エピローグ



「あははっ、そんなこともあったなあ。懐かしい」

 おおだん様がこんな夜更けに大笑い。

 ちょうど、私が大旦那様の浮気を疑ったエピソードを語ったところだった。

「あのねえ、大旦那様。あれでも私、当時はかなり焦ったのよ。大旦那様に隠し子がいるんだって、本気でショックを受けたわ」

「すまない、すまない。しかしあおいがあんなにショックを受けるなんて思わなかった。僕は少しうれしかったな」

「そうねえ、大旦那様。ちょっと嬉しそうにしてたわよねえ」

 そもそも、私がしっすると言う場面がそれまでほとんど無かったため、ああいった状況はレアケースだ。

 だからこそ、私もかなり混乱したし、疑心暗鬼にとらわれ暴走した。

 その挙句にぶっ倒れた。

 私もまだまだ若かったということよね。

「安心するといいよ、葵。僕は葵一筋だ。葵以外の女性を妻に迎えるなんてありえない。そんなことをするくらいなら、一生独身でいいと思っている。それくらい僕は葵にゾッコンなのだ」

「うん、わかったわかった」

 大旦那様が得意げに愛を語る。

 しかし私はこんな淡白な反応を返してしまう。

 うーん。こういうところが、いまだに可愛げないのよね、私。

 大旦那様がいつも素直なものだから、私が素っ気ない態度を取ってバランスを取ってしまう。そうでなければ万年イチャイチャのバカップルになりかねないもの。

「だがもし、万が一、僕が浮気をしたらどうする?」

 大旦那様がニヤリと笑い、私の顔をのぞき込む。

 意地悪な質問をして、私を試しているつもりらしい。

 私は目を細め、ツーンと言い放った。

「その時はご飯抜きよ。そしてうつしに帰る」

「ううっ、そういえば胃袋をつかまれていた。わしづかみだった。こうなったら僕は永遠に葵に逆らえない。葵のとりこだ!」

…………

 こんなことを言っているが、私たちはまだ正式には結婚していない。

 てんじんがまだまだ大変だったというのもあるけれど、大旦那様は私がまだ若いということもあって、自由な時間を作ってくれたのだった。

 私が大旦那様と結婚してしまったら、おお女将おかみ業で忙しくなって、今のように好きなことを存分にやったり、色んなことに挑戦したりできなくなることをわかっているのだろう。

 大旦那様は表向きも私に甘く、素直で可愛げがある。

 裏でも私を気遣い、支えてくれている。

 じゃあ私は、大旦那様に何をしてあげられているのだろう。

 私だって大旦那様のことが大好きだけれど、大旦那様みたいに恥ずかしげもなく愛の言葉を吐くのは無理だ。やっぱり可愛げがない。

 料理で胃袋を摑んでいるとはいえ、それだけであやかしの心を引き止めておくことはできるのだろうか?

 あの時は私の勘違いだったけれど、いつか大旦那様の心が離れていったって、無理もないのよね……

「ねえ、大旦那様。私たち、いつ結婚するのかしら」

「え?」

 私は、ぽつりと、つぶやくように問いかけた。

 大旦那様はキョトンとしていたが、次第に口を大きく開けて、前のめりになって言う。

「あ、葵がいいというのなら! 明日にでも結婚式を挙げよう!」

「それは早すぎ。準備も何もしてないでしょ」

 近すぎる大旦那様の顔を少し押す。

「ただ、そろそろ……ちゃんと夫婦になってもいいんじゃないかなって……思って」

 ごにょごにょ、ごにょごにょ。

 だってほら、私たちまだ結婚してないのにもう普通に夫婦だと思われていることもあるし、従業員の中にも、私たちに遠慮して、まだ式を挙げてない人たちもいるし……

 結婚という確かなつながりが、そろそろ欲しいと思えるくらいには、私は十分、自由にさせてもらったと思っている。

 大旦那様にも、そんな私の気持ちが伝わったのか、

「よしわかった。ではこういうのはどうだろう。再来月、社員旅行を予定しているだろう? そこで現世風の結婚式を、仲間内だけでやるんだ」

「え……?」

 大旦那様の唐突な提案に、私は目をジワリと見開いた。

「もちろん、正式な挙式は、天神屋に戻ってから準備してやることになるだろうけれど、はちようの結婚式というのは本当に規模が大きいし、あちこちに配慮しなくてはならない。何より当日はバタバタしていて慌ただしくてね。準備にも時間がかかるし、もしかしたらあまり、葵にとって心地のいものではないかもしれない」

 大旦那様は、続けた。

「だが、現世でひっそりと、仲間内だけで式を挙げる分には、誰も何も文句は言うまい。葵にとっても、生まれ育った現世で、気楽な式を挙げてもいいんじゃないだろうか。仲間内だけで楽しく好きなようにやるんだ」

 私は目を二度ほどしばたたかせる。

 最初こそ、ただただ驚いていた。

 次第にじわじわと込み上げてくるのは、こんな時でも私を気遣い、私にとって最善の提案をしてくれようとする大旦那様への感謝だ。

「あ、ありがとう、大旦那様」

 涙がぽろっとあふれる。感激すると、すぐ泣きたくなる。

「それ、最高に素敵ね。まさか現世で式を挙げられると思ってなかったから」

 幼い頃から、結婚式のイメージといえばウエディングドレスを着た現世風の結婚式だ。

 だけどそれは、今の私にとっては、遠いものだと思っていた。

 一つあこがれの形を大旦那様から提案してもらえたことに、私は気持ちが高揚し、ただただ、大旦那様のことが好きだなあと、胸がいっぱいになるのだった。

「あと、僕がただ、葵のウエディングドレス姿を見たいというのもある」

「もしかして、本音はそれ?」

 涙がヒュッと引っ込んだ。

 大旦那様が、あまりにキラキラした目で言うから。

「だけど本当のことだよ。ずっと、そうできたらどんなに良いかと思ってたんだ。葵にとって理想の結婚とは……幸せな未来を思い描けるような結婚とは、どんなものなんだろうか、とね」

 大旦那様は、もうずっとそのことを考えていたらしい。

 かくりの、天神屋という宿に嫁いだ人間の私。現世に未練はなく、家族もいない。

 しかし現世で生まれ育った私にとって、その場所が故郷であることに変わりはない。

「確かに現世での結婚式は楽しみだわ。こんな私でも、ウエディングドレスに憧れが無いわけじゃ無いしね。だけど私は、大旦那様と夫婦になれるだけで……ずっと一緒にいられるだけで、きっと幸せ」

「葵……」

「だから、最高の思い出を作りに行きましょうね、大旦那様!」

 私は大旦那様に抱きついた。

 私からこんな風に、彼を抱きしめるのは、今ではそれほど珍しくはない。

 大旦那様は喜ぶ私の背をでて、それからぎゅっと、宝物のように抱きしめる。

 鬼嫁と言われながらも、夫婦になるまでが長かった、私たち。

 だけどもうすぐ、やっと……


 私は、すずらんさんの手紙に、こう書き加えた。

 もうすぐ、天神屋の社員旅行で現世に行きます。

 その時、大旦那様と私は現世風の結婚式を挙げるつもりです。

 なにとぞよろしく、と。

 そう。幸せも、楽しみも、まだまだ続く。

 私はそんな、飽きることのない人生をおう中だ。

 私と大旦那様の結婚もまた、人とあやかしが紡ぐ、一つの物語である。