
あっという間に、アンドルーおじさんと書斎が消えた。それから、一瞬なにもかもごちゃごちゃになった。つぎに、ディゴリーにわかったのは、上のほうから、ひと筋のやわらかな緑色の光がさしこんでいて、下のほうは暗くなっているということだった。なにかの上に立っているようには感じられず、すわっているわけでも、横になっているわけでもない。なにかにふれている感じがしない。
「きっと水のなかにいるんだ。それとも、水の下にいるのか。」
そう思うと、一瞬こわくなったが、すぐに自分が勢いよく上にあがっている感じがした。それから顔が空中に出て、気がつくと、夢中で岸に
立ちあがってみると、水から出てきたときのように水がしたたり落ちたり、息が切れたりはしていなかった。服は
実に奇妙だったのは、あたりを見わたす前から、ディゴリーはどうやって自分がここに来たのか忘れかけていたことだった。とにかくポリーのことを考えてもいなければ、アンドルーおじさんのことも、お母さんのことさえも忘れていた。ちっともこわいとか、わくわくするとか、知りたいとか思う気持ちがなかった。だれかから、「どこから来たの?」とたずねられたら、おそらく「ぼくは、ずっとここにいたよ」と答えたことだろう。そんな気がした。まるでずっとそこにいて、なにも起こらないのに退屈しないかのように。ずっとあとで、ディゴリーが言ったように、「そこは、なにかが起こる場所じゃない。木々が育ちつづけている、それだけ」なのだった。
長いあいだ、森を見つめたあとで、二、三メートル先の木の根もとに女の子があおむけに横になっているのが見えた。目は、眠っているのと起きているのとのあいだのように、なかば開いている。ディゴリーは、じっと女の子を見つめたまま、なにも言わなかった。すると、その子は目をあけて、長いことディゴリーを見ていたが、やはりなにも言わなかった。それから、夢を見るような満足した調子で、こう言った。
「前に会ったことがあるわね。」
「ぼくもそう思う。ここにずっといるの?」
「ええ、ずっと」と、女の子は言った。「少なくとも──よくわからないけど、とても長いあいだ。」
「ぼくもそうだよ」と、ディゴリー。
「あなたはちがうわよ。その池から出てくるの、あたし見てたもの。」
「ああ、そうかもしれない。」ディゴリーは、こまったようすで言った。「忘れちゃった。」
それから、かなり長いあいだ、ふたりともなにも言わなかった。
「ねえ。」やがて、少女が言った。「あたしたち、本当は前に会ったことがあるんじゃないかしら。なんだか、ぼんやりと思うのよ。あたしたちみたいな男の子と女の子が、どこかずっとちがう場所で、いろんなことをしてたような気がする。たぶん、ただの夢ね。」
「ぼくも同じ夢を見たと思うよ。男の子と女の子がとなりどうしのうちに住んでて──それで、天井の
「なにかとごっちゃにしてない? あたしの夢では、顔がよごれてたのは男の子よ。」
「男の子の顔は覚えてないなあ。」ディゴリーは、それからこうつけくわえた。「おや! あれはなんだ?」
「まあ、モルモットだわ。」女の子は言った。それは、草に鼻をつっこんで動きまわっている太ったモルモットだった。ただ、体のまんなかあたりにリボンがついていて、そのリボンにくっついていたのは、きらきら光る黄色の指輪だった。
「見て! 見てよ」と、ディゴリーがさけんだ。「指輪だ! それに、ごらんよ! きみも指にはめてる。ぼくもだ。」
女の子はついに興味をもって、身を起こしてすわった。ふたりは、一所懸命、おたがいを見つめ、思い出そうとしていた。それからちょうど同じ瞬間に、女の子は「ケタリーさんよ!」とさけび、男の子は「アンドルーおじさんだ!」とさけび、ふたりは自分たちが何者であるかがわかって、すっかり思い出しはじめた。数分がんばって話をして、なにもかもはっきりした。ディゴリーは、アンドルーおじさんがどんなにひどい人だったかを説明した。
「これから、どうする?」ポリーは言った。「モルモットを連れて家に帰る?」
「急ぐことはないさ。」ディゴリーは、大きなあくびをした。
「急いだほうがいいわ。ここ、静かすぎる。なんだかとっても──とっても夢みたい。あんた、もう寝そうじゃない。いったん眠っちゃったら、横になって永遠に眠りつづけるかも。」
「ここはとてもすてきだよ」と、ディゴリー。
「そうね」と、ポリー。「だけど、帰らなくちゃ。」ポリーは立ち上がって、注意深くモルモットのほうへ歩き出した。けれども、そのとき考えを変えた。
「この子はここに置いてってもいいかも。なんだかすごく楽しそうにしているし、連れて帰っても、おじさんにひどい目にあわされるだけだもの。」
「そうだね。」ディゴリーは答えた。「ぼくたちにこんなことをしたんだもんね。ところで、ぼくらはどうやって家に帰るの?」
「あの池のなかへもどるんじゃないの?」
ふたりは池のはしに立って、澄んだ水を見つめた。一面に緑の葉や枝が映っていたので、池がとても深く見えた。
「水着なんか持ってきてないわよ。」
「そんなの、要らないよ。ばかだな。服を着たまま入るんだよ。出てきたとき、ぬれてなかったの、覚えてない?」
「あんた、泳げるの?」
「少しはね。きみは?」
「泳げない。」
「泳がなくてもいいと思うよ。下へしずんで行くだけだろ?」
ふたりとも、この池に飛びこむなんて嫌だと思っていたが、おたがいにそうは言わなかった。ふたりは手に手をとって、「一、二の、三──それ!」と言って、ジャンプした。大きな水しぶきがあがって、もちろんふたりは目をつぶった。ところが、目をあけてみると、ふたりはまだ手に手をとって緑の森のなかにいて、くるぶしほども水につからずに立ったままだった。池はどうやら五センチほどの深さだったようだ。ふたりは、バシャバシャと水をけちらしながら、乾いたところにもどってきた。
「どうしてうまくいかなかったのかしら。」ポリーがおびえた声で言った。と言っても、この森で本当におびえることはできなかったので、そんなにおびえていたわけではない。それほど、のんびりしたところだったのだ。
「あ! そうだ」と、ディゴリーは言った。「うまくいくはずないよ。ぼくら、まだ黄色の指輪をつけてるもん。こいつは、ここに来るためのものなんだ。緑のが、おうちに帰るほうだ。指輪を替えなくちゃ。きみ、ポケットついてる? よし。きみの黄色の指輪を左側のポケットに入れるよ。ぼくが緑のをふたつ持ってる。これがきみのだ。」
ふたりは緑の指輪をはめて、池にもどってきた。ところが、もう一度飛びこもうとする前に、ディゴリーが「うわあ」と長くさけんだ。
「どうしたの?」
「すごいこと思いついちゃった。ほかの池はどうかな?」
「どういうことよ?」
「この池に飛びこんでぼくたちの世界にもどれるなら、ほかの池に飛びこんだら別のとこに行けるんじゃないかな。どの池にも、世界があるとしたら。」
「だけど、あたしたち、あんたのアンドルーおじさんが言う《別世界》だか《別の場所》だか、そういうところに来てるわけでしょ。あんた、言ってたじゃない──」
「おじさんのことはどうでもいいよ。」ディゴリーは、口をはさんだ。「あの人はなにもわかっちゃいないさ。ここに自分でやってくる勇気さえなかったんだ。おじさんは、あるひとつの別世界のことしか言ってなかったけど、ほかにもたくさんあるんだとしたら?」
「つまり、この森はそのひとつだってこと?」
「いや、この森は世界なんかじゃないと思うよ。ここは多分、とちゅうの場所だ。」
ポリーは、わからないという顔をした。
「わからないかな? いや、よく聞いて。ぼくらのおうちの屋根の下にトンネルがあっただろ。あれは、どのおうちの部屋でもない。言ってみれば、あれはどの家の部分でもないんだ。でも、いったんトンネルに入れば、そこを通って、下にならんだ家に入ることもできる。この森も同じなんじゃないかな。どの世界の一部でもないけれど、いったんここに来れば、どこにでも行ける場所なんだよ。」
「でも、そうだとしても──」と、ポリーが言いかけたが、ディゴリーはまるで聞こえなかったかのように話をつづけた。
「それでなにもかも説明がつくよ。ここがとっても静かで眠たい場所なのも、そのせいだよ。ここではなにも起こらないからね。ぼくらのおうちと同じだよ。人が話したり、なにかしたり、ごはんを食べたりするのは家のなかだ。壁のうしろとか、天井裏とか、床下とか、ぼくらのトンネルのような《あいだの場所》では、なにも起こらないんだ。だけど、そのトンネルから出ていけば、どこの家へも行くことができる。この場所から出れば、どこへでも行けるんだと思うよ! ぼくらが出てきたあの池に飛びこむ必要もないんだよ、今はまだ。」
「世界のあいだの森ってことね。」ポリーは夢見るように言った。「なんだかすてき。」
「やってみようよ。どの池を試してみようか。」
「もとの池でおうちにもどれることがわかるまでは、新しい池を試したくはないわ。まだ、うまくいくかどうかわからないじゃない。」
「うまくいくさ。もどったらおじさんに指輪を取りあげられてしまって、お楽しみもふいになるよ。そんなのはごめんだね。」
「もとにもどる池のとちゅうまで行ってみない? うまくいくかどうか、たしかめるだけよ。うまくいくとわかったら、とちゅうで指輪を替えて、ケタリーさんの書斎に本当にもどっちゃう前にこっちに帰ってくればいいじゃない。」
「とちゅうまでなんてできるかな。」
「ここに来るまで時間がかかったわよ。もどるのにも、少しはかかるでしょう。」
ディゴリーはこれに賛成するのに、かなりああだこうだ言ったが、ポリーがもとの世界へもどれることをたしかめるまでは新しい世界の探検に行くのを絶対に嫌がったので、最後には折れなければならなかった。ポリーは、たいていの危険(たとえばクマンバチとか)に対しては、ディゴリーに負けないくらい勇敢だったのだが、前代未聞のものを発見することにはあまり興味をもっていなかったのだった。ディゴリーは、なにもかも知りたがるたちで、大きくなると有名な教授となった。このシリーズの別の本〔『ライオンと魔女と洋服だんす』〕に登場する有名なカーク教授なのである。
かなりいろいろと言い合ったあと、ポリーは、ディゴリーといっしょに緑の指輪をつけることに同意した。(「緑は進めだよ」と、ディゴリーは言った。「だから、どっちがどっちか、忘れることはないよ」と。)ふたりは、手をつないでジャンプした。けれども、ふたりがアンドルーおじさんの書斎に着きそうになったら、あるいは自分たちの世界に着きそうになったら、そのとたんにポリーが「替えて」とさけび、ふたりは緑の指輪をはずして黄色のをはめることにした。ディゴリーは自分が最初に「替えて」とさけぶ役をしたかったのだが、ポリーは認めなかった。
ふたりは緑の指輪をつけて、手をつなぎ、もう一度「一、二の、三──それ!」と、さけんでジャンプした。こんどはうまくいった。それがどんな感じがするのかを説明するのはとてもむずかしいことだ。なにもかもあっというまだからだ。最初、明るい光が暗い空でうごめいている。ディゴリーは、それが星で、かなり近くに木星さえ見えるほどだったと言う。でも、ほとんどすぐに、屋根や煙突が立ちならび、
「ほらね!」ディゴリーが言った。「だいじょうぶだったじゃないか。さあ、冒険に出よう。どの池でもいいよ。ほら、あの池を試してみよう。」
「待って! この池に目じるしをつけとかないの?」
ふたりはおたがいを見つめあい、ディゴリーが今しようとしていたことのおそろしさに気がついて真っ青になった。森にはたくさんの池があった。どの池も同じように見え、木々も同じだから、いったん私たちの世界につながる池をあとにしたとたん、そこに目じるしをつけておかなければ、もう二度とその池を見つけることは、百にひとつもできなくなるのだ。
ディゴリーは、ふるえる手でペンナイフを取り出し、池のはしの芝生を長く切り取った。よく肥えた赤茶色の土が現れ(とてもいいにおいがした)、芝生の緑に対してくっきりと目立った。
「あたしたちのどっちかが頭がよくてよかったわね」と、ポリーが言った。
「いつまでもぐだぐだ言わないでくれよ」と、ディゴリー。「さあ、来いよ。ほかの池になにがあるのか見たいんだ。」
ポリーは、かなりピシャリとした返事をし、ディゴリーもお返しに、もっと嫌な返事をした。しばらくは言い合いがつづいたが、それをここに書きとめるのはつまらない。ふたりがドキドキしながら、知らない池のはしに立ったところまで、話を進めよう。かなりおびえた顔をしたふたりは、黄色の指輪をはめて、手をつないで、もう一度「一、二の、三──それ!」と言った。
バシャン! やっぱりうまくいかなかった。この池も、やっぱりただの水たまりのようだった。新しい世界へ行くのではなく、ただ足がぬれて、脚に水しぶきが飛んだのは、その日の午前中二度めのことだった。もし、それが午前中だったらということだ。《世界のあいだの森》ではいつも時間が流れていないように思えた。
「ちくしょう!」ディゴリーがわめいた。「こんどは、なにがいけないのかな。黄色の指輪はちゃんとはめてたよ。出かけるときに黄色をはめるんだって言われたのになあ。」
さて、本当のところは、《世界のあいだの森》のことなどなにも知らなかったアンドルーおじさんは、指輪について誤解をしていたのだった。黄色の指輪は外に出ていくときの指輪ではなく、緑の指輪は帰るときの指輪ではなかったのだ。少なくとも、おじさんが考えたようなものではなかった。ふたつの指輪が作られた材料は、この森から採られたものだった。黄色い指輪の材料は、人をこの森に引きつける力をもっていた。それはもとの場所、つまり《世界のあいだの森》にもどろうとする力だったのだ。ところが、緑の指輪の材料は、その場所から出ていこうとする力をもっていた。だから、緑の指輪をはめていれば、森から外へ出ていけるのだ。アンドルーおじさんは、自分ではよくわかっていない実験をしていたわけだ。たいていの魔術師とは、そういうものだ。もちろん、ディゴリーもまた、本当のことがはっきりわかっていなかったし、あとになるまでわからなかった。けれども、ふたりは話し合ったすえに、緑の指輪をはめて新しい池に入ったらどうなるかやってみることにした。
「あんたがいいなら、いいわよ」と、ポリーは言った。しかし、心の奥底では、どちらの指輪も新しい池ではうまくいかないにちがいないと思っていて、どうせまた水しぶきがあがるだけなんだわと考えていたので、そう言ったのだった。ディゴリーも同じように感じていたかどうかわからないが、少なくとも、ふたりが緑の指輪をはめて池のはしにもどってきて手をつないだとき、最初のときよりはずっと気楽で、緊張していなかった。
「一、二の、三──それ!」ディゴリーがそう言うと、ふたりはジャンプした。