四皿目 〆の鯛茶漬け
「うおぁ……っちぃ……」
ぐずぐずに溶けてしまったような滑舌で、もう何度目になったかわからない「暑い」の呟きを漏らす。
手水を手に浴びせてみても、年季の入った賽銭箱や鈴緒に触れても、じっとりとぬるい温度ばかりが返ってくることに、俺は絶望の呻きを漏らした。
「夜になってもこの暑さって……どういうことだ……」
これまでは、この時間に神社に来れば、緑が多いためか、はたまた神通力か、少しばかり涼やかな空気を感じることができたのに。
お盆も差し迫った、晴れの日続きの八月。
熱は夜を経ても地面に蓄積され、外を歩くだけで息苦しいというありさまだった。暑苦しい蝉の鳴き声が聞こえないのはまだ救いだが、賭けてもいい、きっと蝉のやつらだって、日中の暑さでぐったりしているのに違いない。
俺は力なく、がろん、がろん、と鈴を鳴らした。
「神様ー……暑いっすね……。今日はもう……酒って感じでもなかったんで、キンキンに冷えたお茶持ってきましたよー……」
賽銭箱の横に、ぽと、と置いたのは、ペットボトル入りの緑茶である。コンビニに寄った際、冷凍庫で販売していたのを珍しいと思って購入したのだ。
コンビニの、それも茶を供えるというのは不敬かな、などとも思ったが、考えてみればすでに缶ビールを供えた前例もあるし、俺が神様だったら今は酒より茶が欲しい。これだけ暑いと、とにかく体に負担なくがぶがぶ飲めるもののほうが嬉しいのだ。ビールとも迷ったが、俺個人の感想として、冷茶をぐいぐい飲むと、その後、体がすうっと冷える気がするから。
──む? 茶か? おまえにしては珍しいな。だが、うん。これもこれでよい。ささ、蓋を開けぬか。
鈴緒にもたれるようにして佇んでいると、ぼうっと御堂が光り、やけにせっかちな神様の声が響きだした。やはりあちらの世界には、暑さや寒さなど関係ないのか、いつも通りの──いや、なんならいつも以上にきびきびとした声だ。俺はなんとなく、恨めしさのようなものを覚えた。
「元気ですね……神様……」
──そうか? というよりは、おまえの元気が足らぬのではないか。ほれほれ、気をしゃんと持たぬか。
「気とか、もはやそういう次元の問題じゃないんですよ、これは……」
うだるような暑さを、精神論で雑にくぐり抜けさせようとする相手に、ぐったりとしながら抗議する。すると神様は、まるで首を傾げるような様子で、「そこまで辛いのならば出歩かなければよいのでは」といったお言葉を寄越した。
「いや……そう。そうなんですけどね……」
──はて。また妹と喧嘩でもして、飛び出してきたのか? 家にも職場にも居場所がないとは、おまえの年齢で哀れな男よな。
「……いや。今回は、そういうんじゃ、なくてですね……」
なんだろう。さりげなく、働くお父さんもまとめて盛大にこき下ろされた気がするぞ。
だが、それに突っ込む気力さえ暑さに溶かされてしまって、俺はもごもごと呟くにとどめた。それに、神様がなにげなく放った言葉に、少々思うことがあったというのもある。
「神様。俺……これからは、そう頻繁に神社に来れないかも、って言ったら、どうします?」
ぽつんと問うと、怪訝そうな気配が返る。
俺は少しためらってから、実は、と切り出した。
「実は……今日、会社から、面談を受けるようにって、連絡があったんですよ……」
今日の昼すぎ、休職中の会社から一通のメールが届いていたのだ。
件名は、「職場復帰面談の日程について」。
そう。できたての社内制度に付け込んで取得した長期休暇も、そろそろ終わりが見え始める頃合いだったのである。
もともと、俺に認められた休暇は一年。職場復帰するには、仕事の采配の観点から、三か月ほど前には一度上司と面談をしなくてはならない。
俺が取得第一号であり、とかく前例のない話なので、面談には直属の上司だけでなく、人事部長や総務部長までもが立ち会うことになっているのだという。気の重い話だった。
──別に、どれだけ身分の高い者が来ようが、復帰を宣言することになんの問題があるのだ?
「……復帰するなら、ね」
ひょうひょうと言い放つ神様に、どこまで見通しての発言なのだろうか、などと思いながら返す。それから、俺は小さく溜息を落とした。
復帰するならば。
そんな仮定をしてしまうあたり、俺の考えの揺らぎが透けて見えようものだ。
おわかりの通り──俺は、一年の休暇の後に「てしをや」での時間を手放すことに、ためらいというか、未練、のようなものを抱いていた。
もちろん第一には、俺が抜けて、志穂が責任者になってしまっては、立派に店を回していけるのか心配、というのがある。小さな店とはいえ、やはり一人で切り盛りするのは難しい。
そしてそれと同じか、それ以上に俺の心を占めるのは、
「……もう少し、『てしをや』をやってたいなあ、なんて……」
単純に、こうした思いであった。
最初は、自分の人生にかかわることなど想像もしなかった飲食店の経営。肉体労働だし、理不尽な思いをすることも多いし、その割に大儲けできるというものでもない。調理だって不慣れで、なにが楽しいのかさっぱりわからなかった。
だが、魂をこの身に下ろして、料理をし、飯を食い。お客さんがほっと心を緩めるその光景を何度も目にして、俺の考えは、次第に変化しつつあったのだ。
作ることは、想うこと。食べることは、かかわること。
食事というのは生活の根幹ともいえる行為で、だからこそ、誰かを食わせるというのはその誰かを育てるのとほとんど同義だし、ともに食卓を囲めば必ず深い想い出が伴う。
そして、そういった「料理」だとか「食事する場所」を提供する定食屋の仕事というのは──とても
「……でも、この年で脱サラってどうよ、みたいな」
だが同時に、堅実なサラリーマン生活をかなぐり捨てて、自営業の世界に完全に両足を突っ込む、というのにも、実はまだためらいがあった。
志穂などは、向こう見ずな兄があっけなく会社勤めを放り投げて助けてくれた、と思っているようだが、俺だって多少の計算はする。
福利厚生、安定した給料、そういった要素が、「休職」という命綱でしっかりこの身に繋がっているのを確認したうえで、俺は「てしをや」の厨房に足を踏み入れたにすぎないのだから。
休職期間の延長は、できない。
もうそろそろ、パソコンとにらめっこする日々に戻るのか、それともこのまま定食屋を続ける──つまり退職するのかを、決めなければならない頃合いだった。
「どうしたもんかなあ……」
うすうす、俺の中で答えは出ている気もする。
だが、それを宣言するには、今ひとつ思いきれないというか、誰かに背中を押してもらいたいというか、いや、それとも、もっと自分の中で考えつくしたいというか。
なんとも煮え切らない想いを持て余し、それを志穂にぶつけるわけにもいかず──だってあいつの困り顔は、俺の意思決定に及ぼす影響が大きすぎる──、ついつい、親しい先輩の家に転がり込むような感覚で神社に来てしまったと、まあそういうわけであった。
──難儀よなあ。自らで自らの行く末を決めてよいという、奇跡のような自由を前に、かえって苦悩するなどと。
「……うじうじと、すみませんねえ……」
しみじみとした口調に、労りというより、どことなく呆れのような感情を感じ取った俺は、ちょっと口を尖らせた。この神様のモットーが「縋るのではなく願え」というものだということを知っているだけに、言外に叱られているような気分だ。単なる被害妄想かもしれないが。
「俺だってね、別に神様に決めてもらおうとか、そんなことは思っちゃいませんよ。ただ、ちょっと、考えを整理したいっていうか、聞いてもらいたいっていうか……いやまあ、それも甘えと言われればそれまでなんですけど、とにかく──」
──あいわかった。
「……はい?」
言い訳がましい主張を遮られ、思わず眉を寄せながら顔を上げる。
が、神様は、俺のそんな困惑など知らぬげに、どこか陽気に御堂の光を強めた。
──半ば結論は出ている物思いに、確信を持たせてほしいと。承知、承知。
「は……」
いや、その通りなのだが、そうまとめられると、どうも身も蓋もないというか、俺の意気地のなさが目立つというか。
だが、神様は「はいはい」と手を打ち鳴らしそうなくらいの勢いで、ちゃきちゃき話を進めていった。
──なあに、人の子の悩みなどたいていはそのようなものよ。よくある、よくある。
「え、あの……」
──さあて、代わりと言ってはなんだが、今回顕現させる魂はだな──
「いや、その流れ自体にもはや異存はないんですけど、ちょっとラフすぎっつか……進行早くねえ!?」
なんだか、終了間際の生放送番組の司会者みたいな粗っぽさだ。
──うん? そんなことはない、ない。私はいつでも人の子とその想いに、真摯に向き合っているとも。で、魂なのだがな──
「いや、あからさまにおざなりでしょ!?」
どこかで聞いたことがあるが、「わかる、わかる」とか「好き、好き」とか、人が同じ言葉を二度繰り返すのは、たいてい嘘をついているときであるそうだ。
俺が噛みつくと、神様はじれったそうに告げた。
──暑いし、盆も近い
「なにそれ!?」
神様に
「ちょ、ちょっと……!」
見る間に輪郭をくっきりとさせたそれは、どうも女性の魂らしい。
ゆったりとしたチュニックに黒のパンツ、白髪を隠すように明るい茶色で染めた、軽いパーマのかかったショートヘア。おっとりとした目元には皺が寄っているが、表情は全体的に若々しい。おばあさんの域に差し掛かったおばちゃん、といったくらいか。
彼女は、俺の姿を認めると、とたんに人の好さそうな眉を下げ、ついでにぺこぺこと頭をも下げた。
『ああ、どうもどうも、このたびは本当にお世話をかけまして……。私みたいなおばあさんの未練なんて、それはもう全然、たいしたことないんですけど、でもせっかく体を貸してもらえると聞いたので、お言葉に甘えてしまいまして……』
演技という感じでもない。なんというのか、かつて俺の母親がご近所さんに向けていたような、社交性と愛想をただマックスに出力したような姿だ。それにしたってこんなに腰の低い魂、初めて出会った。
「あ、いえ、そ……そんな、かしこまっていただくほどのことでは……」
先ほどまでの神様への文句も忘れ、ついそんなことを言ってしまう。すると相手は、ますます申し訳ないというようにお辞儀の角度を深めた。
『そんなふうに言ってもらえると、こちらとしても、ええ、本当にほっとするというか、助かるんですけども。でもねえ、やっぱり、若い人の貴重な時間を奪うのが申し訳なくって。あなた、大学生? 夏休み? あ、いえ、社会人よね、定食屋のご主人ですものね。それでも、夏だし、きっとお出かけの予定なんかもあったでしょうに、ごめんなさいねえ……』
「いえ、そんな……。予定なんて皆無ですし」
この細やかな配慮。自分だって、成仏を拒むほどの未練を持っているくせに、若輩者の俺をしきりに気遣うこの様子はどうだろう。
たぶんこの人、大荷物を抱えながらも、自転車で懸命に蟻の行列を避けるような人なんだろうな、などと、なぜかそんな印象を抱いた俺だった。
『あら、付き合ってる人もいないの? 寂しい夏だったのねえ。かわいそうに……』
「…………」
いや、きっと、前輪で避けた蟻を後輪で踏み潰していくタイプだ。
思わずひくっと口の端を引きつらせてしまった俺をよそに、女性は低姿勢を崩さず、しかしながら滑らかに前傾姿勢へと移行した。
『本当に申し訳ないわねえ。ごめんなさいねえ。でも、せっかくのご厚意をお断りするのも失礼な話だし、やっぱり、ありがたく体を貸していただく、というのが筋よね』
「え、ちょ……」
ちょっと待ってくれ。総じて展開が早いぞ。雑だぞ。いや、最終的には受け入れざるを得ないというか、もはや慣れっこの展開だが、せめてあと二往復くらいお伺いの会話がほしかったぞ。
『ああ、申し訳ないなあ。でも感謝でいっぱい。じゃあ行きますよ、フュー……──』
「ちょ……っ!」
『──ジョン!』
言葉と同時に、シニアな女性の魂がこちらに向かってダッシュしてくる。
ふわん、という、こちらもすっかり耳に馴染んだ音がした、その次の瞬間には、
(──ああ、無事に入れた、よかったわあ)
脳裏に、おっとりとした声が響きはじめていた。
「…………いや、だからですね?」
今、俺は声を大にして言いたい。
(大切な体を貸してくれて、どうも──ん? あなた、ちょっぴり汗臭いわね?)
「…………っ」
神様を助けるのも、個性豊かな魂に、時々ディスられながら体を貸すのも、もう嫌とは言わない。言わないさ。
言わないが──
「だから、一回くらい、俺の意思を尊重する展開はないのかあああああ!」
俺は、がしがしと汗を拭いながら絶叫した。
が、
(まあ、まあ、落ち込まないで。若いって証拠よ!)
──む? 毎回尊重しているではないか。欲張りめ。
結果は、双方向から、それぞれ望んだのとは違う答えが返るだけに終わった。
***
このたび俺の体に下ろされた魂は、
芳子さんは、享年六十五歳。仕事の関係でほとんど家にいなかった旦那さんの代わりに、家事と育児を一手に引き受け、三人の子どもを育て上げてきたという、いわゆる、「ザ・専業主婦」のような人であった。
ちなみに旦那さんは同い年で、五年前に仕事を退職した後、同じ企業のシニア雇用で働いていたが、それも先月で終了。さて、いよいよ世で言われる「定年後の夫婦生活」が始まると思っていた矢先に、芳子さんが
(年齢的にねえ、そろそろ気を付けなきゃとは思ってたんだけど、まさか自分がそうなるとは思わないじゃない? 気分はいつまでも、若いままだったのよねえ。突然死んでしまって、子どもたちにもずいぶん迷惑をかけたと思うの。申し訳ないことをしたわ……)
とは、芳子さんの言。
死してなお、そしてお子さんたちに対してまで、低姿勢な人だなあと思うのだが、
(私も子どもたちも、絶対主人のほうが先だと思ってたもの。正直、かなり予想外)
「…………」
ときどき後輪で、颯爽と旦那さんを
俺は乾いた笑みを貼り付けながら、芳子さんに尋ねた。
「ええと……じゃあ、料理を振舞いたい相手というのは、お子さんということでよろしいでしょうか……?」
慰労を兼ねたものだろうか、と思い問うと、彼女はちょっと微妙な反応を寄越した。
(子ども。……そうねえ、子ども。違うけど、まあ、子どもといえば、子どものような……)
「ええと……?」
首を傾げると、芳子さんは苦笑する。そして、いたずらっぽく告げた。
(主人よ。夫。……六十五にもなって、いまだに目玉焼きひとつ作れない、手のかかる旦那さん)
仕方ない、といった口調だが、声にはたしかに優しさが込められていて、俺はなぜだかほっと胸を撫で下ろした。
「そうですか。旦那さんのこと、愛されてたんですね」
(え……?)
なぜだか、芳子さんは怪訝そうな相槌を打つ。
え、って、と思い、なんとなく気恥ずかしくなりながら「いえだから、愛……」ともごもご繰り返すと、彼女は俺の目を細めて、生温かい、としか表現できないような笑みを浮かべた。
(……若いわねえ……)
「いえ……その……」
(ふふ。……私が上ふたりの子どもを寝かしつけながら陣痛に耐えてたとき、主人がいかに平然と働いていたか、とか、聞きたい? それとも、三人同時の反抗期がきたとき、主人がしれっと単身赴任してた話とか、興味ある?)
「……た、大変、申し訳ございませんでした……」
なんだろう。
俺には、昨年子持ちになった仲良しの先輩がいて、彼が奥さんと喧嘩したと嘆いていたとき「キスでもすれば機嫌なんて直るんじゃないんすか?」と首を傾げたら「馬鹿野郎、おまえは上司が不機嫌になったらキスすんのかよ!」と叱られたことがあったのだが、ふとそれを思い出したぞ。
穏やかながら、逆らえない気迫のようなものが滲み出ているのを察して、俺はひとまず謝罪による撤退を図った。
四十年以上連れ添った夫婦の心の機微というのは、どうも俺のような若輩者が理解するには難しすぎる。
いやだって、ジルさん夫婦という前例があったもんだから。旦那さんに料理を振舞いたいって言うから。
そんなことを内心でもごもご言い訳していると、芳子さんが小さく笑う気配がした。
(そうねえ。よく、熟年夫婦のことを愛じゃなくて情だ、なんて言うけれど。それが近いのかしら。義理っていうか……、「生き物は、責任持って最後まで」っていうか……)
「は……はあ」
なんだか、芳子さんの旦那さんが、「拾ってください」と書かれた段ボールに入れられた犬のような扱いになってきた。
まごつく俺に、彼女はゆっくりとした口調で言い切った。
(私、あの人に──引導を渡してやりたいのよ)
「い、引導」
(そう。「
「し、締め……?」
店が、熟年離婚だとか締め上げの現場になってしまったらどうしよう。
熱帯夜すら凍り付かせる、そんなうすら寒い懸念を抱いたそのとき、とうとう「てしをや」の暖簾が見えてきた。
***
鯛茶漬けを作るのだ、と言い出した芳子さんが、最初に取り掛かったのは、大量のごまを
平底のフライパンを取り出して、白ごまをどさどさと注ぎ込む。そして、軽くフライパンを揺すりながら、熱が均等に通るように火にかけた。ぱち、ぱち、と粒が陽気な音を立ててしばらくしたら、すり鉢に移し、思いのほか力強い仕草でごりごりとすり潰していく。
(いつもは、すりごまなんて既製品を使っちゃうんだけどね。今日はちょっと、サービス)
芳子さんはそんなことを言って笑った。
それから、鯛のさくを取り出して、小さめのひと口サイズに切り分けていくと、粗熱を取った先ほどのごまをたっぷりとかけ──かけるというか、ごまの中に鯛をうずめるくらいの大量さだ──、さらにととと……と醤油を注いだ。それを、醤油の味がまんべんなく行き渡るように混ぜたら、準備は完了。あとは冷蔵庫で味をなじませて、白飯に乗せて茶を注げば、お茶漬けになるらしい。
「お茶漬けって、こんな簡単にできるんですね……」
恥ずかしながら、俺はお茶漬けなんて、それこそ既製品のふりかけを使ったものしか食べたことがない。
難しそうと思っていたわけではないが、単純に作り方を想像したことがなかったために、ついそんな呟きが漏れたのだったが、芳子さんはちょっとばつが悪そうに肩を竦めた。
(
味をなじませている間、ねぎや海苔を刻む以外には、特にすることもない。
時間を持て余した芳子さんと俺は、流れで昔話に興じた。
旦那さん──青木さんは、仕事の関係で頻繁に飲んできていたこと。最初のうちは食事を整えて待っていた芳子さんも、やがて一品、もう一品と品数を減らしていき、気付けば、平日に夫の食事を作るのはやめたこと。というより、子育て中は、自分の食事すらろくろく口にできていなかったこと。
(子どもっていうのが三人とも男の子で……家に三匹、怪獣を飼っているようなものでしょう? 学校に行ってくれている間も、なんだかんだで立て込んでるし、帰ってきてからなんて、ほぼ毎日なにか事件が起こって。寝かしつけた後、片付けて、洗濯して、明日のお弁当の準備をして……気付けばそれでいつも、十二時近く)
それくらいの時間になっても青木さんが帰ってこないとなると、「あ、今日も飲み会だな」と察する。そこで、慌てて鯛のさくを切ってごまと
そうして、一時近くになって就寝して、五時過ぎにはまた起き出して……その繰り返し。
「なんていうか……ハードですね」
(そうかなあ? そうかもねえ。まあでも、子どもを育てるって、そういうことだと思ってたから)
なにげなく告げられた言葉に、思わず目を見開く。
芳子さんの口振りには、気負ったところなどかけらもなかったが、代わりに、いくつもの困難をくぐり抜けた人だけが持つ、淡々とした凄みのようなものがあった。
人の命を預かる医師だとか、何百年の伝統を守る職人だとか、そういった人たちとはまた異なる、けれどそのくらい重大で、尊い仕事をこなしてきた──そんな静かな誇りに裏打ちされたような声だった。
「そうですか……」
時江さんに、梅乃さん。厳さん、そして芳子さん。我が子に料理を食べさせ、育ててきた魂に、俺はこれまで多くかかわってきた。彼らの掲げる方針は様々であったが、共通して感じるのは、人に飯を食わせるというさりげない行為が持つ、ずしりとした重みだ。
なんとなく圧倒されて、曖昧な相槌しか返せないでいると、芳子さんは空気を変えるようにぱっと顔を上げた。
(そうだ。哲史くん。悪いんだけど、なにかメモ帳みたいなもの、ないかしら)
「メモ帳、ですか?」
(ええ。チラシの裏紙でもなんでもいいんだけれど)
ノートではないが、電話を受けるときのメモ用に、A7サイズの付箋紙を用意してある。
用途もわからぬまま、これでいいですかと掲げてみせると、
(あらあ、そんな立派なものでなくてもよかったんだけど……ありがとうね)
芳子さんはしきりと恐縮しながら、それを受け取った。まあ、傍目には、右手から左手に持ち替えただけだが。
なにをするのか、と見守る俺の体を使って、彼女は調理台に付箋紙を広げ、そこにさらさらと迷いなく書き込みをしていった。
滑らかな筆跡で書かれた文字は、「鯛茶漬けの作り方」。
「これは……?」
(お礼になるかわからないけれど、私の知ってるレシピで、簡単そうなものを伝えようと思って。神様によれば、哲史くん、料理が苦手というか、特訓中なんでしょう?)
「えっ、俺にですか!?」
てっきり旦那さんやお子さんにメッセージでもしたためるのかと思いきや、俺にレシピをプレゼントしてくれるらしい。
こんなもので悪いけど、と眉を下げる芳子さんに、「いや、嬉しいです!」とぶんぶん手を振ると、彼女は照れたように笑って、いくつもレシピを書きだしてくれた。
そうして、冷蔵庫に貼られた付箋紙が、十枚を超えた頃──
「……どうも」
カラ、と引き戸が開いて、彼女の待ち人がやってきた。
***
店内に足を踏み入れた青木さんは、店の
夏の夜だというのに、かっちりとした長袖のシャツにスラックス。袖なしのベストまで着用し、小脇にはなぜかブリーフケースまで抱えている。よくおじいさんが散歩のときに着けるような帽子がなければ、これからご出勤ですか、と問いたくなるような出で立ちだ。
俺の中の芳子さんが、げんなり、といった感じで、
(あなた……。地域の飲み会にまで、その一張羅で行ったの……)
と呟く。
なんでも今日は、芳子さんたちの属する自治会での定期集会と、親睦会があったらしい。
白髪まじりの髪や、鋭い目のあたりから、えもいわれぬ頑固オーラを醸している青木さんは、つまらなそうな顔で、再び「ん」と言うように俺を見た。どうやら、席に案内せよということのようだ。
「あ、いらっしゃいませ! どうぞ、カウンターのお好きな席にお座りください」
慌てて声を掛けて席に誘導し、腰を下ろした青木さんに冷えたお絞りと水を渡す。
その間、ただ「ん」と視線を向けるか頷くばかりで、「どうも」の一言すらない夫を見て、芳子さんがさめざめと嘆いた。
(ごめんなさい。ごめんなさいねえ。うちの人、本当に横柄で……。不愛想だし、礼のひとつも言わないけどね、その……、根が失礼なだけなのよ)
フォローしているような口ぶりで、むしろ
別に「てしをや」のお客さんでも、こういった態度の人は多い。一定の年齢がいった男性客など、なおさらだ。
俺は、芳子さんにだけわかるように「いえいえ」と小さく首を振ると、努めてにこやかに青木さんに話しかけた。
「いらっしゃいませ。夜になっても暑いですね」
「ん」
「あ、店の看板、点いてなかったかもしれませんけど、営業中ですんで、気にしないでくださいね」
「…………」
「はは。お客さんもほかにいないので、ちょっと気になるかもしれませんが……」
「…………」
青木さんは、特に視線を合わせるでもなく、カウンターの木目を眺めている。
ぼそっと、
「……暇な店のようだな」
と呟くのが聞こえ、俺は表情を笑顔のまま固まらせた。
(ごめんなさい。ごめんなさいねえ……! 事実を、そのまま言っちゃう人なのよ……!)
芳子さん。気持ちは嬉しいけど、さりげなくあなたの言葉が俺の心を後輪で轢きにかかっています。
暇なんじゃなくて、本来閉店のところを、特別に開けているだけですから!
だが、そんな想いはおくびにも出さない。接客業は笑顔が命。俺もそろそろこの手の客のあしらいは慣れたものだ。
俺はにこっと笑みを浮かべて、再び青木さんに話しかけた。
「実は、閉店時間が迫ってまして。お客さんが少ないのは、だからですかね。そう、そのせいで、お出しできるメニューも少々限られておりまして……」
「……ふん。暇なうえに、メニューの選択肢もないのか……」
「…………」
ぶぶ漬け、いかがどす?
京都弁で茶漬けを勧めると、「はよ帰れや」の意味になるらしい。
別に、今ふと思い出しただけで、他意はないが。
(ごめんなさい……! ごめんなさい!)
芳子さんは、俺の体で平身低頭の姿勢を取りそうな様子である。それをぐっと堪え、俺は「ははは」と若干やけくそ気味に言葉を続けた。
「申し訳ないですー。今日ご用意できるのは、鯛茶漬けくらいなんですけどもー」
これで嫌がられたとしても、もう無理やり話を進めて出してしまおう。だってこれは、芳子さんいわく、料理ではなく引導なのだから。
そんなことを考えていた俺だったが──
「──……」
青木さんは、大きく目を見開いた。
「……鯛茶漬け?」
それはまるで、喉がからからに渇いているところに、思わぬ人から水を差し出されたときのような。強い日差しに俯いているところに、ふと影を落とされたような。
驚きと安堵とが入り混じった、不思議な表情だった。
「あ……はい。それでも、いいですか?」
ちょっとびっくりしながら確認すると、青木さんは我に返ったように視線を逸らし、小さく頷いた。
「──……ああ」
なんだか、ふてくされた子どものような顔だった。
***
急須に多めの茶葉を入れて、熱湯を注ぐ。
芳子さんいわく、茶として楽しむならば、もう少しぬるいお湯のほうがいいのだが、鯛に熱を通せるくらいでなくてはいけないため、この温度でいいらしい。お茶の苦みが立って、それがまたいいのだと彼女は笑った。
茶葉を蒸らしている間に、ほかほかの白飯を茶碗によそい、その上に、たっぷりの鯛のごましょうゆ漬けを並べていく。小皿に刻みねぎと海苔と漬物、そしてわさびを添えて、急須と一緒に差し出せば、あっという間に鯛茶漬けセットの完成である。
「お待たせしました」
さして待たせてもいないのだが、定型句を唱えてそっと膳を差し出すと、青木さんは、しばらくの間まじまじと茶碗を見つめた。
そうして、無言で急須を取り上げると、中身をそっと茶碗に回しかけた。
こぽぽ……、という静かな音とともに、見る間に鯛の切り身の縁が白くなっていく。
香ばしいごまの香りと、緑茶特有のほのかに甘い香りが、湯気となってふわんと立ち上った。
と、茶碗にたっぷり注いでなお、緑茶が余ってしまったらしい。青木さんが急須を掲げたまま、ちらりと視線をさまよわせる。
するとまさに
「…………」
その挙動に、青木さんが驚いたように目を見張る。
彼は黙って湯呑みを受け取り、そこに緑茶を注ごうとしたが、しばしの逡巡の後、急須を下ろして話しかけてきた。
「──……君も」
「はい?」
声が小さくて、聞き取れない。
思わずカウンターに身を乗り出すと、青木さんはちょっとばつが悪そうに口元を歪め、それから、さらに小さな声で告げた。
「……君も、一緒に……食わないか」
まさかのお誘いだ。
ぽかんとしていると、相手は言い訳するような早口で続けた。
「茶が、もったいないし。見れば、鯛もまだあるようだ。店じまいが近いんだろう? なら腹が減ってるかと思ったんだが……まあだが、別に、どうしてもというわけじゃない。ただ、ひとり食っているところをまじまじ見られるのもなんだと──」
(……ごめんなさいねえ、素直じゃなくて)
脳裏では、芳子さんが苦笑している。
彼女は、戸惑う俺に、そっと声を掛けてきた。
(こんなおじいさんとじゃ、いやかもしれないけど……哲史くん、一緒にお茶漬け、食べてくれる?)
もとより、鯛茶漬けの味が気になっていた俺としては、願ってもない話だ。
まだ「いや、別に、私だって普段はこんななれなれしい真似はしないが、あまりに暇そうだし」とかなんとか呟いている青木さんを遮り、俺は力強く頷いた。
「──はい」
「ほかに客もいないのならまあ、と、そう思って──……え?」
「はい。お言葉に甘えて、一緒にいただきます」
笑いかけると、青木さんは自分で言い出したくせに驚いたような顔をして、それからふいと顔を背けた。
「そうか。好きにしなさい」
「はい。ありがとうございます」
ちょっとだけ、噴き出しそうになる。
偏屈で横柄だと思っていた青木さんに、なにやら親しみを覚えはじめながら、俺は急須を受け取った。
先ほどと同じ手順で茶碗に白飯と鯛をよそい、緑茶を回しかける。
その上に、ねぎと海苔を散らし、茶碗の縁にちょこんとわさびを擦り付けて──
「いただきます」
俺と青木さんは、同時に箸を取った。
真っ先に掬うのは、もちろん一番大きな鯛の切り身。
醤油の色を吸ったごまが、どっしりと鯛にまとわりつくその量といったら、箸に重みを感じるほどだ。
熱々の緑茶に触れて、わずかに先端を白く反らせたそれを、薬味や白飯とともに口に運ぶ。
「……おお……」
とたんに、思わず感嘆の声がこぼれた。
口にふわりと広がる、うまみ、うまみ。
ごまの香ばしい味わいに、醤油のコク、なにより鯛の、丸みのある甘さが合わさって、重厚さすら感じる風味が、口いっぱいに満ちていく。そこに、ねぎのつんとした辛みや、わさびの清々しい刺激が加わって、豊かだ。
生臭さなどかけらもなく、飲み下せば緑茶の渋みと、ほんのりとした甘みだけがわずかに残る。繊細で、軽やかで、まさにさらさらと、腹に流し込めるようだった。
しみじみ、うまい。
ごまと醤油の味付けだけで、こんなに味が出るなんて、と感心しながらぺろりと茶碗を空にしてしまった俺だが、ふとカウンターに座す青木さんを見て、あれっと思った。
「…………」
彼は、箸を持ったまま、ぼんやりと虚空を見つめていた。
「あ……あの……?」
怒っている、という感じではない。感動に打ち震えているわけでも、もちろんない。
ただただ、静かにどこかを眺めていた青木さんは、やがて、ぽつんと呟いた。
「──ああ……」
疲れたなあ、と。
そうして、唐突に、──本当に突然に、ぽろりと、涙を流した。
「あ、あの……!?」
俺は思わずぎょっとした。
いや、これまでの流れで、思い出の味に再会した人々が泣き出すことにも十分慣れていたはずだったが、いかにも偏屈そうな──失礼──青木さんが、まさかこんなふうに素直な涙を見せるとは思わなかったのだ。
青木さんは、ぐっと口を引き結んで嗚咽をかみ殺すと、静かに涙だけをこぼし、やがて感傷を追い払うようにお絞りで拭った。
「……すまない」
掠れた声で、詫びられる。
俺は「いえ」とおろおろして返しつつ、なんと声を掛けようかと、素早く思考を巡らせた。
もし彼が鯛茶漬けに芳子さんのことを思い出して涙したというのだったら、それは彼女のレシピによるものなのだと告げて、励ましてあげたい。
だが、青木さんの突然の涙の正体がいまいち掴めなかったこと、また芳子さんの引導発言の真意が理解できていなかったこともあり、俺は、いつメッセンジャー役として名乗りを上げるべきか悩んだ。
「……お疲れ、なんですね」
ひとまず、先ほどの呟きを拾ってそう声を掛けると、青木さんは自嘲するように、
「……いいや。今はもう、疲れるようなこともない、暇な生活だ」
と答えた。なんだか、矛盾している。
困惑した俺が眉を寄せると、青木さんは茶碗に視線を落とし、しばし黙り込んだ。
そうして、
「──……私は、先月、退職したばかりでな」
ぽつん、と、見えない手にそっと背中を押されたように、話しはじめた。
青木さんが入社したのは、今から四十年以上も前。勉学に励み、一流の大学を出て、第一志望の大手銀行に就職した。そしてそこで、自らの人生の一番長い時間を捧げることになった。
働くのは楽しかった。
高度経済成長期こそ終わってしまったものの、乱世のような合従連衡をスリリングに駆け抜け、取引先と丁々発止で渡り合い。働けば働くほど業績は伸びる。土日返上、連日午前様、みたいな時期が長く続いたが、それでもなお、毎日が刺激と充実感に満ちていた。
私生活でも、同期入社の芳子さんと結婚し、三人の子どもにも恵まれる。忙しさのあまり、家ではさっと茶漬けを啜るのみ。家庭のことはほとんど妻任せだったものの、そのぶん誰より働いて、かつて自分に与えられていたよりも数段恵まれた環境を、家族に提供できたと自負している。定年後も、シニア雇用で会社に留まり、忙しく張りのある時間を過ごす日々。人生は、誇りと豊かさに満ちていた。
が──
「そのセカンドキャリアの最終出社の日、……家内が、死んでな」
あまりに突然の出来事だった。悲しむというよりは、とにかく呆然とした。順番も、時期も、なにもかもが予想外だった。
目まぐるしく終えた葬儀に、唐突に始まった、ひとりきりの定年後生活。
がらりと音を立てたような、あまりに大きな人生の変化に、心がついていかなかった。
「……わからなかったんだ。なにもかもが」
ゴミ出しの曜日は? わからない。印鑑の場所は? わからない。
米の炊き方は。味噌汁の作り方は。目玉焼きの作り方は。すべてわからない。
息子たちと交わすべき会話は? それも、──わからない。
これまで、人生のすべてを掌握しているはずだった。自分はそこらへんの、よぼよぼと散歩ばかりしている老人とは違う。会社で一番有能で、人から頼られるのが当たり前で、だから一度定年を迎えても、会社が手放してくれなかった。
なのに、今。世の中の流れに取り残され、その目まぐるしさに怯える老人そのものの姿で、自分はたったひとり、佇んでいる。
「今日は……自治会の集まりがあって。家内が資料をまとめていたファイルだけ、なんとか見つけ出して、参加したんだが……これがまた、場違いで」
地域の友人など、いなかった。遠慮がちに話しかけてくる人々の名前がなにで、どこに住んでいるかなど、皆目見当が付かなかった。
見れば、服装も浮いている。どうもかっちりとしすぎたらしい。灼けるような羞恥を押し隠し、なんとか不慣れな笑みを貼り付けて、会話に加わる。しかし、彼らが持ち出す話題のことごとくが、自分の今までの人生にかすりもしなかったようなものばかり。興味が持てず、鼻白んだ表情を浮かべてしまったところを、相手にも敏感に察せられて、気付けば距離を取られてしまっていた。
その後開かれた親睦会では、安い酒をひたすら舐めつつ時計を睨み、一時間ほどもすると、「用事を思い出した」と告げて席を立った。そのまま帰宅して、近所の住民に見つかるわけにもいかず、ふらふらと夜の街を歩き、気付けば「てしをや」の暖簾をくぐっていた──
「……頭で、わかってはいるんだ。これが、これからの私の過ごすべき場所で、人生なんだと。だが……あまりに、唐突で。どう、踏ん切りを付けたものか……わからない」
青木さんは、情けなそうに口元を歪めると、再び茶碗を見つめた。
「家内が……」
と、弱々しく呟き、それを恥じるように軽く咳払いをした。
「家内が、よく、これとそっくりの、鯛茶漬けを作ってくれてね」
声はそれでも、掠れていた。
ぐっと寄せた眉は、涙を堪えるかのようだった。
「残業の後。徹夜の後。大掛かりなプロジェクトの、打ち上げの後。体はぼろぼろで、とにかく寝たくて、でもどこか気が立っていて……そんなときに、それを食うと、『ああ、終わったんだ。疲れたなあ』と……すとんと、眠れるような、気がしたものだった」
青木さんはぐっと唇を噛んで、さりげなく、震える息を逃した。
「家内も、その時間にはたいてい疲れ切っていて……。私は茶漬けを啜って、あいつはあいつで、食いはぐれた夕飯代わりに、握り飯なんかを黙々と食って。大した会話もせずに……それでも、お疲れさまと……そう言われているように思えた」
だが、と、彼は俯いた。
「だが、今はもう……家に帰っても、誰も、いなくて。顔を見せに来てくれる息子たちとも、なにを話していいのか、さっぱりわからない。毎日が、違和感だらけで、唐突で……。飯も……まずくて、自分では作り方なんてわからなくて……なにを食いたいかすらも、よくわからない。ああ、違う。違うんだ、私は──」
夜の店内に、一回だけ。
押し殺した嗚咽が響いた。
「私は……家内の……芳子の作った鯛茶漬けを、……食いたかった……っ」
そうして、本音を隠し込むように、箸を持ったまま拳を握り、口元に押し当てた。
静かに肩を震わせる青木さんを見下ろしながら、芳子さんがそっと溜息をつく。
(……これだから、男の人っていうのは)
呆れたような、愛しむような、ひどく優しい声だった。
(もうおしまいよ、って言ってあげないと、いつまでも、いつまでも、やめられないのよね)
引導。
その言葉を思い出す。
なるほど、芳子さんは旦那さんに、たしかに引導を渡そうとしていたのだ。
長い長い会社人生。その「〆」にふさわしい鯛茶漬けを用意して、彼がこれまでの生活に別れを告げるのを、手伝ってあげようと。
(ねえ、哲史くん。この人に、こう言ってくれる?)
脳裏で芳子さんの声が響く。俺はその後に続いた言葉を整理しながら、まずはそっと青木さんに話しかけた。
「あの……青木、さん」
「──……?」
知らないはずの名前で呼ばれ、怪訝そうに顔を上げる。もう、この流れも慣れたものだ。俺がよどみなく、芳子さんが「てしをや」の常連で、よく青木さんのことを話していたという架空の設定を伝えると、彼は大きく目を見開き、それからどこか
「……そうか」
「はい。それで、いつだったか言ってたんです。私の夫は──青木さんは、きっと退職しても、すぐにはそれを受け入れられないだろう。だから、退職するその日には、私がとびきりおいしい鯛茶漬けを作って、会社人としてのあなたの日々は、もうおしまいなんだよ、って、きちっとわからせてあげようと思っている、と」
「…………」
「それで、お疲れさまでしたって、伝えるんだと」
「…………」
青木さんはふいに目を潤ませると、それを隠すように再び下を向いた。
俯く夫に、芳子さんはゆっくりと話しかけ続ける。声は、どこまでも優しかった。
(いろんなことが、あったわねえ。子どもたちが生まれて、育って、毎日いろいろやらかして……。私がしんどいときも、あなたは働いてばかりで、ずいぶん恨んだこともあったけど……あなたは、あなた自身がしんどいときも、弱音ひとつ吐かずに、ずうっと私たちのために働いてくれてたわね)
体を壊したときも、業務でいわれのない責任をなすりつけられそうになったときも、腐らずに、ただ真剣に働きつづけた。
(大丈夫。あの子たちもね、ちゃあんと、あなたの背中を見せて育てました。ううん、あなたが育てさせてくれたのね。あなたがしっかり働いてくれたから、私はしっかり、あの子たちを育てられたの)
お疲れさまでした。本当に、お疲れさまだったね。
──あの日に言ってあげられなくて、ごめんね。
最後の一言だけは、胸の内に秘めて、代わりに俺は「そう伝えるつもりなんだと言っていました」と締めくくった。
「…………っ」
箸を下ろした青木さんが、とうとう顔を右手で覆う。
俺が、「今日こうして、偶然鯛茶漬けを振舞うことになったのも、芳子さんが引き起こした奇跡なのかもしれませんね」と付け加えると、しかし彼は、絞り出すような声で、こう言った。
「──……できすぎだ」
どきり、とする。
まさか、これが単なる偶然ではないと、勘付かれてしまったのだろうか。
「え、あの──」
「私にはできすぎた、妻だ」
だが、違ったらしい。
青木さんは、くしゃくしゃに歪めた顔を上げると、芳子、と名前を呟いた。
そうして、ずっしりと鯛の漬けを乗せた茶碗を、宝物のようにそっと両手で包み込んだ。
「……なぜだろう……」
皺が目立ちはじめたその両手は、小刻みに震えていた。
「あいつは、いつも、いつも、私のことをねぎらってくれていたのに……なぜ、私は……それができなかったんだろうなあ……」
ぽた、と、力なく涙が頬を伝う。
もはや青木さんはそれを隠そうともせずに、ただ、茶碗を握る手に力を込めた。
「あいつは、……あいつだって、家庭という場所で、ずっと必死に働いてきていたというのに……なぜ、私は……っ、子どもたちが自立したとき……あいつが『定年』を迎えたとき……っ、『お疲れさま』の一言すら、言ってやれなかったの、か……っ」
最近になってようやく知ったのだ、と、彼は震える声で続けた。
料理を毎日、三食整えるというのが、どれだけの労力を必要とするものか。
家を清潔に保つことが、どれだけ煩雑な仕事のうえに成り立っているものか。
三十近くも年下の人間と言葉を交わし、その動向に目を配り、叱り、褒め、笑顔を引き出すことが、どんなに難しいことであるものか。
「息子たちは……、話こそ弾まないが、私に敬意を持って、接してくれる。それが、伝わるんだ。芳子が……家内が、そうしてくれたんだと、わかるんだ」
自分がほとんど育児にかかわってこれなかった息子たち。
幼い子どもだとばかり思っていたのに、いつの間にか背丈は自分を超え、礼儀も身に着けた、いっぱしの大人になっていた。
青木さんは、ぐっと肩をいからせ、そこに顔をうずめるようにしながら、泣いた。
涙はとめどなく溢れ、そのうちのいくつかが、ぱた、ぱた、と、黒木のカウンターを叩いた。
「息子たちは……私が一人暮らしになって初めて焼いた、ひどい目玉焼きに対してさえ、『ごちそうさま』と、手を合わせてくるんだ。……私じゃない。芳子が教えた。あいつが、そう育ててくれた。私だけが、言えてなかったんだ。ごちそうさま。お疲れさま。そういった言葉を……私が……私こそが、あいつに……言わなくちゃならなかったのに……っ」
まるで
芳子さんは、ちょっと驚いたようにまじまじと青木さんを見つめ、それから小さく、首を振った。
(……これだから、もう)
苦笑、というには、優しすぎる笑みだった。
(たまにこういうことを言ってくるから、甘やかしちゃうのよね)
彼女は意識を切り替えるように軽く息を吐くと、俺に向かって声を掛けた。
ねえ、こう言ってあげてくれる、と。
「──……青木さん」
俺はその言葉を拾い、ぽたぽたと涙を流す青木さんにそっと話しかけた。
「『ごちそうさま』の反対って、なんだと思いますか」
「…………?」
目を真っ赤に充血させた青木さんが、怪訝そうに顔を上げる。
俺は、「芳子さんがよく言っていたんですけど」と補足しながら、ゆっくりと頷いてみせた。
「それは──『めしあがれ』、なんですって」
俺の脳裏で、芳子さんがそっと語りかけている。
その熱を、ひとかけらでも漏らさないようにと、俺は声に力を込めた。
「『ごちそうさま』っていうねぎらいの言葉を、本当は、作ってくれた相手に、言いたかったですよね。……でも、もし、言い逃してしまったら。言いたい相手を、失ってしまったら、今度は、自分が誰かに『めしあがれ』って言ってあげる。それでちょうどいいってことにするんだって……芳子さんが言っていました」
想いは巡る。
優しさを注いでくれた相手に、同じだけのものが返せなかったとしても、それなら今、目の前にいる人にそれを注いであげればいい。
らせんを描くようにして、くるり、くるりと想いを循環させるうちに、きっと自分のもとへと戻ってくる優しさも、あるはずだから。
俺はふと思いついて、冷蔵庫へと踵を返した。
アルミ製の扉には、時折イラストも交えた手書きのメモが、びっしりと貼られている。おいしいお米のとぎ方。味噌汁の作り方。魚の焼き方。目玉焼きの作り方。鯛茶漬けの作り方──
レシピというには簡単すぎるものも混ざったそれは、もちろん、芳子さんによるものだ。巡り合わせのよさに、なんとなく神様の存在を感じ取る。
やれやれ、今回もまた、どこまで掌の上にいるものやら。
苦笑しつつ、俺は付箋紙を剥がし、それを再び束に戻して、青木さんに差し出した。
「これ、よければどうぞ」
「これは……?」
「レシピです。前に俺が、料理が苦手だって言ったら、芳子さんがまとめてくれて」
そう告げると、青木さんは今度こそまん丸に目を見開く。
そこまでの常連だったのか、という驚きと、それを自分がもらっていいのか、という困惑が、ありありと伝わってくる表情だった。
「それは……ありがたいが、しかし──」
「いいんです。今は、俺よりも、青木さんのほうが必要だと思いますし。芳子さんも、きっとそれを望んでいると思うので」
俺は青木さんのためらいを遮り、彼の手にしっかりと付箋紙の束を握らせた。
「『ごちそうさま』と言えなかった回数のぶん、今度はぜひ、息子さんたちに『めしあがれ』と言ってあげてください。……きっと、すごくやりがいのあることだと、思うので」
青木さんは、まじまじと付箋紙を見つめた。
それから大切な宝物に触れるように束をめくり、鯛茶漬けの文字を見つけると、じわりと瞳を潤ませた。
「──……そうだな」
唇が、震える。
「……これでしばらく、息子たちとの話題にも、事欠かなそうだ」
しかしそこには、ほんのりと、笑みのようなものが浮かびはじめていた。
青木さんは、ずっと鼻を啜ると、付箋紙の束を胸ポケットにしまう。それから、改めて鯛茶漬けの茶碗に向き直った。
「これが手本だからな。よく味わわなくては」
そんなことを呟き、神妙な顔つきで、鯛茶漬けを口に運ぶ。
うまいなあ。ああ、うまいなあ。
時折そんな感想を漏らしながら、米粒ひとつ残さず流し込み、──最後には箸を置いて、そっと手を合わせた。
「……ごちそうさまでした」
目を閉じて、静かな声で。
まるで祈りのような、誓いのような、言葉だと思った。
お絞りで顔も拭い、すっかり冷静さを取り戻したらしい青木さんは、会計の準備をしながら、ちらちらと俺のほうを見てくる。
なんだろう、と思い視線を向けると、彼はばつが悪そうに口元を歪め、
「その……見苦しいところを、見せたな」
もごもごと詫びてきた。
むしろ、微笑ましい。俺は噴き出しそうになってしまいながら、「いえいえ」と答えた。
「奥さんへの愛が伝わってきて、嬉しかったですよ」
ちょっとからかう気持ちも出てきて、ついそんなことを口にしてしまう。
しかし青木さんは、ちょっと目を見開いた後、いかにもこちらを馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「ふん。愛だと?」
おっと。芳子さんに続き、またもや地雷を踏んでしまった。
いかんいかん、とフォローの言葉を入れようとした俺だったが、それよりも早く、青木さんが続ける。
「愛なんて、甘っちょろいもんじゃないさ。家内はな、……──」
そこで彼は、ふさわしい言葉を吟味するように口を引き結び、やがて「うまい言葉が見つからないが」と眉を下げると、そっと呟いた。
「……誰より大切な、家族だ」
「え……?」
「同志で、友人で、親で、教師で。……そういう、かけがえのない、女性だ」
俺の中で、芳子さんが静かに息を呑む。
彼女はしばし黙り込んだ後、やはりいつものおっとりとした口調で、やだ、とこぼした。
(やだわ、もう。……最後の最後に、そんなこと言うんだから)
そして俺の目に、じわりと温かな涙を滲ませた。
ああ、まったく。四十年以上連れ添った夫婦の心の機微というのは、どうも俺のような若輩者が理解するには難しすぎる。
そのとき俺の脳裏には、ふたりが無言で、深夜の食卓を囲む光景が浮かんでいた。
子どもたちの寝た後の、静かな夜。
ふたりともくたびれて、ただひっそりと、お茶漬けやおにぎりを口にしている。
会話はない。笑みもない。けれど、穏やかな沈黙の中に、そっと互いの背中を預け合うような、たしかな信頼だけが横たわっている。
ごちそうさま。お疲れさま。
それぞれの「仕事」をまっとうし、疲れ切ったふたりが、それでも充足感と静かな誇りを胸に、そっとねぎらいの想いを交わす。そんな優しい時間が、ふと見えた気がした。
(ありがとうね、哲史くん。本当にどうも、ありがとう)
母親、という存在を思わせる深みのある声で、俺の中の芳子さんが告げる。
いいえ、と、こっそり首を振ると、彼女が照れ臭そうに笑う気配がした。
そうして、会計を済ませた青木さんが、ちょっと恥ずかしそうに「ありがとう」と呟き、店を去っていったその瞬間。
芳子さんはまるで、青木さんを追いかけるようにして──消えていった。
「はー、やれやれ……」
無人となった店内で、俺はうーんと大きく伸びをする。
引導を渡す、だなんて不穏な発言があったから心配していたが、芳子さんの、そして青木さんの想いが無事に通い合ってよかった。
どれ、皿の片付けを、とカウンターに身を乗り出して、しかし俺は目を瞬かせた。
「あれま」
青木さんが掛けていた、ひとつ隣の椅子。そこに、中身のファイルを覗かせた、ブリーフケースが残っていたのだから。
自治会の資料とやらを収めたものだろう。なぜこんな大物を忘れるのか、と突っ込みたくもなるが、いやいや、財布を尻ポケットに入れるタイプの男性客だと、時に信じられないくらい大胆に、荷物を忘れていくことがあるのである。
まあ、今から走って追いかければ、間に合うだろう。
「レシピのほうに気を取られちゃったのかな……っと、おわ!」
ちゃんとカウンターに回り込めばよかったものを、横着して厨房から取り上げようとしたものだから、持ち手がつるりと手から滑って、ブリーフケースが床に落ちてしまった。
「うお!」
しかも、角度が悪かったらしく、開いたままだったクリアファイルから、どさどさと資料が滑り出てしまう。
俺は慌てて厨房を飛び出し、誰にともなく「すんません!」と謝りながら、あたふたと書類を拾い上げた。
が。
「──……」
ぎっしりと文字の詰まった資料から、ふと視界に飛び込んできた単語に驚いて、思わず掻き集める手を止めてしまった。
「これ……」
見知った神社の名前。かっこ書きで併記された「
表題にあたる部分には、こうあった。
「どういうことだよ……」
──