「──あああああ!! マジでヤバい!!!」

 わたし、さいとうまどかが叫んだのは──入れ替わりの告白から、三週間。

 もろもろの雑務を終えてしまおうと、やってきた事務所でのことでした。

おんも、完全にスランプに陥ってる……どうすればいいのこれ!!

 ──弊社所属声優、紫苑と良菜。

 色んな意味で最近話題の二人は、完全に役者として追い詰められてしまっていた。

 良菜はらんかんばしさんの怒りに反応してしまって、紫苑は自分の軸を見失って、まごうことなき絶不調。ボロボロのお芝居しかできない状態だ。

「……くそー、どうする!?

 栄養ドリンクを一気に飲み干し、口元を手の甲でぐいっと拭う。

「どうすればこのピンチを乗り切れる? 考えろ、わたし……!」

 自分自身を鼓舞して、全力で考えを巡らせる。

 入れ替わりの報道は、本格的に落ち着いてきたように思う。

 世間の空気としては、「その後の動きで判断」みたいな方向性でまとまってくれた。

 香家佐紫苑と佐田良菜。入れ替わっていた二人が、このあとどんな芝居を見せるのか、的な雰囲気。

 これはマジでよかった。

 心底ほっとしているし、周囲のご協力にも大感謝だ。

 ようやくこれで、不安に飲んだくれる日々にもさよならできそうな気配。

 なんて思っていたのに──、

「──斎藤さん、どうしましょう。らんちゃんと、くお芝居できない……」

「──斎藤さん、ごめん。ちょっとわたし、お芝居見失った」

 肝心の二人が、これである。

 まだまだ経験の浅い良菜はもちろん、紫苑まで前代未聞の不調状態に陥っている。

『おやすみユニバース』も『せいさいかい』も、どちらも外すことのできない現場だ。

 前者は『佐田良菜』としての初主演作品。しかもアフレコがすぐ先に迫っている。

『精彩世界』は、紫苑としては初の主演ゲームだ。実はこちらも、重要なPVの収録が少し先にある。

 スランプなんかに、陥ってる場合じゃない。

「でも……もしこのままだったら。抜け出せないまま、仕事を続けちゃったら……」

 腕を組み、わたしはそんな未来を想像してみる。

 ──実力ないな、こいつら。

 ──なのに入れ替わりとか、もう仕事振れねーな。

 確実に、そんな評価を受けるだろう。

 それは二人の今後に大きな影響を及ぼすだろうし、最悪……役者として、二人の未来が閉ざされる可能性も……。

「……それはダメ。絶対に、そんな風にはさせない!」

 ぐっと手を握り、もう一度パソコンと向かい合った。

「二人とも──本当にい役者なんだから!」

 天賦の輝き、スター性を持ったおん

 天賦の透明感、役者の勘を持った

 どちらも、間違いなく時代をリードし得る才能を持った逸材だ。

 この才能が、妙なスキャンダルや不調をきっかけに終わってはいけない。そのために、マネージヤーという存在がいるんだと思う。

 だから、なんとしてもここから持ち直さないと。

 崩れそうな二人を、影から支えないと!

 バチバチとキーボードを打って、思い付く限りのアイデアをまとめていく。

 文章が長大になって、気付けば事務所内にいるのが自分だけになっている。

 それでも、と計画を練るうち、疲れに目がかすみ出した。

 腕を回すと、肩がバキバキ言った。

「うへー、肩こりヤバ……」

 考えてみれば……わたし自身ももう限界だ。

 入れ替わりの告白前後から、昼も夜もなく働きづめ。

 もうずいぶん美容院には行けていないし、肌もボロボロだ。

 最近連絡を取っていた良い感じの人。ちょっとアリかも……なんて雰囲気だった男性のLINEにも、まともに返信を返せていない。きっと、もうわたしのことなんて忘れて他の女の子のところに行っているだろう。

 ああ……いい人だったのにな。誠実で、優しくて、顔も好みだったのに。

 さよなら、わたしの彼氏候補……。

「……はあ~」

 気付けば……キーを打つ手が重くなっていた。

 全身の疲れがどっと脳に及んで、思考もかすみはじめる。

 しばらくは、そんなペースダウンに必死にあらがっていたんだけど、

「ん?」

 大学時代の友人から、LINEの通知があった。

 見れば、どうやら、友達数人と旅行に行っているらしい。

 新幹線内や雄大な自然、旅館の部屋の画像。

 さらには、浴衣姿の友達たちの写真まで共有されて、

「……温泉行きた~い……」

 無意識のうちに、そうこぼしてしまっていた。

「わたしも旅行行きたいよー……とか、あたとか……」

 旅行なんて、もうどれだけ行けていないだろう。

 パッと思い出すのは、前の事務所。大手にいたときに、所属声優たちと行った山間の施設だ。

 あれは楽しかったなー。

 レッスンの合間にみんなでプールで泳いで……夜はバーベキューして、花火なんかしちゃったりして……。あれをきっかけに、カップルになった役者どうしもいたりした。

 あの頃はわたしも若かったし、今ほど追い詰められてもいなかった。

 当時に戻りたいとは思わないけど、せめてあれくらいの余裕があれば。

 あれくらい、心にゆとりがあれば、なんとかなりそうなものなのに……。

「……ん?」

 そこまで考えて、ふと思う。

 バカンス、旅行、余裕。気分転換、休養……。

 考えてみれば、そういうものから遠ざかって大分つ。

 わたしもそうだし、おんもだ。少なくとも、入れ替わりを始めてからはそんな機会全くなかった……。

「……そうだ!」

 言いながら、ガバッと身を起こした。

 考えても、答えなんて出てくれそうにない。

 このままうんうんうなっても、先になんて進めない。

 なら──、

「よし!」

 ──スマホを起動して、わたしは良菜と紫苑とのグループLINEを起動。

 二人に、ちょっと話をしようともちかけたのでした。


   ***


「──合宿に行こう!」

 さいとうさんがそう言いだしたのは──事務所の会議室。

 突然呼びされた、ある夕方のことでした。

「二人とも、追い詰められすぎ! 気分転換して、そのついでに色々考えたりしてみよう! このままじゃどうにもならないし!」

「へえ……」

「合宿かあ」

 さいとうさんの言う通り。近頃わたしとおんは、完全に追い詰められていた。

 わたしの抱えている、らんちゃんとの関係の問題。

 そして紫苑が抱えているという、わらさんとの問題。

 わたしもあの子も必死で解決策を探してきたけれど、気持ちや体力を消耗するばかり。かえってしんどくなっていく一方だった。

「前の事務所にいたとき、新人を集めて研修合宿に行ったことがあるんだけどね」

 そんなわたしたちの前で、斎藤さんはそんな風に熱弁してくれた。

「すごくいいところだったから、息抜きがてら行っちゃおう! ちょうど今週末、二人ともスケジュール空いてるし!」

 ……合宿。確かにいいかも。

 ここらで一息つかないと、さすがにキツすぎる。

 気分転換をすれば、いアイデアが出る可能性だってある。言い訳っぽいけど、本気でそう思う。

 だから、

「い、いいですね!」

 斎藤さんのその提案に、わたしは食いつくように答えた。

「ちょうど、旅行とか行きたいなって思ってたんです! 是非、行きましょう!」

「……ふうむ」

 そんなわたしの隣で、紫苑は腕を組み考える顔をしている。

「合宿、三人で今週末、か……」

「あ、あれ……微妙だった?」

 そのリアクションが意外で、わたしは彼女の顔をのぞんだ。

「あんまりお泊まりとか、好きじゃない? そんなことするくらいなら、練習したいとか……?」

 こう見えてストイックな紫苑のことだ。

 合宿なんか行ってる場合じゃない! みたいな感じだったり……?

「そうじゃないんだけど……斎藤さん?」

 不安になるわたしをよそに、紫苑は斎藤さんの方を向き、

「確認したいんだけど……」

「な、何?」

 緊張気味に聞き返す斎藤さん。

 そんな彼女に、紫苑はあくまで真面目な顔で──、


「──おやつは……いくらまで?」


「……は?」

「バナナとかは別でカウントするとして、お菓子はいくら分持ってっていいの?」

「え、いや……好きに持ってけばいいけど……」

「消灯時間は? 九時とか?」

「それも、好きに寝ればいいよ……」

「枕投げはOK? NG?」

「だからそれも……いや、枕投げはNG。施設に迷惑かかるし……」

「そっかそっか……」

 もう一度、腕を組み考えるおん

 そして、彼女はわたしたちにニカッと笑ってみせると、

「なら──行きましょうか! それくらい自由にやらせてくれるなら!」

「えー。何だったの今の質問」

 思わず噴き出しながら、わたしは尋ねる。

「そんな、小学生の遠足みたいな……」

「えー、通ってた小学校の林間学校がさー。縛りがめちゃくちゃ厳しくって、楽しくなかったんだよ! そうじゃないならいいかなって!」

「何だー、そんなことかー」

 言い合って、三人で笑い合う。

 こんな風に明るい気分になるのは、久しぶりのことな気がした。

「ということで! そうと決まれば、善は急げだね!」

 言うと、さいとうさんはぐっと拳を握り、

「すぐに施設に予約を取ろう! あとで詳細共有するね!」

 ──そんな風にして。

 突発的な斎藤さんの提案で、わたしたちの合宿開催が決定。

 週末は、やまなしの施設にお邪魔することになったのでした──。


   *


 そして──やってきた合宿当日。早朝。

 事務所の車に乗って、わたしたちは移動を開始した。

 中央自動車道でかわぐちインターチェンジへ向かい、そこからさらに三十分ほど。

 山の中の自動車道を抜け、トータルで二時間ちょっとかけて……目的地。やまなかはんの施設の駐車場に到着した。

「──ここかー!」

「──おおー!」

 車から降りたわたしとおんは、声を上げながら伸びをする。

 やまなしみなみ郡。

 何から何まで、とうきようとは違っていた。

 広い空。茂る冬の木々。辺りに漂う素朴な匂い。

 わたしたちの頭上を、名前のわからない鳥が飛んでいく。

 案外「山の中!」って感じではなく、懐かしい田舎の住宅地って雰囲気だけど、それがまた新鮮だ。

 わたしはずっと東京生まれ東京育ちだし、紫苑も都心生活が長い。

 そんな二人だから、こういう場所に来るだけで気分が大きく入れ替わる。

 荷物を肩にかけ、少し離れたところにある合宿所へ移動した。

 数分ほど歩くと、すぐにその建物が見えてきて、

「ふんふんふん、いところだね!」

「おー、レトロで渋いなー!」

 バブルの頃にでも建てられたのか。どこか80年代の雰囲気のある『公民館』みたいな建物だった。

 高台から、その施設をざっと見回す。

 年季の入った本館と、併設された多目的ホールやバーベキューハウス。

 実際、企業や部活、スポーツクラブの合宿なんかに使われるらしい。

 体育館や大浴場、テニスコートなんかもそろっているうえ、スーパーやコンビニも近くにある。歩いて数分のところには天然温泉、もう少し歩けば山中湖にも着くらしい。

 これはお芝居の練習と気分転換、どっちにもおあつらえ向きだ。

 ちなみに、季節は冬。完全にオフシーズンで、宿泊客はわたしたちだけらしい。

 それなら、周囲の目を気にせずゆっくり過ごすことができそうだ……。

「ということで、わたしたちはここで二泊三日を過ごすんだけど」

 かばんを肩にかけ直し、本館に向かいながらさいとうさんは言う。

「ここでのスケジュールは特には決めません。お芝居の稽古をしてもいいし、ぼーっとしてもいいし、遊んでもいいよ。ここしばらく、本当に張り詰めてたからね。まずは自分をいたわってあげよう」

 気遣うように笑う斎藤さん。

 疲れているのは、自分も同じだろうに。むしろ、色んなところから問い合わせ、ご意見、お叱りをいただいているのはこの人なのに、それをじんも見せず笑ってくれている。

「でも、せっかくだし二人とも、現状を打破するヒントが見つかれば……とっかかりでも手に入れられれば、ベターではあるね」

「だねー」

「見つけましょう、なんとかして!」

 そんなさいとうさんへの感謝の気持ちを込めて、わたしはこくこくとうなずいた。


 こうして──わたしとおん、斎藤さん。

 三人の声優合宿が、始まったのでした──。


   *


【一日目】


 まずは荷物を部屋に置いて、館内を探検。

 大浴場や食堂。多目的ホール入り口など、どこに何があるのかを把握して、ひとしきりキャッキャとはしゃいだあと。

「湖、行ってみますかー!」

「そうだね!」

 わたしと紫苑は、連れ立ってその建物を出た。

 数分ほど家並みの間を歩いていると、急に視界が開ける。

 そして、

「おおおー!」

「すごーい!」

 広がった光景に、二人ともそんな声を上げてしまった。

 目の前に横たわる、群青のやまなか

 吹く風に湖面は細かく波立ち、午前の光がチラチラときらめいている。

 そして──さん

 わたしたちの正面にどーんと姿を現した、富士山である。

「うおー、きれー!」

「すごい……絵に描いたみたい……」

 浮世絵や写真で見るような、いアングルからの眺めだった。

 雪で白く染まった山体と、浮かんでいる薄い雲……。

 もうこれだけで、来てよかったと思える光景だった。

 日々の生活に振り回されて縮こまっていたわたしの気持ちも、ずいぶんと緩んだような気がする。やっぱりきれいな景色は、見るだけで心が洗われるね……。

 そのまま、おんと二人で湖畔を歩く。

 時折すれ違う散歩中の人や、陸に揚げられ、ビニールをかけられたボートたち。

 そんなあれこれを眺めながら、わたしたちはお互いが抱えた問題を確認し合った。

「わたしが……そんならんちゃんに反応しちゃうの」

「ふんふん」

「欄ちゃんは、きちんとお仕事してくれてるんだけど、どうしてもわたしが過剰反応しちゃって。あとね……『自分の芸名を何だと思ってる』って言われてさあ」

「へえ、芸名かあ」

「それも、いまいち理解が追いつかなくて……」

「なるほどなあ。じゃあとりあえず、怒りに反応せずお芝居をする練習をするかあ」

 わたしが話したあとは、紫苑の番だ。

 一通り話は聞いていたし、わらさんに叱責されたのも知っていたけれど、

「『お前、下手になったな』って」

「うんうん。それは厳しいね……」

「『の方が、いんじゃないか』って言われてさ」

「うんうん……それも悔し……うぇええ!?

 変な声が出た。

 唐突にわたしの名前が出て、大声を出してしまった。

「わ、わたし……の方が上手い!?

「うん。それに、紫苑も本当は、そのことに気付いてるんじゃないかって」

「……いやいや、ありえないでしょ! だって、紫苑とわたしでしょ!? どこをどう考えたって……紫苑の方が……」

 確かに、わたしだって日々お芝居は上達していると思う。

 養成所でのレッスンや現場での経験を積むことで、自分でもわかるくらいに実力は伸びている。

 けど……紫苑より、わたしの方が上手い?

 それは、さすがにありえない。そんなはずはない。

 キャラの理解、解釈。物語の把握。発声、滑舌、肺活量や声量やそれを操る技術。

 声優としてほぼすべての分野で……紫苑はわたしのはるか先にいる。

「……それ、意地悪言っただけなんじゃないの?」

 少し考えて、わたしはそんな説に思い至る。

「入れ替わりの件で怒ってて、そんな風に言っちゃっただけじゃない……?」

 そうだ、そうとしか思えない。

 客観的に見て事実じゃないことを言ったなら、そこには別の意図があるわけで。

 怒ってるからとかあおりたかったとか、そういう意地悪な理由があったんじゃないの?

「いや、わらさんはそういうことするタイプじゃないよ」

 おんは、けれどそう言って首を振る。

「……そうなの?」

「うん。思ったことははっきり言うけど、全部ちゃんと本心だから。それに」

 と、紫苑は視線を上げ、

「正直、ちょっと図星だったんだよなー」

 あっけらかんとした声で、そう言う。

「特に、繊細めなお芝居。最近、に勝てないかもって思いはじめてたんだよなー」

「え、ええ……」

 わたしに勝てない……?

 そんな、ことないでしょ。普通に、紫苑の方がずっといでしょ……。

 そう思うけれど、彼女の口調に冗談を言う気配はない。

 小田原さんも紫苑も、本気でそう思っている。

 そうなんだ。みんな、そんな風に……。

「で、ぶっちゃけそれで動揺しちゃって。お芝居がブレたから……わたしはそこのリカバリーだね。繊細なお芝居をもうちょい追求して、気持ちを落ち着けて演じられるようにする」

「なるほど……なるほど」

 いまだに納得はいかないけど、まあ理解はできた。

「じゃあ、お散歩してお昼食べたら……さっそく練習に入ろっか」

「うん、そうだねー」

 そんなことを言い合いながら、わたしたちはしばしやまなかの景色を堪能し。

 合宿所でおいしいご飯をいただいてから、午後はまるまるお芝居の練習に没頭したのでした──。


   *


【二日目】


 この日も、わたしと紫苑は朝から稽古に励んだ。

 昨日話した通り、わたしは紫苑に協力してもらって『相手の怒りに反応しないお芝居』を、おんは繊細な演技をレベルアップさせることで、お芝居がブレなくなることを目指した。

 どちらも、ちょっとずつ上達してきた雰囲気がある。

 わたしは以前よりも平静を装ってお芝居できるようになってきたし、紫苑の静かなお芝居も、味のあるいものになってきた気がする。

 けれど──、


「──なーんか、みよくない?」

 お昼ご飯を食べたあと。

 なぜか急に「お風呂行こう」と言われ、やってきた近所の温泉で。

 湯船に肩までかりながら、紫苑はそんなことを言う。

「ちょっとずつよくはなってるけど……こういうことじゃないっぽくない?」

「あー、ねー……」

 紫苑の隣で湯船に浸かり、わたしもそれにうなずいた。

「なんかわたしも、そんな気はしてたかも……」

 わたしたちがいるのは、合宿所から徒歩数分。

 最近できたばかりだという、お洒落しやれできれいな温泉施設だった。

 日本有数の高アルカリ性温泉を売りにしているらしく、美肌にも効果があるらしい。

 建物はきれいだし、休憩所やサウナもあって施設は充実しているし……何より、この浴槽! 良い匂いのする露天のひのき風呂に浸かっていると、稽古の疲れもジワジワ溶けていく気がした。

 二人とも、そんなリラックス状態だったからか、

「このまま練習してもさー、根本的な解決にはならないっていうか」

「それねー……」

「対症療法だよなー、やってるのって」

「その場しのぎだよね……」

 素直な本音が、口からぽろぽろこぼれていくのだった。

 確かに、わたしはらんちゃんの怒りに動揺しない必要がある。

 紫苑だって、芝居のブレを収める必要がある。

 けどそれって……こうやって解決すべきものなの?

 怒ってる人とのお芝居を練習したり、自信がないところをカバーして解決すべきことなの? なんかちょっと、ずれてる感じしない……?

「……欄ちゃん、本当は不本意な気がするんだよなあ」

 もう一度、素直な印象が口からこぼれ落ちた。

「あの子、お仕事にはすごく一生懸命だから。こんな風になっちゃうの、本当は望んでない気がするんだよなあ……」

 仕事をちゃんとしてください、という言葉。

 あれは、間違いなくあの子の本心だったと思う。

 何よりも、い仕事をしたいと願っている。自分だけじゃなく、周囲にもそうあってほしいと願っている。

 だとしたら、関係がぎくしゃくして色々み合わなくなった状況は、あの子の側からしても望んでないことなんじゃないか。

「目指すべきことって……」

 ふうと息を吐き、お湯が波打つのを眺めながら。

 隣のおんの火照った顔を見て、わたしはつぶやく、

「あの子が、怒らなくてもいい状況を作ることなんじゃ……」

「わたしも、なあ……」

 ほおに手を当て、紫苑は言う。

「今までは、芯があるのが魅力って言ってもらってたけど……それを取り戻すのって。弱いところを潰すとか、そういうのじゃ……ない気が……」

「だよねえ……」

 もう一度息をつき、周囲を見回す。

 空いていた合宿所と違って、この温泉にはそこそこ人が集まっている。

 近所に住んでいるのだろうか、数人で連れ立ってきたらしいおばあちゃんたちや、冬キャンプにでも来たっぽい若い女の人。

 そんな姿を視界の端にとどめつつ、緩んだ頭で考える。

 本当に、わたしたちに必要なこと。わたしたちが、するべきこと──。

「……まあでも、ちょっと考えるのも、休憩するかあ」

 隣で、おんがだらけまくりの声で言う。

「わたしら、悩みすぎて行き詰まるタイプっぽいし……」

「そうだねえ……あ、わたし」

 と、そこでわたしは湯船から立ち上がり、

「あっちの源泉ぬるま湯行きたい……」

「あ、じゃあわたしもー」

 そんな風に言い合って、わたしたちは別の湯船を目指して歩き出したのでした──。


   *


【三日目】


 そして──合宿最終日。

 夕方にはとうきように帰る、その日の朝。

 紫苑との二人部屋で朝ご飯に行く準備をしながら……わたしは小さく焦っていた。

 結局、あのあとの温泉でもこれといったアイデアは浮かばす。

 明日からはまた新たな仕事が始まるし、問題は解決しないままだ。

 じゃあ……どうするのか。

 もう諦めて、「怒りに反応しない演技」を追求するしかないのか……。

「……どうしようねー」

「それなー」

「今日一日で、なんとかなるかなあ……」

「焦りたくはないけどなあ」

 そんなことを、紫苑とぽつぽつ話し合う。

 ふと顔を上げると、窓の外には今日も雪に覆われた白いさんが見えた。

 真っ白で、お砂糖でもかかったような山体。

 どうしようかなあ、と考えつつその景色を眺める。

 日本一のその山は雄大で、わたしの悩みなんてこれっぽっちも見向きもしてくれなそうで、改めて自分の小ささを思い知──、


『──Sugaryシユガリー tonesトーンズ! 全国ツアー!』


 声が響いたのは、そんなタイミングだった。


『わたしたち、Sugary tones現在全国ツアー中です!』


 振り返ると──なんとなくつけておいたテレビ。

 地方局の朝の番組、その合間に流れたCMだった。

 Sugary tones。

 らんちゃんの所属している、声優三人のユニットが映っている。

 ……そう言えば、そうだった。

 あの子はとうきようでの仕事をやりつつも、同時にシュガトンで全国ツアー中。

 テレビからは、欄ちゃんを含むメンバーの元気な声が響いている。


『ファンの皆さんに、わたしたちから会いに行っちゃいます!』

『精一杯歌って踊るので、皆さん会いに来てくださいね!』

『みんな、待ってるよー!』


「……全国ツアー。欄ちゃんの、ライブ……」

 なんだか──妙に気になった。

 あの子が大事にしているユニット活動。その一つの結晶である、ライブ。

 あの子の宝物、ファンの皆さんと触れあえる機会……。

 画面には、これからの公演スケジュールが表示されている。

 ちょうど明日、都内会場でもライブがあるらしい。

 そして──、

「……これだ!」

 ──ひらめいた。

 今、わたしがしたいこと。

 どうしても、確認したいもの──。

「わたし……見たい! 欄ちゃんのライブを見たい!」

「お、どうした?」

 声を上げるわたしに、不思議そうにおんが首をかしげている。

「なんで急に、シュガトンのライブ見たくなったの?」

「えっと、考えてみればね」

 頭の中で考えをまとめながら。らんちゃんに怒られた日のことを思い出し、わたしは言う。

「わたし、欄ちゃんの美学に反しちゃったんだと思う。あの子の大事にしてるものを、踏みにじっちゃったのかなって……」

 彼女の態度の裏側に、はっきりとした理由があるのは明らかだった。

 感情的に怒ってるんじゃない。欄ちゃんは、欄ちゃんの論理で怒っている。

「だったらあの子の大切なものを、あの子が輝いている瞬間を見ることが、それを理解する手助けになる。わたしに必要なものが、見えるきっかけになるんじゃないかなって……」

 まずは、知る必要がある。

 欄ちゃんが何に怒っているのか。わたしの行動の何が、彼女のげきりんに触れたのか。

 それがきっと、わたしたちの突破口になる。

 だから──体感したいと思った。

 あの子の大切にしているもの、努力の結晶を目の当たりにしたい。

「なるほど、相手のことをちゃんと知る、か」

 腕を組み、紫苑はしばし考える顔になる。

「確かにありだね。ひとまず、さいとうさんに聞いてみれば? 事務所経由で向こうのマネージャーさんに話せば、席取ってもらえるかも」

「ああ、そっか!」

 なんとなく、普通にお客さんとして入場することを考えていたけど。

 一般客としてチケットを買おうと思ってたけど、そうか。そっちのルートから入らせてもらえるかもしれないんだ。

「うん、そうだね。その方が、ちゃんと色々知ることができそうだしね」

 意を決すると、わたしはソファから立ち上がる。

「さっそく、相談してくるね!」

「あーうん、じゃあわたしも行く」

 紫苑も、うなずいてそれに続いた。

 そして、なんだか考える顔であごに手を当て、

「……わたしも、そうしてみようかな」

 つぶやくようにそう言った。

わらさんのこと、もっと研究してみるのもいいかも」

「……だね!」

 うなずくと──なんだか胸に、熱いものが宿った気がした。

 久々の感覚だ。はっきりと、何かをつかんだ感触。

 先の見えなかった問題に、道しるべが見つかった手応え……。

「……やってみよう、おん

 わたしは、隣の彼女に。極彩色のまぶしい女の子に語りかける。

「わたしたちが、わたしたちでいられるように。これからも、そうあり続けられるように。やれることは全部試そう」

「……うん」

 紫苑もそれに、力強くうなずいた。

「行こう、

 そしてわたしたちは──部屋を出て、次の一歩を踏み出した。


   *


 ──翌日、戻ってきたとうきようSugaryシユガリー tonesトーンズのライブ当日。

 会場は──いけぶくろにあるライブハウスだった。

 数百人のお客さんが入る、中規模の施設。

 ここでツアーのちょうど中間、東京公演が行われるらしい。

 客席は既に開場していて、お客さんたちが順番にフロアになだれ込んでいく。

 わたしたちは──その二階席。

 関係者席に通してもらい、様子をじっとうかがっていた。

「すごい……ステージがよく見える。あの、ありがとうございます!」

 教えてもらった番号の席で、隣のさいとうさんに改めてお礼を言う。

「向こうの事務所さんに連絡取ってくださって。おかげで、こんないい場所から……」

「いやいや、当然だよ」

 言って、斎藤さんは笑う。

「大事なうちの役者のためだから、それくらいするって。それに……今良菜を、このフロアには放り込めないから」

 そう言うと、斎藤さんは苦笑いし、

「よくも悪くも話題の声優を、声優ファンの中に投げ込んだりはできないからね」

「あはは、確かに」

 想像して、わたしも笑ってしまう。

 間違いなく、変な感じで騒ぎになっちゃうだろう。

 世間を騒がせた声優入れ替わり。その当事者のA氏ことわたしが現れるんだから。

 しかも、わたしが困るだけじゃなくらんちゃんたちや、スタッフさんにも迷惑がかかっちゃう。それはなんとしても避けなきゃいけない。

「と、まだ開演には時間があるから」

 時計を確認して、さいとうさんは言う。

「楽屋、見に行ってみる?」

「……あ、ああ、楽屋!」

 思わぬ提案に、一瞬ぽかんとしてしまってから、

「行きたいです!」

 わたしは、手をぎゅっと握りそう答えた。

「見たいです! こういう現場の裏側が、どうなってるのか。……機会があれば、らんちゃんに挨拶もしたいし」

 そっか、そんなこともできるんだ……。

 今日わたしたちは、欄ちゃんの知り合いとしてここにいるわけで。ゲストパスをもらっているから、楽屋に行っちゃうことまでできてしまう。

 もちろん、温かく歓迎してもらえるとは限らないだろう。

 今のあの子との関係を考えれば、冷たい反応をされても文句は言えない。

 けどわたしは……ライブに向かう、欄ちゃんの姿を見たかった。

 大切な活動を目の前にした、彼女のあり方を見てみたい。

「じゃあ、行きましょうか」

「はい!」

 うなずき合って、わたしたちは席を離れると関係者通路へ向かった。



 ──ライブハウスの舞台裏。

 楽屋や通路や舞台袖は──本番前のそわそわ感に満ちていた。

 辺りを行き交う事務所のスタッフさん、会場の係員らしき方。

 コンパクトな空間に人がごった返していて、なんとなく文化祭当日の校舎を思い出す。

 シュガトンの三人は、楽屋にいるらしい。

 人波をすり抜けて、通路奥のその部屋に向かう。

 ……ていうか、やっぱりわたし場違いじゃない? ここにいて大丈夫かな?

 挨拶とかは、もしかしたら難しいかも……。

 そんなことを考えながら、おどおどと到着した楽屋前。

 扉は開け放たれていて、中の様子をうかがうと──。

 ──いた。

 八畳くらいの、雑然とした部屋。

 既に衣装を着てメイクも完璧、いつでもステージに上がれる状態のらんちゃんが──椅子に座り、何か資料を確認している。

「……」

 反射的に、言葉を失った。

 匂い立つほどの。部屋の外に立っていてもわかるほどの、集中の気配。

 いつもの明るく楽しくかわいい欄ちゃん、じゃない。

 その身に張り詰めた緊張感。妥協のない視線に宿る、鋭い光。

 そこにいるのは仕事を直前にした──一人のトッププロだった。

 ──肌で理解する。

 既に、彼女のステージは始まっていることを。

 欄ちゃんは、舞台上で歌うための助走を始めていることを。

 だからわたしにできるのは、こうして距離を置いてその姿を見守るだけ──。

 ──立ち尽くすうちに、開演の時間が迫る。

 各々準備をしていたシュガトンの二人が、欄ちゃんの下に集まる。

「そろそろだよ!」

ゆうそで、行こう!」

「……うん」

 うなずくと、欄ちゃんたちは移動を開始。

 わたしたちも、その後を静かについていった。

 そして、到着した舞台袖。目と鼻の先にステージがある、その場所で。

 沢山の機材の光がきらめく中、欄ちゃんは──、

「……よーし、ツアーのちょうど折り返し、大事なとうきよう公演だよ!」

 ──メンバーと円陣を組み、そんな話を始めた。

 彼女は他の二人にゆっくり目をやると、

「うん……うん! 完璧! 二人とも、最高にかわいい!」

「当然!」

「やったねー」

「わたしは? お客さんの前に立つのに、ふさわしいわたしになれてる?」

「「もちろん!」」

「よし……!」

 うなずき合う三人。

 そして彼女たちは、欄ちゃんのかけ声で気合いを入れ、

Sugaryシユガリー tonesトーンズ! この会場にいる全員を──幸せにするぞ!」

「「おおー!」」

 スタッフさんたちに背中をたたかれ、舞台へ上がって行ったのだった。



 ──ステージは、とてつもなくきらびやかだった。

 目がくらみそうにかわいくて、泣き出しそうなほどに真剣なものだった。

 らんちゃんたちが全身全霊かけて紡ぐ歌声、踊り。

 それに応える、ファンの人たちの熱量。

 関係者席に立つわたしは、我を忘れて三人の姿に、目を輝かせるファンの人たちに見とれていた──。

 そして、

「……! 良菜!」

 さいとうさんに名前を呼ばれて──我に返った。

「あ、は、はい! すいません!」

 気付けばアンコールも終わり、終演後だ。

 客席にはあかりがともり、ファンの皆さんが会場からの退出を始めている。

「ごめんなさい、わたしぼーっとしていて……」

 ──完全に、心奪われていた。

 らんちゃんたち、Sugaryシユガリー tonesトーンズの生み出す世界に魅了されてしまっていた。

 アイドルを好きになったことはある。ライブを見に行ったこともある。

 それでも……こんなに感動してしまうのは。涙がこぼれそうになるのは、初めてのことだった。

「今度こそ、挨拶に行こう」

 そんなわたしに笑いかけ、さいとうさんは言う。

「さっき、声かけられなかったからね。終演後なら、ちょっと時間ありそうだし」

「……そう、ですね」

 ちょっとドキドキする自分に気付きながら。欄ちゃんに会うことに緊張しているのを自覚しながら、わたしは斎藤さんにうなずいた。



 ──お客さんの声を、聞いていた。

 向かった楽屋。開演前と同じ椅子に腰掛け。

 欄ちゃんは──スマホを手にSNSでお客さんの感想をチェックしていた。

「相変わらず、ストイックだねー」

 シュガトンのメンバーの一人が、わたしと全く同じ感想を口にする。

「終演後くらいは、休憩すればいいのにー」

「衣装は着替えてからでもいいんじゃない?」

「……ああ、そうだね。それでもいいんだけど」

 一度顔を上げ、笑う欄ちゃん。

「でも、お客さんの声だから。わたしたちを信頼してくれてる人たちの感想だから」

 そう言って、彼女は真剣な顔でスマホに目を戻すと、

「できるだけ、リアルタイムで聞いておきたい」

「……そっか」

「じゃあ、わたしも見る!」

「え、じゃあ、わたしも!」

 他のメンバー二人も、欄ちゃんのスマホをのぞんだ。

 三人でつぶやきを確認し、時折意見の交換をする。

 そんな彼女たちに向けられる、周囲のスタッフの、関係者たちの頼もしそうな視線──。

 ──背筋に、何か走るものを感じた。

 思い出すのは、ラジオニホンで欄ちゃんに言われた言葉だ。


「──みんな……楽しみにしてくれてるんです」

「──ラジオやスマホのアプリを使って、わざわざ時間を割いてまでわたしたちのお芝居を聞いてくれてるんです」

「──この忙しい時代に」


 ファンが向けてくれる感情、期待。

 実際に費やしてくれている、時間やお金や労力。

 それに、絶対に応える、というらんちゃんの意思。

 それが今──わたしの胸に、に、ふっと落ちる感覚がある。

 そうか……欄ちゃんが大事にしたいのは。一番に、応えたいと思っているのは……。

 そんなタイミングで、

「……」

 欄ちゃんが──ふいに顔を上げた。

 その視線がわたしを向き、彼女は息をつくと、

「……お疲れ様です。来てたんですか」

 うれしくもなさそうな顔で、そう言った。

「うん。お疲れ様……」

 そう言って、わたしは深く頭を下げた。

 シュガトンのメンバー二人も、わたしを見る。

 そして、何かに気付いたような顔で、静かに目をらした。

「……ありがとう」

 二人だけで話す雰囲気になり。

 まずわたしは、彼女にそう伝える。

「すごいステージを見せてくれて、ありがとう。とても感動しました」

「どういたしまして。でも、わたしたちだけで作ったものじゃないですから。スタッフや、お客さんと一緒に創り上げたものです」

「だよね。それを、すごく実感したよ」

 ステージを思い出し、わたしはうなずいた。

 欄ちゃんが、みんなと作り出したもの。彼女が本当に大切にしていること。

「わかった気がした」

 だから、わたしは欄ちゃんに言う。

「欄ちゃんが譲れないこと。わたしに怒った理由」

「……そうですか」

「だから……次に一緒にお芝居するのが、すごく楽しみ。『おやすみユニバース』で共演するのが」

「……ふうん」

 気のない風にそう答える、らんちゃん。

 そうだ……わたしは確かに、踏みにじっていた。

 欄ちゃんが大切にしていること、彼女に取ってかけがえのないもの。

 ……本音を言おう。

 それでも──わたしは欄ちゃんと同じようになろうとは思えない。

 わたしは身勝手で傲慢だ。

 わたしは、わたしのためにしかお芝居ができない。

 わたしの願うことを追求して、わたしが幸福になることしか目標にできない。

 そんな、自分本位の人間だ。

 けれど……尊重したいと、心から思う。

 欄ちゃんのあり方を、彼女の願いを、とても美しいと思う。

「……わたしだって」

 さっきよりも小さな声で。

 もう一度ディスプレイに目を落とし、欄ちゃんが言う。

「楽しみにしてたんだから」

 ……これも、きっとこの子の本音だ。

 欄ちゃんは、わたしに──おんに期待をしていた。

 一緒にい仕事をしたいと思っていた。そしてその願いが、かなわないと落胆した。

 それでも、欄ちゃんはスマホに目を落としたままで。

 何でもないような声色で、わたしにこう言ったのだった──。


「……もうこれ以上は、がっかりさせないでください」


   ***


 わたしは──自分のことが好きだった。

 わたし自身のことが大好きだった。

 じま紫苑という名前も、我ながら整っている顔も。

 すらっとしたスタイルも、頭の回転の速さも。

 そして、何でも人並み以上にできる器用さも、わたしの誇りだった。

 何回生まれ変われるんだとしても、わたしに生まれたい。

 野島家の長女、紫苑として生まれて、今と同じ人生を歩みたい。

 そんな風に、思っていた──。

「あー、こんなだったなあ」

 ながれやま市。かつて通っていた小学校の校庭を眺めながら。

 わたしは一人、そんな風につぶやいた。

「うわ、遊具今見るとかわいー。遊んでるときは、全然気付かなかったけど」

 ここに通っていたのは、もう六年ほども前のことだ。

 まだ、声優になる前。その前段階として、女優になろうと心に決めた頃のこと。

 当時、自分が大好きだったわたし。

 あの頃だけじゃない、声優になってからもに出会った頃も、わたしはわたしを誇っていた。

 それが今……揺らいでいるかもしれない。

 初めて、自分自身への評価が変わりつつあるかもしれない。

 そんな今、わたしが訪れたのがここ──かつて通っていた、この小学校だった。

 ──合宿から戻ってきてすぐ。

 わたしは『わらさんの出演作品』『インタビュー』『参加した配信や動画』のチェックを始めた。

 役者としてブレてしまっているわたし。

 良菜という予想外のライバルの出演に、動揺しているわたし。

 対して、確かに小田原さんのお芝居は徹底的に安定感がある。

 舞台の世界から来たという経歴があってか、あるいは本人の性格なのか。とにかく、彼はわたしが今欲しくてしょうがないものを手にしている。

 だから……ヒントを見つけたかった。

 わたしがわたしを取り戻すその方法を、小田原さんのあり方の中から見つけたい。

 それらしき情報は、一年ほど前のインタビュー記事から見つかった。

 声優誌の、特別増刊号。

 今人気の声優たちのインタビューが、カラー写真つきで掲載された記事。

 ネット上のインタビューが、どうしても『出演作品』や『発売するソロ楽曲』なんかに焦点を当てたものが多い中、このムックはそれぞれの声優さんのこれまでや、お芝居に対するこだわりに注目をしていた。

 その中で、全体の中程。

 沢山の写真とともに掲載された小田原さんのインタビューに、こんな質問があった。

『──小田原さんのお芝居は、大御所の声優さんからも評価されています』

『──特にかたしんさんからは、「メンタルのタフさが芝居にきている」と評されていますが』

『──元々、小田原さんは精神的にきようじんだったんでしょうか? あるいは、舞台役者として活動する中で、折れない方法を見つけられたんでしょうか』


 その問いに、わらさんはこう答えている。


小田原『折れない方法なんてありませんよ』

小田原『ただ、何度も折れてそのたびに立ち直ってきただけです』

小田原『もしも精神的に俺が強いのだとしたら、その経験の多さが一つの理由だと思います』

小田原『傷ついて苦しんで、情けない思いをするしかない』


 折れない方法などない。苦しむしかない。

 少なくとも──意外な言葉だった。

 ブレてしまったことに、本気で焦っていた。こんな風になってしまった自分に、少しだけ失望しかけていた。そして小田原さんも、そんなわたしの弱さを見抜いたのかも、と。


小田原『ただ、そうは言っても、立て直したいときにすることはあって』


 小田原さんは、そんな風に続けていた。


小田原『子供の頃。できるだけ初期の頃に出演した舞台の映像を見るようにしています』

『──なるほど、原点というか』

小田原『ええ。無理に立て直そうとすると、自分自身がつぎはぎになる可能性があります。もう一度立ち上がるにしても、かつての自分の延長線上にはありたい』

小田原『だから俺は、壁にぶつかったときや自分を見失いそうなとき。原点に立ち返るようにしています』


 ──原点。

 じまおんが、紫苑になった始まりの地。

 わたしも、そこに立ち返ってみたい。自分の起原を思い出したい。

 だとしたら──小学校だ。そう思った。

 何者でもなかったわたしが、今のわたしになる一歩を踏み出した場所。

 だから今日、仕事のないお休みの日。

 こうして、わたしは一人で地元ながれやま、実家から徒歩十五分のところにある、母校にやってきたのだった。

「……なつかしー」

 視線を前に向けると、かつて毎日通っていたその建物が見える。

 クリーム色、三階建て。耐震補強の筋交いと、玄関に掲げられた校章──。

「よし、行くかー」

 そしてわたしは、一つうなずくと。

 卒業式の日以来、初めてその正門をくぐり、校舎へ向かったのでした。



「──立派になったなあ!」

「──大したもんだよ、じまさん!」

「──この間、出演してるアニメ、見たよ!」

 やってきた職員室で、当時からいる先生たちはわたしを大歓迎してくれた。

 六年生のときの担任や当時の教頭先生。彼女は今、校長になったらしい。

 他にも見覚えのある顔が何人か。

「おかげさまでがんばってまーす!」

「ちょっと前に、めちゃくちゃ炎上しましたけど!」

 わたしのそんな軽口に、先生たちも苦笑する。

 そして、

「……五年の頃の、放送の音源が聞きたいんだって?」

 背の高い、優しそうな中年男性。

 当時放送部の顧問だった、あた先生が言う。

「用意してあるから、放送室に行こうか」

「ええ、お願いします!」

 うなずくと、彼に続いて職員室を出た。

 ──五年生になった頃。

 わたしは当時の上級生に勧誘されて、放送部に入った。

 声がきれいだから、という理由で誘ってくれたらしい。特に放送に興味はなかったし、むしろ「地味でちょっとなあ」くらいに思っていたけれど、試しに、と入部してみることにした。

 放送部は万年部員不足で、わたしはあっという間に昼の放送のパーソナリティにばつてき。入部から一週間もしないうちに、この声が校内に響くことになった。

 それが──わたしが初めて自分の意思で、人前に立った瞬間だった。

 その音源。初めて、わたしが声を不特定多数に放った、そのときの音声。

 どうしても、わたしはそれが聞きたくて。事前にこうして小学校に連絡を取り、お邪魔しているのだった。

「放送は、全部メモリーカードに入ってて……」

 到着した放送室で。

 過去の放送を保存してあるらしい、あた先生はメモリーカードのケースを取り出す。

 年数ごとに整理されているその中から、彼はわたしが在校していた頃の年度を選び、一枚のカードを取り出した。

「これだ。事前に確認して、このカードに入ってるのを見つけたんだ」

「うわあ、ありがとうございます! 大変でしたよね?」

「いやいや、懐かしくて面白かったよ」

 言いながら、彼は持ってきたノートパソコンにメモリーカードを差し込む。

 そして、中に入っていた音声ファイルを選択し、イヤフォンジャックにスピーカーをつなぐと、

「流すね」

「はい、お願いします!」

 トラックパッドをクリック。

 狭い放送室に、わたしの声が流れ出す──。


『──五月十五日、水曜日。お昼の放送を始めます』

『──こんにちは。五年三組、じまおんです』

『──今日から、お昼の放送を交代で担当させてもらいます』

『──よろしくお願いします!』


 ──背筋に、わっと電流が走った。

 たどたどしい語り口。

 幼さとあどけなさ、女子としての自覚の入り交じった響き。

 けれど──はっきりと、わたしのものだとわかる声。

「……うわあ……」

 思わず、そんな声を漏らしてしまった。

「わたし、こんなんだったんだ……」

「当時から、野島はかったなあ」

 熱海先生はそう言って、当時より増えたしわを寄せてほほえむ。

「こんなに堂々と話せるんだなって、びっくりしたもんだよ……」


『──さて、最初にクイズのコーナーです』

『──月曜日、校長先生が朝礼でお話ししたことから、問題を出します』

『──よく思い出しながら、考えてみてください』


 五年生のわたしの声が、放送室内に流れ続ける。

 そしてわたしはそこに──はっきりと高揚を。

 当時のわたしが覚えていた、快感の色を見いだす。

 そう……気持ちよかった。

 声だけとは言え、沢山の人にわたしの存在を伝えるのが。

 できるだけきれいな声で、できるだけきれいな発音で、自分で考えてきた企画を披露するのが──。

 ──これが、すべての始まりだった。

 わたしは、沢山の人に知られたい。

 できるだけまばゆく輝いて、多くの人にそれを届けたい。

 そんな願望を、この放送をしながら生まれて初めて覚えたんだ──。

 そして……いつの間にか、こんなところまで歩いてきていた。

 女優を目指してオーディションを受けて。中学で合格してから、いくつかのドラマにも出て。試しに受けた声優のお仕事で、好評をもらって。

 軸足をそちらに移して──気付けば夢中になっていた。

 一番自分が輝ける方法が、声のお芝居だと確信した──。

「……ふふっ」

 ……が聞いたら、笑うだろうか。

 こんな場面で、思わずわたしはあの子の顔を思い出してしまう。

 あの子は、お芝居に憧れている。

 純粋に演技によって作り出されるものが好きで、それを自分でも作りたくて、どうしようもなく焦がれ続けている。

 そんなあの子から見れば、わたしは不純だろうか。

 お芝居を、自分が輝くために使うなんて、とあきれるだろうか。


 でも──これがわたしだ。


 わたしは、わたしが好きだ。

 もっともっと輝きたい、わたしの鮮やかさを世界に知らしめたい。

 声優という、お仕事を通じて──。

「……うん、いける」

 自分の中に、芯が生まれたのを感じる。

 ……いや、生まれたんじゃない。

 元々これはわたしの胸にあって、ちょっとそれを見失ってただけなんだ。

「わたしは、わたしのままでいけるんだ……」

 その声に、先生が不思議そうにこちらを見る。

 そして、何か納得したのか、うれしそうに小さくほほえんだ。


『──では、校長先生が中学生の頃好きになったという曲は、次のうちのどれでしょう?』


 放送室には──わたしの声が。

 幼いわたしの放送が、今のわたしと変わらない鮮やかさで響き続けていた──。


   ***


「──お疲れ、おん

「──おう、お疲れー

 事務所で紫苑とばったり会ったのは──シュガトンのライブから数日。

『おやすみユニバース』のアフレコを、来週に控えた週末のことだった。

 おんもちょうど『せいさいかい』の四度目の収録の前。

 PVなんかもアフレコする、大仕事の直前だったはず。

「ちょっと、話してかない?」

「うん。会議室空いてるかな?」

 どちらからともなくそんな話になり、空いていた会議室を使わせてもらう。

 居合わせたさいとうさんも、「じゃあわたしも」とついてきた。

 三人で椅子に座り、ふうと息をついてから、

「どうよ、

 何でもない風で、紫苑はそう尋ねてきた。

「お互い、らんちゃんとかわらさんを参考したわけだけど。その後、どう?」

「あー、うん」

 聞かれて、自分の気持ちを確認する。

 最近のわたしはどうなのか。お芝居、ちゃんとできそうなのか。

「大丈夫だと思う」

 そして、はっきりそう答えた。

「もう大丈夫。ちゃんとやれると思う。紫苑は?」

「わたしも大丈夫だねー」

 当たり前みたいな顔で、紫苑はそう言った。

「いける、これまで通り。ていうかこれまで以上に」

「ならよかった」

 視界の隅で、斎藤さんがほっと息を吐き出すのが見えた。

 ……だよね、そうだよね。心配かけちゃったよね……。

 ここまで本当に、斎藤さんには迷惑をかけっぱなしだった。

 入れ替わりを始めてから、その告白。こうして立ち直るまで。

 ずっと気が休まらなかっただろうし、心労もとんでもないことになっていただろう。

 でも……うん、もう大丈夫です。

 ご迷惑をおかけしたけど、わたしたちはやっていけると思う。

 安心しきるのは難しいだろうけど、信頼して、わたしたちを送り出してほしい。

 だから──、

「……そうだ」

 ふと思い立って、わたしは声を上げた。

「紫苑……ちょっと一緒に、かけあいやらない?」

「へ? 今ここで?」

「うん。本当に調子が戻ったのか、確認したいなって思って」

「……あー、なるほどね」

 わたしの意図を理解したのか、そうでもないのか。

 おんはそう言って、椅子を立つ。

「いいよ、やろうか。台本はどうする? なんか、初見のやつとかがい気がするけど」

「ああ、じゃあ」

 と、さいとうさんが手を上げ、

「さっき、二人に同じ作品のテープオーディションの依頼がきたから、それでどう? ちょうど、かけあい想定のシーンもあったし」

「お、じゃあそれで!」

「スマホとかに、共有してもらえますか?」

「うん、送るね」

 ──斎藤さんから、PDFが送られる。

 今度アニメ化予定の、ライトノベル原作作品らしい。

 異世界が舞台の、コミカルで楽しい物語。

 台本にはダブルヒロインのかけあいが書かれているから、そこをやることにする。

「じゃあ、いくよ、

「うん。お願い」

 うなずき合って──二人でお芝居をする。

 自分が見つけたもの、気付いたこと、それをすべて込めたお芝居を。

 もちろん、探りながらの部分もある。

 いくつかあるお芝居のプランで、迷う瞬間もある。

 けれど──はっきりと、手触りがある。

 二人とも、一歩先に進んだ感触。

 そうだ、ここしばらくで。きっとわたしたちは二人とも、前よりずいぶんとくなった──。



 ──かけあいが終わる。

 会議室に、静けさが戻ってくる。

 短く間を置いて、

「……はああ

 斎藤さんが、情けない声とともに机に突っ伏した。

「よかったあ。大丈夫そうで、ほんとよかった……」

「あはは、ごめんねー心配かけて」

「本当に、このところ大変だったからね……」

「いや、うん。もう大丈夫。わたしもこれで、覚悟が決まったよ」

 顔を上げ、さいとうさんは笑う。

 そして、まっすぐにわたしたちを見ると、

「……やってやろう!」

 力強い声で、そう言ったのでした。

「二人の実力を──存分に見せつけてやろう!」