第十五話 葵、探偵になる。



 大学四年生の冬。

 私は卒業論文で忙しくしていたせいで、このところてんじんに帰る頻度が減っていた。

 大旦那様も、卒業論文に集中する方がいいと言ってくれていたし、私はある意味で就活も終わっているので、熱心に論文制作に励んでいた。

 区切りのいところで一息つき、私は一度天神屋に戻ろうと思った。

 みんなの顔を見たいし、大旦那様に会いたい。

 そういえば、前に大旦那様に会った時、大旦那様が久々に卵焼きたっぷりのお弁当を食べたいと言っていた。

 大旦那様はできたての定食よりお弁当を好む。

 つくづく変わった鬼だと思うが、その理由は、お弁当には卵焼きが入っているから。

 大旦那様の好物は卵焼きなのよね。

 だったら、サプライズでお弁当を作って、天神屋に突撃帰省してみよう。

 大旦那様が喜んでくれるかもしれない。

「ふふ……っ。びっくりするんじゃないかしら、大旦那様」

 そんな想像を膨らませつつ、私はおじいちゃんと暮らした家の台所で、お弁当を作った。

 おじいちゃんのお弁当箱も、今じゃ大旦那様用のお弁当箱になりつつある。

 これを知ったら、天国のおじいちゃんはどう思うだろうか……

「さてと。まずは炊き込みご飯から作ろうかな。ちょうどさつまいもを買ったばかりなのよね」

 甘いさつまいもご飯は、あやかしも大好きだ。

 特にうつしのさつまいもは、品種によってとても甘くて美味しいものがある。

 しかし甘いさつまいもだけでなく塩昆布を入れて炊き込むと、甘すぎるだけではない、しっかりした味の炊き込みご飯になる。

 お弁当にはお肉かお魚なんかのメインのおかずがあるけれど、大旦那様の場合は卵焼きがたくさん入っていた方がうれしいだろうから、卵焼き弁当にするつもりだ。

 ちょうど明太子めんたいこがあったので、明太めんたいだし巻き卵。

 これなら十分、メインのおかずになるでしょうし、さつまいもと塩昆布のご飯ががっつり味付きなので、ちょうど良いと思う。

 脇に添えるおそうざいは、昨日から作り置きしていたインゲンの胡麻和ごまあえと、にんじんしりしりだ。

 人参しりしりっていうのは、沖縄の郷土料理。

 千切りした人参と、ツナをいためて作る。普通はここにり卵も入っているのだけれど、今回は卵焼きがあるので、卵なしの人参しりしりだ。

 代わりに細かくちぎったまいたけを入れる。

 ごま油とおしょうとお砂糖でさっと炒める。これがお弁当の名脇役となる。

「よし、できた! 我ながら美味しそうだわ」

 明太だし巻き卵弁当、完成!

 これをもって、いざかくりの天神屋へ!



 以前までは、天神屋の誰かに迎えに来てもらうことが多かったけれど、今は通行札さえ持っていれば自分一人でも自由に隠世と現世を行き来できるようになった。

 サプライズ帰省なので、当然、私は一人で隠世に渡る。

 しかし天神屋に着くや否や、番頭補佐のたんすけから大旦那様は留守だと聞く。

 更には……

「え? 大旦那様が、別の女の人とようで会ってる……?」

 私は衝撃的なうわさばなしを、ゆうがおで聞くことになる。

 夕がおのカウンターに座っているのはおりょうだ。

 私が帰ってきたのを知るとすぐに飛んできて、妙にワクワクした顔をして、小声で私に知らせてくれるのだった。

「そうなのよ〜っ! 仲居の子が休日に妖都をぶらついてた時、目撃しちゃったんですって。天神屋の仲居たちはこの噂話で持ちきりよ。うふふっ。何でもお相手は、妖都の貴族のご令嬢ですって。相当な美女なんですって〜っ」

…………

「あーあ。あおいもいよいよお役御免か〜。いつまでもわいげないし、最近全然帰って来なかったしねえ。浮気されても仕方がないかもねえ。得意のお料理を振る舞う機会もめっきり減っていたわけだし。つかんでいたはずの胃袋も、いつの間にか離れていたってオチかしら」

 お涼の嫌味を、いつもなら軽くあしらう私だが、こればかりは何も言い返せず、私は固まっていた。

 確かに私は、最近ずっと天神屋に戻っていなかった。

 自分の武器であるあやかし好みのご飯を振る舞う機会もめっきり減っていた。

 大旦那様に対しても、それはその通りで……

「で、でも。大旦那様に限って浮気だなんて」

「ほーら。そういうところが可愛げないのよ。そして危機感が足りない。葵、あんた何を根拠にそんなこと言ってんの? 別の女に興味が湧いたり、気がつけば心が離れてしまっていることなんて、よくある事だもの。あやかしはいちって話だけれど、浮気しないわけじゃないのよ〜」

…………

 お涼はわかったようなことを言う。

 確かに、旦那の浮気に悩まされる妻は多いと聞くが、大旦那様には立場がある。

 自分で言うのも何だが、大旦那様は私にゾッコンだ。常に私に対し甘すぎる大旦那様が、そんなことをやらかすだろうか?

 いや、わからない。

 私は大旦那様のことを、どれほど知っているというのだろう。

 そもそも、ここ最近はずっと話をしていなかったし、向こうから連絡が来ることもほとんど無かった。

 大旦那様が大学の勉強や卒業論文に集中できるよう、配慮してくれているとばかり思っていたのだけれど……

「あ、その顔。ちょっと不安になってる?」

 お涼が私の顔を見上げ、ニヤニヤしていた。

「何言ってるの。お涼、あんた私の不安をあおって、何がしたいのよ」

「だって楽しいんだもの〜」

「……はあ。全く」

 私は大きなため息をつき、お涼の前では余裕ぶって冷静を装う。

 実際に、あまり不安はない。と言うか実感がない。

 でも、こういうところがお涼の言う「可愛げがない」と言うやつなのかもしれない。

 普通、婚約者が別の女性と合っていた、なんて聞かされると、もうちょっと焦るわよね。

 悲しい気持ちになったり、しっしたりすると思うけど、私はまだ、そういう感情よく分かっていないのだった。あまりにも、恋愛経験不足すぎて。

 ただ、作ったお弁当をどうしたものかと思って、少し残念な気持ちになっている。

 せっかく喜んでもらえると思ったのに、大旦那様は天神屋にはいないのだ。



 しょげていても仕方がない。

 私はお弁当を夕がおに置いて、天神屋のみんなにあいさつをしに向かった。

 しかしなぜか、天神屋の幹部たちがどこかよそよそしい。

 特にぎんさんは顕著だ。私と目を合わせようとしないのだ。

「ねえ銀次さん、大旦那様って、いつ戻って来るのかしら。私、お弁当を作ってきたのだけれど」

「え? えっと……大旦那様でしたら、今夜はお戻りになられないかもしれません。急な用事で妖都に行っておりまして」

「ふーん、妖都ねえ」

 少し、お涼の話を思い出す。

 そういえば大旦那様は、妖都で謎の美女と密会しているといううわさだ。

 もしかして今夜も、その人と会っているのだろうか。

「ど、どうしたんですか、葵さん」

 私がやたらと低い声で反応したからか、それとも無感情な目でもしていたからか。

 銀次さんが私の顔色をうかがう。

「いいえ。何だか怪しいなと思って。だっていつもは大旦那様、私が帰って来たって知ると飛んで戻ってくるのに」

「そ、それは……えっと、外せない用事でして」

「……怪しい」

「怪しい、ですか!? 何も怪しくないですよっ!」

 なぜか必死に首を振り、否定する銀次さん。

 そういうところがますます怪しい。

「ああっ。すみません葵さん! 私、女将おかみに呼ばれているのでしたっ! それでは失礼します〜」

 そして銀次さん、そそくさと立ち去る。

 これは逃げたな。銀次さんらしくもない。



 仕方がないので、今度はフロントに向かう。

 番頭のあかつきに至っては、私の顔をみるなり、あからさまにドキッとした顔をしていた。

 何と言うか、この男も態度がわかりやすいな。

「暁、お疲れ様。もうすぐわかだんに昇進なんですって? 出世したじゃない」

 なんて、世間話をするようなていで、まずは声をかけた。

 実際に暁は出世する。現在若旦那の地位にいる銀次さんがだんがしらとなることで、若旦那の椅子が空き、そこに暁が座る形だ。

 しかし当の暁は、明らかに冷や汗をかいて気まずそうにしており、やはり私から目をらしがちだった。

「お前。ど、どうしてこんな時に、いきなり帰ってきたんだ」

「え? 確かに連絡を入れずに天神屋に帰ってきたけれど、今までも何度かそういうことはあったじゃない。実家に帰るのってそんなものでしょ? 何? マズかったの?」

「いや……」

 モゴモゴと言葉を濁す暁。

 うーん、これまた怪しい。

 銀次さんに引き続き、煮え切らない態度だ。

「もしかして、大旦那様のこと?」

 私が核心をついたからか、暁があからさまにギクリと肩を上げる。

「大旦那様に関して、私に何か、隠してることがあるんじゃないでしょうね」

 私はまばたきすらしない。

 暁はどんどん青ざめていって、本当かどうかわからないけれど「まいがする」とか言ってフロントの奥に引っ込んでしまった。

 なんなのよ、いったい……

「何よ。せっかく、すずらんさんから渡すように頼まれていた手紙を持ってきたのに」

 暁の大切な妹、鈴蘭さんから渡されたお手紙があった。

 しかし暁が引っ込んでしまったため、私はそれを懐に仕舞い、また一つ大きなため息をついた。

 流石さすがに、銀次さんや暁があのような態度だと、何かあるのだろうと察してしまう。

 気にならないと言えば、うそだ。

 大旦那様に関して、隠し事があるというのは本当なのだろうから。



 女湯に行くと、しずちゃんがちょうど湯船の掃除をしていた。

「静奈ちゃん。お疲れ様」

「まあ、葵さん! お戻りになっていたのですね」

 静奈ちゃんは可愛らしい笑顔で私を歓迎してくれた。

 男たちとは大違い。

 私はしばらく、静奈ちゃんと女友だちらしいおしゃべりをしていた。

 大学生活でのあれこれ、など。

「そうですか……現世の学生も大変ですねえ。ですが葵さん。現世の学校を卒業されたら、いよいよ天神屋に嫁入りですねえ」

 静奈ちゃんがそんなことを言う。

 私は今まで楽しくおしゃべりをしていたけれど、そこでふと真顔になった。

「どうかしましたか、葵さん」

「……うーん。私、ちゃんと嫁入りさせてもらえるのかしら」

「え?」

 私が腕を組み、けんにしわを作って妙なことを言ったので、静奈ちゃんは大きな目をパチパチとさせた。

「ど、どうかされたのですか?」

「それが……」

 かくかくしかじか。

 お涼から聞いた大旦那様の浮気疑惑と、男性幹部たちの様子がおかしい話をする。

 すると静奈ちゃんは口元に指を添えて、

「それは怪しいですね」

 と、彼女らしからぬ様子で目の端を光らせた。

 この件に関して静奈ちゃんは何も知らないようだったが、女の勘というものを頼りにするならば、やはり怪しいということだった。

「そういえば、私も少し気になっていることがあるのです。最近、おちょうちょう様がこの上なく上機嫌なのです」

「え? あのお帳場長のびゃくさんが? この上なく?」

「も、もしかして、ですけど……お帳場長様、大旦那様と妖都の貴族のご令嬢を、政略結婚させるつもりなんじゃ……」

 静奈ちゃんがおろおろして言う。

 しかし言われてみると、白夜さんは元宮中のお役人で、妖都の王族や貴族とのつながりが深い。

「……確かに、白夜さんのことだから、大旦那様には私なんかより、貴族の女性の方が相応ふさわしいとか考えそうだわ」

 そもそもからしてろうとかいう、あやかしたちのダークヒーローでしかない人間を祖父に持つ私だ。

 白夜さんは祖父のことをそれはそれは嫌っていたので、当初は私と大旦那様との結婚をあまり歓迎していない様子だった。

 今は受け入れてくれたとばかり、思っていたのだけれど……



 考えていても仕方がない。

 この後、お帳場にいる白夜さんに会いに向かった。

 お帳場に行くともれなくお叱りを受けるので、いつもは避けがちな場所だ。

 しかしどうも煮え切らないこの話に、私はそろそろ決着をつけたいと思っていた。

 心がやけにざわついている。嫌な気分だ。

 このままじゃ、私、天神屋のみんなを信じられなくなりそうだもの。

 それに、大旦那様の真実が知りたい。

 本当に噂通り、私以外の女性に浮気し、会っているのかどうかを。

「あら、葵さんお戻りになっていたのですか? お帳場長でしたら、先ほど妖都に向かわれましたけれど」

「えっ!?

 しかしお帳場に行くと白夜さんは留守にしており、秘書風の副お帳場長、づるさんにそう告げられた。

 私はとても驚いた。だって、白夜さんが天神屋を留守にするなんてことは、相当な用事がない限りは、ほとんど無いことだったからだ。

 しかも妖都。

 大旦那様がいる場所だ。

 これはいよいよ怪しい。真相に近づいている気がする。

「ですが、まだそらふねは出ておりません。急ぎの用でしたら、船着場に行けば間に合うかもしれませんよ」

「わかったわ! ありがとう千鶴さん!」

 私は急いで、天神屋の船着場に向かった。

 そして白夜さんが、今まさに乗り込もうとしていた船を見つけた。

「白夜さん、待って!」

 私が大きな声で呼びかけると、白夜さんは振り返る。

 そして私を見るや否や、随分とギョッとした顔をしていた。

「な……っ、何をしているんだ、葵君! というか戻ってきていたのか」

「白夜さん、妖都に行くんでしょ? 私も連れていって欲しいのだけれどダメかしら」

「妖都に行って何をするんだ」

「えーと、えーと、欲しいものがあるのよ」

 私をいぶかしむ目をして、片眼鏡をその手で押し上げる白夜さん。

「ダメだ。よいの用は遊びではない。無関係の者を船に乗せ、連れて行くわけにはいかんのだ」

くだねこ

!?

 私がそのワードを発すると、白夜さんは顔色を変え固まった。

「連れて行ってくれないと、バラすわよ」

…………

 私は禁じ手に出る。津場木史郎譲りの脅しとも言える。

 管子猫は、鬼のお帳場長と名高い白夜さんの、最大の弱みなのだった。



 天神屋のみんなは、いったい何を隠しているのだろう。

 大旦那様は、妖都で誰と会って、何をしているのだろう。

 もやもやとした気持ちを抱え、私は宙船に乗っていた。

 浮気のうわさを聞いた時は、あまり実感が無かった。

 どうせいつものくだらない噂だろうと思って、信じていなかったのだと思う。

 だけど、小さな不安が積み重なって、いよいよ私も心配になってくる。

 大旦那様が、本当に別の女性と会っていたら、私、どうしよう……

 あれこれ考え事をしていたら、妖都まですぐに着いた。

「それでは葵君、用事が済んだらすぐに宙船に戻るように」

「ええ。わかったわ」

 白夜さんは、私が大旦那様の噂を知っていることを知らない。

 私のことを料理バカと思っているので、妖都では食材でも買い込むのだろうと考えている。しかし、私の目的はそうではない。

 一度白夜さんと離れ、その後、お付きの者たちをいて白夜さんを尾行した。

 白夜さんはおおだん様がいつも利用する〝鬼に金棒〟と言う、もつ料理の料亭に入る。

 私もコソコソと後を付け、頃合いを見て店に入った。

「おや、天神屋の鬼嫁殿ではありませんか。いかがなさいましたか?」

「あの。大旦那様はここにいらっしゃいますか? お部屋を教えてください」

「ああ、はい。いらっしゃっています」

 鬼に金棒の店主は何の事情も知らない様子で、私のことを疑いもせず、お部屋に通そうとする。

 私はドキドキしていた。

 何だか少し、真実を知るのが怖い。

 だけどぐっと奥歯をみ、こぶしを握りしめ、いざ大旦那様に会いに行く。

「こちらでございます」

 店主が案内してくれたお座敷のふすまの向こうから、確かに大旦那様の声が聞こえる。

 白夜さんの声も。

 そして、知らない女の人の上品な笑い声も……

 店主が襖越しに中の人々に声をかけようとしていたので、私がそれを止め、しばらく襖に耳を付けて、会話を盗み聞きする。

 我ながら何をしているんだと思った。暴走気味で自分らしくない、とも。

 だけど、聞こえてくる会話に、私はますます心乱されるのである。

「しかし本当に驚いた。女の子だと言われていたのに、男の子だったとは」

「名前はどうなされるのですか、大旦那様」

「うーん、そうだね。一番いい名前を考えるとするよ。しかし白夜の方がい名前を付けそうだ」

 男の子……?

 名前……??

 すると、部屋の中から赤ん坊のうめき声らしきものが聞こえてきた。

「ああ、どうしようか。ぐずり始めてしまったよ。僕のことが怖いのだろうか」

「大旦那様はあやし方が下手なのだろう。これではまだ父にはなれますまい。どれ、私が手本を見せましょう……」

「ふふっ。流石さすがは白夜様。手慣れておりますわね」

 あ、女の人がしゃべった。とても上品な声音だ。

「白夜は祖父のポジションだからな。人生経験が違う」

「何をおっしゃる、大旦那様。あなた様だってこれから、父になると言うのに」

 白夜さんのその言葉で、私はいよいよ我慢ができなくなった。

 嫌な予感が最高潮に達し、頭の中で何かがプツンと切れ、私は襖をスパンと開けたのだった。


「ちょっと待ったああああああっ!」


 私の声が響き渡る。

 お座敷にいた一同がしんと静まり返る中「バブう」と赤子だけが反応してみせた。

 そこにいたのは、まだ生まれたばかりの赤子を抱いた大旦那様と、その赤子の顔をのぞき込み、あやしていた白夜さん。

 そして大旦那様のそばにいたのは、立派な着物をまとった、天女のごとき美女だった。

 キョトンとした顔の大旦那様と、ギョッとした顔の白夜さんが、突然現れた私を見上げている。

 例の噂。

 天神屋の幹部たちのよそよそしい態度。

 そしてこの状況。

 私の脳内はこれらを総合的に判断し、全てを理解した。

 そうだ。これは、きっと……


「か、隠し子……」


 そうつぶやいた直後、うっと涙目になる。

 そしてそのまま、私は真後ろにバタンと倒れてしまった。

 不安と緊張が最高潮に達していた。

 現場を目撃して激しくショックを受けたのもある。

 そして猛烈な眩暈めまいに襲われた。

 現実を直視できない、したくない感情が、きっと私にそうさせたのだろう。

「葵、葵! 葵───っ!

 大旦那様の声がする。

 遠く、周囲が騒がしくなっているのがわかった。私が倒れてしまったから、医者を呼ぶ声もする。

 だけど、何だろう。このモヤモヤとした気持ちの悪い感情。

 情けなく惨めな感情。

 赤子を抱いて幸せそうに笑う大旦那様と、その隣に寄り添う女性の姿が、あまりにまぶしく、遠く、近寄りがたい空気を醸しているように感じられた。

 そこには知らない大旦那様がいる気がした。

 気がつけば、悲しい気持ちで胸がいっぱいだった。

 銀次さんや暁がよそよそしかったのも、きっと、大旦那様に別の女性がいて、更には子どもが産まれたことを知っていて、それを私に隠したかったからなのだ。

 いったいどうして、こんなことになってしまったのだろう。

 大旦那様はもう、私のことなんてどうでもいいのかもしれない。



 ここ最近、見ることの無かった夢を見る。

 母が私を置いて、いなくなってしまう夢。

 それは私の過去でもある。

 ずっと家に放置され、食べるものすら無くなって、私は餓死寸前で、とあるあやかしに命を助けられた。

 後からわかったことだけど、それは大旦那様と、銀次さんだった。

 大旦那様は私の運命を変える食べ物を用意し、銀次さんは私の命をつなぐ食べ物を届け続けた。

 そして私が大人になるまでずっと、大旦那様は私を待ち続け、そして隠世にさらったのだ。鬼の花嫁として。

 様々な出来事、事件を通し、大旦那様の内面や孤独を知って、私は彼に恋をした。

 そして天神屋の鬼神に嫁ぐ決意を固めたのだ。

 ……ならば、いったい何がいけなかったと言うのだろう。

 いや、何もかもがダメだった気がする。

 大旦那様の優しさや懐の大きさに甘えて、私は私自身の愛情を、大旦那様に伝えることを怠っていた。

 いつも、自分のことばかりに必死で……


「葵、葵……」


 名前を呼ばれ、目を覚ます。

 視界はぼやけていた。私、泣いていたんだわ。

「葵、すまない」

「大旦那様……」

 すぐ近くに、私の顔を覗き込む、心配そうにしている大旦那様がいる。

 大旦那様の顔を見ると、私はぐっと悲しい気持ちになってしまった。

 先ほどの現場の光景を思い出す。

 こみ上げるものがあって、涙があふれそうで、私は布団を頭までかぶった。

 こんな感情、初めてだ。

 勝手な想像で、こういう時は怒りの気持ちでいっぱいになるのかと思っていたけれど、意外と怒りはないのね。

 ただただ、喪失感でいっぱいで、大旦那様の顔を見ていられないのだ。

 布団越しに、大旦那様の手が私に触れた。

「葵。すまない。違うんだよ。君にはひどい勘違いをさせてしまった」

「……勘違い?」

 私が布団から顔を出さないので、大旦那様はそのまま語る。

「僕は、葵がなぜあの場所にいたのか、葵がなぜ悲しそうな顔をしていたのか、最初、何もわからなかった。葵が倒れたまま意識が戻らないので、慌てて天神屋に戻り、僕はことの真相を知ったのだ」

…………

「結論から言うと、あの赤子は僕の子ではないよ。隠し子など、誓っていない。あの赤子はね……ぬいいん様とりつ殿の孫娘である、れい殿の子なのだ」

「……へ?」

 私はやっと、布団からひょこっと顔を出す。目元だけ、だけれど。

 大旦那様はそんな私を見て、切なげにまゆを寄せて、話を続けた。

「麗子殿は、妖都で反物屋を営む名家に嫁いだ。僕はちょうど、別件で麗子殿に注文していた反物があってね。その流れで、産まれたばかりの赤子に名前をつけて欲しいと頼まれていたのだ。ちなみに麗子殿の名付け親は、白夜だ」

「それって……」

 あの謎の美女の正体は、麗子さんと言うらしい。

 麗子さんは、律子さんと縫ノ陰様の孫娘で、白夜さんが名付け親。

 そして生まれたばかりの赤ん坊は、律子さんたちにとってはひ孫であり、白夜さんにとってもしかり。

 大旦那様は、あの赤ん坊の名付けを頼まれていた、と……

 そういうことなら、あの白夜さんの浮かれた様子も納得できるし、聞いた会話のつじつまも合ってくる。

 私は大きな勘違いをしていたのだとわかり、恥ずかしくなるより先に、青ざめた。

「あ……私……」

 私が言葉に詰まっていると、大旦那様が顔を近づけ、私に「すまなかった」と言った。

「まさか葵が、僕の浮気を疑っていたなんて思いもしなかった。そのようなうわさが流れていることも、僕は知らなかったんだ。僕は、僕は……僕は葵の信頼を損なってしまったのだろうか!?

「お、おおだん様。待って。ごめんなさい。私の早とちりだったみたい!」

 私はガバッと起き上がり、大旦那様に謝る。

「私がいけなかったの。何の確認もしないで、勝手なことをして、大旦那様のことを疑うようなことをしたから!」

「いや、僕もかつだった。葵という婚約者がありながら、疑われるような行動を取っていたのは間違い無いのだから。あやかしたちはうわさばなしが大好きだというのに」

 そこでふと、私は思い出す。天神屋の幹部たちの、私に対する態度だ。

「でも……それなら銀次さんや暁の、あのよそよそしさは一体なんだったのかしら」

 大旦那様は私の疑問をいち早く理解し、背後にあったものに目をやった。

「ああ、それはきっと、これのせいだろう」

「これ……?」

 部屋が薄暗く気がつかなかったが、大旦那様の鬼火がそこに集い、照らし出す。

 そこには、美しい薄紅色の着物がこうにかけられていた。

「僕が麗子殿に依頼していた着物だ。本当は、葵の卒業祝いにと思っていたんだ」

「……私の、卒業祝いに?」

「ああ、そうだとも。葵に似合うものを探そうと思って、何度となく妖都に通ったんだ。大学を卒業したら、葵はいよいよ、この天神屋にやってくる。僕の花嫁としてね。それを祝って、一つ立派な着物を仕立ててもらっていたんだ」

 私はしばらく言葉を失っていた。

 そしてやっと、いろいろなことが繫がった。

 銀次さんも暁も、このことを隠したくてよそよそしくなっていたのだろう。大旦那様がサプライズとして私のために用意していたものを、悟られたくなくて。

 私はゆっくりと立ち上がり、その着物に触れる。

 普段、天神屋で着ているものとは違う手触りで、それがとても上質なものなのだとわかった。何より、斜めに流れる桜模様が美しい。

「少し早くなってしまったけれど、受け取ってほしい」

「……いいの?」

「ああ、もちろん。そのために用意したのだから」

 私は口元に手を当てて、目を潤ませる。

「あ……ありがとう大旦那様。私、酷い勘違いをしてたのに……っ」

「気にしてないよ。葵も、僕に弁当を作ってきてくれたのだろう? お涼が慌てて持ってきてくれたよ。もう全部食べてしまったけれど、葵の愛情は、手料理でちゃんと伝わっている。もちろん、最高に美味うまかった」

…………

 また、ポロポロと涙が溢れた。

 今回ほど、自分の行動や感情をコントロールできなかった事はない。

 しかしこの余裕の無さや、落ち着きが無くなってしまうことこそが、恋をしているということなのかもしれない。

 そして私は大いに反省した。

 大旦那様は私のことをこんなにも大切に思い、卒業祝いの贈り物まで用意してくれていたのに、私は大旦那様を疑ってしまった。

 身勝手な行動をして、色んな人に迷惑をかけた。

 それでも大人の余裕で、私に謝り、私のことを許してくれる大旦那様を前に、自分がいかに子どもであるかを思い知らされたのだ。

「私、私、ちゃんと、大旦那様のことが好きだからね」

「ああ、わかっているとも」

「いつも、わいげがなくてごめんね」

「何を言う。そんな顔をして、そんなことを言う葵が、可愛くないはずが無いだろう」

 そう言って、大旦那様は私の涙をぬぐい、優しく体を抱きしめた。

 大旦那様は相変わらず甘い。甘々だ。

 私はもっと、大旦那様にふさわしい人間にならなくてはならない。

 ただただ大事にされ、自分のことばかりを考えている人間ではなく、お互いを信じ合える夫婦にならなければ。

 私はこの日、大旦那様の婚約者として、一人の人間として、もう一回り大きく成長しようと心に決めたのだった。