一皿目 出汁巻き玉子


 黒木のカウンターに、をきちんと並べた二名掛けのテーブルが四つ。

 昼には腹をかせたお客さんたちを迎え入れるその空間に、今はとろんと気だるげな夏の熱気だけが横たわっている。

 厨房とカウンターだけあかりを残した、夜の「てしをや」。

 しんと静かなその店内に、じゅ……というフライパンの立てる音と、ほんのり甘い匂いが広がった。

「いいか、たつくん。料理っていうのは、心技体。心意気だけじゃなくてさ、技が必要なんだ、技が」

(……うす)

 響く声のうち、片方は俺のもの。そうしてもう一つは、少しだけぶっきらぼうなニュアンスのある、青年のものだ。

 ただし、青年──龍也くんの声は、正確に言えば、この夜の熱気をふるわせているわけではない。彼の声は、俺の頭の中でだけ、まるで耳元で話しているくらいの近さで聞こえているのだ。

 視線を落とした先では、俺の手が体の主導権を奪い返し、使い込んだ菜箸を握りしめている。その箸先には、いまだとろりとした状態で卵液がフライパンに広がり、ふつふつと小さな泡を立てはじめていた。

「料理はしたことないけど、それでも大切な友達にとっておきの一品を振舞いたい、っていう龍也くんの想いはさ、俺としても素晴らしいと思うし、応援したいよ。でも、卵を二パックもおじゃんにされたら……いや、迷惑とは言わないけど、なんだ、こう、応援の仕方を変えたくなるわけ」

(……すんません)

 偉そうに告げる俺に対して、龍也くんは低姿勢だ。声も低いが腰も低い。初めて会ったときは、その眼光のするどさにびびった俺だが、彼の意外にもぼくとつとした性格を知ってしまってからは、遠慮なくものを言うようになった。

 そんなわけで、俺はまるで、オーケストラを前にぴしりと指示を飛ばす指揮者のように、菜箸をフライパンに差し向けた。

「ま、いいんだけど。そのために俺がいるんだからさ。さあ、巻くよ」

(うす。……すんません、お願いします)

「はは、結局、手出ししちゃって悪いね。まずは見て、やり方を覚えてくれよ」

 なんだか舎弟を得たような気分だ。

 俺はおうような仕草でうなずくと、固まりはじめた卵液のふちにそっと箸先を食い込ませた。

 作ろうとしているのは、出汁巻き玉子。ふんわりとやわらかく、めばじゅわりと出汁の染み出る、分厚い一品に仕上げるのが目標だ。

 俺は最大限こなれた手つきで、ぐっと箸を滑らせる。

 が、まだ固まりきっていなかった卵液は、菜箸で持ち上げられた瞬間にあっさり破れ、べちゃっという音を立てて、フライパンに落下してしまった。

(あ)

「…………」

 一瞬、沈黙が落ちる。

 俺はぎこちない笑みを貼り付けると、さも想定内だというように軽く肩をすくめてみせた。

「……まあ、巻くといってもさ。すぐに巻きはじめるんじゃなくて、こんなふうに、慎重に卵液の様子を確かめるのが重要だ。これを卵液との対話という」

(そうなんすか。知りませんでした)

「はは、俺も最近知ったばっかだから」

 そんな会話で時間を稼ぎながら、卵液が固まるのを待ち、今度こそ俺は菜箸で黄色い膜を持ち上げたのだが──

 はらり。

 ぽろり。

 べちゃっ。

 固まりすぎた卵は、ほかの部分といっこうに接着することなく、つるつると箸を滑って元の位置に戻ろうとするではないか。

「お、お、……むっ!」

 強引に箸で摘めばなんとかカーブまでするものの、箸を離すとすぐに平たい円に戻りやがる。なにくそと大きめに膜を持ち上げると、今度は自重にえきれなかったらしい卵が、ぼろっと崩れてしまった。

「ぬおっ!」

(…………)

 龍也くんの沈黙が痛い。

 俺は「今日の卵液は頑固だな」などとごまかしながら、無理やり出汁巻きを完成させた。

 ──のだが、しかし。

(……なんか、だいぶ、こう……余白が、できたっすね)

 菜箸によってちぎられた破片を強引に丸めていった結果、出汁巻きというよりは、「なにか三つ折りになっている焼けた卵」としか言いようのない物体が出来上がってしまった。

「…………」

(…………)

 夏の夜に、男二人の沈黙が満ちる。

 やがて俺はおもむろにエプロンを脱ぐと、流しの片隅にそれを安置し、尻のポケットに 財布が入っているのを確かめてから、厨房の奥にある裏口に向かった。

(……てつさん?)

 龍也くんが、脳内でげんそうな声を上げる。

 しかし、俺は黙々と歩みを進め、ガチャリとアルミ製のノブに手を掛けた。

 とたんに、夏特有のむわっとこもった熱気が体にまとわりつく。

 突然駅のほうへと向かいはじめた体に、龍也くんが戸惑ったように声を上げたので、俺はきっぱりと宣言した。

「駅の近くのスーパーに行く」

(……はい?)

「そこなら鍋のたぐいも売ってるから、そこで玉子焼き用のフライパンを買ってくる!」

(は!?

 ぽかんとした龍也くんに、「心技体だよ」と、俺はきっぱりとした口調で言い放った。

「心技体だよ、龍也くん。料理はさ、熱い想いと熟練の技術だけあってもだめ。それを受け止めて、形にするための体──適切な調理器具がないといけねえんだよ。うん」

 そうとも。出汁巻き用のフライパンが見つからず、丸フライパンで済ませようとしていた俺が間違っていた。探して見つからなければ、二個でも三個でも買えばいいのだ。

(……えーと)

「心配すんな、支払いは俺が持つから」

(……う、うす……? えーと……すんません、よろしくお願いします)

 龍也くんは、諸々の疑問を抱きつつも、支払いを負担させるという申し訳なさの前に、それらを取り下げることにしたようだ。彼が素直な魂で本当によかった。

「『待ち人』が来る前に、パッと買ってくるからな。練習時間も確保したいし、走るぞ!」

(うす)

 そうして、俺たち──というか傍目には、俺ひとり──は夜道を駆けはじめる。

 なぜ俺が、先ほどから独り言をぶつぶつ言っているのか。脳内で声を響かせる龍也くんは何者で、なんでまた俺たちは客がいない店内で料理なんかしようとしているのか。答えをすでにご存じの方も多いとは思う。

 だがまあ、なにぶん「神様の依頼」は久々で、俺も張り切っているので、ちょっとだけ我慢して聞いてほしい。

 今から一時間ほど前。

 初めて神社に足を運んだ日から半年以上もった夏の夜、久しぶりに神様の声を聞くに至った経緯を。


***


「……なんっか、違う……」

 定休日としている日曜の夕方。

 翌日が祝日のため、せっかくの二連休だというのに、俺と妹のは、昼前から「てしをや」の店内に籠り、夏に向けてのころもえや試作を行っていた。

 手塩にかけて育てた子どもたちに食べさせるような料理を、というコンセプトを持つ「てしをや」は、これでなかなか丁寧な調理やうつわ選びがウリで、季節に応じて味付けを微調整したり、数か月ごとに食器を衣替えしたりしているのだ。

 俺は早々に盛夏用のグラスをみがき終えてしまったのだが、志穂のやつは、南蛮酢に少しずつ酢を加えては味見し、もう半日近くも調理場で考え込んでいた。

「うーん、夏の味……酸っぱくしてるだけじゃないんだよなあ……。たぶん砂糖も一緒に増やしてたよね。……いや、みりん? それとも米酢と黒酢の割合を変えてた?」

 なまじ舌の感覚と記憶力にすぐれているだけに、両親が作っていた「夏の味」との差異が気になるらしい。

 テーブルで盛夏用の箸置き──色とりどりのガラスを溶かし込んだ、涼しげなびいどろだ──を磨いていた俺は、「お兄ちゃんは砂糖とみりん、どっちだと思う?」などと聞かれて、思わずうめき声を上げそうになった。

 わかるかよ、そんなの。

 甘く味付けするための固形の調味料が砂糖で、液体状の調味料がみりん、二つの違いはそんなもんじゃないのか。

 包丁も握らず生きてくること二十五年。ここ半年でようやくレシピ通りのものを作れるようになった俺ののどもとまで、そんな言葉がせり上がる。

「……わかりません。すみません」

 が、同時にこの半年で、そんな言い方をしようものなら妹のがんこうに刺殺されるということも学習していたため、俺はそれをごくりと飲み下し、しゅしょうな口調で返すにとどめた。

 それで正解だったようで、志穂は特に追撃するでもなく、「そっかあ、そうだよね。うーん……」と再び南蛮酢の味探しにぼっとうしはじめる。

 それを横目で見ながら、俺は、いつ「とある話題」について切り出そうかと、ひそかにタイミングを窺っていた。

「なあ、志穂。おまえがそんなに味に悩むなんて珍しいじゃん。チキン南蛮にばっか、ずいぶん時間かかってねえか?」

「んー? そりゃあだって、うちの看板メニューだもん。外せないよ。……んー、みりんじゃなさそうだな……やっぱ砂糖か……」

「そうだよな、大人気メニューだもんなー。あつくんも毎日のように頼む、絶対に外せないメニューだもんなー」

 さりげなく会話に、敦志くんの話題を登場させていく。

 敦志くん、というのは、もちろんときさんの愛息子であり、チキン南蛮が大好物だという、あの敦志くんのことだ。

 彼は、ゴキブリツイート事件でさっそうと事態の解決に乗り出してくれたばかりか、その後も、三日にあげず「てしをや」に通ってくれている。そのお目当ては、看板メニューであるチキン南蛮と──俺の読みでは、看板娘である妹、志穂だった。

 志穂というのは気性こそあらいものの、なかなか可愛らしい顔をしていて、特にくりっとした猫のような目は、男心をくすぐるなにかを持っている。ケンジのようなやっかいな男も含め、実は客から言い寄られることの多い我が妹は、なんとばっちり敦志くんのハートをも射止めてしまったようなのだ。

 けなな敦志くんは、そんなわけで今せっせと志穂にアプローチ中である。

 店には三日にあげずやってきて、会計時には必ず「おいしかったよ」の一言をえ、会社の同僚にも積極的に店を宣伝して、客として引き連れてきてくれる。実に忠犬のような──いやいや、天使のような青年である。

 ただししむらくは、彼は優しすぎるというか、押しが弱すぎるのだ。せっかくのそれらのアプローチも、あくまでも控えめに、恩着せがましくならないように、と最大限の配慮のもと実行している。その結果、鈍感な妹は自分が特別扱いされていることにまるで気付いていなかった。というか、こいつは色気より食い気が強すぎるんだ。

 ちなみに、先の事件をきっかけに店の常連となったたまシェフやしょうさんも、あまりに草食すぎる敦志くんの恋物語を興味深く見守っているらしく、店に来ると「その後、どう?」とにやにや水を向けてくる。

 そのたびに、志穂にばれないよう首を振る兄としては肩身がせまく、機会があれば敦志くんのことを応援してやりたいと思っていた。

 そしてそんな彼は、どうやら最近、志穂を誘って遊びに出かける口実に悩んでいるらしい。まあ、夏といえば恋の季節だし、さいわいなことに今月は志穂の誕生日もひかえている。

 スムーズに事が運びそうな状況にやる気を得た俺は、ひと肌脱いでやろうと、そう思い立ったというわけであった。

「やっぱ、おいしく食べてくれる人がいたら、頑張って作ろうと思うよなー。敦志くん、いつもめちゃめちゃうまそうに食ってくれるもんなー」

「んー? うーん。そうだねえ。……とはいえ、白砂糖だけじゃコクが出ないよね?」

 だが調理に没頭している妹は、俺がせっせと話を振っても、それに気付きやしない。

「いや、コクじゃなくてさ、おまえ。俺はコクったりコクられたりの話をしようとしてんだよ」

「コク……ああ、そうか!」

 軌道修正をこころみる俺の努力を踏みにじり、やつはお玉を握りしめたまま顔を上げた。

「三温糖だ!」

 三温糖だ、じゃねえよ。

 思わず天をあおぎ、ぐるりと目を回してしまう。

 すまん、敦志くん。しょうの妹は、男の純情なんてかけらも理解しようとしない、女を忘れた一匹の料理馬鹿だ。

 いそいそと三温糖を取り出している志穂に向かって、俺はあきれた思いのまま、ついこぼしてしまった。

「ったく、なんでそこまでやるかねえ」

「え?」

「料理。っつーか、この店」

 志穂の目が見開かれる。だがそれに気付かず、俺は箸置きを磨きながらぶつぶつとつぶやきつづけた。

「そりゃあ、親父たちのいで『てしをや』を守り立てようって姿勢は感心するし、俺もまったく同意だけどさ、なんかおまえのやり方って、いっつも微妙に方向を外してる気がすんだよ」

「え……?」

 返事がわずかに低くなる。それが危険な予兆だと何度も学んできたはずなのに、俺は言葉を切り上げることなく、びいどろの箸置きを夕陽にかざして溜息を落とした。

 というのも、俺は俺で、料理馬鹿な妹の姿に、思うところがあったからである。

 両親からたくされた、「てしをや」。

 その「完璧な再現」にこだわるのは、いかがなものだろうかと。

「季節ごとに味付けを調整するとか、箸置きを変えるとか、親のやり方をとうしゅうするのもいいよ。でもさ、この店はもう俺たちのものだろ? そんなしゃかりきになって、全部が全部、親のやり方にこだわる必要あんのかなって」

 念のために言っておくと、別に俺はこの店のメニューを一新してしまいたいだとか、飲食店経営に飽きてきたとか、そんなことを考えているわけではない。むしろ志穂と同じくらい、この「てしをや」を大切にいとなんでいきたいと思っている。だって、両親から「よろしく頼む」と任されたわけだから。

 だが、そう。

 俺は親父たちから託されたのだ。店だけではなく、志穂のことを。

 この、頑固者で、いっこうに親離れしなくて、ときに向こう見ずなほどに一生懸命な、妹のことを。

 俺は箸置き越しに、志穂の姿をかし見た。

「味付けの探求にしたって、もう何時間厨房に籠ってんだよ。夜になったらいつも、足のむくみが酷いとか文句言うくせに」

 流しに隠れる部分から、ときどきトントンと床を叩く音が響くのを、俺は聞き逃しはしなかった。立ち仕事にへいした志穂の足が、血流をよくしようと無意識に動いているのだ。俺もこの半年ですっかり癖になってしまった動きだが、疲労感のにじむその仕草を、二十歳の妹がやるのかと思うと、なんとも物悲しい気分にさせられるのである。

 せっかく見られる顔をしているというのに、こいつは化粧もおしゃれもしないで、いつもジーンズにTシャツ姿。同年代の子たちは、女子大生として甘酸っぱい恋でもおうしているだろうところを、定休日まで甘酸っぱい南蛮酢の味探し。たった一度しかない青春時代の、最後の時間まで、料理、料理、「てしをや」──

 はたして親が望んでいたのは、志穂のこんな姿だったのだろうか。親の亡霊にとらわれている志穂を見て、ふたりは本当に喜ぶのだろうか。俺はもっと、こいつの肩の力を抜いてやるべきなのではないだろうか。

 そんな思いが、俺の頭を占めていたのだった。

「……別にいいでしょ、私が好きでやってるんだから」

「好きでやってるとは言ったってさ、加減があるだろ、加減が」

 俺としては、あくまで志穂のことを思っての発言のつもりだった。

 両親の味を追求する姿勢は素晴らしい。けれど、ほかのものをすべてかなぐり捨てて、両親の方針をなぞろうとするのは、どうなのか。

 休日やほかの楽しみを全部返上して、ただ親の店の再現にこだわるというのは、ちょっと違うのではないかと思うのだ。

「多少去年と味が違ってもさ、いいじゃん、お客さんだって親父たちだって、許してくれるよ。母さんだって、百点満点って言ってたろ? おまえももっと、肩の力抜けよ」

「…………」

 志穂が黙り込む。

 ようやく相手の反応のおんさに気付いて、俺は慌てて笑みを浮かべ、付け足した。

「いやまあ、おまえがそういう性格だってことは、百も承知だけど」

「…………」

 志穂はなにも言わない。握りしめたお玉に視線を落とし、なにか考え込んでいるようだった。夕陽をほおに受け、じっと立ち尽くす妹を前に、俺は冷や汗を浮かべはじめた。

 やばい。まずいぞ。ここで黙り込まれると、どこが地雷なのかがさっぱり掴めない。

 ひとまず、話題の目先を変えて──

「ほら、たとえば明日の祝日、おまえの誕生日も近いだろ? 定休日でもあるわけだし、肩の力抜いてさ。たまには息抜きに、誰かと遊びにでも──」

「……お兄ちゃんは」

 だが、この思いやり溢れるセリフのいったいなにがいけなかったというのか、志穂は言葉の途中でぱっと顔を上げ、ぎろりとこちらをにらみつけてきた。

「お兄ちゃんは、冷たい」

 目つきでわかる。俺はどうやら、地雷を踏み抜いたらしい。

 志穂はぐっと両手を握りしめて、低い声で言い放った。

「そういうのは、肩の力を抜く、って言うんじゃない。……忘れる、って言うんだよ」

 忘れる。その単語の強さに、はっとする。

 思わず言葉を詰まらせてしまった俺を、志穂はその猫のような目でじっと見つめた。

「私、別に、お父さんやお母さんにめられたくてやってるんじゃないよ。二人が死んだ直後みたいに、『てしをや』を完璧に再現したら、日常が戻ってくるって、信じてるわけでもない。ただ……ただ、忘れたくないんだよ。それって、そんなにいけないこと?」

「志穂……」

 俺は、しまった、と思った。

 怒鳴られるわけでもない。物を投げつけられるわけでもない。だが、妹のこういう反応──声が震えそうになるのを抑え込んだり、目がうるむのをこらえたりする様子というのが、実は一番ダメージが大きいのだ。

 志穂は、感情の波を逃すように、視線を逸らして数度まばたきをした。

「大丈夫よ、って言ってくれたお母さんたちに応えたかったから、お兄ちゃんと一緒に、この半年頑張ってきたけど……頑張りすぎたのか、……最近、私、お母さんたちの顔や声が、一瞬思い出せなくなることがあるんだよ」

「それは……」

「びっくりでしょ? 薄情すぎるよね。二十年も、毎日一緒にいたのに、たった半年でもう、一緒に働いてたときの記憶があいまいになってる。私はそれが、すごく、すごく、怖いの」

 なんとあいづちを打てばよいかわからなくて、俺は黙り込んだ。

 死者の記憶を薄れさせることは、きっと健全なことだ。志穂は両親と特別に濃密な時間を過ごしていたぶん、その薄れ具合を人一倍強烈に感じるのかもしれないが、それでも忘却というのは、俺たちが生きていくうえで必要な措置だ。

 だが、それを恐怖ととらえて、自分を責めている相手に対して、安易にそう告げることはためらわれた。

 結局なにも言えずに、箸置きを握りしめたまま固まっていると、志穂は静かにお玉を置いて、鍋を片付けはじめた。

「──志穂?」

「今日中には、もう『夏の味』に辿たどり着けそうにないから。……先に、家に戻るね。悪いけど、箸置きとかグラスの衣替え、済ませといて」

「……お、う」

 つい、返事がぎくしゃくとしてしまう。

 ぎこちなくびいどろの箸置きを整列させ、盛夏用の背の高いグラスを数えなおしているうちに、志穂のやつは黙々と流しを片付け、手を洗い終えてしまった。

「……じゃ、お先に」

 そうして、ぼそりとあいさつを寄越し、勝手口から去ってしまう。

 後には、寂しげな夏の夕陽と──それに照らされながら、布巾を握りしめている俺だけが残った。

「──……う……」

 しんと沈黙の満ちた店内に、詰めていた息がこぼれだす。

 俺は情けなくテーブルに突っ伏すと、

「うおい、おい、おいぃ……!」

 誰にともなく、なげきの声を上げた。

 なんなんだ、この緊迫感は。

 いっそののしってくれよ、お玉でも投げつけてくれよ、こういうじっとりした後味の悪い喧嘩が一番堪えるんだよ俺はさあ!

 声を翻訳すると、こんなところか。

 俺はしばらくテーブルに頬を押し付けたまま「うあああ」とか「うおおお」とか、わけのわからぬ呻きを上げていたが、やがてむくりと顔を上げた。

 だらしなく頬杖を突き、磨き終えたグラスの縁を、こつんと叩く。

「……忘れるのが怖い、かあ」

 いかにも、な志穂らしい。

 いつものように口や手を出してこなかったところを見るに、この物思いは、やつの中で相当深刻にくすぶっているのだろう。

「冷たい、ねえ……」

 やつの主張もわからないではない。でも、俺にはやっぱり、そんな義務感に縛られてせっせと「てしをや」を営んでも、親父たちが喜んでくれるとは思えないのだ。

「…………」

 ぐるぐると、慣れない思考が渦を巻く。

 痛みすら覚えはじめた頭を振り、俺はとうとう布巾を投げ出して叫んだ。

「ああ、もう!」

 ここ最近、志穂とはうまくやってきていただけに、こういう葛藤もなんだか久しぶりだ。

 己の感情処理能力では持て余すモヤモヤを得てしまったとき、人はどうすべきか?

「こりゃもう、人間には抱えきれねえよ!」

 決まっている、投げ出すのだ。

 俺は身に着けていたエプロンをテーブルに放り出すと、個人的な趣味を兼ねている酒の棚から一本を取り出し、神社への道を辿りはじめた。


***


 東京の夏は、とにかく日が長い。

 十九時を回って、ようやく暗くなりはじめた空を見上げながら、俺はぱたぱたとTシャツのえりもとを掴んで風を送った。昼ほどではないが、やはり暑い。

 だがそれも、木々がうっそうと茂るけいだいに踏み入ると、少しだけ和らいだようだ。

 わずかにりょうを含んだ風に表情を緩めながら、手水で指を清め、古びた鈴を鳴らした。

「お久しぶりでーす」

 がろん、がろん。

 一歩下がって御堂の様子を見守る。だが、どれだけ待ってもそれは、光るでも声を発するでもなかった。

 もう、いつものことだ。

「……今日も空振り、かあ」

 無人の境内をぐるりと見下ろし、俺は静かに苦笑を刻む。

 なかば以上予想していたこととはいえ、何度経験しても、このすげない反応にいちいちがっかりする自分がいた。

 さいせん箱の横に冷酒の瓶を置いて、その能書きなんかを説明してみるが、その声も尻すぼみになり、やがて途切れる。

 俺は目を伏せたまま、鈴緒を緩く揺すった。

「……せめて、うんとかすんとか、言ってみてくださいよ……」

 そう。両親の魂を「下ろし」たのを最後に、神様は二度と、俺たちに声を聞かせてくれることはなかった。

 志穂とともにお参りしても、好きそうな日本酒をぶら下げてきても、無反応。

 いや、厳密に言えば、気配を感じることはあったし、神様に願ったとたん巡り合わせよく問題が解決したことだってあったが、──かんじんの神様自身は、両親の件を最後に、けっして俺たちの前に現れてくれなかったのだ。

「──ま、いいですけどね。神様とはもうこれっきり、俺ももう前を向く。きっとそのほうが、健全だ」

 負け惜しみのように呟きながら考えたのは、もちろん、妹と両親のことだ。

 忘れるのが怖いといった志穂。薄情だと、自分を責めているようである妹。やつは、俺のことを冷たいとなじった。

 だが、死者と心の距離を置くことは、そんなにもいけないことだろうか。

 だって、俺たちは生きていて──生きて親父たちの遺志を継いでいかなくてはならなくて。そのためには、いつまでも後ろばっかり向いていてはならない。

 自転車に乗りはじめた子どものように、何度も何度も、親の手が自分を支えてくれているかを振り返って確認するのではなく、自分の足を信じて、力いっぱいペダルを踏みこまなくてはならないと思うのだ。それこそが、両親の望みだと思うから。

 だが──

「……まあ、でも、……志穂の言い分も、わからないではないけど」

 うっすらと汗をかきはじめた瓶を眺めながら、ぽつんと漏らす。

 俺が、先ほど志穂に自分の考えを伝えられなかった理由。

 それは、俺自身、心のどこかでは、両親の死を過去の出来事として処理する行為に、抵抗を覚えているからだった。

 いつまでも死んだ人間に囚われることは、非生産的で、甘ったれで、無責任だ。だが同時に、ものすごくしんで、優しくて、とうとい行為のようにも思う。それを、ばっさりと切り捨てることは、さすがに俺にもできなかったのだ。

「なーんか、うまい方法は、ないですかねえ。助けてくださいよ」

 俺はがしがしと頭をき、ばつの悪さをごまかすように御堂に話しかけた。

「志穂のやつだって、いつもみたいにがつんと反論してこなかったところを見るに、きっと心のどこかでは、親離れしなきゃって思ってるんですよ。で、俺のほうも、あいつの言い分にも一理あると思ってる。……うまく折り合う地点が、ある気がするんですよねえ」

 これは、いつもの兄妹げんではない。

 どちらが正しいとか、正しくないとかの問題でもない。

 きっと、もっと大切で、俺たちが丁寧に、ふたりで、答えをすり合わせなくてはいけない類のものだ。


 ──うん。


「ね? そう思うでしょ? でも俺たち、相手に自分の正しさを認めさせる喧嘩はしてきたけど、一緒に答えを見つける作業って、ほとんどしたことがないんですよ」


 ──すん。


「はは、なんすか、『すん』って──……すん!?

 俺はぎょっと顔を上げて叫んだ。

「『すん』!?

 動揺のあまり、声がひっくり返る。

 だが、そんなしゅうたいなど知らぬげに、しんと建っている御堂は──ほのかに、温かな光を発していた。

 光る御堂。


 ──おまえが言えと言うたのであろうが。


 その、老若男女のどれともつかない、不思議な声。

「か……っ!」

 俺は、目をまん丸に見開いた。

「神様──!?


 ──あっ、こら、身を乗り出すではない。靴底が酒瓶に触れそうではないか。


 心持ち慌てたように、酒瓶の安否を気遣うその声の持ち主は、間違いなく、神様だった。

「どっ、……え、ちょ、……ええええ!?

 ずっと再会を期待していたはずなのに、叶わないと思い込んでしまっていたぶん、俺は盛大に取り乱してしまった。

「神様!? え、なんで!? 嘘! まじ!? 嘘!」


 ──嘘なのなのか、どちらが言いたいのだ、おまえは。


 あげく、いつだったか志穂が食らったような突っ込みを受けてしまう。

 俺ははっと我に返り、深呼吸をして心を整えると、それでも抑えきれなかった喜色を滲ませ、日本酒の瓶を御堂に向かってかかげた。

「神様! お久しぶりです! 酒! 酒持ってきましたよ! 今日は特別に冷酒! あっ、もしかして、冷酒につられちゃった口ですか!? まったくもう、しょうがない人だなあ!」

 どうしよう。なんだか、すごく嬉しい。実際には半年ちょっとだが、なんだか十年ぶりに親友に会ったくらいの気分だ。


 ──いや、つられておらぬし。すでにそれでは温もって、冷酒というより冷や酒だし。人ではないし。


 浮かれてまくし立てると、神様はぼそぼそと反論してきた。実に丁寧な拾いぶりだ。

 俺はますます嬉しくなった。

「もー、相変わらずじゃないですか。どうしてずっと声を聞かせてくれなかったんですか。寂しかったですよ、こっちは!」

 つい気安く、まるで少しだけ年上の先輩に対するような態度で接してしまう。

 だが、それに神様は気を悪くした様子もなく、いつもの、ぬけぬけとした口調で答えた。


 ──まあ、なにかと忙しくてなあ。


 なんだか、肩でも竦めていそうな様子だ。

 だが、半年に及ぶスルーの理由を「忙しい」の一言であっさり片付けられてしまった俺は、ちょっとむっとして、思わず顔をしかめてしまった。

「忙しいって……。そうはいっても、半年以上にわたって毎回酒をみついできたんだから、ちょっとくらい、反応してくれてもよかったのに」


 ──む? しただろうが。酒をもらうたびに、ひとまず鈴は鳴らしておいたぞ。あ、いや、忘れたか? 二、三度は忘れたかもしれぬ。


「…………」

 なんだろう。神様にとっての鈴を鳴らす行為は、俺たちで言うところの「メッセージアプリでどくスルーを避けるために、ひとまずスタンプを返しとく」みたいなものなのだろうか。しかもこの神様、それすらもけっこうな頻度で忘れてやがる。

「いえ、俺としては、あなたと話したかったんですけどね。願い事がなきゃいけないのかな、って、健気に願い事をひねり出したり、せっせと丁寧に話しかけたりしてたのに……。それもスルーするほどに忙しかったんですか? 神様にはんぼうでもあるんですかね」

 久々に会えた反動で、ついそんな恨み節を口にしてしまったところ、神様からは予想以上にげんなりした反応が返ってきた。


 ──あのなあ。三が日に一年分の願い事を押し付けられ、それを早期に解決してやらねば「ごやくがない」と信徒離れを起こす今日きょうだぞ。いわば、一年分の仕事を上半期ですべて片付けようと日々残業している、その決算が目前に迫ったさなかに、隣の席に後輩がやってきて、やれ「彼女がほしい」だの「巨乳だとなおいいです」だの言われたら、おまえ、どんな対応を取る?


「う……」

 なんと身につまされる例えだ。俺は静かに視線を逸らした。


 ──あげくそやつは、差し入れを持ってくるのはいいが、やたら長々と、理想の彼女像について語るときた。最初は丁寧に話を聞いていても、やがて相槌だけになり、しまいには生返事になる。それが世の常というものだろう?


「……す、すんません……」

 どうやら俺のこんしんの語りかけは、神様の心を動かすどころか、単純な負荷にしかなっていなかったらしい。

 言われてみるとたしかに迷惑な話だったので、俺は口をもごもごさせて謝った。

 が、


 ──そんなやからからは、ひとまず酒だけもらっておいて、それだけおいしく頂いておこうかと、そう思うではないか。


「結局酒は飲んでたんかい!」

 続いた言葉に、がくっとその場に倒れ込みそうになる。

 思わず突っ込むと、神様は真顔で──表情はあくまで俺の想像だが──、前々回差し入れた福島の純米酒が好みだと答えた。

「神様……」

 相変わらずの態度に、思わず脱力してしまう。

 だがそれ以上に、この久々のけんげんや会話をすんなりと受け入れている自分がいて、俺は無意識に笑みを浮かべていた。

「じゃあ今度、またその酒を持ってきますよ。お疲れさまでした。久々に現れたってことは、もうだいぶ、『お仕事』も片付いたんでしょう?」


 ──うん? ……ああ。まあ、なあ。


 だが、返答はいささか歯切れが悪い。

 どうしたことかと首をかしげていると、神様はやけに遠回しに話を続けた。


 ──その、なんだ。人の世でも、できる人間にばかりどんどん仕事が回ってくる、という現象はあるだろう? あるいは、一回限りでやめるつもりだったキャンペーンが、予想外に好評で、翌年以降も続けざるを得なくなった、といったようなことが。


「はあ……?」

 毎回思うが、神様というのは、こうも俗世の事情に通じているものなのだろうか。

 曖昧に相槌を打ちながら、頭の片隅にふとある考えがよぎって、俺は「まさか」と口の端を引きつらせた。


 ──やはり、人にならいたがる国民性とでもいおうか。あるいは、口上によるでん──クチコミの威力が増した世になったといおうか。まあ、なんだ、そのだなあ。


「……はっきり言ってくれませんか」


 ──……この神社に来たら、おまえが体を貸してくれると知った魂たちが、何十、何百という列をなして陳情しにきた。


「まじかい!」

 うっすらと思い浮かべた可能性が、どんぴしゃ事実だったことに、俺は思わず叫び声を上げた。

 とっさにばっと己の体を両手で抱きしめ、あごを引いて御堂を睨みつける。

「言っときますけど、そうほいほい乗り移らせたりしませんからね! 俺は、イタコやシャーマンじゃないですから!」

 そりゃあ両親の件では深く感謝しているし、頼まれたら協力するのだってやぶさかではないが、俺の体は公衆しろなんかではない。見ず知らずの何十、何百という魂に体を貸しつづけるのなんてごめんである。

 警戒心をマックスまで引き上げて御堂を見つめていると、


 ──わかっておるさ。


 神様は深い溜息を落とした。


 ──言うたであろう。私の仕事は、願いと願いをり合わせることだと。おまえの願いがそれに沿わぬ限りは、私とておまえに魂を下ろしたりはせぬ。魂たちにも道理をさとし、おおむね理解を得たさ。時間はかかったがな。


「そ、そうですか……」

 ほっと胸をで下ろす。

 そうだ。そういえばこの神様は、いろいろいい加減なように見えて、その実、妙にりちなところがある。これまでだって、無茶ぶりをしてくるようでも、最終的には俺も含めてすべてが丸く収まるように手を打ってくれていたのだ。もしかしたら、これまで俺に話しかけずにいたのも、俺を巻き込むまいとしたからかもしれなかった。

 現金にも、というべきなのだろうか、そう思うと、俺はにわかにこの神様に手を貸したくなってしまった。

「あの……ほいほい乗り移られるのはごめんですけど、その……神様がどうしてもって言うんなら、別に俺、体を貸さなくもないですよ……?」

 時江さんにぎんさん、うめさんに、ジルさん。これまでに出会った魂は、けっして悪い人たちではなかった。それどころか、初心者の俺に丁寧に料理を教え、もういいよというくらい感謝を向けてくれた。俺にとってもこれらの経験は、素晴らしいものだったと断言できる。

「神様が選ぶ魂なら、安心ですし。きっと、俺のことも考えてくれるんだろうなって、そう思えるし。それくらいには、俺、あなたのこと、信じてますから」


 ──おまえ……。


 心を込めて告げると、神様は少し感じ入ったようだった。

 しみじみと頷くように、御堂が優しく光る。

 それを見て、俺はちょっとくすぐったい気分になった。


 ──おまえ、よい男よなあ。いや、立派。近年まれに見る、情の厚い男であることよ。


「いやいや、そんな」


 ──けんそんせずともよい。私を信じる、この身を任せるからぜひ用立ててくれと言い切ったその態度、まことあっれな男気であるよ。


「……いやいや? そこまで言いましたっけ?」

 ちょっと怪しくなってきた雲行きに、俺はえっと顔をこわらせた。

 が、神様は、人の子の戸惑いになどまったく頓着せずに、上機嫌に語りつづけた。


 ──うむ。そこまでの信仰を捧げられては、私も張り切らずにはいられんな。柄にもなく遠慮しかけたが、据え膳食わぬはなんとやらだ。奉納品を鷹揚に受け取るのも神の品格。徹底的に使い倒……もとい、ありがたく用立てようぞ。


「ちょ! 今、本音! すごく不穏な本音、滲んでませんでした!?


 ぎょっとして叫んだが、時すでに遅し。

 いつの間にか陽が落ち、すっかり夜の闇に包まれた境内に、見覚えのある白いもやこごりだすではないか。


 ──こやつ、根は素直な魂なのだが、どうにも年若いぶん、未練が強くてなあ。どうしても友に会いたい、飯を振舞いたいと言うて聞かぬのよ。


「いや、ナチュラルに魂の説明に移行しないでくださいよ!」

 しれっといつもの流れに乗せてこようとする神様に、俺は全力で噛みつくが、その間にも靄は形を固め、輪郭を淡く光らせた青年の姿を取った。

 適当に着崩した、校章入りのカッターシャツにズボン。上背のあるがっしりとした体に、 短く刈りあげた髪。

 今回の魂はずいぶん若い。高校生だ。

『──……うす』

 そして彼はあまり、社交的なタイプではないらしい。軽く目礼して、短く告げた。

「いや、うす、じゃなくて……、あ、いえ、どうも……」

 呑気に魂と挨拶を交わしている場合ではないのだが、相手の、年齢に見合わぬ眼光の鋭さに、ついもごもごと答えてしまう。

 なんだ、この子。人相が悪い、と言ったら失礼だが、すごみがあるというか、ひどく威圧感に満ちた顔つきをしている。

 高校生らしからぬ迫力に、思わず呑まれて硬直していると、神様が妙に浮かれた口調のまま話しかけてきた。


 ──なあに、顔は怖いし、不器用だし、口調はぶっきらぼうだが、なかなか朴訥としたい魂よ。悪いがこやつの未練を晴らしてやってくれ。おまえの願いについては、こちらでうまくやっておくから。


「いや、だから、そうじゃないでしょ……って、願い? 俺、願い事なんてしましたっけ!?

 ああ助かった、と言わんばかりの神様の態度に突っ込みたい思いが半分、願い事などしたかと怪訝に思うのがもう半分。

 御堂にちらちら視線をやりながら、鳥居の前にたたずむ魂に冷や汗を浮かべていると、青年の靄がすっと前傾姿勢を取った。

『……じゃ、すんません。よろしくお願いします』

 意外にも礼儀正しい。

「……って、いや、そうじゃなくて!」

 心の準備ができていなかった俺は、とっさに両手を突き出したものの、そんな防御態勢も視界に入らぬとばかりに、青年はいかにも学生の名に恥じない、素晴らしい勢いでこちらにダッシュしてくる。

「わ、わ、わ……!」


 ──よし、今回は大盤振る舞いだ。何度だって叶えてやるぞ。「うん」! 「うん」!


 パニクる俺をよそに、神様はなにやらご機嫌で頷いていた。

 ……って、もしやこれは、「うんとかすんとか言ってくれ」という先ほどのぼやきに対する答えなのだろうか。

「いや! 違うよ! それ、願い事じゃねえよ!」


 ──む? 違うとな?


 青年の、そのド迫力の顔が近づいてくる。ぎろりとこちらを見据える鋭い眼光が、まるで獲物を追い詰める肉食獣のように俺をまっすぐにつらぬいてくる。

「うわ……っ」

 俺はもはや神様への文句も忘れ、冷や汗を浮かべて目を見開いた。


 ──ああ、そうか。では、こちらだったか。


 彼のこの勢いでは、なんだかフュージョンなんて生易しい結果になりそうにない。このままではぶつかる。弾き飛ばされる。破裂する。


 ──「すん」!


 ふわん。

 神様のやけに気迫の籠った声とともに、間の抜けた音が辺りに響く。

 次の瞬間、

(……おお、入れた……)

 感じ入ったような、当惑したような、低い呟きが脳裏に聞こえ、俺は意外にもすんなりと、フュージョンを果たしてしまったことをさとった。


 ──こやつの待ち人は、よき時に店に向かわせるからな。よろしく頼んだ。すん!


 がくぜんとする俺をよそに、神様はからから笑いながら話しかける。

「す……っ」

 俺はぷるぷる震えながらこぶしを握った。

 いや別に、落ち着いて考えれば、これまでのように魂に体を貸すこと自体は、なんら問題はない。使い倒す、だなんて言ったって、結局この神様はそんなことしやしないだろう。それくらいはわかっている。

 だが、もう少し心を整えさせてくれよ、ということとともに、一つだけ叫ばせてほしい。

「『すん』じゃねえええええええ!」

 夏の夜の境内に、俺の叫びがむなしく響いた。


***


 このたび俺に乗り移った青年の魂は、見立て通り高校生。名をいい龍也くんといった。

 あまり口の滑らかでないタイプの彼から、店へ向かう道すがら苦心して事情を聞き出したところ、どうやら、春先──ちょうど彼が三年生に進級するタイミング──に、交通事故にって亡くなったのらしい。

 高校近くのコンビニで友人と待ち合わせをしていたところ、アクセルとブレーキを踏み間違えた車に突っ込まれたとのことだった。

「あ、それ、ニュースで見たことがあったかも……。その……、災難だったな」

(うす)

 龍也くんのすごいところは、近づいてくる車に異変を察し、とっさに隣で本を立ち読みしていたご老人をかばったところだった。結果、死者は龍也くんひとり。かばわれた女性は、膝にり傷を負っただけで済んだ。

 事件を思い出しながら、俺がなんとも言えずに黙り込んでいると、龍也くんは淡々と、

(まあ、死者が俺ひとりで済んだのは、まだ幸いでした)

 と続けた。

 祖父に憧れて警察官を目指していた龍也くんは、人をかばっての死については、特別無念に思うことはないのだそうだ。

 どうしよう。龍也くんがイケメンすぎて泣ける。

 俺が勝手にぐっときていると、彼はわずかに眉を寄せる素振りを見せた。

(ただ、それでマコトのやつ……あ、俺の……まあ、ダチ、なんすけど、そいつが、すっかり参っちまってて)

 龍也くんによれば、その日、待ち合わせ場所を指定したのは友人──マコトくんというようだ──のほうであったらしい。そのために、龍也くんが死んだのは自分のせいだと、マコトくんは夏の今になってもしょうすいしきっているとのことだった。

(……俺、見た目がこんなだし、口もうまくないんで。学校で話してたのって、そいつくらいで。そいつがろくに飯も食わないで、日に日にやつれていくの、見てられないんす)

 こんなに素敵な人柄の龍也くんだが、その筋の方顔負けの容貌と──黙っているとそれだけで「お怒りですか……?」と恐れられるのだとか──、一年前に転校してきたという事情も手伝って、学校ではほとんど友人がいなかったらしい。唯一、毎日会話をし、昼食をともにしていたというマコトくんの物思いだけは晴らし、しっかり飯を食って頑張れよと励ましてやりたいのだと、彼の主張をまとめるとそういうことだった。

「わかった……! わかったよ……! 友達の物思い、絶対晴らしてやろうなあ……っ」

 龍也くんの話を聞いただけのこの時点で、俺はもううるっときそうな思いだった。だって、龍也くんも、マコトくんも、互いを思う友情が素晴らしすぎる。

 龍也くんのこわもてにもめげずに、彼と友情を築き上げてきたマコトくんとやらも、きっと男気に溢れた、いいやつなんだろうなと思い尋ねると、しかし彼は少し首を傾げた。

(……いや、いいやつとは思いますけど。男気……?)

「え? 違うの?」

 俺の脳内では、すっかり武闘漫画ばりの、タイプの異なる筋骨隆々とした男たちが、握手を交わすシーンが浮かんでいたのだが、そういう感じではないらしい。

 龍也くんは少々困惑したように、どちらかといえば内気で繊細ですね、と答えた。

「……よく、龍也くんと友達になったね?」

(うす。そいつ、俺にちょっと借りがあって。それを、いっそ食い物で返してくれないかと持ち掛けたら、毎日弁当を持ってきてくれるようになったんす)

「…………ううん?」

 どうしたことだろう。うるわしき友情の図が吹き飛んで、代わりに、気弱な委員長タイプの生徒からカツアゲして弁当を奪い取る龍也くんの図が浮かんできたぞ。

「……と、友達、なんだよね?」

(……たぶん?)

 言葉少なに答える龍也くんからは、真意が読み取れない。

 が、ちょうど「てしをや」の裏口に着いてしまったことも手伝い、俺は頭を振って、強引に思考を切り替えた。

 なにせ神様の選んだ魂。未練の内容からしても、龍也くんがいいやつであることは間違いないし、少なくとも、飯を振舞おうとすることが、害意によるものであるはずがない。

「よし! やろう! それで、なにを作るんだ?」

 店に足を踏み入れながら、張り切って俺が尋ねると、龍也くんはやはり低い声で答えた。

(出汁巻き玉子を。……いつもそいつの弁当の中で、一番うまかったんで)

「ああ、思い出の一品ってことか。いいねえ。龍也くんも、料理が得意なんだ?」

(いや……)

 しかしそこで、彼は消え入るような声で続ける。

(俺……料理、したことないっす)

「え!?

 俺は思わずぎょっと目をむいた。これまでにない展開だ。

 絶句してしまっていると、龍也くんは言い訳するように付け足した。

(すんません。でも、神様が、玉子焼きくらいなら初心者でもいけるんじゃないかって。まずは自力でやってみて、だめそうなら哲史さんにやり方を教えてもらって、それで、振舞えばいいって)

「俺が教えんの!? ……あ、ああ、そう。そう、だな、うん」

 神様め、なんという無茶ぶりを、と内心で思わないでもないが、考えてみれば、半年以上定食屋をやっているのに、出汁巻き玉子ひとつ作れないというのもアレな話だ。

 俺はこっそりと尻ポケットの中のスマホ──に落としてあるレシピアプリを手で探りながら、鷹揚に龍也くんに頷いてみせた。

「そうか、頑張ろうな。いざとなったら、俺がばっちり、作り方を教えてやるからさ」

 大丈夫。この前とうとう、このレシピアプリの有料会員に登録したばかりだ。一番簡単で一番うまい出汁巻き玉子の作り方が、ものの数秒で検索できるはずだ。

 大人は、金の力を使って無双するのだ。

 俺は、「うす」という龍也くんの返事を聞きながら、エプロンを身に着けはじめた。


***


 結論から言おう。

 金の力は、圧倒的無知と経験不足の前に早々に膝を突き、俺たちは満足水準の品を作り上げるのに、二時間近くの時間を要した。

「長かった……!」

 俺は、ちょこんとまな板に鎮座するシンプルな卵料理を横目に、がくりと流し台にもたれかかった。

 広々としているはずの厨房には、殻が入ったままのボウルが重ねられ、ところどころ、片栗粉やら牛乳やらべったりとした黄色い卵液やらが飛び散っている。

 さんたんたる、と称して差し支えない厨房。それが、俺たちの努力の軌跡だった。

 厨房に入って、真っ先に龍也くんが悩みはじめたのが、材料はなにかということ。

 卵を使うというのはわかる。だが、何個? 調味料は? 出汁巻きというからには出汁を入れるのだろうが、ではどのくらい?

 ここらへんのおうのうぶりは、同じく料理下手の俺には、よくわかる。

 そこで俺は、すかさずレシピアプリの使用を提案した。俺もやり方がわからないと思われるのは気まずいので、あくまで、「参考に見たければ、いいよ」というていで、だ。

 しかしすると今度は、その情報量の多さに、俺たちは翻弄されることとなった。

 一番人気のレシピは弱火でじっくり焼けとあり、念のため調べた二番目のものでは強火で一気に、とある。マヨネーズを入れろというもの、水を加えろというもの、いや片栗粉だ、牛乳だ、バターだ、と、出汁巻き玉子をふんわりと仕上げるコツにも諸説あり、俺たちは十分もしないうちに、混乱の坩堝るつぼに叩き込まれることとなった。

 しかも龍也くんが言うには、その出汁巻き玉子というのは、

(……しっかり甘いんすけど、こう……じゅわっと、しょっぱい? 感じもするんす)

 という、絶妙な塩加減であったらしいのだが、どのレシピに従えばそれに近くなるかわからないのだ。

 結局しびれを切らした龍也くんは、やがて無言でスマホを置くと、

(……ひとまず、やってみます)

 と、なにか覚悟を決めた面持ちで、卵を手に取ったのであった。

 だが、勇ましく調理を始めた龍也くんの、不器用なこと、不器用なこと。

 卵を割ろうとしたらもれなく殻ごと粉砕し、かき混ぜようとしたら卵液を跳ね飛ばし。

 塩をボウルに振り入れるつもりで瓶ごと突っ込み、フライパンに油を少量引くつもりで大量に注ぎ込む。

 それでも無理やり調理を進めた結果、数十分後には、調理場一面の地獄絵図が完成していたと、そういうわけであった。

「よ、よし、龍也くん。君はよく頑張った。バトンタッチしよう!」

 自力での調理を試みる龍也くんを見守っていた俺だが──そしてまた、下手に手を出して事態を悪化させるのを恐れていた俺だが──、これ以上状況が悪くなることもあるまいと判断し、いよいよ助力を申し出る。

 すると龍也くんは申し訳なさそうに、体の主導権を俺に引き渡した。

 そうして、俺は偉そうに心技体のご高説を垂れ、まあ途中で玉子焼き用のフライパンを買いに行くというハプニングはあったものの、そこからの猛練習を経て、なんとか見目も美しい、出汁巻き玉子を完成させるに至ったというわけである。

「やっぱ出汁巻きって言うだけあって、出汁はたっぷり入れて正解だったな……」

(うす。あいつの弁当のまんまの見栄えっす。さすがっす)

 最初は砂糖の分量すら想像のつかなかった俺たちだが、「しっかり甘い」という龍也くんの証言を信じて思い切りよく砂糖を加え、バランスを取るために塩もきちんと加えてみた。

 出汁については、風味を増す程度しか入れないつもりだったのだが、手元が狂い、ざばっと入ってしまったのを、龍也くんの手前「これでいいんだ」とごまかしたのだ。卵液が水っぽくなったぶん、巻くのは大変だったが、箸で押さえただけでじゅわっと出汁が染み出るような、ふわふわの食感に仕上がったと思う。

 料亭で出てくるような出汁巻き玉子は、で締めるのが一般的のようだが、龍也くんが目指しているのはお弁当に入っている一品なわけなので、そこは割愛だ。

「よ、よし。味見してみよう」

(うす)

 ここに至るまでの失敗作ですでに腹いっぱいだが、やはり人様に出す以上、事前に確かめずにはいられない。

 それに俺の勘では、今度こそ、うまい出汁巻き玉子に仕上がっているはずだった。

 いまだ湯気を立てている薄黄色の塊に、そっと包丁の先を食い込ませる。

 すっと切れ目を入れたとたん、わずかにとろみを残した断面が現れた。ここまでは、上出来だ。

 ひと口サイズに切った熱々のそれを、恐る恐る口に運び──

「……んん!」

 俺はかっと目を見開いた。

「ふまい!」

 はふはふ言ってしまったのは、出汁巻きが予想以上に熱かったからである。

 ちん、と歯が焼けそうな熱の後には、口いっぱいに広がる出汁の風味。火の通りすぎた玉子のもそもそ感などかけらもなく、ただ絹のように滑らかな感触が、そっと舌に伝わってくる。

 じゅわ、と出汁がこぼれ出るのとともに、三温糖のこっくりとした甘みが口内に満ちて、至福だ。

 俺が静かにガッツポーズを固めていると、脳裏で龍也くんが感動の声を上げた。

(すげ……。まんま、これだ)

 彼が弁当で日々食してきた出汁巻き玉子と、無事同じような味に仕上がったらしい。

(そうっす。こう、甘くて、でもちょっとしょっぱいっつーか、菓子っぽくない、深みのある甘さで……)

「出汁と、あとは三温糖がよかったのかね。白砂糖よりもコクが出るんだ」

 志穂から聞いたばかりの知識を披露すると、龍也くんは敬意が溢れる仕草で頷いた。

(哲史さん……すげえ)

 なんていい子なんだろうか。

 熱々の出汁巻き玉子と温かな龍也くんの反応で、心身ともにすっかり元気の出た俺は、「へへっ」と鼻をこすり、それから腕まくりをした。

 これで出汁巻きの練習は完璧だ。

 あとは、白飯にしるの準備でも、と、片手鍋を取り出したその瞬間。

「──……あの」

 玄関がからりと開き、とうとう龍也くんの待ち人がやってきた。

「いらっしゃいませ。暗いですけど、営業中なんで、どうぞ奥に──」

 すっかり定型句となりつつある挨拶を口にしかけて、しかし俺は思わず言葉を途切れさせてしまう。

 なぜならば。

「あ……やってるんですね、よかった……」

 おずおずと店内に踏み入る、革靴に包まれた小さな足。濃紺のハイソックスに、カッターシャツとチェックのスカート、リボンタイ。

「ちょっと持ち合わせが少ないんですけど……軽くでいいので、食べられますか?」

 小さめの声で、そう問うてきたのは、筋骨隆々のライバルキャラでも、ガリガリ眼鏡の文系男子でもなく、──小動物のような黒目が印象的な、女子高生だったのだから。


***


 ダチというのが、まさか女友達、それもこんなかわいい女の子だとは思わなかった。道理で、「男気」とか「友達だよね?」という確認に微妙な反応を返したはずである。

 つまりあれか、龍也くんは「自分、不器用ですから」みたいなことを言っておきながら、 毎日女子高生と弁当を食って、しかもおかずを分けてもらっていたわけか。リア充め!

 俺が内心で龍也くんの脇を小突いていると、マコトちゃん──今更の情報によれば、ことと書くらしい──は、きょろきょろと不安そうに店内を見回した。自分以外に客がいないのに引け目を感じたのだろう。あるいは、ファミレスやコーヒーショップならともかく、夜の定食屋にひとりで入るというのは、女子高生からすればなかなかのハードルなのかもしれない。

 俺は慌てて物思いを切り上げ、真琴ちゃんを席に通した。

「どうぞ、お絞りです」

「あ、すみません……」

 夏用に、キンキンに冷やしたお絞りとお冷やを差し出すと、マコトくん──改め、真琴ちゃんは、恐縮したようにそれを受け取る。ひとつひとつの仕草がなんとも小動物的だ。

 華やかなタイプというわけではないが、色白の肌やさらさらとした黒髪、控えめな佇まいが、あと数年もすればすごく美人になるんだろうな、と思わせる女の子だった。

 外が暑かったのだろう、真琴ちゃんは冷たい水をひと口飲むと、少しだけほっとしたように息をついた。

 そうして、

「あの……本当に、営業中、なんですよね……?」

 遠慮がちに尋ねてくる。

 実は定休日ですけどね、という事情は隠しつつ、俺が「はい。お客さんが少なくって不安ですよね、すみません」と軽くびると、彼女は慌てたように両手を突き出した。

「あっ、いえ、そうではなくて……! 本当はもう閉店なのに、私が来たから店じまいできないとか、そういうことだったら、申し訳ないなと……!」

 天使か。

 爪の垢をぜひ売ってほしい。志穂のやつに飲ませるから。

 俺はそんなことを思いつつ、ふと心配になって真琴ちゃんに問いかけた。

「いや、そんなことは全然ないんで、大丈夫なんですけど……君、高校生だよね? それこそ、こんな時間まで出歩いてて、大丈夫?」

 ちらりと時計を見れば、もう二十一時半を回っている。野郎だったら気にしないが、女の子となれば話は別だ。

 少々口調を砕けさせて尋ねると、真琴ちゃんは軽く首を振り、

「はい、予備校帰りは、いつもこれくらいなので」

 と答えた。

 なるほど、そういえば彼女たちは受験生で、今は天王山とも言える夏なのだった。

「それでも、普段は寄り道なんてしないんですけど……、なんだか、まっすぐ家に帰りたくなくて、駅の周りをぷらぷらしてたら、このお店を見つけて……」

「はは、さては模試の成績でも悪かったとか?」

 あまりに申し訳なさそうに告げるので、いなすつもりで軽く返すと、彼女はちょっと目を見開き、それから小さく笑った。

「……いえ、上出来でした」

 なぜだか、困ったような笑みだった。

 不思議に思った俺がそれを問うよりも早く、真琴ちゃんは「あの」と眉を下げた。

「すみません、私、なんだか急にお腹が空いて、その衝動で来ちゃったものだから、定食を頼めるほどのお金を持ってなくて……。失礼かもしれませんが、飲み物だけとか。単品だけとかでも、大丈夫ですか……?」

 なにしろ学生だ、そんなこともあるだろう。

 もとより、神様案件で儲けるつもりなどなかった俺は、ふと口実を思いつき、彼女に笑いかけた。

「ちょうどよかった。それなら、無料で新メニューの試食に、付き合ってくれないかな。サービスで飯や味噌汁も付けるから」

「新メニュー、ですか……?」

 ちょっと戸惑ったように首を傾げる彼女に、俺は安心させるように「そう」と頷く。

 毎日お弁当に出汁巻き玉子を入れていたという真琴ちゃん。

 よほど好物なのだろうし、きっと喜んでくれるだろう。

 俺は自信たっぷりに、

「出汁の味しっかり、甘みたっぷりの、出汁巻き玉子」

 と言い切った。

 ──のだが。

「…………」

 真琴ちゃんは、顔を輝かせるでも、興味深そうにするでもなく、静かに息を呑んだ。

「……そう、ですか」

 ややあってから、ぎこちなく笑みを浮かべる。

 その態度に、こちらのほうが焦ってしまった。

 もしや、実は苦手なおかずだったりしたのか? そんな馬鹿な。

「えっと、……もしかして、嫌いだった……?」

「あっ、いえ! そんな! 好きです、出汁巻き玉子!」

 真琴ちゃんは胸の前でぶんぶんと右手を振る。しかし、やがてそれを緩めると、自分を落ち着かせるようにぎくしゃくと髪を耳にかけた。

「毎日お弁当に入れるくらい……大好物、で……」

 そうして、軽く握った拳の甲で、きゅっと口元を押さえる。

 呼吸ふたつ分ほど、その姿勢のままなにかを堪えるようにうつむくと、真琴ちゃんはゆっくりと顔を上げた。

「大好物、なんです。……だから、ぜひ。お願いします」

 どこか、覚悟を滲ませたような表情で。



 素早く三つ割り入れた卵を、ボウルの底に菜箸を付けたままさっくりとかき混ぜる。

 加えるのは三温糖と塩、そしてたっぷりの出汁だけ。偶然の産物もあるが、それが、俺たちが試行錯誤の末、辿り着いた、最もおいしい出汁巻き玉子のレシピだった。

 油を引き、うっすら煙が出るほど熱したフライパンを一度濡れ布巾でなだめてから、まずは卵液を三分の一投入。ふくっ、ふくっ、と生まれる気泡を菜箸でつぶしながら、半熟の状態で素早く手前に丸めていく。ここでは多少形が崩れても気にしない。

 丸まった卵を一度奥に押しやり、菜箸でちょっと持ち上げてやりながら、残りの卵液の半分をそそぐ。それも丸めたら、油を引き直して、最後の卵液を注ぎきる。火は強めの中火なので、スピードが命だ。

 最後のひと巻きだけ龍也くんに主導権を引き渡し、この数時間で劇的に上達した手つきで──と俺たちとしては信じている──くるくると半熟の膜を丸めていくと、やさしい黄色をした出汁巻き玉子の完成だ。

 ふわふわとしたそれを、形が崩れないようそっとまな板に移し、包丁で切れ目を入れる。

 大根おろしと大葉を添えて皿によそってやれば、立派な一品の完成だ。

 そこに、手早く作った豆腐とわかめの味噌汁と、白飯、漬物を添えれば、まあ、定食として見られなくもない代物が出来上がる。味の起伏に乏しいかと思ったので、飯の上にはシラスも散らすサービスだ。

 俺は、いつも以上の達成感を胸に、カウンターに料理を並べはじめた。

 その間、真琴ちゃんはどこかぼうっとした表情で、俺の手やフライパンを眺めていた。

「お待たせしました」

 呼びかけると、彼女ははっと居住まいを正す。

 そして、「いただきます」と呟いて箸を取ると、まずは味噌汁を含み、ちょっとご飯を口に運んだ。次に漬物、そしてまたご飯。なかなか、出汁巻きに手を付けてくれない。

 どうかな、まだかな、と、俺の中の龍也くんが気にしているのがわかる。

 かすのはよくないとは思いつつ、つい出汁巻き玉子の皿を凝視してしまうと、それに気付いた真琴ちゃんが、またもはっとしたような表情で顔を上げた。

「す……すみません。試食ですもんね。感想、言わなきゃ……」

「あ、いや、そんな、お好きなペースで……」

 慌てて取りつくろうも、彼女は聞かない。ぐっと唇を引き結び、箸を握る手に力を籠めると、慎重な手つきでひと切れをすくい、そっと口元に持っていった。

 小さめの唇が、すっと開く。そのとき、──俺の気のせいでなければ、唇が、わずかに震えたように見えた。

 しかし真琴ちゃんは、それが錯覚であったかのように、落ち着いた表情で玉子を噛み締めている。

 ふ、ふ、と熱を逃すようにしながら飲み込むと、やがて彼女は視線を上げた。

「……おいしいです、とっても」

 目元をやわらげ、そう告げる。

 勝手に俺の鼓動が高鳴り、龍也くんが無言で喜んでいるのがわかった。

「三温糖、使ってましたよね。私も、自分で作るとき、三温糖を使うんです」

 ずっと調理過程を見ていたためか、そんなことまで教えてくれる。彼女はもうひと切れを口に運ぶと、うん、と小さく頷いた。

「ふふ。……不思議なくらい、同じ味。お店と同じなんて、光栄だな」

 同じ、というのは、彼女の弁当に入っている出汁巻き玉子と、ということだろう。当然だ、だってそれがお手本なのだから。そして、龍也くんが日々口にしていた弁当は、どうやら真琴ちゃん自身のお手製だったらしい。ますますリア充め。

「同じって、弁当と? けっこう甘い味付けだよね。もしかして、甘党?」

 なんとなく尋ねると、しかし彼女は、思わぬ返答を寄越した。

「いえ。……私、本当は、出汁巻きは塩味派なんです」

(え?)

「え?」

 龍也くんと俺が同時に声を上げる。

 だって、毎日この味付けの出汁巻き玉子を食べていたのではなかったのか。

 怪訝な思いが滲み出ていたらしい。真琴ちゃんは俺を見ると、困ったように笑った。

「あ、すみません、変なこと言っちゃって……! あの、おいしいですよ、この出汁巻き。絶対、みんな大好きだと思います」

「ありがとう、いや、それは嬉しいんだけど……え? あれ? 毎日弁当に入れるほど好きな出汁巻きって、その味、なんだよね?」

「あ、と……。お弁当に、この味の出汁巻きは入れてたんですけど、……実はそれは、私のためじゃなくて……」

 黒目がちの瞳が、ふいに潤む。

「私じゃなくて、その……」

 彼女は震える手で箸を下ろすと、そっと口元をおおった。

「私の、……一緒にお弁当を食べてた、友達の、……好物で……」

 白い頬の上を、ぽろっと涙が伝う。

 突然溢れた涙に、真琴ちゃん自身が驚いたらしく、彼女は素早くそれを手の甲でぬぐった。

「す……っ、すみません、急に……っ」

 だが、一度壊れたせきはなかなか直らないらしい。拭っても、拭っても、ぽろぽろとこぼれてくる涙を持て余し、真琴ちゃんはとうとう両手で顔を覆った。

「すみませ……っ、こ、んな、泣くつもりじゃ……っ」

 ひくっと、喉が引きつる。肩を震わせる彼女を見て、俺の中の龍也くんが、静かに、けれど激しく動揺しはじめた。

(お、い……真琴……)

 だが、なんと声を掛けていいのかわからないらしく、それきり黙り込んでしまう。

 伸ばしかけた手を、中途半端に握りしめた龍也くんに、俺は心の中で頷きかけた。

 これまでの経験で、なんとなくわかる。

 こういうときは──吐き出させてあげたほうが、いいのだ。

「よければ……話してくれないかな」

 そっと声を掛ける。

 真琴ちゃんは、しばらくの間、ひくっ、ひくっとえつらしていたが、やがておずおずと涙にれた瞳を上げた。

「え……?」

「甘い出汁巻きが大好物だっていう、友達の話。あ、いや、もしかして彼氏とかかな?」

 気を回して、そう尋ねてみると、真琴ちゃんはびっくりしたように目を見開いた。

「か、かれ……っ!? ち、違います!」

 あれ、全否定が返ってきてしまった。心なしか、俺の中の龍也くんのかもしだす沈黙が一層深まった気がする。

 だが、真琴ちゃんは彼のそんな反応に当然気付くはずもなく、赤く染まった耳に髪をかけながら、わたわたと言葉をつむいだ。

「か、彼氏とかでは、全然なくてですね……」

「違うの? だって、一緒に弁当を食べるくらいの仲だったんだよね?」

「いえあの……それは、罪滅ぼしというか……。少なくとも相手のほうは、そうとしか思ってなかったというか……」

 両手で顔を挟み込み、半ばパニックにおちいっている。こちらがいきなり「友達」を男だと判じてみせた違和感にも気付いていないようだ。

 しかし、おかげでというべきか、それともやはり、神様の計らいなのか。

 真琴ちゃんはためらいや遠慮を捨てて、やがてぽつりぽつりと、龍也くんとの出会いや関係について話してくれた。

「……その……友達というのは、たしかに男の子なんですけど。龍也くんって言って……すごく優しい人なんですけど、こう、とにかく顔が怖くて。そのせいで学校で、ちょっと浮いてて……いえ、それに私が、追い打ちをかけちゃって……」

 つかえがちな彼女の話を要約すると、こうだった。

 龍也くんが、親の仕事の関係で、真琴ちゃんのいる学校に編入してきたのは、去年の春の、それも連休明けのこと。ただでさえ、すでに出来上がったコミュニティに溶け込むのは難しいというのに、彼の場合は、その常人離れした気迫ある佇まいが災いして、すっかり学校で孤立していた。

 一方真琴ちゃんのほうも、受験に失敗し、滑り止めとして受けていた高校での生活を満喫していたとは言いにくく、進級を機に仲のいい友人と離れてしまったこともあり、毎日屋上でこっそりと弁当を食べていたのだという。

 ふたりが出会ったのは、その屋上。

 ただし真琴ちゃんが目にしたのは、いかにも不良という格好をした男子生徒たちの体を折り曲げ、こわもての顔をすごませて、「さっさと吐け!」と叫ぶ龍也くんの姿だった。

「……恐喝?」

「……って、思ったんです、私も。それで、慌てて先生を呼んできて。でもそうしたら、それが、とんだ勘違いで……」

 なんと、ふたを開けてみたら、責められるべきは不良っぽい恰好をした生徒たちのほうだった。なんと屋上に酒類を持ち込み、どれだけ飲めるかを勝負していたというのだ。

 勝負がヒートアップするうちに、体の許容できる酒量を超え、危うく急性アルコール中毒になりかけた。それを、たまたま屋上で昼寝をしようとしていた龍也くんが気付き、慌てて酒を吐かせようとしていたのだという。

 幸い教師が救急車を呼び、事なきを得たが、そうこうしているうちに学校中にあっという間にうわさが拡散。龍也くんのこわもてと、不良たちがぐったりしている様子が合わさって、彼は英雄として称賛されるどころか、なぜか「編入早々不良どもを病院送りにした暴力の帝王」として、距離を置かれることになってしまったと。

「なんと……」

 どこまでも見上げた龍也くんの面倒見のよさ。そしてまた、どこまでもかわいそうな巡り合わせの悪さだ。教師陣も、もっと丁寧に真相を生徒に伝えればよかったのにと思う。

 真琴ちゃんも顔を俯けて、消え入りそうな声で続けた。

「私、申し訳なくって。次の日屋上に行ったら会えたので、謝ったんです。そうしたら、彼、私の持ってたお弁当を見て、『その出汁巻き玉子、一週間分で手を打つ』って……」

 真顔で放たれた発言に、真琴ちゃんは最初、もしやこれはタマを寄越せ、みたいな隠語なのだろうかとさえ考えた。だが、恐る恐る差し出した出汁巻き玉子を口にし、少しだけ表情を和らげた龍也くんを見て、どうやら彼が甘党であるということを察したのだという。

 真琴ちゃんは、なつかしむように小さく笑った。

「言葉じゃ伝わらないかもしれないですけど……ど迫力の顔で、もごもご出汁巻きを食べる彼って、なんだかこう……すごく、かわいかったんですよ。本人には内緒でしたけど、甘ければ甘いほど、ちょっとごげんそうに、鼻の穴がふくらんだりして」

(え)

 脳裏で龍也くんがろうばいする気配がする。俺はとっさに笑いを堪えた。

 最初の一週間が終わる日、真琴ちゃんは「もっとおいしい出汁巻き玉子を作ってみせる」と宣言し、期間が二週間に延びた。それが終わるころにはもう一か月、二か月、半年。

 いつの間にか、真琴ちゃんの作る出汁巻き玉子はどんどん甘くなり、それと同時に、ふたりで弁当を広げる時間が日常へと変わっていった。進級したばかりのときは、嫌でたまらなかった昼休みが、気付けば一日で一番楽しみの時間になっていた。生活に張り合いが出て、彼にあこがれて自分も難関大学を目指すようになった。毎日が、楽しかった。

 好き、とは切り出さない。単なる友達というよりは、ほんの少しだけ、近しい距離感。

 それで満足していたはずなのに、時が流れ、春休みが近づいてきた頃、真琴ちゃんの中に、ある決意が宿りはじめる。

 この関係を、もう一歩だけ、先に進めようと。

「……春休みって、けっこう長いじゃないですか。それまで毎日一緒にお弁当を食べてたのに、急にそれがなくなるのが、寂しいって、……そう思ったんです」

「うん」

 頷きながら、ふと胸のどこかになにか引っかかるものを覚える。

 一緒にお弁当を食べていたのが、急になくなる──

「あ……」

 ふっと思い浮かんだ光景に、息が詰まりそうな感覚を覚え、思わず俺は呟きを漏らした。

(哲史さん?)

「…………?」

 龍也くんと真琴ちゃんの両方から、もの問いたげな視線を向けられ、俺は慌てて「なんでもない」とごまかした。

「いや、そうだよな、と思って」

 そう付け足すと、真琴ちゃんは苦々しい笑みを刻み、軽く首を振った。

「……でも、そんなこと、思わなきゃよかったって、今では思います」

「え?」

「……告白を、しようとして。昼の屋上じゃどうしても勇気が出なかったから、放課後に、コンビニを待ち合わせ場所に指定したら……彼」

 ああ、そうか、と思った。

 その続きを、俺は知っている。

「彼……そこで事故に遭って、亡くなってしまったんです」

 真琴ちゃんは、せっかくほんのりと笑みを浮かべていた唇を震わせ、再び俯いた。

 そうして、一度大きな波をやり過ごすと、わずかに引きつった声で、続けた。

「テレビで、見たことありませんか。コンビニに突っ込んだ車からおばあさんをかばって、亡くなってしまった男子高生の、ニュース。あれが……彼です」

 じっと出汁巻き玉子の皿を見下ろす。

 声が震えるのを堪えようとしているのだろう、口を開きかけては、また閉じ、──けれど結局堪えきれなかった想いが、嗚咽となって溢れ出す。

 ぱた、とカウンターに涙の粒が落ちるのをながめながら、真琴ちゃんは大きくしゃくりあげた。

「……本当に……っ、ほんとに、ほんとに、優しい人だから……。初めて、会ったときも、そのときも、きっと……無意識に、人を助けようと、手を、伸ばしたんだと、思います」

(真琴……)

 彼女の泣き顔に、龍也くんが途方に暮れたような声を上げる。

 残念ながらその声は、真っ赤に染まった彼女の耳に届くことはなく、だから真琴ちゃんは、ふ、ふ、と小さく息を漏らした。

「私が……あの日、龍也くんを、コンビニに呼ばなければ……。屋上で、さっさと、言ってしまってれば……、ううん、告白だなんて、馬鹿なこと、しようと、しなければ……っ」

 小動物のような瞳を、今は真っ赤に充血させて、真琴ちゃんはぎゅっと拳を握りしめる。下ろしたばかりのびいどろの箸置きには、いくつも涙の粒が降り注いだ。

「私……、ほんと、最低です。彼を、学校中で誤解させて、なのに、勝手に、龍也くんに憧れて。勝手に、目標にして、私ばっかり、たくさんのものを、もらって……あげく……彼を……っ、私の、せいで、死な、せ……!」

 死なせて、の単語は、ひんと子犬が泣くような嗚咽と混ざって、ほとんど聞き取れないくらいだった。

 ぎゅ、と心臓が引き絞られるような感覚を抱く。

 それは、体を共有している龍也くんが、胸を痛めているからに違いなかった。

(こいつ……いすぎなんすよ)

 声を上げまいと、唇を噛み切りそうなほどに引き結んでいる真琴ちゃんを見て、やがて龍也くんがぽつんと呟いた。

(俺が死んだのが、こいつのせいなわけ、ないじゃないすか。車を暴走させたのは、運転手。ばあさんをかばったのは、俺。そうでしょ? ……俺、すげえ楽しみに、コンビニに行ったのに)

 彼の低い声は、ほんのわずかに、揺れていた。

(呼び出されてから、ずっとそわそわして……。たとえ、未来がわかってても、きっと、俺はコンビニに行ったと思う。それくらい、楽しみに、俺が──俺自身が、そうすることを選んだのに)

 真琴ちゃんは自分を責めつづけ、龍也くんの通夜以降、けして弁当を作ることはなくなったのだという。あんなにおいしかった弁当を、つらい思い出の塊でも見るように遠ざけて、日に日にやつれていく真琴ちゃん。そんな姿を、これ以上見ていたくないのだと彼は言った。

 龍也くんの祈るような声を聞き、俺はばっと身を乗り出す。

「あの……君は──」

 これまでのように、龍也くんが「てしをや」の客だったことにして、彼のメッセージを代弁しよう。そう思って、「君は真琴ちゃんだよね」と話しかけようとしたのだが──

「しかも……」

 それよりも早く、真琴ちゃんがずっ、と鼻をすすって、自嘲的な笑みを浮かべた。

「その思いすら、……日に日に、薄れさせて、しまって……」

 え、と思った。

 こんなにも自責の念で泣き崩れている彼女が、思いを薄れさせている?

 つい怪訝な表情を浮かべてしまうと、真琴ちゃんは少しだけ涙を収め、鼻声で告げた。

「今日……模試の結果が、返ってきたんです。初めて、A判定で……」

 先ほど、「上出来でした」と困ったように笑っていた彼女を思い出す。

 よかったじゃないと言いかけたが、それよりも先に、真琴ちゃんは静かに首を振った。

「喜んじゃ、いけないと思うんです……」

 彼女は、皿に横たわったままの出汁巻き玉子に視線を落とした。

「だって、その大学に行きたいと言ってたのは、……もともとは、龍也くんだったから」

 その視線の先には、弁当をともに広げた龍也くんの姿が映っているかのようだった。

「判定の結果を見て、私、最初、喜んだんです。……でも、すぐに思った。なんて、薄情なんだろうって。……彼が行きたがってた大学に、私が代わりに行って、なにが……誰が嬉しいんだろう。龍也くんは、もう、いないのに……」

 なのに、と、真琴ちゃんは再び顔をゆがめた。

「龍也くんは、もういないのに、……あんなに優しい彼は、死んだのに、引き換え、私が……薄情な私なんかが、生きてて。大学に行って、就職して……、龍也くんができなかった体験を、私ばっかり、して、……彼を、置いていくなんて……っ」

 今日は、ちょうど、龍也くんが初めて出汁巻き玉子を口にしてから、一年が経った日なのだと彼女は言った。しかしそれすらも、こうして出汁巻きを出されるまで忘れていたのだと、震える声で付け足した。

 季節が巡る。

 彼らが初めて出会った夏が来て、受験の冬を乗り越え春が来て、──時の止まった龍也くんを置いて、真琴ちゃんは新しい環境に飛び出していく。

 そのなかで、のうのうと笑い、喜び、新たに出会った誰かと思いを交わしていくのだろう自分を、彼女はさとった。こんなにも痛む胸の傷さえ、徐々に薄らぎ、時間という名のかさぶたに覆われてしまうことを予感した。

 そして、それを、ひどく薄情で──恐ろしいことだと思った。

 彼女は、震える唇を右手で覆い、その小刻みに揺れる掌を、さらに左手で覆った。

「龍也くんが、し、死んだのは、私のせいじゃないって、親や先生は言うんです。もしかしたら、龍也くん、も、そう言うかもしれない。でも……っ、忘れるのは……、彼を、置いて、いってしまうのは……私、です。私が……悪い……っ! こんなの……、龍也くんだって、許してくれない……っ」

 そこで堰を切ったように、真琴ちゃんはぼろぼろと大量の涙を流した。

 ごめんなさい、と、小さく小さく呟いて。

(……んだよ、それ)

 俺の中の龍也くんが、うなるように呟いた。

 どすの利いた声だが、体を共有している俺にはわかる。彼は、怒っているのでもなく、苛立っているのでもなく──傷ついているのだ。

(……好きなやつに、いつまでも泣いて暮らしてほしいって、そう願う人間なんて、いるかよ……っ!)

 ──だんっ!

 堪えきれなかった想いが、拳の形を取って流し台にぶつかる。

 にぶい音が響き、真琴ちゃんはびくっと顔を上げた。

「うお……っ!」

 ちなみに、俺もびくっとした。

 た、龍也くん、落ち着いてくれ!

 自分の拳が立てた音に、自分でおびえるという不審な行動を、俺は冷や汗つきの笑みでごまかした。

「ご、ごめん! か……蚊! 蚊がね、いたもんで! いや、いたと思ったんだけど、気のせいでした! 話の腰を折ってすみませんでした!」

 威勢よく謝ると、真琴ちゃんもつられたのか、「い、いえ!」と小さく叫び返してくる。

 すっかり流れをぶった切ってしまったが、おかげで彼女の涙が引っ込んだので、俺はその機に乗じ、龍也くんからのメッセージを伝えることにした。

 というのも、先ほどまでの無口ぶりが嘘だったように、頭の中で龍也くんが、一生懸命まくし立てているからである。

(哲史さん、すんません、こいつに言ってくれますか。ざけんな、見くびんなって。俺のことを思うなら、出汁巻きでもなんでも食って、笑って、生きてくれって)

 体をともなっていたなら、あの怖い顔に真剣な表情を浮かべて、こちらの肩をがくがく揺すっていただろうと思うくらいの勢いだ。

 俺は慌てて思考を巡らせ、覚悟を決めて口を開いた。

「あの……。切り出すのが遅れちゃったんだけど、……君、もしかして、真琴ちゃん……だよね?」

「え……」

 まずは、龍也くんと俺が、生前からの知り合いであったと信じ込ませる。

「ごめんね、もしかしてそうかとは思ったんだけど……俺、そう、彼の苗字しか知らなかったから、なかなか確信が持てなくて。でも、コンビニの事故で亡くなった飯田龍也くんなら、俺も知ってるよ。彼、実は、……ええと、ちょっとした知り合いなんだ」

「そう……なんですか……?」

 疑う理由もないからだろう。真琴ちゃんは、すんなりと俺の言葉を信じたようで、「よく君のことを話してた」と告げると、驚きと恥じらいが混ざったような表情を浮かべた。

 俺はこっそりと唇をめる。

 その間にも、龍也くんは必死になって、真琴ちゃんへの想いを叫びつづけていた。

(「私なんか」とか、「薄情」とか、そのあたりも、きっぱり否定してください。だって、俺は知ってますから。薄情な人間が、こわもての男にひとりで謝りに来たりしない。毎日弁当を作ったりなんかしない。……ここまでぼろぼろになるくらい、泣いたりしねえって)

 外見のせいで誤解されることの多かった龍也くんは、避けられることにも、怖がられることにも慣れていた。せっかく苦労して築き上げた人間関係を、転校のせいで一から再構築しなくてはならなくなったとき、諦めてしまいたくなるくらいには。

「……そう。彼は、よく君のことを話してた。真琴ちゃんだけが、学校で話す唯一の相手だって、言ってたよ」

 そう告げると、真琴ちゃんはすがるような視線を向けてきた。

 それに頷き返しながら、俺は必死に龍也くんの主張を聞き取った。

 女の子に手料理を振舞ってもらうなんて、初めての経験だった。内気そうだが、トラブルを前にしても逃げずに教師を呼んだり、ひとりで謝罪に来たり、厚かましい要求でも守り通す彼女は、きっと芯の強い人間なのだと思った。彼女が昼食を共にする期間の延長を申し出たとき、龍也くんは、内心でガッツポーズを固めるくらい嬉しかった。

 彼女の出汁巻き玉子を食べるのが、学校生活の、唯一で最大の、楽しみだった。

「このレシピもね、彼の語る理想の出汁巻きを再現したものなんだ。彼は、出汁巻き玉子が本当に好きだったんだって。だってそれは、真琴ちゃんが作ってくれるものだから。彼は──君のことが、好きだったから」

「…………!」

 思い切って伝えると、真琴ちゃんはひゅっと息を呑んだ。

 そうして、瞬きもせず目を見開き、唇をわずかに開くと、吐き出す息に紛れそうなくらいの細い声で、呟いた。

「……うそ」

 くしゃっと顔が歪み、再びぽろりと頬が涙を伝う。

 涙の粒を追いかけるように俯いた真琴ちゃんに、俺はそっと続けた。

「彼のさ、性格を考えたら……好きな相手には、泣いて暮らすよりも、笑って過ごしてほしいんじゃないかな」

 真琴ちゃんの肩が震えている。龍也くんが必死に叫んでいる。

 俺は、声に力を込めた。

 どうか、顔を上げてくれ。

「薄情だなんて責めたりしないよ。むしろ、囚われて、苦しむ姿を見せつけられるほうが、龍也くんは怒るよ。残った側が、笑って生きていくのは、切り捨てるってことなんかじゃない。──受け継ぐってことだ」

 顔を上げて、前を。

 前を向いて、生きてくれ。

「龍也くんの人生を託された君が、龍也くんのぶんまで、笑って、……生きていかなきゃ、いけないんじゃないかな」

「…………っ」

 真琴ちゃんがぐうっと拳を握り、黙り込む。

 それを見て、俺もまたそっと拳を握りしめた。

 俺なんかよりもずっと、龍也くんと長く濃密な時間を過ごしてきた真琴ちゃん。そんな彼女相手に、龍也くんの意思を伝えるという行為には、すさまじい緊張が伴う。

 ごうまんに響きはしないだろうか。傷つけてはしまわないだろうか。俺の言葉は、龍也くんの願った温度で、彼女に届いているだろうか。

 手に汗を浮かべ、息を詰めて見守っていると、真琴ちゃんは俯いたまま、小さく問うた。

「……私が……私なんかが、託されて、いいんでしょうか」

(当たり前だろうが!)

「もちろんだよ」

 脳内で声を荒らげている龍也くんを抑え込み、すかさず告げる。

「彼、言ってたよ。真琴ちゃんは、こわもての男に単独で詫びを入れて、約束通り、律儀に弁当を作りつづけるような、芯の強い人間だって。真琴ちゃんの弁当だけが楽しみで、毎日学校に行ってたって」

 潤んだ目を見開いた相手に、俺は頷きかけた。

「龍也くんが『すごく優しくて素敵な人』だとしたら、真琴ちゃんは、そんな彼のやる気を引き出しつづけたすごい人だよ。『私なんか』だなんて、言っちゃだめだ」

「…………」

 十秒か、数十秒か。

 黙りつづける真琴ちゃんの頬を、すうっと透明な涙が滑り落ちた。

 その滴が、カウンターの上で握られていた拳をぱたりと打つと、それが合図だったように、彼女は手の力を抜いた。

 ぎこちない動きで、置かれていた箸を取る。

 そうして、ゆっくりと──顔を上げた。

「──……私」

 涙でしっとりと濡れた、黒いまつ

 真琴ちゃんはそれを乾かすように二、三度瞬きをすると、まっすぐに、こちらを見つめた。

「……食べます。食べて、……きちんと感想、言わないと」

 きゅっと握りしめた箸で、ふんわりとした玉子をひと切れ摘む。

 わずかに震えている唇にそれを運ぶと、彼女は、大切そうな、丁寧な仕草で、それを噛み締めた。

 それから、静かに微笑んで、告げた。

「おいしいです」

 鼻も目元も、うさぎのように真っ赤に染まっている。眉は痛みを堪えるように寄せられ、箸を持つ手は震えている。それでも彼女は、涙をこぼそうとはしなかった。

「自分でも、作りたいくらい。毎日……お弁当に入れて、食べたいくらい、おいしい……っ、……です」

 感想の形を借りた、それは宣言だった。

 これからは、きちんと食べる。弁当づくりも、再開する。

 笑顔を浮かべて、龍也くんのぶんまで、生きていく。

「……そっか」

 今はまだ、もろく、痛みを伴った決意。

 真琴ちゃんが必死の思いで組み立てたそれを、万が一にも壊してしまわぬよう、俺はそっと相槌を打った。

「龍也くんも、きっと喜ぶよ」

 真琴ちゃんは小さく頷くと、「はい」と答えた。

 しゃんと背筋を伸ばすと、出汁巻き玉子を黙々と口に運ぶ。そうして、シラスの一匹、白飯の一粒も残さずに食べ終えると、箸を置き、ごちそうさまでしたと呟いた。

「あの、お代は……」

 最後、立ち去るという段になって、真琴ちゃんはかばんの中から財布を取り出そうとする。

「いいって、本当に。感想をありがとう。それと……偉そうに語っちゃって、ごめんね」

 慌てて手を振り、ついでに頬を掻きながら付け足すと、彼女は涙の気配の残った顔を赤らめ、「いえ、こちらこそ、たくさん泣いてしまって、すみませんでした」と頭を下げてきた。

 三往復くらいお詫び合戦を繰り広げ、とうとう真琴ちゃんが店を去っていく。

 後には、きれいになった皿と、俺、──そして、俺の中にいる龍也くんが残った。

「……よかったね。真琴ちゃん、弁当づくり、再開するって」

(…………)

 話しかけるが、龍也くんはなにも言わない。

 ふけりたい物思いもあるよな、と考えた俺は肩を竦め、流し台に散らばっていたボウルやら皿やらを片付けはじめたのだが──

 ぴとん。

 洗い上げて、きれいにいたボウルに、温かな滴が落ちるのを見て、ふと顔を上げた。

「──……え?」

 自分の目元を確かめて、思わず声を漏らす。

 俺の頬を、涙が伝っていた。

「……龍也くん?」

(…………)

 俺の体が──いや、俺の中にいる龍也くんが、泣いているのだ。

 ぎょっとして呼びかけると、彼はぐうっと震えをやり過ごすように唇を噛み締め、やがて、低く呟いた。

(……すんま、せん……)

「え、いや、え!? どうした!?

 目を拭いながら、慌てて尋ねる。しかし龍也くんの涙は止まらなかった。彼は、熱い涙をぽとぽと落としながら、ぎゅっと目をつむった。

(涙、……止まんねえっす。すんません……っ)

「いや、それはいいんだけど……どうしたんだよ!?

(……哲史さん。俺……)

 震える声で答えかけ、龍也くんはふと口をつぐむ。彼は、わけわかんねえ、と首を振ると、ちょうするように息を漏らした。

(俺……、人をかばって死んだことは、ほんとに……後悔、してないんす)

「あ……ああ……」

 彼の発言に嘘がないことは、体を共有している俺にはわかる。話の流れが掴めないながらも、俺は曖昧に頷いた。

「本当に、すごいことだと思うよ」

(この年で死んだことも、葬式挙げてもらって、……いっぱい、やんでもらって、納得、したはずなんす)

「……うん」

(……あいつに、笑っててほしいことも、……うまい弁当をまた作ってほしいことも……、…………っ、嘘じゃ、ないんす)

「うん」

 ぱたたっ、と、続けざまに涙が落ちる。

 透明な滴は、銀色のボウルの上を静かに滑り、やがて底で止まった。

(でも……っ)

 盛り上がった液面には、ボウルをのぞき込む俺が映り込んでいる。

 俺は──龍也くんは、ぐしゃぐしゃに顔を歪め、泣いていた。

(忘れられたくねえ……っ!)

 まるで、絞り出すような声。

 彼は、本音をさらけ出した自分を恥じるかのように、手で顔を覆い、流し台にかがみ込んだ。

(さっきは、かっこつけ、ましたけど。……いや、本気なんです。うじうじ俺のことで悩まれつづけるなんて、ごめんだ。でも……、でも、俺、……忘れられたく、ねえ……っ)

「…………」

(あいつに、……また、笑って……うまい、料理を作ってくれって、心の底から、思うのに、……あいつの出汁巻き玉子を食べるのは、もう、俺じゃないんだって、思うと……たまんねえんです……!)

 彼は、握りしめた両の拳を、だんっと流し台に打ち付けた。

(……ちくしょう)

 込められた力は、関節が白く浮き出るほど。

 全身を震わせ、とめどなく涙を溢れさせる、それほどの激情を、二つの掌に閉じ込めるように、彼は、強く強く拳を握りしめた。

(ちくしょおおお──っ!)

 血を吐くような叫びを聞いて、俺は、彼の死に対して「イケメンすぎて泣ける」などと、呑気な感想を抱いていた自分を殴り倒してやりたくなった。

 なにがイケメンだ。なにが泣けるだ。

 これまで俺にいてきた魂が、寿命を受け入れきった人たちばかりだったから、すっかり忘れてしまっていた。死者が、残された俺たちのほうを気遣うなんて、簡単にできることではない。突然生命を絶たれた自分自身を、嘆き、なんとか折り合いを付けるだけで、普通は精いっぱいのはずだ。

 人がひとり──まだ成年にもならない、夢も未来も溢れていたはずの青年が、死んだのだ。それは、美談として安易に消費していいものなんかではなかった。

 立派だねとめそやして、それで済ませていいものなんかでは、けっしてなかったのに。

「……龍也くん」

 声を掛け、けれどなにも言えなくて、結局口を閉ざす。

 無力だ、と思った。

 俺が覚えているよ、とけ合うことはやすい。だが、彼が覚えていてほしい相手は俺じゃない。なぐさめの言葉をかけることはできる。だが、俺は真の意味で、彼自身の肩を叩いてやることもできない。

 いったい、どうすれば──

 俺が、途方に暮れて立ち尽くした、そのとき。

 ──ガラッ!

 勢いよく玄関の扉が開いた。

「──あのっ!」

 同時に、夏の気配とともに、んだ女の子の声が響く。

 真琴ちゃんだ。

 彼女は、急いで引き返してきたのか、髪を汗でひたいに貼り付かせ、息を荒らげていた。

「あ……わ、忘れ物、かな?」

 慌てて涙を拭い、鼻声にならないよう気を付けながら振り返る。

 幸い、というべきなのか、彼女はこちらの涙には気付かない様子で、ぎゅっと学生鞄の取っ手を握りしめたまま立ち尽くしていた。

「あの……すみません。唐突なんですけど……聞いてもらっても、いいですか?」

 真琴ちゃんは、くようにこちらを見つめる。小動物を思わせる黒い瞳に、ひどく真剣な表情を浮かべ、必死に言葉を紡いでいた。

「お弁当の約束も、受験勉強も、私、宣言したら、守れるので。私の……出汁巻き玉子の誓いを、お兄さんに、聞いてもらっても、いいですか?」

 出汁巻き玉子の誓い。

 彼女自身の言う通り、なんとも突飛な発言だ。

 だが、俺にそれを笑う気なんてまったく起きず──むしろ、心のどこかにすとんと落ちてくるような、ずっと待ちがれていた言葉をようやく聞かせてもらえたような、奇妙な感覚を抱いた。

 そして、直感する。

 神様だ。

 きっと神様が、俺では拾いきれなかった二人の想いを、今、結び合わせようとしているのだ。

 一度店を出た真琴ちゃんが、ふと顔を上げる様子が目に浮かぶ。

 きびすを返し、まるで夏の風に押されるように、「てしをや」までの道を駆け抜けてきた、そんな光景を思いながら、俺は彼女に続きをうながした。

「は……い。お願いします」

 夜の定食屋、俺たち以外に無人の店内。

 しんと静かなその空間に、夏の匂いと、張り詰めた覚悟だけが満ちる。

 真琴ちゃんは、りんと顔を上げると、まっすぐこちらを見つめて、「……私」と口を開いた。

「私、これからも、お弁当を作ります。お昼ごはんもきちんと……三食きちんと食べて、龍也くんに恥ずかしくないように、いっぱい笑って過ごします。……出汁巻き玉子も、作るし、食べます」

「……うん」

 俺の中の龍也くんは、やはりなにも言わない。けれど、大切な音をそっと胸にしまうように、真剣に耳を傾けているのがわかった。

「──でも」

 そこで、真琴ちゃんは一度、きゅっと口を引き結んだ。

 それから、続けた。

「でも、甘い出汁巻きは、もう、作りません。……あれは、龍也くんのための、出汁巻き玉子だから。覚えていたいから。……なににも、上書きさせたくないから、作りません」

 すっと、龍也くんが息を呑む気配がする。

 まるでそれが見えているかのように、真琴ちゃんはほほんだ。

「いつかほかに好きな人ができても、その人のためにお弁当を作ることがあっても。甘い 出汁巻き……龍也くんの出汁巻き玉子だけは、──作りません」

 俺の中で、龍也くんが震えた。

 彼が必死で抑え、それでも堪えきれなかった感情が、俺の目に涙の膜を張る。

(──……ありがとう)

 龍也くんは、かすれた声で呟いた。

(ありがとう、真琴……)

 けっして、鼓膜を揺らすことのない言葉。

 しかし、真琴ちゃんはちょうどそれが聞こえたように、気恥ずかしそうに頬を赤く染めた。そして、ばっと音が鳴りそうなほどの勢いで、深々と頭を下げた。

「突然、すみませんでした! 聞いてくれてありがとうございます」

 相当の勇気がいったのだろう。学生鞄を握りしめた彼女の両手までもが、小刻みに震えている。

 それでも彼女は顔を上げると、ちょっとだけ笑ってみせた。

「……でも、これで、頑張れます」

 ああ、と思う。

 彼女はなんて素敵な女の子だろう。

 きっと彼女は、龍也くんの願う通り、凛と前を見つめて、これからの人生を歩んでいくのだろう。その胸に、やさしい思い出を刻みつけながら。

「……応援してるよ」

「え?」

 気付けば、声が漏れていた。

「応援する。真琴ちゃんの誓いを聞き届けたから、立会人として、真琴ちゃんの頑張りを、応援する」

 彼女の誓いに対して、俺が「ありがとう」と言うことはできない。だってそれは、あくまで龍也くんに向けられたものだから。

 ただ、真琴ちゃんの決意を、見守って、応援することはできる。

「……もし、くじけそうになったら、また店においで」

 そう付け足すと、真琴ちゃんはびっくりしたように目を見開き、

「──はい」

 にこっと笑って、再び頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 その黒目がちの瞳は、ちょっとだけ潤んでいたが、どちらもなにも言わなかった。

 そうして今度こそ、彼女は「てしをや」を去っていった。

 無人となった店内で、俺は黙って厨房に引き返す。

 水滴がついてしまったボウルを拾い上げ、なんとはなしに銀色の底を覗き込むと──俺の顔は、ほんのりと火が灯ったような、優しい笑みを浮かべていた。

(俺……)

 脳裏で、龍也くんが呟く。

(あいつを好きになって、本当に、よかった)

 俺は静かに頷いた。

「そうだね。俺も本当に、そう思う」

 ボウルを、流しに向かってそっと傾ける。

「頑張ったね。龍也くん──」

 ぴとん。

 水滴は、まるで温かな涙が頬を伝うように銀色の表面を滑り、静かに流し台を叩いた。

 龍也くんはそれを見守りながら、しみじみと礼の言葉を唱え──やがて溶けるように、消えた。


***


 学生たちはそろそろ夏休みが始まろうかという、七月の祝日。

 ぎらぎらと照り付ける日差しにもかかわらず、りょく公園の広い敷地は、ピクニックやバーベキュー客でごった返していた。

「うお……あちー……」

 陽気以上に、人混みの熱気というのがまた暑い。

 肉の焼ける香ばしい匂いと、むわんと籠った煙とを体にまとわせながら、俺は顔を顰めて敷地内を進んだ。

 古い記憶を引っ張り出しながら、人波を抜け、なんとか目的地に辿り着く。

 探していた人物は、すぐに見つかった。

 酒に酔った若者や家族連れの歓声が左右から聞こえるなか、張り出した枝が影を落とすベンチに、ひとり座っている人物──志穂。

 妹は、膝の上に置いた弁当箱をぼんやりと見つめていた。

 俺はその姿を見て、嘆息する。

 そしておもむろに背後から近づくと、冷えたビール缶をやつの頬に押し付けた。

「うわあ!」

 ぎょっと肩を揺らした志穂が、勢いよく振り返る。

 頬を押さえながらこちらを見上げ、缶の持ち主が俺だと気付くと、大きく目を見開いた。

「お兄ちゃん……!」

「辛気くせえ顔してんじゃねえよ。いや、顔っつーか、行動っつーか」

「え、なんで、え……」

 ぶつぶつと突っ込む俺を前に、志穂はただ呆然となにごとかを呟いている。よほど、俺がここに現れたことが信じられないのだろう。

 その瞳に、驚愕と──喜びが滲んでいることに気付き、俺は小さく肩を竦めた。

「なんだよ。来ちゃ悪かったかよ」

「いや、だって──」

「毎年、海の日には緑地公園でピクニック。親父が酒買って、母さんが弁当詰めて、ついでにおまえの誕生日も祝う。──だろ?」

 仏頂面で告げると、今度こそ志穂は絶句した。

「……覚えて、たの?」

「……まあ」

 厳密に言えば、思い出したのだが。

 物心ついてから恒例の家族イベントだったはずが、大学進学を機にひとり暮らしを始めた俺は、かれこれ七年も参加を見送ってきた。それで、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 だが、俺が参加しなくなった後も、志穂は親父たちと、毎年海の日が来るたびに、こうして弁当を携えてこの公園までやってきていたのだろう。

 一緒にお弁当を食べていたのが、急になくなる──

 真琴ちゃんのその言葉をきっかけに、俺は、この日の外出を勧めたとたん、なぜ志穂が怒り出したのかを理解したのだった。

「俺も悪かったけどさ、おまえだって一言言ってくれりゃいいじゃん。俺が来なかったら、その弁当、ひとりで食う気だったわけ?」

 視線の先には、ひとり分というには明らかに大きすぎる弁当箱、というか重箱が鎮座している。

 よく両親が運動会に持ってきてくれていた、正方形のそれ。もとは三段重だったのを、辛うじて一段に減らしてはあるようだが、それでも女ひとりが食うには多すぎる量だ。

 志穂はばつが悪そうに目を伏せると、「別に、食べてないじゃん」と答えた。

「意地でお弁当は作ってきたけど、……この中で、ひとりお弁当をつつく勇気は、さすがに出なかった……」

 と、ぼそぼそ付け足す。

 そりゃあそうだろう。家族連れで陽気ににぎわう公園で、若い女がひとり、涙でも浮かべながら重箱を開いていたりしたら、辛気臭さマックスだ。

 なにも言わずに肩だけ竦めると、志穂は口の端を歪めた。

「それに結局、お母さんの夏の味は再現できなかったし、ね」

「…………」

 俺は黙ったまま妹の隣に腰を下ろし、弁当の蓋を開けた。

 いなり寿司に、唐揚げ。つくねの串に、出汁巻き玉子、ポテトサラダ、ピクルス。どれも我が家の定番で、飽きるほど食べていたものだったはずだが、今の俺にはわかる。

 おそらくこれは、夏仕様に味付けを調整したメニューの、試食を兼ねたものだったのだ。

 その証拠に、唐揚げは、いつも目にしているものよりほんの少しだけ醤油の色が濃い。

 俺はそれを摘んで口に放り込み、ついでに缶ビールをひと口あおって、目を閉じた。

 強めの塩気と、たっぷりの胡椒に包まれた、脂の旨み。

 体がほしがる、夏の味だ。

「──……あのさ」

 やがて、俺はコンビニ袋に突っ込んでいた小ぶりのプラスチック容器を取り出すと、それを志穂の前で開いてみせた。

「これ」

「……なにこれ」

「弁当。……の一部。出汁巻き玉子、作ってきた」

 そこにぎっしりと収まっているのは、薄黄色をした出汁巻き玉子。それだけだ。

 弁当というには、あまりに貧相なそれを、志穂はまじまじと見つめた。

「……作ったの? お兄ちゃんが?」

「おう。甘めの味付けだが、けっこういけると思うぜ」

 昨夜、龍也くんが去ってから、さらに試行錯誤を繰り返し、ほんのり甘い、けれどじゅわっとした出汁の旨みが後を引く、個人的ベストレシピを完成させたのだ。

 真琴ちゃんたちに申し訳ないので、「龍也くんの出汁巻き」とはちょっとだけ砂糖の分量を変えた、哲史ズ・スペシャルである。

「へえ、甘くしたの? でも、うちっていっつも──」

「なあ、志穂」

 不思議そうに首を傾げる妹を、静かにさえぎる。

 俺は、出汁巻き玉子の入った容器を掲げたまま、まっすぐに志穂の目を見つめた。

「俺は、両親の味の完璧な再現なんて、しなくていいと思うんだ。……というか、むしろ、しないほうがいいと思うんだ」

「…………」

 幼さを残した顔が、きゅっと引き締まる。

 相手に誤解される前に、俺はさらに言葉を重ねた。

「忘れるためじゃない。そうじゃなくて……覚えておくために、親父たちのレシピには、手を付けずに、しまっておきたいんだ」

「……どういうこと」

 周囲のけんそうが遠ざかる。

 俺の脳裏には、真琴ちゃんの誓いの言葉が、ぐるぐると駆け巡っていた。

 ──覚えていたいから。……なににも、上書きさせたくないから、作りません。

「俺たちが、親父の味を完璧にコピーしちまったら、それって、成り代わるってことだろ。それだと、親父たちのレシピは生き残るけど……代わりに、親父たちが、消えちまう気がするんだ」

 だって、俺たちはあくまで両親とは別の人間であって、親父たち本人じゃない。

 なのに味だけそろえるなんて、その味を生み出すまでの、親父たちの努力や経緯、思い出、そういったものを、塗り潰してしまうように俺には思えたのだ。

 黙って耳を傾けている妹を前に、俺は必死に言葉を探した。

「だから、残しておきたい。永久欠番みたいに。親父たちの味は、親父たちのものとして」

「…………」

「でも、じゃあ、海の日の弁当とか、箸置きの衣替えとか……親父たちが残したものをまったく守らないのかっていうと、それも、なんか違うと思う。やっぱりしたいんだ、二人がしてきたのと、完璧には同じじゃないけど、同じようなことを。大切にしたいんだ」

 言っていて、我ながら訳がわからなくなる。

 もどかしさに胸を焦がしながら、俺は妹の弁当をちらりと見やり、それから再び、志穂と視線を合わせた。

「これからも、海の日には公園に来て、家族でピクニック、しようぜ。弁当作ってさ。いい年して、お互い彼女や彼氏ができても、この日だけは、ロマンもへったくれもなく、バーベキューの煙にまみれて弁当を食うんだ」

「…………」

 志穂はなにも言わない。

 ただ、その勝気そうな瞳が、静かに潤みだした。

「俺が酒を買ってきてさ、おまえが弁当詰めて。まあ、時々は逆でもいいけど。で、そのおかずは、親父たちの味と、すごく似てるけど、ちょっとだけ違うんだ」

「──……うん」

「出汁巻きは俺好みに甘くなってさ、唐揚げはおまえ好みに、衣が薄くなってくわけ」

「……うん」

 季節が巡る。

 気温が変わって、求める味が変わるから、俺たちは、味付けを調整していかなくてはならない。凍える冬ではなく、日差しが溢れる夏にふさわしい、俺たちの味へと。

 わずかに鼻の先を赤くする妹を見て、俺の声まで、少し掠れはじめた。

「いつかさ、おまえが彼氏を連れてきて、そいつ好みにポテトサラダがマスタード入りになったり、俺が彼女を連れてきて、その子好みにピクルスが奈良漬けになるかもしれねえけど。でも、それでも、弁当自体は変わらず、毎年食ってく」

 それが、と続ける声は、ほんの少しだけ震えてしまった。

「それが、受け継ぐ、ってことじゃないかと、俺は思うんだ」

 成り代わるのではなく、受け継ぐ。

 その違いが、妹には伝わるだろうか──

「…………」

 志穂は、ぐっと口を引き結んで、俯いた。

「…………うん」

 そして、小さくぽつんと、こう答えた。

「そうだね」

 ゆっくりと上げた顔は──目が涙で潤んでいたものの、微笑んでいた。

 やつは素早く鼻を啜ると、「ていうか、ピクルスより奈良漬けを好む彼女って、どんな女子なの」などと突っ込み、俺の持つ箱からひょいと出汁巻き玉子をひと切れ取り出す。

 そして、それを口に運ぶと、

「……おいし」

 意外そうに目を瞬かせた。

「いやいや、不思議そうに言ってんじゃねえよ、しみじみ噛み締めるように呟けよ、そこは」

「いやいや、驚くでしょ、ここは」

「いやいや」

 しばらくそうやって、言葉遊びのような応酬を続ける。

 なんとなく会話が途切れると、妹はぽつんと、それこそ噛み締めるように独白した。

「これが、新しい夏の味かあ……」

「……おう」

 頷きながら、ふと気付く。

 ──うまい方法は、ないですかねえ。助けてくださいよ。

 冗談めかしてこぼした、妹と折り合いをつけたいという願い。

 神様は、うんとかすんとかふざけた返事を寄越しながらも、きちんとそれを縒り合わせてくれたのだ。おそらくは、それこそが俺の真の願いだと見抜いて。

「……なんだ、このしてやられた感……」

「なに?」

「なんでもない」

 今更になって気恥ずかしさが込み上げ、ごまかすようにビールを啜る。

 早くもぬるくなりはじめた缶の向こう、きっぱりとした青い空には、暑さを約束するような入道雲が、生き生きと浮かんでいた。