訳者あとがき



 本書は、『馬とその少年』につづいて六番目に刊行されたナルニア国物語(原題はThe Magician's Nephewである。訳稿は、角川つばさ文庫より『新訳 ナルニア国物語 (6)魔術師のおい』として刊行したものに大幅な改訂を施して作成した。

 初版の刊行順では第六巻だが、ナルニア創世を記す内容であり、時間の流れを追うなら最初の物語ということになるため、原書の版権を持つハーパーコリンズ社では、本書をシリーズ第一巻として刊行している。どの順序で読むのがよいかの議論については、角川文庫のシリーズ第一巻『ライオンと魔女と洋服だんす』の「訳者あとがき」に詳細に記したので参考にされたい。

 作者C・S・ルイスはもともと『ライオンと魔女と洋服だんす』を一話完結のつもりで一九四九年夏に書きあげたが、友人ロジャー・ランスリン・グリーンから、ナルニアの荒れ地のまんなかになぜ街灯が立つようになったのかと問われて、その問いをおもしろく思い、『ライオンと魔女と洋服だんす』(一九五〇年十月初版)が刊行されるよりも前の一九四九年のうちに、『ライオンと~』に登場するカーク教授の少年時代の冒険物語を書きはじめ、ナルニア創世と荒れ地の街灯の謎を解き明かす仕事に着手した。しかし、「暗すぎる」として没にし、代わりに『カスピアン王子』を書きはじめた。この没となった原稿をルイスの秘書ウォルター・フーパーが発見し、「レフェイ断片」と題し、一九七九年に公表した(Walter Hooper, Past Watchful Dragons: The Origin, Interpretation, and Appreciation of the Chronicles of Narnia (1979; rpt. Wipf and Stock: 2007)収録)。「レフェイ」は、アンドルーおじさんの名付け親となったようせいの子孫として言及されるが、「レフェイ断片」ではもう少し重要な役割を果たしている。「レフェイ断片」の内容は次のようなものだ。

 ある日、気取っていて嫌な元学校教師のガートルードおばさん(『銀の椅子』の校長先生に似る)が外出中、病気だったディゴリー(のちのカーク教授)は家の裏の森へ出かけて、古いオークの木と話をする。ディゴリーには、木々や動物と会話をする秘密の能力があるのだ。パタートゥイッグという名前のリスがやってきて、ディゴリーに木の実をおやつとしてくれる(パタートゥイッグはのちに第二巻『カスピアン王子』に登場する)。ある木が、近くに人間がいると教えてくれて、ディゴリーは庭の塀にのぼってあたりを見ると、それはポリーという名前の少女だった。ポリーは庭のすみの小川に浮かべるいかだを作っているところだった。ディゴリーは、もうひとついかだを作ろうと提案する。ポリーがオークの木を切ろうと言い出すので、ディゴリーは恐怖におびえるが、ついにいやがるオークの木の腕を切り落とすことになる。やがて嵐となり、二人の子どもは家に入る。翌日、ガートルードおばさんは、ディゴリーの名付け親のミセス・レフェイがいらっしゃると告げる。その前にディゴリーはオークの木にあやまりに行くが、木々も動物ももはやディゴリーになんの反応もしない。あわてたディゴリーは、混乱のさなかに、ミセス・レフェイと出会う。ミセス・レフェイは、ディゴリーが木々や動物と話せる能力を持っていたが今はそれを失ったことを知っているらしく、ディゴリーに同情しているようだ。ミセス・レフェイは、自分の住所をディゴリーに伝えようとするが、「レフェイ断片」はここで終わっている。

 ルイスは、この書き方ではうまくいかないと断念し、代わりに『カスピアン王子』執筆に着手し、『夜明けのむこう号の航海』、『馬とその少年』と書き進める。『銀の椅子』まで書き終えた一九五〇年末にふたたび本書の執筆に取り組み、四分の三ほど書き進めるが、ロジャー・ランスリン・グリーンから構造上の問題があると指摘されてふたたびとんする。そして、一九五三年春に最終巻の『最後の戦い』を書き上げたのちに、ようやく一九五五年五月に本書をじようするに至ったのである。

 本書の執筆が難航したのは作者自身の伝記的要素が多分に含まれているからではないかと言われている。作者ルイスは、九歳のときに母親をがんで亡くしており、母を助けたいという少年ディゴリーの思いは、作者の切実な思いを反映していると考えられている。『魔術師のおい』の時代設定は一九〇〇年ごろだが、ルイスは一八九八年生まれであり、少年ディゴリーと年齢的にも重なる。ディゴリーの父親は遠くインドにいるが、ルイスの父親もアイルランドにいて、ルイスも孤独を味わっていた。ディゴリーは算数が苦手なようだが、ルイスはオックスフォード大学入学試験の数学を失敗している。ディゴリーもルイスも大学教授となり、どちらも第二次世界大戦中に疎開児童を家に住まわせている。その際、カーク教授と同様に、子どもの想像力のなさにショックを受けたとルイスは兄への手紙につづっている。その結果、ルイスは子どもたちのために『ライオンと魔女と洋服だんす』を書こうと決意したのである。

 本書の結末を読めば、『ライオンと魔女と洋服だんす』の洋服だんすがなぜナルニアへの入り口となり得たのか、なぜ森のなかに街灯があったのかなどの謎は解けるが、銀色のりんごの木がナルニアを魔女から守りつづけるとアスランは言っていた(193ページ)のに、『ライオンと魔女と洋服だんす』ではなぜ魔女がナルニアを支配しているのか、りんごの木はどうなってしまったかは語られない。

 この点については、前述のウォルター・フーパーの本に記載されたルイス自らが作成した「ナルニア年代史」が参考になるだろう。物語のなかで語られない年号が、ルイスによってつぎのようにまとめられている。

 この表によれば、898年に白の魔女ジェイディスがナルニアに戻ってきているので、それまでに《守りの木》は枯れたか倒れたかしたと考えざるを得ない。九百年近くよくナルニアを守ってくれたと考えるべきなのだろう。

 この表は作者が作成したとはいえ──あるいは、研究者なら考えられない、作者ならではの、と言うべきか──うっかりミスがいくつかある。表によれば、エドマンドは1930年生まれ、ルーシーは1932年生まれとなっているが、『ライオンと魔女と洋服だんす』50ページに、エドマンドとルーシーは「たったひとつちがい」と書いたのを忘れたのであろう。また、表に基づけば、カーク教授は、『ライオンと魔女と洋服だんす』が設定されている1940年の時点で52歳ということになるが、その最初のページにある「教授はとても高齢で、頭はもちろん、顔までぼさぼさの白髪でおおわれていた」という描写ほど高齢ではないことになる。まあ、このあたりはご愛敬ということで、あまり拘泥する必要はないだろう。

 それよりも重要なのは、本書が、キリスト教における天地創造、原罪、誘惑、禁断の果実、ノアのはこぶねといったテーマを自由にアレンジしながらファンタジーの世界に組みこんでいる点にある。禁断の果実を銀色のりんごとしたり(ちなみに聖書には「りんご」とする明確な記述はない)、動物の誕生は描いても人間の誕生は描かなかったり、天地創造の瞬間を歌声を中心とした感覚的な──中世的宇宙観に近い──イメージでとらえたりと、中世文化研究家でもあるルイスらしい描写が特徴的だ。

《世界のあいだの森》という概念を描くために、わざわざ長屋のはりの上の通路を通って冒険をはじめる設定にしているところもおもしろい。この概念は、ウィリアム・モリスのファンタジー小説『世界のかなたの森』という題名や、モリスのもうひとつの小説『世界のはての泉』からの影響があるという説もあるが、デイヴィッド・C・ダウニングによれば、十代にルイスが愛読していたアルジャーノン・ブラックウッドの小説『ポール伯父の参入』(一九〇九)にある描写に酷似しているという。ダウニングのまとめによれば、少女ニキシーとポールおじさん45歳)が芝生で寝ころんで雲をながめていると、地面にしずみこむ感じがして、気づいてみると、ふたりはゆっくり流れる川のある静かな林に来ており、ニキシーが「ふたりいっしょの夢を見ている」と言うと、ポールは「世界のかなた」に来たのだと言う。ポールはこの経験について考え、自分のなかに、自分が望むものがすべて実現する場所があるのだと気づく。それは創造的な想像力が働くところなのだ。それは「昨日と明日あしたのあいだの割れ目」であり、年をとるにつれてその割れ目は小さくなるが、子どもの心を持つポールはまだ入りこめる。その場所は、子どもの心がどこへでもさまよえる無時間の、死のない世界なのだ(David C. Downing, Into the Wardrobe(Wheaton, Illinois: Jossey-Bass, 2005), pp. 59-61)。十七歳のときルイスが友人のアーサー・グリーヴズに手紙を書いて、この本をほめあげたときに「ニキシーとポールおじさんが一緒に夢を見て古代の森へ行く」という表現をしているのも気になるところだ。このころから、古代や中世にかれていたのだろう。

 それに対して、現代に対しての警戒心は強い。ドキリとさせられるのは、本書に出てくる《ほろびのことば》という、それを言うと世界が崩壊するというおそろしいじゆもんへの言及だ。アスランは物語の最後で、警告をする。


きみたちの種族のうちのだれか邪悪な者が、《ほろびのことば》と同じくらい邪悪な秘密を見つけ出し、あらゆる生き物を破滅させないともかぎらぬのだ。やがて、ごく近い将来、きみたちがおじいさんやおばあさんとなる前に、きみたちの世界の人々は、ジェイディス女王同様、よろこびや正義や慈悲を踏みにじる暴君によって支配されることになるだろう。きみたちの世界は警戒しなければならない。

(199ページ) 


 これは、核戦争のことを言っているように読める。日本は、原子爆弾という《ほろびのことば》によって、広島と長崎の二つの都市を一瞬にして失った。ところが、いまだに世界の強大国は、核兵器を保有しておびやかしあっている。アスランは言う。「きみたち人間は、自分たちのためとなるものを、なんとたくみに自ら遠ざけていることか」(190ページ)。たがいに助け合い、しあわせに暮らせる技術や知恵をもちながら、《ほろびのことば》をも欲するというのでは、私たちは邪悪な魔女となんら変わらないのではないか。

 この問題は、単なる「物語」のなかにとどまることではない。アスランの警告は、私たちの人生に直接関わってくることだ。人間という種族が《ほろびのことば》を一刻も早く捨てることを祈ってやまない。


 さて、次のナルニア国物語第七巻は、いよいよ最終巻である。ナルニア・ファンをあっと言わせる驚きの最終巻だ。アスランが警告した「世界の終わり」がついにやってくる。聖書に記されたようにアンチキリストが出現するのである。

 時代は、この「訳者あとがき」に掲載した年表の最後の欄に記されたナルニア年2555年。そこに「サルのシフトの叛乱」とあるが、このサルのシフトというのが悪いやつで、こいつのせいで偽アスランこと反キリストが生まれてしまう。

 そのときのナルニア国の王ティリアンは、第四巻『銀の椅子』で救出されたリリアン王子のまごの曾孫である。アスランが現れたかと喜んでいたティリアン王は、いつのまにかナルニアがカロールメン国に支配され、ものを言う木々が切り倒され、しゃべる馬たちが奴隷のように働かされていることに驚き、怒り、剣を抜く。しかし、それがアスランの意向であるならと、自ら武器を放棄し、捕らえられてしまう。

 王を助けに現れるのは、『銀の椅子』で活躍したジルとユースタスだ。二人の活躍により、偽アスランの謎は解けるが、カロールメン国の邪悪な神タシュまで登場して、ナルニアは絶体絶命の危機にひんしてしまう。

 最後には、ピーター王、エドマンド王、ルーシー女王のほか、本巻で活躍したポリー・プラマーとディゴリー・カークも年配の人物となって登場し、われらがネズミの騎士リーピチープもその姿を見せる。そして、もちろん、アスランも。

 だが、アスランとともに皆が経験したことは、誰も想像していないことだった。

 シリーズが終結する迫力の第七巻をお楽しみに。



二〇二三年二月

河合祥一郎