「……何度見ても、不思議な気分だな」

 窓の外、俺の視線の先につい最近まで利用していた小屋がある。

 かつて、俺が聖竜様のけんぞくとなった際に住居として与えられた建物である。四角い箱に屋根がのっただけの形状で、一人が寝るのがやっとの広さ。きっと元は倉庫だったのだろう。

 あの小屋は今後、倉庫として本来の役目を果たしてくれるはずだ。

『短い期間で状況というものは変わるものじゃのう。アルマスよ』

『ええ、本当に。半年前からは考えられない環境になりました』

 頭の中に優しい声が響いた。俺の上司とも言える存在、聖竜様の声だ。

 世界を創りし六大竜の一つ、聖竜。

 四三六年前、俺は治療不能な病に冒された妹のアイノを救うため、伝承の彼方かなたへ消えかけていたその存在への接触に成功した。

 妹を助ける代償は、人間の身を捨てて眷属となること。二つ返事で了承した俺は、見た目は人間だが本質は竜という不可思議な存在となって、この地で暮らすことになった。

 俺に与えられた使命は聖竜様の土地の管理。眷属として世界を創造する力の一部を与えられた俺は、魔境と呼ばれていたこの地をゆっくりと浄化する仕事をしていた。

 それは人間時代は魔法士として戦いの中に身を置き、『嵐の時代』と呼ばれる戦乱の中を生き抜いていた俺にとっては信じられないような日々だった。多くの戦果をあげ、一つの道を究めた魔法士に授けられる、『賢者』の称号まで与えられるほどの戦い漬けの毎日とは違う、静かな日々だ。

 残念なことに、妹、アイノの治療ははかどらなかった。『嵐の時代』の一因は世界中に張り巡らされている魔力の流れである竜脈の乱れであり、聖竜様はその対処に忙しかったためだ。

 さらに、アイノの病気自体が治療に時間がかかるという事情もあった。妹の体をむしばむのは体内の魔力の変質。精神と密接な関係がある魔力は聖竜様の力をもってしても慎重に対処に当たらなければ、アイノ自身にも影響を及ぼしてしまうためだ。

 そんなこんなで時間は流れ、俺が魔境と呼ばれた地に住んで四三六年目、すっかり土地の浄化も終わって、そろそろ大昔の名称である『聖竜の森』にふさわしい環境になった頃、一つの変化があった。

 人間がやってきたのである。

 やってきたのは一人の少女と九名の男女。はるか西にある帝都と呼ばれる都市からやってきた彼女達はこの地を開拓したいと言ってきた。

 一行の中心人物は十三歳の少女、サンドラ・エヴェリーナ。非常にそうめいな少女だ。家庭内の陰謀で身の危険を感じ、持てる力の全てを使って領主としてこの地に来たという。

 彼女の心を見た聖竜様はこの地の開拓を許し、俺はそれに協力することになった。

 こうして、魔境と呼ばれた地の開拓が始まった。

 それからの日々は、四三六年間以上に多くのことがあった。

 土地を耕し、森を切り開き、特産品として使えそうなハーブと魔法草の栽培を開始。

 少し離れたところにある隣町クアリアで、その領主の婚約者を救った一件。

 それから始まった大規模な街道工事。

 別の領地から移住を希望するエルフ達の受け入れの話が出てきたと思ったら、それをよく思わない領主が兵士を引き連れてやってきたのを返り討ちにしたこともあった。

 春には魔境と呼ばれていた地が、聖竜領と呼ばれるようになり、その間に季節も少し巡った。

 本格的な夏が到来し、厳しい日差しが照りつけるようになった頃、聖竜領とクアリアを結ぶ街道工事がほぼ完了した。

『暑くなる前に、色々と一段落してよかったですよ』

『うむ。夏の外仕事はつらいものじゃからのう』

 これでクアリアの町までは徒歩なら二日、馬車なら一日で到着するようになった。

 大幅な時間短縮だ。本格的な人の行き来が始まり、先日など領主の屋敷に行商人がやってきた。

 そして、俺自身の周辺も大きく変化していた。今、こうして外を眺めていることからわかるように、新しい家が完成したのである。

 春から工事していた大工のスティーナ達には感謝したい。

 今度の俺の家はすごい。

 なんと、部屋が複数あるのだ。

 丸太で組まれた家はそれなりに大きく、リビングと寝室に分かれている。外には屋根付きの炊事場が設けられ、雨の日でも煮炊きができるようになっている。

 壁は丸太を組んだ上で、ちゃんと板が打たれており、内装は思った以上にしっかりしたものになっていた。

 これは聖竜領で初めて建築された住居だ。

 家が完成した日、聖竜領の全員で室内を見学してから、さっそく俺は引っ越しをした。

 俺の私物はほとんどなかったのだが、周囲の薦めもあり、この機会にそれらしく室内を整えた。まず、領主の屋敷で余っていたベッドを運び込んだ。それから食器と調理器具も少し。領民達が色々と用意してくれて、お茶をれる道具に小さな鉢植え、それと本が数冊、保存の効く食料などが室内の各所に置かれている。

 久しぶりの人間らしい住環境に俺は感動した。もう枯れた草を床に敷いて寝なくていい。

 ちなみに家はまだ拡張の余地がある。例えば窓はまだ木の板で閉じる簡単なもので、将来的にガラスを入れる予定だ。他にも暖炉を設置するためのスペースが用意されている。

「おっと、生活環境の改善に感動してる場合じゃない。朝食をとらないと」

『お主、本当にうれしいんじゃのう。毎日起きる度に外を見て感慨にふけっておる』

『四三六年ぶりにパンを食べた時と同等かそれ以上の感動ですから』

 あの時は自然と涙があふれた。俺は生活能力が全然ないから、人のいない魔境での生活はひどいものだったからな。

 夏本番といっても朝はまだ空気が心地良い。俺は良い気分で窓から離れ室内を歩く。

 とりあえず手早く着替えて、魔法でお湯を作ってハーブティーを用意。

 本質が竜である俺に食事は必須ではなく、その気になれば大地から魔力を吸い上げて生存していくことが可能だ。そんな事情もあって、いつもならこれだけで朝食を済ませるのだが、今日は違う。

 テーブル上にパンのような四角い食べ物が置かれている。

「ついにこれを食べる時が来たか」

 ルゼをはじめとしたエルフの移住者が作った携行食である。聖竜領で採れた食材で製造された最初の品だ。

 俺はハーブティーを一口飲んで心を落ち着けると、ゆっくりと携行食を手に取った。

 とりあえず一口。

「……うまいな、これ」

 不思議な味だ。ビスケットのような食感なのだが、口の中に広がる味は全然違う。

 程よい甘みと香ばしさ、しっかりとした歯ごたえが確かな満足感を与えてくれる。

「いやこれ本当にうまいな。いっそこれが主食でいいんじゃないか?」

 そんなことをつぶやきながら、俺はあっという間に携行食を平らげてしまった。

 これはきっと特産品になる。俺もたまに買おう。

 程よい満腹感と共に食後のお茶を楽しんでいると、ドアの外に気配がした。

「ルゼか。入ってくれ」

 竜としての能力である魔力感知。そのおかげで外に立つ者の魔力の質で誰が来たかがわかる。

 すぐにドアが開き、感知したとおりの人物が入ってきた。

 白に近い金髪、緑の瞳。ほっそりとした長身に緑色の服を着た美しい女性だ。何より特徴的なのはそのとがった耳である。

 彼女の名はルゼ。聖竜領にやってきたエルフのわかおさだ。見た目は二十歳くらいだが、そこは長命で有名なエルフ。実際はもっと生きている。こだわりがあるのか、実際の年齢は教えてくれないが、俺は二百歳は堅いと見ている。

「あの、ノックする前に声をかけられるとすごく驚くので、ほどほどにしていただけると……」

 なんだか戸惑っていた。びっくりしたらしい。

「それは申し訳ないことをした。今ちょうど携行食を食べたところだ。──率直に言って、とてもかったよ」

「それはよかったです。ところで今日は相談があって来たのですが」

「俺で力になれそうなことなら。あがってくれ」

 そんな感じで朝からエルフの若長の話を聞くことになった。


      


「ルゼがわざわざ相談とはな。この森での生活で何か問題でもあったのかな?」

 聖竜領のエルフ達はウイルド領という場所から十名ほどで引っ越してきた。エルフ達は植物を操る魔法で森の中に村を作り、自給自足に近い生活を送っている。

 俺も何度かできかけのエルフ村を見に行ったが、森の木々が家のような形に変化した珍しい景色が出来上がっていて驚いた。魔法の力で植物と共生する不思議な種族である。

「いえ、聖竜の森は豊かで広いので快適です。今はサンドラ様に物資の供給を受けていますが、一年もあれば自給自足に近い状態に持っていけるかと」

「それはなによりだ。ああ、何度か言ったが、氷結山脈には近寄らないように。夏から秋にかけては魔物が麓まで下りてくることがあるんだ」

 聖竜領の北側は氷結山脈と呼ばれる、山頂の雪が溶けることのない高峰が連なっている。険しく過酷な場所で、危険な魔物も多くみ着いている。

 基本的に魔物達は俺と聖竜様の気配がわかるので、聖竜領には近寄らない。だが、何事も例外はある。日頃から注意しておいて損はない。

「承知しております。皆にも再度伝えておきましょう」

「よろしく頼む。それで、用件は何かな?」

「相談というのは、この森のことです。こちらをご覧ください」

 俺の淹れたハーブティーが置かれたテーブル上に、ルゼは何枚かの紙を置いた。

 手描きの地図だ。

 引っ越してきて以来、聖竜の森のエルフ達は周辺の状況を確認するために、自力で地図を作っている。俺も森の中の様子についてたまに助言したり、一緒に探索したりもしているのである。

「大分奥まで行ったな。ここからさらに東に行くと断崖絶壁で、海が見えるぞ」

「はい。木に登ったら海が見えました。アルマス様が言うように将来的に森の中心部は聖地として近づかないようにします。迷いの森の魔法をかける予定です」

「氷結山脈の方にも近づかないほうがいい。何度も言うようにたまに魔物が下りてくる。それと……」

 こんな風に、聖竜の森について定期的に情報交換を行っている。

「立派な地図になったな。ルゼの本業は医者だというのに」

「病人とにんがいなければ出番がありませんし。エルフとしては、この森を見逃すわけにはいきません」

 一通り話し合いが終わると、俺達はそんな世間話をしていた。

 ルゼの本業は医者だ。エルフの医者は長生きしている分、知識も経験も豊富である。はからずも、聖竜領は大変貴重な人材を手に入れていた。

「正直、医者としての仕事を放り出して、森の中を気ままに冒険したい時もあるんですが……ひと月くらいいなくなってもいいですか?」

「いや、それはサンドラ達が困るからやめてくれ」

 知的で落ち着いた雰囲気の彼女だが、にこやかにとんでもないことを言ったりもする。ちなみに本気だ。昔から外の世界に興味があったらしく、趣味の地図作りもその延長だそうだ。

 ルゼが連れてきたエルフ達も若長に似て好奇心が旺盛で、聖竜領によくんでいる。

 さらに自分達の仕事以外にも、森の中のハーブ畑などをよく世話してくれているのでありがたい。

 ちなみにハーブ畑は領主の所有で、そこで働くと売り上げから給料が払われる仕組みである。人口が爆発的に増えたりしない限り、領民の収入をそこからも得られるようにしたいとサンドラが語っていた。

「近いうちに古い洞窟内なども探索したいんですが。アルマス様に同行をお願いしてもいいでしょうか?」

「いいだろう。あの携行食を作っておいてくれ」

 冗談交じりにそんなことを言いつつ、俺は依頼を受け入れた。

「……む、今日は朝から来客が多いな」

 自分の分のティーカップを持ったところで、俺は家に接近する気配に気づいた。動きは速く、力強い。魔力の動きも活発で、誰が来たのかすぐに察しがついた。

…………?」

 俺の発言にルゼがげんな顔をした時、ノックもなしに家の扉が勢いよく開いた。

「アルマス殿、おはようございます! マイアです!」

 黒髪黒目に長身で、かわよろいを着込んだ女性は元気良く挨拶した。

「おはよう。朝から元気だな」

 マイア・マクレミック。かつて聖竜領と敵対したウイルド領で兵士達をまとめていた人物である。彼女は帝国五剣と呼ばれる剣の達人の直弟子で、俺との一騎打ちに敗北した後、修行のため聖竜領に居着いた。

 もちろん、ちゃんと領主のサンドラから許可をもらい領民として暮らしている。普段は農作業を手伝ったり、鍛錬をしたり、ルゼと一緒に地図作りに出かけたりと活発に動き回っているようだ。

 聖竜領のあるイグリア帝国という国は、武を尊ぶ風習があり、サンドラが言うには、たとえ敗北して直弟子という立場を失ったといっても、名の知れた剣士というのは、いるだけで政治的に大きな効果を持つとのことだ。

「それで、なにか用かな?」

「一つ手合わせなどを……」

「断る」

 俺は即答した。

「冗談です。サンドラ様からの伝言です。今日の夕方、話し合いをするので屋敷に来てほしいそうです。夕食の用意もあるそうですよ」

「そうか、話し合いか。承知した」

 サンドラは定期的に領地の今後を話し合う会議を開催する。今日はその日だということだ。

「そういえば、クアリアから行商人が来て、トゥルーズ殿がたくさん食材を仕入れていました」

「それは楽しみだな。少し早めに行こう」

 聖竜領の料理人トゥルーズ。彼女の作る料理はとてもしい。俺の楽しみの一つである。これは行くしかない。なんだかルゼが苦笑しているが気にしないことにする。

「では、私は畑の手伝いがありますゆえ。……あの、後で稽古をつけてもらうことは?」

「すまないが、今日はなしだ。マイアの相手をすると長いからな」

 とにかく隙あらば俺を相手に剣の技術を高めようとするこの剣士はちょっと困りものだった。練習に付き合うと「まだまだ!」と言ってなかなか解放してくれないのだ。

『別にケチらずに相手をしてやればいいじゃろう?』

『マイアの相手は結構大変ですから……』

 いきなり話しかけてきた聖竜様にそう答えておく。竜の体を持つ俺はそれほど疲労しないとはいえ、達人相手となるとそれなりに気を使う。なにより今日は夕食に向けて他の仕事を最優先で片付けなければならない。

「……朝一で来ても駄目ならば、次は事前予約ですね」

 なんだか、マイアがじっとりとした目で俺を凝視していた。

 さっぱりした武人に見えて、技術については貪欲。それが、領内に暮らすようになって判明した彼女の気質だ。正直、たまにちょっと怖い時がある。

「本当に面白いところですねぇ、ここは」

 ふと見れば、ルゼが自分でハーブティーを淹れて楽しそうにそんなことを言っていた。


      


 俺の日常生活は、起床してから自分の畑の世話。それから森の中にある領主の畑の様子見。その後は森の木を切り出したり、ゴーレムを製造したりといった魔法を使う作業があれば手伝うという感じだ。最近街道工事が終わったこともあって、労働力としてのゴーレムを大量生産するなど魔法士としての仕事は減っていて時間に余裕がある。

 そんなわけで、早めに一仕事終えた俺は、午後の早い時間に領主の屋敷に向かうことにした。早く行く分には問題ない。頻繁に訪れるので屋敷には俺の部屋まであるくらいだ。

 森から出て、川にかかった橋を渡り、なだらかな丘に作られた土の道を歩く。道沿いに作られた畑には、夏の日差しを受けて作物がたくましく生育している。もうそろそろ夏野菜の収穫が始まる。きっと生活が一段と豊かになるだろう。

 丘を上がりきる辺りで目的地が見えてきた。

 三階建てのレンガと木組みの落ち着いた印象を受ける立派なやかた

 この建物こそが、聖竜領の領主の屋敷だ。元々は聖竜様が自らの次元に封じていた建物であり、年代的には四三六年以上前のものになるはずだ。聖竜様が保管に気を使っていたらしく、建物の状態は良好で、サンドラをはじめとした聖竜領の人々は快適に過ごしている。

 俺は屋敷に入るとまっすぐ執務室へ向かう。

「あら、思ったより早いのね」

 ノックをして入ると、金髪の少女が軽く笑みを浮かべて俺を迎えてくれた。

 癖毛の金髪と青い瞳。小柄できゃしゃたいも相まって美しい人形のようにも見える。しかし、太めの眉と強い意志を感じさせるまなしが、彼女が外見どおりの人物でないことを十分に伝えてくる。

 聖竜領の領主、サンドラ・エヴェリーナだ。

「畑の世話も終わったし散歩がてらにな。……お茶の時間だったか」

 見れば、サンドラは自分の机でお茶を飲んでいた。ハーブの香りが満ちている。

「……こんにちは。アルマス様」

 俺が室内を見回すと、白い調理服に帽子姿の、銀髪に金銀オッドアイの女性が静かに挨拶をした。彼女はトゥルーズ、サンドラの連れてきた腕のいい料理人である。

「こんにちは。邪魔だったか?」

「……大丈夫、そんなことない」

 俺の問いかけに軽く微笑ほほえんだトゥルーズは、目の前の小さなワゴンにのっている皿の、金属製のふたを軽くでた。おそらくその中に、出来立ての手製の菓子があるのだろう。

「アルマスもどう? トゥルーズがあなたの分もお菓子を用意してくれてるわよ」

「いただこう」

 俺は即答して、打ち合わせ用に置かれている机の席についた。

 エルフ達が来たおかげで森の畑が効率よく回せるようになり、少し人手に余裕ができたのか、サンドラは書類仕事などで執務室にいることが増えた。

 俺もまた仕事の打ち合わせや相談などで屋敷を訪れることが多い。

 その際に食事やティータイムを一緒に過ごすこともまた多いので、トゥルーズが気を利かせて、俺の分まで用意してくれているのである。

 ちなみに自らの名誉のために言っておくが、おやつタイムを狙ってやってきているわけではない。本当だ。

「? リーラがいないようだが?」

 室内を見回すと、彼女にいつも付き従っているしんのメイド服を着た女性、戦闘メイドのリーラがいなかった。

「マイアと訓練中よ。誰かさんが相手をしてくれないからよ。そうそう、『今日はお呼びしましたし、ティータイムの時間に来るでしょう』と言っていたわ。行動が読まれているのね」

……………

 悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべるサンドラに、俺は表情を変えずに無言で通した。

「アルマス様、やっぱり面白い……。さあ、こちらをどうぞ。今日はクアリアから色々入ったので、パンケーキ……」

 そう言って、トゥルーズが金属の蓋を開けると、大きくて分厚い、見事なパンケーキが現れた。トゥルーズは素早くそれを切り分け、ワゴンから出した小皿に分ける。

 魔法のような手さばきで切り分けられたパンケーキが、小皿にのせられて俺の前に置かれた。

「パンケーキ……だと……」

 俺は小さなフォークが添えられた小皿の上の菓子を、つぶさに観察する。

 れいだ。きつね色に焼き上がった表面。焼く時に何かの工夫をしたのだろう、そのパンケーキはふっくらとして分厚い。まだ出来立てらしく、軽く手のひらをかざすと熱が伝わってきた。

「お好みで蜂蜜をどうぞ。バターがないのが残念だけれど……」

 そんな言葉と共に、ビンに入った蜂蜜を渡された。

 俺は震える手をどうにか落ち着けて、パンケーキに蜂蜜をかける。

 その様子を見て不思議に思ったのか、サンドラが言う。

「四三六年前って、パンケーキがなかったのかしら?」

「いや、さすがにあった。だが、パンケーキを食べるのは四三六年ぶりだ」

 以前、クアリアの町に行った時にも出てこなかったし、その後すぐに道路工事が始まって、だいたい食材の少ない聖竜領にいたからな。そもそもパンケーキを食べたいという発想がなかった。

「では、いただきます」

 俺は宣言するとナイフを駆使して、パンケーキを切り分け、口に運ぶ。

「……美味い」

 濃厚な蜂蜜の甘さ。そしてそれを柔らかく受け止めるパンケーキの包容力。口の中に広がる味わいに、何ともいえない感情が溢れてくる。自然、手が動き、次々と切り分けたパンケーキが口の中に運ばれる。蜂蜜にひたされたところがまたしい。

 素晴らしい出来映えだった。何より先に俺の心が反応し、自然と涙が溢れてきた。

「……うぅ。甘いもの美味しい」

「パンに続いて、まだ泣く要素があったのね、アルマス」

「料理人としては泣くほど感動してもらえるのは嬉しい……」

 サンドラ達が何か言っているが、今は食べることが肝要だ。

 というか、普通にトゥルーズの腕がいい。滅茶苦茶美味い。

「美味かったよ……ありがとう、トゥルーズ」

…………ん。アルマス様は美味しそうに食べてくれるから、作りがいがある」

 少しだけ笑みを浮かべたトゥルーズが静かにうなずいた。そして、実に自然な動作で追加のパンケーキを皿の上に置いてくれる。女神か。

「まあ、たしかにトゥルーズの料理の中でもとりわけお菓子は美味しいけれどね」

 自身もパンケーキを口に運びながら語るサンドラ。それを見て、トゥルーズが静かに言う。

「サンドラ様、そろそろ鶏を飼いたい。クアリアから卵を運んでもらうと高いし。なにより定期的に新鮮な肉の確保ができる……」

 サンドラの連れてきた最初の領民達が彼女のことを「お嬢様」と言わなくなって久しい。たしかに俺にも領主としての役割が板についてきたように見えるし、こうしてちょっとした相談を持ちかけられる姿もよく見るようになった。

「鶏ね……。今ならちょっと余裕もあるからいいような気がする。施設の規模も小さくていいし。卵があればお菓子も色々作れるし……」

「サンドラ様の好きなお菓子をたくさん作れるよ……」

「そうね……」

 トゥルーズの後押しするような口調にサンドラは真剣に考え込んだ。

 立派な領主といえど、まだ一三歳の少女ということか。

「やれやれ、サンドラもまだまだだな。……牛も必要だろう?」

 俺の発言に、トゥルーズが頷いた。

「今回は魔法で保存した牛乳を特別安く譲ってもらった。たしかに欲しい……」

「ちょっと待って。牛はさすがにまだ無理よ。世話をしきれないし、準備もできない。あ、でも鶏の方は前向きに検討しましょう。今夜にでも」

 そう言って、サンドラは空になった自分の皿にフォークを置いた。いつの間にか、彼女も食べきっていたようだ。

「会議で話す内容が具体的でいいな。理想の生活に近づいていく感じがする」

「まだ道は遠いけれどね」

 俺とサンドラには聖竜領の開拓によって目指すべき目標がある。

 スローライフ。都会のけんそうを離れ、穏やかにまったりと暮らすことだと、聖竜様はその言葉の意味を教えてくれた。

 俺は妹が帰ってきた後の生活環境として。サンドラは都会での政治や人間関係から距離を置いて落ち着いて暮らすため。それぞれ利害が一致しているのを確認した上で、聖竜領をスローライフの地とすることを目指しているのである。

「こういうのは一つずつの積み重ねだな。着実にやっていくとしよう」

「そうね。そのためにも焦りは禁物ね。まずは自給自足を目指さないと」

「……二人とも、パンケーキ、おかわりする?」

 和やかに会話とおかわりをしつつ、俺達は夜の会議に向けての打ち合わせを続けるのだった。


      


 夜になった。

 その間、俺は屋敷に滞在し、ポーション作りの手伝いなどをしつつ夕食を頂き、そのまま領地の全体会議に参加することになった。

 場所はいつものように屋敷の食堂。最初の領民十人とエルフの代表としてルゼ、そしてマイアが参加している。

「では、久しぶりの会議を行うわ。まずは街道工事ね。おかげさまで一連の仕事にがついたの。みんな、ありがとう。領主として礼を言うわ」

 会議の始まりに、そう言ってサンドラは静かに頭を下げた。

「気にすることないさ。ちゃんと給料貰えるようになったしね」

 そう言ったのは赤い髪に黒目の女性、大工のスティーナだ。外仕事が多いため健康的に焼けた肌をした彼女は、暑くなっても元気がいい。

「畑の方はとりあえず落ち着いたみたいね。アリア、もう大丈夫?」

 サンドラが問いかけたのは庭師のアリア。明るく長い茶髪と、同じく茶色の瞳を持つ、緑色の作業着を着た女性だ。見る者に穏やかな印象を与える女性で、実際性格も穏やかなのだが、畑仕事には妥協がなく、驚くほどよく働く人物でもある。

「はいー。エルフの皆さんのおかげで大分楽ができるようになりましたー。畑の大きさも現状維持でお願いしますー」

 明るい口調でアリアが言った。ここに来た当初の彼女は農地の開墾作業や農作物とハーブの栽培指導など非常に仕事が多く、一時期は過労が心配されたが、その状況を脱しつつあるようだ。

「人が増えて、街道工事も終わって。一息つけるといったところですね」

 アリアに続いて眼鏡の男性がそう呟いた。優しい印象の彼はロイ先生。優秀な魔法士であり、特にゴーレムの製造を専門としている。ことゴーレムに関して言えば俺よりも詳しい頼れる男だ。普通の人の十分の一程度しか魔力を持たないという問題さえなければ、都会で出世していただろう。

「ですねー。でも、そろそろ夏と秋の収穫について考えないとですー」

「僕の方も工事中に出た新しいゴーレムの案をまとめておきたいですね」

「なんだい二人とも。せっかく時間ができたんだ。少しは休むことを考えなよ」

 すぐに仕事の話を始めた二人を見て、スティーナがあきれたように言った。ロイ先生もアリアも自分の仕事にのめり込む節がある。その点、スティーナはきちんと息抜きをしているようで、たまに屋敷内で飲酒して楽しそうにしている姿を見かける。

「ウイルドとのこともあって忙しかったもの。みんな、ちゃんと休んでね」

 会話を見守っていたサンドラが、笑みを浮かべていた。それから一息置いて、真面目な顔をしてから改めて言う。

「──では、本題ね。宿を作ろうと思うの」

……………………

 その言葉に、全員が沈黙した。

 宿、それはつまり、人が寝泊まりする店だ。

「説明するわね。街道ができて、行商人なんかが来るようになったわ。今は屋敷に泊めているけれど、外から来た人が寝泊まりできるちゃんとした施設があったほうがいいと思うの。スティーナに相談してみたのだけれど、今から始めれば次の春にはなんとか完成できるそうなの」

「なるほど。しかし、他にも理由がありそうですが」

 ロイ先生の問いかけに、サンドラが頷く。

「スルホ兄様や行商人の話を聞いたところ、聖竜領のハーブがそこそこ評判になりつつあるみたい。確実に来る人が増えるわ。それで滞在場所を早めに用意したいの。経営者はダン夫妻。事前に話して了解はもらってる」

 最後の言葉を受けて席に座っていた若夫婦が笑顔で頷いた。穏やかな夫、ダニー・ダンと物腰と口調が丁寧な妻、モイラ・ダン。二人はクアリアと聖竜領を行き来して、俺達の生活を支えてくれている。

「サンドラ様の案では、店は宿、雑貨店、食堂を兼ねるそうです。夫婦で頑張って働く所存です!」

 ダニー・ダンが嬉しそうに言った。自分の店を持つのは彼の目標の一つだったはずだ。

「それともう一つ。聖竜領内の道を整備しようと思うの。街道ほど立派にはできないけれど、今の土の道よりは良くしないとね。ロイ先生が職人さんに好かれたみたいで、向こうは乗り気よ」

「僕としても彼らとまだまだ仕事をしたいですから、嬉しいですね。アルマス様はどうですか?」

「俺の方も問題ないよ。生活が便利になるのは大事だしな」

 この領内の道については俺も事前に相談を受けていた。工事の規模も大きくないし、道が良くなるのは大切なことなので異論はない。

 クアリアの職人達と共に作った街道は聖竜領の入り口で止まっている。領内は今でも土を固めた道だ。そちらも対策を打つというのは良い考えだ。

「領内の道は冬までに、宿は次の春までの仕事になるわ。いいかしら?」

 サンドラの問いかけに異論を唱える者はいないように見えた。

 そんな中、スティーナが手を挙げた。

「あたしの方では夏とか秋の収穫に備えて倉庫をいくつか建てようと思ってたし、それはやめたくないんだけど、人手のあてはあるんだよね?」

 領主の屋敷にも保管庫はあるがそれほど大きくない。畑の作物の保管場所も優先事項だ。事前にサンドラと協議してあるのだろう、スティーナの口調はあくまで確認のためという風だった。

「ええ、クアリアから人を雇うわ。幸い、ウイルド領から貰った賠償金で金銭的には大分余裕があるから」

 聖竜領がウイルド領との戦いで手に入れたのはマイアやエルフ達といった人材だけではない。かなりの金銭も入ってきており、財政にゆとりができたのだ。

「じゃあ、あたしは問題ないよ。皆も、今なら財布に余裕があるから色々相談しなよ?」

 スティーナがそう言って満面の笑みを浮かべると、室内の何人かの目が輝いた。これは、後で備品の相談の話で盛り上がるな。

「領主としての当面の大きな計画はこの二つになるわ。アルマスとロイ先生にはしばらくゴーレムを造ってもらうことになるの。お願いね」

「大丈夫だ。実はロイ先生に教わって簡単なゴーレムの魔法陣なら描けるようになったんだ」

「アルマス様はさすがですね。少し教えただけなのですが……」

 この数ヶ月で、俺も久しぶりに魔法士としての技能が向上しているのだ。聖竜様の眷属として過ごした四三六年間は土地の操作が中心で、魔法を使う機会は多くなかった。

 これからはより皆の役に立てることだろう。

「それと、昼間アルマスとトゥルーズと話したのだけれど、鶏を飼おうと思うの。屋敷の近くに小屋を作ってね。どうかしら?」

 この提案に対して見た感じ、難色を示す者はいない。施設としても大きくないし、鶏の世話なら分担できると考えたようだ。

「いいですねー。お世話もできますし、お肉にもできますよー」

「アリアさん、鶏の処理ができるんですか?」

 軽く驚いた様子のロイ先生の問いかけにアリアが楽しそうに答える。

「庭師の修業の時に、色々教わってますからー。数が多くなければ屋敷の人達で世話できるかとー。そのうちアヒルとかも欲しいですねー」

「……料理人としては、新鮮な食材があるのは嬉しい。美味しいものを作れる」

 そう言って微笑むトゥルーズは希望が順調に通りそうとわかって実に嬉しそうだ。

「では、これは採用でいいかしら?」

 サンドラがスティーナの方を見ながら言うと、彼女は頷き元気よく答える。

「鶏小屋くらいならサンドラ様に借りている二人で大丈夫だね。すぐできるだろうさ」

 サンドラの元護衛にして現在大工見習いの男二人が「よっしゃ、やるか!」とテンションを上げている。相変わらず元気なことだ。

「わたしからの話は終わり。あとはそうね、ルゼからエルフ村のことを聞きたいのだけれど」

 その言葉に、静かに話を聞いていたルゼがゆっくりと立ち上がる。

「村の方の作業は順調です。家具などの要望があるので、後ほどご相談に乗っていただければ。それと、携行食の試作品を皆さんに配ったのですが、いかがでしたか?」

「すごく美味しかったぞ。あれは美味い」

 エルフの若長の問いかけに俺はすぐ反応した。大事なことなので二回言って強調しておく。

「……美味しくて不思議な味。携行食にしておくのがもったいない。レシピを知りたい」

 俺の発言を受けてトゥルーズが力強く頷いた。

「いいよねあれ。あたしはどうせなら、エルフの酒のつまみが欲しいかな」

「あはは。スティーナさんらしいですねー。私はエルフの皆さんが育てる薬草が楽しみですー」

「えっと……その……」

 軽く感想を求めただけなのに、想像以上に室内がにぎやかになって驚いたのだろう。ルゼが戸惑っていた。サンドラからの話も終わり、少し空気が緩んだ影響もあるだろう。

「皆さん、そのあたりで落ち着きましょう」

 雑談めいた話が始まりかけたところで、室内に冷静な声が響いた。大きくはないが、よく通る声の主は真紅のメイド服を着た女性。黒髪に黒い瞳の、表情に変化の乏しい人物。

 彼女はリーラ。戦闘メイドという、聞き慣れない役割をしている。その能力は非常に優秀で、メイドとして技能だけでなく、狩りや戦闘も高い水準でこなせる。

「今、お嬢様が何か言おうとしています。これを聞き逃してはいけません」

 鋭い目つきと共に全員に視線が送られると、室内が静まりかえった。リーラはサンドラのことを心の底から敬愛しているのである。それを知らない者はこの場にいない。

 水を差したように見えるが、悪くないタイミングだ。雑談が始まって会議が長引くのはよくない。

「マイアはウイルドでの携行食の扱いを知ってるのよね?」

 全員の視線を受けたサンドラが穏やかな口調で問いかける。

「携行食はウイルドでも人気の特産品でしたよ!」

 マイアのひときわ大きな声が室内に響いた。

 それを聞いたサンドラが満足げな笑みを浮かべ、ルゼに向かって言う。

「材料は用意するから携行食の生産をお願い。とはいえ、まずは生活環境を最優先ね」

「はい。承知しました」

 軽く微笑んでそう返すと、ルゼが着席する。

「さて、次の話にいきましょう。新しい備品で欲しいものはあるかしら?」

 サンドラが投げた問いかけに、再び室内の面々が一気に発言を始めた。農具に食材、鶏小屋など、次々と欲しいものが出てくる。

『賑やかじゃのう……』

 楽しく賑やかに話し合う様子を眺めていると、聖竜様の声が頭の中に響いた。

『ええ、悪くないですね』

 こうして多くの人と未来について明るく語り合えるのはよいことだ。

「アルマス、先ほどから静かだけれど、あなたは何か要望はないの?」

 無言なのが気になったのだろう、サンドラ自ら俺に聞いてきた。

「そうだな……クアリアと行き来する定期馬車でもあると嬉しいな」

 クアリアは聖竜領の隣にある大きな町。せっかく立派な街道ができたのだから、行き来しやすい環境が欲しい。本や食料に雑貨といった買い物が気軽にできるようになるのは大きな生活改善だ。

「たしかにそうね。スルホ兄様に相談してみる」

 クアリア領主にして兄として慕う人物の名前を口にして、サンドラは俺の要望を受け入れてくれた。しっかり仕事をする彼女のことだ、近いうちにちゃんと形となって実現するだろう。

「みんな、他にはないかしら?」

 サンドラの言葉を受けて、また室内が賑やかになる。

 その日の会議は、もう少しだけ続いたのだった。