第十三話 大旦那様が我が家に一泊した話



 これは、私、あおいてんじんゆうがおを営み、春夏秋冬を過ごした後のお話。

 私は大旦那様の計らいで、一年休学していたうつしの大学に復学した。

 その、初めての夏休みが終わった。

 夏休みの間は天神屋に里帰り(?)していたのだが、先日再び現世の、祖父と過ごした古い家に戻って来たばかりだ。

「ただいま〜。って、誰もいないか……ん?」

 後期最初の講義に出て、ちょっと買い物をして家に帰ってくると、なぜかお線香の香りが漂ってくる。

 祖父・津場木ろうと過ごした家には、今は私しか住んでいないはずだけど……

「おかえり葵。思っていたより早かったね」

「えっ、当たり前のように大旦那様がいる!?

 玄関からすぐの座敷の部屋で、祖父の仏壇の前に座り、手を合わせてお参りしている男が一人。

 彼は天神屋の大旦那。私の婚約者だ。

 大旦那様は鬼の角を隠した人間姿に化けており、いつもの派手な羽織姿ではなく、さわやかな白のワイシャツ姿でいる。

 現世ではこの姿の大旦那様を度々見るが、いつも「違和感すごいなあ……」などと思っていたりする。

 私はいまだ大旦那様の出現に驚きつつ、

「何しに来たのよ、大旦那様。この前、泣きながら私のことを現世に送り返してくれたばかりよね」

「葵が夕がおに、これを忘れていったから持って来たんじゃないか。夫であるこの僕がね。無いと不便かと思ったのだが……その様子だと気がついていないのかな」

「あ、私のスマホ」

 大旦那様がどこからともなく私のスマホを取り出し、こちらにした。

 彼の言う通り、自分のスマホをかくりに忘れていたことに今更ながら気がつく私。

 それくらい、私は普段ほとんどスマホを扱うことがなかった。

 だって隠世で使うことがほとんど無かったし。

 とても現代人とは思えない……

「現世にはこんなに便利なものがあるのに、葵はこれをほとんど使わないね」

「最近はお料理の写真を保存するのに使っているわ。それ以外では、ほとんど使わないわね。ネットも見ないしSNSもやってないし。でも情報を集めるには、何かやった方がいいのかな……隠世にもいつネットが普及するかわからないし」

「あっはっは。確かに。天神屋がホームページを持って、SNSで情報を発信する日も近いだろうな」

 私は現世でも電話やメールをする頻度が低く、現代の大学生とは思えないほどスマホやネットを活用しない。SNSも利用していない。

 しかし隠世にも電気はあるし、ようではネットらしきものが普及しつつあるという。

 ネットでの発信力は武器にもなるし、私も多少は扱えるようにならなくては……

「しかしどうして、葵は夕がおにスマホを置いてきてしまったんだろうね。ほとんど扱わないというのに」

ぎんさんに現世のお料理の写真を見てもらっていたのよ。あと、隠世でもスマホを充電できるって聞いたから、それで、ちょうど充電器に繫いでて、そのまま夕がおに忘れてしまったみたい……?」

 語りながら、自分がスマホを忘れた経緯を思い出す私。

 大旦那様はくすくす笑いながら、

「銀次が慌てていたぞ。これがないと葵が大学で不便なのではないか、とか、ちょうど困っているのではないか、とな。耳を垂らしてオロオロしていた」

「そ、そうだったの。……銀次さんにも心配をかけたわね。あんまり影響無かったから大丈夫よって、言っておいて」

 銀次さんが耳を垂らしてオロオロしている姿が目に浮かぶ。

 天神屋を一度離れることになってから、長期休暇などにあちらに帰ると、天神屋のあやかしたちが皆やたらと親切で、私をいたわってくれる。

 銀次さんはもともとそうだったけれど、一層、実家のお母さんのごとく、私を心配したり甘やかしてくれるから。

 あ、それは大旦那様もそうか。

「って、ごめんなさい大旦那様。お茶も出さずに」

「いやいや、お構いなく。葵にスマホを渡すことができたら、僕はさっさと隠世へ帰ろうと思うよ」

「え、帰っちゃうの……?」

 もう少し居てくれるものと思い、少しショックを受けてしまう私。

 そんな私に、大旦那様はわかりやすくニヤリとした。

「僕が帰ると寂しいかい、葵」

「べ、別にっ!」

「ふふ。せっかくなのでお茶だけはいただいて行こうかな」

「あ、うん。そうして」

 自分でもわかりやすいなと思えるほど、私はコロッと態度を変えて、居間に大旦那様を案内する。

 大旦那様はこの家に何度か来たことがあるようだけれど、私と大旦那様がこの家で過ごした覚えはない。

 なんだかとても不思議な心地で、私は妙にドキドキとしていた。



 水出し緑茶と、大旦那様がお土産で持って来てくれたくら名物〝ぎおんだい〟を、お皿に並べて出す。

 ぎおん太鼓は、パイ生地であんこを包んだお茶菓子だ。

 生地のしっとりサクッとした歯切れのよさと、甘さ控えめの餡こが美味おいしく、きたきゅうしゅうではみのある茶菓子である。

「地元のお土産って久々に食べるわ。これ美味しいのよね〜」

「隠世のお土産より、地元のお土産の方が葵も久々に食べるのではないかと思ってね。というか、僕が好きで食べたかったのもある」

おうごんどう様も好きそうよね」

「ああ、確かに。洋菓子と餡この組み合わせがまた、黄金童子様の好みに合いそうだ。土産に買って帰るとするか」

 そんな世間話をしていた時だ。

!?

 いきなり大きな雷鳴がとどろいた。

 かと思ったら、屋根や窓ガラスをたたきつける突然の大雨に驚かされる。

 私は青ざめ、そのまま慌てて立ち上がった。

「まずい、雷雨だわ。ちょ、ちょっと洗濯物取り込んでくる。大旦那様、ゆっくりしててね。勝手に帰っちゃダメだからね!」

「わかった。雷は大丈夫かい、葵」

「昼間の雷ならなんとか……っ」

 確かに私は雷が大の苦手だ。

 何度となく轟く雷鳴にビクビクしながらも、二階に向かった私。

 急いで洗濯物を取り込む。

 雷雨が今夜も続くようなら、嫌だなあとか思いながら、また居間へと降りて行く。

 すると、大旦那様が隠世のスマホとも言える文通式と向かい合い、けんにシワを寄せて神妙な顔をしていた。

「どうかしたの、大旦那様」

「うむ。たった今連絡が入ったのだが、どうやら迎えの船が故障して、僕は明日まで現世にとどまる必要があるらしい。今の雷に打たれたのだとか。というわけで葵、僕を一泊、この家に泊めてくれ」

「……え。え?」

 何、その展開……

 真顔のまま固まってしまった。

 しかし雷雨の中大旦那様を外に放り出すわけにもいかないので、私は真顔のままこっくりとうなずいたのだった。



 雷雨を伴った夕立は、あっという間に過ぎ去った。

「ま、一泊二日二食付きの代わりに、お部屋の片付けと電球の付け替えとかしてもらえるなら、安いものかも。おじいちゃんの部屋も空いてるし、寝る場所も布団もあるから」

「葵は慈悲深いな。さすがは僕の妻だ」

「逆に、本当の妻だったら何の躊躇ためらいもなく泊めてあげられるんだけど……。言っておくけれど、この際だからおおだん様をこき使うわよ。男手がなくて、重い荷物を移動させるの、ちょっと困ってたのよ。これを機に二階から荷物を降ろしてもらいましょう」

「いいとも。僕はこう見えて〝鬼〟だからね。力にはちょっと自信がある」

「そういえば鬼だったわね、大旦那様」

 この人が人間に化けていると、角を隠しているので鬼であることを忘れそうになる。

 だって、大旦那様は基本とても穏やかで、あまり鬼らしくないんだもの。

 だけど私には持ち上げられないダンボールの箱を軽々持ち上げたり、古いタンスや椅子など二階から降ろすのに苦労しそうなものも、簡単に一階に降ろしてくれる。

 やっぱり男手があるのはいいなあ。いや、鬼手だろうか?

「葵は、この家の片付けをしているところなのかい? 大きな荷物を一階に降ろしたりして」

「そりゃあ、おじいちゃんも死んで、いらないものであふれているからね。隠世に嫁入りする前に、この家の片付けをしてしまわないと」

「葵は、大学を卒業してこの家を出ることになったら……この家をどうするつもりなんだい?」

 大旦那様の問いかけに私は一瞬だけ真顔になり、その後、苦笑する。

「それなのよねえ。ボロ屋だけど、結構い造りの家らしいし、何か他に活用方法があればいいのだけれど。……売り払ったり、壊してしまうのは少し、寂しい気もするわね」

「……そうだね。そうだろうとも。葵と史郎の暮らした家だ」

 大旦那様は、この家を見渡しながらそう言った。

 おじいちゃんの持ち家だったけれど、駅にも近く、広い庭もある。

 無駄に部屋数も多くて、畳やふすまを取り替えれば、まだまだ使える立派な家だ。

「そういえば、世に住むあやかしは住む場所に苦労していると聞く。いつか、この家をあやかしに貸せるような仕組みができればいいのではないか、と僕は思うのだが、葵はどう思う?」

 大旦那様の提案に、私はジワリと目を見開いた。

 そして、

「あやかし専門の貸家ね! それが可能なら、とっても素敵だわ」

 思わず、大旦那様の方に身を乗り出した。

 自分でもびっくりするほど、うれしい提案だった。そんな使い方ができるようになれば、おじいちゃんも本望ではないだろうか、と思ったからだ。

 あやかしの居場所として、この家が受け継がれていくのであれば素敵だ。最高だ。

「今後、隠世から現世にやってくるあやかしも多いだろうし、そういう者たちが一時的に身を寄せるシェアハウスでもいいかもしれないな」

「シェアハウスなんて、大旦那様よく知ってたわね」

「現世で流行はやっていると聞くからね。天神屋はこれから、現世と隠世をつなぐ事業が多くなってくる。あやかしたちが居場所を作り、共に助け合える場所を提供するのも、天神屋の役目さ」

「それでこのおじいちゃんの家を使おうってわけね」

「葵が嫌でないのなら、な。史郎の家とあれば、それだけで話題になる」

「あやかしたち、怖がって住んでくれないんじゃないかしら……」

 隠世でのおじいちゃんの悪名は、想像以上にすごかった。

 私も、津場木史郎の孫娘というだけで、随分うわさに尾ひれが付いたからなあ。

「あ、もうこんな時間。そろそろお夕飯の準備をしなくちゃ。今夜は何が食べたい、大旦那様」

 時計を見て立ち上がり、大旦那様に尋ねると、彼は待ってましたというような満面の笑みを浮かべた。

「葵の手料理、久々にたんのうできるな」

「もう。早くリクエスト言ってくれないと、余り物で適当に作っちゃうわよ」

 と言いつつ、私はその辺に適当に置いていたエプロンを身につける。

 大旦那様がじっとエプロン姿の私を見てくるので、低めの声で「早く」と催促すると、彼はしばらく「うーん」とうなった。

「そうだな。体を動かし、腹も減った。ここは鬼らしく肉が食べたいかもしれない」

「肉? ハンバーグとか?」

「ハンバーグ! いいな、それがいい! 食べたい!」

 ひとみを輝かせハンバーグを食べたいと断言する大旦那様は、鬼というより子どものようだけど、私はそういう、直球のお願いに弱かったりする。

「ふふ、わかったわ。あいき肉もあるし、早速作りましょう。大旦那様の好きな目玉焼き乗っけハンバーグよ」

「おお、目玉焼き! 最高だな」

 卵好きな大旦那様も、大喜び。

 大旦那様はなぜかお手伝いをしたがるので、ハンバーグのタネは、大旦那様にねてもらったのだった。



 さて。

 大旦那様に手伝ってもらったおかげで、思いのほか早く夕食にありつけた。

「おおおっ! 半熟卵が乗っているだけなのに、いつも以上に美味うまそうなハンバーグに見えるな」

 食卓には、丸い大きめハンバーグに、半熟のプルプル目玉焼きが乗ったプレートが。

 大旦那様は赤い目をキラキラさせている。お子様プレートにありそうなご飯を前に……

「卵って凄いわよね。美味しそうって思わせる魅力があるもの」

「まあ実際に美味いんだがな、卵は」

「大旦那様の大好物だものね」

 ソースはケチャップとウスターソース、おしょうで作った簡単なものだが、家庭のハンバーグという感じで食欲をそそる。

 あとはキャベツの千切りに、でたブロッコリーとアスパラ、きゅうりにトマトを添えたサラダ。パパッと作ったわかめスープに、日本人らしく白ご飯。

 私と大旦那様は、待ちきれずに手を合わせ「いただきます」をした。

「おお……はしで割ると、肉汁が溢れる。これがハンバーグの楽しいところだ」

「肉汁溢れるものって白ご飯に合うわよね。半熟卵を割って、トロッと流れ出る黄身をお肉に絡めて食べても美味しいのよ」

「確かに。濃いソースの味も良いが、黄身を絡めると味がまろやかになって、これもまた美味だ。そしてやっぱり白ご飯に合う」

 などと口々に言って、柔らかくジューシーなハンバーグを頰張る。

 お手頃な合挽き肉のハンバーグだが、目玉焼きがのっているだけで、ちょっとぜいたくな気分になる。

 肉汁のうまと、ソースの濃い味と卵のまろやかさが、白ごはんに合う合う……

「あ、鬼しゃんがいるでしゅ〜」

 こんな時に、小さな麦わら帽をかぶったチビが縁側を登って家に帰ってきた。

 チビは私と一緒にこちらの世界に来ているのだった。

「そういえば、このチビ河童かっぱがいないと思っていた。夜遅くに帰ってくるとは……悪い子だな」

「そうなの。夏だからって、最近帰りが遅いのよ。不良河童なの」

「不良じゃないでしゅ〜。隠世のおみやをお友だちに配って回ってたでしゅ〜。そしたら猛烈な雷雨に襲われたでしゅ。しばらく軒下に身を潜めていたんでしゅ〜」

「今日はそうかもしれないけど、いつも遅いじゃない、あなた」

「……チッ。葵しゃんは口煩くちうるさいのでしゅ」

 チビが悪態をつく。不良河童め。

 そしてぴょんと食卓に上がって、物欲しそうな顔してハンバーグを見つめている。

 一応、チビのために小さめのハンバーグと小さめのきゅうりのサラダを作っていたので、それを出してあげると一心不乱にむさぼり出した。

「ところで、今日はどこまで出かけてたの」

 私はご飯に夢中なチビに尋ねた。

こうレトロに住むしんせきのとこまで行ってたでしゅ〜」

「ほお。門司港レトロはここからかなり遠くないかい? 相変わらず行動力だけはある河童だな」

まり河童かっぱは毎日20キロを余裕で歩くでしゅ〜。隠世のおみやは、仲間内に好評でしゅ〜」

 かつて、仲間に置いてけぼりを食らっていたところを、私に拾われて隠世に渡ったチビ。

 だが隠世でまれてたくましくなったからか、こっちでいじめられることはもう無いという。

 隠世に行ったことのある手鞠河童って、かなりレアだしね。



「葵、上がったぞー」

「あ。はーい」

 お上がりに、わしわしとタオルで髪をく大旦那様。

 おじいちゃんの浴衣ゆかたが意外としっくりくるので、まじまじと見てしまう。

「何だ葵。僕の顔に、シャンプーの泡でも付いているのかい?」

「ん? ううん。そうじゃないんだけど……」

 妙な反応をしてしまった。大旦那様はますます不思議そうにして、今もまだ自分の顔や髪にシャンプーの泡が付いているのではないかと心配になっている。

 自分でもよくわからないけれど、お風呂上がりの大旦那様ってそうそう見る機会がないし、ましてや天神屋にいる時と違って、二人きりだし。

 何となく、普通の夫婦ってこんな風に生活してるのかなって……

「ああああああああっ」

!? どうした葵!? 虫でもいたか!?

 私がいきなり叫んだので、大旦那様がギョッとしている。

「そういえば、梨があったんだった。そう、梨よ。美味おいしくて甘い、よく冷えた梨」

「梨?」

「お風呂上がりに食べると最高よ。切ってあげるわ……」

 自分で自分の絶叫にドキドキしつつ、私は台所へと向かった。

 何をやっているんだろう、私……



 荒れた心を少し落ち着かせ、デザートの梨を大旦那様に切ってあげる。

 おおだん様はそれを食べながら居間でくつろぎ、現世のクイズ番組なんかを見ながら、ダラダラと過ごし始めた。

「大旦那様も、こういうの見るんだ」

「現世出張の楽しみの一つと言えば、現世のテレビ番組だ。特にクイズ番組は、現世の知識を得るのにちょうどいいからな」

「ああ、なるほど〜」

 意外と、現世の歴史や地理、法学に詳しく、豆知識も結構ある大旦那様。

 一緒にクイズを解いたり、正解に喜んだり、不正解に笑いあったり。

 穏やかな時間を過ごしていると、またこんなことを考えたりする。

 現世に住まう、ごく普通の夫婦やどうせいしているカップルも、こんな感じなのだろうか、なんて……

 あ、また絶叫したくなってきた。

「わ、私もお風呂はいってくるわ」

「ああ。しっかり温まってこい」

…………

 ごく自然に、私も着替えを抱えてお風呂場に向かったのだが……

 ん? ちょっと待って。

 お風呂入るってことは、私、すっぴんとパジャマ姿を大旦那様にさらすってこと?

 ていうか、お風呂上がり?

 今日、大旦那様ってうちに泊まっていくのよね?

 私たち、両思いで未来の夫婦よね……?

 今更なことを湯船で考え、お湯の中に顔面をつけるなどして、絶叫したい気持ちを何とか抑え込んでいた。

 この家に、私たち二人きりで一夜を過ごすということが、どういうことなのか。

 のぼせそうになるほど色々考え、色々考えているうちにおぼれかけたので慌てて湯船から上がり、着替え、ドキドキしながら居間に戻る。

 だがしかし……

 こんな私をよそに……

 居間では大旦那様がテレビを消し、座布団を枕にスヤスヤうたた寝していたのだった。

「……働かせすぎたかしら」

 そして長いためいき

 自分ばかりが、またこの男にほんろうされている気がする。

 おじいちゃんの部屋だった隣の間に布団を敷いて、大旦那様を転がしたり引っ張ったりしながら、その上に寝かせる。

「ふう。まるで酔っ払ったおじいちゃんみたい」

 かつて、この部屋のお布団に、同じように引っ張って連れてきては、寝転がした大の男がいた。

 あやかしたちに有名な津場木史郎。私の祖父。

 不敵な笑顔のおじいちゃんの写真が、この部屋にも飾ってあって、スヤスヤ寝る大旦那様を見下ろしている。

 大声で笑うおじいちゃんの声が、今にも聞こえてきそうだ。

「おやすみ、大旦那様」

「……ああ。おやすみ、葵」

 目をつぶったままだが、ちゃんと返事をした大旦那様。

 起きているのなら自分で移動してよね、とも思ったけれど……

 こういうところが、ちょっとお茶目でわいいと思ったりもする。私は根っからの世話焼きなのかもしれない。

「ふああ……」

 今日は体を動かしたからか、とても眠たい。

 私も自分の布団で寝てしまおう。



「葵……葵……」

「んー……あと五分」

 心地よい睡眠の中で、誰かの呼ぶ声が聞こえてくる。

 私は薄い布団を抱えて寝返りをうったが、ふとその声の主が誰なのか思い当たり、

「って、わああああ、大旦那様!?

 薄手の布団を丸めて抱えて、跳び上がった。

 大旦那様はすっかり着替えて、ピシッと身なりを整え終わっている。

「葵、もうそろそろ起きないと、大学に遅刻してしまうのではないか?」

「うそっ、今何時!?

 慌てて時計を見る。

 しまった!

 大旦那様にちゃんと朝ごはんを作り、お弁当も用意しようと思っていたのに、そんな時間はもうない。

 遅刻するほど寝過ごしたわけではないが、大旦那様とゆっくり時間を過ごしたいと思っていたのに!

 慌てて身なりと髪を整え、したかしてないかくらいの雑な化粧を施した。

 必死に準備をしたので、意外と時間は余ったが……

「どうしよう。でも少しだけ時間があるし、何か食べられるものを用意しようかしら!」

 私がぐるぐると目を回し、混乱していると、大旦那様は私を落ち着かせるためにこう言った。

「とりあえず落ち着け葵。お前の普段通りの大学生活の方が大事だ。朝ごはんの用意はしなくていいよ」

「でも。大旦那様……」

 大旦那様に、二食を約束してたくさん家の手伝いをさせたのに、これは情けない。

 私が少し泣きそうになっていると、大旦那様は私の頭を優しくでた。

「昨日の晩、葵と一緒に、美味うまいハンバーグを作った思い出が、今回の僕の大きな土産だ。それで十分だよ」

「……でも、おなかいてない? 大旦那様」

「うーん。なら、葵を大学の側まで送る途中、コンビニで何か買って外で食べないかい? 行きがけの公園に、ベンチがあっただろう」

「コンビニ? 公園?」

「葵は自炊ができる分、あまりコンビニで飯を買うことは無いかもしれないがな。手頃で美味いコーヒーも飲めたりして、悪くないぞ」

「大旦那様、コーヒー飲めるの?」

「もちろん。店員にブラック派と思われがちだが、カフェラテ派だ」

「……ふふっ」

 その言葉に、思わず笑ってしまった。

 そして、そういう朝ごはんも、たまにはいいかもしれない、と思う。

 確かに私は、大旦那様の言うように、あまりコンビニご飯を食べないし。

「さ、準備ができたのなら、すぐに出よう。僕は葵を駅まで送ったら、そのまま隠世に帰るとするよ」

「ええ。……ありがとう、大旦那様」

 この一幕に、私は少し先の未来を見た。

 これから先、きっととても長い夫婦生活。

 気張ってしまったり、一喜一憂したり、小さな失敗にショックを受けたり情けなく思ったりすることもあるだろう。

 だけど、大旦那様は常に余裕を持って私を慰め、私を導き、フォローしてくれるんだろうな……と。

 常に安心感を与えてくれる、未来の旦那様。

 私は、そんな大旦那様に手を引かれ、家を出た。

 そして行きがけのコンビニで、私は辛子高菜のおにぎりと緑茶を。

 大旦那様はミックスサンドと温かなカフェラテを買い、温かな肉まんも一つ買って、公園のベンチで半分こにして食べた。

 とてもよく晴れた気持ちのい朝。

 木陰のベンチは涼しく、少し秋っぽい匂いのする風が吹いた気がしたけれど、空を見ると残暑の入道雲も見えた。

 これはこれで、悪くない朝だ。

 むしろ私には新鮮で、穏やかなのに妙に心躍るひとときだった。

 大旦那様には、こういう時間が過ごせることを、わかっていたのかな。

 まるでちょっとしたデートのようで、大旦那様と現世で過ごすのも、時には悪くないと思ったりするのだった。



「じゃあ、行ってきます大旦那様!」

「ああ、行っておいで。また、迎えにくるよ」

 大きな駅で、私は大学に行くために改札をくぐる。

 振り返り、改札の向こう側で手を振る大旦那様に、手を振り返した。

 大旦那様はちょっぴり名残惜しそうな笑顔だった。

…………

 人の波が彼の前を通り過ぎた時にはもう、大旦那様の姿はどこにも見当たらず、すっかり消え去ってしまっていた。


 彼はあやかし。

 人ならざる者。


 それを一瞬で、思い出した。

 そして、彼とまたしばらく離れ離れになる、寂しさも。

「……よし」

 また、私の人間としての生活が始まる。

 大旦那様と共に暮らした幸せな一日を、のちの日常、限られた時間を生きる私たちの〝当たり前〟とするために、また、頑張ろうと思う。