ごちそうさま、めしあがれ


 思えば俺は、神社までの道のりを駆け抜けてきたことなど、これまでなかった。

 神様に会いに行くときというのは、たいていなにか、悩み事を抱えていたから。

 気が重いような、それをさっさと吐き出してしまいたいような、けれどあんまり縋ってばかりなのもみっともないような気がして、結局、とりとめもないことを考えたりしながら、ぶらぶらとした足取りで境内に向かっていたのだ。

 駅を挟んで、向こう側。

 小ぢんまりとした神社は、店からそう遠くない場所にある。

 そのはずなのに──息を荒らげ、全力で走っている時間が、こんなにも長く感じるものだとは思わなかった。

「神様……!」

 鳥居をくぐり抜けるや、人目もはばからずに叫ぶ。

 うっそうと茂る樹木、古びた御堂、重く垂れた鈴緒。

 すっかり見慣れたそれらは、街灯の光がわずかに差し込むだけの暗い境内で、じっと息を殺すようにして佇んでいる。

 返る声は、ない。

 むせ返るような、じっとりとした夏の夜の熱気だけが、そこにあった。

「神様! ねえ、神様、いるんでしょう!? 寝てるんですか? ねえ! 出てきてくださいよ!」

 がろん、がろん──!

 鈴緒を掴み、乱暴なほどの勢いで振る。

 普段ならそれだけで、なんと粗野な振舞いよ、などと神様が抗議の声を上げそうなものだが、いくら鈴を鳴らしても、声を掛けても、ぴたりと扉の閉じられた御堂には、なんの変化も訪れなかった。

 ふと視線を落とした先には、数時間前に供えたばかりの緑茶のボトルが残っている。

 成り行きで、開栓すらしていなかったそれ。

 蓋を開けなかったのは俺のはずなのに、神様が手を付けなかったことの証拠のように思えて、俺はぐっと口を引き結んだ。

 脳裏には、先ほど見てしまった資料の内容がよみがえっていた。

 ──合祀に伴う夏祭りの廃止、および神社の取り壊しについて。

 神社の老朽化と、住民の減少で、もはやこの神社を維持することが難しくなっていること。ついては関係者協議の上、合祀──ご神体を取り除き、神社の取り壊しを進めること。隔年で辛うじて行ってきた神社祭りも、昨年のものを最後に廃止とすること──

 そっけない紙一枚の資料には、淡々とそれらのことが書かれていた。

 書類を拾い上げた姿勢のまま、呆然とすること、しばし。

 目を疑い、何度読み返してみても内容は変わらない。

 資料を握りしめて床にしゃがみこんでしまっていると、そこに、忘れ物に気付いた青木さんが引き返してきた。

「神社の取り壊しについて知っているかって?」

 ブリーフケースを落としてしまったことを詫びる俺に対して、鷹揚に首を振った青木さんは、しかし俺の質問に対しては、ちょっと申し訳なさそうに眉を下げた。

「いや、今日の集会の議題ではなかったな。前回のものかもしれない。家内がまとめていたのを、持ってきただけだから……」

 詳しい経緯は、これまで地域に関与してこなかったためわからないが、ただ、今年夏祭りがないのはたしかだ、と言う。

 それを聞いて、俺は青褪めた。

 ではこれは、決定事項なのだ。

「聞いてねえよ……」

 店内で呟いたのと、同じ言葉を御堂に向かって漏らす。

 やはり、返事はない。

 その沈黙が、痛かった。

「ねえ、神様。冗談でしょう? こんな……こんなの、俺、聞いてないですよ」

 みっともない声を出して、鈴を見上げる。

 聞いていない、と相手を詰りながら、しかし同時に俺は、これまでに神様と交わした会話を、目まぐるしく手繰り寄せていた。

 ご利益がないとすぐ信徒離れを起こすと嘆いていた神様。

「決算」が差し迫っているという比喩。

 もしそれが、廃社までの経緯と、タイムリミットのことを指していたのだとしたら?

 神様は、時間がないとも言っていた。

 そして、退職するか悩む俺に対して、しみじみとこうも言っていたではないか。

 自らで自らの行く末を決めてよいというのは、奇跡のような自由だと。

「…………っ」

 ふいに喉の奥から熱が込み上げてきて、俺はとっさに歯を食いしばった。

 いやだ。

 この神様を、失いたくない。

 だが、いくら呼びかけても御堂が光らないのは、それができないからではないかと──この半年というもの出てこなかったのは、本当は神様の力がもう残っていなかったからなのではないかと、そんな考えばかりが胸をよぎって、俺はただ震えを堪えながら、その場に立ち尽くした。

「違う……。単に、居留守だ。きっと、前みたいに、忙しいからって、無視してるだけで……」

 自分に言い聞かせるように呟くが、その声は強張っている。

 密度の高い夏の夜に、押し潰されるようにして言葉が消えてしまったのに気付き、俺はますます顔を歪めるはめになった。

 そうして、思う。

 神様は、ときにげんなりしながらも、俺の悩みや願いを聞いてくれていたというのに、俺は一度だって、神様が弱音を吐くのを聞いたことがなかったと。

 いや、神様なのだから──人知を超えた存在なのだから、その感情を推し量ることのほうが、おかしいし、傲慢なのかもしれない。

 それでも、あんなに人間臭くて、ひょうきんで、陽気な神様が、その実、廃社の危機に心を悩ませていたのかもしれないこと、そしてそれに気付けなかったことは、俺の舌にえもいわれぬ苦みを残すようだった。

 神様は、いったいどんな気持ちだっただろう。

 来る日も来る日も、好き勝手を叫ぶ人の願いを縒り合わせつづけて。

 望みを叶えてもさして感謝されず、ご利益がなければ溜息をつかれ、しまいには、神社も取り壊される。

 ──なぜ、「お疲れさま」の一言すら、言ってやれなかったのか。

 涙をこぼし、絞り出すような声で悔いていた、青木さんの言葉が思い出される。

 今まざまざと、彼の想いが理解できるかのようだった。

 かつて神様には、両親の魂を呼び出してもらった。それ以外にも、魂をこの身に下ろすたびに、料理のだいを教わり、同時に、その時々の悩み事を解決してもらっていた。魂の未練を晴らしてやるつもりで、結局いつも救われていたのは俺のほうだった。

 なのに、神様の助手気取りで、最近では礼の一つも言ってこなかった。

 好意を、優しさを、もらうだけもらって。ごちそうさまの一言も口にせず、ただ、腹を空かせて神様のもとに押しかけていた傲慢な人間。それが俺だ。

「神様……」

 こんなのって、あんまりだ。

 あまりにつらい。俺ではなくて、──神様が。

 呼べど、鈴を鳴らせど、神様は出てこない。

 俺は祈るように御堂を見つめ、改めてこれまでに神様と交わした言葉や、魂たちの伝えてくれたことに想いをせ、やがて、口を引き結んだ。

 そうして、砂利を蹴り飛ばしながら、来た道を引き返しはじめた。



 店に戻って、素早く手を洗い、エプロンを着ける。

 ぐるりと厨房を見回して、まずは炊飯器を開けた。

 大丈夫、十分に残っている。

 それから調味料や乾物の入った棚を漁り、必要と思われるものをすべて引っ張り出した。

 鰹節、梅干し、塩昆布、ごま、じゃこ、醤油、味噌……。

 ちょっと考えて、じゃこだけ棚に戻す。生ものではないが、魚の形を残したものを使うのは、なんとなくためらわれたからだった。

 たっぷりの白飯をボウルに移すと、軽く濡らした両手にぱっぱと塩をはたいて、──俺は、飯を握りはじめた。

「あ、っち……!」

 炊き立てでなくても、思いのほか飯というのは熱い。

 あち、あち、と左右の手でたらい回ししながら握ったので、溶けかけた雪だるまのような形状になってしまった。

 ひとつめは練習。塩にぎりだ。

 同じものをもうひとつ作り、要領が少しつかめてきたところで、次は握る途中に種抜きの梅干しを加えてみた。

 が、今度は握力が強かったのか、握っている最中ににゅっと梅干しが飛び出てきてしまい、表面が紅白のまだらになってしまう。めでたいが、これではだめだ。

 ちょっと考えて、最初は飯を少なめに手に持ち、梅を乗せてからさらに飯をかぶせ、握ることにする。これでようやく、梅がちゃんと真ん中に収まってくれた。

 そこから、俺は黙々とおにぎりを作りつづけた。

 鰹節や梅を、そのまままぶしたり、混ぜご飯にしたり。はたまた具材どうしを混ぜ合わせて梅おかかにしたり、味噌を塗って軽く焼いてみたり。

 ときに具が偏ってしまったり、味噌を焦がしてしまったりしながらも、ただ無心に、飯を握りつづける。

 裏口から声が掛かったのは、そんなときだった。

「お兄ちゃん……?」

 志穂だ。

 やつは、大量のおにぎりを握りまくっている兄を見て、まん丸に目を見開いた。

「それなに? なにしてるの?」

「見りゃわかんだろ。おにぎり作ってる」

「はあ? なんでまたそんな大量に……」

 志穂は呆れたように言いかけたが、それよりも重要なことがあったとでも言うようにいったん口を閉ざすと、つかつかとこちらに歩み寄ってきた。

「ていうか、お兄ちゃんさ。ちょっと店を抜けるときでも、ちゃんと電気は消して、って言ったじゃん。閉店作業は一人でする、って言うから任せたのに、様子を見に来たら電気つけっぱなしで店は空っぽだし、なにごとかと思ったじゃない」

 芳子さんの魂を「下ろす」前、一人きりで考えたかった俺は、閉店作業を請け負って志穂を帰らせていたのだった。

 ところが、いつまでたっても家に帰ってこないため、やつは一度店に様子を見に来たらしい。そうしたら、店内はもぬけの殻で、代わりに流し台には中途半端に片付けられた食器や、どうやら茶漬けでも作ったらしい痕跡が残っている。

 さてはまた「神様関連」かと思ったが、それにしては俺の姿まで見えないのがおかしい。志穂は不思議に思いながら、念のため神社に足を運び、そこでも俺と会えなかったので、ひとまず自分が片付けるかと店に引き返したところ、おにぎりを握る俺に遭遇したと、そういうことだった。完全なすれ違いだ。

 志穂は腰に手を当ててまったくもう、といった顔をしていたが、俺が無言で飯を握りつづけているのを見ると、少し戸惑った表情を浮かべ、やがて、ゆるゆると手を下ろした。

「……お兄ちゃん。どうしたの?」

 困ったような声に、思わず手を止める。改めて視線を向けた志穂は、眉を下げ、口を引き結んでいた。暴言が相手の心を抉りすぎたり、喧嘩で俺が黙り込んでしまったりするときに、やつが見せる顔だ。

「どうって。ああ、電気をつけっぱなしだったのは悪かったよ、ちょっと急いでて──」

「それもあるけど。なんか今日、ずっと、様子が変だよ」

 俺が詫びを寄越そうとすると、志穂はそれを遮った。

 そして、おずおずと、あるものを差し出した。

「それって、……これのせい?」

 そっけない灰色の封筒に、見慣れた企業のロゴ。

 親展、の印が押されているそれは、俺が籍を置く会社が、書類を送付するときに決まって使用する社用封筒だった。

 休職者は、メールだけでは連絡が付かないこともある。それで会社も、念のため書類送付という形を取ったのだろう。

 別に、見られてもなんら問題のないはずのものなのだが、俺は思わず顔を強張らせてしまい、それを見た志穂は気まずそうに言い添えた。

「中は見てないよ。見てないけど……想像はつく。休職期間……もうそろそろ、終わりが近いんでしょ?」

「志穂……」

「私からは、なにも言わないよ。私の希望がどうとかいう話じゃないと思うし、……すでに、お兄ちゃんはじゅうぶん、『てしをや』を助けてくれたし」

 米粒の付いた手を洗い、志穂に向き直ろうとしたが、それを遮って妹は続けた。

「ただ、気になってるようなんだったら、念のため伝えとく。お兄ちゃんが……仮にだけど、この店をやめたとしても、バイトを雇うつもりだから、大丈夫だよ」

「志穂」

「薔子さん、調理師の知り合いが多いから、紹介してもらうつもり。玉城シェフも経営のノウハウとか詳しいし、さんや憲治くんもフリーターの友達がいっぱいいるって言ってたから、ちょっと頼っちゃうかも。とにかく──頼れる人はいっぱいいるから、大丈夫」

 本人は毅然とした態度で告げているつもりなのだろうが、気付いているだろうか。緊張を隠すように拳を握って、視線を逸らしながら言われても、そんなの転んだ小学生が「痛くないよ」と言い張っているくらいにしか見えないということを。

「だから、お兄ちゃんは、お兄ちゃんの意思だけで──」

「わかった、志穂。それについては、この後話そう」

 だが、今はそれよりも優先したいことがあった俺は、まだ言い募ろうとしている妹を遮った。

 この後? と怪訝な顔をした志穂の問いを無視して、

「なあ、弁当箱にしてるでっかいお重ってどこ? 家?」

 口早に尋ねる。

 やつが目を白黒させながら「店。そこの、上の棚だけど……?」と指さすのに頷いて、俺は棚を漁りはじめた。

「なに? おにぎりをお重に詰めてどうすんの? 運動会でも行くわけ?」

「神社」

 きれいにしまわれているお重を見つけ出すと、俺は一段だけを取り出し、そこにできたてのおにぎりを並べていった。

「神様に、会いに行ってくる。……会えないかもしれないけど」

「……え?」

「会えないかもしれないけど、でも、会いに行ってくる。会って……お疲れさま、めしあがれって、言ってくる」

「はい?」

 志穂は困惑顔だ。

 だが、それに丁寧に説明する時間も惜しくて、俺は流しにざっと調理道具を突っ込むと、蓋をしたお重を抱えて、妹に言い捨てた。

「おまえも来いよ。先、行ってるから」

「はい!?

 そうして、足早に「てしをや」の厨房を滑り出た。

 勝手口の扉が閉まる直前、

「ちょ……っ、だから、片付け……! 消灯──!」

 志穂の、困ったような、怒ったような叫びが、かすかに耳に届いた。


***


 再び戻ってきたときも、境内はやはりじっとりと暑く、砂利も、御堂も、重い沈黙と熱にじっと耐えているかのように見えた。

 鳥居のなかは、聖域。

 これまで境内に足を踏み入れたとたん、心なしか涼しさを感じたものだったが、もしかしたらそれだって、多少は神様の力のようなものが作用していたのかもしれない。

 ふとそんなことを思い、するとなおさらこの暑さが耐え難くて、俺は眉を寄せた。

 だが、今は感傷に囚われるよりも、したいことがある。

 重箱を傾けないように片手ずつ手指を清め、夜の砂利道を静かに進む。賽銭箱の横にそっとお重を置き、古びた紐を垂らす鈴を見上げてから、おもむろに立ち上がった。

 いまだ、声は聞こえない。

 俺は口を引き結んで鈴を鳴らし、それから自分にできる極力丁寧な仕草で、二回頭を下げた。

 御堂は、光らない。

 神様、といつもみたいに呼びかけそうになるのをぐっと堪え、柏手を打つ。

 気安く名前を呼ぶ代わりに、俺は、ほとんど初めて心を込めて、手を叩き合わせた。

 それから、じっと御堂を見つめた。

「……今日は、暑いですね」

 あと一礼をすれば、参拝の作法は完了する。

 だが、それをしてしまう前に、やはり、どうしても、神様に話しかけておきたくて、俺は静かに口を開いた。

「人じゃないから、暑さなんて感じないのかな。でも……そんなことないですよね。暑いって言ってたし、それにいつも神様は……あなたは、俺たちよりもよほど、人の気持ちに寄り添ってくれていたから」

 神様は、単に休んでいるだけだろうか。

 それとも、……もう、二度と現れないのだろうか。

 時間がないと言っていた神様。

 願いを叶えつづけ、それでもやしろを失うことになってしまった神様は、どのように力を減らしていくものなのだろう。

 電球が明滅を繰り返すようにしながら? あるいは夕陽が沈むようにゆっくりと? それとも、乱暴にスイッチを切ってしまうように──ある日、突然?

 できれば、もう一度くらい、御堂が光ってくれたらいい。現れてくれたらいい。

 それは、俺や誰かの願いを叶えるためではなく、神様のために。彼に捧げられたねぎらいと感謝が、その手元に届くように。

 俺は賽銭箱の横にひざまずき、お重の蓋を取り外した。

 重箱の向こうには、供えられたままの緑茶のペットボトルがある。すっかり汗をかき、びしょびしょに濡れてしまっているボトルを掴み、重箱と一緒に、御堂に向かって掲げてみせた。

「おにぎり、持ってきました。なんか……運動会の記憶のせいかもしれないですけど、思いっきり汗をかいた後は、塩気の強いおにぎりってイメージ、あったりしません?」

 返事はない。

 それでも、俺はめげずに、話しつづけた。

「おにぎりって、そういや握るの初めてだったんで、ちょっと形とかは微妙なのもあるんですけど。でも、中身はいろいろですよ。梅に、おかか、梅とおかかを混ぜたやつ、塩昆布、ごま、味噌、ごまと味噌を混ぜたやつ。味噌焼きおにぎり以外、どれになにが入っているかは秘密です。作った俺にもわかりません。さあ、どれからいきましょう」

 中の具は秘密です。作ったお母さんにもわかりません。

 ふと、遠い記憶がよみがえる。

 俺が小さかった頃──まだ運動会が、五月ではなく、夏休み明けの猛暑日に行われていた頃の記憶だ。

 俺たちは紅白の鉢巻までも汗で濡らし、降り注ぐ陽光ですっかり体力を奪われ、ぐったりとしながら、それでもそわそわと、グラウンドにいるはずの親の姿を探す。

 両親は木陰の下でシートを広げ、それぞれカメラや、重箱を手に持ちながら、こちらに呼びかけてくるのだ。そうして、もどかしく運動靴を脱ぎ捨てて、シートに上がった俺たちにこう告げる。

 頑張ったね。お疲れさま。さあ、めしあがれ、と。

 ごくりと冷えた茶を飲み干し、塩を強めにきかせたおにぎりを頬張ると、その喉元からもう、むくむくと力がみなぎってくるのを感じたものだった。

「疲れたときは、寝ることも必要だけど……やっぱ、食うのが、一番ですよね。水分と、塩分と、カロリー。ほんとは、我が家の夏の味、ぜんぶ披露したかったところですけど」

 俺たちには、疲れたら、必ず飯を食わせてくれる人がいた。頑張れば、必ずねぎらってくれる人がいた。

 木陰に招き入れ、水を差し出し、飯を食わせて。頑張ったね、お疲れさまと笑いかけてくれる、そんな優しい人たちが。

「──……俺」

 ふいに、声が喉に詰まった。

「俺、……全然、返しきれてないです。ごちそうさまも、ありがとうも、……かけてもらった優しさの数に比べて、全然、伝えられなかった」

 照りつける陽光の下、夢中になって頬張った弁当の味を思い出す。揚げ物まで入って、相当朝早くから準備したのだろうに、親の顔には寝不足の気配などかけらも見えず、嬉しそうな笑顔だけが浮かんでいた。

 海の日に決まって出かけたピクニック。バーベキューの煙、張り出した枝、涼を求めるつもりで暑苦しく身を寄せ合った、小さな木陰。ささやかな口喧嘩。冬になると、こたつに座る俺に向かって、決まってみかんを投げてきた親父。深夜に啜ったインスタントラーメン。伸びる長さを競った雑煮の餅。受験勉強の差し入れに出されたおにぎり。毎日蓋が閉まらないくらいにぎっしりと詰められていた弁当。毎日のように食っていたチキン南蛮や唐揚げ。毎日囲んでいた、なにげない食卓──

「ごちそうさまって、……ありがとうって、きちんと言いなさいって。これでも……きちんと、しつけられたはずなんです。ちゃんと、言えてると思ってた。でも……でも、全然、足りない……!」

 日々なにげなく、そう、あまりにさりげなくもたらされる優しさに、俺たちはいったいなにを返せているだろう。

 勝手に潤みだした目に力を込めて、まるで御堂を睨みつけるようにして話しつづけた。

「神様。俺、あなたに会えて幸せでした。いつも、すごく、助けられてました。うまいこと丸めこまれてばっかで、こんちくしょうって思うこともあったけど……いつも、いつも、この神社に来た後は、すごく……。……前を向こうって、そう思えた」

 思えば俺は、神社までの道のりを駆け抜けてきたことなど、これまでなかった。

 ここに来るときというのは、たいていなにか、悩み事を抱えていたから。

 料理ができない。妹と喧嘩した。気持ちがわからない。進路が見えない。──親に会いたい。

 小さな悩みも、大きな苦しみもあったと思う。けれど、そのどれにも、神様は等しく耳を傾け、ときにからかったり、呆れたりしながらも、いつも絡まった糸をほぐすように、そっと心を緩めてくれた。

「キャベツの千切りを、教えてもらいました。天ぷらの揚げ方も、豚汁の作り方も、オムライスのコツも。出汁巻き玉子──はほとんど自力だったけど、野菜炒めも、茹でとうもろこしも、鯛茶漬けも教わった。……でも、それだけじゃない」

 付け合わせにまで心を砕く親の気持ちを教わった。特別な人の笑顔を引き出すことの喜びを知った。料理を通じて人を励ますことを、許すことを、ねぎらうことを教わった。そのどれもが、鮮やかな発見に溢れていた。えがたい学びだった。

 俺の中に宿った魂だって、きっとこの神様に深く感謝していただろう。彼らの礼の言葉は、いつも俺が聞き取ってしまっていたが、それも合わせて、俺は今、なんとかこの感謝の気持ちを、神様に伝えたいと思った。そう思いながら、ぎこちない手つきで、おにぎりをひとつ、重箱から取り出した。

 ありがとう。本当にありがとう。ごちそうさま。お疲れさまでした。

 もしも、それが間に合わなかったのだとしたら、せめて、この言葉を。

「──……」

「お兄ちゃん!」

 だが、口を開きかけたとたん、背後から声が掛かり、俺はぱっと振り返った。

 鳥居の下で戸惑ったように佇む影。志穂だ。

 走って追いかけてきたらしい妹は、少し息を乱しながら、おにぎりと重箱を掲げる俺を見つめ、怪訝な表情を浮かべた。

「……なにしてるの?」

「神様に、食ってもらおうと思って」

「いや、それはまあ、見たらわかるんだけど。なんでまた……」

 じゃり、じゃり、と道を進み、志穂が横に並ぶ。

 不思議そうに緑茶のボトルや重箱を見つめる妹に、俺は、なるべく冷静な声で説明した。

「あのな、志穂。この神社──取り壊されるらしいんだ」

「──……え?」

 志穂の目が見開かれる。

 俺はちょっと口元を歪め、頷いた。

「老朽化とか、信徒離れとかで、もう、神社を維持できないんだって。ご神体を取り除いて、夏祭りももう廃止して、……いずれ、この神社も取り壊すんだって」

「……それって」

「この区域の自治会の、集会の資料に書いてあった。さんざん願ってさ、見守ってもらって、でも面倒が見切れなくなったら取り壊す──ひどい話だろ?」

 いや、ひどいのは俺たちか。

 絶句している妹に向き直り、俺は、静かに告げた。

「なあ、志穂。俺、『てしをや』を続けるわ」

「……お兄ちゃん」

「神様のため、ってわけじゃ、ないんだけど。……そうじゃなくて、俺……そうしたいんだ。誰かに、めしあがれって言う、この仕事を──続けたいんだ」

 食わせてもらった。育ててもらった。たくさんの優しさをもらった。

 できるなら優しさを注いでくれた当人に感謝を返したかったが、礼を言いたい相手は、もういない。

 ならばせめて、次は俺が。

 俺が、誰かを食わせ、育て、優しさを届けることをしたい。

 そして、その手段が、「てしをや」の飯であり、場所であればいいと、そう思ったのだ。

「ほんとだったら、神様には『めしあがれ』じゃなくて、『ありがとう』のほうが正しいんだろうけどさ。宣言っつーか……なんか、一番先に、この言葉を捧げたくて」

「お兄ちゃん……」

「我ながら気取ってるっていうか、御堂に向かっておにぎり掲げるとか、変人っぽいけど……おまえも、できれば付き合ってくれよ」

「待って、お兄ちゃん──」

 志穂が物言いたげに眉を寄せる。

 それを遮って再びおにぎりを高々と掲げようとすると、それをさらに遮って、志穂が「いや、だから」と軽く手を挙げた。

「なんだよ志穂、邪魔すん──」

「神社の取り壊しとか、夏祭りの廃止とかって、いつの話よ?」

 真顔で問われた内容を理解するには、少々の時間を要した。

「──……は?」

「いや、だから。それって、五年くらい前に解決したやつじゃなくて? なに、またその話再燃してるの? でも、とっくの昔に廃止したお祭りを、さらに廃止できるわけないよね?」

「…………はい?」

 ちょっと待て。理解が追い付かない。

 五年前に解決? とっくの昔に廃止したお祭り?

「…………」

 ぎし、と音を立てるように、思考回路が動きだす。

 提示された情報を繁ぎ合わせ、立ち現れはじめた事実に、俺は、引きつった呟きを漏らした。

「……パードン?」

 エクスキューズミー。キャンユー・スピーク・ワンスモア?

 なぜだかそんな英文が脳裏をよぎったのと同時に、志穂は「だから」と鼻を鳴らした。

「合祀とか祭りの廃止とかっていうのは、もう五年くらい前の話だってば。とっくの昔に、ここの神様は隣町の大きい神社に合祀されてるし、夏祭りだって廃止されて随分経つでしょ?」

「……え? ええ? え?」

「ついでに言うと、ご神体は『取り除く』っていうか、ご神体をこの神社から『移動させて』、隣町の神社に合祀したんでしょ。神社の取り壊しは、一回そんな話も出たけど、たしか壊すお金もないとかで、見送りになったはずだよ。神職さんが兼務で管理したほうが安上がりだって」

「……はああああああ!?

 愕然、というのはこういうことを言うのだろう。

 俺は、手にしていたおにぎりを取り落とすようにして重箱に戻しながら、信じられない思いで御堂を見つめた。

 五年くらい前。すでに合祀済み。神職さんが兼務で管理。

 ああ、どうりでなかなか神職さんの姿を見ないと思った……いや、そうではなくて。

 なんでまた五年も前の資料が……ああそうか、青木さんも、芳子さんがずっとまとめていた資料を丸ごと持ってきただけで、俺が拾ったのはそのかなり古い部類だったのか……って、いや、今重要なのはそこでもなくて。

「つまり……。別に、神社取り壊しの危機とか、合祀されて祈る人が減っちゃうから、神様が弱ってるとか、……そういうことじゃ、なかった、と……?」

「弱ってるの? 少なくとも、私たちが神様に会ったのは、合祀が済んだ後のことなんだから、合祀が原因じゃあないと思うけど」

 困惑しながら指摘する妹に、思わず俺は叫んだ。

「じゃあなんでいきなり出てこなくなっちまったんだよ!」

「知らないよ! 忙しいんじゃないの!?

 即座に叫び返される。

 さらにはそれに追い打ちをかけるように、


 ──さよう。


 今更、本当に今更ながら、御堂が光った。

「か……っ!」


 ──近頃、ひどく忙しくてなあ。


「神様あああああ!?

 その、ぬけぬけとした、しれっとした、いけしゃあしゃあとした──ああ、いくつ形容を連ねても足りない──呑気な声に、俺はいよいよ絶叫し、おにぎりを重箱ごと取り落とした。

「ちょっと!」

 ぎょっとした志穂が受け止めてくれて、「なにしてんの」とこちらを睨んでくる。

 だが正直、俺はそれどころではなかった。

「いやいやいやいや、『なにしてんの』は俺が言いたいですよ、神様……あんた、なにしてんですか!」

 なぜ今になって出てくるんだ、俺のシリアスどこに飛んでった、ていうかまた単に忙しかっただけかよ!

 あまりに無数の想いが込み上げてきて、舌が追い付かず、ただ口をパクパクさせていると、神様がやれやれと、まるで首でも鳴らしそうな様子でぼやいた。


 ──うん? 祭りの準備よ。盆は仏門の張り切りどころだろうというのに、こちらも結局、夏祭りなんて面ど……もとい、山場があるからなあ。


 なんかこの神様、自分に捧げられているはずの祭りを「面倒」とか言いかけたぞ。

 そういえば、よくよくその発言を思い出してみれば、たしかに「盆も近い忙しなさ」とか言っていた気もする。

 いやしかし、祭りは廃止されたはずでは。

 困惑しながら問いただすと、神様は、はあ、と溜息を落とした。


 ──格式高く、由緒正しい神社の祭りというのは、とかく堅苦しいうえに、煩雑でなあ。居候とはいえ、願いの一部を引き受けずにはことが回らぬのだ。一部とはいえ、おまえ、小ぢんまりとしたこのやしろに向けられるものとは段違いの量だぞ。合祀されて楽ができると思ったのに……気ままな隠居生活の、唯一にして最大の誤算よ。


「…………」

 俺は思わず半眼になった。

 なるほどこの神様は、ご神体を移したことによって、大神社に祀られることになったと。普段は居候として、神様の仕事もほとんどせずに済んでいるものの、祭りが近くなると居候先の「仕事」を手伝わざるを得ないと。

「っていうか……合祀ライフ、エンジョイしてたんすか……!」

 社を失うなんて、さぞや不本意だったろう、つらかったろうと思っていたのに。

 そんな俺の同情や申し訳なさは、神様の、


 ──うん? 責任がもれなく付いてくる社などというものはな、構えたいものが構えればよいのだ。あってもよいし、なくてもよい。


 という、家を継がない次男坊がごとき発言によってあっさり吹き飛ばされることとなった。

「そんな……」

 人間の身勝手さや、神様という存在の報われなさを嘆き悔やんでいた俺は、この振り上げた拳をどこに収めればよいというのか。

 がくりとその場にうずくまりそうになった俺に、神様がふと笑んだ気配がした。


 ──気負うな、気張るな。若者め。すべては大いなる流れ、宿命さだめの掌の上。うたかたの出来事にいちいち目くじらを立てていては、身が持たぬぞ。


「…………」

 その口調はひょうきんなようでありながら、声は深く、長い時間をかけて抽出されたような、真実の重みを帯びている。

 この神様の発言が、やはりどことなく仏様めいていると思うのは、その異色の経歴のせいだろうか。

「……神様が、つらかったんでなければ……それでいいですけど」

 なんだか、一生懸命かばおうとした相手から、よしよしと頭を撫でられた子どもの気分だ。

 そっぽを向いて呟くと、神様はわずかに笑みを深めたようだった。


 ──……い男よなあ。


 そっと噛み締めるような、声。

 え、と思って顔を上げたが、俺が聞き返すよりも早く、神様は続けた。


 ──さて。先ほどはなにやら、大切なことを告げてくれそうな素振りであったが、言うてはくれぬのか。ん? ……む、梅だった……。


 言われて、はっとする。

 俺は、ひくりと唇を引きつらせ、ついでに言えば、わなわなと拳を震わせて、神様に問うた。

「あんた……どこから聞いてたんですか……」

 この神様、どこまで把握したうえですっとぼけていやがる。

 まさかとは思うが、涙を浮かべ、掠れ声でめしあがれと唱えようとした、俺の一連の劇画的行動──今となってはそうとしか思えない──を、にやにやと見物していたのではあるまいか。

 そんな俺の疑念に対し、神様はあっさりと頷いてみせた。


 ──うん? それはまあ……おにぎりの具を紹介されたあたりからか。ちと、出ていくタイミングを逸してな。すまんすまん。……おっ、ごま味噌に当たったぞ。


 取って付けたような謝罪と、はしゃいだ口調に、ぷちっとなにかが切れた気がした。

「それ……」

 俺の心配はなんだったんだ、後悔は、焦燥は、祈りは、感謝は、いったいなんだったというのだ──!

「かなり最初のほうじゃねえかああああ!」


 ──うむ。で、最後にはなんと締めるつもりだったのだ?


「告げる前から食いはじめてる相手に、言う言葉じゃないです!」

 恥ずかしさから顔を真っ赤にして叫ぶと、神様は、ほう、と相槌を打った。体を伴っているのならば、眉でも引き上げていそうな様子だ。


 ──それは残念。


 余裕しゃくしゃく、といった雰囲気に、もはや返す言葉も浮かばない。

 俺が地団太を踏みそうになりながら頭を抱えていると、

「──……あの」

 なぜか、志穂がそっと挙手してきた。

「なんだよ」

 はっきり言って、今、俺は相当恥ずかしい。妹と会話を楽しむような精神状態ではとてもない。八つ当たり気味に問うと、志穂は神妙な顔になって、尋ねてきた。

「『てしをや』を続けるって話自体は、……勘違いじゃないってことで、いいの?」

「…………」

 頭に突っ込んでいた手を、ゆるゆると下ろす。

 俺は妹に向き直り、ちょっとだけ唇を湿らせた。

「──……おう」

 そして、短く答えた。

 神様に半ばだまし討ちされたような恰好とはいえ、結局のところ、それは俺の中にあった考えを固めただけ。背中を押してもらったというだけの話で、俺が定食屋の仕事を続けるという結論は、なんだかずいぶんと前から、出ていたような気もする。

「会社は、辞めるよ。……『てしをや』での仕事を、続ける」

 志穂がきゅっと口を引き結ぶ。

 じいっと猫のような目でこちらを見つめ、しばらくしてから、やつはにっと笑った。

「──そ。バイトを一から教育する羽目にならずに済んで、よかった」

「……それだけかよ」

 こちとら、自分の意思とはいえ、安定した給与や、サラリーマンという身分を完全に投げ出すのだ。休職していたにもかかわらず、面倒を見てくれていた組織への義理というか、申し訳なさもある。

 ぶすっとしながら、どうやって部長たちに詫びよう、と頭を悩ませていると、志穂がぽんと背中を叩いてきた。

「大丈夫。会社の人たちにぼっこぼこに叩かれたら、私がフライパンで殴り返しに行ってあげるよ。悪いけどお兄ちゃんはうちのものですって」

 そうして、満面の笑みを浮かべて、横から俺の顔を覗き込んだ。

「それくらいには──私、嬉しい」

 黒目がちの瞳はきらきらと輝き、わずかに幼さを残した頬は、なんの邪気もない喜びでうっすらと上気している。

 珍しく素直に甘えてくる志穂に、俺は深々と溜息を漏らした。

 まったく、これだから妹ってやつは。

 相変わらずぶんぶん振り回されているらしい敦志くんの、健闘をただひたすら祈るのみである。

 結局俺は、御堂に向き直って「……っていうことです」と強引に話をまとめると、やけくそ気味に深々と頭を下げた。

 二礼二拍手一礼。これで参拝は完了だ。

 頭を上げながら、ふと思い出した。

 ──半ば結論は出ている物思いに、確信を持たせてほしい。

 俺が吐いた、弱音のような願い事。

「今回も、やられた……」

 少し遠い目になりながら、つい御堂を見つめる。

 御堂はまるで、夏祭りにつるされる提灯のように柔らかな光を放ち、にぎやかなおにぎり重を楽しんでいるかのようだった。漏れ聞こえる声も、おお塩昆布だ、とか、むむ、また梅だ、とか、至極ご機嫌そうである。

 初めて捧げた手作りの飯を、嬉しそうに平らげているのであろう姿を前に、気付けば、俺の頬は緩んでいた。

 優しさを注がれて、返したいと思ったときに、その相手が目の前にいる喜び。

 ごちそうさまの言葉を、涙も交えずに告げられる、その奇跡のような巡り合わせを噛み締めながら、俺は飯を食べよう。

 そしてまた、これまでこの身に注ぎ込まれてきた、あらゆる栄養と味わいと想いを、少しでも返せるように、俺はこれから飯を作るのだ。


 ──うむ。仕事の後の飯はうまいな。おい、そこの茶の蓋も開けてくれぬか。


 むぐむぐと、まるでおにぎりを口いっぱいに頬張る音が聞こえてきそうな様子で、神様がそんなことを言う。

 俺は、努めて呆れた表情を装いながら、ボトルの蓋を回し開けた。

「……めしあがれ」

 ついでに、先ほど言いそびれていた一言を、こっそりと添えて。

 そのとき、境内の樹木をさあっと風が渡り、夜に沈むようだった熱気が、ふと流れ出した。

 優しく葉をそよがせる風にまぎれて、


 ──がろん。


 揺れてもいないというのに、たいそう満足げな鈴の音が、耳に届いた気がした。