4章 令嬢、貴族の誇りに気付く



「おかあさま、おそと、あめがふってるよ」

「しとしと、しとしと。おそとであそべないなぁ」

 公都にあるリトハルト家の屋敷。

 中庭に面した窓辺に金髪の少女たちが並んで、雨の降る窓の外を見やっている。

「あっ、おかあさま。あそこ、ばしゃがたくさん」

「みんな、どこかにいくの?」

「馬車?……ああ、そういえば今日、どこかのホールでチャリティー観劇が開かれるのだったかしら」

 編み物をしながら双子の言葉を聞いていたリトハルト侯爵夫人は顔を上げると隣にいた侍女に編みかけのマフラーを託し、窓辺に向かった。ちなみにこのマフラーは色と長さが異なるものを五つ──子どもの数だけ作る予定だ。

「ちゃりてー?」

「簡単に言うと、お金があまりない芸術家のお仕事を助けるために、貴族がお金の支援をする活動ですよ。お芝居を観に行ったり音楽を聴いたりすることが多いですね」

「おしばい! いいな!」

「おうた! ききたい!……あ、でもね、ルイーズたちへいきだよ」

「うん、おかあさまがよんでくださるえほんと、テレーゼおねえさまのフルートがあるんだもの!」

「……ありがとう、マリー、ルイーズ。……でもあなたたちにもいつか、チャリティー活動の趣旨をしっかり理解した上で参加できるようにさせたいものです」

 きゃっきゃと無邪気に抱きついてきた双子をそれぞれ抱きしめながら、夫人は目を細めて細い銀糸のような雨を見やっていた。


*  *  *


 今日は、朝からしとしとと雨が降っていた。

 この時期の雨は少し肌寒いので、いつものドレスの上にカーディガンを羽織ることにした。これからだんだん寒い季節に近づいていく。女官の仕事をする際の冬の装いなど、再確認した方がよさそうだ。

「本日は、観劇に参加されるバノン子爵夫妻のお手伝いをいたします」

 銀色の細い雨が降る中、先輩女官がテレーゼに告げた。

 今日の実地訓練でペアになったのは、これまで組んだことのない先輩だった。今まで彼女と組んだことのあるリズベスたち曰く、「コーデリア様ほどではないけれど、かなり気が強くて物言いが厳しい。ただ、言っていることは先輩たちの中ではまともな方」とのことだ。

 城仕えの女官の仕事はたいてい公城内でまとまるが、今日のように城を離れる場合もある。観劇に参加する場合は相手の貴族の使用人たちも参加するのだが、何か特殊な事情がある場合や女官に頼みたいことなどがある場合は、城から女官を派遣することになるのだ。

 とはいえ使い走りのような役割なので、こういう仕事を任されるのはコーデリアたち下級女官か、テレーゼたち新人だ。城内外問わずいろんな場所でいろんな人のもとで仕事をし、その積み重ねによって中級女官になった際には城に常駐して仕事をすることになるそうだ。

 つまり、外回りは下っ端の下積みとしても重視されているのである。日々の仕事における積み重ねが、昇格のための礎になる。

「わたくしたちはこれから会場に先行し、子爵夫妻をお迎えします。わたくしたちは公演中、基本的には夫妻の側で一緒に観劇します。半ば頃でいったん席を外し、子爵家の使用人と共に『施し』やカードの整理を行う予定です」

 先輩の言葉を一言一句聞き漏らさないよう集中していたテレーゼは、「施し」の単語に一つ瞬きした。

(てっきり有名劇団の公演だと思ってたけど……チャリティーだったのね)

 アクラウド公国の貴族はチャリティー活動の一環として、アマチュアの劇団や楽団の公演会に参加する。万年金欠、最近になってやっとまともに金を貯められるようになった段階のリトハルト侯爵家にとっては無縁だったが、貴族の大切な仕事の一つなのだという。

 チャリティー活動における貴族の一番のつとめは、劇団や楽団におひねり──俗に言う「施し」を与えること。相手は平民、それもアマチュアなので、パフォーマンスの出来に期待はしていない。それより、「わたくしは貧しい民に理解を示しています」「わたくしの家は裕福なので、こんなにたくさんの『施し』ができます」というのを周りにアピールするというのが、チャリティー活動に参加する一番の意義──と豪語する貴族も少なくないそうだ。

(つまり、お金で評判を買おうってことなのよね……)

 貴族でありながら感覚は九割庶民であるテレーゼにとっては、趣旨は理解できても、ちょっとだけ複雑な気持ちになってしまう。

(でも、今日は仕事で行くんだもの。ちゃんと先輩の補助をしないとね)


*  *  *


 公演の会場は、城下町のはずれにある小さめのホールだった。

「……はぁ、なんてぼろい建物なの」

 先輩女官が小さな声で毒づいたのを、テレーゼの耳はちゃんと拾っていた。

 先輩と一緒に馬車から降りたテレーゼは雨除けにかぶっていた上着のフードをずらし、ホールを見上げた。なるほど確かに、先輩が「ぼろい」と愚痴りたくなる気持ちも分からなくもない、なかなか年代を感じさせるアンティークな建物だ。

 さすがに貴族のチャリティー活動の会場として使うからか、正面玄関は花で飾られているし、きれいに掃除もされているようだ。小雨の中で貴族たちがれたり足を滑らせたりしないよう、彼らの通る道にはじゆうたんが敷かれ、傘を掲げた人たちがその両脇を固めて道を作っている。当然、傘を持つ彼らの上着はしっとり濡れていた。

「こちらに来なさい。バノン子爵夫妻がお見えです」

 先輩に促され、テレーゼはちょうど馬車停めの前に停車した馬車の方に向かった。馬車の車体には子爵家の家紋らしいレリーフが刻まれており、窓にはかわいらしいフリルたっぷりのカーテンが掛かっている。

(……年配の夫人の趣味にしては、かわいすぎるような──)

 馬車のドアが開いた。同時に先輩がお辞儀をしたので、テレーゼも遅れないよう彼女とタイミングを合わせてひざを折る。

「ようこそお越しくださいました、バノン子爵夫妻。わたくしは四等女官のシャノンでございます。こちらは女官見習のテレーゼ。本日はよろしくお願いいたします」

「ああ、よろしく頼む。さあ、顔を上げてくれ」

 頭上から聞こえてきたのは、男性の声──それも、かなり若そうだ。

 先輩とそろって体を起こしたテレーゼの正面には、若い男女の姿があった。金髪の男性がブルネットの髪の女性の腰を支えて馬車から降り、使用人が掲げる傘の下でさわやかに微笑んだ。

「僕はセドリック・バノン。こちらは妻のマチルダだ。僕は先日父から爵位を継いだばかりで、当主としてチャリティー活動に参加するのも初めてなのだ。だから、君たちの力を借りることになるけれど、よろしく頼むよ」

「はい、お任せくださいませ」

 先輩が胸を張って応える傍ら、テレーゼは少しばかり緊張していた。

(バノン子爵というからてっきり中年の夫妻だと思っていたけれど、息子さんだったのね。若くて、しかも爵位を継いだばかり。チャリティー活動にも初参加なのね……)

 先輩主導のもとで夫妻を会場に案内しながら、テレーゼは講義で教わった内容を思い出す。

(チャリティー活動は、貴族同士の交流の場でもあるわ。ということは、夫妻は初参加のチャリティー活動で交流の場を広げるよう努力されるはず)

 この道何十年、チャリティー活動に参加した回数は両手両足の指で数えても足りないくらい、というベテラン貴族であれば、問題ないだろう。会場に行けば知り合いがおり、「施し」の相場も分かっているので手間取ることもない。またカードを贈る相手や受け取る相手もほぼ決まっているので、使用人同士で相談しながら整理すればすぐに終わるのだ。

 だが、バノン夫妻は初心者だ。見たところ子爵はテレーゼより五つほど年上、夫人はテレーゼとほぼ年が変わらないように思われる。ということは結婚して間もないだろうし、交友関係が広いとも限らない。

 先輩が今後の予定などを子爵と話している間、彼の隣を歩く夫人はずっと黙っていた。心なしか、その顔色が悪いように思われる。

(……お仕えする人が快適に過ごせるよう、お助けすること。うん、大丈夫)

 女官の心得を心の中で復唱し、テレーゼは大きく息を吸ってから夫人に声を掛けた。

「マチルダ様。本日はたいへん冷えますが、お体は大丈夫ですか? お寒いようであれば、ひざけなどをお持ちいたします」

 そう問いながら、視界の端に先輩の姿を入れ、反応をうかがう。先輩はほんの少しまゆを動かしたが、小さくうなずいてきた。「夫人への気遣い、可」ということだろう。テレーゼが何か自発的に行動すればすぐにみついてくるコーデリアとは違うようで、ひとまず安心した。

 夫人はテレーゼを見ると、少し照れたように微笑んだ。

「お気遣いありがとうございます。……ドレスの下に着こんでいるので寒さは大丈夫なのですが……少し、緊張してしまって」

「僕たちは先月結婚したばかりで、夜会などに参加した回数も多くない。特にマチルダは男爵家出身で、パーティーへの参加自体に慣れていないんだ」

 振り返った子爵もそう言い、気遣わしげに妻の顔をのぞき込んだ。

「……つらいようなら僕だけ参加するから、マチルダは休んでいいよ。チャリティーより何より、君の体が大切だからね」

「ありがとうございます、あなた。でも大丈夫です。ちゃんと妻としての役目を果たします」

「……そうか。ありがとう、でも無理だけはしないでくれ」

 そう言って手を握り合う夫婦。周りに他の客の姿はなく、いるのは廊下にたたずむ会場案内係と子爵家の使用人、そしてテレーゼたちだけだ。

(……ああ、素敵な夫婦だわ!)

 見ていると自然と頰が温かくなってきて、テレーゼはそっと自分の頰を両手で押さえた。

 ふと、夫妻を挟んで反対側にいる先輩の方を窺い見ると、ふいっと視線をらされた。だが髪の隙間から見える耳が赤いので、互いを思いやる夫婦の姿を目にして彼女も照れているのかもしれない。

 会場は既に半分ほどの席が埋まっており室内も薄暗いが、淡い照明が貴婦人たちのまとう色とりどりのドレスを鈍く照らしていた。

 こういった会場では、席は特に決まっていないことが多い──が、「身分の高い者とその関係者が前方、低い者や若い者は後方」という暗黙のルールがある。バノン子爵夫妻の場合、若くて身分もそれほど高くないので、何も言われずとも後方の席を取るべきなのだ。

「あ、わたくしが席を探します」

 テレーゼは先輩に許可を取った上で、ずらっと並べられたとう編みの椅子に順に触れていった。

 籐編みの椅子は柔らかくしなるので、木製のそれと比べると長時間座っていてもしりが痛くなりにくいという利点がある一方、繊細な造りなので破損しやすい。また木がささくれるように籐の先端が編み目から飛び出し、思いがけず肌を傷つけてしまうこともある。

 貴族向けのチャリティー劇なのだから椅子にも気を配っているはずだが、万が一があってはならない。

(それに、気分が優れない夫人のためにも、一番座り心地のいい椅子を提供して差し上げたいわ)

 それは女官としてのつとめでもあるが、夫人に快適な空間を提供したいという純粋な思いゆえであった。

 一列に並んだ籐の椅子に順に触れ、座面や背もたれを軽く押して回る。それぞれの椅子の触感を頭の中にメモしながら進み、二列目に触れながら夫妻と先輩たちの待つ場所に戻る。

「いい場所を見つけました。こちらの椅子が一番柔らかくて丈夫なので、奥様にお座りいただけたらと」

「まあ……ありがとうございます」

「妻への気遣い、感謝する。……さあ、行こうか」

 夫妻は礼を言い、テレーゼが選んだ椅子に座った。夫人が座った椅子はちょっと座面が柔らかいので夫人の体が少し埋まってしまうだろうが、彼女の身長と体格を考えるとあの高さと柔らかさが一番収まりがいいはずだ。

 思ったとおり、夫人は座った時には少し驚いたように目を見開いたが、やがてほっとしたようにまなじりを緩ませていた。隣に座る子爵も安心したように妻を見つめているので、大成功のようだ。

「……少し聞きますが。どこで、あのような技術を習うものなのですか」

 まゆを寄せた先輩に小声で問われ、テレーゼは苦笑した。

「なんと言いますか……育つうちに自然と身に付いたのです」

…………そうなのですか?」

「ええ、まあ。既製品を買う時にはひとつひとつの手触りなどをしっかり確認した上で購入する癖が付いておりまして」

 リトハルト家には金がない。よってたいていは修繕して長く使うのだが、それでもモノには寿命がある。

 既製品を購入する際は、「より長持ちするもの」を見極めなければならない。そういった生活をしていると、同じように見えるものでもどれが一番耐久性があるか、どれが一番使い心地がいいかなどを見抜く目も養われてきたのだ。

「はあ……貧乏人の考えることはよく分かりません」

 先輩は本当に見当も付かないようで、さっさと歩いて子爵夫妻の背後に立った。


 客が全員到着したようで、劇が始まった。

 幕が上がった先の舞台にあったのは、「板で作りました!」感満載のはりぼての舞台装置や、「全て手縫いです!」感にあふれた舞台衣装。役者たちの化粧もあまりよい素材のものを使っていないからか、顔が白いわりに唇だけきついほど真っ赤だったりと、ちょっとちぐはぐな感じもする。

 ──だが。

(情熱に満ちた、とても素敵な舞台だわ……!)

 仕事の一環であることは肝に銘じながらも、テレーゼは舞台で繰り広げられる劇から目が離せなかった。

 普通の貴族の子女ならば幼少期から劇を観に行ったり音楽会に参加したりするものだが、リトハルト家には金がないからテレーゼはそういった経験がほとんどない。あるとすれば「子ども向け無料お芝居」に町の子どもたちに混じって観に行ったことくらいだ。

 芸術に触れる機会は少なかったが、母からフルートの手ほどきは受けていたし音楽にも美術にも興味はある。だから、アマチュアだとしても生まれて初めてまともに観る劇に、テレーゼの胸はときめきっぱなしだった。

 ようせいの役を演じる子どもが、きらきら輝く透明な板で作った羽を背負い、ヒロインに光の粉を振りかける。すると一瞬の暗転の後、ヒロインは粗末なワンピースから華やかなドレス姿に変身する。

 貧しい少女が魔法に掛けられ、幸福をつかむ。

 どの時代、どの国でも形を変えながら存在する、王道の物語だ。

「……まあ、素敵な王子様ですね」

「僕よりも?」

「わたくしにとってはあなたが一番ですよ」

 前方から、子爵夫妻がこそこそと話をする声が聞こえる。夫人の声音は先ほどよりずっと穏やかになっており、劇を観るうちに気持ちも落ち着いてきたようでテレーゼもほっとした。

 前半が終わっていったん幕が下りたところで、テレーゼは先輩に呼ばれて会場の端に寄った。

「これからわたくしはカードと『施し』の確認をしに参ります」

「分かりました。……あの、わたくしはいかがいたしましょうか?」

 今先輩は「わたくしたちは」ではなく、「わたくしは」と言った。念押しのために尋ねると、先輩は寄り添って座っている子爵夫妻を手で示す。

「あなたはここに残っていなさい。……といっても、ぼうっとしょぼい劇を観るのではありません。今は体調が安定しているようですが、夫人の様子をしっかり見ておきなさい。何かあればすぐに、わたくしと子爵家の使用人に教えることです」

(しょぼい、って……先輩からすればそうかもしれないけど……)

 今はそれはいいとして、テレーゼにもちゃんと仕事が与えられていた。それも、「夫人の体調を管理する」という役目だ。一人ではまだ対処しきれないカードの整理や相場の分からない「施し」の管理よりはずっとやりやすいし、テレーゼの適性にも合っていそうだ。

(……よし。ここからは私一人になるし、気合いを入れていかないと!)

 今は休憩時間。後半が始まるまであと一時間ほどあり、その間に客たちは軽食をったり知人とおしゃべりしたりするのだが──

「奥様、後半まで時間がございますし、散策に参りませんか?」

 テレーゼが申し出ると、振り返った夫人が頷いた。

「分かりました。……あなた、しばし席を外しますね」

「ああ、ゆっくり行ってきてくれ」

 子爵の許可も取れたので、テレーゼは夫人の手を取ってホールを出た。

 これは講義でも習った、「観劇参加中の作法」である。夫妻で参加している場合、休憩時間に必ず一度は夫婦が別行動を取れるようにする。その言い訳は何でもいいのだが、「花を見に行く」「外の空気を吸いに行く」がメジャーだ。本日は雨模様なので、「散策に行く」というふわっとした言い訳にしておいた。

 これは、女性が手洗いや化粧直しに行けるようにするための配慮だった。夫婦といえども人前で手洗いに行く旨を伝えるのには躊躇ためらいが生じやすい。言い訳をして妻の方を連れ出し、手洗いなどに同行するのも女官など同性のお付きの役目だ。

(要するに、しっかり気遣いをしろ、ということなのよね)

 夫人はちょうど手洗いに行きたかったらしく、テレーゼに礼を言って手洗い場に向かっていった。他の貴族も同じように手洗いに来ているからか、前の廊下にはテレーゼ同様お付きの女性たちが控えていた。その中には見習仲間と先輩の姿もあったが、テレーゼはスカートのすそつまんでお辞儀をするだけにしておいた。

 子爵夫人は間もなく出てきた。心なしか、その表情は先ほどよりも明るい。

「お待たせしました。少し、立ち話をしておりまして」

「まあ、そうなのですか。お知り合いの方ですか?」

「いいえ、初めてお目見えする方でしたが、わたくしと同じようにチャリティー観劇に初参加らしく、話が合ったのです。……これでだん様にもよい報告ができそうです」

 そういうことか、とテレーゼもほんのり微笑んだ。繊細そうな夫人だが、子爵の妻としての役目をまっとうしようと頑張っているようだ。

 これは、テレーゼも負けていられない。

(……よし、後半からも頑張ろう!)


 その後、劇はつつがなく終わった。劇が終わる直前に先輩が戻ってきて、カード整理や「施し」の管理も終わったことを身振りだけで伝えてくれた。

 ヒロインが王子様に見初められ、困難に直面しながらも二人で協力して乗り越える。そうして二人は結ばれ、めでたしめでたし。

(えーっと、確かカーテンコールの後、劇団の人たちが「施し」をくれた貴族一人一人にあいさつするのよね)

 拍手の中で役者たちがお辞儀をするのを見ながら、テレーゼは考える。

「施し」額の多い順──必然的に身分の高い順になるのだが──に劇団の代表者が挨拶とお礼を言い、劇団員たちもあわせてお辞儀をする。代表者からのお礼を受けた者から退出するので、貴族たちのお見送りにもなる重要なポイントだった。

 先輩が手書きのカードを見せてくれたのでそれを見ると、先ほどの間に書き留めたらしく、本日のチャリティー観劇に参加した貴族の名前とそれぞれのだいたいの「施し」額が順に記されていた。かなりの人数の貴族の名が記されていたので、バノン子爵の場所だけ注意して探した。結果、予想通りバノン子爵夫妻の順番は最後に限りなく近かった。

「本日の劇はいかがでしたか?」

 公爵家の者から順に挨拶を受けており、バノン子爵が先輩と「施し」の額について相談している間、テレーゼは夫人の方に尋ねてみた。先輩は「しょぼい」と不満そうに言っていたが、夫人の様子を見る限りそこそこ楽しんでいるように思われたのだ。

 夫人は振り返ると、にっこり微笑んだ。

「とてもよかったです。楽しいシーンはもちろんですが、ヒロインが王子様の助けを信じて部屋の中で待つシーンには胸が苦しくなりました……」

「分かります。わたくしもそのシーンには目がくぎけになりました」

 ……おそらく子爵夫人はヒロインの心情に共感して感じ入ったのだろうが、テレーゼはすすけた部屋の中で一人たたずむヒロインを見、「分かる! 家具がほとんどない部屋の寒々しさ、すきま風のつらさ、よく分かる!」という意味で共感していた。もちろん、それを子爵夫人に伝えるつもりはないので、かぎを掛けて心の奥底にとどめておくことにする。

(それに、マリーやルイーズもお芝居を観たがっていたし……いい報告ができそうね)

 チャリティー活動の一環とはいえ、仕度にも「施し」にもとにかく金が必要なので、妹たちを連れて来ることはまだ難しいだろう。だが思い出話として語ってあげたいし、いつか本場の劇を観せてあげたいと思っている。

 しばらく待つと、ようやく子爵夫妻の番になった。

 夫婦寄り添って舞台に向かい、その後に子爵家の使用人、そしてテレーゼと先輩が続く。ここまででテレーゼたちの仕事はほぼ終わったようなものなので、あとは夫妻が馬車に乗り込むまでお見送りすれば任務達成だ。

(先輩の様子は……よさそうね)

 ちらっと隣をうかがってみたところ、背筋を真っ直ぐ伸ばす先輩は表情を引き締めているが、なんとなく機嫌がよさそうに思われた。今日半日一緒に行動した内容を振り返ってみても、あきれられたことはあっても叱られたり注意を受けたりした覚えはない。

(これなら、いい評価をもらえるかも……?)

 内心ではわくわくしながら、テレーゼは女官としての表情を保ったまま舞台前でのやり取りを見守る。喜ぶのは、城に戻ってからだ。

 劇の代表者は、若い青年だった。そういえば夫人が手洗いに行くのを廊下で待っている際、代表者は父親の跡を継いだばかりで自分が代表になったのは今回が初めてらしいという話を聞いた。

「本日はお越しくださり、ありがとうございました」

「こちらこそ、素敵な劇をありがとう。楽しめたよ」

 代表者がお辞儀をすると、子爵が機嫌よさそうに応えている。彼の半歩後ろに立つ夫人もうなずいているようで、テレーゼはほっとした。が──

「またいらっしゃることをお待ちしております。セドリック・バノン様、セラフィナ・バノン様」

 代表者がそう言ったとたん、隣に立っていた先輩がはっと息をんだのが分かった。

(……え?)

 一瞬何が起きたのか分からずテレーゼは目を瞬かせたが、反応を見せたのは先輩だけではなかった。

 夫妻の後ろに控えていた使用人たちがざっと前に出て、子爵が妻の肩を抱いて一歩下がる。ただならぬ雰囲気に、周りで談笑していた者たちもおしゃべりを止め、舞台の方をいぶかしげに見つめていた。

(な、何が起きたの……?)

 まだ一人状況についていけていないテレーゼだったが、先輩が「あの無礼者め……!」と苦々しい声を出したため、ぎょっとして隣を見やる。

「あの、先輩……?」

「分からなかったのですか? あの代表者、よりによって夫人の名を間違えたのです。今呼んだのは、バノン子爵の妹君の名です!」

「えっ……?

 ようやっとテレーゼも事の重大さに気付いたとたん、背中を冷たい汗が伝った。

 どういう経緯で彼が名前を間違えたのかは分からないが、代表者は子爵夫人を子爵の妹と間違えた。それはつまり、「子爵夫人を貴族の奥方だと判断できなかった」ということになってしまう。

 代表者の失態ということで彼一人が罰せられるのならばかわいいもの。だが──

(これって、子爵夫人にとっても不利になってしまうんじゃ……?

「子爵夫人は、子爵の妻だと認識されなかった」と言われてもおかしくない状況なのだ。社交界に出るようになって日が浅い夫人にとって、あしかせにしかならない。

 代表者も遅れて自分のミスに気付いたようで、真っ青になって震えている。

「……あ、い、いえ。妹君のセラフィナ様にもよろしくお伝えください。セドリック・バノン様、……マ、マチルダ・バノン様、ほ、本日はありがとうございました!」

 真っ青になり少々下手な言い訳をしながらも、なんとか彼はこの場を乗り切った。だが周りにいた貴族たちの中には一部始終を聞いていた者もいるようで、げんな顔をしていたり、「今のって……」とひそひそ話をしたりしている。

「……あなた、夫妻を馬車までご案内しなさい」

 隣から低い声が聞こえてきた。

 半ば放心状態になっていたテレーゼは、視線だけ前に向けながら極力唇を動かさないようテレーゼに指示を出す先輩をこわごわ見た。

「わたくしには、あの無礼者に申すことがあります。……夫人のご様子をよく確認し、場合によってはお声掛けをしてお連れしなさい。子爵家の使用人も今はいったん帰らせましょう」

「……分かりました」

 見習のテレーゼに反論する余地はない。

 すぐさまテレーゼと先輩で一触即発状態の劇団と使用人たちを引きはがし、「わたくしが対処しますので、夫妻をお願いします」と先輩が子爵家の使用人たちを説き伏せ、帰宅するよう促す。

(ひとまず、先輩の指示通りに動かないと!)

 子爵はなにやら難しい顔をしており、その隣の夫人はうつむいている。泣いているわけではないようだが、さすがにショックだっただろう。

 使用人が先行して馬車を呼びに行ってくれたので、テレーゼは夫妻と一緒に出口に向かうことになった。夫人の足取りが重いので、テレーゼの歩みも必然的にゆっくりになる。

「マチルダ、大丈夫か?」

「……ええ。それよりもわたくし、あなたの足手まといになってしまっていないか心配で……」

「君が気にすることではない!……ああ、女官殿。僕は結婚前に一度、妹と一緒にこの劇団の公演を観に来たことがあるのだ」

「……そういうことだったのですね」

 子爵の説明でなんとなくの物事の筋道が分かった。

 きっと代表者は父親から渡された前回の参加者一覧表だけを頼りにし、バノン子爵が結婚し、今回は妹ではなく妻と一緒に来たことを把握していなかったのだろう。

(でも、私は見なかったけれど招待状はちゃんと夫婦の連名になっていたはずだし、カードも全部夫妻の名前になっているわよね)

 つまり、完全な劇団側の落ち度だ。貴族からの支援で成り立っている劇団が、顧客でもある貴族の不興を買ったとなれば──

 馬車停め場所に向かうと、運良く雨は上がっていた。それでも地面はぬかるんでいるので、気分の優れない夫人が転ばないよう足下に注意を配る。

「……今日はいろいろありましたが、あなた方の補助には感謝しております」

 馬車に乗る前、振り返った夫人が柔らかく微笑んでテレーゼを見つめてきた。

「今回のことは、あなた方に任せようと思います」

「……かしこまりました。あの、バノン子爵夫人……」

「あなたがそんな顔をなさらないでくださいな。……今日、たくさん気を遣ってくださったこと、感謝しております。おかげで劇を楽しめました」

「そうだな。君たちが気を遣ってくれたからこそ妻は劇を楽しめた──それは確かだからな。確か君は見習だったと思うが、その思いやりに夫婦で感謝していることを城に伝えておこう」

 子爵にも言われ、テレーゼは深く頭を下げた。

「……ありがたいお言葉に感謝いたします」

 夫妻の乗る馬車が動きだし、夜の薄闇の中に消えていく。

 子爵夫妻にお礼は言われた。城の方にもいいように報告してもらえるそうだから、女官見習としての成果はばっちりだったと言えよう。

 だが、テレーゼの気持ちは曇天の夜空と同じ模様だった。

(……夫妻はなんとかなりそうね。でも、ここからが大問題だわ……)


 代表者と先輩の居場所を尋ねたところ、楽屋裏だと教えてもらった。

 そうして躊躇いつつ向かった楽屋裏では、ある意味テレーゼの予想通りの光景が広がっていた。

「バノン子爵夫妻に対する仕打ち、見逃すことはできません!」

「も、申し訳──」

「わたくしに謝れば済むとでもお思いなのですか!? おまえたちが地に頭をこすりつけ、泥にまみれ全財産をなげうってでも謝罪せねばならないのは、奥方を侮辱された子爵、そして公衆の面前で恥をかされた子爵夫人です!」

 先輩、すさまじい剣幕である。

 彼女の激怒を受けているのはテレーゼではなく代表者を始めとした劇団の者たちなのだが、脇で見ているだけのテレーゼもしりみしてしまいそうなほどの気迫である。

 入り口にこそっと立っているテレーゼからは腰に手をあてがって立つ先輩の顔は見えないが、近寄るだけで熱気にあてられ、じゅわっと蒸発してしまうのではないかとさえ思われてくる。

「今回のことは大公閣下にもお伝えします! おまえたちはよその者でしょう? 今後、公都で公演できることはないと思いなさい!」

「し、しかしそれでは我々の──」

「お黙り! よりによってあのような貧相な劇をお見せし、あまつさえ貴族夫人の名前を間違えるような連中が公都にいられると思わないことです!」

(……貧相な劇?)

 それまでは先輩の剣幕にされてぼうぜんとしているだけだったテレーゼだが、今の言葉を聞いた瞬間、すっと胸の内を冷たい風が吹き抜けていったような気持ちになる。

 チャリティー活動の一環として演じられた劇。

 それを観た夫人の感想は──

「……お言葉ですが。ひとつよろしいでしょうか、シャノン様」

「何ですか」

 テレーゼが口を挟むと、恐ろしく不機嫌な顔で先輩が振り返った。ようやっと彼女の直視を浴びずに済んだ劇団員たちはその場にへたり込んだりさめざめ泣いたりしているが──なるほど、泣きたくなる気持ちもよく分かるようなふんの形相である。

(き、きれいな人が怒ると本当に怖いのね。それはまあ、いいとして──)

「用件があるなら早く言え」と視線で促され、テレーゼはやけに苦いつばを吞み込んで柱の陰から前に進み出る。

「先ほどバノン子爵夫妻をお見送りしたのですが……夫人は、いろいろあったけれど劇を楽しむことができた、とおっしゃっていました」

「……それは、夫人がとてもお優しい方だからでしょう。本来ならばこのような無礼者どもは、即刻首をねられてもおかしくないのです」

「……しかし、彼らは一生懸命劇を演じ、それをご覧になった夫人も満足してらっしゃいました」

 正直、ものすごく怖い。すらすら話せてはいるが、ほぼ脳みその機能は停止しており本能で言葉を紡いでいるだけの状態だ。「やっぱりなんでもありません」と適当な言い訳をしてこの場から逃げたいという気持ちだってある。

(でも……ここだけは譲れない)

「……だからこそ、『貧相な劇を見せた』という点で彼らをなじるのは不適切だと思います。劇の出来と名前を呼び間違えたことは別問題……夫人が劇のことを褒めてらっしゃったから、わたくしはそう思います」

「っ……」

 先輩の赤く染まっていた顔が瞬時に青ざめ、ひとみがこれでもかというほど見開かれる。彼女のそうぼうには、テレーゼに反論されるとは思っていなかったという驚き、そして──図星を指されたかのような、悔しそうな色が浮かんでいた。

「……生意気な口をたたくのではありません」

「しかしっ」

「お黙りなさい! あなたはこの場を余計に混乱させるつもりですか!?

「そういうわけではありません!」

「では、黙っていなさい。……自分にとって不利な状況になりたくないのであれば、これ以上余計な口を利くのではありません」

 一度は声を荒らげたものの、だんだんと口調が落ち着いてきた先輩は、最後の一言はテレーゼにしか聞こえないような低く小さな声でささやいてきた。

 ──どくん、と心臓が脈打つ。

(私にとって不利な状況って……失職?)

 いや、それだけで済めばかわいいものだ。

『あなたの軽率な行動でリィナ様の品位を落とすことにもなりかねないのだと、まだ分からないのですか?』

 夕暮れ時の庭園でコーデリアに放たれた言葉が、ぐわんぐわんと頭の中でこだまする。

(私は……リィナの品位を落としてしまった?)

 先輩の言い分は八割方正しかった。だがバノン子爵夫人自身の言葉もあったのだから、無関係の事柄まで引っ張り出してあげつらうのは間違っている。「貧相な劇」と詰ればすなわち、その劇を観て感動した夫人の感性をも詰ることになるのではないか。劇団に罰を与えるなら正当な方法でしなければ、げきこうしてしまった先輩も不利をこうむるかもしれない。そう思って進言した。

(でも……失敗してしまった)

 だいぶ熱も冷めたらしい先輩に楽屋裏から追い出され、テレーゼは薄暗く狭い廊下をとぼとぼと歩く。行くあてがあるわけではないが、「邪魔だからあっちに行っていろ」と指示されたのだから楽屋裏に長居するわけにはいかない。

(私は……)

「お待ち、そこの小猿」

(どうすれば、いいんだろう。謝る? でも、女官長に報告されたら……)

「お待ちと言っているのです、テレーゼ・リトハルト!」

 背後からフルネームで呼ばれ、テレーゼは足を止めた。

 のろのろと振り返った先には、暗がりの中でつややかに咲く深紅の花がたたずんでいた。ぐるんぐるんと元気にせんを描く金髪に、目鼻口のくっきりしたぼう。深紅のドレスは胸元でぱっくり割れており、彼女の見事なプロポーションを余すことなく魅せていた。

 少しあごを持ち上げておうような動作で扇子を振る、彼女の名は──

「クラリス様……?」

「おや、頭の中がお花畑の割にはちゃんと覚えていたようですね」

 ゲイルード公爵令嬢クラリスは、ふふっと艶やかに笑った。

 半年前、テレーゼと同じく大公妃候補だったクラリスとは、候補解散の日に言葉を交わしたきりだった。少々物言いが厳しくあまり愛想のない女性だが、しんが通っており貴族令嬢としての誇りに満ちた令嬢のかがみだ。

 テレーゼのことも最初の頃は「貧乏人」などとけなしてきたが、テレーゼが隣国バルバ派の者に捕まって絶体絶命の危機に陥った時には他の令嬢を引き連れて援護に来るなど、正義感の強さと統率力を見せてくれたものだ。

(どうしてここにクラリス様が?……ああ、そっか。きっと今日のチャリティーに参加されていたのね)

 おそらく、クラリスを見つめる自分の目はどんよりと濁っていたのだろう。クラリスは目をすがめ、羽根付き扇子をぱちんと閉ざしてその先をテレーゼに向けてきた。

「あなた、女官になったのでしょう? 女官といえど今は見習。それなのに……なぜわざわざ同僚にみついたのですか」

「……ご覧になっていたのですね」

「気になっていたもので、少々聞かせていただきました。……まったく、無謀なことをするものです。わざわざ相手をあおるようなことを言って……そんなにクビになりたいのですか?」

「そっ、そういうわけじゃありません」

「……あなたの気持ちも分からなくはありません。あなたと一緒にいた女官は確か、キャニング男爵家長女のシャノン・キャニングですね。あれの言い分は確かに筋が通っていない。あなたたちが担当したという子爵夫人自身が劇の出来を褒めていたのであれば、キャニングの小娘にその点について詰る権利はありませんからね」

 さすがは名門公爵家の娘。男爵家の娘である先輩に対して「キャニングの小娘」と言い放ち、一切遠慮していないようである。

 クラリスは扇子の先を上下に動かす。彼女との距離はちょっと空いているが、なんだか扇子で頭をばしばし叩かれているような気分になった。

「……あなたは無謀だった。しかし、言い分はあなたの方が正しい。……であれば、なぜこんなところでナメクジのようにウジウジくすぶっているのですか?」

「クラリス様、ナメクジをご存じなのですね……」

「今は口を挟むのではありません、小猿!……へこたれるのではありません。あなたに貴族としてのきようがあるのならば、正しいと思うことを胸を張って正しいと言えるようになりなさい」

 ──その言葉に、テレーゼは目を見開いた。

 正しいことを正しいと言えるようになりたい。

(それは……かつて私が思っていたことだったわ)

 テレーゼが大公妃候補で、リィナがまだ無名の官僚だった頃。

 リィナが平民であるのをいいことに、彼女に暴力を振るった令嬢がいた。テレーゼはそれを告発したかったのだが、「テレーゼの印象を悪くするかもしれない」ということで泣き寝入りすることになってしまったのだ。

 正しいことを正しいと言えば物事が解決するわけではない。世間知らずだったテレーゼは、貴族社会の真実に直面し、悩んだのだった。

「そして真実を告げられるようにするためにも、よく周りを見るのです」

「周りを──」

「今回の場合、あなたがキャニングの小娘を注意する状況がよろしくなかった。……あの小娘も、自分の失言には気付いていたはずです。それを何らかの形で内密に伝えれば済んだものを、あなたはわざわざ第三者のいる場で告発した。……その結果キャニングの小娘は反発し、おまえを詰った。十分予想できた結末です」

 クラリスの言葉は容赦がない。だが彼女の言葉でテレーゼの胸が苦しくなったのは一瞬のことで、すぐに体中にその言葉が浸透してきた。

(……私は、自分のしたことを顧みないといけないわ)

 自分の行動はひとつの点では正しく、もうひとつの点では間違っていた。傍らで聞いていただけのクラリスでさえ、テレーゼの行動で先輩が反発するのは予想が付いていたというのだ。テレーゼが自分の力で、それに気付いていなければならなかった。

(……私は)

「……クラリス様。私は、女官の仕事を失いたくありません。それに、リィナの名誉も傷つけたくありません」

「ええ」

「ですから……ちゃんと先輩とも女官長とも話をします。私の落ち度はきちんとご説明し、私が正しいと信じることはきちんと述べる──そうします」

「ええ、そうなさい。あなたならできるはずです」

 そこでクラリスはほんの少しだけじりを垂らし、テレーゼに突きつけていた扇子を開いた。

「……長居してしまいました。わたくしは帰ります。あなた、女官でしょう。わたくしを馬車のところまで案内しなさい」

「え、えぇ……しかし、一応今も仕事中で……」

「お馬鹿、わたくしがあなたに仕事を与えているのです。わたくしのままで女官を連れ回したのだと言っておきます。分かったのならさっさと来なさい」

「……ふふ。分かりました、お供します」

 クラリスはテレーゼの返事を待たずにさっさと歩いていってしまったので、慌てて彼女の後を追いつつテレーゼはぎゅっとエプロンのすそつかんだ。

(……そうだ。私は立ち止まらない)

 失敗したならちゃんと相応の罰を受けるし、おびも申し上げる。だが、譲れないところは決して譲らない。

 それが、貧乏だろうと何だろうと、テレーゼの誇りだった。