ひとつ下の階の廊下の角から、引き続きハラハラしながらイルヴァレーノが見守る中、ディアーナは時間をかけて一階まで降りていった。玄関を出て、前庭の花壇を覗き込んで歩いていくディアーナ。少し先に座り込んで作業している庭師の老人に気が付いた。
「にわしのおじーさま」
「おや、お嬢様お散歩ですか?」
老人は立ち上がり、帽子を脱いで会釈をする。人好きのする顔を向けてディアーナを見るが、その姿を見て目をまん丸くした。
「お嬢様、なぜスカートをめくっているのですか?」
「かいだんで転んだらあぶないからね!」
ディアーナは階段を下り終わってからも、なんとなくそのままスカートをめくったまま歩いていた。パンツはもちろん丸見えだった。
「庭には階段はありませんので、スカートはおろしても良いと思いますよ」
庭師の言葉に世紀の新発見を聞いたかのような顔で驚くと、ディアーナはスカートから手を離した。スカートの裾が重力に導かれて下がっていくが、ずっと握っていた両脇の裾はシワシワになっていた。庭師の老人はスカートを整えてやろうかと手を伸ばしかけたが、自分の手が土で汚れていることに気が付いて引っ込めた。その後ディアーナの背後の方に視線を泳がせた。侍女が側にいるはずだと思ったのだ。
侍女の姿がみあたらず、一瞬訝しげな顔をしたが、垣根の隙間からイルヴァレーノが顔を出し、唇の前に人差し指を立てて「言うな」とジェスチャーをしているのを見つけると、ひとつ頷いてまたいつもの穏やかな表情に戻った。
「にわしのおじーさま。ここに、まだ名前のないおはなってある?」
「うーん? ここには、名のある花しかありませんなぁ……」
「そうかぁ」
庭師の返事を聞いて、ディアーナはしょんぼりと肩を落とした。庭師は慌てて手前の花壇を手で指し示し、「こちらは大変珍しく、まだあまり知れ渡っていない花ですよ」と説明した。
「でも、もうお名前ついてるのでしょう?」
「ええ、ザボウトという名前です」
「ざぼうとでは、だめなのよ」
バイバイ! と元気良く庭師に手を振ってディアーナはまた歩き出した。垣根を挟んで中腰になりながら、イルヴァレーノがすぐ後ろを歩いていく。その様子を後ろから眺めながら「いったい何をしているのだか……」と首を傾げた。
「おっと。お嬢様、門の外にはでられませんよ」
「お嬢様、おひとりでここまで来たんですかい?」
ディアーナは庭を抜けて表門まで来た。門は鉄柵扉が閉められていて、アルノルディアとサラスィニアが門の脇の詰め所から出てきた。アルノルディアはディアーナの前まで来ると膝を突いて目線を合わせた。サラスィニアはキョロキョロとディアーナの周りや後方に目をやって何かを探している。
「お嬢様。いったいここまで何用ですか? おつかいなら、代わりに行きますよ」
「アルノルディアは、みたことない花がどこにあるかしってる?」
「見たこと無い花ですかー? うーん。見たこと無い花ってことは、今まで見たことある花じゃダメなんですよねぇ。未来を予測するって事ですか? お嬢様は難しいことをいいますね」
「アルノルディアの方がむずかしいこと言ってるよ」
サラスィニアは、後方の垣根の向こうに探し物を見つけたのかひとつ頷くとアルノルディアの隣に移動して同じようにしゃがみ込んだ。
「僕らは、不審な人がいないか、おっかない犬や狼がやってこないかを見張るのが仕事ですんでねぇ。あんまり花には詳しくないんですよ」
「そうですねー。見たことある花か、初めてみる花かなんて区別がそもそも付かないのでわかりませんや」
「そっかぁ……」
「お役に立てずにすんません」
サラスィニアが眉毛を下げて頭をポリポリと掻くと、ディアーナはブンブンと頭を横に振った。
「おしごとごくろうさまです! バイバイ!」
手を振って歩き出すディアーナ。サラスィニアが垣根の方に目線をやると、垣根の向こうで赤い毛先が揺れながら移動していくのが見えた。アルノルディアはニコニコとディアーナに向けて手を振っている。
「坊ちゃんが謹慎中だから、イル坊がお目付役やってんですかね?」
「それなら、普通に一緒に歩いてくりゃよくね?」
「……なにやってんだかねぇ?」
邸の塀沿いにテクテクと歩いていくディアーナ。カァァ! と大きな鳥の声が上から聞こえて、ビクリと肩を揺らして立ち止まった。見上げても、大きな木の枝が見えるばかりで鳥の姿はディアーナから見えない。春には白い小さな花が咲く大きな木も、今は葉がわさわさと繁っていて日の光を遮ってしまっている。時折、枝の中からバサバサっと大きな羽の音が聞こえてくるが、音ばかりで姿は見えない。
ディアーナの中でおっかない怪物のイメージがむくむくと出来上がっていく。半分涙目になっているディアーナをみて、もう出て行くかとイルヴァレーノが腰を浮かせたその時。
「お、おばけなんてなーいさ! おばけなんてうーそさ!」
ディアーナがキリッと前を見て、おばけなんていないという歌を大きな声で歌い出した。ディアーナが震える足を一歩ずつ前に出して歌いながら歩いていく。それは、いつか夜にトイレに行くのが怖いと泣いていたディアーナのために、手をつないでトイレに一緒に向かうカインが歌っていた歌だ。孤児院の慰問にきた歌手からも、あちこちの家庭から集まった孤児たちそれぞれからも聞いたことのない、カインの歌だった。
少しずつ進んでいくディアーナの、髪飾りが木漏れ日に反射して光った。木の中にいた鳥が大きく羽ばたいてディアーナめがけて飛び出した。
イルヴァレーノが足元の小石を拾って投げつける。ピギャア! と甲高い鳴き声をあげて鳥はまた木の中へ戻っていった。
やがてディアーナは大きな木の並ぶ区画を抜け、裏門までたどり着いた。裏門はしっかり閉められているが、使用人の出入りもあるため昼間は施錠はされていない。巡回でアルノルディアかサラスィニアが一定時間毎に見回りにくるが、いつもは門番も立っていない。イルヴァレーノはディアーナが外に出ようとしたら飛び出そうといつでも立ち上がれるような姿勢で潜んでいる。
裏門のそばでしゃがみこんでいたディアーナは、何かをつかむと急に立ち上がった。
「やったー! なまえのないお花みーっけ!」
手に小さな白い花を持って、ぴょんぴょんと跳ねるディアーナ。何という事もない、雑草のような小さな花を持って何がそんなにうれしいのかイルヴァレーノには解らなかった。
ディアーナが飛び跳ねて喜んでいると、裏門が開き、買い物帰りのメイドが入ってきた。
「ディアーナ様!? こんな所で何をなさっておいでですか?」
メイドはディアーナの手を引くと、邸の中へと入っていった。
ディアーナの冒険は終わった。イルヴァレーノはホッとため息を吐いてその場に腰を下ろすと、ドッと疲れが押し寄せてきた。思ったより緊張していたようだ。カインの可愛がっている妹に、何かあってはならない。絶対に守らねばというプレッシャーがあったのかもしれなかった。
ディアーナが大冒険の末に手に入れたお宝がどういった物なのか、イルヴァレーノは夕方に再会したディアーナから聞かされたのだった。
イルヴァレーノは、カインの顔を大変麗しい顔だと思っている。口には出さないけれど。
もちろん容姿の似ているディアーナもだ。
七歳の今でコレなんだから、成長したらさぞかし女泣かせの男になるだろう……と思った事もあったが、ディアーナに夢中でそこらへんの令嬢になんか見向きもしないなと考え直していた。
その麗しい顔が、今朝は大変に残念なことになっていた。泣きはらした両目のまぶたは腫れ、目が開かなくなっている。涙を拭くのにこすったせいで赤く擦れてしまっているし、鼻をかみすぎて小鼻や鼻の下もガビガビだ。
「ひどい顔」
「……濡らしたタオルをくれないか」
声も酷かった。大声を出して泣いたわけではなかったが、鼻をすすり喉を通った事で少し腫れているのかもしれない。
イルヴァレーノは自分の手をカインの目に当てると、目をつむって集中した。
「そんな、手で隠すほど酷い?」
手を当てられた事を、腫れた目を隠されたのだと思ったカインがそう聞いてくるが、イルヴァレーノは無視して治癒魔法を施した。魔法が弱いので、完全に元通りとはいかないが爬虫類のようだった顔に人権は戻ってきた。
「酷い。目やにが酷く出てる。目を擦りすぎだ。今、タオルを持ってくる」
「ちょ、ちょっと待って」
ベッドから立ち上がってバスルームに向かおうとする腕をつかみ、イルヴァレーノを立ち止まらせる。
「お前、治癒魔法なんて使えたの?」
「使えると言うほど大したことは出来ないけどな。小さいすり傷ぐらいならなんとか出来る程度だ」
治癒魔法が使えるといって、過度な期待をされても困るからあまり人前では使わないと、イルヴァレーノは説明した。
「それなら、俺にも黙っていれば良かったのに。泣きはらした目なんて、それこそ冷やしておけばそのうち治るものなんだから」
「良いんだ。昨日も言ったけど、俺はお前を支えてやるって決めたから」
ただし、あまり言いふらさないでくれと念を押した。
公爵家の人たちは、良い人たちばかりだ。この家の使用人の一部には上級貴族出身者もいる。執事やエリゼの侍女などがそうだ。執事の実家は侯爵家、侍女の実家は伯爵家だと聞いている。
そんな人たちが、孤児の自分を貶さず見下さずに、徒弟としてしっかり仕事を教えてくれている。心の中は解らないが、下に見ていたとしてもそれを表に出さずにいるだけの分別のある大人たちだ。
この家の中でなら、ささやかな力を隠さずに使っても良いかとイルヴァレーノは思ったのだ。
「ふぅむ」
カインは、何やら思案顔だ。執事と同じ顔をしている、と思った。
「それより、先日はありがとう。妹たちがとても喜んでいた」
「なんだっけ?」
濡れタオルをカインの目の上に乗せ、鼻に手を当てて荒れた鼻のまわりを魔法で癒しながら、イルヴァレーノはカインに礼を告げる。カインには思い当たることがなかった。
「刺繍の練習に使っていた余りの布と刺繍枠を寄付してくれただろう」
「あぁ。母から名入りの枠を貰ったし、練習用の枠はもう良いかと思って。シーツやテーブルクロスの端切れなら価値も無いからそうそう無くなったりもしないだろう」
刺繍の会にカインが参加した日、イルヴァレーノは休みを貰って孤児院へと里帰りしていた。公爵家には前もって許可を取っていた為、持ち帰る用の土産にと色々持たされていた。菓子やジャムなどの瓶詰めや、針や糸などの裁縫道具。それと、カインとイルヴァレーノがひたすら練習した布と、練習で使わなかった布。エリゼからは新品の木綿の無地のハンカチも何枚か持たされていた。
「お母さまからも新品のハンカチを……。イルヴァレーノ、端切れである程度腕を上げたら、新品のハンカチに花か動物を刺繍して街で売るといいよ」
「孤児が刺繍したハンカチなんて売れないだろう」
「そうかな? ……なんか考えてみるか」
カインはもう少し市井の事について知りたかったが、公爵家の子どもがホイホイと街に出て行くわけにも行かず、家庭教師から勉強の合間に話を聞く位の情報しか持っていなかった。
イルヴァレーノの事もあるので、護衛付きで孤児院まで行くことが数回だけあったが、真っ直ぐ行って真っ直ぐ帰ってくるだけなので、やはり一般市民の生活の様子は伺い知ることができなかった。
(前世記憶で無双するにも情報が足りなさすぎる……)
自分が子どもであることの無力さにカインはもどかしさを覚えていた。とはいえ、ゲーム開始時点から転生……突然前世の記憶を思い出すとかじゃなかっただけまだ取れる対策も多いのだから、生まれたときから前世の記憶があったのは幸いな事なのだと思い直す。
「よし、出来ることからコツコツやっていこう。イルヴァレーノ、頼みがあるんだけど」
パンパンっと、気合いを入れるように自分で自分の頬を叩くと、カインはニコリと笑ってイルヴァレーノへ声をかけた。
「頼まれ事は聞くけど。その前に朝飯だ。まず、飯を食え」
「なんか昨日から、やたらと食事を取らせようとするな?」
「飯を食わせて、添い寝してやったら元気が出たからな。サカエバァチャンとやらの言葉は真実なんだろうと思って、実践していくことに決めたんだよ」
廊下に出て朝食の載ったワゴンを部屋へと引き入れて戻ってきたイルヴァレーノの視界に、
それは、お兄さま大好きという花言葉を持つ、カイン花だ。
もう大丈夫だなと、イルヴァレーノはそっと息を吐いた。
よく食べて、よく寝た事で元気がでたカインは、まず手紙を書いた。
刺繍の会に参加していた子どもたち宛に、怖い思いをさせてゴメンねという趣旨の謝罪の手紙を書いた。その手紙に刺繍したハンカチを添えることを思いつき、せっせと刺繍を施しているところだった。
「こういうのって、謝る本人が刺繍するから意味があるんじゃないのか」
「ワンポイントだし、どうせバレないって」
イルヴァレーノとカインの二人で刺繍をしていた。
母エリゼから贈られた青と赤の刺繍枠にハンカチをはめて、小花やりんごやさくらんぼ、クローバーや星などの小さなモチーフを入れていく。
「花は、何の花かわからないように一般的な『あ、お花ね』って感じにしろよ」
「わかってるよ。こんな小さいサイズで特定の花と解るようになんか出来るわけ無いだろ」
二人にとって、イアニス先生の花言葉の話は若干のトラウマになっているようだった。
ほんの小さなモチーフを隅に入れるだけなので、その日のお茶の時間には人数分のハンカチができあがった。七歳の男の子二人が、随分と刺繍の腕を上げてしまったものである。
女の子にはレースがあしらわれているもの、男の子には普通のハンカチを添えて、謝罪の手紙を各家に届けてもらうように執事に預けた。
子どもから子どもへの手紙と言えど、まださほど親しくもない間柄であるし、家同士の関係性なんかもあるため、どうせ出す前に親のチェックが入る。そう思ってカインは手紙に封をしないまま預けた。
その配慮のおかげで、名前から判断して性別を勘違いしていた子がいたのだが、エリゼにハンカチを入れ直されて事なきを得ていた。このときのカインには知る由もなかった事だが。
「これで、なんとかなるといいんだけどな」
フゥと息を吐き出して不安を口にしたカインは思ってもいないことだが、刺繍の会に参加していたご婦人方のカインに対する印象は決して悪くない。
両手の間から炎が飛び出してビックリはしたものの、その後のカインの演説……女性を大切にしなければならないという叫びに感動したのだ。女主人やら社交界の花やら女性を称える言葉はあるものの、実際には屋敷で夫や父や兄弟からは軽んじられていると感じることのある婦人たち。子を産み育てるのが当たり前と受け止められ、それに対して誉められることもなかった婦人たちの心に、カインの言葉は響いたのだ。
短い時間だったが、カインは皆が持ち寄った刺繍に対しても、見た目の美しさを誉めるだけではなく、その技術の複雑さや丁寧さ、掛かった時間に対しても関心を持って質問し、尊敬の瞳で的確に誉めてくれたのだ。
異性が同じ趣味に理解を示してくれるのが、こんなにも嬉しいのかと婦人たちは感動したのだ。
カインならば、娘や姪っ子を嫁がせても丁寧に扱ってくれるんではないかという期待を持った婦人たちは多い。身分だって王家に次ぐ公爵家である。
王太子との顔見せが目的の会ではあったが、むしろ乱暴な王太子より女性を尊敬し理解してくれているカインに嫁がせる方がよっぽど幸せではないかと囁かれていた。
エリゼだけは「あの台詞の全ての女性という言葉に、ディアーナというフリガナが振ってあった気がしてならないわ」と思っていた。
思うだけで言わなかったが。息子の評価が上がってるのをわざわざ下げる必要もないので。
「貴族の子たちはこれで一旦良いとして、問題は王子様だよな」
「殺しかけたらしいな」
「人聞きが悪いことを言うな。ちょっと火傷させようとしただけだよ」
しれっとした顔でそう
さて、王太子ルートをどう潰すべきか。それを考えなくてはいけない。
ディアーナが王太子と婚約し、二人が相思相愛になって幸せになるのなら百歩譲ってそれでも良いとは思っているのだが、
主人公が王太子以外の攻略対象に行ってくれれば何の問題も無いのだが、人の心ばかりは操作のしようがない。
王太子とは一応知り合いになれたので、誘導したりディアーナから引き離したりする事も出来るかもしれないが、主人公とは未だに面識はない。面識もないし、どこにいるのかもわからない人間にはちょっかいをかけることも出来ない。
イルヴァレーノを拾ったのは本当に幸運だったのだ。主人公をどうこう出来ないなら、王太子をどうにかするしかない。
「なんとか、王太子殿下と仲直りしないとなぁ…」
「……仲直りする気はあるのか。てっきりボコボコにするのかと思ってたのに」
「ディアーナを突き飛ばして怪我させたことは許せないが、ディアーナをさらに悲しませることはもっと出来ないからな……」
どうしたものかとカインは思案していたが、状況は部屋の外で勝手に進んでいた。大人同士の間ではすでに仲直りの場としてのお茶会が設定されており、それに向けてのスケジュール調整をしている段階なのだが、カインがごねると思っている両親がまだ伝えていないだけであった。
朝目が覚めると、イルヴァレーノではなく執事が立っていてカインは驚いた。執事に謹慎は終わりですよと告げられたかと思ったら、あれよあれよと言う間によそ行きの服を着せられた。
王太子殿下との仲直りの場としてセッティングされたお茶会。ついにエリゼとディスマイヤは当日の朝までカインにそれを伝えなかった。
「お茶会!? しかも今日!? まだ何も作戦を考えてない!」
「それが狙いでございましょう」
カインはカインで、手紙か贈り物を贈って謝罪をするか、王太子が参加する催しに自分も参加して機会を得て謝罪をするか、親に頼んで場をセッティングしてもらうか。その場合の自分の立ち回りなどを色々と考えてはいたのだ。
イルヴァレーノに王太子の好みを探らせたり、今後の王族のスケジュールなんかを探らせたりもして準備を進めていたのに。
「お茶会とはいえ、昼食会を兼ねているそうですので朝食後すぐに出立いたします。さぁ、食堂へ移動しましょう」
カインが「知ってたのか?」という視線を投げると、イルヴァレーノが知るわけ無いだろうという渋い顔をして首を横に振った。
「イルヴァレーノ。そういうときは表情を変えずに、主人にだけ解る程度に首を振るのですよ」
執事が、イルヴァレーノに向かってにこやかに注意を促す。そしてカインに向き直りやはりにこやかな顔のまま注意する。
「カイン様も。そう言った事実確認はその場に居合わせた者に解らないようになさいませ。
執事に促されて部屋を出る。カインが先に歩き、執事とイルヴァレーノが後に続く。
「カイン様は、どのような作戦をお考えでしたか?」
執事の問いかけは、とても穏やかな声で発せられた。特に侮っているとか、作戦を潰してやったぜ! といった感情は見られない。それでも、カインは顔が渋くなるのを止められなかった。中身はアラサーだし、ある程度は出し抜けると思っていたのを覆されたのだ。
「間もなく開催される『王妃様主催の詩集の会』に王太子殿下が参加するらしいので、謹慎を解いてもらって僕も参加させてもらおうと思ってた」
刺繍の会もそうだったが、そこに王太子が参加するというのは一般には伏せられており、既存の参加メンバーにのみ告げられた情報である。刺繍の会の時と同じで、侯爵家以上ばっかりずるい! と伯爵家以下から反発があると面倒くさいというのが主な理由だと言われている。
おそらく、それだけでは無いのだろうけど、カインには知ったことではなかった。
「部屋からお出にならなかったのに良くご存じでしたね」
執事は、イルヴァレーノを視線だけ動かして覗き見る。執事の隣を歩くイルヴァレーノは無表情だ。カインは、詩集の会に参加するために謹慎中の時間を使って詩の本を読み、いくつか作詩もしていた。全てディアーナを称える内容だった。そして当然のようにイルヴァレーノも巻き込まれていたが、作った詩はカイン以外の者の目に触れる前に処分されていた。
「後は、明後日の昼に陛下の騎士団訓練場の視察があるって話もあったから、偶然を装って馬車の前に飛び出して轢かれそうになることでお互い様って事にしようと思ってた」
王族の視察や慰問などのスケジュールは公開されており、誰でも知ることが出来る情報だが、そこへ向かうルートは極秘事項である。もちろん、王族の安全の為、警備のしやすさの為だ。
「今回は、この邸の裏の二本向こうの道を通るようだったからね」
カインは、極秘であるはずの移動ルートを把握している……と言っている。執事は顔はあいかわらずにこやかに微笑んでいたが、心の内で驚いていた。
この一週間、部屋から出ずに過ごしていたのにどうやってその情報を掴んだのか。そもそも、本当に明後日の視察へ向かうルートが邸の側を通るのか執事には判断出来ないので、カインが適当なことを言ってる可能性はある。今日のお茶会を今日告げられた意趣返しに適当なことを言ってる可能性も無いわけではないのだ。カインは普段、手の掛からない良い子だが、ディアーナが絡んだ時と計画通りに事が運ばなかった時にはひどく手の込んだ事をする事があるのを執事は承知していたのだ。
「やはり、前もってお知らせしなくてようございました。旦那様と奥様はやはりカイン様のご両親ですね。カイン様を良くわかっていらっしゃる」
「どうだろうね。僕の勉強の進捗にもあまり興味なかったみたいだけどね」
「カイン様のことを信頼しておいでだからこそですよ。順調だという報告を信じておられたのです。そして、それは間違いではございませんでしょう?」
順調すぎただけ、といえばソレはそう。けして間違いではないが、カインはわざと親から適度に距離を取っていたので、良くわかってると言われるのは複雑だった。あまり干渉されて、やり過ぎだと勉強や鍛錬の時間を減らされるのは避けたいとカインは思っている。
やればやるほど身に付いていく、この『攻略対象者』の体を追い込んで、どんな事があってもディアーナを守れる力を手に入れたいからだ。
「それにしても、家の中の事が全く掴めていないのは我ながら腑甲斐ないよ」
詩集の会での「王太子のお友達候補集合再び」についてだとか、極秘の王様視察ルートだとかは掴めたのに。よそ行きの服を用意されていたことを考えれば、今日お茶会があることは使用人たちも知っていたに違いない。
「イルヴァレーノの主人はカイン様ですが、私どもの主人は旦那様と奥様だということですよ」
ただ、それだけのことです。と執事が事も無げに言う。
口が堅く、結束力が強いのは公爵家の息子としてはとても心強い事であるが、両親を敵に回せば味方は一人しかいないと言うことだ。
「さ、今朝はクロックムッシュですよ」
そう言って執事が食堂のドアを開けた。すでに家族は揃っていて、ディアーナはエプロンを着けられていた。せめてもの抗議として、カインはブスッとした顔で父と母に朝の挨拶をするのであった。
朝食後、歯を磨いたらガツっと父に抱えられて門前に待機していた馬車に放り込まれたカイン。
母エリゼがディスマイヤのエスコートで乗り込み、ディアーナを渡され、最後にディスマイヤが乗り込んでくる。コンコンとディスマイヤが御者席側の小窓を叩いて「出してくれ」と言うと、馬車はゆっくりと動き出した。
ディスマイヤはお茶会には招待されていないと言う。
「家同士の問題にしないため」という配慮らしい。あくまで子どものケンカとその仲直りであり、夫人同士が子ども連れでお茶会をするだけの社交の場である……と言うことにするらしい。当初はディアーナはマナーを理由に留守番させる予定だったが、王太子もまだマナーが不完全だから構わないと言われ、王妃から是非ディアーナも、と重ねて誘われてしまったので連れて来ざるをえなかった。カインが暴走しないのを祈るしかない。
「では、お茶会楽しんできて。カインはうまくやりなさいね」
そういって、父ディスマイヤは法務棟の前で馬車を降りていった。馬車はそのまま三人を乗せて王宮の王妃棟まで進み、それでは終わるまで待機しておりますと、馬車溜まりまで去っていった。
案内係の従僕に連れて行かれたのはルーフバルコニーに作られた庭園だった。
「いらっしゃい、エリゼ。良く来てくれたわ」
「お招きありがとうございます、王妃殿下。気持ちの良い天気ですわね」
「ええ、本当に。風が気持ちよいので外でお迎えすることにしたのよ」
「素敵なお心遣い、感謝いたします」
母たちの社交辞令が一通り済むと、では改めましてと母たちが子どもたちを前へと押しやる。
「まずはあなたからよ、アルンディラーノ」
王太子が、バシンと王妃に背中を強く叩かれて勢いで二歩三歩と前によろけ出てくる。
そのままもう三歩前へ歩いてディアーナの前に立つと、もじもじとしながら「えーと」とか「うーんと」とか言っている。
カインは若干イラッとしたが、コレは待つ所なんだろうなぁと思ってディアーナのすぐ後ろに立って様子見している。
「おなか痛いの?」
あまりに言葉が出てこないアルンディラーノに、ディアーナが心配げに声をかけた。四歳でまだ男女で身長差もない二人。コテンと首を倒して顔を覗き込む姿はとてもとても可愛らしくて、後ろからみていたカインはうっとりとした顔でその仕草を見つめていた。
「カイン、顔!」
母エリゼから注意され、カインは背筋を伸ばしてまじめな顔を作る。
だって、腰を少し曲げて頭の位置を低くしつつ、顔を傾けて覗き込み、その時の手はペンギンの様にぴょこんと後ろに伸ばしているその姿たるや! 可愛さの極み。
王太子に対して取っているポーズというのが気にくわないが、後ろからという視点ならではの「パニエたっぷりでふわふわのスカートの裾がプリンっと持ち上がる」というディアーナの可愛さを彩る動きが見られたのだ。動画で残したい。俺のかわいい妹を見てくれというタイトルで動画配信サイトへアップして自慢したい。全世界で十億再生間違い無しだよやったぜ!
と言うことを頭の中で考えつつ、真顔でアルンディラーノの言葉を待っていた。
一度は顔を崩したものの、しつけ担当のサイラス先生の教えの賜である。
「この間は、突き飛ばしてごめんなさい」
ようやく、アルンディラーノからディアーナへ謝罪の言葉が出てきた。もはやそんな事があったのもすっかり忘れていたディアーナは良くわからないけど「どういたしまして!」とにっこり微笑んだ。アルンディラーノの頬が淡くピンク色に染まるのをカインは見逃さなかった。舌打ちしなかった事を自分でえらいと心の中でほめたたえた。
「手、痛かったよね? もう大丈夫?」
と言いながらディアーナの手を取ろうとするのを、ペイっと後ろから手刀ではねつけ、カインは一歩前に出てディアーナとアルンディラーノの間に立った。
「今度は僕の番ですね。王太子殿下、先日は怖い思いをさせてしまい申し訳ございませんでした」
そう言って、深々と頭を下げるカイン。視線の先に、アルンディラーノの靴が見える。なかなか、謝罪を受けるとの言葉が出てこないため、カインは顔を上げられない。
(そろそろ頭に血が上ってきてツラいんだけどなぁ)
アルンディラーノのそばに人が来て、ボソボソと何か言っている気配がある。まだかなぁとカインが思っているとようやく声が掛かった。
「許す。顔を上げよ」
言葉を受けてカインが顔を上げると、アルンディラーノのすぐ後ろに王妃様が立っていた。
(あぁ、これ。謝罪を受けたときの言葉を知らなかったか、聞いてたけど忘れてたやつだ)
恐らく、許すと言いなさいとか王妃様が助言したんだろう。アルンディラーノは一生懸命威厳のある顔を作ろうと口をギュッと引き締めて眉間に皺を寄せていた。
その表情が、父ディスマイヤがカインを叱る時に横に立って真似して叱ろうとするディアーナの顔にそっくりだった。
「ぷっ」
思わず吹き出してしまうカインに、アルンディラーノは怪訝そうな顔をする。
「謝罪を受けてくださり、感謝いたします」
にこりと笑顔を作って見つめると、アルンディラーノの頬がまたピンク色に染まった。
(綺麗な顔が好きなのかもしれない。ディアーナも俺も綺麗な顔してるからな……)
アラサーサラリーマンだった前世の自分の顔を覚えているので、カインは自分の容姿を自画自賛するのに躊躇しない。「※ただしイケメンに限る」という注意書きがありとあらゆる所に適用されていた世界を知っているので、ディアーナを守るために自分の容姿を利用することにも戸惑いはない。
「是非、これから仲良くしていただけると嬉しいです」
「あ、えっと、うん。よろしくおねがいします……」
花が開くような優しい微笑みを顔に張り付けながら、アルンディラーノに声をかけるカイン。アルンディラーノは顔を真っ赤にして、声を詰まらせながらやっと返事をするので精一杯だった。
「さ、仲直り出来たところでお茶を頂きましょう」
王妃様の合図を受けて、用意されているガーデンテーブルへと移動する。ガーデンテーブルの席順は、王妃様・エリゼ・ディアーナ・カイン・アルンディラーノとなった。
母親二人は同じ歳のディアーナとアルンディラーノを隣同士にしたかったようだが、カインがそれを阻止した。
そして、意外にも両隣の四歳児を甲斐甲斐しく面倒を見るカインに母親二人は驚いたのだった。
「ディアーナ、飲み物は両手で持って。お菓子は一度置いて。そう、お菓子と飲み物を両手に持つのははしたないよ?」
ビスケットを持ったまま、反対の手でコップを取ろうとするディアーナに注意するカイン。
「殿下、口元にクリームがついています。……反対側です。……もう少し上です……。お顔をこちらに寄せてください」
顔を突き出してきたアルンディラーノの口元をナプキンで拭いてやるカイン。
「ディアーナ、手の届かない物は取ってあげるから無理しないで。お皿をひっくり返してしまうよ。どれが欲しいの?」
テーブルの中程にあるマカロンを取ってディアーナの皿に載せてやるカイン。
「良いですか、ビスケットにクリームを載せるときは欲張ってはいけません。一口分だけ載せるとこぼさずに食べられます。次の一口を食べるときに、またクリームを改めて載せれば良いのです」
また口の周りにクリームをつけたアルンディラーノの口元を拭いながら注意するカイン。
「あらあら。甲斐甲斐しいこと。下の兄弟がいると上の子はしっかりするのかしら?」
「カインはディアーナにベッタリで、乳母や私にディアーナの世話をさせてくれないんですよ。もう少しディアーナを譲ってくれても良いのに……」
「まぁ。ディアーナが大好きなのね。アルンディラーノにも良くしてくれて……アルンディラーノのお兄ちゃんになってくれないかしら?」
「兄になる手段によってはお断りいたします」
突然振られた話にも、きっぱりと断りの返事を返すカイン。
ディアーナとアルンディラーノが結婚することでカインを義理の兄とするのであれば、それは受け入れられない相談である。本来王家からの要請ならそうそう断ることなんか出来ないものだが、プライベートなお茶会での話ならさほど気にする事でもないだろう。しかもまだ学校にも行っていない子どもの言うことである。
「手段によって?」
「カインは、ディアーナをお嫁に出す気が無いんですの」
王妃が不思議そうな顔をしてエリゼに視線を向け、ため息をつきながらエリゼが答えている。本当は、『王太子妃にしたくない』なのだがそんな事はさすがに王妃相手に言えないので、嫁にやりたくないということにしたエリゼだが、わざわざそれを訂正するほどカインも愚かではなかった。
「ほほほ。なるほどね。カインはディアーナが可愛くて仕方がないのね」
王妃は朗らかにうんうんと頷いてなにやら納得したようだ。何を納得したのかはカインには解らなかった。
その後、話は逸れて刺繍の会の夫人達がエリゼともっと話がしたいと言っていたので刺繍の会お茶会をしましょうよという話をしたり、子育ては大変よねという話をしたり、詩作に興味はないかと誘われたりと色々な話題で母親二人は話が弾んでいた。
「王妃殿下、お母様。ディアーナと王太子殿下と三人でお庭を散策してもよろしいでしょうか?」
ディアーナがマカロンを割ったり戻したりするばかりで食べなくなっているのに気がついたカインは、お茶会を中座する許可を申し出た。解らない話で盛り上がる女性二人にも、お菓子にもディアーナが飽きてしまっているので、歩いて気を紛らわそうと考えたのだ。
チラリと見れば、アルンディラーノも手の中でコップをくるくると弄んでいたので、やっぱり退屈しているのだろう。
「そうね。少し動かないと昼食が入らなくなってしまうかもしれないわ。カイン、アルンディラーノをよろしくね」
「ありがとうございます」
椅子をおりて一礼すると、ディアーナを抱いて椅子から下ろす。振り向けばアルンディラーノは自分で椅子から飛び降りていた。
「さ、ディアーナ。花を見せていただこう」
そう言って右手を差し出せば、ディアーナは当然のように手を握ってくる。一緒に歩くときは手をつなぐ、と言うことをディアーナが歩き出した時からずっとやってきた成果が現れている。
「王太子殿下も行きましょう。……手をつなぎますか?」
なんとなく聞いただけで、つながないと断られると思っていたカインだが、予想に反してアルンディラーノは手を握ってきた。驚いて目を見張ったが、気を取り直して左手も握り返せばアルンディラーノは嬉しそうに笑った。
「殿下は僕が怖くないのですか? 炎で頭を燃やそうとしたんですよ」
「謝ってもらったからそれはもういいんだ。目の前ででっかい炎が出てきたのはびっくりしたけどきれいだった。また、魔法みせてほしい」
「お兄さまの魔法はもっといっぱいあるのよ! お兄さまはすごいのよ!」
「王族は代々魔力が多いと聞いております。殿下も沢山練習すれば自分で出来るようになりますよ」
「ディもね、まほーの練習はじめたのよ。いつかお兄さまぐらいすごいのだすの!」
「できるようになるかな……」
「殿下次第ですね」
花壇に向かって歩きながら、そんな会話をしていた。ルーフバルコニーに作られた庭園なので、花壇はプランターのような箱に土を入れたもので栽培されていた。しばらくは、花を眺めて花の名前を教え合い、花言葉クイズなどをやりながら歩いていく。
次の花壇へ行こうと足を進めたときに、カインは左手を引かれた。見やればアルンディラーノが立ち止まっていた。
「殿下?」
「あの日のことを言い訳したい。聞いてほしい」
ディアーナに怪我をさせたからブチ切れて頭を掴んだ訳だが、何故そうなったのかをカインは知らない。積み木が崩れた音を聞いて振り向いたら、ディアーナの腕が引っ張られている場面だったのでブチ切れたわけで、何故積み木が崩れたのかとかディアーナとアルンディラーノが直前に何をしていたのかは見ていない。
直後に謹慎を命じられてディアーナとも会えなくなっていたのでディアーナから話を聞くことは出来なかったし、そもそもディアーナの腕を引っ張り突き飛ばした時点でカインにとってはギルティなので、経緯や理由に興味はなかった。
しかし、ディアーナを素直で素敵なレディに育て上げて悪役令嬢化させないという使命もあるため、もしディアーナの側にアルンディラーノを害するような発言や行動があったのだとしたらそこは修正しなければならないと思い直した。
「お伺いします」
とアルンディラーノに頷いて見せた後、ディアーナに向き直り、
「ディアーナ、一緒に聞いて、お話が違うなと思ったら殿下の後でディアーナもお話を聞かせてね」
と話しかける。ディアーナはハイ! と元気良く返事をして、カインと手をつないだままアルンディラーノの顔が見える位置に移動した。
「あの日、積み木でお城を作ったんだ。とても高く積んでカッコよく出来たから完成した! って言ったらみんながこっちを見てすごいすごいってほめてくれたんだ。でも、お話にむちゅうでこっちを見てない女の子のグループがいて、こんなにすごいのを見ないなんてもったいないって思って、こっち見て! って言ったのにこっちみないから、つみきのそばまでつれてきてあげようとしたんだ」
「ちがうよ。うさぎの耳はなんでながいのかってなぞなぞをしてて、まだケーちゃんが答えをかんがえてるところだったから、あとでっていったのにいまみて! ってひっぱったんだよ」
「あとでって言ってなかったよ!」
「いったもん! でんか自分の声おっきーからきこえなかったんだよ!」
「おっきくない! そっちの声がちいさすぎたんだ!」
だんだんと二人の声が大きくなってくる。カインとつないでない方の手でお互いにつかみ掛かりそうだ。カインは両腕を持ち上げてつないだままの二人を半分ぶら下がったような状態で引き離すと、空を見上げて二人に聞こえないようにそっとため息をついた。
「二人とも落ち着いて」
足はついているけどかかとが少し浮くぐらいに持ち上げられた四歳児二人は、カインを挟んで両側に離された。七歳と四歳の三歳差があるとはいえ、カインも精一杯手を上にのばさないと二人の体を引き上げるのは難しい身長差なので、まるで万歳しているような格好になっている。そのまま、腕を前後に大きく振ってぶら下がっている二人がつられてあわあわと足を動かすのを見て手を下げて一歩下がった。
手はつないだまま、カインはしゃがみ込むと二人の顔を交互に見つめる。
「落ち着いた?」
「うん」
「はい」
「良かった」
にっこり笑うと、二人ともホッとしたような顔をした。
カインはまずディアーナの顔を見つめて困ったような顔を作った。
「ディアーナ。声をかけられて、お返事するときはちゃんと顔をみてしなくてはダメだよ。大勢いるところなら、誰に対する返事なのか解らなくなってしまうからね」
「でもお兄さま。見てっていわれたすぐ後にあとでっていったもん」
だから、見てという言葉に対する返事だとわかるでしょ? とディアーナは言いたいのだろう。
カインはゆっくりと顔を横に振ると、
「ディアーナその時、別の子とお話していたのでしょう? ケーちゃん?」
「うん。ケーちゃんがなぞなぞの答え考えてて、ヒント言ったりしてた」
「そうしたら、殿下にはディアーナとケーちゃんのお話の続きに聞こえたかもしれないよ?」
「えー」
「だって、もしかしたらケーちゃんにもっとヒントちょうだいっていわれて、次のヒントはあとでって言ったかもしれないって思うかもよ? だって、ディアーナはそのときケーちゃんのお顔を見ていたんだから」
ディアーナは返事をしなかったが、バツが悪そうな顔をしている。それをみてカインは笑顔を深めた。きちんと説明すれば理解できる賢い子だ。やっぱりディアーナは世界一の妹だ。
家の中では皆がディアーナを優先してくれるので、ディアーナが投げやりな返事をする事がそもそもない。あったとしても、カインの視界の範囲で事が起これば、優しく誘導するようなやり方で注意を促すので、ディアーナが悪いよと注意されるのは初めてだった。
「偉いね。ディアーナは賢いね。もう、次はちゃんと相手のお顔をみてお返事できるね?」
「うん」
素直に頷くディアーナの頭を撫でたかったが、両手が塞がっていることに気がついたカインは、つないだままの手を持ち上げて手の甲で優しく頭をなでた。
そして、ディアーナがエヘヘと笑ったのを見ると、今度は振り返ってアルンディラーノと視線を合わせた。
「殿下。殿下も、声をかけるときは相手の顔を見てください。王族ですから、一度に沢山の人へ声をかける事ももちろんあるかと思います。でも、この前はディアーナとケーちゃんに振り向いてほしかったのでしょう? だったら、ディアーナとケーちゃんの前まで行って、顔を見てから『お城を見て』って言えば良かったんです」
「でも、最初に見て! って言ったときに他のみんなは見てくれた……」
「遠くにいたり、他のことに夢中になっていたら意外と他の声は聞こえなくなるものなのです。後ろから声をかけるときは、名前を呼びましょう。そうしないと、後ろから聞こえた声は、自分に対しての呼びかけなのかどうか解らないのです」
「でも、あのときはまだ名前知らなかったもん……」
「そうですね。だから、前まで行って話しかけなければいけなかったんですよ」
そこまで優しく語りかけていたカインだが、顔を厳しく引き締める。視線を強くしてアルンディラーノを睨みつけた。
「声を無視されたとしても、後回しにされたとしても、女の子の腕を引っ張って良い理由にはなりません。先ほど謝罪されたのでこのことについてもう責めませんが、今後は決して女の子に乱暴な事をしてはいけません」
コレだけは絶対に言い聞かせなければならない。万が一王太子ルートへの道を回避できなかったとしても、王太子そのものが女の子につらく当たることに罪悪感を持つ人間になってくれれば、おっさんへの下賜などという扱いだけは避けられるかもしれない。
ディアーナの悪役令嬢化を回避し、王太子との婚約を阻止する。それがカインの自分に課した使命だが、保険はいくら掛けておいたって足りないなんて事はないのだ。
「意地悪な女の子が相手でも?」
「意地悪な女の子が相手でもです。意地悪に意地悪で返してはだめです。出来る男は意地悪を華麗に回避するのです」
「女の子が先にぶってきても?」
「そもそも、女の子にぶたれないように行動するんですよ。とても難しい事ですが、殿下は王子なのだから出来るようにならなければなりませんよ」
アルンディラーノは、カインに言われたことを一生懸命考えている。拳を口に当ててうーんうーんと唸っている。
「わかった。僕は王子だから、僕が我慢すれば良いんだね」
わかってない。
「ちがうよ。お兄さまは、ちゃんと顔を見てお話ししましょうねって言ったでしょ」
そばで聞いていたディアーナが話に割り込んでくる。
「あとでって顔見ないでお返事したのがいじわるだとするとね、王子さまがディアーナこっちみて!っていってたら、ディは振り向いてからあとでっていったとおもうの」
「ディアーナは賢いね! そうだよ。そう言うことだよ!」
カインはついにつないでいた手を離してディアーナの頭をしっかりなで始めた。
「殿下。最初から意地悪な女の子なんていないんです。意地悪したくなる何かがあるんですよ。だから、殿下が先にその何かを取り除いてあげるんです」
最初から意地悪な女の子なんていない。それはディアーナの事だ。ディアーナだって産まれたときから悪役令嬢なのではないし、カインが大切に育てているから今のところは可愛くて素直で良い子でめっちゃ可愛い女の子だ。
カインは、前世のアラサーサラリーマン(外回り営業職)の記憶から、最初から意地悪な人間も存在することを知っている。原因などなくとにかく周りに悪意を振りまくのが楽しいという人間がいることを知っている。でも、それをここで言っても仕方がないし、王子という立場ならそう言う悪意のある人に当たることもそうそうはないだろう。
「誰だって、優しくされたら、優しく返します。どうか、優しい王子様で、あろうとしてください」
カインが言葉を小さく区切りながら話す。どうかこの幼い王子に伝わりますように。けして、我慢してほしい訳ではないことが、伝わりますように。
「良くわからないけど、わかった。我慢するんじゃなくて、優しくする。わかった」
コクコクと頷くアルンディラーノの頭を、えらいですねーと言いながらディアーナが撫でる。遠慮なくなでるので髪の毛が乱れていく。
「えらいですね、殿下」
カインも、アルンディラーノとつないでいた手を離して頭を撫でる。カインの手とディアーナの手で左右から頭をなでられて、アルンディラーノの首はグルングルン回っているが、その顔は嬉しそうだった。カインとディアーナによる王子様の頭ナデナデまつりは、侍女から食堂に移動しますよと声を掛けられるまで続いた。