこそ、「貧相な劇を見せた」という発言の生み出す弊害だ。

 名前を間違えたことと劇の出来は無関係であると、子爵夫妻の発言からも分かっている。それなのに、劇団に必要以上の罰を与えてしまうことにもなりかねなかったのではないか。そしてもしその沙汰を子爵夫妻が聞いたとしたら?

 テレーゼの言葉にコーデリアは明らかに気分を害したようで、ずいっと前に進み出てきた。

「……子爵夫人へのご配慮と平民への罰の度合いをてんびんに掛け、平民への罪を軽くするために時間を取るのが良策だというのですか?」

「……しかし、不当な判断を下したことを子爵夫人がお知りになれば、きっと夫人はお心を痛められます! 子爵夫人は、とてもお優しい方でした。ご夫妻が想定されていた以上の沙汰を言い渡したとお知りになれば、かえってわたくしたち女官の仕事ぶりに疑問を抱かれるかもしれません!」

「そんなの、そもそもあなたが──」

「待って、コーデリア。……もう、いいわ」

 何か言いかけたコーデリアだが、それを止めたのは弱々しい声だった。

 テレーゼと女官長、コーデリアの視線を受けて顔を上げたのは、それまでほとんどしゃべらなかった先輩だった。

「シャノン、あなたは──」

「大丈夫よ、コーデリア。……女官長様、このたびはわたくしの不出来ゆえ、子爵夫妻や女官長のみならず、多くの方々にご迷惑をお掛けしたことを、お詫びします」

 そう言って先輩は頭を下げた。慌てたようにコーデリアが「ちょっと、シャノン! なんで!?」と叫ぶが、先輩は意に介しない。

 先輩女官二人の間に目に見えない溝が生じているようだが、女官長は一切動じることなく静かなまなしを先輩に向けた。

「……ということは、シャノンはテレーゼの言い分を認めるのですか?」

「はい。……実は子爵夫人からの手紙には、問題を大事にしたくないので穏便に事を進めてほしいことや、わたくしやテレーゼが気にしすぎたり自分を責めたりしないように、とのことも記されておりました」

「……つまり子爵夫人は、劇団への重罰などを望まれていないのですか?」

「はい。子爵の追伸にも、夫人がそのように言っているのだから無理はしないように、とありました。……ですので、今回の一件ではテレーゼの行動にも非があるでしょうが、一番の原因は冷静に物事を処理できなくて不当なことを口走ったのみならず、後輩の指摘を素直に受け入れられず取り乱してしまったわたくしの未熟さです」

 そう言って先輩は隣を見、「気遣ってくれてありがとう、コーデリア」と少し疲れたような顔で言った。コーデリアは目を見開き、何か言いたそうに口を開閉させていたが仲間に微笑まれ、きゅっと口をつぐんでそっぽを向いてしまった。

「……シャノンもテレーゼも、己の非を説明し認めました。よってこの件は両者それぞれに反省すべき点があったと処理します」

 部屋の中は少々ぎすぎすした空気が漂っていたが、女官長だけは最初から最後まで落ち着いた態度を崩すことがなかった。

 彼女はデスクの引き出しから書類を二枚取り出し、ペンを走らせながら言う。

「シャノン・キャニング。あなたはこの後、官僚と騎士を連れて事後処理に向かいなさい。劇団の代表者は既に呼び出しておりますので、本日の午前中に官僚たちと協議の上で処分内容を決定し、城に届けること。あなたの処分は──減給半年、そして向こう一年間の昇格不可です」

「かしこまりました」

「そして、テレーゼ・リトハルト。あなたはこの後遅刻してもよいので、必ず午前中はひつ講義を受けなさい。その後、護衛の騎士を伴い、バノン子爵家を訪問するのです。シャノンたちの作成した報告書を持って行き、夫妻にご説明なさい。その際は子爵夫人の反応やご様子をよく確認し、報告書にまとめること。……あなたの処分は減給一ヶ月と向こう二十日間の、仕事以外での外出禁止令です」

「はい、かしこまりました」

 テレーゼはお辞儀をした。腹の前で重ねていた手のひらは、今気付いたのだが汗でじっとり湿っており、エプロンにシミを作るほどになっていた。

 減給一ヶ月は痛いが、自分のしでかしたことを考えると順当な罰だ。外出禁止も、これくらいなら甘んじて受けなければならないだろう。もし緊急で家族と連絡を取り合う必要があっても、郵便なら使わせてくれるはず。それに部屋にはメイベルがいるのだから、彼女に頼めばほとんどのことはやってくれるはずだ。

(お父様、お母様。領地の皆……減給処分、申し訳ありません。仕送りの額は変えずに私自身の一ヶ月間の生活を切りつめます……)


 ちょうど女官長はコーデリアに別件の用事があったようで、テレーゼと先輩が先に部屋から追い出された。

 女官長の部屋からは脱出できたが、まだ安心することはできない。

(……き、気まずいわ)

 あいにく、二人とも行き先は途中まで同じ。仕方なく先輩の数歩後ろをなるべくゆっくり歩き距離を取っていると、ふいに先輩が立ち止まった。

「テレーゼ・リトハルト。少しいいですか」

「んむっ……は、はい。もちろんです」

 本当はそそくさとこの場から離れたかったのだが、呼ばれたのだから逃げるわけにはいかない。

 観念して足を速めて先輩の隣に並ぶと、彼女は顔を上げてテレーゼを見つめてきた。

「……わたくしは、ずっと悩んでいました。わたくしが間違っているのは分かっている。取り乱したのが情けないことだとも分かっている。あなたの忠告が正しいのも分かっている。……しかし、それを認められませんでした」

 先輩は、昨日テレーゼと別れた後も悩んでいたそうだ。彼女には冷静に判断する能力もあったが、プライドが邪魔をしていた。

 そうしてずっと悩んでいた彼女は──同期のコーデリアに相談したのだという。

「コーデリアはわたくしの話を聞き、女官長に報告するよう助言してくれました。……しかしあなたも見てのとおり、わたくしはコーデリアに丸投げし、だんまりを決め込む始末。……後輩であるあなたがちゃんと自分の言葉で主張したというのに、情けないことです」

「そんなこと……」

 言いながらちようの笑みをこぼす先輩を見ていると、テレーゼも申し訳ない気持ちになってきた。

(だって、先輩は体調が悪かったんだし……)

 だが先輩は首を横に振り、テレーゼから視線を逸らした。

「……テレーゼ・リトハルト。あなたより一年以上長く女官を務めてきたわたくしから助言です。……あなたの真っ直ぐさは、もろの剣になるでしょう」

「諸刃の剣──」

「わたくしは、あなたのその根性を好ましいと思いました。しかし……昨日のわたくしのように、それを認められなかったり揚げ足を取ったり、時には根も葉もない噂を広めて足をすくおうとしたり──公城はそういう者のいる場所で、城仕えというのはそういう感情や思わくと戦わなければならないのです」

「……」

「それでも、あなたはこの仕事を続けるのですか?」

「はい、続けます」

 一切迷わなかった。

 ひとつは、金のため。金を稼ぎ、家族を養って領民を助け、リトハルト領を潤わせる。そのために、大公妃候補時代から目指していた仕事なのだ。

 そしてもうひとつは、妹リィナのため。次期大公妃の姉として恥ずかしくないよう、リィナが後ろ指差されないよう、女官としての技能を磨いていきたい。

(今回の失敗は、先輩が申告してくださったから減給で済んだけれど……下手すればリィナたちに迷惑を掛けることにもなっていたわ)

 大公にもくぎを刺されたのに、感情で動いてしまった自分の過失だった。この点は深く反省し、次に生かさなければならない──必ず。

 先輩はテレーゼの反応に満足したのかそれともあきれたのか、ふっと笑うとテレーゼに背を向けて歩きだした。

「……わたくしはこれから女官長のおっしゃったとおり、事後処理をします。必ず午前中に報告書を仕上げて提出しますので、あなたはそれを持って子爵邸を訪問するように」

「はい。よろしくお願いします」

「……いずれ見習を卒業したあなたと共に働けるのが、楽しみです」

 お辞儀をしたテレーゼにうなずきかけ、先輩は歩き去っていった。その足取りはしっかりしており、テレーゼもほっとする。

(……そうよね。ここで止まっているわけにはいかないわ。早く見習を卒業して、一人前の女官にならないと!)

 一人大きく頷くとぐっとこぶしを固めたテレーゼだが、背後から聞こえてきたドアの音に振り返る。

「……あ」

 つい、声を出してしまった。

 女官長の部屋から出てきたのは、コーデリアだった。先輩と和解できて決意も新たにしていたら、もっと厄介そうな人がいるのを忘れていた。

 コーデリアは最初テレーゼの存在に気付かなかったようだがばっちり視線がぶつかると、すたすたと早足でこちらにやってきた。

 目があった以上、逃げるのも不自然だし無視するわけにもいかない。あっという間に距離を詰められ、テレーゼの頰がひくっと引きつった。

(……き、気まずいわ)

 それはもう、先ほど先輩と一緒にいた時とは比べものならないほど気まずい。

 先輩は最後にはテレーゼに好意的な言葉を残してくれた──と思うのだが、コーデリアはそうもいかないだろう。その証拠に、テレーゼを見かけた瞬間からずっとコーデリアはしかめ面で、今も腰に手をあてがい、親のかたきでも見るような目でテレーゼをにらんできていた。

 ……睨んできている?

(……あ、あれ? 私、コーデリア様に睨まれるようなことをしたっけ?)

 何か思い当たる節がないかと、先ほどの女官長の部屋でのやり取りを思い返していたテレーゼだが、チッという音が聞こえてきた。

(……今の、舌打ち?)

 貧乏貴族のテレーゼでさえ、品がないからということで絶対にしなかった舌打ち。町の酒場でけに負けたおじさんや、裏道でたむろしていた怪しいお兄さんたちがするのを聞いたことがあるくらいの舌打ちが、まさか──コーデリアから発されるとは。

「あ、あの──」

「……余計なことを」

 うなるようなコーデリアの声に、ひとまず声を掛けようとしたテレーゼは閉口した。

「なすがままにしていればよかったものを……本当に、いつも邪魔ばかりしてくることです」

(よ、余計なことって……さっきのやり取りのこと?)

 口には出さないが納得いかないテレーゼは顔を上げたが──コーデリアのヘーゼルの目を見ると、心臓の辺りでうごうごしていた不快感がひゅっと胃の奥まで引っ込んでいった。

 ヘーゼルの虹彩に包まれたひとみが、大きく開かれていたのだ。

(この目つきは、怒っているからじゃなくて──)

「……シャノンを言いくるめられたからといって、調子に乗るのではありません。……好奇心と無謀な正義感は己の身を滅ぼす。覚えておきなさい」

 吐き捨てるように言うと、コーデリアはテレーゼの脇を通り過ぎていった。ふわふわ揺れる茶色のしつは廊下の角を曲がり、あっという間に見えなくなった。

 テレーゼはしばしその場から動けず、コーデリアの消えていった廊下の角をぽかんとして眺めていた。とはいえ、彼女に言われたことがショックで硬直しているのではない。

 先ほど見た、コーデリアの瞳。

(コーデリア様は、おびえていた──?)

 確信があるわけではない。

 だが、テレーゼには先ほどのコーデリアが──何かに怯え、恐怖心に駆られているかのように思われたのだった。


*  *  *


 先輩は女官長の指示通りに報告書を仕上げたようで、テレーゼが昼食を食べに食堂に向かう前に官僚で報告書の写しが届いた。

「……それにしても、コーデリア様まで絡んでくるとは思わなかったわね」

 昼食を終えてこっそりと報告書を読んでいると、隣に座っていたリズベスがため息をついた。

 リズベスたちは講義に遅れてやって来たテレーゼを、未確認生命物体でも見るかのような眼差しで凝視してきた。どこからともなく、「生きてる……」というつぶやきが聞こえたので、物言わぬむくろになって戻ってくることすら予想されていたようだった。もう少しテレーゼが戻ってくるのが遅かったら、仲間内で遺体不在の葬儀が執り行われていたかもしれない。

 休憩時間に皆に詰め寄られたが、仕事内容まで詳細に伝えるわけにはいかないので「なんとか切り抜けた。なぜかその場にコーデリアもいた」ということだけ教えておいた。

「そうね。先輩の体調が優れなかったそうだから、コーデリア様は補助に回ったとのことだけれど……」

「えっ……ちょっと、まさかテレーゼ、それを本気で信じているの?」

 リズベスの裏返った声に、テレーゼは報告書を読むのをやめて顔を上げた。

「本気って……どういうこと?」

「シャノン様はご自分で非を認めた。積極的に話をしていたのはコーデリア様。……それってつまり、コーデリア様がシャノン様をきつけたってことじゃないの? ねえ、皆もそう思わない?」

「……普通に考えてそうじゃないの?」

「私もそう思った。コーデリア様はテレーゼを目の敵にしているみたいだし、シャノン様とぶつかったってことを聞いて、あなたをとすためのいいネタだと思ったんじゃないの?」

「だから、シャノン様よりコーデリア様の方が積極的に話そうとしていたんでしょう」

 リズベスのみならず他の仲間たちにも次々に指摘され、テレーゼは目を瞬かせた。

(……そりゃあ確かに、コーデリア様は厳しいわ。でもリィナのことは慕っているようだし、私を蹴落とす必要なんてないはず……)

「私を鍛えるためなんじゃないの?」

「テレーゼ……あなたという人は、もう少し他人を疑った方がいいわ!」

「シャノン様はまだ公正な方だからよかったけれど、コーデリア様があなたを憎んでいるってのは女官の中でも有名なのよ!?

「有名なの!?

「そうなの!」

 くわっと目を見開いた仲間に詰め寄られ、テレーゼは空の封筒を顔の前に掲げて盾のようにしつつ考える。

(……そういえば前、私がリィナの姉だからやっかまれるんだって言われたっけ)

 その時はまさかそんなこと、とスルーしたが、それは噂でもリズベスたちの気のせいでもなかったというのか。しかも当の本人のテレーゼだけ気付いておらず「後輩思いの先輩」と解釈し、周りの者の大半は察していたと。

「分かっていて虚勢を張っているのかと思っていたから、そっとしていたのに……」

「テレーゼ、用心するのよ!」

「分かったわ。ごちそうさま。それじゃあ、子爵夫人に会いに行ってきます!」

「話聞いてた!?

 席を立ったテレーゼにリズベスたちが呆れたような顔を向けてくるが、話はちゃんと聞いている。テレーゼには聴力ばっちりの耳があるのだ。それも、二つも。

(やたらめったら他人を疑いたくないけれど……ここまで言われたら、心にはとどめておかないといけないわね)

 コーデリア本人の忠告にもあったが、テレーゼの失態で家族やリィナの足を引っ張ることになってはならない。コーデリア自身はリィナを崇拝しているようなので直接彼女に危害を加えることは絶対ないだろうが、テレーゼに関しては別問題なのだろう。

(……いろいろ気になることはあるけれど、まずは仕事をしないとね!)

 昼食もしっかりったので元気いっぱい、気力もばっちり。

 午後からも、頑張れそうだ。


 指定の時間に城門前に行くと護衛の騎士がいるので、彼と一緒に子爵邸に向かうことになっていた。女官の外出なので護衛は必要だし、そもそもテレーゼは外出禁止令を食らっているので、仕事関連でも一人で出歩いてはならないのだ。

 誰が護衛なのかな、知っている人がいいな、と思いながら待ち合わせの場所に向かうと──

「お久しぶりです、テレーゼ様」

「あれ、ジェイドだ」

 小型の馬車と共にテレーゼを待っていたのは、ジェイドだった。彼は優雅な仕草で一礼し、馬車の方を手で示す。

「はい。本日は、私がテレーゼ様の護衛として子爵邸までご一緒することになりました。どうぞよろしくお願いします」

「……ええ。よろしくお願いします、ジェイド様」

 先ほどはついつい気軽な口調で呼びかけてしまったが、今は仕事だと気持ちを切り替えてジェイドの呼び名も改める。彼とはわりと気さくな口調で話をする仲なのでちょっとくすぐったいが、今はお互い仕事中なので私情を挟んではならない。

 ジェイドはテレーゼの手を取って一緒に馬車に乗り、御者に行き先を告げた。どうやら子爵邸はここからさほど遠くない場所にあるため、道が混まなければ十五分程度で着けるそうだ。

 ジェイドと向かい合わせで馬車に乗る。彼は仕事だからか、常に腰の剣の柄に手を掛けており窓の外の風景とテレーゼの様子を交互に見ていた。

(こうしてジェイドと一緒に仕事をするのって、考えてみると今日が初めてね)

 市街地調査中のジェイドに声を掛けたりお互い休憩時間中に世間話をしたりすることはあったが、この騎士と女官として行動を共にするのは初めてだ。

 思わずふふっと笑ってしまうと、ジェイドがいぶかしむようにこちらを見てきた。

「どうかなさいましたか?」

「いいえ、こうしてジェイド様と一緒にお仕事をするのは初めてだと気付きまして、少し新鮮な気持ちになっておりました」

「……ああ、そういえば確かにそうですね」

「ええ。これが初めての共同作業というものなのかもしれませんね」

「……」

「ジェイド?」

 ジェイドが黙ってしまった。

 彼は窓の外を見やり、ふっと息を吐き出す。

…………ああ、いえ。今日はとてもいい天気だな、と思いまして」

「ええ、本当にそうですね。それにからっとしているので、ドライフルーツ用の果物を干せばいい感じに乾燥しそうですね」

「そうですね、本当に。ちなみに私は、干したプラムが好きです」

「わたくしはイチゴが好きです」

「なるほど」

 ジェイドがふふっと笑ったので、テレーゼも笑みを返した。


 子爵邸に到着し、ジェイドを馬車に待たせて執事に迎え入れられる。

 書類入りの封筒を抱えて執事と話をするまではどきどきしていたし手汗がひどかったが、執事が「奥様は女官のテレーゼ様について、楽しく話ができたとおっしゃってました」と教えてくれてからは、一気に心が和らいだ。テレーゼの手汗のせいで大切な書類がぐしゃぐしゃにならなくてよかった。

 子爵は外出中とのことで、子爵夫人のマチルダが応対してくれた。

(顔色は……よさそう。唇の血色もいい感じだし、体を壊されてはなさそうね)

 まずは夫人の全身を眺めて健康状態をチェックする。講義で、「もし貴人が体調を崩したとして、いつ頃から具合が悪くなったか、最初はどうだったかが問われることがあるので、まめに確認するように」と言われているのだ。

「……ということで、劇団への罰則として向こう二年間の公都内での公演を暫定的に禁止しております。子爵ならびに奥様のご承認をいただけましたら、城に提出することになります。……こちらの内容は女官と官僚が設定したものですので、子爵ご夫妻のご意見を伺った上で微調整することも可能です」

「分かりました。だん様は夜に戻ってこられるので、それから夫婦で話し合います」

「よろしくお願いします」

 夫人はテレーゼが差し出した書類をざっと読んだ後、執事に渡した。

(顔色、表情、所作の変化……特になし)

 処分内容について話している時は少しだけ顔をしかめていたが、今の表情は落ち着いている。

(……よかった)

 その後夫人の厚意でお茶を飲むことになったが、その間も夫人の調子はよさそうなまま報告を終えることができた。

「……ふー、一安心!」

「お疲れ様です、テレーゼ様」

 馬車に戻ったテレーゼがうーん、と伸びをすると、ジェイドが労いの言葉を掛けてくれた。

「子爵夫妻との話はうまくいきましたか?」

「ええ、子爵はお留守だったので、夫人とお話をしました。夫婦での検討をお願いして書類を渡したのだけれど、いい返事がいただけそうでした」

「それはよかったです。……さあ、いつまでも気を張っていては心身共に疲れてしまうでしょう。ゆっくり体を休めてくださいね」

 それはつまり、一仕事終えたのだから城に着くまでの道中は肩の力を抜けばいい、ということだろう。あとは城に戻って終了報告をするだけなので、テレーゼは彼の厚意に甘えて座席で思いっきり伸びることにした。

「ああ、そういえばテレーゼ様。私の方でも少々調査をしてみました」

「……調査?」

「テレーゼ様のご友人が、騎士の誰かに恋をしているという件です」

 ジェイドに声を掛けられたので、肩をぐるぐる回していたテレーゼははたと動きを止めた。

(……ああ、そうだ! ジェイドも『リズベスの恋を応援しようの会』に参加しているんだ!)

 最近いろいろありすぎて活動が休止しかけていたので、ジェイドの方から話題を持ってきてくれてありがたい。

「ありがとう! ちなみに、どんな?」

「普段懇意にしている騎士仲間を中心に、女性の好みについて尋ねてみたのです」

 ジェイドはあっさりと言うが、テレーゼは少々返事に困ってしまった。というのも、ジェイドが仲間に「おまえの好きな女性のタイプは何だ?」と問う姿が想像できないのだ。

「……そ、そうなの?」

「はい。……ああ、ちなみに私がいきなり問うても怪しまれるだけだと思ったので、姉をダシにさせていただきました」

「……そういえばお姉様がいらっしゃるそうね」

 テレーゼは勝手にジェイドのことを兄認識しているが、彼は姉を持つ弟らしいのだ。

(ジェイドのお姉様って、どんな方かしら)

 ふと疑問に思った。とりあえず目の前に座っているジェイドの顔を切り取って、テレーゼの中で「淑女のかがみ第一位」であるクラリスの首から下とくっつけてみたら、イメージが湧くのではないだろうか。

 テレーゼは、想像した。

 そして、二度とこのようなことはするまいと胸に誓った。

「やはり女性である姉の名を出すと、皆も変に勘ぐらず教えてくれましたよ。……結論から申しますと、私が先日申し上げたことと一般論とでは大きな差はないかと思われます」

「つまり、よく食べてよく動く子ってこと?」

「はい。やはり皆、交際するなら健康で、自分たちのノリについてきてくれる女性がいいそうです。もちろん中には、しとやかで大人しい女性が好みという者もおりましたが、『健康』というのは共通項目と考えてもよろしいかと」

「なるほどね! だからジェイドもやっぱり、ご飯をよく食べる元気な子がタイプなのね!」

「そういうことですね」

「ちなみにジェイドは気になる子、いるの?」

「いますよ」

「へぇ!」

「テレーゼ様です」

「まさかの私!」

 ここで自分の名前が出てくるとは思わなかったので、なかなか驚いた。

 ──だが。

(……あー、そういえば前、ジェイドは私のことが心配だ、って言っていたわね)

 ジェイドからすれば自分は、「いつ何をしでかすか分からないので、とても気になっている子」なのだろう。となれば、先ほどの彼の返答も納得がいく。

「面目ないわ……」

「なぜですか? 俺は、あなたとこうしてしゃべることのできる時間が好きですし、もっと俺のことを頼ってほしいと思っているんですよ」

「そ、そう?」

「ええ。ですから、面目ないなんておっしゃらないでください。もっともっと、俺にあなたを気にならせてくださいね」

 そう言ってジェイドは微笑み、ほんの少し首を傾げた。幼い女の子のような仕草なのに、なぜかこんなに体格のいいジェイドがやってもあいきようがあるように感じられる。テレーゼが同じような真似をしても、首の筋を違えて筋肉痛になってしまいそうだ。

「分かったわ。それじゃあ、私のことをもーっと気になってちょうだい! 私も同じようにジェイドのことを気にするから!」

「……意味、分かっているんでしょうか」

「何が?」

「いえ。……もうすぐ城に着きますね」

「あ、本当だ」


 テレーゼが体をひねって窓の外を見、「あっ、あの門番、この前おいしいポテトドッグの作り方を教えてくれた人だ!」とはしゃいだ声を上げている。

 ジェイドはそんなテレーゼの横顔を、まぶしそうに目を細めて見つめていた。