二皿目 茹でとうもろこし


「はあ、きれいだなあ」

 夜の部を終え、看板の灯りを落とした「てしをや」。

 最後の客を見送って、がらんと静かになった店内に、妹のうっとりとした声が響いた。

「見て、このふさふさのひげ。がっしりとした形。こんなの、なかなか手に入らないよね。超嬉しい」

 流し台に頬杖を突き、目をハートにする勢いでやつがでているのは、けっして髭が魅力的なイケメンでも、肉体美を誇るマッチョマンでもなく──とうもろこしの山である。

 志穂は、すりすりと緑の皮を撫でながら、

「はあ……玉城シェフ、なんて太っ腹なんだろ……」

 と、たいそう上機嫌に呟いた。

「……嬉しいのはわかるが、はしゃぎすぎだろ。ってか、このこと、あんまり敦志くんには自慢すんなよ」

「は? なんで敦志さん?」

 怪訝な顔で首を傾げる。俺は、深々と溜息をつきながら、「……なんでもねえよ」と、生ビール樽の補充を始めた。

 そう。この艶やかな濃緑が美しいとうもろこしは、先ほどまでカウンターでビールと惣菜を摘んでいた玉城シェフからの、差し入れなのである。

 なんでも、「ラ・ウオーヴァ」の定休日である今日、彼はテレビ番組の収録に出かけていたとかで、その企画に使われたとうもろこしを分けてもらってきたというのだ。

 その糖度はメロンにも匹敵するといわれ、生でも食べられるほどのスーパースイート種。皮の緑は濡れんばかりにしっとりとしていて、今朝収穫したばかりというその切り口は、スーパーで見かける黒ずんだものとは異なり、白く、みずみずしさを残している。

 収録時に試食して、「うまい!」と思ったシェフは、ついせきずいはんしゃでとうもろこしをおねだりし、大量にゲットしてきたのだが──

「冷静に考えて、ひとりで食べきれる量じゃないしね。かといって、テレビ局からもらったものを店で出すのはちょっと考えものだし、でも、やっぱりとうもろこしは、なるべく早く食べたほうがおいしいし。そうしたら、『てしをや』さんを思い出して」

 とは玉城シェフの言。

 なるほど、あまりにネームバリューのある店ともなると、マスメディアの息のかかった食材をやすやす使うわけにもいかないのだろう。

 その点「てしをや」は小ぢんまりとした個人経営。経営者の気分で味噌汁を豚汁に変更することもざらだし、八百屋でおまけしてもらった野菜を小鉢に仕立てて、お客さんにサービスすることもある、という具合に大らかなので、出所のたしかな食材の差し入れはウェルカムなのだった。

 使い先も考えずに食材を確保し、一方で素材のおいしさを最優先するあまり、そのほとんどを人に譲ってしまう玉城シェフというのは、いささか変わり者のようにも思うのだが、同じく料理馬鹿である妹には、とにかく素敵な人物として映るらしい。先ほどから、そうごうを崩してシェフ、シェフ、と褒め称えている。

 にこにこと愛らしく微笑んでいる様子に、俺は思わず二度目の溜息を漏らしてしまった。

「……おまえ、その満面の笑みの使用先を間違えてんだよ……」

 脳裏にあったのは、定休日を利用して足を運んだ「肉フェス」の光景。そして、物慣れなさとなさとを、必死に笑顔の下に隠そうとしている、健気な敦志くんの顔だった。

 なんと敦志くんは、先日俺が「あいつは食でつればいけるぞ!」と背中を押してやったところ、一歩踏み出すことを決めたらしく、見事、志穂をイベントに誘い出すことに成功したのである。

 全国の絶品肉料理がブース出展されるという「肉フェス」。敦志くんはその無料券を仕事の関係でもらったとかで、閉店間際の店内で、緊張で顔を強張らせながら志穂を誘ってくれたのだ。

 ついでに俺も一緒に行くことになってしまったという不慮の事故はあったが──だって店で誘ってくるものだから、成り行き上、俺も行かざるを得なかった──、志穂も快諾し、ここまではとんとん拍子に事態は進んでいた。

 ところが、いざ行ってみると、どのブースも一時間近くかかる行列ができていて、とても「多種多様な肉料理を食い倒れする」などということはできそうもない。

 それでも、待ち時間の会話でちょっとずつ二人の距離が縮まればいいと思い、

「あ、じゃあ俺はあっちのステーキが気になるからさ、二人で並んどいてよ」

 と、二人きりにしてやろうと企んだ俺だったのだが──

「え?」

 なんと志穂は、ぱっと顔を輝かせたかと思うと、無邪気に切り出したのである。

「じゃあ、私、メンチカツが気になるから、あっちのブースに行きたい! 敦志さんは、このまま肉巻きおにぎりでいいですか?」

 そのときの敦志くんの表情が、俺は忘れられない。

 おい志穂よ。いいですか、じゃねえよ。

 肉のハントは目的であって目的じゃねえんだよ、効率的に手分けしてどうすんだよ。

 それらの言葉が喉元まで出かかっていたが、力なく笑う敦志くんを前に、結局俺は突っ込むのを諦めた。下手に彼を援護射撃して、きょとんとでもされたら、目も当てられない。

 結局、俺たちは個別で列に並び、時折メッセージアプリでスタンプを送り合いつつ、それぞれ虚しくひとりでお目当ての肉料理を勝ち取るという、謎の展開を見たのである。

「ねえねえお兄ちゃん、これ、明日のお昼のお客さんにサービスしようよ。どうやって料理しようかなあ──」

 うきうきとした志穂の問いかけも耳に入らず、俺はたそがれ顔のまま、ビールサーバーと樽をチューブで繋いだ。

「いやもう、ほんとおまえのスルースキルの高さっつか、鈍感さには驚かされるよ」

「……お兄ちゃん?」

「これで接客業を五年以上続けてるってんだから、世の中わかんねえよな。ひとりの男の心すら理解できねえのに、ほんとに客のニーズを読み取れるんですかっつー話だよ」

「は……?」

 コルク状のスポンジを使ってチューブの中を洗浄した後は、新しい樽からビール液と泡をそれぞれ少しずつ通し、洗浄に使った水を追い出すのである。もはや手慣れた仕草で、俺はまずビール液を注ぐレバーを引き倒した。

「それにその、斜め上にずれた提案力ときたら! 三人で分かれて並ぼうってドヤ顔で言いだしたとき、俺がどれだけ肩身の狭い思いをしたかわかるか? わかんねえよな。おまえ、ずれてるもんな……」

「…………」

「はぁー、まいった、まいった。おまえももうちょっとさ、周りがなにを考えてるのか、求めてるのかってのを、考えてみたほうがいいよ」

 透明の容器でビール液を受け止めつつ、洗浄水がすべて追い出され、混じりけのないビールが出てきたのを確認したら、今度はレバーを反対側に倒す。すると、泡だけが出てくる仕組みなのだ。

 が、

 ──ばしっ。

 背中に鋭い痛みを覚え、俺は思わず「うお!」と悲鳴を上げた。同時に、レバーを倒しすぎてしまったがために、大量の泡が溢れ出てしまう。

「うお! わ! うおお!」

 慌ててレバーを戻し、容器からこぼれかけた泡を手で受け止める。なにごと、と思い振り向けた視線の先には、力なく床に落ちたエプロンがあった。

「──言ってくれるじゃん」

 向かいでは、据わった目をした志穂が、剛速球を投げ終えたあとの投手みたいな恰好をキープしたまま、こちらを睨みつけている。声にはドスがきいていた。

「……し、志穂?」

「さっきからねちねちと……。なんで善意でした提案をさあ、そこまでディスられなきゃなんないわけ? なんで料理屋としての素質まで否定されなきゃなんないのよ」

「ちょ、落ち着け……」

 前にも思ったが、ムッとするたびに、ものを投げつけてたんを切るその習性はどうなんだ。おまえは手袋を投げて決闘を申し込む騎士かなにかなのか。

 だが、いかれる妹は、俺の制止など聞き入れることなく、顔を紅潮させて続けた。

「鈍感? 相手の気持ちが読み取れない? 提案力がない? ざっけんじゃないわよ、こっちだって努力してんのよ!」

「……志穂さん?」

「一番長い列に並びつづけて話題がなくなって、初めての外出が気まずく終わったらどうすんのよ。揚げ物が好きって言ってたからメンチカツに並びなおそうって……ほんとに肉巻きおにぎりのままでいいんですかって言ったんじゃない。なんであっさり肉巻きおにぎりに並びつづけちゃうのよ」

 てっきり、料理に関する地雷を踏み抜いたのだと思ったら、どうやら違ったらしい。

「なんで『おいしかったですね』って送っても、返信に絵文字がないわけ!? せっかく『今度は肉巻きおにぎりにもトライしてみたいです(笑)』って送ったのに、──スタンプすら返ってこないのよおおお!」

 妹は、顔目当てのチャラい男にからかわれることには慣れていても、敦志くんみたいな男性にまじめな想いを寄せられることには免疫がない。追いかけられることは何度かあっても、自分から踏み込んでいくことはなかったわけで──どうやら、慣れない状況に、こいつなりに苦悩しているようだった。

「お、おい、いやおまえ──」

「鈍感!? なんか私、踏みにじってた!? 間違ってた!? 提案力……肉巻きおにぎりがいけなかった!? ストレートに揚げ物の話題を振ればよかったの!?

 いや、志穂よ。

 メンチカツかおにぎりかという話じゃなくてだな。たぶん敦志くんは、おまえの一連のメッセージ──どこまでも飯にしか興味がなさそうな感じ──に、希望の芽なしと踏んで、意気消沈したんだと思うぞ。「肉巻きおにぎりにもトライしたい」の前に、「敦志さんと一緒に」の八文字を添えるだけで、事態は劇的に変わったと思うぞ。

 だが、俺がそれらのフォローを入れるよりも先に、志穂はふっと遠い目をすると、黙々と床に落ちたエプロンを拾った。

 そうして、ぱん、ぱんと軽くほこりを払ってから、それを畳んだ。

「……帰る」

「は!?

 ぎょっとして聞き返すと、志穂は潤んだ目でぎっとこちらを振り返り、言い捨てる。

「私、提案力のない鈍感だから、もう帰る!」

「わけわかんねえよ!」

 すかさず突っ込むが、志穂は傷心のていだ。そのまま厨房を抜けようとし、だがとうもろこしの山に気付いてはっと息を呑み──思いきり悩ましい表情を浮かべた後、ぷいと顔を背けた。

「……このとうもろこしは、お兄ちゃんが調理してやってよ」

「……はい……?」

 思わず頬を引きつらせると、志穂はニヒルな笑みを刻んだ。

「私、スルースキルの高い、斜め上の人間だから。提案力の高いお兄ちゃんが、お客さんのニーズをばっちり掴んだ、とっておきの一品に仕立ててあげてよ」

「え、ちょ、待っ……」

「頼んだ」

 言うが早いか、すたすたと勝手口に向かう。

 だが、アルミ製のノブに手を掛けながら、「ただし」と、やつはおもむろに振り向いた。

「ネットで『とうもろこし レシピ おすすめ』とか検索しようものなら、──『提案力(ワラ)』って、指さして笑ってやるから」

「…………」

 俺は、「と」まで入力していた検索画面を閉じ、調理台にスマホを伏せた。

 それを見届けて、志穂はふっと笑う。

「他人に相談するのもなしだからね。──それじゃ、お疲れさまでしたー」

 ぱたん。

 夜の籠った熱気を取り入れながら、扉が閉まった。

「…………」

 残された俺は、こんもりと小山を形成しているとうもろこしを、まじまじと見つめる。

 調理。

 客のニーズをばっちり掴んだ、とっておきの一品に調理。

 ……俺が?

「……ば、馬鹿にすんなよ、志穂め。俺にかかりゃ、瞬殺だっつーの」

 ネット検索? するもんか。

 他人に相談? するもんか。

 そんなことしなくたって、ここ最近でめきめきと腕を上げている俺にかかれば──



「神様ー」

 がろん、がろん。

 わずか十分後、俺は神妙な表情で神社の鈴緒を鳴らしていた。

 賽銭箱のすぐ横には、缶ビールも置いてある。

 夜の境内には、蒸すような熱気以外には人の気配もない。それをいいことに、俺は、恥もがいぶんもなく神様に縋った。

「ピンチです。助けてください。妹が横暴すぎて、兄のけんが危ういんです。夏に嬉しい、ちょっとイカしたとうもろこしの食い方を教えてください。今すぐ! 簡単なやつを! 材料も少ないとなおよし!」

 どうせ恥をさらしているのは一緒なので、遠慮なく希望の条件もすべて叫んでみる。

 しばらくすると、ほうっと溜息をつくように静かに、御堂が柔らかな光を放った。


 ──おまえ、私をなんだと思っている。検索機能の充実したレシピアプリかなにかか?


「いやだって! 明確な願いがないと叶えようがないって、神様が言うから」


 ──空気を読め、たわけめ。条件ばかり上から目線で並びたてられて、いそいそ叶えてやろうと思い立つ神がいるものか。もっとこう、欲というか、自尊心をくすぐるようにだなあ、上目遣いのひとつ、揉み手かかしわのひとつもして願わぬか。


 この神様の中で、柏手は揉み手と同列の扱いなのだろうか。

 そんなことを思わないでもなかったが、俺はぱん、と手を合わせて「この通りです!」と叫び、それからばっと両腕を広げた。

「ささ、どうぞ!」


 ──む?


「引き換えに魂の未練を晴らすって流れでしょう? どうぞ、俺の体をご用立てあれ!」

 にこやかに宣言する。

 どうせいつもの展開になるならば、今回に限ってはこちらから申し出てしまえと思ったのだ。毎回神様に乗せられて「こんちくしょう!」と思いながら体を貸す展開ばかりだったので、意表をついてやりたいという思惑もある。

 まな板の鯉、というには堂々とした態度で魂の顕現を待っていると、神様はちょっと当惑したように押し黙った。


 ──……なにか、こう……。


「なんでしょう?」


 ──いや。つつがなく事態が進展してありがたいのとは裏腹に、得も言われぬ物足りなさを覚える。


 俺はにやりと笑った。

 だが、神様は早々に思考を切り替えたらしく、やがて俺の目の前に、すっかり見慣れた白い靄が凝りだした。

 細い手足に、小さな顔。シュシュで清楚に結んだポニーテールに、小柄な体。

 靄は徐々に輪郭を結び、やがて女の子の姿を取った。

 そう、女の子。

 若いどころではない。ぱっちりとした二重の瞳にあどけなさを残した──おそらくは、中学生になるか、ならないかくらいの女の子だ。

 以前だったら、「おや、珍しい」くらいの感想しか抱かなかったであろう魂の姿。

 しかし、龍也くんとの一件を経た俺は、彼女のように幼い魂が現れた哀しさを思って、思わず眉を寄せた。

 へらへらと神様を頼って神社に泣きつきに来た考えの浅さに、ひやりと冷水を浴びせられたかのようだった。

『お兄さんが、体を貸してくれるんですか?』

 しかも、少女はその細い手をそっと組み、心底申し訳ないというようにこちらを見上げてくる。

『お忙しいところ、すみません……。ありがとうございます……!』

 そんないたいけな感謝まで捧げられて、俺はとっさに首を振った。

「──……神様……」


 ──む? どうした?


「やっぱ……すみません。だめですよ……。俺……、自信ない……」

 こんな年齢で人生を絶たれてしまった彼女は、どんなにつらかったろう。どんなに悲しかったろう。

 彼女が大切な誰かに料理を振舞うことを望んでいるのだとして──俺なんかが、その痛切な想いを代弁できるだなんて、とうてい思えなかった。

 俺には荷が重すぎる。

 そう言って口を引き結んでいると、神様は、ほう、と相槌を打ち、淡々と少女に話しかけた。


 ──だ、そうだが。


『そんな……裏目に出るなんて。……ちっ』

 大きな瞳を見開いた少女は、困惑の呟きと舌打ちを漏らし……──舌打ち?

 ぜんとする俺の前で、さっとシュシュをほどき、がしがしと頭を掻いた。

『ちょっと、神様。ヒゴヨクと自尊心をくすぐるには、上目遣いか揉み手じゃなかったの?』


 ──やはり柏手が必須だったのではないか?


『柏手って、魔をはらうためにやるんでしょ? これから体を乗っ取る相手のこと、祓っちゃってどーすんのよ』

 先ほどまでの健気な口調が嘘だったかのように、ずけずけとものを言う。態度も随分大きくなったようだ。

 というか、「乗っ取る」って。

 言葉の不穏さとそんさに、俺はひくりと唇の端を引きつらせた。

「ちょ……君……君ね……」

『お兄さんさあ、デキない新入社員じゃあるまいし、「僕できません」なんて言って役目投げないでくれる? 体を貸す。それだけでいいの。あとは全部、私がうまくやるし』

 ぽんぽんと大人びた言葉を放つ様子は、どこか俺の妹にも通じる強気さがある。いや、あいつだってこのくらいの年の頃には、もう少し可愛げがあった。

「いや……せっかく人がさ……、よほどの未練なんだろう、大切な人に料理を振舞いたいんだろうって……それなら絶対失敗なんてできないって、気負って……」

 たじたじとなって言い返すと、彼女はふんと鼻を鳴らし、ごうがん不遜な笑みを浮かべた。

『お兄さんに、四方八方を丸く収める手腕なんて期待してないし。私の場合、手の込んだ料理を振舞いたいっていうより、嫌がらせに近いし。四の五の言わず、体を貸・し・て』

 あげく、語尾を強調される。

 それから彼女はこきっと首を鳴らすと、準備運動とばかりに手足を振りつつ、ふと思いついたようにこちらを睨みつけてくるではないか。

『ねえ、念のため聞くけど、お兄さん、ロリコンとかじゃないよね?』

「──は?」

『うら若き乙女がさあ、お兄さんの体とフュージョンしちゃうこのシチュエーション。それにコーフンするような変態じゃないですよね、って聞いてんの。万が一コーフンしたら、乗っ取ったその体、裸にいて、町内ぐるぐる走り回ってやるからね?』

「な……っ!」

 言うに事欠いて、なんてことを。

 絶句していると、少女は再びふふんと笑って、前傾姿勢を取った。

『それじゃあ、そういうことで──』

「ちょ、ちょっと待て、待て待て待て!」

 まだやるとは言っていない。ついでに言えば、ロリコン疑惑も撤回させてないぞ。

 だが、俺の意思も名誉もまったく考慮せずに、彼女はだっ! と効果音がしそうな勢いで、こちらに向かって走りはじめた。

『フュー……──』

「ちょ、待……っ!」

『──ジョン!!

 ふわん。

 勢いから予想される衝突の規模とは、まるで見合わない軽やかな音が響く。

 次の瞬間には、

(わ、視界が高い! ……でも、魂として浮いてるほうが物理的には高いか。うん)

 脳裏に、小生意気な女の子の声が聞こえだした。

「…………神様」

 きゃらきゃら笑いながら、俺の体を弄ぶように点検する少女から、主導権を奪って拳を握る。

 先ほどと同じようなセリフに、先ほどとは少々異なる感情を乗せて、俺は神様に訴えた。

「俺……っ、こいつとうまくやってく自信、ないんですけど……!」

 こんな生意気で無礼千万な魂、とうていぎょしきれる気がしない。

(えー? 失礼しちゃう!)


 ──案ずるな。私から見れば、こやつもおまえも同レベルだ。


 同時に上がった反論を無視し、俺はもうひとつ付け足した。

「あと俺、──ロリコンじゃねえからあああ!」

 むせ返るような緑の匂いと、じっとりと水気を含んだ夜の風。

 そこに、俺の渾身の叫びと、


 ──うむ。やはりこうでなくてはな。


 どこかまじめくさった口調の、神様の相槌が響いた。


***


 このたび俺に憑依した女の子の魂は、この春に進学したばかりの中学一年生。名前を、かまみのりと言った。

 本人いわく、「スカウトだってされたこともあるプリチーな容貌とよく回る頭脳、気配りもできる、クラスカーストの最上位者」であったらしいが、小学六年生の冬に血液のがん──いわゆる、白血病を発症。化学療法をほどこしたものの、合併症が元で、中学進学後わずか二週間で亡くなったとのことだ。

(まったくさあ、美人薄命とは言うけど、美女になりきらない、美少女の段階で芽を摘んじゃうことないじゃんねえ? どんだけ早くから美人認定されてたんだ、って思わない?)

 みのり──年下の子はたいていちゃん付けするのが俺の癖だったが、本人の希望で呼び捨てにさせてもらう──の口調は、独特な毒に満ちている。

 あっけらかんとした様子には救われるものがあるものの、自虐の色を帯びた内容にどう返してよいかわからず、俺は曖昧に頷くばかりだった。

 結果、年頃の女子ならではの残酷さというか、下手な大人よりもよほど容赦なく繰り出してくる波状撃に、俺の精神は、店に辿り着くだいぶ前からぼろぼろだ。

(どんだけ、と言えば哲くんさあ、定食屋で働いて半年以上になるのに、いまだに玉ねぎのみじん切りで泣いちゃうってほんと? 魚を三枚おろしにするつもりで、二・五枚おろしになっちゃうっていうのも?)

「……ほんとデスガ、いったいどういった経緯でそれを知ってるんでしょうねえ?」

(哲くんの妹さんのぼやき、からの神様、からの私。ていうかやばいよね、その成長速度。よく今まで、魂の指導付きとはいえ、料理で未練を晴らしてこれたよね。なによりまずそこに奇跡を感じない?)

「……ははは」

 彼女の話題は、野を駆けるうさぎのようにあちこちを飛び回り、そのたびにごりっと地面をえぐっていく。

 平常心、平常心、と胸の中で唱え、

「みのりの番で大失敗しないように、頑張らなきゃなあ」

 と我ながら大人な対応で臨んだところ、みのりはそれを踏みにじる発言を寄越した。

(あっ、大丈夫、大丈夫。失敗するほうが奇跡、みたいな超初心者メニューしか作らないつもりだから)

 言外にものすごく馬鹿にされた気がする。

 だが、純粋にメニューの正体が気になり、俺は首を傾げた。

「なんだよ、超初心者メニューって。目玉焼きとか?」

(んーん。もっと簡単かも。茹でとうもろこし)

 茹でとうもろこし。

 それはたしかに簡単そうだ。茹でるだけなのだから。

 だが、そのあまりの難易度の低さに、俺はかえって困惑して眉を寄せた。

「ほんとにそれでいいのか? とうもろこしが好きな人が相手だってんなら、もっと凝ってもいいんだぞ? なんかあるだろ、ポタージュとか、ちょっとおしゃれなサラダとか」

 とうもろこしを茹でるだけじゃあ、提案力が求められる課題のヒントにもならねえよと、ひそかにそう思ったのも事実だ。

 だが、俺の申し出に、みのりは軽く笑って首を振った。

(いいの、いいの。あの人には茹でとうもろこしで十分)

「あの人?」

 どこかよそよそしい言い回しに、首を傾げる。

 するとみのりは、小さく首を竦めて「父親」と答えた。

「え……」

(父親よ。お父さん。私の入院中、一回しか顔を見せに来なかった、ダメダメなお父さん)

「それは……」

 突き放した言い方に、思わず口ごもってしまう。

 同時に脳裏には、先ほどの彼女の発言がよみがえっていた。

 ──私の場合、手の込んだ料理を振舞いたいっていうよりは、嫌がらせに近いし。

 薄情な父親への仕返しということだろうか。

 思わず、冷や汗が滲む。

「と……とうもろこしにアレルギーがある、とかじゃ、ねえよな……?」

(それはないよ。でも、目にしたくもないほど避けてはいるかもね。あはは)

 あはは、じゃねえ。

 が、突っ込む前に、「てしをや」の裏口に着いてしまう。

 真意の読めないみのりの発言に、内心で「とうもろこし以外にも緊急避難メニューを用意しておこう」と決意を固め、俺たちはアルミ製のノブに手を掛けた。



(ふーん。お店の中って、こんなふうになってるんだー)

 みのりは、業務用の冷蔵庫や、ずらりと横に並んだコンロを興味深げに見回すと、店内で気になったらしいものをひとつひとつ指さした。

(これはなあに?)

「ダスター。使い捨てしやすい台布巾みたいなもの」

(この流し台に伏せてあるグラス、すごく古いけど、こんなのお客さんに出していいの?)

「それは俺たちが調理中に飲む用。最近特に、冷房かけてても厨房は暑いから、ちょこちょこ水分補給しねえと倒れちまうの」

(ふうん。お! これは、アレでしょ? ビール入れるやつ!)

「そう。ビールサーバー」

 気分は、子どもの社会科見学を引率する先生だ。

 一通り質問攻めにすると満足したらしく、やがてみのりは「超初心者メニュー」の準備を始めた。

 といっても、用意したのは大きめの鍋に、たっぷりの水。そして塩。それだけだ。

 それよりも彼女は、小山をなしているとうもろこしを見つけると、その吟味にじっくりと時間をかけた。

(あ。これ、たぶん、おばあちゃんちで育ててるのと一緒の品種だ)

「そうなのか?」

(うん。ほら、黄色と白の粒が混ざってるでしょ。こういうの、バイカラーっていうんだけど)

 緑の皮を一部剥いで覗き込みながら、そんなことを言う。なんでも彼女のお祖母さんは、北海道で農家をやっているそうだ。

 皮は緑の色味が濃いものがよいこと。切り口はみずみずしいものを選ぶこと。先端までぎっしりと、かつ、ふっくらとした粒が詰まっているものがおいしいこと。みのりは、はきはきとした口調でそれらのレクチャーをしてくれた。

(髭の数はね、とうもろこしの粒の数と一緒なんだって。だから、髭がふさふさしてればしてるほど、粒もぎっしりしてる。この中では──この子が一番かな)

 彼女は慎重に髭の量を確かめてから、おもむろに一本を選び出した。持った手にずしりと重みを感じる、たしかにうまそうな一本だ。

 それを、

(よいではないかー、よいではないかー、あ~れ~)

 などという寸劇を挟みながら皮と髭を剥く。そして、陽気な黄色を露わにしたとうもろこしを、水を張った鍋にぽちゃんと、丸ごと一本放り投げた。

「え、水から入れんの?」

(うん。沸騰した後に入れるとシャキシャキ、水から入れるとじゅわって感じになるの。私はジューシーが正義だと信じる女子だから、水入れ派)

 彼女いわく、去年の自由研究で、大量のとうもろこしを湯がき、食べ比べまくったらしい。

 自信満々に言い切るみのりを信じて火をつけ、それから俺は塩のタッパーを手に取った。

「なあ、塩忘れてるぞ」

(忘れてないし。後から入れるんだよ)

「ほほう?」

 平然と答える彼女に、「本当は忘れてたんじゃないだろうな」などと内心で疑わしく思っていると、まるでそれを読み取ったかのように、

(やれやれ哲くん、浸透圧って言葉、知ってる?)

 たいそう人を小馬鹿にしたような声が響いた。最初に塩を入れてしまうと、水分が粒の中に入っていきにくくなるらしい。

 言い方にかちんと来なくもなかったが、俺はあくまで大人であるので、実に平然と答えてやった。

「知ってるし。聞いてみただけだし」

 ……ちょっと、大人げない口調になってしまったかもしれない。

 その後、ぼこぼこと泡を立てて鍋が沸騰してから、きっちり三分をタイマーで測ると、みのりは、

(今だ!)

 と叫んで塩のタッパーを手に取った。

 火を止めた鍋の中に、大きな匙で掬った大量の塩を投げ入れていく。

 ひと匙、ふた匙、さん匙──

「入れすぎじゃね!?

(いいの、いいの。海水くらいしょっぱく、ってのが秘訣だから)

 そうして、さあっと溶けた塩をまとわせるように、鍋の中でくるくると、とうもろこしを回すことしばし。

(こんなもんかな!)

 みのりは満足げな声とともに、とうもろこしをザルにあげた。

 いまだ、しゅわしゅわと音がしそうなほどの湯気に包まれているそれを、あち、あち、と言いながらまな板に移す。

 大きめの包丁でぶつ切りにして──あっという間に、茹でとうもろこしの完成である。

(味見してみる?)

 得意げにみのりが言うので、俺は頷き、小さめに切ったひと切れを手に取った。

 茹でていっそう色の深みを増した、黄金色と呼んで差し支えない塊。ところどころに混じる薄黄色の粒が、まるで宝石のようにつやつやとしている。熱く滑らかな粒はぷっくりとしていて、中で渦巻いているのだろう汁気の感触が伝わってくるようだった。

 芯を指先で挟み込むようにしながら、口に運ぶと──

「──……ふはっ!」

 一番に感じたのは、熱だった。粒に食い込ませた歯の先が、ちんと熱い。

 それから、強めの塩気と、つるりとした皮の感触。それを食い破ると、じゅっとほとばしる勢いで、とろけるような甘みが広がる。

 うまい。熱い。甘い。

 塩を存分にきかせたおかげで、とうもろこしがひたすら甘く感じた。噛めば噛むほど汁気がじゅわっと溢れ出す粒は、ものすごい食べごたえだ。

 それ自体もうまかったが、芯から滲み出る汁がまたうまい。ほんのり甘みを残したしょっぱい汁を、行儀悪くじゅるじゅる吸いたくなる。──いや、正直に言おう、じゅるじゅる吸っちまいました。だって、そのくらいうまいのだ。

 結局、食欲が着火してしまい、遠慮のかたまりをひと切れ残して丸ごと食いつくす俺を、みのりは呆れたような、微笑ましいような様子で見守っていた。

(そのひと切れって、残す意味ある? あーあ。また一から作り直さなきゃだ)

「……いいじゃねえか。茹でるだけだろ?」

 ちょっとしたばつの悪さを覚えながら、俺は再び鍋に水を張りはじめる。みのりがこれ、と指定したとうもろこしを火にかけて──すみませんお父さん、一番ぎっしりしているのは俺たちが食ってしまいました──、俺はふと顔を上げた。

「っていうかさ、ほんとにこれだけでいいのか? もっと、味噌汁とか、おかずとか、用意したら? うち、干物もあるし、漬け込んだ肉もあるから、唐揚げとかもできるけど」

 脱・嫌がらせプロジェクトである。

 いくら薄情な父親相手とはいえ、せっかく神様の力を借りてまで振舞う料理なのだから、負の感情になんて囚われず、気持ちよく食わせてやったらいいのに、と思ったのだ。

 だがみのりは頑なに、いいの、と首を振り、少しだけ考えた後、譲歩するように肩を竦めた。

(まあ、ビールくらいなら付けてもいいかな。茹でとうもろこしにビール。完璧じゃん)

 たしかに、夏の晩酌セットとしてはアリだと思うが、目にしたくもないほど嫌っているもの、しかも単に茹でただけのものを料理として出すというのは、やはり気が引ける。

「いやほら、店として出すのに、それだけっていうのもちょっと……」

 店の体裁を言い訳にしてまで、説得を試みたが、みのりもまた譲らなかった。

(なんで? ビールの原料って麦でしょ? 炭水化物と野菜。バランスもばっちりじゃん)

 ああ言えばこう言う子である。

 俺はちょっとむきになって言い返した。

「残念でした! とうもろこしは野菜じゃなくて穀物だから。穀物と穀物で、炭水化物攻めになってるから!」

(…………)

 一瞬口ごもった相手に、よし、勝った、と内心で拳を握る。

 が、みのりはふっと小さく鼻を鳴らすと、

(どう? 中学生から全力で奪いにかかった勝利の味は)

 とせせら笑ってきたので、俺はうがあと頭を抱えた。

 ああ言えば、こう言う!

「おまえ……おまえなあ! せっかく人が──」

 だが、そのとき。

 ──カラ……。

 小さく音がして、玄関の引き戸が開いた。

「こんばんは。……まだこちらのお店は、やってますか?」

 音を追いかけるようにして、男性の低い声が響く。

 時間切れだ。

 俺は天を仰ぎそうになりながら、せめて愛想よくと思い、「いらっしゃいませ」と声を張り上げた。


***


 みのりのお父さん──蒲田さんは、一言で表すならば、いかにもデキそうな大人の男、といった感じだった。雑誌で粋なスーツを着こなしている外国人モデルのようとでもいおうか、オールバックにした髪や鋭い目が、少々冷たい感じがするものの、格好いい。

 年の頃は五十代前半くらいか。みのりいわく、世界中を飛び回る商社マンなのだそうだ。

 蒲田さんはお絞りを受け取りながら、物珍しそうに店内を見回した。

「こんなところに定食屋があったとは、知らなかった。随分遅くまでやってるね?」

「はは……、その、今日は、特別でして……」

 本当なら、とっくに店じまいしている時間だ。

 俺は曖昧に頷きながら、壁にかけられた品書きに視線を走らせている蒲田さん相手に、覚悟を決めて話しかけた。

「あの……すみません。そのですね、実は当店、営業中ではあるんですけども、その……そう、閉店準備をしてしまってまして、すぐにお出しできるメニューに限りがございまして……」

 すぐに、と付けてしまったあたりで、中のみのりが、

(どんなに待ったとしても、茹でとうもろこし以外出す気はないし!)

 と鼻息を荒らげるのがわかる。

 蒲田さんは「え」という感じで目を瞬かせたあと、すぐに軽く頷いた。

「……そうか。なら、腹はそんなに減ってないし──ビールだけもらおうかな」

「あの! ええと、それならご一緒に、茹でとうもろこしはいかがですか?」

 とうもろこし以外のおかずがいらない、というのはありがたいが、とうもろこしすらいらない、というのは予想外の展開だ。

 俺が慌てて言い募ると、彼はちょっと目を見開いた。

「……とうもろこし?」

「はい! いや、ちょうど今日、すっごく新鮮なのが手に入ったんで。今食べるのが一番うまいんで! どうですか!?

 感情の窺えない瞳の奥に、かすかな拒絶の色が見える。

 彼が、そのくっきりとした眉をわずかに寄せて、

「いや……せっかくだが──」

 そう断りの文句を口にしようとしたとき、

 ──ピピピピピピ!

 タイマーの音が、まるでそれを遮るかのように店内に鳴り響いた。

 ピ! とストップボタンを押しながら、俺は急いで火を止める。そうして、ぎこちない笑みを浮かべて首を傾げた。

「その……。この通り、もう、湯がいてしまったので……」

「…………」

 蒲田さんが絶句する。それはそうだ。俺が彼なら、こんな強引な接客はどうかと思う。

 だが、蒲田さんは静かに視線を落とすと、小さな溜息を漏らした。

「──そうか」

 その後に続いた呟きは、俺の耳にはこう聞こえた。

 もう、逃げられないな。

「え……」

 意味を捉えそこね、思わず首を傾げる。

 だが、それに答えることなく、彼は顔を上げ、そっと告げた。

「じゃあ、頼むよ」

 やり残していた宿題を突きつけられた子どもみたいに──気重そうな、けれどどこか覚悟に満ちたような、不思議な表情だった。



 先ほどと同じ手順で茹で上げたとうもろこしを、熱いうちに六等分する。涼しげな青の角皿に盛りつけ、生ビールのジョッキとともに出すと、蒲田さんは小さく、

「どうも」

 と呟いた。

 オレンジがかった黄色と、クリーム色が、モザイク模様のようにひしめくとうもろこしを、しかし彼はすぐには手に取ることなく、代わりにビールを啜る。

 ひと口。もうひと口。

 汗をかいたビールジョッキは、すぐに中身を半分ほどに減らしてしまったが、とうもろこしは残ったままだ。

 ふわふわと踊るようだった湯気が、少しずつ量を減らしていくのをつい見守ってしまっていると、それに気付いた蒲田さんが気まずそうに告げた。

「……猫舌なもので」

「あ、そうなんですね。いえ、急かしちゃったようですみません。ごゆっくり、お召し上がりくださいね」

 慌てて手を振ると、脳裏ではみのりがぼそっと、

(嘘よ。表情筋も舌の神経も鈍いくせに)

 などと突っ込みを入れる。

 え、と思わず蒲田さんのことをまじまじと見つめてしまうと、相手は嘘をついた罪悪感からか、視線を伏せながら、違う話題を振ってきた。

「……バイカラーか。うちのと一緒だ。粒もずいぶんぎっしりしている」

 娘とほとんど同じような発言だ。

 水を向ける意図もあり、「お家で育ててらっしゃるんですか?」と知らないふりをして尋ねると、蒲田さんは軽く肩を竦めた。

「ああ。実家が北海道でね。小さい頃からよく食べていたんだ」

 もしや、小さい頃から食べすぎて、逆に嫌いになってしまったというパターンだろうか。

 恐る恐る尋ねると、蒲田さんはちょっと目を見張り、それから苦笑した。

「──いいや」

 わずかでも表情がほころぶと、途端にぐっと人間味のある顔になる。彼は切なそうに、目を細めた。

「大好物だよ。昔も今も。毎年実家から届くたび、娘と取り合いをするくらい──」

 そこで、ふいに言葉を途切れさせる。彼は、薄い唇を歪めると、小さな声で「したくらい、か」と言い直した。

「あの……」

 俺が声を掛けるよりも早く、蒲田さんはビールのジョッキを押しのける。そして、おもむろに、とうもろこしをひと切れ掴み──がぶりと、大きく頬張った。

 しゃく、しゃく。

 静かな店内に、みずみずしい音が響く。

 蒲田さんは無言のうちに、しゃくしたとうもろこしを飲み下し、感想を言おうとでもするように顔を上げ、

「…………」

 しかし、再び俯いた。

 息を吸い、また吐いて。

 今度こそ顔を上げて、「とても……」とまで呟くが、無理やり引き上げたらしい口角が、ぎこちなく震えているのに気付くと、そのまま口を閉ざす。

 そして、中途半端な笑みを貼り付けたまま、──じわ、と、目を潤ませた。

「──……すまない」

 慌てて瞬きをして水分を追い払い、ごまかすようにビールを呷る。

 それでも堪えきれなかった感情を抑え込むように、彼は頬杖を突いた右手で、口元を隠した。

「……娘のことを、思い出して」

 必死に皿から視線を逸らす様子は、とても薄情な人物には見えない。とうもろこしが大好物だという発言と、みのりの言う「嫌がらせ」というのがまた繋がらず、俺は困惑しながら、思いついたことをぼそりと呟いた。

「……娘さんも、とうもろこしが好きだったんですね」

「──……ああ」

 ビールの泡が弾ける音すら聞き取れそうな、静寂に満ちた店内。とうもろこしからたなびく、ためらいをそっと溶かすような柔らかい湯気。そしておそらくは、神様の計らい。

 薄暗い空間で、ひときわまぶしく輝くとうもろこしに目を細めながら、蒲田さんはぽつりと語りはじめた。

「特に、とうもろこしの茹で方にはうるさかった。食べるのが、大好きな子でね──」

 娘が生まれたのは、彼が三十代を終えようかとする頃。なかなか子宝に恵まれなかったところ、ようやく授かった女の子に、蒲田さん夫婦はもちろん、そのご両親までもが夢中になった。

 花を咲かせ、豊かな、実りある人生を送っていけるように。彼女の過ごす日々が満ち足りたものであるように。夫婦とその両親は半年も考えに考え抜いて、大切な女の子を「みのり」と名付ける。彼女はその名に込められた祈りの通り、すくすく元気に育っていった。

「親の欲目といえばそれまでなんだが……かわいい、よくできた子でね。勉強もスポーツも得意だったし、なにかと器用で、しょっちゅう表彰されていた」

 英語を学ばせればスピーチ大会で優勝し、工作をさせれば都の美術展で特別賞をもらう。北海道の祖母の家に遊びにいったときなにげなくまとめた、とうもろこしの茹で方に関する自由研究は、優秀作品として全国の大会に送られた。

 海外出張で不在のことが多かったものの、父娘の仲も良好そのもの。よく働く父親と、いろいろなことに精力的に取り組む愛らしい娘は、近所でも評判だったという。

 そんな絵に描いたような幸せな家庭生活は、しかしある日、一本の電話により崩れ去る。

「出張中に妻から電話があったんだ。みのりが倒れた。検査してもらったら、白血球の数値がおかしい。いわゆる──白血病かもしれない、と」

 耳を疑った。そんな、ドラマや映画でしか見ないような病気が、まさか自分の娘に降りかかるとは思いもしなかった。

 一か月は帰れないと言われていた海外での仕事を無理やり切り上げ、指定された病院に駆けつけ──そこで、彼は言葉を失った。

 いつもくるくると表情を変えながら、活発に動き回っていた娘は、無菌室でぐったりと横たわっていたから。

「私が行ったときには、もう化学療法が始まっていてね……」

 蒲田さんは、震えを押し殺すように、低い声で話した。

「ひどい……状態だった。顔色は悪くて、全身がむくんで……」

 抗がん剤を投与することの副作用は、情報として知っているつもりだった。だが、自らの目でとらえた娘の姿は、あまりに強烈だった。

 弱々しくて、痛ましくて。目の前の光景が信じられなくて、ただ涙がこぼれた。

「妻が……」

 切り出す声が、掠れる。蒲田さんは小さくせきばらいをすると、再び淡々とした口調を取り戻し、続けた。

「妻が、言うんだ。あなたが泣いてどうする。みのりはもっと辛いの、辛いのはみのりなのよと。私たちは、穏やかでいましょうと」

 泣いていいのは自分たちではない。ただでさえ病身の娘を、さらに不安がらせてはならない。かといって、明るく振舞うのもわざとらしい。それではかえって気が詰まる。

 だから──穏やかに。

 傍にいて、信じて、支えていることを伝えながら、ただ穏やかに接しましょうと。

「妻が……正しいと思った。実際娘は、手本を示すように、私よりよほど落ち着いた振舞いを見せていた。だから私も、穏やかにと……だが、それはとても……とても、難しくて」

 ほがらかな姿しか知らなかったから、あおめ、苦しんでいる様子を見ると、それだけで胸が掻きむしられるようだった。

 仕事をやりくりして、なんとか確保した見舞い時間。穏やかに、と何度も自らに言い聞かせたけれど、笑みを浮かべようとすれば唇は引きつり、油断すると喉が震える。結局、仕事先からの電話を言い訳にして、すぐに病室を飛び出た。

 そして扉のすぐ外で、大の男が、携帯電話を握りしめながら泣きじゃくった。

 次からは、病室に踏み入ることすらできず、いつも扉の前で笑顔の失敗作を浮かべながら、ただただ、嗚咽を堪えていた。

 そうして、顔も見せられずに引き返すことを繰り返し。

 今度こそと思っていた、あるうららかな春の日──娘は合併症がもとで、きゅうせいした。

 結局、見舞いと呼べる見舞いができたのは、一回限りのことだった。

(……ダメダメでしょ)

 じっと話を聞いていたみのりが、小さく鼻を鳴らす。

(表情筋のきたえ方がなってないのよ。私みたいに、完璧なスマイルを浮かべられるようじゃなきゃ)

 まあ、私も扉のこちら側じゃ、泣いてたけど。

 ぽつんと付け足した声は、細く消え入るようだった。

 蒲田さんとみのりが、扉越しに背中を合わせて、泣きじゃくる様子が目に浮かぶ。

 演技が下手な父親と、演技上手な娘は、扉を一枚へだてないと、素直な感情を表せなかったのだ。

「……自慢の、娘だった」

 蒲田さんは両手を組み、その中に鼻をうずめた。目が、少し赤くなっていた。

さとくて……人の気持ちに敏感で。後から聞いた話では……私がこんなざまだったのとは裏腹に、娘は、まるで女優のように、相手に合わせて態度を変えていたらしい」

 医師や看護師に対しては朗らかに。自分より年下の、同じ症状の患者には「こんなの大したことないよ」とでもいうように泰然と。母親に対しては、ちょっと甘えん坊で、わがままに。

 そこでわがままになるのか、と少しだけ意外に思っていたら、まるでそれを読み取ったかのように、

(難病の一人娘が健気だったりしちゃ、ますます救いがないじゃない)

 とみのりが肩を竦める気配がした。

「…………っ」

 今更ながら。

 ようやく、みのりという女の子の本質に触れた気がして、俺は喉を詰まらせた。

「それくらい、よくできた……私たちには、もったいないような子だった。引き換え私は、……親の私は、あの子に、なにをしてこれただろうと……思わずにはいられなくてね」

 蒲田さんは、黄色いとうもろこしに視線を落とすと、ぐっと眉を寄せた。

「もっと……なにかができたはずなんだ……」

 冷たい印象のあった瞳に、ふわりと涙の膜が張る。すうっと一筋が流れ落ちると、彼は恥じるように組んだ手に顔を押し付けた。

「もっと……もっと……してやりたいことが、……したい、ことが……っ、たくさん、あったはずだ。なのに……っ」

 夏物のシャツに包まれた喉から、激しい嗚咽が漏れる。

 彼は、震える声で、情けないんだと告げた。

 娘は毅然と病に向き合っていたというのに、自分はただおじづいて。仕事を言い訳に、見舞いすら一度しかできなかった。

 いや、発病してからだけではない。彼女が健康だったときも、自分は特になにを考えるでもなく、仕事を優先していた。なによりいとしいはずの娘との時間に、あまりに無頓着だった。

 もっと、交わせる会話があるはずだった。作れる思い出があるはずだった。実家の畑でたった一度、一緒に取り組んだとうもろこしの自由研究。そんな、朗らかで食いしん坊な娘が楽しめる物事を、本当はもっともっと用意してあげたかった。

「なのに……なにひとつ、できずに……っ。あっという間に、人生を終えてしまった娘が、……かわいそうで、……申し訳、なくて……っ!」

 夜の店内に、途切れ途切れの涙声が響く。

 みのりは無言でそれを見守っていたが、すっかり湯気を収めたとうもろこしをちらりといちべつすると、やがて口を開いた。

(──ねえ、哲くん。悪いんだけどさあ、私の代わりに、伝えてくれない?)

 静かな声に、はっとする。

 そうだ、代弁。

 みのりは、彼に訴えたい想いがあって、今ここにいるのだ。

 一度しか顔を見せに来られなかった父親に──それほどまでに娘を愛し、追い詰められていた蒲田さんに、メッセージを届けるために。

「嫌がらせに近い」とみのりは言っていたが、近いというのはつまり、違うということ。きっと彼女は、耳に痛い、だがそれでも言わずにはいられないことを胸に秘めているのだと、ようやく俺は理解し、慌てて唇を湿らせた。

「あの……蒲田さん……」

 まずは、呼びかける。

 蒲田さんは、名乗ったはずのない苗字を呼ばれ、怪訝そうに顔を上げた。

「蒲田さん……ですよね。なかなか切り出せなくてすみません。実は……その、俺、娘さん──みのり、さんと、知り合いなんです」

「え……?」

 切れ長の瞳が見開かれる。

 さすがに中学生になったばかりの女の子が定食屋の常連だったというのは無理があるだろう。俺は、必死につじつまを合わせながら話を続けた。

「実は……ええと、俺の友人が、同じ病院に入院してて。それで、見舞いに行ったときに、よく話すようになったんです」

「……個室だったが?」

「えーっとその、共有スペースでの出会いでして……っ」

 白血病患者の病院での過ごし方を俺は知らない。ずっと隔離されていた状態だったならどうしよう、と言ってから思ったが、幸いその説明で、蒲田さんは納得したようだった。

「そうだったのか……」

「はい。お話の途中で気付いたんですが、なかなか言い出せず、すみません」

「……いや」

 蒲田さんは気まずそうにお絞りで顔を拭うと、「私が取り乱したものだから」と呟いた。

(ねえ、まずはこう言って。どうせバレてないと思ってるんだろうけど、お父さんが本当は何度も病院に来てたことなんて、私のぱっちり大きな目にかかれば、まるっとお見通しだった、って)

 脳裏で、そんな切れのよい声が響く。あえてなのだろうその軽やかな言い回しを、極力そのままに、「よくそう言っていた」と告げると、蒲田さんはまじまじと俺を見つめ、それから力なく笑った。

「……みのりが言いそうだ」

 俺も小さく笑って、頷く。

 そうして、独特な節回しで話すみのりの、代弁を続けた。

「彼女はこう言ってましたよ。お父さんは自分を薄情だと思っているのかもしれないけど、そうじゃないことなんてお見通しだ。申し訳ないと思っているのかもしれないけど、私はそうは思わない。なにもできなかったと思っているのかもしれないけど、……そんなことはない、と」

 家にいないことも多かったけれど、賞を取るたびに必ずお祝いの言葉をくれた。自分でも見逃すようなことまで、必ず気付いて褒めてくれた。

 出張先ではいつもはがきを送ってくれた。返信はすべて保存してくれているのだと聞いた。それを自慢しているのだとも聞いた。

 仕事の合間を縫って、夏には必ず祖母の家に連れて行ってくれた。好きだろう、と、とうもろこし畑に連れていってくれて、二人で馬鹿みたいにとうもろこしを食べつづけた。茹で方の研究のために同じ鍋を十個も買って、母親に怒られた。すごく楽しかった──

「…………っ」

 蒲田さんの目が、再び潤む。

 俺も、少し喉が震えそうになりながら、必死でみのりの言葉を拾った。

「英語を教えてもらった。工作を手伝ってもらった。一緒にご飯を食べた。……短かったかもしれないけど、それ以上に、楽しさがぎっしり詰まった、日々だった」

 脳裏で滑らかに言葉を紡いでいた彼女が、ふいに口を閉ざす。

 それから彼女は、俺の目にじわりと涙を浮かべた。

(──……なのに、だめなの?)

 それは、初めて聞く、彼女の弱々しい声だった。

(短いからっていうだけで……全部、全部、悲しい想い出に、……「それしかできなかった」ってことに、なっちゃうの……?)

 俺は、思わずはっと息を呑む。

 みのりは、涙を堪えながら、茹でとうもろこしを見つめていた。

(時間をかけなきゃ……いけないの? お父さんのしてきてくれたことは……私の人生は、残念って扱いに、なっちゃうの?)

 茹でるだけの、とうもろこし。

 時間も手間もかけない、その料理に彼女がこだわった理由を、俺はこのとき初めて理解した。

 みのりは、ぐっと歯を噛み締めてから、言ってよ、と続けた。

(そんなことないって、言ってよ。自分も娘も、ベストを尽くした。時間は短かったけど、……最高に濃厚で、ぎゅっと詰まった、誰にも負けない素敵な人生を過ごしたって……言ってよ──!)

「……あの……?」

 目を潤ませたまま、立ち尽くしてしまった俺を不審に思ったのだろう。蒲田さんがそっと尋ねてくる。

 俺は震えそうになる拳を必死に抑え込み、しわがれた声を喉から押し出した。

「時間や手間がかかっていないから、かわいそうだなんて、言わないでほしい、と……」

 だめだ。

 俺が泣いちゃ、だめだ。

「それしかできなかったんじゃない。蒲田さんのしてきたことや……自分の人生はけっして、残念なものなんかじゃない。短かったけれど、ぎゅっと詰まった、……最高の人生だって……言ってほしい、と……っ」

 蒲田さんがはっと顔を上げた。

 俺はなんとか涙を押し戻し、彼に頷きかけた。

「その茹で方、覚えがありませんか。……みのりさんに教えてもらったんです」

 皮を剥くだけ。水から放り込んで、沸騰してから茹で時間はたったの三分。

 ただ、それだけ。

 なのに、それが特別、おいしい。

「彼女と俺が知り合いで、たまたま今日、蒲田さんが店に来て、たまたま、新鮮なとうもろこしがあって……。すごい巡り合わせですよね。だから俺は、思うんです。これって、奇跡なんじゃないかな、って。みのり、さんが……蒲田さんに、さっきのことを伝えたくて、それで、俺にとうもろこしを、茹でさせたんじゃないかなって」

 言い切った俺を、彼はまじまじと見つめた。

 数秒か、数十秒か。

 冷蔵庫の立てるかすかな振動音と、互いの息遣いだけを残して、沈黙が満ちる。

 やがて、蒲田さんは静かに頷いた。

「──……そうか」

 その拍子に、すうっと涙が一筋こぼれ、青い皿のすぐ横に落ちた。

「……そうだな」

 おもむろに、すっかり冷めてしまったとうもろこしに手を伸ばす。

 ひと口ぶんだけかじり跡を残したそれに向かって、彼はそっと目を細めた。

「──娘の自由研究の、最後の感想に、書いてあったよ。……個人的にも科学的にも、とうもろこしは時間をかけて調理するより、さっと茹でただけが一番おいしいって」

 懐かしむように、微笑む。

 その笑みは、まだ涙の余韻を残していたが、もう引きつってはいなかった。

 彼は、じっと手の中のとうもろこしを見つめ──なにかを思い切ったように、がぶりと頬張った。

 目を閉じて、味わう。

 口いっぱいに広がる甘みと塩気を堪能し、飲み下すと、彼は「ああ」と呟いた。

「本当だ。やっぱり……これが一番だ」

 最高に、おいしい。

 その声は、彼自身にだけでなく、みのりに向けられたもののようだった。

「……そうですよね」

 穏やかに。

 涙するのではなく、無理やり明るい笑みを貼り付けるのではなく、ただ、しみじみと告げる蒲田さん。

 それを見届けたみのりは、ずっと鼻を啜った。

(──……よくできました)

 まるで、やっと夏休みの宿題を終えた子どもを前にした、親か教師のようだった。

 その後、蒲田さんはとうもろこしを一粒残さず食べつくし、丁寧に「ごちそうさま」と唱えると、会計を済ませた。

 打ち解けると気安く接してくれるタイプなのか、とうもろこしの保存方法や目利きの仕方まで教えてくれる。厨房に積んであるとうもろこしを、なにげなく指さしている彼を見て、ああ、もう大丈夫だと思った。

 そうして蒲田さんは暖簾のれんをくぐり──後には、芯の載った皿と、空のジョッキが残った。

「なあ、みのり──」

(ねえ)

 俺が労りの言葉をかけるよりも早く、みのりがふと思いついたように声を上げる。

 彼女は、体の主導権を奪ってちゃきちゃきとカウンターを片付けながら、ひょいとビールジョッキを掲げた。

(ビールって、どんな味かな?)

 そこに涙の気配はない。ただただ、純粋に気になる様子だった。

 話を逸らされた気のする俺は、小さく溜息をついたが、大人しくそれに乗せられておく。

 流し台に伏せてあった自分用のグラスに、サーバーから少しだけビールを注ぐと、内側にいるみのりに話しかけた。

「少しだけ。舐めるだけだぞ? 未成年の飲酒は犯罪だからな?」

(いやいやいや。体は大人だし、中身は死人だし、どこに違法性が?)

 いけしゃあしゃあと言い返すみのりに苦笑して、ちょっとだけ金色の液体を啜る。

 とたんに、生意気な中学生はうえっと悲鳴を漏らした。

(まっず。にっが。なんで大人ってこんなの飲むんだろうね)

「……なんでだろうな」

 答えをたぶん、俺は知っている。

 苦い想いを飲み下す、その練習をするためだ。

 だが、気取った答えを口にして、ぼこぼこに叩かれてもかなわないので黙っていると、みのりがふふっと小さく笑みをこぼした。

(完璧)

「なにが?」

(ぜんぶ)

 彼女は上機嫌だった。

(親に説教してやったしー、お酒も飲んだしー、男の人と身体的に結ばれる経験も、しちゃったしー)

「……誤解をまねく表現はやめようか」

 ぼそぼそと突っ込むが、彼女は笑って取り合わなかった。

(これで、いっぱしの大人がすることまで、軒並みぜーんぶクリアしちゃった。……哲くんの、おかげだね)

「…………」

 やめろよ、と思う。

 生意気で傲慢な性格を演じると決めたなら、最後までそれを貫いてほしい。

 そう。彼女の不遜な言葉選びや、人を小馬鹿にしたような口調は、ほとんど演技なのだということに、もう俺は気付いていた。

 だってみのりはあのとき──俺が彼女に同情し、この役回りに抵抗を示したのを見て、急にふてぶてしい態度を取りはじめていたから。

(ねえ、哲くん。……哲史さん。ロリコンなんて言って、ごめんね)

「…………」

(あれって、嘘だよ。いろいろ失礼なこと言って、ごめんなさい。協力してくれて、ありがとう。……怒ってる?)

「……怒ってねえよ」

 短い言葉しか発せられないのは、それ以上話すと涙が滲みそうだからだ。

 穏やかに。

 蒲田さんがこなしたみのりの課題は、俺にはまだまだ難しい。

 辛うじて、「うまいとうもろこしの食い方、教えてくれて、ありがとう」と言い添えると、みのりは嬉しそうに笑った。

 そうして、握りしめていたグラスをサーバーのもとに持っていき、不慣れな手つきでなみなみとビールを注ぐ。

(一杯どうぞ。……お疲れさまでした)

 そっと、調理台に残していた茹でとうもろこしの、最後のひと切れも片手に持たせ、めしあがれと呟くと──彼女は、溶けるようにして消えた。

 みのりが目利きしたとうもろこしは、ぎゅっと身が詰まってどこまでも甘く、注いだビールは、どこまでも苦かった。


***


「日替わり肉と、生姜焼き、注文いただきましたー!」

 昼の「てしをや」。

 冷房を強めにきかせているはずの店内は、それでも料理と人の熱で、動き回ると汗ばむくらいだ。特に厨房は暑い。

 俺は、流しにかけているタオルで汗を押さえながら、志穂に向かってオーダーを叫び、ついで御膳の準備を始めた。

 煮物の小鉢に、漬物、味噌汁に、飯。このあたりまでは、どのメニューでも共通なので、あらかじめ俺が用意しておくのだ。

 普段ならばそこまで整えると、コンロを陣取る志穂のもとへと運んでいくのだが、今日この日だけ、俺はもうひとつ、膳に小皿を載せた。

 涼しげな藍色の器に、陽気な黄色をした茹でとうもろこしをひと切れ。

 俺なりの、「とうもろこしを使ったとっておきの一品」である。

 鮮やかな黄色の粒が、昨夜と同じくふっくら汁気を含んでいることを確認し、「よし」と頷くと、俺は今度こそ、それらの御膳を志穂のもとへと運んでいった。

「ほい。日替わり肉と生姜焼きな」

「はーい。──……茹でとうもろこしにしたんだ、結局」

 混ぜながら焼きながら揚げながら、と、三つくらいの作業を同時にこなしている志穂が、ちらりと小皿に視線を落とす。

 昨日店を早退したあと、アイスを馬鹿食いして気持ちを切り替えたらしく、その姿は、表面上はいつもの妹だった。

 とはいえ、揺れる乙女心はいつ暴虐方向に振れるかわからない。

 大口叩いておきながら茹でただけかと、そういった発言が続くのだろうと踏んで、俺はけんせいすべく口を開きかけたが、それよりも早く、志穂はちょっと意外そうに首を傾げた。

「……いいじゃん」

「──へ?」

「茹でとうもろこし。私も、出すならそれがいいなって思ってたから」

 なにかと凝り性の妹にしては、珍しいことである。

「そ……そうかよ。てっきりおまえのことだから、ポタージュだとか、ゼラチンで固めてテリーヌ風とか、そういうことしなきゃ、提案力がねえってダメ出しされるかと思ってた」

 意表を突かれ、もごもご言うと、志穂は軽く笑った。

「傾向として、否定はしないけど。でも……夏野菜だからさ」

「夏野菜は茹でろみたいなルール、あったっけ?」

 思わず首を傾げる。

 すると志穂は、「あくまで私のイメージだけど」と前置きして、なにげなく言った。

「トマトとかとうもろこしとかナスとかさ、みんなカラフルで、太陽がいっぱい! って感じでしょ? 生命力がぎゅって入ってそうだから、なるべくそのまんまの形で、出してあげたいなあって思うの」

「…………」

 フライパンを揺すりながらの、言葉。

 だがそれに、驚くくらいに胸がいっぱいになって、俺は思わず黙り込んだ。

 さんさんと輝く太陽のもと、力強く鮮やかなとうもろこしが育つ様子が思い浮かぶ。

 ぎゅっと詰まった黄金色の果肉を見て、嬉しそうに笑うみのりの姿が、脳裏をよぎった。

 溢れんばかりの光を、──命を。ひとかけらだって、こぼしたくないから。

 だから俺たちは、太陽の色をしたその野菜をせっかちに茹でて、大きく頬張るのだ。

「はい、お待ち! 日替わり肉と生姜焼きね。配膳お願い」

「……おう」

 目が潤みかけたのを、汗を拭うふりをしてごまかし、完成した膳を両手に取る。

 そうして、

「──お待たせしました。今日はサービスでとうもろこし付きです!」

 腹を空かせた客に、太陽の力がぎゅっと詰まった夏の味を届けるために、俺は厨房を飛び出した。