
「私がいっしょにいれば、指輪は要らない」と、アスランの声がした。子どもたちは、目をぱちくりさせて、あたりを見まわした。ふたりは、ふたたび《世界のあいだの森》にもどってきていたのだった。アンドルーおじさんが、まだ眠ったまま、芝生に横になっている。アスランがそばに立っていた。
「さあ」と、アスランは言った。「おうちに帰る時間だ。しかし、まず言っておかなければならないことが、ふたつある。警告と命令だ。いいかね、子どもたち。」
よく見ると、芝生に小さな穴があいていて、草におおわれたその穴は、温かくて、乾いていた。
「きみたちが前にここに来たとき」と、アスランは言った。「この穴は池になっており、そこに飛びこめば、死にかけた太陽が輝くチャーンの
「はい、アスラン」と、ふたりの子どもたちは言った。けれども、ポリーは、こうつけくわえた。
「でも、あたしたちは、その世界ほど悪くはないですよね、アスラン。」
「今はまだそうではない、イブの娘よ」と、アスランは言った。「まだそうではない。だが、きみたちは、それに似てきている。きみたちの種族のうちのだれか邪悪な者が、《ほろびのことば》と同じくらい邪悪な秘密を見つけ出し、あらゆる生き物を破滅させないともかぎらぬのだ。やがて、ごく近い将来、きみたちがおじいさんやおばあさんとなる前に、きみたちの世界の人々は、ジェイディス女王同様、よろこびや正義や慈悲を踏みにじる暴君によって支配されることになるだろう。きみたちの世界は警戒しなければならない。これが警告だ。つぎに、命令だ。できるだけ早く、きみたちのおじさんから魔法の指輪を取りあげて、もう二度とだれも使えないように、うめてしまわなければならない。」
子どもたちはふたりとも、アスランが話しているあいだじゅう、その顔を見あげていた。すると、突然、アスランの顔はうねるような黄金の海に見えてきて(いつそうなったのかよくわからないのだが)、そのなかにふたりは浮かんでいて、ある種のやさしさと
そこは、ケタリー家の玄関前の歩道の上だった。魔女も、馬も、御者もいなくなっている以外は、なにもかも以前のとおりだった。横棒が一本なくなった街灯が立っており、ばらばらになった馬車の
「なんてこった!」と、ディゴリーは思った。「あんなに冒険したのに、ちっとも時間がたっていないんだ。」
たいていの人々はジェイディスと馬をさがして、大さわぎしていた。だれも子どもたちがいなくなったり、帰ってきたりしたことに気づいていなかったから、子どもたちのことを気にする人はいなかった。アンドルーおじさんにいたっては、ズボンはドロドロだし、顔はハチミツだらけなので、そもそもだれだかわからなかった。さいわいなことに、家の玄関はあいていて、お手伝いさんが戸口に立って、この大さわぎをおもしろがって見つめていた。(この娘にとって、なんておもしろい日だったことだろう!)そこで子どもたちは、だれかになにかをたずねられたりする前に、アンドルーおじさんを家のなかにさっと連れこむことができた。
おじさんは、ふたりよりも先に階段を
「きみ、残りの指輪を手に入れられるかな?」と、ディゴリーが言った。「ぼく、お母さんのところへ行きたいんだ。」
「わかったわ。じゃあ、あとでね。」ポリーはそう言うと、屋根裏への階段をパタパタとあがっていった。
それから、ディゴリーは、息を整えると、ゆっくりとお母さんの部屋へ入った。そこでは、これまで何度も見てきたように、お母さんが横になっていて、まくらで上体を起こして、見るたびに泣きたくなるような、やせた青白い顔をしていた。ディゴリーは、命のりんごをポケットから取り出した。
魔女のジェイディスが、私たちの世界では、魔女の世界とちがったふうに見えたのと同じように、あの丘の庭の実も、ちがって見えた。もちろん、この寝室にはいろいろな色をしたものがあった。色のついたベッドカバー、壁紙、窓からさしこむ日光、そしてお母さんのかわいらしい水色のねまき。けれども、ポケットからりんごを取り出したとたん、そうしたものがぜんぶ、まるでなんの色もないように見えたのだ。どれもこれも、日光でさえ、色あせて、くすんでいるように見えた。りんごの輝きは、天井に不思議な光を投げかけた。ほかのものは、なにも見る価値がなくなって、それ以外は見ていられなくなったのだ。若さのりんごの香りをかぐと、まるでこの部屋に、天国へつづく窓が開いたかのように思えた。
「まあ、なんてすてきなの。」ディゴリーのお母さんが言った。
「食べてくれるよね? おねがい」と、ディゴリーが言った。
「お医者さんがなんと言うかしらね」と、お母さんは答えた。「でも、なんだか、食べられるような気がするわ。」
ディゴリーは皮をむいて、小さく切って、お母さんに一切れずつ、わたした。お母さんはそれを食べると、すぐほほ笑んで、頭をまくらにうずめて眠った。嫌な薬などを使ったものではない、自然な本物のおだやかな眠りだ。それこそが、お母さんになによりも必要だったものなのだと、ディゴリーは考えた。そして、お母さんの顔が少し変わって見えてきたのはまちがいないと思った。ディゴリーはひざまずいて、お母さんにとてもやさしくキスをして、ドキドキしながら、そっと部屋から出ていった。りんごの
夕方、ディゴリーは、りんごの芯を裏庭にうめた。
あくる日の朝、いつものようにお医者さんがやってくると、ディゴリーは、階段の手すりから身を乗り出して、聞き耳をたてた。先生がレティおばさんといっしょに出てきて、こうおっしゃるのが聞こえた。
「ケタリーさん、こんなことは、私が医者をはじめて以来、見たこともないおどろくべきケースですよ。こいつは、まったく奇跡だ。まだぼうやには、なにも言うつもりはありませんがね。がっかりさせちゃいけませんから。しかし、私の意見では──」それから声は低くなって聞こえなくなった。
その日の午後、ディゴリーは庭に出て、ポリーと取り決めた秘密の合図の口笛を吹いた。(きのうは、その合図を返してもらえなかったのだった。)
「どう?」と、ポリーは、塀のむこうから顔を出して聞いた。「お母さん、どう?」
「多分──多分、だいじょうぶだと思うよ。でも、できれば、その話は、まだしたくないんだ。指輪はどうなった?」
「ぜんぶ手に入れたわ。ほら。もうだいじょうぶよ。あたし、手袋はめてるから。うめちゃいましょう。」
「そうだね。そうしよう。ぼく、きのう、りんごの芯をうめたところに、しるしをつけといたんだ。」
それから、ポリーが塀を越えておりてきて、ふたりでその場所へ行った。けれども、しるしをつけておく必要などなかった。なにかが、もうすでに芽を出していたのだ。ナルニアで新しい木が大きくなったほど目に見える生長ぶりではなかったが、もう地面よりも高くなっていた。ふたりは、シャベルを使って、自分たちの指輪といっしょに、すべての魔法の指輪を、芽のまわりにぐるりとうめた。
一週間して、ディゴリーのお母さんがよくなっていることがはっきりした。二週間ほどすると、お母さんは、庭に出て、すわってすごせるようになった。ひと月たつと、家のようすががらりと変わってきた。レティおばさんは、お母さんが好きなことをなんでもしてくれるようになった。窓が開け放たれ、カビくさいカーテンは引きしぼられて、部屋が明るくなり、あちこちに新しい花が飾られ、食事もおいしいものが出され、古いピアノは調律をされて、お母さんはまた歌を歌うようになり、ディゴリーやポリーといっしょに楽しくあそんだのだった。それを見て、レティおばさんがこう言ったものだった。
「まあ、メイベル、あなたが三人のなかでいちばん大きな赤ちゃんよ。」
物事がうまくいかなくなると、しばらくごたごたするものだが、ひとたびうまくいくと、どんどんよくなるものだ。このすてきな生活が六週間ほどつづいたあと、インドのお父さんから長い手紙が届いて、すばらしい知らせが書いてあった。カーク家の
ポリーとディゴリーは、いつまでも大のなかよしで、ポリーはお休みのあいだはしょっちゅう、その美しい大きなお屋敷に泊まりに行った。そこで乗馬や水泳を学び、牛の乳をしぼったり、パンを焼いたり、山登りをしたりしたのだ。
ナルニアでは、獣たちは平和に、楽しく暮らしていた。何百年ものあいだ、魔女やそのほかの敵がこのすばらしい国をおそうことはなかった。フランク王とヘレン女王、そしてその子どもたちは、ナルニアでしあわせに暮らし、ふたりの次男がアーチェンランド国の王となった。男の子たちは水の精の娘たちと結婚し、女の子たちは森の神々や川の神々と結婚した。魔女が植えた(植えたつもりはなかったのだが)街灯は、ナルニアの森を夜も昼も照らしつづけたので、その場所は《街灯の跡地》と呼ばれるようになった。そして何年もしてから、私たちの世界からひとりの子どもがナルニアにまぎれこみ、雪の降る夜に、その街灯の炎がまだ燃えているのに気づくことになる。その冒険は、これまで話してきた冒険につながっている。
それには、こんないきさつがある。ディゴリーが裏庭に植えたりんごの芯から育った木は、りっぱに生長した。その木は、アスランの声も届かなければ、ナルニアの若い空気からも遠い私たちの世界の土で育ったがために、その木の実にディゴリーの母親を元気にしたように死にかけた人をよみがえらせる力はなかったものの、イングランドのどんなりんごよりもきれいな実をつけた。魔力はないにせよ、とてもおいしいりんごだったのだ。木は、その奥深く、いわばその樹液のなかで、ナルニアにあった自分の親である木のことをしっかりと覚えていた。ときどき、風もないのに、木は、ざわざわと不思議なゆれかたをすることがあった。おそらく、そんなとき、ナルニアでは風が強く吹いていたのだろう。その瞬間、ナルニアの木が強い南西風にゆれるのを感じて、イングランドの木もゆれたのにちがいない。けれども、やはり、この木には魔法が残っていたことが、あとでわかった。ディゴリーがすっかり中年になって(ディゴリーはそのころには有名な学者となり、教授となって、あちこち旅をしていた)、ロンドンの古い家がディゴリーの所有となったとき、イングランド南部に大きな嵐がやってきて、この木はたおれてしまった。教授は、切りきざんでたきぎにするにはしのびないと思ったので、その木から洋服だんすを作り、田舎の大きなお屋敷に置いたのだ。教授自身は、そのたんすの魔力に気づくことはなかったが、気づく人が出てくることになる。そうして、ナルニアと私たちの世界との行き来がはじまるのだが、その話は別の巻で読むことができる。
ディゴリーとその家族が、田舎の大きな屋敷に引っ越したとき、アンドルーおじさんも連れていったが、それは、ディゴリーの父親がこう言ったからだ。
「おじさんにいたずらをさせないようにしなければならない。それに、かわいそうなレティにばかり、めんどうをかけるわけにもいかない。」
アンドルーおじさんは、もう二度と魔法に手を出そうとはしなかった。痛い目にあってこりごりして、すっかり年をとってからは、それまでとはちがう、少し思いやりのある老人になった。けれども、ビリヤードのある部屋でお客さんとふたりきりになると、外国の王室の不思議な貴婦人とロンドンじゅうを馬車で走ったお話をいつもしたがった。
「それがまた、悪魔のような女でね」と、アンドルーおじさんは言うのだった。「だけど、まったくいい女だったんだ。まったくいい女だった。」