王妃主催の刺繍の会

ディアーナの羽根ペンおねだり事件から、季節が一つ移ろうころ。母エリゼが、王宮から帰ってくるなり「次回はディアーナも連れて行きますよ」と言った。エリゼは今日『王妃主催の刺繍の会』に参加していた。

王妃主催の刺繍の会とは、王妃様と一緒に刺繍をしましょうという会で隔月で開催されており、基本的には侯爵以上の上級貴族しか参加できない。その上「刺繍には興味ないけど王妃様とお近づきになりたいわ!」という下心で参加するとすぐに見抜かれ逆に嫌われるという、結構ガチな会らしい。

各々自分で目標をたて、そこに向かって努力し、わからないところをお互いに教え合って皆で技術を研鑽していこうという趣旨らしく、エリゼも毎度宿題を持ち帰っていたりする。

ちなみに『王妃主催の詩集の会』という、詩歌を楽しみ、季節ごとに詩集を出す会もあるらしい。母はそちらには興味が無いらしく参加していない。

「ディアーナを連れて行くんですか? ディアーナはまだ刺繍をしたこともないのに?」

ディアーナではなく兄であるカインが聞き返す。話題の本人はきょとんとして母を見上げていた。

「誰にでも初めてというものはあるものです。初めから高い技術に触れるのは良い事だと思いませんか? カイン」

「お母様の言うとおりです。ですが、それならお母様の手引きでも良いでしょう。お母様の刺繍はとても美しいし、手も早いではないですか」

この世界では刺繍は師事して習うというものではない。母から娘へ、その技術や図案、ちょっとしたコツなどを伝えて行くものだとされている。だから、カインの言うことは至極まっとうな意見ではある。

「もちろん、次の会までに基本はわたくしが教えます。ディはきっと優秀ですからね。刺繍仲間に自慢したいのですよ」

「その会に、王太子殿下は参加されますか?」

カインの心配事は、これだ。ディアーナが刺繍のつたなさで恥をかくとか、大人の集まりに参加してもつまらないのではないかとか、そんな心配はしていなかった。

ディアーナは存在自体が奇跡のように尊く可愛らしいのだから、全人類から愛されるべき存在であり、ぞんざいに扱われることなど杞憂だとカインは真面目に思っている。

カインの心配事は、ディアーナが王宮へ行くことそのもの。王太子と会い、婚約を結ばれてしまうことだ。

ド魔学の王太子ルートでは、主人公と結ばれるために邪魔となる婚約者のディアーナは、形だけ結婚した後地方のおっさん貴族に下賜されてしまう。そんな不幸な目にディアーナをあわせるわけにはいかない。王太子との婚約は何としてでも阻止しなければならないのだ。

「カイン。あなたは何を考えているのですか……」

「お母様。王太子殿下は、刺繍の会に参加されるのですか?」

「わかりません。王妃様のお心次第ですね」

カインの重ねての質問にエリゼはそう答えたが、エリゼの目が一瞬泳いだのを見逃さなかった。誤魔化されたが、来るのだ。王太子が。お見合いまで行かなくても、顔見せの意味合いがあるのだ。

「お母様。次回の刺繍の会、僕も連れて行ってください」

「……え?」

「ディアーナだけでなく、僕も刺繍の会に連れて行ってください」

「刺繍に興味もないのに行っては、王妃様から不興をかいますよ?」

「あります! 刺繍にめっちゃ興味あります!」

「カイン様、言葉遣い」

「あります! 刺繍にとても興味あります!」

じっとりとした目でカインを見つめるエリゼ。真剣な眼差しでエリゼを見返すカイン。根負けしたのは、エリゼだった。ため息を吐くと、侍従に持たせていたカバンから一枚の紙を取り出してカインに差し出した。

「次回の刺繍の会で御披露目する事になっている図案です。写しをあげますから、次回の会までに完成することが出来たらあなたも連れて行きましょう」

覚悟を見せろ。エリゼはカインにそう言っているのだ。

「機会をくださり、感謝いたします。お母様」

うやうやしく図案を受け取ると、深く頭を下げた。


その日の夕食後、カインの私室にて。

「おまえ、刺繍なんか出来るの?」

イルヴァレーノが、どさりと大量の布の切れ端をローテーブルに載せながら聞いてくる。カインに言われて洗濯担当のメイドから貰ってきた廃棄前の布などだ。もちろん、刺繍の練習用である。

使い古して生地が薄くなっているものは刺繍には向かないからと、落ちない汚れが端に付いてしまったテーブルクロスやシーツ等をハンカチ程の大きさに切り分けてくれた物だ。

「出来ないから練習するんだろ」

そう言ってハンカチ大の布切れを一枚手に取り、母から借り受けた刺繍枠にはめこむ。

「嫌な予感がするが、聞いても良いか」

「なんだい? イルヴァレーノ」

イルヴァレーノがカインの手元を指差す。カインは二つ目の刺繍枠に布をはめこんでいた。何故か刺繍枠が二つあるのだ。

「なんで、刺繍する道具が二つあるんだ?」

「おまえもやるからに決まってるだろ」

「なんでだよ」

カインは刺繍枠を一つイルヴァレーノに押しつけると、図書室から借りてきた刺繍の本を開いた。

「糸を引くって何……え? 糸ほぐすの……なんでほぐすの……」

カインは二人掛けソファーに斜めに座りながら片膝を立て、靴を脱いだ足先で本が閉じないように押さえている。質問に返事もしないで本に集中しているカインに向かってため息を吐くと、学習用に使っている机からブックスタンドを持ってきた。

「行儀が悪い。ある道具は使え」

「サンキュー」

「さ? 何?」

「古の遠い国の言葉でありがとうって意味だよ」

そう言ってブックスタンドに開いた本を立てかけてクリップで閉じないように固定する。もう一冊借りてきた別の初心者向けの本を向かいに座るイルヴァレーノに押しつけた。

イルヴァレーノは仕方なくパラパラとめくるが、全くの未知の世界だった。図解されていたりもするが、その図の見方さえわからない。

「それこそ、奥様に教えを請えば良いじゃないか」

「それはなんか負けた気がするからヤダ」

「負けず嫌いめ」

イルヴァレーノは手に持っていた刺繍枠をテーブルに置くと、一人用のソファーに座って刺繍の本を改めて読み始めた。カインは読みながら実践していくタイプで、イルヴァレーノはじっくり読み込んで理解してから実践に入るタイプだった。夕飯後の自由時間にチクチクと刺繍の練習をする男子二人。

「ここまで縫って思ったんだけど」

「なんだよ」

刺繍枠いっぱいに糸が縫われている布を眺めながらカインがボソリとつぶやく。布には、五ミリの縫い目が同じ幅ずつの間をあけて縫われている。

「ランニングステッチって、普通の並縫いと何が違うの?」

「なにがだよ……これは、並縫いじゃないか?」

刺繍はしたことが無くても、孤児院で繕いもの等をやっていたイルヴァレーノ。カインの刺繍練習の差し跡を見て並縫いだと判断した。

「『布の下から針をだし、五ミリ隣に布の上から針を刺す。次は五ミリ隣に布の下から針を刺す。これをなるべくまっすぐに繰り返します』これを言われたとおりにやってみたんだけど」

「それは並縫いだな」

「読み方が悪いんだろうか……?」

「糸が太くて模様に見えれば普通に縫っていても刺繍ってことになるんじゃないか?」

「それだ!」

納得したカインはページをめくってまた新しいステッチに挑戦しようとしている。イルヴァレーノは図案を布に写してとりあえずチェーンステッチで縁取りを縫い始めた。

「バックステッチって、本返し縫いとは何が違うんだ?」

「またかよ。……これは、本返し縫いだなぁ……」

「刺繍界ではこれをバックステッチって呼んでるって事にする」

「それがいいな」

カインは、布の端から端までバックステッチで縫っては折り返し、また布の端までバックステッチで縫う。ということを繰り返している。縫い目が布いっぱいになると、最後の方は目が均等でまっすぐに縫えるようになっていた。

自分の刺繍枠を改めて眺めたカインは「よし」とつぶやくと布を枠から外して新しい布をはめ込んだ。

「地道だな、そのやり方で次の会までに間に合うのか?」

イルヴァレーノがカインの外した布を拾って眺めながら聞く。自分の手元の刺繍枠には、図案の下書き線と三分の一ほどが糸で埋められている布がはめられている。とりあえず幅の稼げるチェーンステッチで図案を埋めていこうという作戦らしい。

「急がば回れだ。基本をはじめにしっかり身につけておいた方が後々楽なんだよ」

「お前のそういうところ凄いと思うけどな……」

「思うけどなんだよ」

「ディアーナ様と王太子殿下の婚約阻止とかいう妄想の為にやってるかと思うと素直に尊敬できないなと」

そもそも、本当に次回の刺繍の会に王太子と貴族令嬢の顔合わせの意図があるのかも怪しい。そうだとしてもおそらくディアーナ以外の令嬢も呼ばれてるんじゃないかとイルヴァレーノは考えていた。その場合、必ずしもディアーナが選ばれるとは限らない訳だし、こんなやったこともないしやる必要もない刺繍なんかをしてまでついて行く必要ないんじゃないかと思っている。

その事を素直に口にだしたら、

「ディアーナ以上に可愛い女の子なんていないんだから選ばれてしまうに決まってる!」

とカインが言い出して受け入れられなかった。

「まぁ、切っ掛けのひとつだよ。どんな事だって出来ないよりは出来た方が良い。イルヴァレーノだって、刺繍が出来るようになったら孤児院の女の子たちに刺繍を教えてやれるじゃないか」

「……」

「刺繍が出来れば、奉公先の選択肢も増えるんじゃないか。雑用として雇われるのではなく、お針子として雇われれば出世だって出来るかもしれないよ」

「……カイン様」

「給金を孤児院に入れるなら、一部は布と刺繍糸の現物で差し入れすれば良いよ。全部お金で入れると衣食住に優先的に使われるだろうし、教育費用にまでは中々回せないだろうしな」

孤児院には多くは無いが借金もあるらしく、そちらへの返済に充てられたりもしているようだった。母エリゼの言っていた「ちょっと豪華な食事」や「建物の修繕」にまではなかなか回らないみたいだった。カインの寄付した絵本もいくつかは金に替えられてしまったようだったが、子ども達が飢えるよりは全然良いと思っていた。

イルヴァレーノはやりかけの布を枠からはずし、新しい布をはめ込んだ。

「俺も基本からやっていく事にする」

「そうかい」

二人でチクチクと布を針で刺していく。端まで縫って裏側で糸をくぐらせて、ハサミで糸を切るパチンという音が響く。

「カイン様、ありがとう」

布から目を離さず、うつむいたままでイルヴァレーノがつぶやいた。

「どういたしまして」

うつむいたままのイルヴァレーノは、カインが嬉しそうな笑顔で答えた事に気が付かなかった。


カインとイルヴァレーノが夕食後の時間を刺繍の練習に充て始めてから一週間程が経ったある日。ディアーナが部屋へやってきた。

「にいさまー。あそんでくださいー」

小さな腕に、絵本とぬいぐるみと小さな黒板を抱えている。遊ぶ準備は万端である。

「ディアーナ。お母様と刺繍の練習をしていたのではないの?」

やりかけの刺繍枠をテーブルに置いて、ディアーナに駆け寄りひざまずくカイン。頭をなで、おもちゃごと抱きしめ脳天の匂いをクンクン嗅いでいる。

「ししゅーつまんないんだもん……」

ディアーナがしょんぼりした顔でそういうとカインはおや? と首をかしげて見せた。

最初、ディアーナは母エリゼから刺繍を教わるのを楽しんでいたのだ。公爵夫人として日中忙しくしているエリゼはなかなかディアーナを構う時間がない。食事の時間やお茶の時間は一緒に過ごす事も多いがカインも一緒だし時折父も同席する。そんな母を、刺繍の練習を見てくれる間は独り占め出来るのだ。ディアーナは張り切っていたしお母様に褒めてもらうんだ! とやる気に満ちあふれていた。

それなのに、

「刺繍つまらない?」

「ぬのにお絵かきするよっていってたのに、まっすぐまっすぐばっかりいわれてつまんない。おかあさまうそついた」

(ねぇ、このプックリ膨らんだほっぺた超かわいくない? マジ天使じゃない? 怒ってても可愛いとか人類の宝じゃない?)

という顔で振り向くカインに対して、

(まじめに話を聞いてやれ)

と顎を振ってあっち向けと返事するイルヴァレーノ。

「ディアーナ。お母様は嘘ついてないよ。こっちおいで」

「にーさま?」

カインは立ち上がるとディアーナの手を取り、ローテーブルのそばまで連れて行く。練習で糸を刺し終わった布の山から一枚取り出して広げて見せた。

「ほら、これは僕が刺繍したんだよ。なんだかわかる?」

それは、基本のステッチを一通り練習し、曲線縫いを練習するために刺したものだった。輪郭だけだが絵になっている。

「耳が短いうさぎさん!」

「いや、それクマさ……いってぇっ」

「そう! 耳が短いうさぎさんだよ!」

本当はクマを刺繍していた。クマと言いそうになったイルヴァレーノが後ろですねを押さえてうずくまってるがカインは無視した。

ディアーナがウサギといったらウサギなのだ。

「そしてこっちが、耳が長くなったうさぎさんだ!」

「うさぎさんだ!」

ディアーナのお気に入りの絵本に『うさぎのみみはなぜながい』というお話がある。物語の冒頭では耳の短いうさぎが、紆余曲折あって耳が長くなるという物語だ。

ディアーナは、クマの刺繍を絵本冒頭のうさぎと言ったのだった。

「これ、にーさまがししゅーしたの?」

「そうだよ。ほらこれは」

「あっ! やめろよ!!

カインがテーブルからもう一枚の布を取ってディアーナに見せた。そこにはチェーンステッチの太い線で描かれた蝶が飛んでいた。

「ちょうちょ!」

「そう! 蝶々だよ。よくわかったね。やっぱりディアーナは賢いね。物知りだね。偉いね。これは、イルヴァレーノが縫ったんだよ」

「イルくんが?」

カインに撫で回されながら、目をまん丸くしてイルヴァレーノを見上げてくる。イルヴァレーノはバツが悪そうに視線をそらしながら「そうだけど……」とモゴモゴ返事をしている。

ちなみに、イルヴァレーノがイル君と呼ばれているのは、使用人として邸に戻って来た際に「イル兄様と呼んではいけない」と諭した際に、口が回らずイルヴァレーノと呼べなかったのと母エリゼがイル君と呼んでいたことから、ディアーナもそう呼ぶようになってしまったのだった。

「ね、僕やイルヴァレーノは布にお絵かき出来ているよ。ディアーナも糸と針でお絵かきしてみよう?」

「やる! ディもお絵かきする!」

「やったー! ディアーナはなにを描く~? うさぎさん? くまさん?」

「うさぎさん!」

「よーし! うさぎさんね!」

カインは座面に置いてあったブックスタンドを床にどけてディアーナをソファーに座らせた。

真っ白い布を一枚取り出してテーブルに置くと、色付きチャコペンをディアーナに握らせた。

「まずこの布にうさぎを描いてね」

「はぁい」

ふんふんと鼻歌を歌いながらご機嫌で絵を描くディアーナ。その隣に座ってやりかけの自分の布を枠からはずしているカイン。

「できたー!」

と自慢げに見せてきた布をディアーナから受け取ると、刺繍枠に嵌め込んで手渡した。

「チクチクする練習はお母様としていたんだよね? 今度は、このディアーナが描いた線をチクチクしながらなぞるんだよ」

「せんのとおりにぬうのね? まっすぐまっすぐじゃなくていいのね?」

「まっすぐじゃなくて良いんだよー。線からズレたって良いんだ。まずはやってみよう?」

「うんっ」

ディアーナが、小さな手で針を持って布を縫っていく。指を刺さないように、枠を持つ手や針を持つ手に時々手を添えて誘導しつつ、その一生懸命な姿に尊死しそうにこれでもかと背骨をそらして嗚咽を漏らすカインであった。

下絵の線からして歪んでいたうさぎが、ガタガタのランニングステッチでさらに愛嬌のある形に仕上がった。うさぎの胸元にカインが蝶ネクタイを追加で刺繍し、イルヴァレーノが隙間に小さな花を散らしていく。

三人の合作で『お花畑のお洒落なうさぎさん』になった刺繍の絵を嬉しそうに眺めるディアーナ。

「ディのかいたえがちゃんとえになった……」

うさぎはだいぶ歪んでいたが、ディアーナは感動しているようで、上から見たり持ち上げて下から見上げたり、裏からみてもじゃもじゃしてることに笑ったりしていた。

「お母様は嘘ついてなかっただろう?」

カインが顔を覗き込んで聞けば、ディアーナは大きく頷いて笑った。

「おかあさまに見せてくる!」

そう言ってディアーナは刺繍枠を持ったまま部屋を出て行ってしまった。開けっ放しにされたドアを見つめるカインとイルヴァレーノ。

「刺繍枠持ってかれてしまいましたね。今夜はもう寝ますか」

「……そうだね。連日夜更かしして練習してたしな……」

カインはイルヴァレーノに寝間着に着替えさせてもらい(侍従として主人を着替えさせる練習中なのだ)布団に入って目を閉じた。

イルヴァレーノの部屋はカインの部屋に続いている使用人の部屋だが、普段は一度廊下へ出てから隣の自室へ戻る。

室内のドアはドアと判らないように隠し扉になっている。いざという時、緊急事態の時にはこの隠し扉を使って出入りするが、今はその時ではないので廊下を通って戻る。

刺繍の会まで、あとひと月半である。

翌朝の朝食時、カインは母エリゼから「またカインばっかりディに頼られてズルイ!」と怒られ(?)、その三日後には刺繍枠が母から贈られた。

枠の外側に蔦と月と星が、内側には名前が彫刻された物で、カインは青、イルヴァレーノは赤い物をそれぞれ手渡された。

母エリゼは「道具を贈ったからといって刺繍への姿勢を認めたわけではありませんからね。王宮に行きたければ引き続き刺繍を頑張りなさい」と言っていた。

イルヴァレーノは、名前の入った自分だけのものを手に入れるのは初めてだと嬉しそうにしていた。ディアーナは「にいさまとイルくんばっかり! ディのは!?」と自分の分が無いことに抗議していたが、母エリゼから「お兄様やイル君ぐらい一生懸命刺繍に取り組んだらディにも贈ります」と言われて刺繍にやる気を出し始めた。

そして王妃主催の刺繍の会前日。カインは完成させた刺繍を母エリゼに見せた。

図案は、白と黒の狼が向かい合って遠吠えをしているところで背景に花と月も配置されている。

王家の紋章が二匹の狼なのでそれにちなんだ図案なのだろうが、紋章とは意匠が全然違うのでちなんだだけの課題としての図案なのだろう。

カインは、狼の毛並みを表現するように糸の流れを意識して刺繍していた。図案で指定されていなかったが、灰色や銀の糸で毛づやのハイライトも表現している。月も左上を明るく、右下を暗くして陰影を表現し立体感を出している。

イルヴァレーノは単調な色使いで立体感や毛づやのハイライトなどは入っていないが、二月前までは針も持ったことがないような子どもが図案すべてを埋めただけでもたいしたものだとエリゼはため息を吐いた。

「仕方がないわね。明日はカインも王宮に連れて行きます。イル君もがんばったけど、明日はお留守番ね」

エリゼはイルヴァレーノも行きたくて刺繍を頑張ったのかと考えての発言だったが、

「イルヴァレーノは明日は里帰りです。僕が不在で身が空くので、先月の給金で土産を買って行くのだそうです」

「あら、そうなのね。そういえばお休みはちゃんと取っていたかしら? カインが離さないからって何でも言うことを聞いてはだめよ。ちゃんと休みは取りなさいね」

エリゼの心遣いに感謝して頷きつつ、カインの発言に「なんで言うんだよ」という無言の抗議をイルヴァレーノは視線で送ったが無視された。

カインの意図は翌日、孤児院に向かう際にエリゼから沢山のお土産を渡されることで判明するが今はただのおしゃべり野郎にしかおもえなかった。

ディアーナも、ランニングステッチ、バックステッチ、チェーンステッチの三つのステッチを覚えてりんごやサクランボなどの単純な図柄を刺繍で塗りつぶすことが出来るようになっていた。

それについても、やはり母エリゼから苦言を言われたカインだが「名選手名監督にあらずですよ」とよくわからない慰めをしていた。

「ディアーナ。明日行く王宮では、僕から離れてはいけないよ。極悪非道の悪い王子様がディアーナを食べようと待ちかまえているんだ」

「わるいおうじさま!?

「カインっ! 何てこと言うの!」

「ディアーナの可愛らしさの前には、世の中のすべての男が欲望に心を乗っ取られ理性を失い暴徒と化しても不思議ではありません」

「……カインは、どうしてこうなのかしら……。明日は、王太子殿下だけではなく同じ年頃の子たちが男女関係なく連れてこられるのです。ちゃんと皆と仲良くなさい」

エリゼが額を押さえて頭を振る。

カインがディアーナを溺愛しているのは以前からだが、こんなではなかったはずだ。孤児院で同じ年頃の子たち、女の子だけでなく男の子も含めて友達になったときにはそんなに拒絶反応を示していなかったはずなのに、とエリゼはこめかみを揉む。

もともと刺繍の会にあわせて、王太子のお嫁さん候補と顔を合わせておこうと言うのが最初だったのはカインの思った通りだった。刺繍の会の参加者が侯爵家以上という縛りがあるので、わざわざそのためのお茶会などを開くよりも身元のしっかりした娘だけを集めることが出来る。その上非公式な集まりなので伯爵以下の家から文句を言われる事もないので都合が良かったのだ。

ただ、その年頃の女の子が集まるなら、ウチの息子や孫のお嫁さん候補にもなるじゃないかと、男の子も連れてきたいとの意見も出たため、結局男女問わず三歳~五歳くらいの子を連れて来ても良いと言うことになった。

「ディ。ディアーナ。明日は、同じくらいの年の子が沢山来ます。お友達になれるように、ちゃんと挨拶をして仲良くするのよ。悪い王子様なんていないのよ」

「お友だち! いしはじきする!? つよいいしひろいに行く?」

石はじきは、孤児院の子たちに教わった遊びだ。貴族の子たちはやらないだろう。

「明日は室内だから、石はじきはやらないわ。みんなにディの頑張った刺繍を見てもらいましょうね」

「いしはじきしないの……」

カインは、あれ以降三回ほど孤児院に行ってるがディアーナは一度も行っていない。両親から外出許可が出ないからだ。

四歳のディアーナは両親不在での外出はまだできない。カインも護衛の騎士に空きがある時でないと出かけることはできないが、ディアーナよりは自由度が高かった。男の子と女の子の差もあるだろうが、カインの発言や行動に子どもらしさが薄いのも理由かもしれなかった。

「カイン。あなたはオマケなのだから明日は大人しくしていなさい。刺繍に興味があると言うから連れて行くのですからね。ディアーナにばかり構う様だったら途中でも追い返しますからね」

エリゼが厳しい顔でビシリと人差し指を突きつけてきた。

ディアーナと王太子の逢瀬を邪魔する気で参加を申し出た事は母にはお見通しで、釘を刺されてしまったカイン。しかし、そもそも連れて行ってもらえなければ現場の様子すらわからなくなってしまうので頷くしかなかった。

「承知しております、お母様」

渋々、苦渋、致し方なくというのがありありと浮かんだ顔で承諾するカインに、母エリゼは不安しか感じられなかった。


いよいよ王妃主催の刺繍の会の当日。

刺繍の会に向かう馬車の中。カインはディアーナを膝の上に乗せて一緒に窓の外を見ていた。こうして見ていると、ただ仲の良い兄妹なのにとエリゼは思う。

二人はとても似ている。父譲りの金色の髪に母譲りの青い目。少しつり目がちだがくりくりと大きい目なのでキツイ印象はなく、愛らしい顔をしている。

カインはディアーナが絡むとたびたび顔面が崩壊しているが、普段は朗らかに優しく笑っている。ディアーナは四歳の子どもらしく声を出して大らかに笑う。泣いたり怒ったりビックリしたり、表情がコロコロ変わるのでカインとは印象がだいぶ異なる。

そのせいで、あまり似てない兄妹だと親戚に言われることもあるが、こうして大人しく窓の外を眺めてる様子などはそっくりだった。

「くれぐれも、ディに構い過ぎないように。カインはきちんと刺繍の会の方に参加する事」

「何度も念を押さなくてもわかってます。刺繍を極めて、ディアーナの花嫁衣装に僕が刺繍を施すのを目標にしますよ」

何度目かわからない注意をカインに言いつけたら、思いも寄らない返事が返ってきた。エリゼは目を丸くして問いかける。

「カインあなた……ディアーナを嫁に出す気はあったのね」

その言葉を聞いて、カインは苦笑いした。

「僕を何だと思っているのですか。ディアーナの幸せが僕の何よりの願いですよ」

「兄バカ過ぎて手放す気がないのだと思っていたわ」

「そんなわけないでしょう。ディアーナを誰よりも幸せにする事が僕の人生の目標ですよ。万難を排して、ディアーナには誰よりも幸せになってほしいと思っています」

カインは仄暗い瞳をして口だけで笑った。

王太子と婚約しても、王太子がヒロインを選べば年寄りへ下賜される。ヒロインが騎士見習いに恋をすれば魔王に体を乗っ取られて殺される。ヒロインが暗殺者に心をよせればヒロイン以外皆殺し。何度も、何度も、ヒロインプレイヤーが誰かに恋をすれば、悪役令嬢ディアーナが不幸になる。自分プレイヤーが何度もディアーナ悪役令嬢を不幸にした。

たかが、前世でプレイしたゲームのシナリオだ。ここは似た世界であるが、今の自分にとっては現実だ。シナリオ通りになるとは限らない。そもそもヒロインなんていないかもしれない。

それでも、カインは心に誓う。

今度こそ。今度こそ、ディアーナを幸せにする。

「だいたい、年齢的にはディアーナのプレお見合いより先に僕のお見合いがあってしかるべきでは無いんですか」

「……あなた、結婚したかったの?」

「公爵家の嫡男なんですから、しないわけには行かないでしょう。まぁ、三歳差ぐらいなら姉さん女房も有りでしょうから、王太子殿下の婚約者が決まってからじゃないと僕の婚約者は決められないのかもしれませんけど」

「時々、あなたが七歳であることを忘れそうになるわ」

頬に手を添えてエリゼはため息を吐く。親から見ても詰めすぎと感じる学習スケジュールを淡々とこなし、家庭教師達はみなカインの吸収の良さを褒め称える。子どもらしい我が儘はあまり言わずに妹の面倒もよく見る出来た兄。

放って置いても自分で何でもしてしまうので親らしく構ってやることが少なかったかもしれない。自分が与えられなかった愛情を妹に注ぎ込むことで欲求を満たしているのかもしれない。

そう考えて、エリゼは帰ったらカインを甘やかしてやろうかと思案した。

「カインの好みはあるの? お嫁さん貰うとして」

「僕と一緒にディアーナを愛してくれて、僕がディアーナを優先しても嫉妬しない女性ですかね」

「……本当に結婚する気あるのかしら?」

「にいさまおよめさんもらうの?」

「いつかはね。直ぐではないよ。もうしばらくはディアーナの兄様として側にいるよ」

「ディがにいさまのおよめさんになってあげようか?」

ディアーナが可愛らしく、小首を傾げて見上げながらそんな事を言う。

ディアーナの背後から光が溢れ、馬車の中は花が咲き乱れて蝶が舞う。祝福のラッパを吹きながら天使が舞い降りバラの花びらをまき散らす。春風のように暖かく柔らかい風が吹きディアーナの髪を緩くなびかせ、その背中からは白い羽がバサリと生えて広げられた。

「カイン、顔を整えなさい。間もなく王宮に着きます。ディアーナも、兄様の尊厳のために王宮ではあまりカインに甘えないこと」

エリゼがカインの崩れた顔をみて眉をひそめる。とても人前に出せる顔ではなかった。

「そんげん」

「お兄様にカッコよくいてほしかったら人前でお兄様に甘えてはいけません」

「ハイッ!」

ディアーナが元気よく手をあげながら返事をした。

馬車は王宮の門をくぐり、王妃の来客用サロンのある棟へと到着した。


サロンへ入るといきなり王妃様がいた。母と同じ年頃の女性で、シンプルなデザインながら上等な生地を使っていることが一目でわかる光沢のあるワンピースを着ている。二匹の狼の紋章が刺繍されたタスキのようなものを肩から下げていたので、王妃様であることが一目でわかる。

「カインとディアーナね。会えるのを楽しみにしていました」

「参加をお許しいただきありがとうございます。おめもじ叶いまして光栄でございます」

「おめおじかなまして、こーえいでござーます」

カインが右手を胸に当てて腰を傾けると、ディアーナも真似して右手を胸に当ててコテンと首をかしげた。ディアーナは頭をかしげると反対の手がピコンと横に伸びてしまう。

「ふふふ。しっかりしているわね。でも、刺繍の会の最中は無礼講よ。姿勢を戻して頂戴」

優しく笑う様は国母と呼ぶに相応しい慈愛に満ちた表情だった。ゲーム中に王と王妃が出てきた覚えはないので、本当に初めましてだった。この優しそうな女性の子が、他に好きな女性が出来たからと婚約者を遠い領地に下賜するような男に成長するのかと思うと複雑な思いになるカインだった。

「王妃様こんにちは」

「こんにちは、エリゼ」

王妃と母エリゼが簡単な挨拶だけで済ませているのを見るに、本当に無礼講なのだろう。

「王妃様のいる場で無礼講など、大丈夫なのですか?」

「侯爵家以上の者しかいないから大丈夫なのですよ」

無礼講といえど、マナーが徹底的に叩き込まれている上級貴族の子女のみの集まりだから大丈夫という事だろうか。母について、大きな円形のテーブルに並べられた椅子の一つに座る。サロンは広く、庭に面した半分は温室のようにガラス屋根とガラス壁になっている。本日は子どもが多く来ることを想定してか、大きくてふかふかのラグが敷いてあり、絵本や積み木などが置いてある。

母がカインを座らせた後にラグの方で年頃の子達と遊んでおいでとディアーナの背を押している。

すでに到着して遊んでいる子どもたちに駆け寄り、挨拶をして遊びに交じるディアーナを、カインが切なげな視線で見つめている。

「ディアーナにも、同じ年頃の友達が必要よ」

「わかっていますよ。僕もディアーナの結婚式のために刺繍頑張ります」

大きな円卓の席がほぼ埋まった頃に、王妃様から挨拶があり刺繍の会が始まった。

カインのやってきた課題の刺繍は、参加している夫人や令嬢達から大変褒められた。カイン自身もとても上手く出来たと自負していたし自信もあった。しかし、その後に発表された参加者達の成果物をみて「初めてにしては上手ですね」という、初心者に対する褒め言葉でしかなかった事を知る。

丁寧さが全然違った。すべてチェーンステッチで刺繍されているが糸の色変えで躍動感を表現していたり、立体感を出すのに何重にも糸を重ねて刺繍していたり、瞳にビーズを使っていたり。

その上、彼女たちは課題の他に自分たちそれぞれの作品も同時進行で刺繍をしているのだ。自分は攻略対象キャラクターだし、何だってやればやるだけ上達すると自惚れていたことにカインは反省した。

母と反対どなりに座ったのはスワンティル侯爵夫人で、今は娘の結婚式のベールに刺繍をしているのだと言った。ディアーナの婚礼衣装に刺繍をするのが目標のカインとは話がはずんだ。結婚式でよく使われる意匠やおめでたいとされる花や動物などを教えてもらったり、結婚相手の髪や瞳の色を盛り込むと喜ばれるといった話で盛り上がっていた。

ディアーナの幸せな結婚ドレス姿を想像し、ご機嫌でスワンティル侯爵夫人の刺繍の手捌きを見学させてもらっていたその時。子どもたちの遊んでいるガラス壁のテラスの方からガラガラと大きな音が聞こえてきた。

積み木が崩れてラグの外の硬質な床の上に大量に転がった音だった。音に驚いてからそちらを見ても、まだ円柱や球型の積み木がコロコロと転がっていてその崩壊の勢いがうかがえた。

崩れた積み木の前にはディアーナが立っていて、その腕が前に立つ男の子に強く引かれていた。ディアーナがイヤイヤと首を振り腕を離そうと肩を揺するのにカッとした男の子は、腕を放してディアーナの肩を突き飛ばした。ディアーナは、引かれていた腕を急に放されたのと突き飛ばされたのとで、バランスを崩して尻餅をついてしまう。

その、一部始終をカインが見ていた。

「カイン!」

母エリゼが声をかけ隣の席のカインの体をつかもうとしたが、間に合わなかった。カインの動きはそれほど速かった。椅子から飛び降りてディアーナの前に駆け込み、しゃがみ込んで顔を覗き込む。「大丈夫?」と声をかけて手を差し出した。尻餅をついてビックリしていたディアーナは「うん」と頷くが、カインがその手を取って手のひらを広げさせると、擦り切れて血がにじんでいた。

遅れてディアーナの側にやってきたエリゼは、ブチンと何かが切れる音を聞いた。

立ち上がったカインは、目の前でおろおろと立ち尽くしていた男の子の前に立つ。目をつり上げてキツく睨みつけている。

男の子は、オドオドしながらも「な、なんだよ」と強気にカインを見上げて威嚇している。

「カイン、ディの怪我はかすり傷だし控えの間に治癒魔法士も待機しているからすぐに治るわ。落ち着きなさい」

カインは母の声を無視し、一歩前にでるとガッと両手で男の子の顔を掴む。本当は片手でがっちりとアイアンクローをかまして持ち上げるぐらいしたかったが、七歳の手では無理だった。