2章 令嬢、仕事を頑張る



 翌日、テレーゼたちにとって初の実地訓練が始まった。

「今回は、当日に仕事内容と先輩とのペアが発表されるのよね」

 普段講義で使っている講堂へ向かう途中、リズベスが不安そうな声を上げた。

「まあ、最初のうちは先輩の補助で、専ら見学するだけだって言われているし……多分大丈夫じゃない?」

「テレーゼは気楽そうね……緊張とかしていないの?」

 いぶかしげに顔を覗き込まれ、テレーゼは微笑んだ。

(緊張していないわけじゃないわ。でも……)

「ここが見習卒業のための第一歩だと思うと、気合いを入れていかなきゃ、って思うの。だから緊張とか不安より、そっちの気持ちの方が強いかなぁ」

「……テレーゼって強いのね」

「いえ、ひょっとしたら鈍感なだけなのかもしれないわ」

「長生きできそうなタイプよね」

「本当!? 長生きしたいと思っていたのよ、ありがとう!」

 仲間たちと軽口をたたき合っていると、皆の表情も少しだけ和らいだようだ。

(先輩たちはよく、「そんな辛気くさい表情で貴婦人の前に立つつもりですの?」と言ってくるわ。だったら、少しでも明るい表情でいる方がいいわよね!)

 講堂に入るとさすがに皆表情を引き締め、既に部屋で待っていた女官長や先輩女官たちに向かってお辞儀をする。先輩女官の人数は八人──テレーゼたちと同数で、その中には先日テレーゼに忠告してきたブルネットの髪の女官の姿もあった。彼女はちらっとテレーゼを見ると──なぜか、あからさまに表情をしかめてきた。

(……やっぱり何か、あの人の気に障ることをしてしまったかしら?)

 仲間たちには「やっかんでいる」と言われたこともあり、気になる。あいにくテレーゼはその女官の顔は分かっても、名前を即答できる自信はなかった。

 ──だが、女官長が実地訓練のペアを発表することで、あの女官が不機嫌な理由が分かった。

「テレーゼ・リトハルト。あなたはコーデリア・フィリットの補助に回ること。……コーデリア、頼みましたよ」

「かしこまりました」

 上品な仕草でお辞儀をしたのは、まさにそのブルネットを結い上げた女官。

(……ああー、さては、私の担当になるのが嫌で不機嫌そうにされていたのね)

 なるほど、とテレーゼは内心大きく頷く。どうやらコーデリアはもともとテレーゼによい思いを抱いていないようだから、担当になるのも嫌だったのだろう。

(えーっと……確か、フィリットというのは子爵家の家名ね。ということは、コーデリア様は子爵令嬢である可能性が高いわ)

 リズベスのように、爵位保持者のしんせきという可能性もある。貴族の家にはいろいろ煩雑な事情があることが多いので、「フィリット子爵令嬢」のようにいきなり呼ばない方が安全である、と教わっていた。

 通常だといくら実家が貧乏とはいえ、侯爵令嬢のテレーゼと子爵家のコーデリアでは明確な身分の差が生じる。だが今のテレーゼは女官見習。身分とはまた別の階級制度が存在するため、テレーゼは相手が先輩であれば敬意を示さなければならないし、先輩であればテレーゼを叱ったりこき使ったり命令したりしてもおかしくない。

 全てのペアが発表され、見習たちは先輩の指示でそれぞれ移動を始める。ざっと周りを見たところ、二ペアほどは先輩女官の方から気さくに話しかけてもらっているが、他は軒並み関係がよろしいようには見えず、リズベスもさっさと歩きだした先輩のあとを慌てて追いかけていっていた。

「何をぼさっとしていますの。すぐに出発するから、来なさい」

 コーデリアのぶすっとしたような声で、テレーゼは急ぎ姿勢と気持ちを正す。

(……うん。誰がペアだろうと、やるべきことをするのみよ!)

「はい。よろしくお願いします、コーデリア様。本日はどのような形でコーデリア様の補助をすればよろしいのでしょうか?」

「……わたくしはこれから、太后殿下主催の詩歌朗読会に出席なさるマクファーレン伯爵夫人のお世話をします。伯爵夫人は詩歌だけでなく演劇や管弦楽など芸術全般への関心が高く、とりわけ公都で毎年春と秋に行われる劇団・フラワーベルの公演では、必ず最前列を確保して参加なさっています」

 歩きながらすらすら説明するコーデリア。息継ぎの間すら惜しむような早口なので、聞き取るのも一苦労だ。

(メモを取る間は……ないわね。今こそ、お母様直筆『お城で生き抜くためのメソッド集・きわみ』より、『記憶力が物を言う! 難しい場合には固有名詞と数詞に絞って需要事項を記憶するべし』を発揮する時のようね!)

 短期記憶はあまり得意ではないが、ポイントごとに絞って覚えればなんとかなりそうだ。

 コーデリアは目をかっ開いて集中しながら覚えようとしているテレーゼの方を向くことなく、言葉を続ける。

「マクファーレン伯爵夫人の同行者は伯爵家専属の騎士が三人と、侍女が二人。ちやみなどは侍女が担当するので、わたくしたちは伯爵夫人が問題なく詩歌朗読会に向かえるよう補助いたします」

「はい」

「その後会場までお連れし、会の最中は贈り物やカードの整理、会終了後には伯爵夫人あての贈り物や手紙をお渡しします。伯爵家から迎えに来た者へ引き継ぎするまでが全て仕事です。今回の朗読会には、太后殿下のお誘いを受けたリィナ様もご参加なさるそうです。伯爵夫人はもちろんのこと、主催の太后殿下やお客として招かれるリィナ様のためにも、わたくしたちが陰ながら会の進行をお支えする必要があるのです」

 そういえば、リィナは大公妃教育の一環として、いずれ義理の母となる太后から作法を教わったり一緒にお茶会などに参加したりしていると言っていた。

 今回テレーゼが伯爵夫人に真心込めてお仕えすることでリィナたちのためにもなると思うと、いっそうやる気が湧いてくる。

 なるほど、とテレーゼはしっかりとうなずく。

「マクファーレン伯爵夫人が会に参加なさっている間も、わたくしたちには仕事があるのですね」

「先ほどそう言ったでしょう? 同じことを何度も言わせないでくださる?」

 テレーゼとしては確認のために言ったのだが、コーデリアはテレーゼを冷たくいちべつしてきた。

「一度の指示で理解しきれないような役立たずは必要ありません。……何か、わたくしに言いたいことは?」

「いえ、ありません。ご助言ありがとうございます」

(なるほど、確かに同じことを何度も尋ねられると、不快になられてしまうわよね)

 同じ内容を何度も聞かれたり「……ということでいいですか?」と分かりきったことを何度も念押しされたりすると相手もうんざりするだろうし、不快な気持ちにさせてしまうかもしれない。コーデリアが事前にくぎを刺してくれたおかげで、いざ伯爵夫人の前に出た時に失態を犯さずに済んだ。

(コーデリア様、厳しいようだけれどとても頼りがいのある方なのね!)

 目をきらきらさせてコーデリアのヘーゼルのひとみを見つめていると、すっとらされた。心なしか、先ほどよりますますコーデリアの機嫌が悪くなったような気がする。

「……無駄口は結構。さあ、行きますよ」

「はい!」

 歩くたびにぴょこぴょこ左右に揺れるコーデリアのポニーテールを見つめながら、テレーゼはふーっと長い息を吐きだした。

 いよいよ、テレーゼの初実地訓練開始だ。


「わたくしは四等女官のコーデリアでございます。こちらは女官見習のテレーゼ。本日はよろしくお願いいたします」

 朗々とした美しい声でコーデリアがあいさつしたので、彼女の半歩後ろに立っていたテレーゼもそろってお辞儀をする。ルールに則り、家名を名乗ることはしない。

 案内された部屋には、ふくよかなたいの中年婦人がいた。年齢はおそらく四十代くらいだろうが、顔の肉付きがよいからかもう少し若く見える。

 マクファーレン伯爵夫人はテレーゼたちを見て柔らかく微笑み、隣に立っていた侍女からふわふわの羽根飾りの付いた扇子を受け取って開いた。

「どうぞよろしくね。……それでは早速、カードの整理をお願いしてもよろしいかしら? 今日わたくしがソフィア様に呼ばれて城に来ると聞きつけたらしくて、ほうぼうから招待状が届いていて……うちの侍女よりあなたたちの方が得意だと聞いていたから、頼みますね」

「はい、お任せくださいませ」

 コーデリアが進み出る。特に指示はなかったが、テレーゼも彼女のあとを追いかけた。

(まずは、伯爵夫人がどのような方か把握しないとね)

 見習対象の講義の一番始めに、「可能な限り短時間で、相手の特徴や性格などを見抜く」訓練を受けたのを思い出す。ちょうどその時テレーゼは当時同期として名前を知っているだけだったリズベスと組み、「日常会話をしながら相手の好みや性格を把握する」練習をしたものだ。

 伯爵夫人はシルバーブロンドの髪を結い上げており、髪をひねった箇所にユリの花を飾っている。かなり精巧な造りだが、あれは細いワイヤーで骨組みを作り光沢のある布地を花びらにした造花だとテレーゼの目は見抜いた。

 ふくよかな体型のためか、着ているミントグリーンのドレスはあまり腰を絞らずパニエでスカート部分を膨らませた造りになっているようだ。その上から羽織っているガウンの裾には、つたの模様がしゆうされている。華美さを抑えながらも上質なドレスとガウンが見事だが、その分、彼女がまとっている黄色いストールがややくたびれた感じなのが少々気になった。

 コーデリアがカードの積まれたトレイを侍女から受け取り、空いているテーブルに広げた。テレーゼは別の侍女から、見事な刺繡が目を引くカードケースを受け取る。夫人宛に送られたカードを選別し、見やすいようケースに収めるのだ。

「コーデリア様、どのような基準でカードを分ければよろしいでしょうか」

「まずは並び替えです。男女で分け、さらに階級順に並べます。……爵位ごとの並べ方は、授業で習っておりますね?」

「はい」

 もちろん授業でも教わった。だがテレーゼは同期より半年ほど早く、同じ内容を履修していた。その時先生になってくれたのは、他ならぬリィナだ。

(女官登用試験に向けて、リィナにいろいろなことを教えてもらったのよね)

 地理や歴史、数学や文学などの基礎教養はもちろん、公城における階級ごとの礼儀作法の概要や事務仕事をする上で必要な知識・技能も教えてもらった。その一環として「階級ごとに人名カードを並べる」という訓練もしたのだ。

 たとえば今、コーデリアの手元にある二枚のカード。送り主が同じ「ホルコック」という伯爵家を表す名字でも、それが「当主であるホルコック伯爵にどれほど近しい存在か」という観点で順位付けがなされる。

 各国によって判断基準は微妙に異なるそうだが、アクラウド公国においては──当主、先代、跡取り息子、当主の妻、先代の妻、跡取り息子の妻、跡取り以外の当主の息子、当主の兄弟、当主の娘、当主の姉妹──のように、同じ名字を持つ者でも当主とのつながりで順列を決めることになっている。さらに、「伯爵当主の兄弟以下は、一つ階級が下の子爵当主より順位が低くなる」のような細かいルールも存在するため、家系図を把握していないと正確に並べ替えることができなくなるのだ。

 コーデリアの「できるものなら、おまえがやってみろ」と言わんばかりのまなしを受け、テレーゼはカードに手を伸ばした。

(ホルコック伯爵の娘と伯爵の妹なら、めいである伯爵令嬢の方が上──)

 ちょうど作業用に大きめのテーブルを貸し与えられていたので、慎重な手つきでカードを並べていく。自信を持って並べられるものはそのとおりに並べ、不安なものがあればコーデリアに尋ねることにした。

「コーデリア様。ミュラン侯爵の従妹とハウエル子爵当主だと、子爵当主の方が上でしたよね?」

「……そんなことも分からないのなら、下がりなさい」

「い、いえ!……子爵の方が上です、はい」

 残念ながらコーデリアはアメとムチならぬムチとムチで後輩を育てるタイプらしく、「正解するのが当たり前、失敗すればその時点で追放」という考えであるようだ。

 テレーゼはコーデリアの三白眼に見つめられながら、正確に、そして急ぎながらカードを並べていた。そうしていると──

「まあっ! 何をしているの、ヘレン!」

「も、申し訳ありません、奥様!」

 背後で侍女たちの声がしたため、テレーゼたちは同時に振り返った。今、夫人は侍女の手を借りて服装の確認をしていたはずだ。

 衣服の毛玉取りに使われるブラシを手にした若い侍女が、顔を真っ青にして立ちつくしている。やや年かさの侍女が慌てた様子で夫人の前にしゃがんで、何かをしているようだ。

「……何か起きたのでしょうか」

「黙りなさい。わたくしたちは指示があれば行けばいいのです」

 コーデリアにはぴしゃりと突っぱねられたが、すぐに「お二人、来てくださいな」と落ち着いた様子の夫人に呼ばれた。

 夫人のもとに向かうと、年長の侍女が夫人の体からストールを外し、困ったような顔でこちらを見てきた。

「侍女が奥様のストールにブラシを引っかけ、穴を空けてしまったのです」

「これは……かなり盛大にほつれていますね」

 そう言うコーデリアは落ち着いた様子だが、声はほんの少しの緊張をはらんでいた。

 彼女の言うとおり、毛糸編みらしいレモンイエローのストールの編み目が一部解れてしまっていた。遠目に見ればなんとかなる──という程度ではないくらい、ぼこっと大きく編み目が飛び出ている。

 ざっと編み目を確認したコーデリアが、肩を落とした。

「……修復は難しそうです。奥様、ストールを脱いで会場に行かれますか?」

「もちろん、そうするしかないでしょう。しかし……実はこのストール、わたくしとソフィア様がお互い未婚の頃に一緒に編んだ記念の品なのです。ソフィア様にお会いする時には、いつも身に纏うようにしていますの」

「それは……」

 さしものコーデリアも口をつぐんだ。

 夫人の言う「ソフィア様」とは、レオン大公の母親である太后殿下のことだ。名前で呼ぶ仲で、独身時代に一緒に編み物をする間柄だということであるし、彼女がどれほどストールを大切にしていたのかは想像に難くない。

 それほどまで大切な奥様のストールに穴を空けてしまった若い侍女の顔は青を通り越して真っ白になり、ぶるぶる震えていた。

「お、奥様、わ、わたくしは──!」

「いいのよ、ヘレン。これを作ってもう二十年以上経ちますもの。これまでっていたのが不思議なくらいですし、ソフィア様も許してくださるでしょう」

 そう言って夫人は今にも失神しそうな侍女を慰めるが、それでも唇にはほんの少し寂しそうな微笑みが浮かんでいる。

(そんな大切な品なんだ……あ、そうだ!)

「あの、せんえつながらわたくしにストールの修繕をさせていただけませんか?」

 思いきってテレーゼが進み出た、とたん。

 真横から殺人的な視線が飛んできて、テレーゼの背中にゾクッと悪寒が走った。もしその視線に殺傷能力があれば、既にテレーゼは事切れていただろう──それくらいの厳しい眼差しだった。

(余計なことはするな、という命令に違反していることは分かっている。でも……このまま放っておけないわ!)

 幸い、夫人はおっとりと首を傾げてテレーゼを見てきていた。テレーゼが口を挟んだのに対して不快に思っているのではなく、興味を抱いているようだ。

「まあ……あなたは裁縫がお得意なので?」

「それなりには。ただ今回は時間もないので、解れを目立たなくさせる方針で行こうと思いますが、それでもよろしいでしょうか」

「……このままではヘレンもつらいでしょうし、あなたにけてみましょうか。テレーゼさんでしたか。お願いします」

「はい、お任せください」

 テレーゼは年かさの侍女からストールを受け取り、全体に素早く視線を走らせた。相変わらず隣からは渦巻く不機嫌オーラを感じるが、今は手元に集中しなければならない。

(──あまり複雑な編み方じゃないわね。あと毛糸は……ああ、よかった。切れているけれど十分長く残っているし、これまでちゃんと手入れされているからか、少々引っ張っても千切れそうにないわ)

 まずはストールの解れた編み目付近に手を当て、軽くむようにしながら編み目を少し緩める。侍女のヘレンは解れてしまっても無理に糸を切ったりしなかったようで、解れの周囲の糸があまり引っ張られていなかったのも幸運だった。

 続いてテレーゼは侍女から編み針を借り、飛び出た糸を慎重な手つきで隣の編み目に引っかけた。

(千切れたらおしまい。ゆっくり、丁寧に、糸同士をませて──)

 双子の妹たちは活発なので、冬場に着ているセーターをどこかに引っかけ、解れさせてしまって帰ってくることがたびたびあった。テレーゼは妹たちに、「もしセーターが解れても絶対に、糸を切らないで帰ってきなさい」と忠告しているのだ。

 その時も同じように、糸の飛び出たセーターを修繕してあげた。ややこしい編み目だったり模様が描かれたりしている場合は難易度が高くなるが、シンプルな模様のものなら今までにも何度も直してきた。

 少しずつ糸を引っかけ、編み目を誤魔化す。ストールを目の高さに持ち上げ、最初にやったように布地を軽く揉んで編み目を馴染ませた。そうすると──

「……できました。いかがですか?」

「……あら? どこに穴があったのかしら?」

 ストールを受け取った夫人が不思議そうに首を傾げたとたん、テレーゼの胸が充足感で熱くなった。

 ストールはテレーゼの修繕により、素人の目では解れた箇所が分からなくなっていた。最後の編み目は裏地に押し込んだので、毛糸も飛び出していない。かんぺきな出来だった。

 しげしげとストールを眺めた後、夫人はにっこりと微笑んだ。

「すばらしい出来ね。これなら着ていけそうだわ」

「ありがとうございます。ただ、応急処置なのでこの後も何度も手入れしたり洗ったりしていると、解れがまた浮き出る可能性がありますので……申し訳ありませんが、その点はご了承ください」

「ええ、もちろんです。……ほら、ヘレン、あなたも礼を言いなさい」

「あっ……! あ、あの、ありがとうございました、女官様!」

 それまでテレーゼの手元をびくびくしながら見つめていた若い侍女は夫人に促され、はっとして頭を下げてきた。どうやら彼女がすぐクビになることはなさそうで、他人事ではあるがテレーゼもほっとした。

「いえ、お役に立てたようで何よりです」

「……マクファーレン伯爵夫人。そろそろお時間でございますので、会場に参りましょう」

「あら、それではわたくしたちは間に合ったのですね。ソフィア様やリィナ様もお待ちでしょうし、参りましょうか。本当に感謝します、テレーゼさん。お礼はまた後ほどということで」

 無機質なコーデリアの声を受け、夫人は立ち上がると侍女二人を連れて部屋を出て行った。

 部屋には、テレーゼとコーデリアの二人っきり。

 視線が痛くて、正直すごく怖い。

(き、気まずいわ。でも……)

「……あの、コーデリアさ──」

「余計なことはするなと、言いませんでしたか?」

 夫人と話している時のたおやかそうな声から一転、なかなかドスの利いた低い声に、テレーゼの背筋がびくっと震える。

 余計なことはするなと、確かに言われた。手伝いを申し出た時も、無言の圧力を隣から感じていた。

「そ、それは承知しております。しかしマクファーレン伯爵夫人はストールをとても大切にされているようでしたし、あの侍女もかわいそうで──」

「黙りなさい。……今回は夫人が寛容な方であなたの修繕がうまくいったからよかったものの、夫人が厳しいお方だったら? あなたの修繕が失敗し、ストールが余計にひどい状態になってしまったなら、どう償うつもりだったのですか!?

 怒りに燃えるヘーゼルのひとみにらまれ、テレーゼは何も言えなくなった。心臓が嫌な音を立てて脈動しているし、手袋の下の両手は汗でぬめっている。

 もし、テレーゼの発言に夫人が気分を害してしまっていたら?

 もし、修繕が失敗して大切なストールを余計壊してしまっていたら?

(私……そこまでは、考えていなかった)

 何も言えず黙りこくってしまうテレーゼに一歩詰め寄り、コーデリアはテレーゼをへいげいしつつ吐き出す。

「それに……あの侍女がかわいそうだから、って何? 穴が空いたのは侍女の責任。あの女がクビになろうと何だろうと、わたくしたちには関係ない。……わたくしたちには関係ないまま、するべき仕事を遂行するだけでよかったのに、あなたは自ら他人の問題に首を突っ込んだ!」

 怒りと興奮のあまりか、コーデリアの口調が少々崩れている。テレーゼがそれくらいのことをしでかしたというあかしだろう。

「わたくしがなぜ、『余計なことをするな』と忠告したのか、分からないのですか!? 勝手な行動で、わたくしが、女官職全体が、皆の信頼を失うことになるかもしれないのだと、分かっていなかったのですか!?

「も、申し訳──」

「……言い訳は聞きたくありません。このことは女官長様にも報告します。……夫人が戻ってこられるまでにカードと贈り物の整理をせねばなりません。来なさい」

「はい……」

 コーデリアは話しているうちにだんだんと落ち着きを取り戻してきたようだが、とげとげしさは健在だ。ふいっと顔を背け、テレーゼを残してテーブルに向かってしまった。

(私のしたことは……間違っていたの?)

 夫人は笑顔で礼を言ってくれた。侍女のヘレンも感謝の言葉を述べてくれた。

(コーデリア様は、あの侍女さんがクビになろうと関係ないっておっしゃった。……でも、目の前で困っている人、辛そうな人がいるのに、手をこまねくしかできないなんて……嫌だ)

 テレーゼの行動は、「女官として」は間違いだったとしても、「人として」は間違ってはいなかった──そう信じたかった。


*  *  *


 初の実地訓練の翌日は給料日で、数日後にはテレーゼはリズベスたちと同時に休みを取ることができた。

 ……取ることが、できたのだったが。

「……うう、辛い」

「辛すぎる」

「頭からキノコ生えそう」

「しかも毒キノコね」

「食べたらお腹を下すやつね」

「まあまあ。私たちも頑張ったんだし、今日くらいは羽を伸ばしましょうよ」

 ね? と仲間の一人に励まされ、皆はしょぼしょぼとうなずいた。

 今、テレーゼたちは城下町のカフェのテーブル席二つを占領して、ランチを食べていた。

 先日の初の実地訓練の結果はおしなべて酷かったようで、一見すれば優しそうな先輩女官とペアを組めた仲間も、「すごかった……二人きりになったとたん、ひようへんした……」と、絵本の挿絵で見たことのある異国のキツネのような顔になってつぶやいていた。

 話を聞くと、どうやら開始三十分ほどで先輩の暴言に耐えきれず泣いてしまった仲間もいたようで、「コーデリア様にこう言われちゃって~」と話題にしようと思っていたテレーゼは閉口することにした。

(うーん……皆の話を聞いていると、コーデリア様とペアを組んだ私はまだましな方だったんじゃないかとさえ思われてくるわね)

 そのため、今は比較的元気なもう一人の仲間と一緒に、皆を励ます役を請け負っていた。

 テレーゼは隣の席の仲間の背中をポンポンとたたき、その手にフォークを握らせてやる。

「ほら、おいしいものを食べて、英気を養おう。明日からまた、訓練が始まるよ」

「うん……頑張る」

「ご飯……おいしそう……」

 入店直後はほとんどの仲間が撃沈していたのだが、それぞれが注文したぴりっと辛いパスタやあつあつのステーキ、とろりとはちみつが滴るパンケーキや、ナイフを入れるとパイ生地がさくっと音を立てるキッシュなどを食べていくうちに、少しずつ表情が和らいでいった。おいしいものは人の心を癒すようである。

「っあー、おいしかった!」

「ほんとほんと。来てよかったわ!」

 おいしいものをたくさん食べて店の外に出ると、先ほどより視界がずっとクリアになったように思われた。ランチを食べたので体重は増えたはずだが、足取りさえ軽くなったように感じられる。食事の力は偉大だ。いずれ、全ての領民が毎日満ち足りた食事をれるようになればと思う。

(まだ時間はあるし、ちょっと市場を見ながら帰ろうかなぁ)

 テレーゼが大きく伸びをして秋めく大通りを見渡す、その傍らでは。

「あれって、騎士団よね?」

「深緑の制服……きっとそうね」

この騎士って素敵よねぇ。たくましいし礼儀正しいし、優しくしてくれるし」

「分かる分かる。うっとりしちゃう」

 仲間たちがきゃっきゃとはしゃいだ声を上げていた。どうやら市場巡回の騎士たちが通りかかったようだ。見習仲間たちは階級に多少の差はあれど、全員貴族の娘。だがドレスも制服も着ていない普段着の彼女らは、町を歩く市民階級の少女たちと何ら違いはなく、しい騎士たちにすっかり心を奪われているようだ。

 騎士、と聞いてテレーゼはつま先立ちになり、騎乗して大通りを進む騎士たちを遠目に眺める。

(もしかして、この中にいたり──あっ、みっけ!)

 いればちょっとおしゃべりしたいな、と思っていた矢先、テレーゼのすみれ色のそうぼうは、茶色の髪の青年の姿をとらえた。

「ジェイド! おつとめお疲れ様!」

 そう言いながら近づくと、数名の騎士が振り返った。その中にはもちろん、テレーゼが名を呼んだその人もいる。わざわざテレーゼのいる場所まで馬を進めてくれたのは、騎乗してますます長身と体格のよさが際立っているような騎士。

 彼はテレーゼの前で馬を止め、馬上からほんわかとした笑みを向けてきた。

「これは……テレーゼ様。今日は休日でしょうか?」

「ええ、見習仲間とお出かけしているの。ジェイドは市街地調査? あの、呼び止めて大丈夫だった?」

「そんなところですが、ちょうど終わったところなので大丈夫ですよ」

 そう答える彼の名は、ジェイド・コリック。今年の春、大公妃候補として公城に参上したテレーゼの護衛となってくれた近衛騎士だ。騎士らしくしっかりした体とせいかんようぼうを持つ彼だが、人当たりがよくて、頼りになる。

 彼は、他の令嬢のようにお茶をたしなんだりお花をでたりせず、ちゆうぼううまや、練兵場や裏庭などあちこちを探検したがったテレーゼに辛抱強く付き合い、困った時には手を貸し、窮地に陥った時には助けてくれた。そんなお兄ちゃん気質にあふれるジェイドに、テレーゼはすっかり懐いていた。

 今は女官見習と騎士ということで一応対等な立場に立っているはずなのだが、相変わらず敬語で接してくるのが生真面目な彼らしいと思う。

 ジェイドは微笑んだ後、肩から掛けていた上着を軽く払いのけ、馬の手綱を引いた。

「いつも笑顔で頑張っているのは、本当にあなたらしいですね。しかし、無理は禁物です。今日のように、休日はゆっくり体を休め羽を伸ばして、勉学や訓練に励んでください。……では、報告に参りますので、私はこれで」

「うん。ジェイドもお仕事頑張ってね!」

 テレーゼの言葉にジェイドは片手を挙げて応えるとくつわの向きを変え、道の端で待っていた同僚のもとに向かっていった。そのがっしりした後ろ姿はとても頼りがいがあり、同僚たちとなにやらあいあいと話している彼の背中を見ていると、なんだかテレーゼまでうれしくなってくる。

(そう……だね。休める時にはしっかり休む! お母様のメソッド集にも、『よく食べてよく寝れば、大概のことは乗り越えられる』ってあったものね!)

 晴れやかな気持ちになりながら振り返ったテレーゼは──カフェの前で待ってくれていた仲間たちのえも言えぬ視線を浴び、ぎくっと口元を引きつらせた。

(……あっ、知り合いだからっていきなり騎士様を呼び止めたりしたから、驚かせてしまったかしら……)

 彼女らにはテレーゼがかつて大公妃候補だったことも、その時に護衛騎士がいたことも教えている。だがそれが誰なのかまでは言っていなかったので、はたから見ると騎士の職務妨害をした小娘に思われても仕方ないだろう。

「あの、皆。今の人は──」

「テレーゼの恋人?」

「ううん、違う」

 即答すると、とたんに七人はあからさまにほっとしたような顔になった。

「なーんだ……私たちに隠れてジェイド・コリック様とお付き合いしているのだと思っていたわ」

「そんなまさか……って、ジェイドのことを知ってるの?」

「そりゃあ、半年前の大公妃選定時、バルバの手先に捕らわれたお姫様を華麗に救出した騎士様なんだもの。有名に決まってるじゃない」

「……お姫様って?」

「それはあなたです」

「へー」

 どうやら半年前の事件がきっかけで、ジェイドは一躍有名になっていたようだ。

(なるほどなるほど。それは確かに有名になってもおかしくないわね!)

 兄代わりのようなジェイドが人気者になると、やはりテレーゼも嬉しい。

 一人にまにま笑っていたテレーゼは……ふと、仲間たちが「ジェイド様も格好いいけど、あの人も素敵」「あの人も優しい」とあれこれ話に花を咲かせている中、一人難しい顔で黙っているリズベスに気付いた。

「どうしたの、リズベス?」

「え?」

「難しい顔をしてるわ。……も、もしやさっき食べたキッシュのパイ生地の破片が、のどの裏に貼り付いていて不快だとか──!?

「う、ううん。そうじゃないの。ただ──」

 そうしてリズベスは顔を上げる。彼女の視線の先にいるのは、市街地調査をおこなっているらしい騎士たち。ジェイドは既に引き上げているようだが、数名の騎士たちはまだそこに残っていた。

 ひょいっとリズベスの顔をのぞき込んだテレーゼは、おや、と小首を傾げる。

 色白のリズベスの頰は今、ほんのり赤く染まっており、少しだけとろんとしたようなまなしをしていた。うつむいているから難しい顔をしているように思われただけで、実際は──

(あ、もしかして?)

「リズベス、騎士団に好きな人でもいるの?」

「よくもまあ、ここまでばっさり言えるわね、この子!」

 ひらめいた、とばかりに満面の笑みで言ったとたん、仲間に後頭部を軽く叩かれた。リズベスは真っ赤になってぷるぷる震えており、なんとなくその様子が以前、大公にプロポーズされた時のリィナの反応と重なって見えた。

「ちょっとは遠回しに聞いたりしなさい!」

「というか、テレーゼにも人の恋心を見抜けるものなのね」

「『恋? なにそれ換金できるの?』みたいな顔をしてるのにね」

「さすがに失礼じゃない!?……あ、えっと、ごめん、リズベス。私、デリカシーなかったよね」

「ううん、気にしないで!……それに、好きっていうのもおこがましいし……こう、遠くから見ているだけでも幸せだなぁ、って思えるのよ」

 そう言ってリズベスは微笑んだ。先ほどまで道の向こうにいた騎士たちは既に移動してしまっているので、誰がリズベスの恋する君なのかは分からない──が。

(騎士団に、リズベスの好きな人がいる。そして、私にはジェイドという頼りがいのある仕事仲間がいる)

 テレーゼの頭の中で、素早く物事が繫ぎ合わせられていく。

 ひょっとしたら、テレーゼにも微力ながら協力できることがあるのではないだろうか。

 リズベスは恥ずかしがり屋だから、きっと「誰が好きなの!?」と詰め寄っても教えてくれないだろう。彼女も「遠くから見ているだけでも幸せ」と言っているのだから、恋する君と急接近するより、少しずつ距離を縮めていける方がいいのではないだろうか。

(もし、私に何かできることがあれば……いつも世話になっているリズベスのためにも、協力したいわ!)


 テレーゼはリズベスの片思いを知って満面の笑みになり、そして今はあごに手をあてがってニヤニヤ笑いながら何かを考えているようだ。傍目から見たら不審者である。

 リズベスたちはそんな仲間の姿をしばし見つめていたが、やがて肩を落として小さく笑った。

「……あらら、テレーゼの中で何かが始まったみたいね」

「テレーゼって、恋愛話に結構敏感だし鋭いのね」

「超鈍感だと思ってこれまでテレーゼの前では恋愛話を遠慮していたけど、余計な気遣いだったかしら?」

「かもねぇ」

 仲間たちがあれこれ好き勝手にしゃべる中、リズベスは目を細め、もの言いたげな眼差しでテレーゼの横顔を見つめていた。