おかわり メンチカツ


 会社の勤務日数調整上、年に数回やってくる土曜出勤日。

 俺──佐々井敦志は、ほかの多くの同僚のように有給を消化することはせず、代わりに早めに仕事を切り上げて、五時過ぎにはオフィスビルを退出しようとしていた。

 いまだそこここに残る熱気を、クールビズ用シャツの襟元をぱたぱたとあおいで払いながら、いそいそと夕暮れの道を急ぐ。

 向かう先は、駅の反対側。シンプルに文字が染め抜かれた暖簾と看板が印象的な定食屋、「てしをや」だ。

「こんにちはー」

 入り口の前で、シャツの汗染みなど不潔な要素がないかをチェックして、がらら……と引き戸を開ける。が、目に飛び込んできた光景に、思わずぎょっとしてしまった。

 小ぢんまりとした、まだ客の姿の見えない店内。きれいに磨かれた黒木のカウンター。

 その奥に見える厨房で、店主の哲史さんと、妹である志穂ちゃんが、ふたりして目頭を押さえて、流し台にうずくまっていたのだから。

「あ、敦志くん……」

「いらっしゃい、ませ……!」

 声に気付いたふたりはよろよろと顔を上げるが、その目はどちらも真っ赤に充血している。哲史さんに至っては、シャツの肩口に顔をうずめ、「う……っ」と身を震わせているありさまだ。いったいどうしたのかと呆然としていると、それに答えるように彼が呻いた。

「し、志穂……、もう限界だ、換気扇を最大にしてくれ……っ、頼む……っ。それと、ティッシュ取って……!」

「自分でしてよね! もう、なんでお兄ちゃんの手にかかると、玉ねぎが催涙爆弾になるの……っ」

「玉ねぎに聞いてくれよ! なあ頼む、涙でなんにも見えねえんだよ……」

 鼻水まで出てきた、と哲史さんは悲愴な声で訴える。

 志穂ちゃんは赤く潤んだ目をきっと釣り上げながら、それでもてきぱきと換気扇を強め、ティッシュを差し出し、それから俺のほうに向きなおると、はっとして笑みを浮かべた。

「す、すみません! いらっしゃいませ、敦志さん! 今日、お仕事だったんですか?」

「あ、う、うん、珍しく土曜出勤でね。……ええと、なにかトラブルだったかな?」

 反射的に挨拶を返してから、どうしても気になって尋ねてしまう。

 すると志穂ちゃんはばつが悪そうに、「トラブルというか……指導中、のはずでした」と苦笑する。聞けば、哲史さんに「てしをや」のメニューの作り方を教えていた最中とのことだった。

「てしをや」の主客層は近隣のサラリーマン。土曜のこの時間帯は滅多に客が来ないので、その隙にこうして、志穂ちゃんが哲史さんに料理指導を施すことが多いのだという。

 唐揚げやチキン南蛮はだいぶ上達してきたから、今日は揚げ物人気メニューのもうひとつ、メンチカツを伝授しようとしていたらしいのだ。

「それで、たねに混ぜる玉ねぎをみじん切りしてもらってたんですけど、もう信じられないくらい涙が出てきて、横にいた私まで巻き込まれちゃって……」

「絶対俺のせいじゃねえよ。玉ねぎとか包丁の問題だって。あと気温」

「環境のせいにしない! 素材選びと調理器具の手入れは料理人の責任でしょ。暑くなると催涙成分が広がりやすいのは事実だけど、玉ねぎがぬるくなる前に切ればいいの!」

 哲史さんは鼻をかみながら不平を漏らすが、志穂ちゃんは一刀両断だ。

 と、自分で口調の強さが気になったのか、ちょっと慌てたような顔になって、「まあ、どんなに努力しても涙が出ちゃう玉ねぎっていうのも、たまにあるけど」と主張を和らげる。

 なんとなくこちらを気にしている気配を察知し、俺は「引いてなんかないよ」ということが伝わるよう、極力にこやかにカウンター席に着いた。

 気が強いのも、ばしっとものを言うのも彼女の魅力なんだから、あまり気にしなくていいのにな。でもそうやって、客の心情にすごく配慮するところも、やっぱり志穂ちゃんのいいところだ。

 接客慣れしている彼女は、絶妙としか言いようのないタイミングで冷えたお絞りと、氷を多めに入れたお冷やを差し出してくれる。

 今日もチキン南蛮にしますか? とにこやかに聞いてくれたのに対し、少し考え、こう答えた。

「いや……今日はその、哲史さんが作るメンチカツにしようかな」

 いつも迷った末についチキン南蛮にしてしまう俺は、実はほかのメニューをあまり試したことがない。以前、隣の客が、さくさくの衣にくるまれたメンチカツを頬張っていたのを見て、一度は食べてみたいなと思っていたのだ。

 じゅわっと肉汁の溢れるメンチカツに、きんきんに冷やしたビール。

 うん。べたつく暑さを吹き飛ばしてくれそうな、がっつりとした組み合わせだ。

 想像しただけで、もう口がすっかりメンチカツの態勢になってしまった。

「えっ」

 しかしなぜか、ぎょっとしたように哲史さんが肩を揺らす。

 彼は顔を強張らせると、必死に言い募ってきた。

「え、ほんとに? いや、もちろんいいけど……その、初めて作るから、ちょっと自信がないというか、失敗したらごめんなさいというか……レベルが低いまんまで申し訳ない」

「え? 哲史さん、めちゃくちゃ料理がうまいくせに、なにを言ってるんですか」

 怪訝に思って、首を傾げる。

 俺の知る哲史さんは、目にも止まらぬ速さでキャベツを千切りし、同時にいくつもの作業をこなしながら完璧なチキン南蛮を揚げる人だ。

 そういえば、店の経歴としては志穂ちゃんのほうが長いからか、彼女はしょっちゅう「兄をしごいてます」みたいなことを言うし、営業時はだいたい志穂ちゃんが調理、哲史さんが配膳と会計、といった分担をしているために、初回を除いて俺は、彼が調理をしているところを見たことがない。

 どうやら、玉ねぎのみじん切りだけはえらく苦手みたいだけど……実際、あのおいしいチキン南蛮を振舞ってくれたのは哲史さんなんだから、料理が下手ということはないだろうに。

 そんなことをつらつら考えていると、哲史さんと志穂ちゃんはばっと顔を見合わせて、なにごとかを目配せしあった。まるで野球のバッテリーのように、顎を上げたり首を振ったりのサインを交わしている。俺にはさっぱり意味がわからないけれど、ふたりは立派に意思疎通を果たしているようで、なんだかんだ言いつつ、仲のいい兄妹なんだよなあ、とそんな感想を抱いた。

 と、哲史さんがぷるぷると小刻みに首を振ったのを最後に、ふたりはぱっとこちらに向き直る。一瞬、志穂ちゃんの顔にはなにか覚悟のような諦めのような表情が浮かんでいた気がしたが、俺が首を傾げるより早く、彼女はにこっと笑みを浮かべた。

「──やっぱり、今日は私が作りますね、メンチカツ」

「えっ? でも、せっかくの哲史さんの練習の機会──」

「いえ。私、今、メンチカツが作りたくて作りたくてしょうがないんです。ほら、この前の肉フェスで、すごくおいしいメンチカツを食べたから、モチベーションが上がってるっていうか」

 よくわからない理由だ。しかし俺の戸惑いは、彼女が次に発した、

「そう、私の作ったメンチカツ、敦志さんに食べてもらいたいんです!」

 の一言でさんした。

 敦志さんに食べてもらいたい。私の作ったメンチカツ、敦志さんに食べてもらいたい。

 そのフレーズだけが何度もリフレインする。

 顔が真っ赤になってしまわないよう、慌ててお冷やを飲み干してから、俺は辛うじてなにげない感じで、

「そ……そう? じゃあ、お願いしよっかな」

 の一言をひねり出した。

 落ち着け。たぶん志穂ちゃんに他意はない。これは「私の(肉フェスでの学びを活かして)作ったメンチカツを、(学びの機会を与えてくれた)敦志さんに(成果報告の意味合いで)食べてもらいたいんです」とでも解釈するのが正解だ。

 彼女とはこんな感じで、期待させるような発言を受けて胸を高鳴らせては、その後あくまで食にしか興味がないことを突きつけられて落ち込む、みたいなやり取りばかりを繰り返している。

 そういえば以前も、「次は肉巻きおにぎりにもトライしてみたいです(笑)」というメッセージにどう返信したものか悩み、しかも悩んでいる最中に携帯を取り落として修理に出す羽目になり、やり取りを途絶えさせたことがあったのだった。

 その間、志穂ちゃんを待たせてしまってはいないだろうかとやきもきしたものだが、次に来店したときも彼女はいたって平然としていて、やはり振り回されているのは俺ばかりかとがっくりしたものだ。俺のほうが年上なのに、この余裕のなさはどうだろう。

 ぐるぐると思考しながら顔のほてりを抑え込んでいる間に、志穂ちゃんは哲史さんと立ち位置を入れ替え、包丁を握りしめた。

「まだ下拵えの段階なので、ちょっと時間が掛かっちゃうんですけど、大丈夫ですか?」

「うん、特にこの後予定もないから。待ってる間に、なにか摘もうかな」

 そう答えると、調理主担当をお役御免となった哲史さんが、「とりあえず飲みます?」とビールを注いでくれる。ほかに、作り置きの煮っころがしや枝豆を出してくれたので、俺はありがたく早めの晩酌に手を付けはじめた。

「いただきます」

 まずはぐいっとビールジョッキを傾け、それから枝豆を放り込む。枝豆は丁寧にさやの先が切り取られていて、塩味がじゅっと染み込んでいた。うまい。

 カウンターの向こうでは、志穂ちゃんが「うぅ……、みる……」と眉を寄せながら素早く玉ねぎを刻んでいる。どうも、哲史さんが途中まで切った玉ねぎの断面から、次々と催涙成分が溢れ出しているらしい。彼女いわく、

「玉ねぎって、切る直前に冷蔵庫で冷やしておいて、それがぬるくなる前に切り終えてしまえば、そんなに滲みないんですけどね。さすがにこうなると……私でも、う……涙が」

 とのことだった。

 が、さすがの手際でさっとみじん切りを終えてしまうと、涙も引っ込んだらしく、あとはいつも通りのてきぱきとした動きで調理を進めていく。

 清潔に爪を切りそろえた細い手が、玉ねぎを飴色になるまで炒め、冷やした肉だねを力強くねていく様子に、俺はビールを飲みながら見惚れてしまった。

「こうしてね、粘り気が出るまでしっかり混ぜておくと、ジューシーに仕上がるんです。ただ、手も四十度近い熱源だから、肉だねがぬるくならないように気を付けなきゃいけないんですけど」

「あー、だから捏ねる前に手を冷やしとくのか。天ぷらのときと一緒だな」

 ときどき俺に対しても解説してくれる志穂ちゃんに、哲史さんが横から覗き込んで相槌を打つ。

 哲史さんは調理こそしないものの、こまめにビールの進み具合を確かめてくれたり、つまみを足してくれたりと、甲斐甲斐しい接客ぶりを披露してくれた。

 料理上手の志穂ちゃんと、人好きのする哲史さん。ふたりがいる「てしをや」は、だからこんなに居心地がいい。ふたりともから、「料理が好きだ」「食べてもらうのが大好きだ」という雰囲気が伝わってくるのだ。

 特に調理中の志穂ちゃんは輝いている。

 大きな瞳はきらきらして、動き回るたびに揺れるポニーテールは、まるでご機嫌な猫の尻尾のよう。口元は楽しいパーティーの準備でもしているみたいにきゅっと持ち上がって、見ているだけでこちらまでわくわくしてきてしまう。

 明るくて、物おじしなくて、料理のこととなるとすぐ夢中になる志穂ちゃんのことを、実は狙っている男性客も多い。本人は「お客さんのお世辞」と流している節があるが、かわいいね、みたいな口説き文句を向けられることもざらではないのだ。

 そして、俺もまた、その数多い男性客のうちのひとりである。

 姉に抑圧された弟の宿命か、人と接するときはつい低姿勢に出てしまうため気付かれにくいが、俺はたぶん、プライドが高い。

 好きな子にはみっともないところなんて絶対に見せたくないし、空回りをするぐらいならと、すぐに手を引っ込めてしまう習性がある。

 それで、気の利いた文章が浮かばないならいっそ返信しないでおこう、とか、相手の気持ちが見えるまではこちらから声を掛けるのはやめておこう、とか、草食極まりないことを繰り返した結果が、この手づまりな現状だ。

 哲史さんや、「てしをや」で知り合った玉城シェフたちからも「じれったい!」みたいな視線を向けられるし、最近では俺自身、とあるライバルの登場にいよいよ焦りが募っている。

 空気を追い出しながら肉だねを成形し、ふわっと衣をまとわせていく志穂ちゃんを見ながら、俺はそっと尻ポケットに手をやった。

 ここには、ぶどう狩りの優待チケットが収まっている。食べるのが大好きな彼女なら、きっと興味を持つだろうと踏んで、特に評判のいい農園を厳選して入手したものだ。

「あの──」

 いつまでも哲史さんのお膳立てに頼っているようではいけない。

 ここはひとつ、俺からも踏み出す勇気を──

「ちわーす!」

 勇気を出そう、と身を乗り出したその瞬間、がらりと音が響いて引き戸が開いた。

 とっさに振り向いて、思わず顔を強張らせてしまう。

「あ、憲治くん。いらっしゃいませ」

「おう、珍しいな、土曜のこんな時間に来るなんて」

 噂をすれば影とでもいうのか。やってきたのは誰あろう、かつて「てしをや」を危機的状況に追いやったくせに、いけしゃあしゃあとこの店の常連ポジションに収まろうとしている腹持ちならない男・憲治であった。

 憲治は俺の姿を認めてちょっと意外そうに目を見開くと、それからちょっと好戦的な光を浮かべて、カウンターの一席に腰を下ろした。俺の座っているところから、一席空けた左側。これがそのまま、俺たちの精神的距離でもある。

 席に着くなり、やつは志穂ちゃんの手元を覗き込むと、

「あっ、なに作ってんの? コロッケ? 超うまそう。俺もそれ食いたい」

 ぱっと顔を輝かせた。素直というか、甘え上手である。志穂ちゃんは「うまそう」だとか「食いたい」とねだられると、いそいそそれを叶えてしまう性分の持ち主だということを把握しているのだ。

「コロッケじゃなくて、メンチカツですけど。いいですか?」

「メンチカツ? なおさらいい! 食いたい、超食いたい!」

 確認のための問いに憲治が即座に食いつくと、案の定志穂ちゃんはまんざらでもない笑みを浮かべる。

「今日、ちょっとだけ肉だねのレシピを変えてみたんです。楽しみにしててくださいね」

「うおっ、超楽しみ! 今からよだれ出るわ」

 せっかく「敦志さんに食べてもらいたいメンチカツ」だったものが、あっけなく「客ふたりに食べてもらいたいメンチカツ」に変貌してしまったことを悟り、俺はがくりと肩を落としそうになった。

 哲史さんの「すまん、うちの妹がほんとにすまん」みたいな引きつった表情が、また心を抉る。いえ違うんです。俺が不甲斐ないのがいけないんです。

 ポケットにやりかけた手で仕方なくジョッキをつかみ、ビールを啜りながら横目で憲治を窺う。

 短く刈った黒髪に、がっしりとした体。最近ダイエットに取り組んでいるようで、店で見かけるたびに顔も体も引き締まっていっているように見えた。今のそのスポーツマン風の姿を見て、まさか彼が卑劣な嫌がらせ犯だったと気付く人はいないだろう。

 知っているのは志穂ちゃんたちふたりと、あとは俺だけ。かつてともに逆炎上工作をした薔子さんにも伝えてはいない。俺たちが仕掛け人だと憲治に知られて、薔子さんまで巻き込んだトラブルになってはいけないし、……逆炎上が原因で憲治が引き籠りかけたと聞いたときに俺が味わった罪悪感を、ほかの皆には味わわせたくないからだ。

 まあ、志穂ちゃんたちを守るためだったし、同じことが起これば俺はたぶん徹底的に憲治を潰すんだけどね。

 視線に気付くとやつは「どうも」と軽く目礼を寄越してきたものの、すぐに志穂ちゃんに向き直り、熱心に話しかけはじめた。敵ながら、感心させられるぐらい大っぴらなアプローチだ。かつて哲史さんはそんな彼のことを、

「まあ、あいつはマイナスからのスタートだからなあ。俺には後がないんすってこぼしてたこともあるから、とにかくしゃかりきになってんだろ」

 と苦笑しながら評していた。

 図々しいだけにしか見えない態度も、なりふりかまわぬ必死さの裏返しというわけだ。

 だが、俺には真似できないその押しの強さは、着実に成果を出しているようで、志穂ちゃんはやつへのわだかまりをほとんど解消してしまったようだし、俺には「敦志さん」なのに、やつのことは「憲治くん」と呼ぶ。憲治は敬意を込めるに値しないからだ、と哲史さんはフォローしてくれたが──実は、ちょっとうらやましい。

 ……って、違うだろう。

 指を咥えてうらやましがっているだけではダメなんだ。敵の押しの強さを認めるなら、俺だってもっと大胆に踏み込むべきだ。いい加減、この状況を脱しないと!

「あの、志穂ちゃん、ぶどうって──」

 ジョッキを置き、再び尻ポケットに手をやりかけた俺だったが、その言葉にかぶせるように、隣の憲治が「あっ、志穂ちゃん!」と声を上げた。

「ワインって好き? ほら見て。俺、今日、ここのワイナリー行ってきたんだ」

 そう言って、尻ポケットからきれいに折りたたまれたパンフレットを取り出す。

 思わず視線を向けてみれば、それは隣県にあるぶどう農園のものだった。

「ここさ、ぶどう狩りした後、それでワインづくり体験させてくれんの。今は発酵中なんだけどさ、二か月もしたら届くんだ、世界でひとつだけのワインが! 志穂ちゃんも行ってみたくない?」

 ワイン……だと?

 俺では思いつかなかった、いかにも女子受けしそうな提案に愕然とする。

 単なるぶどう狩りとワインづくりじゃ、後者のほうが断然魅力的だ。

 ポケットに指先を突っ込んだまま固まっている俺をよそに、憲治はぐいと身を乗り出した。

「今度一緒に行こうよ。俺運転するから、志穂ちゃん試飲のワインとかも飲んでいいし」

 こいつ、一気に距離を詰めやがった!

 息を呑み、思わず助けを求めて哲史さんを見やると、てっきり「男とふたりで飲みに行かせるのはちょっと」などと言ってくれるかと思った彼は、興味津々の面持ちでパンフレットを覗き込んでいた。

「へえ、手作りワインかぁ。おもしろそうじゃん。志穂、行ってくれば? あ、でも俺も飲みたい」

 そうだ、この人、けっこうな酒好きだった!

 というかなにも考えず自分も行きたいとか言い出す人だった!

 いやいや、この際哲史さんの遠慮のなさはこちらに有利だ、いっそワインづくり体験をみんなのプロジェクトに仕立ててしまって、俺もそこに加わって──いや待て、すると憲治とドライブする羽目になるということか。

 冷や汗を滲ませながらぐるぐる考え込んでると、油を張った鍋にたねを放り込んだ志穂ちゃんも、「そうだね」と哲史さんに向かってはしゃいだ声を上げた。

「手作り梅酒に引き続き、ワインもお供えしたら神様に喜んでもらえそうじゃない?」

 が、その後に少々不思議な言葉が続く。

 神様。

 志穂ちゃんくらいの年の女の子が、友達のように思い浮かべる相手としては、ちょっと違和感のある存在だ。

 つい目を瞬かせてしまうと、志穂ちゃんはそれに気付いたらしく、はっと口元を押さえるような仕草をした。

「あ、と……」

「両親が亡くなったとき、お世話になった神社があってさ。それで、たまに酒とかお供えしてるんだ」

 言葉に悩んだ様子の志穂ちゃんの代わりに、哲史さんがさりげなく続ける。

 なるほど、と思うと同時に、ふたりもまた、親を亡くしたばかりなのだということが思い出され、心が痛んだ。

 ふたりのご両親と俺の母は、奇しくも同じバス事故によって亡くなっていた。

 突然の死、早すぎる、永遠の別れ。

 容赦なく流れていく時間と日常の力を借りて、なんとか顔を上げられるようになっても、時折、本当にふとした拍子に、心の隙間からぽとりと、あのときの記憶が溢れ出す。

「あっ、別に、親のことを思い出して感傷的に、っていうわけでもないんですけど。……その、すみません、変なこと言っちゃって……」

 志穂ちゃんが困ったように視線を逸らす。憲治がなにごとか口を開きかけたが、それよりも早く、俺はとっさに声を上げていた。

「変じゃないよ」

 ちょっと驚いたように、志穂ちゃんが振り向く。

 俺は、それに頷きかけながら、言葉を探った。

「変じゃない。俺も最近、よく足を運ぶ神社があるんだ」

 両親の死や神様といった話題から、強引に話を変えるのは不自然だし、失礼だ。かといって、同情的な視線や相槌を向けるのもふさわしくない。だって、俺自身がそうだからわかる。親の死が自分の日常に色濃く残っていることを、俺たちは別にごまかしてほしいわけでも、慰めてほしいわけでもないんだ。

 ただ、自然なこととして、受け止めてほしい。受け止めてあげたい。

 その思いにふさわしい言葉とはなんだろうかと、俺は必死に頭を働かせた。

「もしかして志穂ちゃんたちも知ってるかな。ここから駅の反対側、俺の会社の近くに、小ぢんまりとした神社があるんだけど」

 志穂ちゃんと哲史さんが顔を見合わせる。

 少なくとも思いきり話題を外してしまったわけではなさそうだと踏み、俺は極力、さりげなく見える笑みを浮かべた。

いちはしさん──上司に教えてもらった神社でね。年季が入ってて、看板の墨も薄れちゃってるくらいなんだけど、なんだか不思議と居心地がいいんだ。たいてい無人なんだけど、たまに賽銭箱の横にお酒とかも供えてあったりして」

 その神社のことを思い出すと、自然と心が安らぐのがわかった。

 もしかしたら、この「てしをや」と、どことなく雰囲気が似ているからかもしれない。小ぢんまりとしていて、でもきちんと人の手が入った、安心できる場所。

 ちょっと戸惑ったように瞳を揺らした志穂ちゃんが、今なにを考えているのかはわからない。けれど、死だとか、神様だとか、そういったものたちを、特別身構えるのではなく、なにごともない日常の話題として扱っていいんだということを、俺なりに伝えたいと思った。

「よかったら今度行ってみる? とくにお守りを売ってるわけでもないんだけど、市橋さんによれば、そこの神社って実はけっこうご利益があるって──」

「それって」

 そのとき、横から笑いを含んだ声が聞こえて、俺は言葉を途切れさせた。

 声の持ち主──憲治は、ちらっとこちらを見て、口の端を持ち上げていた。

「デートの誘いのつもりっすか? 神社に?」

「え……っ」

 デート、という単語を出されて、ついまごついてしまう。

 いや、別にそんなつもりはなかった。あ、いや、もちろん志穂ちゃんとなら神社に行くのだって楽しそうだけど、まさか神社を目的地に設定するつもりは──待て、もしかして、「一緒に神社に行きませんか?」というのは、下手をしたら宗教の勧誘みたいに響くんではないか。

「ま……っ、まさか……! 違う、全然、そんなんじゃないよ!」

 慌てて志穂ちゃんに向かって両手を振ったら、目を見開いてこちらを見ていた彼女が、なぜかがくっと項垂れた。──って待ってくれ、もしかしてこれはこれで、俺は志穂ちゃんへの好意を否定してしまったことになるのでは!

 志穂ちゃんは無言でメンチカツの揚がり具合を確かめ、哲史さんは付け合わせの千切りを用意しながら「あちゃー」という顔をしている。ここで彼女が不機嫌そうになったということは、もしかしてもしかしたら、ほんの少しくらいは志穂ちゃんも俺を意識してくれていたのだろうか。

 だとしたら嬉しい……いや違う! なおさらこの現状が危機的だということだ!

 憲治はここでとどめを刺すべきとでも思ったのか、意地悪く片頬を上げた。

「そっすよね。そりゃそうか。神社みたいな、じいさんしか行かないようなしみったれた場所に、本気でデートに誘ってるんだとしたら、センスなさすぎますもんね?」

 同時に手ではわざとらしく、若者が集いそうなしゃれたワイナリーのパンフレットを畳んでいる。

 神社のことを口にした経緯だとか、いいじゃないか別に若者が神社に行ったって、みたいな反論だとか、言い返したいことは山のようにあったが、手作りワインという魅力的な提案の前にはぐうの音も出ず、俺は苦虫を噛み潰したような顔で沈黙を選んだ。

 が、それを、

「憲治、おまえなあ。そうやってすぐ人を攻撃しようとするの、悪い癖だぞ」

 メンチカツ用の付け合わせの準備を終えた哲史さんが、「つーか罰当たりなやつめ」と呆れ顔でたしなめてくれる。

「憲治くん、感じ悪い」

 志穂ちゃんまでもがぽそっと、溜息混じりに漏らすと、憲治はうっと怯んだような顔になって、ちょっとねたように「……うす」と視線を逸らした。

 志穂ちゃんは小さく肩を竦めると、俺に向き直り、小さく笑みを浮かべた。

「その神社、私も好きです。っていうか、私たちが行ってる神社っていうのが、まさにそこですよ。供えてあったお酒って、たぶんお兄ちゃんが持っていったやつです」

「え……」

 まさかの偶然に、思わず顔を上げる。

 彼女はなぜか遠い目をして、「うん……だから、いいんだ別に……よく行く場所だし、誘われなくたって……」と呟いていたが、やがてぷるぷるっと首を振ると、鍋からメンチカツを掬い上げた。

「はい、どうぞ。お待ちどおさまです」

 そうして、油を切り、白い皿によそったメンチカツを差し出してくれる。

 ほかほかと湯気を漂わせているそれを見て、俺はつい諸々の物思いも忘れて喉を鳴らしてしまった。

 きれいに磨かれた皿の上、こんもりとしたキャベツの千切りとともに鎮座するのは、こぶし大にふっくらと揚げられた二枚のメンチカツ。

 衣は見るからにさくさくとして、窓から差し込む夕日を誇らしげに弾き返していた。

 ごく、と唾を飲み込む。

 普段ならキャベツや白飯など、外堀から攻めていく俺だが、今回に限っては自分をじら す余裕もなく、ただ本能の求めるまま箸をカツに向けてしまう。

 ざくっ。

 箸先をカツに食い込ませると、とたんに透明な肉汁が溢れ出し、渦を巻きながら断面を滑り落ちていった。

 立ち上る湯気に期待を高めながら、大きく切り分けたひと口を口に運ぶ。

 はふっと熱を逃し、勢いよく噛み締めると──

「…………!」

 固めの衣の歯触りに続き、肉汁の熱が、脂のうまみが、じゅわっと音を立てて口いっぱいに広がっていった。

 控えめに言って、至福だ。

 志穂ちゃんがすかさず差し出してくれた塩をありがたく受け取り、少しだけ振ってまた食べる。

 豚肉の甘みがますます引き立つ。

 添えられている大きめのレモンを絞って、またひと口。

 爽やかな酸味が、塩味やこしょうの香りを際立たせてくれて、たまらない。

 今度はきりっと冷えたビールを飲んでひと口。キャベツを挟んでまたひと口。肉汁を啜りながら、衣をざくざく言わせながら、なにも考えずに大きく頬張る。

 あっという間に、一枚目のカツが消え失せていた。

「おいしい……」

 一枚ぺろっと平らげて、ようやく感想を呟く余裕を取り戻す。

 それでも出てきたのは、たった四文字だった。

「ふふっ、ありがとうございます」

 ずっとこちらを見守っていたらしい志穂ちゃんが、くすぐったそうに礼を述べる。

 彼女は、苦笑いのような、微笑ましがるような、そんな表情を浮かべていた。

「敦志さんって、本当に、揚げ物が好きですよね。……いや、男の人はだいたいそうか」

 その言葉を聞き取り、隣でメンチカツにソースをかけようとしていた憲治が、なにかを言おうと口を開きかける。たぶん、「いやいやこのメンチカツが特別うまいからだって」とかそんな感じの、正直で、あけすけで、でも彼女にとってはすごく嬉しい言葉だ。

 俺はとっさに身を乗り出した。

「いや、揚げ物が好きっていうか──」

 きょとんとした志穂ちゃんと目が合う。

 いつもきりっとポニーテールを結わえ、きびきびと調理する彼女。けっこう気が強くて、特に哲史さんには当たりが強くて、でも俺の前ではなるべくそれを見せないようにしている彼女。心が読めるのかと思うくらい気持ちのいい接客をするのに、びっくりするくらい鈍感な彼女。

 黒目がちの瞳はいつもきらきらと輝いて、ときに強気に男を睨み、ときに、なにかを堪えるようにぐうっと潤む。好き嫌いがはっきりしていて、きつい言葉を放つこともあるけれど、本当は繊細で。かと思えば、俺よりもずっと細い腕で、力強く包丁を揮う。

 きちんとつくられた料理。できたての匂い。気取らない雰囲気と、朗らかな笑顔。

 ああ、俺はこの、小ぢんまりと温かな定食屋が大好きで、

「志穂ちゃんのことが、好きなんだ」

 気付けばぽろっと、まるでなにかに背中を押されたかのように、自然にそう告げていた。

「──……」

 ぽかん、と、志穂ちゃんが口を開ける。

「…………え」

 菜箸を握りしめたままの白い腕が、色白の頬が、みるみる赤く染まっていった。

「え、そ……え──」

「あ、いや、今のは……っ」

「──のぉおおおおお!?

 とそのとき、ガシャン! という硬質な音とともに、横の席から絶叫が響く。

 なにごとかと振り返れば、憲治がメンチカツの上に、ソースの瓶──掌にしっくり馴染むサイズの、愛らしい有田焼だ──を取り落としたところだった。

 手を滑らした際に蓋を弾き飛ばしてしまったのか、勢いよく茶色いソースがメンチカツを覆っていく。適量というにはあまりに多く、カツは瞬く間にソースの海に沈んだ。

「ぬぉ、お、あああ! お、俺のメンチカツが……!」

 同じく揚げ物大好きであるらしい憲治は、取り返しのつかない惨状に、なすすべもなく青褪めている。

 図らずも、俺と志穂ちゃんはそれで我に返った。

「……大丈夫?」

「……うわぁ。……メンチカツ、新しいのにしましょうか?」

 おそらく普通の客が粗相をしたのであれば、苦笑して「すぐに新しいのをお持ちしますね!」と言ってくれるだろう志穂ちゃん。しかし、憲治のキャラがそうさせるのか、それとも会心のメンチカツを台無しにされたからか、さすがの彼女も半眼であった。

「ただ、試作用と思ってちょっとしか肉だねを作ってなかったんで、時間が掛かりますけど。待てます?」

「う……っ。いや、いい。食う……っ。食う! 食います! ソースを箸でのければ、ダメージもそこまで……っ」

 彼女の不機嫌を察してか、憲治が即座に身を引く。

 心なしか、普段ふてぶてしい表情を浮かべているその顔は、涙目になっているようにさえ見えた。

「くそぅ、メンチカツ……っ」

 どうやら、相当好物だったらしい。

 哲史さんに新しい皿だけもらって、ぼそぼそとカツやキャベツを避難させるその背中には、どことなく悲哀が漂っていた。

 そんな憲治に、志穂ちゃんがこっそりと溜息をつく。

 けれどその手にボウルを握りしめたところを見るに、おそらくは、またメンチカツを作り直してやるんだろう。彼女はそういう人だから。

 ちらりと、志穂ちゃんを見つめてみる。

 すると彼女はすぐにこちらの視線に気付き、ぱっと顔を赤くした。けれどそれが恥ずかしかったのか、

「て……手、冷やしてこなきゃ! 氷、氷」

 ここからは見えづらい、冷蔵庫があるほうへと、氷を取りに去っていってしまう。

 やがて戻ってきた彼女の頬は、もういつも通りの白さを取り戻していた。

 俺もまた、顔を隠すようにビールジョッキを傾け、ほてりを冷ます。

「神様……やることが大人げねえ……」

 哲史さんのそんな不思議な呟きを聞きながら、目は、いつまでも赤く染まったままの、志穂ちゃんの耳の辺りを見つめていた。