森の木々から葉が落ちきり、すっかり朝晩が冷え込むようになったある日。サンドラが冬の領地会議の開催を皆に伝えた。

 畑仕事と大工仕事の手伝いを終えた俺は、少し早めに領主のやかたへと入った。

「会議の前にアルマスが来てくれてちょうどよかったわ」

「何かあったのか?」

 執務室に通されるなり、満足げにお茶を飲んでいたサンドラが言った。どうやら、早めに来て正解だったらしい。

「連絡は二つあるわ。一つはドーレスから。師に話をつけたから、建物の準備をしてほしいというものね」

「それはよかった。鍛冶ができる者がいないと不便だからな」

 傷んだ農具や調理器具、馬の器具など鍛冶師の出番は人が増えるほど多くなる。これまではクアリアとのやり取りで強引にやっていたことを一気に解消できる。これは朗報だ。

「それともう一つ、クロード様から学者が派遣されてくると郵便が届いたの。近いうちにやってくるとのことよ」

 封を破った封筒を手に取りながら、サンドラは続けた。

「どんな人物だ? なんの専門家かわかるか?」

「魔法草とポーション。人選に自信があるから安心してくれと書かれていたわ」

「安心か……」

 第二副帝クロード。彼は悪人ではないが、帝国有数の権力者であり、そこまで上り詰めた政治家だ。油断はできない。この前会った感じでは変な人材を送ってくるとは思えないが……。

「これに関しては受け入れるしかないわね。面倒な人物でないことを祈りましょう」

「そうだな。まあ、なんとかなるだろう」

 相手を見てから判断するしかない。クロードを信じるとしよう。

「しかし、郵便とは便利なものだな。い仕組みを考えたものだ」

「郵便自体はイグリア帝国で一般的なものだけれどね。ロイ先生のおかげよ。クアリアの建築組合とやり取りするために、向こうと話し合って決まったの。通常は、ある程度手紙が溜まったら送ってくれるんだけれど、急ぎのものは別便で聖竜領に送ってくれる仕組みよ」

「ロイ先生は随分と気に入られたな」

 クアリアの建築組合はゴーレムによる建築土木技術を本格的に研究することにしたらしく、頻繁にロイ先生と連絡をとっている。この郵便はその大いなる副産物だ。

 また、これによって定期的ではないが、クアリアから馬車もやってくるようになったおかげで、出かけやすくなったのもありがたい。

「ちなみに、ロイ先生とアリアをくっつけようと頑張っているのも建築組合の面々です。なにかとロイ先生をけしかけていて見逃せません」

 後ろでずっと立っていたリーラがそんなことを付け加えた。

 なんと、そんなことになっていたとは。ロイ先生も頼もしい味方を得たものだ。

「そういえば、アリアの方はロイ先生のことをどう思っているんだろう?」

 考えてみれば、俺の耳に入ってくるのはロイ先生の事情ばかりだ。

「アリアの方も嫌いではないと思いますよ。むしろちょっとしたきっかけで一気に進展すると私は見ています」

 リーラが薄く微笑ほほえみつつ、自信ありげに言った。彼女は意外とこういう話題が好きだ。

「そうなのか。じゃあ、いっそロイ先生に一言アドバイスでもして……」

「いけません。こういうものは二人の自然な流れを見守らなければ」

 いつになく強い口調で止められた。目が本気だ。反論を許さないという強い意志を感じる。

「……ロイ先生とアリアには上手くいってもらいたいわね」

「そうだな。あの二人なら、穏やかな家庭を営むと思うよ」

 これ以上続けないほうがよさそうな話だったので、俺はサンドラに同意しておく。

 その手の話に詳しいわけではないが、なんとなくあの二人ならうまくいくと思う。性格的にも相性が良さそうだ。

「二人の関係の変化については、私も目を離せません」

「ほどほどにね、リーラ」

 見たこともないくらい楽しそうなリーラに、サンドラが苦笑気味にそう言うのだった。


      


 その日の夜、予定どおり聖竜領の会議が開かれた。

 参加者はいつもどおりだ。フリーバもやってきて机の上のお菓子を貰いながら待機している。

 全員がそろったのを確認すると、サンドラが前に出てきて口を開く。

「それでは、聖竜領の会議を始めるわ。みんな、お疲れさま。まず、宿の建築は順調みたいね」

「はい。あとは内装と調度類と商品ですね。スティーナさんとドーレスさんに手伝ってもらえば、冬の間に準備できるかと」

 ダンの言葉にサンドラはうなずく。宿兼酒場兼雑貨店は領民待望の施設だ。この分なら、来春には生活がより豊かになるだろう。

「ドーレスは外で商いをしてもらわないといけないから、経営は主に夫婦二人でやることになるわ。ちょっと心配ね。人を手配しておこうかしら」

「よければあてくしが、行商のついでにクアリア辺りで探してこようかと思うですが」

「では、ダン夫妻と話し合った上で問題なければドーレスに任せるということにしましょう」

 それから、とサンドラは次の話題に移る。

「ドーレスが鍛冶師を聖竜領に呼んでくれることになったわ」

 その一言に、軽い歓声があがり、皆がドーレスに注目する。小柄なドワーフは軽く胸を張りながら言う。

「はいです。あてくしの友達を呼んだです。次の春には来るですから、鍛冶場をお願いするです」

「はいよ。忙しくなるねぇ」

 スティーナが元気よく話を受けた。

「また、近いうちにクロード様が派遣した学者が聖竜領に到着するわ。こちらは魔法草とポーションの専門家。ロイ先生の負担が軽減されると思う」

「学者というのはどのような人が来るか気になりますね。おかしな人でなければいいのですが……」

 ロイ先生が俺達と同じような懸念を口にする。魔法草もポーションも聖竜領の大切な特産品だ。運営に支障がでないか気にしているのだろう。

「そこはクロード様を信じるしかないわね。最悪の場合、聖竜様とアルマスに頼むことになるかもしれないけれど」

「ああ、聖竜様に嫌われたということにすればなんとかなるだろう」

 第二副帝から派遣されてきた学者がおかしな奴だったら、そういう方向で対処することになっている。先日、クロードと話した感じだと、この理由は十分通用するはずだ。

「宿の方が片付いたら次は鍛冶屋か。炉も作らないといけないし、クアリアから人を借りたり、資材を買い付けたりしたいねぇ。……お金大丈夫?」

「それは平気。これまで収穫したハーブと製造したポーションを冬の間にまとめて売りに出すわ。あと、第二副帝から支援金の名目でお金が入るから」

 最後の言葉に、周りがどよめき、スティーナが口笛を吹いた。

「第二副帝の支援とは豪勢だねぇ。でも、これからがやりにくくならないかい?」

 スティーナの言うことはもっともだ。支援を受ければ第二副帝のを受けていることになるが、同時に逆らえなくなる。万が一、無茶な要求をされた時に困るかもしれない。

「元々この領地に来られたのはクロード様のおかげだし。受け取らないのもおかしな話になってしまうのよね。やってくる学者からの情報に満足してくれているうちは大丈夫でしょう」

「じゃあ、あたしは問題ないさ。早めにやっちゃいたいから、明日にでもクアリアに行くよ」

 鍛冶場の方はこれで方針が決まった。

「では、わたしからは以上ね。何か質問や、他に意見があれば言ってちょうだい」

 サンドラのその言葉に、室内の空気が少し緩んだものになる。今のところ、重要な議題の多くは領主から出るからだ。

 それからしばらく、聖竜領の面々で和やかな打ち合わせが続いた。


      


 冬の領地会議から三日後、聖竜領に馬車がやってきた。

 数は一台。乗っていたのは御者とは別に一人だけ。

 聖竜様からの連絡を受けて領主の館にやってきた俺は、サンドラとリーラ、それとロイ先生の四人でそれを出迎えた。

 馬車から降りたのは小柄な男性だ。くりいろの髪を持ち、線が細く、少し神経質そうな見た目をした、きゃしゃな少年のように見える若者だった。その身に黒いローブをまとう姿から一目で魔法士とわかる。

 彼が第二副帝から送り込まれた学者であることは明白だった。

「……さむっ。氷結山脈が近いからかな? 雪がなくてよかったよ」

 馬車から降りると、若者がそんなことをつぶやくのが聞こえた。

 それから軽く伸びをしてから、俺達の方を見て一礼する。

「はじめまして。第二副帝クロード様より派遣されました。魔法士のユーグと申します」

 しっかりとした口調で挨拶したユーグに対して、サンドラが進み出る。

「はじめまして。聖竜領領主のサンドラです。遠いところからお越しいただいてうれしく思います。歓迎致しますよ」

「今後ともよろしく………………ってロイ先輩っ!!

 サンドラに右手を出そうとしたところで、ユーグが急に叫んで駆け出した。

 彼は俺の隣にいたロイ先生の前にすごい勢いでやってくると、息を弾ませて話しかける。

「先輩! どうしてこんなところに? 帝都から消えたと聞いて心配したんですよ? いや……そういえば来る前に調べた情報にゴーレムのことがありましたね。それは先輩だったんですね!!

 馬車を降りた時とは別人のように表情を明るくして話すユーグ。

 一方のロイ先生は困った様子だ。

「まさか貴方あなたがここに来るとは思いませんでしたよ。とりあえず、サンドラ様に挨拶をし直しなさい。その後皆さんに事情を話します」

 いつもどおりの穏やかさで対応したロイ先生に言われて、はっとなってユーグがサンドラの方を向く。

「失礼しました。自分はロイ先輩の学生時代の後輩でして、久しぶりに会ったもので……」

 なるほど。古い知り合いか。ロイ先生の後輩ということは、十代くらいに見えるが、案外としがいっているのかもしれない。

 慌てるユーグを見たサンドラは、安心したような笑みを浮かべていた。

「ロイ先生の後輩なら安心ね。改めて、聖竜領へようこそ。学者と聞いていたけれど、魔法士だったのね。話のとおり、専門はポーションということでいいかしら?」

「はい。それなりに経験を積んでいますのでご安心を」

「ユーグはとても優秀な魔法士です。競争率の高い魔法草とポーションの分野で生きていけるだけの知識と知恵があります。性格の方も、僕が保証しますよ」

 ロイ先生の言葉にユーグがわかりやすく喜んだ。

「ところで、聖竜様のけんぞく殿はどちらでしょうか? 報告書に気になる点がありまして」

「聖竜様の眷属なら俺のことだな」

「おおっ。貴方がうわさのアルマス様ですね。色々と聞きたいことがあります。まずはですね……」

「ユーグ。アルマス様が困っているからその辺で。中に入って仕事の話をしましょう」

 いきなり質問攻めにされそうになったところを、ロイ先生が助けてくれた。

「もしかして、第二副帝は自らに似てる者を送り込んできたのか?」

「かもしれない。クロード様はそういうところがあるの」

 俺の疑問に、サンドラは嘆息しながら答えるのだった。


      


 挨拶を済ませたユーグは荷物を屋敷に運び込むと、すぐにサンドラの執務室にやってきた。

 研究職の魔法士ともなれば、大量の機材や荷物を運び込むのに苦労するかと思っていた俺達は驚きと共に室内で彼を迎える。出迎えと同じ面々で話が始まった。

「随分荷物が少ないようだが、あれで大丈夫なのか?」

「研究用の機材なんかは量が多いんで、後から順番に届くんですよ。あと必要なのはオレの衣類くらいですし、最悪クアリアで買えばいいかなって思いまして」

「ユーグらしい、効率的な考え方ですね」

 ロイ先生がそう言うと、ユーグが嬉しそうにした。

 打ち合わせ用のテーブルを挟み、お茶が用意されるとロイ先生が薄めの本くらいある書類を取り出した。

「僕が聖竜領に来てから採取した魔法草と、作成したポーションについてのものです。ユーグが持っているほうがいいでしょう」

「ありがとうございます。……さすが先輩、よくまとめられていますね」

 魔法草もポーションも聖竜領にとって重要な特産品だ。その情報があまさず記録された書類がユーグの手に渡るわけだが、サンドラも俺も止めない。これは彼の仕事だ。

「軽く見た感じ、作ったポーションも見つけた魔法草も一般的なものみたいですね」

 手早く書類を確認したユーグが俺達に聞いてきた。

「俺もロイ先生も専門じゃないからな。わかるものにしか手を出していないよ」

「機材もありませんでしたしね」

「専門外なのに普通に使用可能なポーションが作れてるんだから、十分すごいことですよ」

 書類を机の上に置いて、ユーグはハーブティーの入ったカップに口をつける。

「このハーブティーも含めて、聖竜領で採れる薬草、魔法草は効果が劇的なのは東都でも確認されています。アルマス様の作ったというけんぞくじるしの品でなくて、森の中で育てたものでも十分すぎるくらいの効果があるようですね」

「聖竜の森は世界全体で見ても特殊な場所だからな」

「可能性の話ですが、まだ誰も知らないような魔法草が群生しているということはありますか?」

「どうだろう。ちょっと待ってくれ」

 そう言って、俺は頭の中で聖竜様に問いかける。

『聖竜様、なにか変わった植物ってありますか?』

『うーん。覚えがないのう。植物のたぐいは自然のままに任せておる。気にしたことはないんじゃが、ワシがおる以上、変わったものの一つくらいあってもおかしくないのう』

『地道に調べるしかないということですね』

『そうじゃな。ところで、もし変わった魔法草が見つかったりしたら、なんて呼ばれるんじゃろうな? もしかして、聖竜草とか呼ばれちゃう? ワシの名前ついちゃう?』

『その可能性は高いですね』

『ちょっと期待してしまうのう』

 なんだかウキウキしながら言う聖竜様とは対照的に、あまり有益な情報は得られなかった。

「聖竜様がおっしゃるには、変わった植物を創造した記憶はないそうだ。ただ、聖竜の森は長く聖竜様の影響を受けている。可能性はあるだろう」

「……そうですか。わざわざありがとうございます。それと噂に聞く、金色の瞳を早速見れるとは思いませんでした」

「なに、このくらいは大したことじゃないさ」

 簡単に新発見ができるとは思っていなかったのだろう、ユーグもそれほど落胆した様子はない。

「現段階でも聖竜領は貴重かつ強力な魔法草の産地ですので、クロード様からの手厚い援助が約束されます。未知の土地であるということもあって、探索と採取も行いたいのですが……」

「私としては大歓迎なのですけどね」

 真面目な口調のユーグの話を受け、サンドラが俺の方に気を使うように視線を向けた。

「こちらとしてもお願いしたい。森を荒らさなければ問題はないだろう」

「細心の注意を払います。奥地に行く場合はアルマス様に相談し、許可をもらった上で、活動させていただきます」

「調べるのはユーグ一人なのですか? 聖竜の森は広いですよ?」

「追加派遣の予定はあります。オレの報告内容次第になりますんで、最終的にどのくらい人が来るかまではわかりませんけれど。できれば、エルフの村の中に工房を設けさせてほしいんですが。もちろん、仲良くしますよ」

「それはルゼ……エルフ村のわかおさと相談ね。多分、問題はないと思う」

 サンドラの返事に、ユーグは表情を明るくした。

「よかった。森にはエルフと眷属以外住めないと言われたらどうしようかと思っていたんです」

「そんなことはないさ。害意のない者なら大歓迎だよ」

「すぐには無理でしょうから、当面は屋敷に住みながら森の中で仕事ということでいいかしら?」

「それでお願いします。それと、オレのための機材と一緒に、聖竜領とクロード様とで連絡をとるための魔法具なんかも届く予定になっています」

「なんだか他にも色々と届きそうだな」

 あの第二副帝のことだ、こちらの想像もつかない物品がやってくる気がする。

「クロード様の性格的にそれは否定できませんね。でも、大抵気の利いた便利なものですよ。特に聖竜領に対してはそうなると思います。噂で聞くと東都の城は大変みたいですし」

「なにかあるのか?」

「なんでも、クロード様が発作的に城を抜け出そうとするみたいなんですよ。一度ここに来て、気に入っちゃったみたいで。オレの派遣も早まりましたし。報告も密にしろと言われてます」

 どうやら、クロードは相変わらずのようだ。奥さんの苦労がしのばれる。

「そういえば、到着した時に、アルマスに何か聞きたそうにしていたようだけれど」

 話が一段落したところで、俺も気になっていたことをサンドラが聞いてくれた。

「実はオレは専門分野以外にも一つ研究テーマがありまして。それにアルマス様が関係しているんです。あの、報告では魔法で冷やされ続ける倉庫があったとありますが」

「それをやったのは俺だな。すると、魔法を特定の地点に長時間固定化する研究とかか?」

「そうです! アルマス様の魔法を研究し、魔力を長期間保管する技術が生まれれば魔力不足で実現できない理論が解決し、大きな技術革新が……っ」

「それ、無理だぞ」

 目を輝かせたユーグには悪いが、俺は即答した。

「え……」

「本当です。無理です」

 助けを求めるようユーグが見たロイ先生も即答した。

「俺が魔力や魔法を長時間固定できるのは竜だからだ。もっと言うと、世界を創造した聖竜様の眷属だからだ。どうも魔力を長期固定するというのは、世界を創造するための力に関わるみたいなんだ。……すまん」

 山を動かしたり自然を操作したりするため、竜にはそういった力が与えられているようだ。ただ、どうしてできるのかは上手く説明できない。手足を動かす感覚に近いためだ。

 なんというか、「できるからできてる」としか説明できないのである。

「実は僕も何度かアルマス様に聞いたり、調べてみたのですが。わかりませんでした」

 だからあまり悩まないように、とロイ先生がフォローに入った。

「そんな…………

 がっくりと肩を落とすユーグ。今度こそ、落胆させてしまったかな。

「いえ! すぐには諦めません! 長年抱えたテーマですからね。どれだけ成果がなかろうとも、心が折れるまで調べさせてもらいます!」

 意外ときょうじんな精神の持ち主だな。

「それはいいけれど、ポーションと魔法草の仕事はしっかりとお願いね」

 横からサンドラが研究に燃える若き魔法士をしっかりとたしなめた。

「もちろんです。皆さんを満足させるような仕事を致しますので、ご期待ください。とりあえず、後で到着した報告をオレの魔法具で飛ばしますから、皆さん何か用件があれば一緒に送りますよ」

「クロード様はわたし達にとって頼もしい味方になるものね。手紙を書くわ。アルマスにもお願いしていい?」

「承知した。お礼くらい書かないといけないな」

 出会ったばかりだが、ユーグは俺達に害をすような人物に見えない。しっかり人材を選んでくれるあたり、第二副帝はこれからも頼りになりそうだ。これは礼の一つも言わなければ。

「急ぎですが、最初の報告はこんなところですかね。皆さんと仲良くやっていけるよう頑張りますので、これからよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくね」

 朗らかな笑みと共に頭を下げたユーグに、サンドラが返した。魔法草とポーションの専門家で魔法士。きっと、頼りになるだろう。

 冬の初め、こうして聖竜領に新たな住民が加わったのだった。


      


 新たな魔法士ユーグが聖竜領に来た翌日の夜のことだ。

 俺は自宅でお茶に読書という、ゆったりとした時間を過ごしていた。冬は仕事も少ないし、森の中は静かだ。読書がはかどる。

 たまにクアリアに行って買ってくる本もそろそろ読み終わってしまうし、近いうちに買い物に行こうかなどと考えていた時だった。

 家の玄関がノックされた。外の気配と魔力を探る。小柄、魔力は多め、本人とは別に小型の魔法具が発動している。日常的に魔法具を使う魔法士は聖竜領では二人。そのうち小柄なのは一人しかいない。

「ユーグか。入っていいぞ」

 そう言うと、ドアが開き、想像どおりの人物がいた。

 冬の夜は冷える。厚着したユーグは荷物を背負い、片手に明かりの魔法具を持っている。

「さすがですね、オレが来たって言い当てるなんて」

「経験だよ。それよりどうしてこんな時間に来たんだ? 夜の森は暗くて危ないぞ」

「実は、アルマス様に大切な話がありまして」

 そう言って、神妙な顔でユーグは室内に入ってきた。

 俺は彼のために手早くお茶を用意する。

 冷えきった手でカップを手に取り、一息入れるとユーグは目的を語り出した。

「ありがとうございます。本当は日中に来たかったんですが、引っ越し作業なんかに時間をとられまして……」

「いや、気にしなくていいよ。察するに、第二副帝絡みか?」

「……はい」

 ユーグは魔法士としてだけでなく、第二副帝とのパイプとしての役割も帯びている。

 神妙な顔つきから、そちらの目的で来たことは容易に想像できた。

「二人きりの時に、これをお渡しするようにと言われていました」

 そう言ってユーグが荷物から取り出したのは四冊の本だった。

「見ていいか?」

「どうぞ」

 中を軽く見てみると、そこには魔法陣や魔法についての記述が細かな字で書き込まれていた。それも理論的なもの、実験した結果など様々だ。

「精神に関する魔法のように見えるな」

「はい。第二副帝がアルマス様に要望された中で、一番合うと判断されたという魔法書です。なんでも『嵐の時代』に研究が始まったもので、言い回しや表現が古い上に、魔法書というより研究書としての側面が強いそうですが」

「読む分には問題ない。俺もその年代の人間だからな」

 そう言うと、ユーグがはっとした。聖竜領の者も日常ではあまり意識していなさそうだが、こう見えて俺は四百年以上前の人間だ。

「話によると、昔、精神に関する魔法の研究で使われていたものだそうです。難解なことと、色々な事情で研究が頓挫したとか」

「色々な事情か……せんさくしないほうがよさそうだな。ともかく、これを上手く使えれば、俺が求めている魔法を作れるかもしれないと?」

「はい。『嵐の時代』はずっと戦をしていた関係で、一部の魔法技術が現代以上の水準にありました。これもその一つです」

「凄い魔法書じゃないか。クロードはこんなものをどこから……」

「それは俺も不思議に思っていました。この魔法書の存在は初めて知りましたし、東都にあったとも思えないんですよね」

 相手は第二副帝だ。彼なりの情報網から見つけてきてくれたということだろうか。

「いいのか、これを貰って」

 そう問いかけると、ユーグは頷いた。

「はい。これができる限りだという言葉も預かっています。また、必要であれば手伝うようにとも。ロイ先輩に手伝ってもらってもいいそうです」

 ありがたい話だ。未知の魔法を調べるのは時間がかかる。信頼のできる協力者に手伝ってもらえるなら効率も上がるだろう。

 魔法書のページを少しめくって軽く目を通す。精神に関する魔法はいくらか心得があるので、ある程度は理解できそうだった。むしろ『嵐の時代』を生きた俺なら、現代人のユーグやロイ先生よりも手早く解析できるかもしれない。

 これを上手く利用すれば、アイノの治療に役立つだろう。

 魔法でアイノの精神を保護し、聖竜様に変異した魔力を一気に浄化してもらう。それができれば治療の速度は飛躍的に進むことになる。

 そう思うと、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。

「あの、アルマス様? 大丈夫ですか? 小刻みに震えてるんですけど」

「……気にしないでくれ。色々考えてたら、感動で震えがきたんだ」

「そ、そうですか」

 俺を見て不安げな顔をしたユーグを安心させるように、穏やかに微笑んでおく。

 そういえば、昔もこういうことが何度かあったな。帰省でアイノと会うことを考えたりすると、自然と震えていたものだ。

「少し見た感じ、俺の知識でも多少は読めそうだ。一度目を通した後、協力してもらえないか相談したいんだが、いいだろうか?」

「ええ、オレは全然構いません。でも、アルマス様は大丈夫なんですか? 色々とお仕事があるでしょう?」

「平気さ。冬は畑の様子を見るのと、土木作業を少し手伝うくらいだ。時間はあるよ」

 時間的猶予のある時期でよかった。これが大規模な土木工事などを行っていたり、なにかしらのトラブルが発生していてそれに対処する必要があったら、落ち着いて魔法書を開くことすら難しかっただろう。

「なにより俺は竜だからな。寝ないで集中して研究作業をし続けることもできる。むしろ、今こそその時なんじゃないかと思いはじめたところだ」

「話には聞いていましたが、凄いですね……」

「用件はこれだけか? どうする、屋敷まで送るが?」

 俺が魔法書を今すぐにでも読みたいのが伝わったのだろう、ユーグは軽く笑いつつ言う。

「大丈夫ですよ。魔法具の明かりもありますし。聖竜領は安全ですから」

「たしかに、この辺りなら獣もいない。安心して帰るといい」

「聖竜様の眷属に保証してもらえるなら、本当に安心ですね」

 そう言うと、ユーグは席を立った。第二副帝から俺の事情について、ある程度聞かされているのだろう、なんとなくだが気遣いを感じる。

「それにしても、この家は暖かいですね。アルマス様の魔法によるものですよね? 正直、これも研究したいんですが、今は遠慮しておきます」

「その時は俺も協力するよ」

 そんなやり取りの後、ユーグは領主の屋敷へと戻っていった。魔法具の光量を増やしているのだろう、暗い森の中、不自然なほどの明るさと共に去っていくのがよく見えた。

「……さて、やるか」

 そして俺は机の上に置かれた四冊の魔法書に目を向ける。

 思いもよらぬ早さで手に入ったアイノを助ける手がかりだ。今日は寝ずに読む。竜の体を全力で生かす時が来た。

 新しくお茶をれ、机に向かうと俺は魔法書を開いた。


 冬の朝は遅い。そして、窓ガラスの入っていない俺の家は基本的に外の光が入ってこないので、自分の感覚や外の音で朝を知るしかすべがない。

 家の近くに飛んできた鳥の鳴き声が耳に入り、俺は朝が来たことに気づいた。

 俺は肉体的にも精神的にも強靱な竜ならではの集中力を生かし、魔法書を一心不乱に読み込んだ。途中で手をつけなくなったカップの中のハーブティーはすっかり冷めている。

 何時間ぶりかに立ち上がり、木の窓を開けて外の冷たく爽やかな空気を室内に送り込む。

 今日も良い天気だ。比較的暖かいので、まだ雪が降るまで日があるだろう。

 朝の空気を吸い込み、少しぼんやりしていた頭がはっきりしていくのを感じながら、俺は誰ともなく呟く。

「どうしよう、よくわからん……」


      


 ユーグ経由で第二副帝からもたらされた魔法書は、確かに精神魔法を防御する手段についてのものだった。話に聞いたとおり、各所に応用が利きそうな記述があり、実用性も高そうだ。

 しかし、全体像が上手く把握できない。あえて詳細を記述せず、数値ではなく難しい数学の計算式をそのままにしておくなどしてわかりにくくしているためだ。

 これは『嵐の時代』の魔法書であり研究書だ。敵に奪われることを想定してそうした処理が為されているのだろう。

 さすがに一人では手に余る。協力者が必要だ。

 一通り読んだ結果、そう判断した俺は、気になるページに付箋代わりの紙を挟み込んだ魔法書を持って、領主の屋敷へと向かった。

 時刻は朝だが、いつも領内へ姿を見せるよりも少し遅い時間帯だ。一晩中本を読んでいた疲労はなく、朝の冷たい空気が心地良かった。

 屋敷につくと、さっそくユーグに会いに行った。気配を探ると今日は自室にいるようだったのでまっすぐ向かう。扉をノックし返事を聞いてから室内に入ると、朝から書き物をしていた彼は俺を快く迎えてくれた。

「おはよう、ユーグ。昨日はありがとう」

「おはようございます、アルマス様。今朝は畑に出てこなかったみたいですね。サンドラ様とアリアさんが気にしてましたよ」

「あれからずっと魔法書を読んでいたんだ。それで、相談に来た」

「もしかして、もう全部読んだんですか?」

「当たり前だ。妹が助かるかもしれないんだからな」

「話に聞いたとおりですね。どうでしたか?」

 俺が肯定するとユーグは驚きつつ聞いてきた。

「読んだといっても軽く目を通したという感じなんだが。俺一人では無理そうなことがわかった。結構な部分が数学的な暗号に置き換えられているし、文章的な暗号も多い」

 言いながら付箋だらけの魔法書を一冊渡す。

 ユーグは「うわっ」と驚きつつも、付箋の挟まったページを何カ所か確認する。

「……たしかに。文章的にわかりにくくしてる部分は協力できそうですが、計算部分はオレも厳しいですね」

「やはりか……」

 計算といっても数値の羅列だけだったり、思い出したように「なんとかの公式」とか書かれているのだ。これでは何をどうすればいいのかわからない。

「ロイ先輩にも手伝ってもらって、時間をかければなんとかなるでしょうが……」

「実はこの問題について、解決できるかもしれない方法がある」

「聖竜領に魔法士は三人しかいないはずですよね?」

 げんな顔をするユーグ。そういえば、彼は来たばかりでまだ知らないのかもしれない。

 魔法士ではないが、聖竜領には計算に関してとんでもない能力を持つ人材がいることを。

「サンドラに協力してもらってもいいだろうか?」

 十三歳で飛び級を重ねて学問を修め、超人的な計算能力を持つ聖竜領の領主。数学が得意分野だという彼女の協力を得ることができれば、魔法書の解読も進むはずである。


 領主の執務室は冬になってからというもの、のんびりした空気が流れていることが多い。

 仕事量が少し減っているためだ。これまで忙しかったこともあり、せっかくだからとサンドラはリーラと共に穏やかに時間を過ごしている。

 それを知っているので、俺はユーグを連れて遠慮なく執務室に向かった。

「……まさか、クロード様からそんなものが贈られていたなんてね」

 執務室に来た俺の様子を見て驚いたものの、魔法書を見せながら事情を説明すると、サンドラは納得したように頷いた。

「正直、数学的な話になると俺の手に負えない。見てくれないか?」

 頼まれたサンドラは魔法書の一冊を手に取り、付箋の挟まれたページに目を通す。

 リーラの淹れたハーブティーの香る暖かい空間で、暖炉の火がゆらめく音が静かに響く。そんな中、サンドラは吟味するように魔法書を読み進めていく。

「すごい速さで読むんですね」

 隣に座るユーグが感心して言った。数式だけのページのみならず、サンドラは周辺も含めてすごい速さで目を通している。たまにページを行ったり来たりと記述を確認していることからも、しっかり読めているのが伝わってきた。

「……ちょっと確認したいことがあるから、試しに全部読んでみていいかしら?」

 一冊読み終えると、そう言われた。もちろん、断る理由はない。

「時間がかかるようですから、トゥルーズの作ったお菓子を用意致しますね」

「リーラも座って休んでちょうだい。この二人ならいいでしょう」

「承知致しました」

 俺達の前には焼き菓子が用意され、リーラは自分用の席についてお茶を飲みはじめた。

…………

 どうなんだ? と問おうかと思ったが、それを思いとどまって無言になる。

 魔法書を読むサンドラには声をかけにくい気配があった。

 目に見える集中力といえばいいだろうか、文字と数字を追いかけるその姿には威圧感すらある。

「……凄いですね」

「ああ、俺もこういうところを見るのは初めてだ」

「お嬢様は興味のそそられる本や論文を見つけるとこうなるのです。久しぶりに見ました」

 静かに驚く俺達の会話が聞こえたようで、リーラがそう教えてくれた。サンドラにも聞こえているだろうが、彼女は全く反応しない。

 しばらくして、四冊全てに目を通したサンドラは魔法書を丁寧に机の上に並べ、何度か長めのまばたきをしてから口を開いた。

「ざっと目を通してみたけれど、わたしだけでは無理そうね」

「そうか……」

 サンドラならあるいはと思ったのだが、残念だ。

「落ち込まないで。続きがあるの。書いてある数学関係の暗号だけれど、半分くらいはわかるの。それ以外も想像はつくのだけれど、ちゃんと専門家に確認したいと思ったの」

…………それは、だいたいがついたということか?」

 驚く俺に対し、サンドラは困ったような笑みを浮かべて言う。

「そう、だいたいよ。魔法具でスルホ兄様とクロード様に連絡をとって、専門家に見てもらえば大丈夫だと思う。ちょっと時間はかかると思うけれどね」

「あの、時間というのはどのくらいでしょうか?」

「そうね。連絡の速度次第だけれど、冬の間にはなんとかなると思うの」

「……正直、年単位で解読するものだと思って持ってきたんですが」

 ぼうぜんとしながらそう言うユーグ。おそらく、聖竜領の魔法士だけで挑戦していれば実際に数年かかったことだろう。

「頭の回転が速いとは思っていたが、これほどとはな……」

 俺よりもサンドラの方が賢者を名乗ったほうがいいんじゃないか?

「えっと、そう褒めるようなことじゃないのよ? 使う公式は大体書いてあるし、数式も暗号のように偽装してあるけれど、近くにヒントがあるのだもの」

「数式に偽装なんてしてあったのか?」

 全然わからなかった。

「ええ、他人の手に渡った時に正しい情報が判読できないようにされているわ。多分、魔法陣や呪文についてのところにもあると思う。そこは専門外だからわからないけれど……」

「確かに、呪文や魔法陣についてはそうだったな」

 魔法書の中には一部の呪文や魔法陣に微妙におかしいところや、効率の悪いところがあった。丸写しだけでは期待しているような効果は望めないだろう。

「一晩でそこまで読み込んだんですね。さすがです」

 ユーグが尊敬を込めて言ってくれた。なんか会ってから初めてそんな風に見てもらった気がする。

「偽装部分は数式をあてはめればいけると思っていたんだが……、意外と厄介かもしれないな」

「そうね。計算と並行して読み直したほうがいいかも」

 とりあえず、サンドラにそれらしい数値を計算してもらってあてはめていこうか。

 いや、その前に確認することがある。

「順番が前後してしまったが、この魔法書の解読をサンドラにも協力してほしい。お願いだ」

…………

 そう言うと、サンドラが呆然とし、自分の席でお茶を飲んでいたリーラが固まった。

「駄目か? 領主は忙しいからな……」

 無言の二人に俺が諦めかけたところで、サンドラが遮るように声を出した。

「もちろん協力するわよ。魔法書の解読なんて滅多にできないし、妹さんを助けるのはアルマスの一番の目的でしょう? 手伝わないわけないじゃない?」

 心外だ、とばかりに珍しく強めの口調で言ってきた後、穏やかな表情になりサンドラは続ける。

「聖竜領でアルマスに力を貸さない人なんていないわ。むしろ、わたしは頼られて嬉しいかな」

「ありがとう。感謝する……」

 俺が頭を下げると、サンドラが癖毛に触りつつ言う。

「いいのよ。ようやくこちらからあなたを手助けできるんだから。それよりもこの魔法書、解読した後どうなるのかしら? 凄い力があるなら扱いが難しいと思うのだけれど」

「内容次第ですが、東都で封印されるとか、世の中に役立ちそうならさらに研究していくことになりますね。使い道については信用してくださいとしか言えません」

 ユーグの物言いは正直だ。こればかりは、魔法士を信じてもらうしかない。

「魔法も道具の一つ、使い方次第だ。聖竜領で俺とロイ先生が作るゴーレムだって、元は戦うためのものだからな」

「なんだか、ゴーレムって土木作業用でしか見たことがないから、その認識がないのよね」

 サンドラのその認識は幸せなものだ。できれば今後もそうであってほしいと思う。

「最悪、あまりにも危険だったら聖竜様のところに置いて保管しておくよ。俺がそう判断したと伝えれば、クロードも文句は言わないだろう?」

 問いかけるようにユーグを見ると、彼は首を縦に振った。

「ええ、この魔法書の扱いに関してはアルマス様に一任されていますから。そこは大丈夫です」

「なら安心ね。じゃあ、早速作業を始めましょう。まずは数式についての確認を東都にしないとね。リーラ、紙とペンを」

 どうやら領主の時間に余裕があったらしい。戦闘メイドが静かかつ速やかに準備を整えると、サンドラによる魔法書解読作業が本格的に始まった。


      


 ユーグに貰った魔法書の解読は思ったよりも順調に進んだ。サンドラだけでなく、ロイ先生にも協力してもらい、着実に内容を読み進めることができている。

 それと並行して、俺はアイノを助けるための魔法の試作も行うことにした。用意するのは魔法陣で、完成品を発動する際は聖竜様の領域に向かいそこで眠るアイノに対して使うことになる。

 精神を守るためのものとはいえ、心に作用する魔法は扱いが繊細だ。試験を重ねて安全性を確認する必要がある。

「と、いうわけで。ロイ先生に協力をお願いしたいんだが」

「……やはりそうなりますか。覚悟はしていましたよ」

 雪がうっすら積もったある日、領主の屋敷へ来た俺は、ロイ先生の工房で相談していた。話し合いの場には俺の他にユーグがいる。工房内は機材が豊富なのでよく自分の研究をしているのだ。

 俺がかけた暖房魔法のおかげで過ごしやすくなった室内で、ロイ先生は自作のポーション瓶を並べながら達観した顔をして言う。

「これらは飲むと僕の精神状態に影響が出るポーションです。アルマス様に魔法をかけてもらってからこれを飲めば検証になるでしょう」

 さすがはロイ先生だ、話が早い。俺がやろうとしていることをすぐに把握してくれた。

「たしかに希釈なしの聖竜領産ポーションを飲んで影響がなければ、魔力の精神への影響を排除できたと言えると思いますけど。……人体実験なのでは?」

 ユーグの発言にロイ先生は優しい笑顔で答える。

「いえ、これはあくまで研究の一環ですから。そもそも、ポーションで起きる精神への影響は命にかかわるほどではありません。安全な試験ですよ」

「……たまに深夜に聞こえるロイ先輩の奇声からすると、とても安全には思えないんですけど」

 自分一人でも色々試してるんだな、ロイ先生……。

「念のため、弱めの魔法から段階的にやっていこうと思っている。知ってのとおり、相手の精神を書き換えたりするのを目的とした魔法ではないから、安全なはずだ」

「ええ、そこは僕達も関わっているから存じています。早速やりましょう」

 言いながらポーションを一本用意するロイ先生。行動が早い。

「先輩、なんでそんなにやる気なんですか?」

「これが上手くいけばこれまで使えなかった高濃度なものが使えるかもしれないじゃないですか。そうすれば、僕の長年の課題だった魔力不足に一つの解決策が提示されるんです。これは、アルマス様だけでなく僕にとっても良い話なんですよ」

 そう言って、やってくださいとばかりにロイ先生がこちらを見た。

 本人の承諾は得たので、俺は用意した魔法陣の中でも一番効果の弱いものを取り出す。

 紙に描かれた比較的シンプルな魔法陣に手を置き、魔力を流す。魔法陣が発光し、ぼんやりと浮かび上がり、そのまま帯状になってロイ先生の頭を囲うようにゆっくりと回転を始めた。

「これで準備は完了だ。弱めのやつを飲んでくれ」

「結構あっさりした発動なんですね」

「人間に悪用されにくいように、魔力の供給が途絶えたらすぐに止まるようにしている」

「つまり、実質アルマス様専用魔法ですか。せめて解析できれば……」

 言いながらユーグが鋭い目で俺の生み出した魔法陣の観察を始めた。研究熱心な男だ。

 ちなみに悪用防止と言ったが、魔法具に組み込んだりして人間が連続して使うなどの抜け道があるので、気休めの対策である。

「では、一杯いきますか!」

 まるで酒場で飲みはじめるかのような感覚で、頭に魔法陣を輝かせたロイ先生が『希釈五十・魔力増強・精神影響あり』と書かれたポーションを一気飲みした。

…………

…………

…………

 室内の男三人が沈黙する。視線が集中するロイ先生は空になったポーション瓶を置いて、静かに座っていた。

 見た感じ、平静なままだ。俺はユーグと目配せし、ロイ先生に声をかける。

「どんな感じだ?」

「……落ち着いています。この濃度なら通常、三分もすれば奇声をあげているところです」

 経験者が語る、説得力のある言葉だった。

「じゃあ、これ上手くいってるんですね」

「ああ、そのようだな。ポーションも正常に効いている」

 俺はロイ先生の体内の魔力を観察した。ポーションの効果が消えたわけではなく、しっかり魔力が活性化している。

「少し高揚感はありますが、奇声をあげたり走り回ったりするほどではありません。この魔法陣が僕の心を守ってくれているようです」

 ロイ先生が自分の頭の周りで回転する魔法陣を指さして言った。

「やったじゃないですか! 成功ですよ!」

「まだ最初の段階だ。アイノの治療のためにはもっと魔法を強力で複雑にしないと」

 聖竜様がアイノに行っている治療は全身の魔力を入れ替える行為に近い。心を守るためにはロイ先生が原液をそのまま飲んでも全く動じないくらいにする必要がある。

「まずは無事に発動したので良しとしよう。ロイ先生。もう少し強いポーションに変えてみてもいいかな?」

「ええ、構いませんよ。その前に一度、魔力の調整をお願いします」

 いつものようにロイ先生に触れて体内の魔力の流れを正常に戻す。今後、これを何度も地道に繰り返す。他に良い方法もない以上、続けるしかない。

「先輩、本当になにか異常はないんですか?」

「大丈夫ですよ。むしろ、物足りないくらいです。普段はもっと過酷な目にあっていますから」

「そ、そうですか……」

 それだけ自分で実験していることが暗に示され、ユーグがちょっと引いていた。

「個人的にはありがたい上に面白くなってきました。どんどんやってみましょう!」

 工房の各所から様々な試作ポーションを取り出しながらロイ先生が快活に叫んだ。

「こんな楽しそうな先輩、久しぶりに見ました。あ、オレは記録を取りますね」

「助かるよ。しかし、自分から喜んで実験台になられると、なんだか申し訳ない気分になるな」

 俺とユーグがそれぞれ感想を言う間に、机の上に次々とポーションが並ぶ。ポーションは魔法薬なのであまりたくさん飲むと危険な気がする。ユーグと相談しつつ実験数を決めよう。

「では、まずはこの魔法陣でどこまで耐えられるか確認してみよう」

 それから十分後、いつもどおりロイ先生の工房から屋敷全体に奇声が響き渡ったのだった。


      


 大抵の場合、魔法陣というものは小さな魔法を発動させる術式を複数組み合わせて作成されている。例えば火の魔法なら火力、効果時間、範囲といった術式を組み合わせて魔法陣として成立させるのが一般的だ。

 魔法陣制作ではこの調整が肝となる。

 例えばこの冬、俺がよく使っている暖房の魔法は火と風の魔法を組み合わせ、発動した際に爆炎にならないように何度も実験を試みた末の成果物だ。

 アイノを救うための魔法陣もその例に漏れず、複数の術式の組み合わせになっている。精神という曖昧なものを相手にする関係上、複雑で繊細だ。

 新規の魔法を作る手順というのは試験を繰り返すことでもあるので、俺は自宅で空いた時間を見つけては解読した魔法書から得た魔法陣の試験をひたすら行っていた。

 一つ魔法を描いては発動するか確認し、二つ組み合わせてちゃんと動くかをまた確認。魔法陣は発動されるたびに魔力を使うのでこの作業を行うのは俺が最適だった。

『のう、アルマス。少しは休んだほうがいいと思うんじゃが。家にいる時はほとんど寝とらんじゃろう?』

『ご存じのとおり、俺はそれほど睡眠を必要としません。人間時代だったら倒れていたでしょうね』

『自分でわかっとるんかい。まあ、その辺は置いとくとして、少しは休んだほうがいいと思うぞ。さすがにワシも心配になるくらい根を詰めておる』

 聖竜の眷属としての肉体であっても疲労はある。解読作業と試験を続ければ頭がぼんやりしてきたりもする。すでに何度か頭をはっきりさせるため、休息をとったことがあるのは確かだ。

「心配してくださるのはありがたいですが、聖竜様の存在を知った時以来のアイノを助ける手がかりなんです。ここで頑張らないわけにはいきません」

『ワシのところに来る前もそんな感じじゃったみたいじゃしなぁ。極論、ワシはいいんじゃよ。お主がこのくらいで倒れたりせんことはよくわかっとる。しかし、周りの者が心配するじゃろ?』

…………そうかもしれませんね』

 聖竜領の皆は俺が人間と違うと認識していても心配するだろう。そういう人々だ。

『お主が焦っていると、それを見る者も焦るんじゃないかのう』

『それは俺の本意ではありませんね』

 まだ一年もっていないが、聖竜領の皆とはそれなりに苦労を共にした仲だ。戦友のような関係といってもいい。余計な心配をかけたくない。

『少し、やり方を考えてみます』

『うむ。そうするがよい』

 焦って魔法の制作に失敗する可能性だってある。ここはじっくり構えていこう。


 聖竜様に仕事のしすぎをとがめられた日の午後。

 大工のスティーナが家にやってきた。割と珍しい来客である。彼女は普段、自分の仕事で忙しく、森の中で材木を切り出している時でも俺の家にはあまり寄らない。

「なにか困ったことでもあったのか? 春に向けての準備とかで」

 俺が用意したお茶に口をつけると、スティーナは遠慮がちに笑みを浮かべながら話を切り出した。

「あー、ちょっと違ってね。実は、ドーレスが頑張ってくれたおかげで、この家用の窓ガラスと暖炉なんかの資材が用意できたのさ。それで相談なんだけれど、アルマス様、しばらく屋敷に住んでみないかい?」

「この家を離れるのか……。しかし、屋敷の方はいいのか?」

 改装工事をするから家にいないでくれと言うのはわかる。とはいえ急な話だ。屋敷の方に迷惑ではないだろうか。

「いやさ。実はこれ、アリアとトゥルーズとなにか力になれないか相談してね。それで、見た感じ、自宅よりも屋敷で研究してもらうほうが効率良さそうに見えたんでさ」

「……なんか、すまないな。気を使わせてしまって」

「い、いや、いいんだよ。アルマス様がずっとここにいた理由は知ってるからさ。ちょうど資材も届いたことだしってことで、もちろん、サンドラ様にも話してあるよ?」

 どうかな、と微妙に上目遣いでスティーナが聞いてきた。聖竜様に注意される以前に、皆にかなり心配されていたらしい。その上、研究用の環境まで提供すると言われてしまった。

「サンドラはなにか言っていただろうか?」

「大丈夫。むしろ、屋敷に招くきっかけを探してたみたいだよ。相談したら、『実はアルマスが自宅に帰るのって時間効率良くないのよね』とか言ってたし」

「たしかにそうだが……」

 スティーナ達の提案は俺にとって非常に助かる。屋敷ならすぐにサンドラやロイ先生に相談できるし、衣食住もリーラ達が面倒を見てくれるだろう。

 しかし、そこまで頼っていいものだろうか。現状でも十分頼っているというのに。

「アルマス様、もしかして悩んでる? そんな顔しないでいいんだよ。春からお世話になった分を返したいだけなんだからさ」

「それはもう十分返してもらっているつもりなんだがな」

「じゃあ、言い方を変えるよ。あたし達は皆、アルマス様の力になりたいんだよ。アルマス様だって、聖竜領の誰かが困ってたら力を貸すだろう?」

 俺が思った以上に抵抗しているのを見て困ったのか、苦笑気味にスティーナがそう問いかけてきた。言われてみればそのとおりだし、この申し出を断るのは逆に失礼だ。彼女達を信頼していないことになる。

「そうだな。よろしくお願いする。世話になるよ」

 軽く頭を下げてそう答えると、スティーナの表情が明るくなった。

「よかった。実はサンドラ様が心配してるとか、その辺はできるだけ隠せって言われてたんだけどね。ほら、あの人意外と恥ずかしがり屋だからさ。でもまあ、あたしは隠し事とか苦手だからさ、ちょっと人選ミスだよね!」

 領主の不手際を指摘する彼女は、いつもどおりのさっぱりとした口調だ。交渉役ということで緊張していたのだろう。

 ちなみにサンドラの人選は間違っていない。こういうまっすぐな申し出をされれば俺は断れないと踏んでのことに違いない。

「とにかく、ようこそ領主の屋敷へ。料理人の腕は確かだし、凄いメイドさんのおかげで屋敷はいつも清潔。色々とにぎやかで、快適な場所だよ」

 冗談めかして言うスティーナに俺も同じように返す。

「ああ、楽しみだ。本当に」

 こうして、思いがけず冬の間だけ生活環境が変わることになったのだった。


      


 話がまとまるなり、俺はすぐに屋敷に向かうことになった。

 もともと荷物の少ない身なので、準備などほとんど必要ない。

 そのことを伝えたら、スティーナから「じゃあ、今日から引っ越しちゃおう」と強く薦められ、特に断る理由もなかったので了承したという流れだ。

 魔法書解析についての書類と少しの荷物を手に、屋敷に向かう。

 冬の午後、空気は冷たいが天気が良いので日差しが心地良い。

「明日から早速改築作業をするからね。帰る頃にはより快適な家になってるさ」

「ありがたいな。窓ガラスも暖炉も、実は楽しみにしていたんだ」

「なんだい。言ってくれれば手を尽くして資材を集めたのに」

「どちらも生活に必須なものじゃないからな。スティーナの仕事を優先してもらおうと思ったんだ」

「少なくとも、普通は暖炉は生活に必要なんだけれどね。やっぱり魔法って凄いねぇ……」

「上手に使えば便利な技術だよ。生活が豊かになる」

 できれば魔法とはそういう存在であってほしい。それは『嵐の時代』で色々なものを見てきた俺のひそかな望みだ。戦うばかりだった俺の魔法が皆の役に立ったり、アイノを助けるために使えるのはとても喜ばしいことだと思っている。

「魔法書のこと、上手くいくといいね」

「ああ、頑張りどころだな」

 話しているうちに、屋敷が見えてきた。門の前に見覚えのある人影がある。深い赤色のメイド服を着た女性、リーラが静かにたたずんでいた。

「リーラ、どうかしたのか?」

 普段はサンドラと一緒にいる彼女が単独とは珍しいことがあるものだ。そう思い声をかけると、彼女はれいな姿勢で静かに頭を下げた。

「お待ちしておりました、アルマス様。どうぞこちらへ」

「お客様の出迎えさ。ほら、どうぞどうぞ」

 丁寧な対応に一瞬戸惑った俺をスティーナがかし、扉を開けたリーラが屋敷内を先導していく。

 住んでいるわけではないとはいえ、何度も来ている建物だ。二人がどこに案内しようとしているのかはすぐにわかった。

 行き先は食堂だ。俺がよく行く場所でもある。

「こちらです」

 扉を開けたリーラに促されるまま中に入ると、思いがけない光景が飛び込んできた。

「……なんで皆いるんだ?」

 そこには屋敷の全員にルゼとマイア、それにフリーバがまでが待っていた。それぞれ席につき、テーブル上では食事の準備が進められている。

 鹿肉のローストを並べていたトゥルーズが俺を見て言う。

「……アルマス様の歓迎会。誘えば来るってサンドラ様が言ってたから」

「俺が断ったらどうする気だったんだ」

 保存食が中心になる冬とは思えないような豪華なメニューだ。魔法のかかった保管庫に入れてあった取っておきも出したのだろう。

「……もし来なくても夕食ということにして、食べてもらうつもりだった」

 どちらにしろ俺の口に入る予定だったらしい。誘われれば喜んで向かっただろうな、俺は。

「世話になるだけでもありがたいのに、わざわざこんな準備までさせてしまうと申し訳ないな」

「お気になさらず。アルマス様は大切なお客様ですから、このくらいは当然です」

 リーラがそう言いながら、俺を席まで案内する。

 すぐそばに座ってフリーバの相手をしていたルゼとマイアがこちらを見た。

「アルマス様、お話は聞いております。冬の間の畑の世話は森のエルフ一同が代わりますので、研究に集中してください」

「私も手伝いますし、もし氷結山脈から魔物が来たらフリーバと対応します。妹さんを助けることに集中してください!」

「南のことはきにしないでいいよ。フリーバがいるから」

 どうやら、知らぬ間に相当話が進んでいたらしい。戸惑わないといえばうそになるが、とてもありがたいことだ。

 俺のことを気遣って動いた人物がいたのだろう。というか、聖竜領でこれだけの影響力を持ち、入念な手回しができるのは一人しかいない。

「そういえば、サンドラはどこだ?」

 出迎えの準備まで整えていながら、どういうわけか領主が見当たらない。

「サンドラ様はクアリアから戻ったドーレスの持ってきた荷物を確認しております」

「仕事か、冬でも忙しいな」

「気になる品があったようでして」

 洗練された所作でお茶を淹れながら、リーラが言った。

「ドーレスが持ってきた品か。気になるな」

 そう言った時、食堂に近づいてくる気配があった。数は二つ、体格は小さめ。急いでいるのか早足だ。サンドラとドーレスの二人だな。

「ごめんなさい。荷物の中にどうしても確認したいものがあったから遅れてしまったわ」

「すいませんです。わぁー、豪華ですねぇー」

 室内に入るなりそんなことを口にしたのは、予想どおりの二人だった。そのままサンドラは、俺の前までやってきて言う。

「よかったわ。引っ越しを断られたらどうしようかと思っていたの」

「理にかなっているし、断る理由がなかったよ」

 きっと、こうなるように色々と考えたのだろう。さすがの手腕である。

「みんなアルマスの力になりたいのよ。あ、それと良い知らせがあるの」

 そう言いつつ、サンドラは手紙を取り出した。差出人はクロード・イグリアス。

 なるほど。これはすぐに確認が必要なものだ。

「ドーレスがクアリアで受け取った荷物の中に、クロード様からの品も入っていてね。聖竜領用の連絡用の魔法具が入っていたの。その上、東都にいる数学の専門家に話をつけてくれたみたい」

「早いな。さすがは第二副帝」

 ユーグが来たその日のうちに、サンドラはクロードに連絡をとっていた。それから十日も経っていない。こうも早く態勢を整えてくれるとは思わなかった。

「これで計算の確認がすごく早くなる。アルマスも気になったことがあったらどんどん質問してね」

「東都の人々まで手を貸してくれるなんて、ありがたい話だな」

「クロード様は魔法書の研究がどうなるか気になって仕方ないみたい。半分くらいは自分の好奇心じゃないかしら?」

「相変わらずだな。元気そうでなによりだ」

「ええ、それともう一つ伝言があったわ。『聖竜に聞かれた魔法具については現在検討中だからもう少し待ってくれ』だそうよ」

 聖竜様はアイノを助けるための手段として、医療用の魔法具についての問い合わせをしていた。残念ながら、そちらは都合の良いものが簡単に見つからなかったようだ。

『うーむ。なかなか難しいもんじゃのう』

『むしろ、魔法書がこんなに早く出てきたことの方が不思議なのではないかと思いますよ』

『たしかにのう。ワシも手伝いたいんじゃが、この冬は魔法書に専念しておくれ』

『その気持ちだけで十分です』

 聖竜様にはアイノの治療をしてもらっている。それだけでもありがたいというのに、優しい方だ。

「お嬢様。そろそろよいのでは?」

「そうね。先に報告の方をしたくて、つい話してしまったわ」

 リーラに言われてサンドラが居ずまいを正した。それに合わせて、室内の全員が立ち上がって俺の方を見る。

「聖竜領の領主の館へようこそ。ここにいる全員、あなたへの協力を惜しまないわ。ここを自分の家だと思って過ごしてちょうだい」

 柔らかな笑みを浮かべるサンドラ。見れば、皆も似たような表情で俺を見ていた。

 言葉はなくとも厚意を感じることはできる。俺には過分なくらいの対応に、自然と温かい気持ちになる。

「ありがとう。世話になるよ」

 もっと感謝の気持ちを伝えたかったが、そんな短い言葉しか出てこない。

 それを察してか、サンドラが笑みを深めて言葉を返してきた。

「ええ、ゆっくりしていってね」

 この日から、俺の屋敷での研究生活が始まった。


      


 屋敷に移って暮らすようになったおかげで、魔法書の研究効率はかなり良くなった。移動の時間はないし、ロイ先生達にすぐ相談できる。仕事の少ない冬ということもあり、俺達は魔法書の研究が主な業務になっているようなところがあった。

 サンドラとユーグはというと、それぞれ領主の仕事と魔法草関連での今後の仕事の準備があるのでちょっと忙しそうだが、時間があれば研究所と化しているロイ先生の工房にやってきては手伝ってくれている。

 何度か雪が降り、春が近づいてきたある日の午後。

 俺、ロイ先生、ユーグの聖竜領の魔法士三人は工房の中で頭を抱えていた。

「……やはり、これは上手く発動しないようだ」

「そうですか。色々と構成を考えてみたのですが」

「一つくらいいけると思ったんですけどねぇ」

 目の前にあるのは古い長机。その上には四冊の魔法書と、俺達の描いた大量の魔法陣の試作品が置かれている。他にも解読した部分をまとめた書類だけでちょっとした本を作れるくらいになったし、サンドラが東都の学者と検討して結論の出た数式も高く積み上げられている。

 それら全てを組み合わせ、いよいよアイノを救うための魔法の完成が見えてきたところだ。

 というか、実質この段階で完成のつもりだった。ロイ先生が試験で使う薬は「希釈一」という限りなく原液に近いものになっているので、認識としては正しいはずなのだが、最後の最後がどうしても上手くいかない。

「でも、アルマス様は全部試してみたんでしょ? それ以外も」

「ああ、打ち合わせた以外の構成も思いつく限りやり続けた」

ばくだいな魔力を持つ聖竜様の眷属ならではの実験方法ですね……そうすると、次にするべきは魔法書の再検討でしょうか」

 ロイ先生が積み上げられた資料類を見る。日々の実験で色んなポーションを飲んでいるおかげか、意外と疲労は少ないようだ。むしろ、魔法士としての本分を果たしているからかちょっと楽しそうですらあった。

「そうだな。手間はかかるが一から魔法書と資料を読み直して魔法陣の再構築……それを繰り返すしかないか」

「しょうがないですね。まあ、解読は終わってますし、三人も魔法士がいるからそれほど時間はかからないでしょうけど」

「こういう時は焦らず丁寧に、ですね。順番にいきましょう」

 そう結論を出した俺達はそれぞれ魔法書や資料を手に取り、それぞれの作業へと入っていく。この研究のおかげで連携も慣れたものだ。ロイ先生もユーグも仕事が丁寧で、根気強い。俺の生きた時代から魔法士に必要とされていた大切な資質を二人ともちゃんと持っている。

「なにか気づいたところがあれば言ってくれ。魔法陣を描き次第、俺がすぐに試験する。魔力切れは気にしなくていい」

 魔法士二人が無言で同意を示したのを見て、俺も自分の作業へと入っていった。


 それから五日間、魔法書の再確認は続いた。

 読んで相談しては試験という地道な作業をひたすら繰り返し続ける俺達は、いつものように夜の工房にいた。

「皆さん根を詰めすぎではー? ちょっと心配ですよー?」

 工房内には聖竜領産のハーブの豊かな香りが満ちていた。アリアが作った特製ハーブティーだ。俺達の作業の様子を見に来た彼女がわざわざ用意してくれたのである。

「はい、これはエルフの村で採れたナッツ類にトゥルーズが味付けしたものですー。元気が出るそうですよー」

 そう言ってナッツが山盛りになった小皿が複数出された。ハーブや香辛料などで色々味付けされているようだ。試しに一つとって食べてみると、香ばしさと塩気とナッツの味が口の中に満ちた。

いな。スティーナなんか、酒のつまみに好きそうだ」

「ですねー。実際ちょっと分けてもらっているみたいでしたー」

 さすがは酒に対して仕事並みに真剣な女だ。

「ふぅ……一息つきましたね」

「ええ、この屋敷、料理がしくて好きですよ、オレ」

 ロイ先生とユーグが満足げにカップを口に寄せる。二人ともこの五日はより頑張ってくれているからか疲れが見える。

「それでどうなんですかー、しんちょくー?」

……………………

 アリアが何気なく投げかけた問いに、俺達三人は揃って沈痛な表情になった。

 進捗は駄目だった。いや、びっくりするほど進まない。むしろ、五日前が一番良かった印象すらあるくらいだ。

「材料は揃ってると思うんだけれどな……」

「ええ、これまでは順調でしたから。方向性は間違ってないはずです」

「ですね」

 俺達が三者三様の反応を見せたのを見て、アリアは唇に指先を当てて「んー」としばらくうなったてから何気なく言った。

「もしかして、そもそも未完成の魔法だとかー?」

……………………………

 室内を照らす魔法具の明かりが陰っているかと感じるくらい、俺達の雰囲気が暗くなった。

「あ、あのー。大丈夫ですか?」

「それは、俺達三人があえて口にしなかった言葉だ」

 そもそもこの魔法書は完全ではないのではないか。研究として結論に至っていないのではないか。根本的に最初の選択を間違えたのではないか。

 そう結論するのを俺達は暗黙のうちに避けていた。実際、これまで成果が出ていたしな。

「なんと言いますか、もっと検証してからそれを口にするつもりでした」

「オレも……春くらいになったら、もうじっくり研究する方向にかじりすればいいかなって……」

 やはりロイ先生とユーグも俺と同じ考えだったらしい。

「あらー、すると、その可能性はあるとー?」

「なにかしらの理由があって途中で放棄された研究かもしれない。ただ、それにしては得られる結果がありすぎる」

「はい。すでに僕がほぼ希釈なしのポーションを飲んで影響を受けませんからね。仮にこの魔法書が不十分だったとしても、研究は続けるべきかと」

「オレもそう思います」

 とはいえ春は近い。どのような結果であれ、遠からず方向性は決めるべきだろう。

「ちなみに今のままじゃ駄目なんですかー?」

「目的はアイノの精神を完全に守れる状態を作ることだ。少なくとも、ポーションを飲んで影響が出ているうちは危険すぎて使えないな」

「ですかー」

 この魔法陣は聖竜様の治療でアイノの精神を守るためのもの。安全性の確保は絶対に譲れない。

「途中で放棄された研究だったら俺達で完成させるしかない。時間はかかるだろうが……」

 長い時間をかけることについては割と自信がある。地道に続けていこう。そう考えながらハーブティーを口に含んだ時、一つの可能性に気づいた。

「もしかしたら、他に魔法書があるのかもしれない」

「なるほど。魔法書が全て揃った状態で届いたわけではないということですね」

 無意識のうちに呟いた一言に、ロイ先生が同意した。

「可能性はありますね。全ての魔法書が揃っていないからこそ、研究が止まってしまった……」

 ユーグも同様のようだ。これは一考の価値がある。さっそくクロードに魔法具を飛ばして、魔法書に続きがないか探してもらおう。そう思った時だった。

「……ん、この足音と気配。サンドラだな。屋敷の中を走ってこちらに向かってきている」

 この屋敷で俺の気配察知に驚く者はもういない。他の三人が目を向けるのと同時、扉が勢いよく開いた。

「アルマス、今、魔法具でクロード様から荷物が届いたの!」

 彼女らしくない大声と共に、予想どおりサンドラが姿を現した。後ろには当然のようにリーラが付き従っている。

 そして、彼女の手には一冊の本があった。少し薄いが、この冬の間、毎日見ている魔法書と似た装丁の本だ。

「サンドラ、それはまさか……魔法書か?」

 その問いかけに、サンドラが表紙をこちらに見せつつ笑顔で言う。

「そう! 最初に魔法書を読んだ時、どこか記述が足りないような違和感があったのよ。出てくる数式に法則性があってね。それが足りないから、もしかしたらってクロード様に続きがないか問い合わせておいたのっ!」

 予想が当たったのが嬉しいのか、弾むような口調のサンドラ。彼女がここまで喜ぶのも珍しい。

「まさか、既にサンドラが手を打っていたとはな……」

「あら、どうかしたの?」

「今まさに、他にも魔法書があるんじゃないかと話していたところなんだ」

 俺も含めて室内の全員は驚くばかりだ。

「さすがはサンドラ様ですねー」

「たまたまよ。勘が当たっただけ」

「いや、本当に大したものだよ。おかげで助かる。ありがとう」

 俺が礼を言うと、サンドラは「このくらいいいのよ」と目を細めて言った。

「とはいえ、よく見つかりましたね。魔法書は探せば見つかるというものではないはずですが」

 サンドラの持ってきた魔法書を見ながら、ロイ先生が言う。

「クロード様は研究者に慕われているから、独自のルートがあったのだと思うわ」

 あるいは、すでに四冊あったのだから見つけやすかったのかもしれない。

 とにかく、これは朗報だ。非常に助かる。

「見た感じ、薄そうですね。もしかして、これで答え合わせができる?」

 ユーグの言葉にその場の全員が動きを止めて、俺の方を見た。

 俺は静かに頭を下げて言った。

「頼む。手伝ってくれ」


 それから数日後、春が来る前に、アイノを救うための魔法が完成した。


      


 俺が屋敷を出る日がやってきた。

 とはいえ、行き先は森の中の自分の家ではない。

 聖竜の森の最深部、聖竜様のおわす場所への入り口だ。

 アイノの精神を守る魔法が完成したことで、俺は四三六年ぶりに聖竜様の領域を訪れるのである。

 冬の早朝。春が近い上に日差しがあるが、まだ肌を突き刺すような寒さだ。屋根からは解けた雪が短めの氷柱つららとなっていくつも下がり、先端から水滴が落ちている。

 そんな中であっても、屋敷の面々は出かける俺を見送るために集まってくれていた。

「すまない。寒い中わざわざ見送りまでしてもらって」

「わたし達に手伝えるのはここまでだもの。見送りくらいはさせてもらうわ。……成功を祈っているわ、アルマス」

「問題ないさ。ロイ先生とユーグのおかげで試験は十分だ。聖竜様のところで魔法陣を発動させるだけだよ」

 ロイ先生とユーグを見ると、二人とも満足げな笑みを浮かべていた。聖竜領で生み出されたこの魔法は自信作だ。欠点といえば発動に多大な魔力が必要なくらい。それも、竜である俺が使うなら問題にならない。

「……アルマス様。これ、食べて。エルフの人達から貰った分もある」

 そう言って前に出てきたトゥルーズが大きなかごを俺に手渡した。中を見てみると、パンや菓子類、それにエルフの携行食といった大量の料理が詰まっていた。

「……何日も聖竜様と一緒なんでしょう? 腕によりをかけて作ったから食べてほしい」

「ありがとう。聖竜様はトゥルーズの作った料理が好物なんだ。間違いなく喜ぶ」

 念のため、魔法陣が安定して発動するのを確認するため数日間、聖竜様のところにとどまると話しておいたが、まさかこんな手土産を貰えるとは思わなかった。

「アルマス様、きをつけて」

 今度はふわふわと浮かびながらフリーバがやってきた。

「油断はしないよ。フリーバもなにかあったらすぐに連絡してくれ」

 彼には俺が不在の間、聖竜様とサンドラ達との連絡役をやってもらうことになっている。

「だいじょうぶ。フリーバがみんなを守るよ!」

「ああ、頼りにしている」

 こう見えて立派な竜だ。仮に氷結山脈から魔物が下りてきても、フリーバなら軽く一蹴してくれるだろう。

「……なんだか、今生の別れの旅に出るみたいな感じだが、普通に帰ってくるからな?」

 空気が張り詰めていたので気軽にそう言うと、皆が笑った。俺がこの魔法にどれだけ懸けているかを理解してくれているからこそだろう。

「みんな、ありがとう。重ねて礼を言うよ。……それでは、朗報を持って帰ってくる」

「いってらっしゃい。こちらのことは気にしないでね」

 最後にそう言葉を交わして、俺は聖竜の森へと向かって歩きだした。

 かつてと違い、多くの人々の視線を背中に受けて。


 聖竜様の領域へは思ったよりも早くついた。途中までルゼ達エルフが魔法で道を作ってくれていたからだ。エルフの村の人々には畑の世話をしてもらったりしていたのだが、こちらも気を使ってくれていたらしい。

『ここに来るのは久しぶりじゃのう』

「ええ、聖竜様の姿をじかに見るのも本当に久しぶりです」

 そして今、俺は四三六年ぶりに聖竜様の前にいた。秋頃、夢の中でも見たが、銀色に輝くうろこが時たま魔力の輝きを放つ、美しさと荘厳さを備えたようだ。眷属となってなおも見る者をさせる強大な存在である。

 初めて訪れた時と同じく、周囲を木が囲む足元のない空間で俺は聖竜様に話しかける。

「聖竜様。これはトゥルーズからです。領地の皆も力を貸してくれました」

『うむ。全部見て知っておるよ。よかったのう。後でそれは頂くとするのじゃ』

 そう言うと、俺が持ってきた巨大な籠はどこかへと消えた。

 代わりに、俺達の前にゆっくりと人影が浮かび上がってくる。

 旅装の、明るい茶色の髪をした女性。

 幼さの残る顔をした彼女は、安らかに眠るように横になった状態で静かに空中に浮かんでいる。

「アイノ……」

 聖竜様からずっと治療を受けていた妹は、別れた時と変わらぬ姿だった。

「たしかに、体内の魔力がよくなっていますね」

 聖竜様の眷属となった俺の目にはアイノの体を流れるよどんだ魔力がよく見えた。人間時代に魔法で確認した時から大分改善している。

『慎重に頑張っておったんじゃよ。一気にやるとアイノの精神に影響が出てしまうからのう』

「ありがとうございます。では……これを使っても?」

 俺は荷物の中から複数の用紙を組み合わせて作った巨大な魔法陣を取り出した。

 これこそが、冬の間に完成した精神保護の魔法である。ちなみに欠点として、発動に並の魔法士なら百人分くらいの魔力が必要なことがある。

『うむ。やってみるがよい。まずはその魔法陣を使い発動を確認、その後ワシがアイノへの浄化の力を徐々に強めていくのじゃ。アイノに影響が出ると判断したら、そこで止める』

 聖竜様は世界と生命の創造主だ。魔力や生命の状態を見ることにかけて、この世界で誰よりも得意としている。

「俺はその間、魔法陣を維持します。それで様子を見つつ、影響がないと判断したら魔力を注ぎ込んで、魔法陣をここに固定します」

『うむ。それでいくとするのじゃ』

「では、始めます……」

 俺は浮かんでいるアイノの下に魔法陣を設置。つえをその上に置くと、魔力を注ぎ込んだ。

 領主の屋敷での試験と同じく、魔法は発動し、羊皮紙から光り輝く魔法陣が浮かび上がる。

 今回の魔法陣は特別製だ。複数の円が回転しながら重なって、立体的な球状になる。いくつもの魔法を組み会わせ、同時に扱うための工夫である。非常に繊細で、魔法書の記述もこの技術に関する研究部分が多かった。

「よし……」

 魔法は無事に完成し、アイノが球状に回転する魔法陣に包まれた。

 俺は杖から注ぎ込む魔力を維持しながら、じっと観察する。

 アイノへの影響はなし。精神保護の魔法は上手く発動した。

「できました。聖竜様、お願いします」

『承知したのじゃ』

 そう言うと、聖竜様の全身が淡く輝いた。それに呼応するように、アイノの全身も白い魔力の輝きに包まれていく。よく観察するとアイノの体内でうごめこんとんとしたどす黒い魔力がごくわずかに浄化されていくのが見て取れた。

『通常はこのくらいの強さでじっくり浄化していたのじゃ。アイノの体内を侵すのは混沌。魔力を変質させる病魔のようなもので、放っておくと広がっていく』

「ええ、俺達ではそれを留めることすらできませんでした」

 しかし、聖竜様ならそれを留めるどころか浄化することもできる。ただし、それは元の魔力の状態に戻すということではない。何の保護もなく全身の魔力を一度に浄化すれば、それは精神に打撃とも言える影響を与え、別の人間のそれへと変わってしまうことだろう。

 その時、アイノの人格がどうなっているか、想像もつかない。

『よし、少し力を強めていくぞい』

 しかし、今は違う。俺達の作り上げた魔法がアイノの精神を守ってくれるはずだ。

「お願いします」

 俺の返答に応え、聖竜様とアイノを包む光が強くなっていく。ゆっくりと、だが確実に混沌が浄化されていく。先ほどより大分早い。

『ふむ……アイノの精神への影響はないようじゃな』

「今更ですが、聖竜様には俺とは違うものが見えてるんですね」

『うむ。ワシら六大竜には魂が見える。生き物をて、捉える方法が根本的に違うんじゃよ』

 それは、眷属である俺にも備わっていない力だ。俺に聖竜様を疑う余地などない。信じて魔法を維持するのみだ。

『アルマス、このままゆっくりと浄化の力を強めていくのじゃ。そちらも魔法を続けるのじゃぞ』

「はい。任せてください」

 俺と聖竜様による、長い戦いが始まった。


 それから、外の時間で五日ほどが経過した。

 俺は聖竜様の領域での時間経過は把握できない。ひたすら魔法を維持する中、時々、聖竜様がどのくらいの時間が経ったかを教えてくれたのだ。

 アイノを包む光は強まり、魔法陣の中で淡く輝く光球が出来上がっていた。心なしか、見てとれる表情は五日前より穏やかになっている。

『アルマス、ここまでじゃ。これ以上力を強めれば、アイノの魂に影響を及ぼす』

「わかりました。では、ここで魔力を込めて魔法陣を固定します」

 俺は杖から魔力を込め、魔法陣をその場に固定にかかる。莫大に魔力が注ぎ込まれ、杖が盛大に光り輝いた。

「これで、とりあえず十年はこのままのはずです」

『また頑張ったものじゃのう……』

「固定する時に気づいたんですが、どれくらい維持するか聞きそびれまして」

『む、そうじゃな。……実は、この状態なら三年もすればアイノの治療は終わるぞい』

「なんですって!」

 アイノを包む球体がどんどん輝きを増していくとは思っていたが、それほどまでに効果が高まっていたとは。驚きの効率化だ。

『これは、お主らの頑張りの成果じゃよ。人間の魔法が役立つとは話したが、まさかこれほどとは思わなんだよ』

 聖竜様のねぎらうような口調に、俺の中に色々な思いがこみ上げてくる。この喜びを、聖竜領の皆と共有したい。そして、アイノの目覚めを待ちたい。

 感無量。そんな気分に浸りかけた時だった。

『……兄……さん?』

 声が聞こえた。

「アイノ!? アイノなのか!?

 あまりにも懐かしい声。だが、俺は絶対に忘れない声。妹、アイノのものに違いなかった。

 頭の片隅で、魔法士としての俺が状況を分析する。今、俺はアイノの精神を保護する、いわば心と接触する魔法を発動させている。それに加えて、俺達兄妹きょうだいは共に聖竜様の影響下にもある。

 アイノの意識が覚醒した時、声が聞こえてもおかしくない。

『目覚めたわけではないのう。意識が大分まどろんでいるようじゃ。病気の最中、うっすら目覚めた、というところじゃな。短いが、奇跡のような時間じゃ』

 聖竜様の優しい声が聞こえた。

「アイノ。もうすぐその病気は治るよ。少し外の時間は経ってしまったが、目覚めたら平和な時代だ。お前を迎えてくれる家も人々もいる。良いところだ」

 俺の声が聞こえたらしい、アイノは目を閉じたまま、深い笑みを浮かべて語りかけてきた。

『……よかった……兄さんが元気そうで……』

 それ以上、言葉は続かなかった。

「アイノ…………

『また、眠ってしまったようじゃのう』

 聖竜様の言葉どおり、笑みの表情のまま眠るアイノを俺は見つめた。

 まったく、俺の心配なんてしなくていいというのに。昔から、そういうところは変わっていない。

『すまんが、今回のような目覚めは、そうあるものではないじゃろう……』

「いえ、何も問題ありません」

 申し訳なさそうに言う聖竜様に俺は即答した。

 そう、何も問題ない。三年あればアイノは回復して目覚めるのだ。これまでの年月と比べれば何と短いことか。

「いよいよアイノの目覚めが現実的になりました。……忙しくなりますね」

『お主、本当に前向きじゃのう……。いや、それでこそワシの眷属じゃ。アルマスよ、妹の治療はワシに任せ、お主の使命を果たすのじゃ』

 聖竜様の厳かな宣言と共に、周囲の景色が変わっていく。

 領域が切り替わり、ここに来る前に立っていた地点。聖竜の森の最深部へと景色が戻っていく。

「スローライフを目指すために忙しく働くか。こちらもなかなか道は長いな」

 周囲が見慣れた森の中になったのを見て、俺はそう呟いた。

 アイノが帰ってきた時のため、よりよい場所を用意する。今、交流している人々ならば、きっと温かく俺の妹を迎えてくれるだろう。

 そんなちょっと先の未来のことを想像すると、自然とやる気がみなぎってきた。

 まだ村とも呼べない規模のこの領地のために、自分の力を存分に振るおう。

 決意も新たに、俺は森の中の道を歩きだした。